尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年02月15日

年末最後の法会において、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、『直貢噶舉上師供養法儀軌』を修持され、至誠の心をもって歴代の伝承上師に供養を捧げられた。上師より弟子たちに学仏の道における加持と護佑が賜われていることに深く感謝された。修法に先立ち、すでに帰依を求め許可された8名の信衆のために帰依儀式を執り行われた。リンポチェは弟子たちに対し戒律を厳守するよう切に諭され、上師に堅固に随順し、正法を学び、輪廻生死からの解脱を目指すよう開示された。

法会の中で、リンポチェは慈悲をもって、上師の重要性について開示された。すべての修行における福報は、すべて上師の教えに由来するものであり、上師より戒を授かり、その導きのもとにあってこそ、いかに修行すべきかを真に理解することができる。また、上師に対して完全に信じれば、臨終の時には必ず上師の助けを得ることができると開示された。

リンポチェは、ひたすら衆生のために尽くされ、名聞利養を求めることなく、ただ衆生が生死輪廻より解脱することを願い、そのために尽力されている。リンポチェはまた、すべての弟子に対し、清浄なる心をもって上師に供養し、上師に対して絶対の恭敬と信心を起こし、学仏並びに修行の福報を積み重ね、真摯に実修に励むよう、心を尽くして勧められた。

リンポチェは、宝傘・楽器・薫香の先導および迎請のもとに入場され、諸仏菩薩に恭敬をもって頂礼された。さらに、尊勝なる直貢チェツァン法王の如意宝法座にカタを献上し、灯明供養を捧げられた後、法座に昇られ、慈悲をもって貴重なる仏法のご開示を賜った。

本日は本年最後の法会であり、私たちはこの一年を通じて、上師より仏法の教えを賜り、また上師のご加護をいただきながら、安穏に仏法を学ぶことができた。そのため本日は、上師供養法を修持し、上師より賜ったご加護に対する感謝を捧げる。また修法に先立ち、私が帰依を認めた者たちに対し、まず帰依儀式を執り行う。

仏法を学ぶには、必ずまず帰依という儀軌を経て初めて、仏法を学ぶ資格が与えられる。多くの人は、自分は文字が読めるから自分で修行できる、あるいはインターネットで仏法を学べると考えている。しかし仏経において、釈迦牟尼仏は自宅にこもって独修すれば成就できるとは説いていない。上師から閉関を命じられた場合にのみ、それは可能である。毎日家で一定時間読誦すれば、この一生で成就できるというようなことは、これまで一度も起こったことがない。第二に、上師の修行経験に基づく指導と導きがなければ、自分が誤っていても、その誤りに気づくことはできない。第三に、仏経は文字として存在しており、誰もが読むことはできるが、その内容や深い意味は、実際に修行を積んだ修行者による解釈を経なければ理解することはできない。たとえ理解したとしても、それは単に言葉の表面的な意味で解釈しているに過ぎず、大きな誤りとなる。ゆえに、仏法を学ぶには、必ずまず帰依することが必要である。

帰依したその瞬間から、仏に受け入れられ、仏法の教えを受け、仏法を学ぶことができるようになる。帰依した後は、これまでとは異なる新たな人生の歩みが始まることになる。なぜ私たちは仏法を学ぶのか。それは、生死輪廻から解脱することを学び、西方極楽世界に往生することを願うからである。しかし、上師の教導がなく、上師の導きのもとで修行しなければ、それを成し遂げることは決してできない。中には帰依した後に離れていく者もおり、帰依証を手にして毎日念じていれば往生できると考える者もいるが、それでは行くことはできない。なぜなら、これから帰依の儀式の中で、必ず注意して行ってはならないことを先に伝えるからである。もしそのような行為をすれば、上師の加持を得ることはできない。

多くの人は、上師とはただ一人の存在であると考えているが、それは誤りである。私自身の例で言えば、私は直貢噶舉の伝承に属している。直貢噶舉は、ジッテン・サムゴンより始まり、私の根本上師であるチェツァン法王に至るまで、合わせて三十七代の系譜がある。私が直貢噶舉のこの系統の中で、絶えず仏法を弘め、衆生を利益し、仏法を教え続ける限り、この三十七代にわたるすべての直貢噶舉の法王および成就者は、常に私を加持しているのである。私たちの伝承は直貢噶舉であり、インドより直接伝えられたものである。そのため、密教において最も根本となるのは金剛総持であり、顕教においての根本上師は釈迦牟尼仏である。しかしながら、釈迦牟尼仏が直接あなたの前に現れて仏法を教えることはあり得ない。もしそのようなことがあるとすれば、それは精神に問題があるか、何らかの異常な状況であると言える。

法本に基づいて言えば、例えば顕教や禅宗の修行においては、非常に重要な二つの言葉がある。それは「佛來佛斬、魔來魔斬(仏来たらば仏を斬り、魔来たらば魔を斬る)」というものである。これはすなわち、心を動かさず、仏や菩薩が自分を助けてくれることを期待してはならない、という意味である。しかしながら、仏法を学び始めたばかりの段階においては、決してこのような考え方を持ってはならない。このような考えを持つと、極めて容易に魔に入ることになり、魔が入り込んでくるのである。したがって、まだ成就に至っていない段階では、必ず上師の教えと導きに依らなければならない。そうしてこそ、誤った道に進むことを防ぐことができるのである。

仏に帰依した後は、その他の天神を頂礼してはならない。すなわち、あらゆる神々、あらゆる宗教の対象を頂礼してはならないということである。ここで言う「頂礼」とは何か。それは求めること、拝むことである。うっかり名勝地などに入ること自体は構わないが、入っただけで十分であり、そこで繰り返し称賛したりすると、それがすなわち頂礼となるのである。他宗教の神々に頂礼することは、戒を破ることである。例えば、帰依した後に、親族や友人に何か起こると、他宗教による追悼式などが行われる場合、できる限り参加しない方がよい。なぜなら、私たち仏教徒が済度法会を行う際、他宗教の人々は決して来ない。にもかかわらず、なぜ仏教徒が安易に他宗教の追悼式に参加できるのか。「義理だから」「人情だから」と言ってはならない。厚い香典を包めばよい。誠意はそれで十分である。かつて私の弟子の一人に、以前は他宗教の熱心な信者であって、その親友も同じ宗教の信者であり、亡くなった際に追悼式が行われた。彼はそれに参加し、戒を破った。その結果、晩年の数年間は順調ではなかった。これは私が彼を罰したのではない。誤解してはならない。仏菩薩が罰したのでもない。彼自身が戒を破ったのである。帰依の際に、このことはすでに明確に説かれていた。もし「子どもの頃、その女神に守られていた。今こうして良くなったのだから、お礼参りに行くべきだ」と言う者がいるならば、それは誤りである。あなた方はそれを観音菩薩のように思うかもしれないが、そうではない。もし私がそれを知れば――いや、私が知らなくともアキ護法が知っている――あなた方に来るなと言うであろう。私の言っていることが分かるか。あなた方はあちこち拝みに行き、自分と相応するものが見つかるまで拝み続けようとする。

たとえ家庭で祖先を祀る必要がある場合でも、礼拝の際は軽く一礼するだけでよい。何かを求めてはならない。また、自分の名前を名乗ったり、「帰ってきて祖先に会いに来ました」などと言う必要もない。「祖先に会いに来た」とはどういう意味なのか。もしそう言うのであれば、自分が鬼でなければ祖先に見えるはずがないではないか。まもなく旧正月を迎えるが、台湾の中南部では多くの家庭に祖先を祀る風習がある。仏経は祖先を祀ることを禁止していない。むしろ祖先を敬うことはある。しかし「敬う」とは恭敬することであり、拝むことではない。祖先がいなければ私たちは存在しないのだから、実家に帰り、家族が祖先を拝むように言った場合には、そばに立って軽く一礼するだけでよい。香を持ってはいけない。また、祖先に供えた食べ物を口にしてはならない。たとえ果物のように菜食であっても、食べてはならない。鬼が口にしたものを、あなたは食べることができるのか。普段でも「もう食べた」「お腹の調子が悪い」などと言って食事を断ることはできるはずである。子どもの頃から、食べたくないときにそうしたことは誰でも経験しているであろう。どうしても食べたくないなら、吐いて母に見せていたであろう。吐いて見せてもよい。ただし、それはリンポチェに教えられたとは言ってはならない。そう言われたら、すべて私が後始末をすることになってしまうからである。(大衆笑)

仏法に帰依した以上、慈悲の心を備え、菩提心を修めるべきであり、すべての有情衆生を決して傷つけてはならない。また、上師に帰依した後は、仏法に属さない一切の師に依止してはならない。ここでいう「依止」とは、単に友人として付き合うことでも、幼い頃からの縁によって関係を続けることでもない。義理や遠慮によって往来を続けることでもないのである。無上瑜伽部においては明確に説かれている。「縁ある者は迎え、縁なき者とは関わらないべきである」。もし世間の情に流されて関係を保つのであれば、いっそ仏法を学ばない方がよい。人情をすべて清算してから学べばよいのである。これは非常に難しく、苦しく、決断しがたいことであるが、必ずこのように決断しなければならない。私はそれを実際に経験してきた者であり、よく理解している。私の父は道教において高い修行を積んだ人物であり、治病を行い、さまざまなものを見通す力を持っていた。しかし、私が仏門に帰依して以降は、一切関わらず、拝まず、受け取らず、まったく触れることもなかった。かつて父が信仰していた道観は現在も新界に存在し、もし私が行けば古参として扱われる立場であり、私の写真も今なおそこに残っている。しかし私は一度も訪れていない。仏門に帰依してからは、一切行っていないのである。このような態度は厳しすぎる、恩知らずだと思うかもしれない。しかしこれは恩義の問題ではない。仏法を学ぶためには清浄でなければならないのである。人は容易に引き込まれてしまうため、このような環境に関わり続ければ、必ず流されてしまう。したがって、政治に携わる者が仏法を学ぶのは非常に難しい。なぜなら日々、さまざまな人々と接触しなければならないからである。かつて多くの人が私に立候補を勧めたが、私はそれを断った。それに対して、私を巻き込まないでくださいと言った。自分が過ちを犯すことを恐れているのではなく、そのような方法では、彼らの良し悪しではなく、この一生において三悪道に堕ちないための助けとはならないからである。ゆえに、そのようなことに時間を費やすことはせず、その時間をより多く修行し、より多く衆生を利益するために用いるのである。

遇三寶具量之所(三宝に具足した量を備える所に遇うとき)、すなわち仏経・仏像・仏塔に対しては、必ず虔誠と恭敬の心をもって接しなければならない。現在、仏寺では仏塔の建立が進められているが、仏塔が完成した後は、皆はさらに仏塔を繞ることができる場所を得ることとなる。これもまた福報と功徳を積むための場である。「たとえ生命に関わる事情や贈り物のためであっても、帰依戒を捨ててはならない」とは、帰依した後、たとえ命の危険に直面したとしても、あるいは多くの贈り物を与えられたとしても、帰依戒を捨てて他に頼ってはならない、という意味である。かつて香港では、多くの高齢者が仏門に帰依し、仏法を学び、法会にも参加していた。しかし、香港で墓地を確保することが非常に困難であったため、ある宗教では、その宗教に加入して洗礼を受ければ墓地を売るという条件を提示し、多くの高齢者が一つの墓地のために帰依戒を捨てた。このような行為こそが「贈り物のために戒を捨てる」ことである。また「特別な事情に遭っても他の方便を求めない」とは、どれほど困難で解決できない問題に直面しても、他の手段に頼ってはならない、という意味である。たとえば、何か問題が起きたとき、「あそこは霊験がある」と聞けば、試しに行って尋ねたり、祈願したりする。このようにあちこちで加護を求めれば、その時点で帰依戒は破られている。ある者は次のように言うかもしれない。「自分は修行者ではなく、ただ帰依しているだけだ」と。しかし、この一生で帰依戒を破れば、来世に再び帰依することは極めて困難になる。なぜなら、その縁を自ら断ち切ってしまうからである。特に現代のように複雑な社会においては、このような状況は容易に起こりうる。ゆえに、自ら注意し、常に気をつけなければならない。問題が解決できないからといって、「どこが霊験あらたかだ」と聞けばすぐに訪ねるべきではない。「少し聞いてみるだけ」と思ったその瞬間に、すでに帰依戒を放棄しているのである。なぜなら、それは因果を信じていないからである。自分の身に起こるすべての出来事は、必ず因果と関係している。もし誰かがそれを無理に変えたとすれば、必ず別の形で結果が現れる。しかし衆生は迷いに執着し、目の前の現象から逃れようとする。その結果、帰依戒を破り、さらに別の問題を引き起こすのである。したがって、常に供養を怠らず、帰依した後は自らを戒め、注意深く行動しなければならない。

帰依の後、上師との関係は非常に密接なものである。チベット仏教においては、上師との関係は極めて密接であるが、その密接さとは、日々顔を合わせたり会話を交わしたりすることを意味するのではない。上師は毎日修法を行い、帰依弟子に加持を与えているのである。もし帰依弟子が上師に対して正しい心を持っていなければ、上師からの加持は得ることができない。これは本当に得ることができないのである。なぜなら、上師の役目は弟子を正しく導くことであり、上師が日々修しているものは自分のためではなく、すべてを弟子と衆生に与えているからである。しかし、衆生が上師に対して信心が不足していたり、あるいは過ちを犯したりすると、上師からの加持は完全に断たれる。「藕断絲連(まだ未練が残っている)」という状態すらなく、完全に断ち切られるのである。もし次の五つの行為を行えば、それはすなわち因果を信じていないということである。私は常に因果を深く信じるよう説いているが、誰もが「信じている」と言いながら、実際にはまったく信じていない。たとえば、上師に言い返すことは因果を信じていないことである。上師の言葉を聞き入れず、自分の考えで行動することもまた因果を信じていないのである。次に懈怠である。仏法を伝えられた後に学ばず、修行もしないことを懈怠という。懈怠は単なる怠けとは異なる。怠けとは、今日は疲れているから行わないということであるが、懈怠とは放棄することである。たとえば、私がある人の供養を受けないと決めたとき、その人が離れてしまうなら、それは懈怠である。なぜなら、その人は供養によって福報を得て守られると考えていたからである。私が供養を受けないと、その人は守りがなくなると思い込み、離れてしまうのである。これが懈怠である。リンポチェが行うすべてのことには必ず理由がある。それを信じて継続し、懈怠しなければ、たとえ供養を受けられなくても、加持の力は依然として届くのである。なぜこの秘密を話してしまったのか。本来は語るべきではないのである(大衆笑)。次に悪口である。他人や上師を批判すること、特に上師を批判することを指す。次に羞恥心の欠如である。何度も過ちを繰り返し、羞恥心を持たない。過ちを犯したときに懺悔し、謝罪するべきであるが、たとえば私が法務チームを解散したのは、何度叱っても同じ過ちを繰り返したからであり、これは羞恥心がないためである。羞恥心がなければ、たとえ壇城の扱い方を理解していたとしても、繰り返し過ちを犯すことで、上師の加持は届かなくなる。それは上師が断つのではなく、自ら断ち切っているのである。最後に悪知識に近づくことである。これは外道に依附する(頼る)ことであり、前に述べた通り、外道の人と交際すること、さらには占いなどに関わることも、すべてこれに含まれる。

もちろん、帰依した後に仏法を学びたくないのであれば、上師に対して帰依戒を放棄する旨を申し出ることは可能である。ただし、戒を破ってはならない。帰依戒を放棄した場合には、将来、縁のある上師に再び巡り会う機会がまだ残されている。しかし、戒を破った場合には、縁ある上師に出会うことは極めて困難となる。もし仏法を学びたくなくなったのであれば、それでも構わない。もし私に会うのが怖くて直接言えないのであれば、組長や連絡係に対して、仏法を学ぶ意思がなくなったため帰依戒を放棄する旨を伝えればよい。なぜ道場を離れる際に、すべての物を返還しなければならないのか。第一に、それらの物はあなたの所有物ではなく、道場が費用を出して支給したものである。第二に、帰依戒を放棄した後に法本を手元に残し、毎日読誦したとしても、実際には何の役にも立たない。本当に役に立たないのである。では、何の作用があるのかといえば、わずかな福報を得る程度であり、来世においては、誰かに可愛がられるある種のペットとして生まれる可能性があるにすぎない。しかし、修行の面において何ら進歩があるわけではない。したがって、すでに申し込んで、私が帰依を許可した者は、今、前へ進み出なさい。リンポチェは出家衆に指示し、帰依を申し込んだ信衆を導いて長く跪かせた。

この帰依文の中で最も重要な二つの点は、まず自らがなぜ帰依するのかをよく考えることである。三悪道や輪廻は、まるで火の穴のようなものであり、その苦しみから離れたいと願うがゆえに帰依するのである。そして上師は、必ずすべて円満なる帰依戒を具え、高座に坐すべきである。高い場所に坐すことは、諸仏があなたの帰依を受け入れたことを象徴している。

あなたたちが帰依文を読誦し終えた時点で、それはすでに帰依を受け入れたことを意味する。帰依の後、上師は在家の五戒を口伝する。第一に殺生をしないこと、第二に両舌をしないこと、第三に邪淫をしないこと、第四に盗みをしないこと、第五に飲酒をしないことである。不殺生とは当然ながら菜食を守ることであり、自分のため、あるいは憎しみの心によって一切の有情を害してはならないということである。私たちはこの複雑な地球に生きているため、知らず知らずのうちに他の生命を傷つけてしまうことがあるが、それはこの戒の範囲には含まれない。ただし、毒をまくなど、意図的な行為は、これに該当する。不邪淫の定義とは、すでに配偶者のいる者、恋人のいる者、あるいは生活の面で他者から支援を受けている者と関係を持つことであり、これを邪淫という。また、未成年との関係、薬物などを用いた強姦、暴行による性行為もすべて邪淫に含まれる。さらに邪淫にはより細かな内容も含まれるが、ここに若い人がいるため詳述はしない。この邪淫戒は必ず守らなければならない。ただし、邪淫戒は在家者が結婚してはならないという意味でも、恋愛をしてはならないという意味でもない。邪淫の本質は、相手に煩悩や苦しみ、損害を与えないことである。

不偷盗の範囲は非常に広い。実際に物を盗むことだけではなく、自分のものではない物を手に取ること、さらには野外で花を一輪摘むことさえも盗みに当たる。なぜなら、すべての物には持ち主があるからである。また、海賊版の使用や、他人の文章を盗用して自分の文章とすることも、すべて盗みに属する。不両舌についてであるが、両舌には悪口・綺語・妄語が含まれる。ここでいう妄語とは嘘ではない。最も重要なのは、自分がその法を伝授されていない、あるいは修得していないにもかかわらず、修得していると言うことであり、これを妄語という。また、実際には修得しているにもかかわらず、すべて知らないと言うことも妄語である。このように、妄語は修行者にとって非常に起こりやすいものである。一般にいう「嘘をつくこと」は、この妄語の範囲ではなく、両舌に含まれる。他人に対して事実でないことを語り、対立や争いを引き起こすような言動は両舌である。不悪口とは、人を罵ったり、聞くに堪えない言葉を口にしたりしないことである。不綺語とは、男女を問わず、他人に不適切な想念を起こさせるような言葉を語らないことである。不飲酒について最も重要なのは、酒に溺れることを避けることである。料理の味付けとして少量の酒を用いる場合は飲酒には当たらない。しかし、例えば冬によく食べる麻油鶏のような料理、現在流行している大豆ミートのごま油生姜煮込みに酒を加える場合であっても、それは許されない。この五戒を守ることができるか。(答:できます。)自分でそう言ったのであるから、戒を破った場合は私の責任ではない。それでは、前に来て髪を切ってあげよう。

リンポチェは、新たに帰依した弟子に帰依証を授与され、次のように開示された。「皆が手にしている帰依証の中央にあるのは、直貢噶舉の祖師であるジッテン・サムゴンである。我々の伝承はすでに八百年以上続いている。私はこの八百年以上の歴史の中で、初めての漢民族出身であり、転生者ではなく修行によって成就したリンポチェである。こちらは私の根本上師であるチェツァン法王であり、もう一方には私自身の姿がある。」リンポチェは帰依証を裏面に向けるよう指示され、次の言葉を口伝として授けられる。「我は上師に帰依する。我は仏に帰依する。我は法に帰依する。我は僧に帰依する。仏に帰依してより後、外道に帰依せず。法に帰依してより後、殺生せず。僧に帰依してより後、悪友に従わず。諸悪をなすことなかれ、諸善を奉行せよ、自らその意を清浄にせよ、これ諸仏の教えなり。」ここでいう「諸仏の教え」とは、仏が説かれた教えを指す。その中でも最も重要なのはこれらの言葉である。すなわち、あらゆる悪を行わず、あらゆる善を行い、そうすれば自然に心は次第に清浄となる。これが仏の教えである。帰依文は、できれば毎日十回唱えるのがよい。中央には釈迦牟尼仏の写真があり、その横には私の法号が記されている。弟子の法名は私が改めて与えるものであり、自分で決めてはならない。帰依の日付も私が記入するものであり、各自が記入するものではない。

帰依法会は円満に終了し、リンポチェは続いて『直貢噶舉上師供養法儀軌』の修持に入られた。

リンポチェは大衆を導き、法本の読誦を行われた。続いて曼荼羅供養の儀軌が執り行われた。リンポチェはガムポパ法帽をお着けになり、出家弟子および八供女が衆生を代表して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに曼荼羅供養を奉納した。

リンポチェは修法を行われ、参会者一同を導いて上師供養法の心咒を長時間にわたり持誦された。持誦の最中、リンポチェの尊身および壇城は金色の光を放ち、参会者は身体が温まり発汗する、あるいは妙なる香りを感じる、または地が揺れるように感じた。さらに、温かな流れが頭頂より体内へと入るのを感じ、上師の加持力が絶え間なく注がれていることを深く実感し、弟子たちの仏法修行への決意はいっそう堅固なものとなった。

その後、八供女による献唱、薈供、供茶、供飯の各儀軌が執り行われた。参会者はリンポチェより加持された供物を賜り、さらに法会において上師および諸仏菩薩と共に供物をいただくという、得難く殊勝なる因縁を得た。

続いて灯供の儀軌が執り行われ、リンポチェは一切衆生を代表して灯明を供え、諸仏に供養された。

上師供養法の修法が円満に終了した後、リンポチェは大衆を導き回向文を念誦された。さらに出家弟子に指示され、尊勝なる直貢チェツァン法王ならびに尊勝なるチョンツアン法王の長寿祈請文の念誦が導かれた。続いて、出家弟子の導きのもと、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの長寿祈請文が念誦された。

リンポチェは六字大明呪を持誦された後、出家弟子に指示され、大衆を導いて『極楽浄土往生祈請文』『菩提心発起』『願法興盛吉祥文』の念誦が行われた。

続いて、リンポチェは弟子たちを導いてアキ護法の儀軌を修持された後、開示を賜った。

本日は今年最後の法会であり、あと二日もすれば来年が始まる。つまり、皆は私に会う機会を一年分失うことになり、私自身もこの地球に存在する時間が一年減ったということである。リンポチェが二時間以上にわたり修法を行いながら、なお声が力強く響いているのを見て、身体がきっと良い状態だと思うかもしれない。しかし、身体の良し悪しと、私がいつ往生するかということは同義ではない。私がやるべきことをすべて成し終えたと判断すれば、その時に去るのである。私は物事を計画的に進めているが、もちろんすべてを皆に伝えることはできない。なぜなら、多くの事柄は皆には理解できないからである。なぜ突然、銀行口座を閉鎖したのか。それは、もう時が来たと感じたからである。これ以上このように引き延ばして付き合う必要はない。彼らは仏法を学ぼうとも修行しようともしない。私はあまりにも借りを背負いすぎままでは、去ろうとしても去られない。私はとても苦しいのである。例えば昨日の李姓の弟子と姚姓の弟子は、本日来ているか。立ちなさい。私はこの二人に対し、本日五百回の大礼拝を命ずる。本来は千回であったが、やはり年を取ると情が湧いてしまうからである。彼らも年を取っていることを考慮し、千回にすると午後の法会に参加できなくなるであろうと思ったからである。

前回、私は法会において仏寺の金額について公に話したが、その後でその部分を線で消した。なぜ消したのか。それは我々寶吉祥の内部の事であり、誰に対しても公に説明する必要はないからである。秘密ではないが、付け加えたり説明したりする必要はない内容である。しかし、この二人、一人は教授であり、もう一人は教師であるが、リンポチェがここを消すのはよくない、文章がつながらなくなると考え、自ら修正しようとした。さらには、ある弟子が理解できないと言ったので直す必要があるとも言った。ここで改めて二人に言う。私の行うことは、あなた方二人が口を出すことではないし、私を修正することでもない。私が認知症だとでも思っているのか。あなた方の学問や取得した資格は私より高いかもしれないが、私は自分が見たこと、行ったことをはっきりと理解している。もしあなた方教授や教師が私を学生扱いするのであれば、今ここに上がってリンポチェになりなさい。なぜリンポチェがその部分を消したのか、あなた方は尋ねたのか。勝手に判断しているだけではないか。あなた方は教壇で教えているつもりなのか、それとも私を教訓しようとしているのか。私は毎回の法会で話した内容を、文字に起こされた後、最初から最後まで必ず自分で確認している。彼らが抜け落とした部分があれば、私はすぐに指摘する。そうだろうか。(大衆答:はい)彼らは十数人で私の話を記録しているが、私は一人で自分が話した内容を覚えているのである。

この二人が行ったことは何に当たるのか。それは上師を軽んじることである。上師の学問が不足していると考え、「このように一文を消してしまうと、文章の前後が合わなくなり、読む人が大変で理解しにくい」と思っている。だが、それはあなた方に何の関係があるのか。表は私のため、私を思って、私を助けるためのように見える。しかしその本質は、上師を軽視しているのであり、「上師はもう年を取って、79歳にもなっているから、間違えたのではないか、消すべきでないところを消したのではないか、だから指摘してあげよう」と思っているのである。確かに、リンポチェも時に見落としや不注意、見えにくいことがあるかもしれない。しかし、一度私が確認したものについては、決して漏れることはない。本来であれば、今日はもう叱るつもりはなかった。すでに時間を超えて話している。しかし、この二人のことを思うと、あまりにも惜しいので、あえてもう一度言う。一人は教授、もう一人は教師でありながら、自分の立場や肩書に固執し、少しも謙虚さも客観性もない。これほど長い年月、私のもとで学びながら、いまだにリンポチェの物事のやり方を理解していない。リンポチェのやり方とは何か。それは「目立たないようにしている」である。ただ寶吉祥仏寺と寶吉祥仏法センターが長く続いていくこと、それだけが私の求めるものである。私は名も利も求めていない。しかし今では、多くの人が私を知っており、自然と名も利も生じているが、私は決してそれを追い求めているわけではない。

この二人は、世俗の価値観で私の行うことを見ている。そして、自分たちは上師のためを思っていると考えている。「このまま文章を出せば、人々は上師に学問がないと思ってしまうのではないか」と。しかし、私はもともと学問がある人間ではない。高校卒業に過ぎず、どれほどの学問があるというのか。あなた方二人と比べれば、到底及ぶものではない。それでも、私は仏法を学び得た。では、どうすればよいのか。ゆえに今日、皆に申し上げる。もしこの一生において仏法を学び、本当に生死の輪廻から解脱したいのであれば、ただ一つの道しかない。すなわち――上師を百分の百、完全に信じることである。私は、この方法によって修行してきたのである。

これまで何度も皆に話してきたが、法王が私に法を伝えられたときは、一度だけ伝え、その後は自分で修行させられた。説明などなさらなかった。なぜか。その人がその器であれば、自然に修行して成就するからである。その器でなければ、どれほど説明しても無駄である。ゆえに、皆に申し上げる。仏法を学ぶにあたっては、余計な考えを起こしてはならない。世間法は、ただこの肉体を養うためにお金を稼ぐ手段にすぎず、仏法とは必ずしも直接的な関係があるわけではない。私があの数字を削除したのは、ある人にとっては小さな数字かもしれないが、ある人にとっては大きな数字に見え、そこから様々なことを言い始め、文章を書き立てるからである。知っていればよいこともあるが、それを広く言いふらす必要はない。第二に、リンポチェは「多ければ多いほどよい」という考え方を本当に望んでいない。これ以上、ずっとお金を受け取り続けることも望んでいない。だからこそ、今日は今年最後の法会であるが、それでもやはり皆を叱る。私は今日、二時間以上も修法を行った。誰も私が七十九歳だとは思わないであろう。今なお声はこれほど力強く、こうして皆に話し続けることができる。先ほど前に出てきたあの人は七十歳だが、話す力はどうであったか。

改めて、皆にお願いする。もういい加減にしてはならない。一年一年、時間は消えていくのである。もう「自分は間違えました、間違えました」と言うのはやめなさい。間違えたからどうなのか。先ほどの帰依のときにも言ったように、同じ過ちを繰り返し、繰り返し過ちを重ねている。それは、決心していないからである。一日中、頭の中であれこれ考え、どうすれば上師に良く思われるか、どうすれば上師に注目されるか、法を求めるときに何を言えば上師が喜ぶか、そんなことばかり考えている。すでに教えたはずである。「直心是道場(直心こそが道場である)」である。法を求めるときは、ただ純粋に法を求めればよい。長々と話をして、「上師に法を伝えていただければ、法脈が続きます」などと言う。それを聞いて、私は驚いた。もし今日、この人が法を求めず、私に学ばなければ、私の法脈は断たれてしまうのか。私の法脈が続くかどうかは、誰が法を求めるか、誰が私に学ぶかによって決まるものではない。すべては上師と諸仏菩薩によって手配されているのであり、あなた方が決めることではない。そのような言葉で私を脅せば、密法を伝えてもらえると思っているのか。「リンポチェ、私に伝えてください。そうすればあなたの法脈は続きます」などと言うが、たとえこの肉体がなくなったとしても、私の法は必ず存在し続けるのである。

昨日、法を求めに来たその女性の弟子は信じていない。彼女は自分を中心にして考えている。私はこれまで法王に数多くの法を求めてきたが、「法王、私に伝えてください。そうすれば法王の法脈が続きます」などと、一度たりとも申し上げたことはない。これは慢心であり、傲慢であり、自大である。なぜあなたたちは、仏法を学べば学ぶほど、ますますおかしくなり、ますます迷っていくのか、理解できない。リンポチェは命も惜しまず、財も惜しまず、あなたたちを助け、この一生において解脱し、成就できるようにしている。しかし、その一方で、あなたたちは自分自身を助けなければならない。迷いに執着してはならない。私はこれまでずっと、どのように法を求め、どのように仏法を学び、どのように修行するのか、自ら示してきた。なぜ少しでも学ぼうとしないのか。常に自分のやり方にこだわっている。法王が法を学ばれるときも、上師が一度教えれば、自ら修行される。だからこそ、法王は私にも同じようにされたのである。リンポチェがなぜここまで修行できたのかと、羨ましがってはならない。私はとても苦しい修行をしてきた。その苦しみは、あなたたちには理解できないものである。しかし、リンポチェはその苦しみを恐れない。なぜなら菩薩は恐れないからである。菩薩は衆生を救うためであれば、どれほどの苦しみであっても受け入れるのである。

また一年が過ぎた。皆さんは、この一年において仏法の学びについて、自分が少しでも理解を深めたか、少しでも前に進んだか、自分の性格に変化があったかを、よく振り返ってほしい。必ず自分自身を見直さなければならない。ひたすらリンポチェに頼ってばかりいてはならない。リンポチェは法を伝えることはできるが、常にあなたたちを助け続けることはできない。あなたたちは自分自身を助けなければならない。それはちょうど、法王から法を伝えられた後、私自身が本当にそれを実践できているかどうかを、自ら確かめなければならないのと同じである。したがって、皆さんは必ず決心しなければならない。これ以上、自分の人生や命を無駄にしてはならない。私たちは毎日、多くの時間を、本来必要のないことに費やして無駄にしている。限られた時間の中で、しっかりと決意を固め、優柔不断になってはならない。あれこれと考え続け、「これはどうだろうか」「あれはどうだろうか」と迷い続けてはならない。

もう一度言う。密法の特別な法門、不二の法門とは、上師を完全に信じることである。たとえこの一生において何の成就も得られなかったとしても、臨終の時には、上師は必ずあなたを助ける。これは上師の誓願である。だから、皆さんの心はもっと静かでなければならない。あれこれと考えてはならない。この一生で成就しようなどと考えてはならない。そのようなことを考える必要はない。私はこれまで何度も皆さんに言ってきたが、私が仏法を学び始めたとき、自分がリンポチェになるなどとは思ったことは一度もなかった。私はごく自然に、この道を歩んできたのである。法王も私のことについて、「自然に修行によってこの境地に至った」と仰ったが、その意味は何か。それは「作為がない」ということである。因縁に従って行い、わざとらしく、良い言葉だと思って話すことはしない。法を求めるなら、ただ法を求めればよい。長々と文章を並べて私に聞かせる必要はない。本当に……。昨日はすでにとても控えていた。なぜ控えていたのか。昨日は突然、怒りたくなかったからである。(一同笑)それでは、今日はここまでとする。元日にまた会おう。

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2026 年 02 月 23 日 更新