尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2022年6月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な長寿仏灌頂法会を主られた。リンポチェは燈を点し仏に捧げられてから、法座に上がって修法をし、薈供儀軌を進められた。参加者は漏れなく一人一セットずつリンポチェに加持された供え物を頂いた。続いて、マンタ献上儀軌が行われた。

本日は、長寿仏の灌頂を授ける予定だ。この灌頂には由来があるが、本日は時間が足りないということで、省いておこう。由来のポイントとして、この灌頂テキストは岩伝法であって、パドマサンバヴァと、ガムポパ、そしてレチョンパ(Rechungpa)を通して伝えられてきたということがある。それに、このテキストにも特別なところがあり、これは瑪吉珠貝傑摩佛母が伝えられたテキストなのだ。顕教では長寿仏という本尊を修めていないが、密法では長寿仏は阿弥陀仏の報身だ。

どうして長寿になりたいのか。それは、多くの衆生は過去世と今生で、身口意ともに多くの悪業を為したせいで、自分の寿命を短くしたから、此の法門を修めることを通して、その寿命が戻って来るように補って、彼らに今生において修行に足る時間を持たせる為なのだ。長寿仏は阿弥陀仏の報身仏ということで、今後この法を得た者は、菩薩道を修めなければ長寿が得られないとする。長寿には、二通りの定義がある。一つは、俗世間でそなたに基より得るべき壽を得させることだ。もう一つは、仏法での寿命が長くなることであり、言い換えれば、長寿仏の灌頂を得ると、阿弥陀仏と深いご縁が結ばれるということだ。

リンポチェは皆を率いてテキストを念誦し、並びに念誦した内容が帰依・懺悔・随喜で、皆が灌頂を授かるよう、皆の福報を蓄積する為だと開示された。

(リンポチェは修法に取り掛かり、ガムポパ法帽を被ってから、皆に背中を真っ直ぐして座れと命じ、どうやって観想するか指示され、灌頂を授けていた際も開示された。)

長寿仏が光を放ち、そなたらの身・口・意による短業を解消し、長寿仏の身・口・意になるよう、観想する。

口による短業とは、他人を呪ったり、汚い言い方・陰口・悪口・両舌を使ったり、行者への誹謗を言ったり、それに行者を敬わなかったりすると、そなたの命が短くなることになる。それから、今どきの若者はよく両親の悪口を言う。世の中には悪い両親がいないとするから、親の悪いところを言うと、そなたらの寿命を短くさせることになる。

意によった短業とは、果たして他人がどう死ぬのか、どう運が悪くなるのかばかり考えると、そなたの寿命を短くさせることになる。

(リンポチェは右手に五色旗を、左手に寶瓶を持って、修法に取り掛かった。リンポチェは余すところなく、自身の地風水火空という五大元素のエッセンスをを全て出し、一つ一つ大衆の身にかけて加持している。参加者自身に何か欠けていれば、暖かい流れを感じたり、涼しい風が吹いてくるのを感じたりして、地風水火空というエッセンスを補っていると感応した。)

我らはお酒の代わりに、ジュースを使っているが、皆が退場する際に、長寿丸と寿酒を持ち帰ってください。寿命を延長する場合、一般的には生起次第に依って、また円満次第に依って寿命を延長することになる。というのは、もし密法まで学んでいず、ひたすら持呪や誦経を頼りに寿命を延長しようとするのは、不可能でもないが、ただ毎日止まらずに唱えている場合だけ、少しチャンスがあるようになるのだ。それは、そなたは次第を生起し、円満していないからだ。

灌頂に依る寿命延長や、長寿物品に依る寿命延長など、色々な面で寿命を延長することになるが、ここでは長寿丸と寿酒に依る寿命延長を教えているので、弟子らは五方仏の本性は長寿丸に、五方仏母の本性は長寿酒に溶け込むと観想し、そして縁がある弟子・縁がある善者に寿の自在が得られることを願うといい。寿の自在とは、非業の死に遭わないことだ。かりによく修めている場合、何年でも多めに生きたいだけ生きられるし、この世間でもうすることがないと思い、もう去ると思い立つと去ることになることこそ、寿の自在だ。

灌頂に依る寿命延長の場合、その灌頂は一般の行者が授けられるものではなく、現量(げんりょう)し証果(しょうか)したリンポチェでなければ灌頂を授けられないとする。本尊と上師に対して強烈な信心を起した者には、本日のこの灌頂は間違いなく効果が出るが、信心が無い者には、いくら授けても効かないままだ。私自身を例として取り上げよう。以前、ある占い師は私は47歳で死ぬと言ったが、私は47歳で死ななかった。また、60歳の時に標高5000メートルというラプキ雪山で閉関修行をしたが、三か月目のある夜寝ていた時に、呼吸と鼓動両方とも停止したとはっきりと分かったが、それでも死ななかった。これは菩薩が私のことをとりわけ世話しているのではなく、私にはまだすることがいっぱいあるから、菩薩は私の命を残してくださり、これで衆生を救済し続けられ、衆生の代わりに苦難を受けられるわけなのだ。

(リンポチェは皆を率い共に長寿仏真言を唱えられてから、修法をし続けられた)

本日の長寿仏灌頂法会が円満となった。素人では、なかなか灌頂の希少性と有難さが分からない。チベット密宗で言えば、全ての出家者が灌頂を授けられるわけではなく、必ず現量かつ証果のリンポチェでなければ、灌頂を授けられないとする。リンポチェにも様々なランクがあるが、転生なのかどうかによるのではなく、そのリンポチェが今生に自身の修行によってなしたエネルギーと果位によるのだ。よって、灌頂を得てから、過去になした身口意のあらゆる悪業はもう犯すべきでないのだ。再び犯すと、この寿が短くなるのだ。

自身で犯した全ての事は、子孫代々にまで影響を及ぼすのだ。他の家族のことはさておき、我が家族の場合、私の曽祖父は福建で蚕を飼ってお茶を作って、それから広州で銀行を開設していた。昔の銀行はもっぱら利子で儲けていたから、顔家の男性は五十代にもならずして亡くなっており、父親の代まで続いた。長生きする者はいなかった。こんな状況は私の代になって変わるようになった。だが、必ずそれが永遠に続くとは限らない。私は修行はしているが、私の次の世代は修行がさほど大事ではないと思って、修行していないからだ。

仏であられる釈迦牟尼仏でさえ、その家族にはその息子と叔母以外、仏道修行する者がいなかった。よって、仏法を聴聞したり、仏法に触れたりすることができたのは、すべて宿世の因縁によるものだ。仏菩薩は様々な方法で衆生済度をする。例えば、いちばん好きで、いちばん可愛がっている人が厄介事に遭うことを通して、そなたに辛い思いをさせ、そなたは仏法による助けを求めると、これで仏とご縁が結ばれるようになるわけだ。仮に誰もが安逸な生活を送っていれば、きっと仏法の重要性も思い出さないのだろう。先ほど、テキストではっきりと説かれたが、長寿を得たい場合には、灌頂を授かるか、生起円満次第の修め方が分かるか、それとも、灌頂ほどの寿命延長功力がないが、上師が法を修め終わってから、上師からもらった寿丸と寿酒かだ。

灌頂を得るのは得難く、欲しければ得られるものではない。上師が灌頂を授ける場合、上師自身の功徳・福報を差し出すものであって、よって灌頂する前に予備法を修めなければならないわけだ。そなたらに分かる言葉で言い換えれば、自分のエネルギーを強めるという意味だ。つまり、お金がなければ、どう人を助けようか、どう人にお金を貸そうかという意味だ。まず、自分で充分に貯めなければならない。まさに『宝積経』で説かれた、灌頂大王は多くの食糧を貯めていて、それを必要とする人に差し出すようにしているようにだ。上師にしてもそうだ。彼は日頃から大量に貯めているから、急に必要があるようになった時、彼は持っている分を差し出すようにするのだ。

たとえ私の子孫という親しさでも、仏道修行しなければどうも施しようがない。釈迦牟尼仏もその氏族を救うことができなかったようにだ。知っての通り、釈迦牟尼仏の氏族は滅ぼされ、全部殺されたのだ。その息子・甥と叔母以外、全員殺されたという。これこそ因果・業障なのだ。だから、進んで仏道修行しようとせず、厄介事に見舞われた際にだけ仏法が必要、そうでなければ必要でないという観念は間違っている。何故なら、そなたは自分の業力がどれだけ深刻か、怖いか分からないからだ。

他の人は何も見舞われていないのに、どうして自分だけがこんなことになったのかと思う人が多くいる。それはそなたに福報がよく、何かに見舞われてから仏法に触れる機会があるようになるからだ。何もなく済んだ人の場合、直接地獄に堕ちてしまう。私と同じ事をしたのに、他の人は何も遭わずに済んだが、なぜ私だけ厄介事に見舞われたかとよく思われている。明らかにその業がそなたのより重いからだ。在世の時に何もなく過ごしたのもめでたいことではなく、死んでから地獄に堕ちるだけだ。地獄なんてないと思ってはならない。もし仏法を信じなければ、いくら拝んでも、求めても、得られないのだ。唯一、仏法を信じるということだけで、早く効果が見られるのだ。

さきほど取り上げた自身のことだが、47歳で死ぬはずだったが、死ななかった。60歳でラプキ雪山で三か月目まで閉関した時、心拍停止し、自分はもう死ぬとはっきりと分かっていたが、死ななかった。50代で皮膚がんを患っても、死ねなかった。どうして私を死なせないのか。まだすることが多くあって、借りが多すぎて、今生に返済し切らないとダメなのだ。今でもまだ借りを返している。75歳のお爺さんなのに、まだ返している。

(護法を修める)

長寿をどう求めるか、先ほどのテキストでははっきりと説かれた。一つは灌頂を授かること、一つは生起円満次第の口伝を得て修め方を知ること、もう一つは寿丸・寿酒を食べる機会があることだ。もちろん、寿命を延長させる別の方法もあって、生涯に渡って悪事をせず善事のみする人の場合も寿命が延びるようになるが、そなたらには難しい。そなたらにはできっこない。誰かのために寿を求めてあげようという習慣の人が多いが、残念ながらそれは求め得られないことだ。言っても信じられないかもしれないが、今のテキストにもはっきりと説かれており、これだけが方法なのだ。

上師を敬わない、親孝行しない者なら、寿が減る。たとえ、彼自身から寿を減らすことができない場合、彼の最も好きな人のを減らすようになる。これこそ因果・業力そのもので、決して仏菩薩のご発明ではない。テキストには、そなたらの地風水火空にダメージがあると書いてあるが、どうしてダメージがあるのか。それは、良くないことをしたから、自ずと地風水火空のバランスが取れなくなるからだ。医学で説明する場合も通じるが、例えば、肉や魚を豪快に食べる者の場合、健康が良くなくなるに決まっているようにだ。リンポチェは75歳まで生きているが、トリプルリスクがあるかどうかは分からないが、私は歩くのが速い。(28歳の侍者弟子は、リンポチェは歩くのが速くて、自分が追いつくには走らなければならないと言った)

どうしてこうなるのか。私の背が高いからではなく、私の寿のほうが堅固だから、病気が少なくなっているのだが、必ずしも私の体も生まれたての赤ちゃんのようにいいわけではない。だが、地風水火空という五つの元素をバランスよく保たせているから、健康な体があって衆生を救済し続けられるのだ。そなたらはやり残しがいっぱいあると気に掛けているが、体があまりにも弱すぎてどうよく出来ようか。出家弟子も体が弱いようで、地風水火空のバランスもとれていない。それはひたすら自分のことで頭いっぱいで、衆生を考えず、いかなる念頭も自分の為だからだ。

灌頂を授ける75歳の行者というのは、もうこの世の中には滅多にいないぞ。年に一度の法会や伝法の他には、今、法王も灌頂をほとんど授けていない。どうして授けないのか。授けたいかどうかの問題ではなく、体力がいつか尽きるもので、体力に限りがあるのが問題だからだ。本日、長寿仏を修めてあげるのは、そなたらに元気を付けてお金を稼がせる為ではない。多く稼いでも、多く供養していない。ここ数年、海外法会をしていないが、そなたらからの供養も少しも変わらない。そんなに計算できるそなたらは、まさか経理学科卒業か。

それに、ここ数年は大法会も催行していないのに、私への供養も増えていない。そなたらの供養心がどこにあるかをわざと試している。テキストの最後に、「喜んで上師に侍する」とあるが、そなたにはあるか。全員ないよ。本日は、私の孫の為に長寿仏を修めているが、そなたも長寿仏の灌頂を授かった。リンポチェはえこひいきせず、家族だから多めに差し出そう、そなたらだから少なく上げようなんてなく、同じだ。そなたらは少なめどころか、多めのほうかもしれない。

仏法というのは、欲しいだけもらえるものではない。自分は既に欲しい物を手に入れたから、もういい、もう修めないなんて思ってはならない。祖師ジッテンサムが開示されたように、病が治ったから精進する必要がないなんて思ってはならず、業力はそなたが諦めた頃に戻って来るものだという。不思議にも、ちょっとでも立ち留まると、業力がすぐやって来る。

どうしてか。それは、そなたが成就する前に、業力はやっつけに戻って来る能力があるからだ。成仏した釈迦牟尼仏ですら、果報が残っているのに、そなたらはどこの馬の骨か。《普門品》でも唱えれば、果報が無くなると願っているのか。薬師仏でも唱えれば、無敵になるつもりか。それは有り得ない。テキストでははっきりと説かれているように、生起円満次第を通して修める場合だけ、長寿になるという。だから、よく話を聞け。末法時代では、この世界は乱れている。これからも一年余り、乱れが続くから、慎重に行動するといい。油断せず、諦めないでくれ!


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2022 年 07 月 02 日 更新