尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2022年2月1日

旧正月の一日午前九時に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは灯りを点して仏に捧げられ、法座に上がって自ら『百遍頂礼證知』・『三十五仏懺法』を主られ、黒水財神法を修められた。

リンポチェは参列者全員を率い、『百遍頂礼證知』を念誦したのち、開示された:

『百遍頂礼證知』という法がチベットに現れたのは、「拉妥妥日年贊王(ラ・トトリ・ニャンツェン)」が宮殿の中に居た時、空中から降りてきた予兆がきっかけだった。そして、夢の中でも「五つの世代の後にその意義が分かり、法の始まりになる」との授記があったという。これは、五つの世代の間、仏典通りに全てを修め得るような人がまだ出てこず、五つの世代の修行を経てはじめて成功裏に修められ、その中の本当の意義が分かるようになるということだ。まるで先ほど皆も一回唱えたが、その中の内容を誰も理解していないようにだ。それはそなたらは修めていないからだ。ならば私は分かっているのか。それは多少分かっている。だから、そなたらを率いて唱えたのだ。唱えるメリットとしては、そなたらに覚えさせて、後世でも修めよう!というのがある。

続いて、マンタ供養の儀軌が行われた。寶吉祥の出家弟子らから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩にマンタ供養をして法を勧請するようにお願いしたが、リンポチェはマンタ供養の供養金を受け取らないと指示された。

『三十五仏懺法』
本日、一つ目に修めるテキストは『三十五仏懺法』である。「懺」とは「懺悔」だ。多くの人は、自分は仏菩薩に「私は間違った。私は改める。」と言ったことこそ、懺悔だと勘違いしている。そうではない!改めることとは、とある事件について改めることであって、懺悔はしていない。あたかも、泥棒をした人が捕まったら、裁判官に「今後はもう盗まない」と言ったにもかかわらず、強盗をするようにだ。そなたらはまさにそうだ。

「懺」とは、自分が犯した過ちによる結果を認め、向き合い、責任を取ることだ。「悔」とは、二度としないことだ。私の面前に、懺悔しにやってきた多くに対して、私は「非だけ認めては、役に立たないわよ」と言っている。仏法の「懺悔」は、地球上で他のどの宗教にもない法門だ。懺悔は修法法門の一つであって、非を認めたり、許しを求めたりするのではない。絶対にそうではない。懺悔法門を説くには、相当の時間がかかる。かつて、私は「懺悔」の二字を解説するのに12時間もかかった経験があるから、それは決して仏菩薩を前に跪いて、仏菩薩に「私は自分の非を知っているから、許してください」ということではない。それは仏菩薩と無関係だ。

どうして仏菩薩・上師に懺悔するのだろうか。仏菩薩・上師に懺悔しなければ、そなたの内面世界で、そなたが為した全てを二度としないように自分自身にさせられないからだ。諸仏菩薩と上師からの加持力によって、そなたの真なる懺悔の心を発揮し、累世で齎された貪・瞋・痴・慢・疑という習性を停止させ、ひいては消失させることになるから、こうして二度としないようになるのだ。また、懺悔して怨敵に廻向して、怨敵に許されたら、よくなるだろうと多くの人は思っているが、これも間違いだ。何が間違っているかと言えば、責任の逃避だ。まるで物を盗んだ人が、無罪と裁判官に言われても、ちゃんと記録は残っているようにだ。記録が残らないことはありえない。

例えば、そなたは人にけがを負わせたとして、投獄されなくとも、記録は残る。どうやったら、人にこの記録が気づかれないか、ひいては思い出させないようにできるのか。世間法では、多くの良い事を為すのが必然だ。ミラレパ尊者は自分の母親に親孝行して、(仏教以外の)外道の黒法を修めて雹を降りさせて、自分らの財産を奪おうとした多くの親戚を殺したことのようにだ。ミラレパ尊者は我らと違って、彼は自分自身が非常に大きな罪を犯したと知っている。それは母親に孝行する為とはいえ、殺人も事実だ。多くの人たちは、自分に過ちがないのを説明するために、多くの理由を探している。説明する理由なんてない!し損なったら、し損ないだ。何らかの理由で、人のせいにしてはならない。もし、そなたの心が動じなければ、他人に引きずり込まれることもないだろう。心が動じた時以外は、きっと因果・因縁にも関わっているものだ。だからミラレパ尊者はマルパ尊者に、成仏できる修行の法を授けるようすがりついたのだ。どうして彼の心があんなにも広く、今すぐ成仏することを求めたのか。それは成仏しなければ、彼は今生で犯した殺人の悪業を動かすことができないからだ。それに対して、そなたらは無事・順調・無病・家庭円満・長寿だけしか求めていない。さすが行者だけあって、真っ先に成仏の道を求めたから、マルパ尊者も応じてくれるようになったのだ。

ミラレパ尊者がマルパ尊者に求めた時、一銭もお金が無い状態だった。ひいては、マルパ尊者の仏母はミラレパ尊者を可哀そうに思って、ミラレパ尊者がマルパ尊者に供養できるように、自分の首飾りを渡したそうだ。マルパ尊者はそれを知って、「そなたの物ではない」と言って返したという。まさに『宝積経』で説かれた、供養する際は自分の物を使うべきだという教えの通りだ。騙したり、騙し取ったり、借りたりした物ではならない。ミラレパ尊者が成仏の法を学んでから、生涯にわたって洞窟の中で修行をしていたから、地獄道に堕ちずに済んだのだ。殺人犯は地獄に堕ちるに決まっている。衆生を殺すのも間違いなく地獄に堕ちるのだ。

「誰もが肉を食べているから、私が食べなくても大した変わりはないだろう」という人もいるが、確かに地獄はそなたが加わっても大した変わりがないのだ。もし、そなたにこんな考え方があれば、それは因果を信じないからだ。『地蔵経』でもはっきり説かれたように、地蔵菩薩の母親はすっぽんの卵を食べるのが好きで、三宝を軽視したから、死んでから地獄に堕ちたという。仏が説かれた仏典は、我々を恐喝したり、脅かしたり、騙したりするつもりではなく、全ては事実だ。多くの人は大したことではないだろうと思って、「動物を食べたとして厄介事に見舞われるというのか、鶏・豚・羊などは食べられる為に生まれたのではないか!」と言っている。だが、仏法でいう衆生皆平等という観念から見れば、全ての有情衆生は、畜生を含め、皆、我らと同じく成仏する条件を持っている。だから、もし、我らが彼らを殺したり食べたりすると、間違いなく三悪道に堕ちるのだ。

仏典には、衆生の肉を利用して金儲けする者は、在世の時、病が多く寿命も短くて、死んでから地獄に堕ちるとある。また、「そんなことないだろう。食品業界では代々儲かっているのもあるよ」という人も多いだろうが、そなたはその家に何も発生していないとははっきり言えないだろう。だから、因果を信じないのなら、本日懺法法会に参列したとしても、ちょっとした福報を足してくれるだけのもので、そなたに来世にペットになれる福報を持つようにさせるに過ぎない。何故なら、そなたは信じないからだ。懺法を拝めて福報があるからこそ、ペットになれるのだ。今の世の中、人よりもペットになったほうがましかもしれない。衣食とも良いし、お金がないことを心配せずに済む。今や、誰しもお金がないのを心配しているのではないか。ペットになれば、子どもが親孝行してくれないか、その眷属が病気にならないかなんて心配する必要がない。つまり、食べては寝て、寝ては食べ、いつも飼い主に抱っこされている。

ペットになりたいのなら、どうぞ私が今日開示した仏法を聞き入れず、受け入れもせずに、聞き流すといい。もし、ペットになりたくないようなら、本日私が説いたのは私自身の発明ではなく、すべて仏典を裏付けに言っていることだし、ここ十数年、私の修行経験から類似の多くの事を目にしてきたと理解してほしい。家業で養殖業に携わったり、ひいては漁をする為に、人に漁船を貸し出したりする者らは、後世の何代も厄介事に見舞われることになる。例えば、朱という弟子の祖先はお金持ちだったが、漁をする為の漁船の貸し出しをしていたから、何れも問題を抱えていた。朱という弟子の世代になって仏道修行しはじめてから、やっと転じだしたのだ。

仏典でも言及されたが、動物を捕獲・射殺する道具を販売する者は死んでから地獄に堕ちるに決まっているという。例えば、商売をする者が、ペットショップや殺業に関わるレストランの内装をしてあげても、共業の中になる。それは自分と関係がないだろう、自分は商売するだけなのだと思う人も多くいるが、問題はそのお金はどこから儲けたかにある。殺生で儲けたのだ。もし、そなたがまた先方からお金を儲けるとなると、彼と共に殺の共業の中にいることになるのではないか。これは極めて細かい話だが、話さないわけにもいかない。こんなにも複雑な商業社会の中では、仏法を信じる人は少ない。だから、自分を守る為の突飛な邪見や極端な言い方などがこうして現われるようになったのだ。

仏法の中では、懺悔という法門を正しく実行し、進んで実践すれば、そなたが懺悔したその瞬間から、悪が停止すると共に福も始まる。もし、そなたが自分はなお過ちを認めに来るつもりでいるが、過ちを認めて許しを得たら、また堂々と気ままに好きなことをし続けられると思えば、懺悔によった福報はそなたと全く無関係だ。本日、修めた『三十五仏懺法』は釈迦牟尼仏が『宝積経』の中で特別に宣説されたものであって、現在我らが知っている、『梁皇寶懺』・『地藏懺』・『妙法蓮華懺』・『千佛懺』などのあらゆる懺法のテキストは、全て後世の人によって書かれたものだ。『三十五仏懺法』のみ『宝積経』からの出典で、釈迦牟尼仏が説かれたものである。

どうして釈迦牟尼仏は『三十五仏懺法』を授けられたのだろうか。それは、『宝積経』は主に行者らがどうやって菩薩道を修めるかを教えるお経だからだ。「どうせ私は菩薩道を修める者ではないから、拝んでどうするつもりなのか」とそなたは聞くだろう。これはまさに、そなたがまた仏を信じなくなっていることを表している。これはそなたが菩薩道を修めるかどうかに関係ない。こんなにも多い仏様の中から、この三十五の仏を選ばれたのは、きっとそれなりの道理があって、きっとこの三十五の仏は我ら地球人と密接な関係があるに違いない。それに、もしそなたが菩薩道を修めようとするのなら、きっとこの三十五の仏からの加持力は大きいに違いない。若しくは、そなたは菩薩道を修めるわけではないが、そなたは本日『三十五仏懺法』を拝んだことによって、この三十五の仏と縁を結ばれるようになった。ただしいつの世になって修めるようになるかはわからない。

釈迦牟尼仏は『宝積経』の中で、仰せになったことであるが、菩薩道を修めることは修めたいだけ修められるものではなく、累世で作った多くの業が差し障ることになり、多くの善業をした場合でも差し障って来るという。例えば、有名になるにつれて、食事へのお誘いも多くなるし、毎日多くの事に追われている場合もある。又は、お金を持ちすぎる場合でも、つい享受してしまうから、これも差支えになる。『三十五仏懺法』を修めることが、これ等の障礙を解消するのに役に立つ。そうだったら、いったん障礙を解消し終わると、皆が一気に貧乏人になってしまうわけだろうか。そうはならないとはいえ、ないことでもないからよく考えるといい。何故、貧乏人になり得るのか。それは、かつてそなたが稼いだお金は良くないお金かもしれないから、仏菩薩はそれらの良くないお金を無くすようにして、もう一度一から綺麗なお金を稼ぎ直させる為だからだ。

枝葉のような事を言うのなら、数百日があっても言い切れないものだから、本日は『三十五仏懺法』は非常に重要だということのみ教えるようにした。私すらこのテキストはどうやって得られたか覚えていず、この三十五仏のタンカーもそなたらの物ではなく、私がちゃんとお金を払って買い求めたのだ。どうして私は買い求めたかも私も分からなかった。『宝積経』を拝読するようになってはじめて、全ての菩薩道を修める者は、例外なく、必ず『三十五仏懺法』を修めなければならないことが分かった。『梁皇寶懺』だったら、効かないのかとそなたらは聞くのだろう。それは効く。効くのだが、そなたが死んで、畜生界に堕ちてから、誰かが代りに拝んでくれるようになって、そなたを畜生界から昇天させる場合は効く。それでは、生きている間に『梁皇寶懺』を拝んでも効き目があるのか。それは勿論ある。つまり、そなたに仏道修行をし続ける機会を与えるのだ。私こそ、その例の一つだ。

かつて私が顕教を学んだ時、師匠さんは毎年のように『梁皇寶懺』を催行していた。食事以外の時間は、中休みも入れずに、私はいつも朝九時から終わるまでずっと拝み続けた。当時、人が休んでいても、私はなお拝み続けたこと、そして出家衆でも私のような凄さがないと思って、ちょっと傲慢になった。千仏が含まれた『梁皇寶懺』のほか、水陸大法会・『地藏懺』・『妙法蓮華懺』・『観音懺』など、つまり、懺があるだけ、全て拝んだということだ。当時、自分はずいぶんよく懺法を拝んで、身口意とも清浄になったと思いきや、密法を学んで『三十五仏懺法』を拝んでから、自分はまだまだだと分かるようになったのだ。

一日も成仏していないうちは、日々懺悔する必要があると、私は以前みなに言ったことがある。まだ一部の習性を捨てていないから、証悟(しょうご)して仏果に成ることができないのだ。証悟して仏果に成らない限り、そなたは仏法の観念では、まだ問題がある人なのだから、懺悔すべきだ。懺悔して自分を更によく修めさせる為ではなく、自分の障礙が自分に差し障ることにならないようにする為だ。まるで、私は密を学ぶと決心した時から、すぐ破産し、離婚し、子供が不登校になったようにだ。そなたらは敢えて出来ようか。そなたらがこんなことに遭ったら、きっと最初に思い浮かぶのは「知っていたら、学ばないでおいた。学び始めたら、酷い目に遭った。密宗を修めれば、金運成就すると聞いたのに、そうではなかったのか。」確かにそうなる。私が財神法を修め終わると、そなたらはそうなるよ。「密宗を修めれば、何もかも手に入ると言われているのではないか」密宗を修める行者は一般人と違って、決心をせず、人間界の全ての苦しみを受けたことがなければ、何を裏付けに衆生救済できると言えようか。また、多くの人は密宗を修めることは、即ち快適な生活を暮らすことだと勘違いしているようだが、実は、快適な生活なんてないぞ。だから、多くの弟子が密法を求めても私は授けないでいるわけなのだ。そなたらはこんな苦しみが耐えられないからだ。皆さんのうち、明日からご飯が食べられない・家賃が払えない・眷属に逃げられた・子供の親不孝などに遇っても、生きていられる人が居ようか。日々、小銭で過ごしていては、生きていられようか。まだ拝み続けられようか。まだ唱えられようか。もう全部やらないだろう!もう仏祖よりもお腹を先に世話しているのだろう!

本日、皆に『三十五仏懺法』を修めてあげたのは、私のように苦しみながら学んで欲しくないからだ。私は苦労人で、生まれからすでに苦しく、一歳の時から、戦争から避難する為に香港へ逃げている。そなたらはみな生活が楽すぎているのだ。少なくとも前の世代やこの世代では戦争から避難する経験がなかったのだろう。戦争から避難する苦しさを皆が分かっていない。未だに罵声が絶えないが、もう罵らないでほしい。何故なら、そなたらにはその苦しさを経験したことがないからだ。自分の先祖が先方に殺されたなどと言うだろうが、そなたは逃避行を経験したことがなく、その苦しさを分かっていない。逃避行というのは、何も持たずに手ぶらのままだということだ。私の父親は元々廣州の大金持ちだったが、子ども三人と妻を連れてこうして逃げていた。

本日は、皆の為に『三十五仏懺法』を修めることにする。そなたらは苦しさを経験したことがないとしても、(テキストの)中の内容をよく理解するべきだ。そなたらには人間界の絶対的な苦しさを経験したことがないながらも、間違いなく今生で身口意によって貪・瞋・痴という悪業を犯している。よって、一歩引いて、もし菩薩道を修める為でない場合でも、少なくとも今生が終わる前に、そなたが『三十五仏懺法』を拝めたことによって、少しでも怨敵が少なくなり、そなたに穏やかな最期を迎えさせることになる。旧正月の一日から、こんな事を言って不吉そうだが、私はどうしても言いたい。

旧正月の一日は一年の始めでもあるが、人生の終わりになる可能性もある。無常がいつ訪れるかわかる人なんていないからだ。そなたが本日こそ誠心誠意に懺悔すれば、きっと穏やかな最期を迎えることができると私は保証できないが、そなたが死んだ時に、行者が助けてくれる因縁があることは保証できる。だから、懺法を拝める際、人間界のことを求めなくていい。例えば、自分が懺法を拝んでから出世するなんて、もう求める必要などない。効かないからだ。もし、そなたは進んで、恭敬してこの懺法を拝めば、もうそなたの福報が上がるにつれて、悪報の力も減少することから、順調でなかったところがより順調になってきたわけがここにあるのだ。

リンポチェは『三十五仏懺法』を拝み始め、続きに四臂観音簡儀を修めようと指示された。

黒水財神

続いて、黒水財神を修めよう。顕教では財神法門を修めていないし、顕教の関係者らはよくチベット仏教はどうして財神法を修め、どうして終日財を求めるのかと疑ったり、皮肉ったりしている。こうした観念は、たぶん彼らが仏典のいくつかの箇所を見てなかったことによるのだろう。『宝積経』で、釈迦牟尼仏は全ての命は、寿命と財との重要な元素から結合したと仰せになった。寿命はどこからやってくるのか。過去世で、我らは殺生せず、衆生の肉を食べず、ひいては衆生の命を助けたことによって、今生に寿があることになる。

人の寿命は母胎に入った時にすでに決まっている。今生に修行しているからこそ、変えられるのだ。私自身を例に取り上げよう。私は45歳で死んでいるはずだったが、現在75歳まで生きているから、改めたということだ。寿以外、富だ。それは周知の金銭と修行の法財などが含まれる。寿命のみあって、財がないのであれば、この人も死んでしまうことになる。この肉体を生きさせる資糧を持っていないからだ。逆に、財があって寿命がなくても、死んでしまうことになる。人によっては、財・寿命ともにあっても死ぬことになるが、それは悪業を多く為しているからだ。財・寿命ともになかったら、それは当然死んでしまうようになる。

財神は密法の中では護法部に分類され、通常、我らは黒・黄・白・赤・緑との5つの異なった財神を修めている。チベット人は黄財神を修めるのが一般的で、黄財神だけが、出家衆が修行できるように、資糧と住まい・食事を助けるからだ。黒財神は比較的特別な本尊である。全ての財神は第八地の菩薩であり、彼ら自身が菩薩で、世間に一般ある鬼神護法ではないということだ。黒水財神は観世音菩薩の護法の一つで、観音法門を成就に修めていない者は、たとえ毎日黒水財神を修めているとしても、役に立たない。よって、多くの人が財神の呪文を終日唱えることは、効果がないことだ。慈悲が伴っていないという理由でだ。だから、他人の為に財神法を修める行者は、もし観音法門で成就を得ていなければ、財神も来臨しない。

黒水財神がより忿怒的な相を現しているのはどうしてか。財神法を修めることは、富を多めに与えてくれることだと考えている人が多い。実は、そなたが今生で得た富は、全てそなたが過去世で供養・布施して得た福報によるもので、今生に財を得るようになったのだ。だが、そなたは今生で母親の子宮の中で、母親が肉を食べることによって、そなたも肉を食べたり、煙草を吸ったりすることになっているから、そなたの財が減少し続けているのだ。たとえ儲けがあったとしても、誰かが使ってきたりし、たとえ使ってくる人がいなくても、訳も分からず、とあるところに使ってしまう場合になるから、財がないのだ。簡単に言えば、そなたの財は奪われているのだ。あまりにも悪業をしすぎているから、財は留まらないわけだ。

銀行に預金があることこそ、財が有ると思う人がいる。だが、それはそなたの財ではない。何故なら、そなたが死んでいれば、そなたの意思がどうであろうと、預金の二割は政府の物になるからだ。多くの人は、死ぬ際に備えてお金を用意している。しかし、死んでいるのに、お金を持っていて何をしようというのか。お金を残せば、誰かが手伝ってくれるというお考えの人もいる。実は、そんなことにならない。お金があるほうが、かえって手伝ってくれることにならない。お金が全部取られてから、薄い板で作った僅か数万元の棺桶でも買って、そなたを押し入れて焼いてしまうだけなのだ。

この財神法を修めると、第一に、そなたに属する本来の財を財神により少し取り戻してくれることで、第二に、この人は必ず供養し仏法を護持したことがあることから、財神が助けてくれることだ。仏典によれば、黒水財神は不動如来の化身だと言い、前に私が不動如来の仏典を宣説できたのもきっとこれと関係がある。もし、不動如来まで修めていないのなら、この財神法を修めても役に立たない。このテキストの中でも、はっきりと言及されたが、自分の為にしろ、他の人の為にしろ、テキストで言った兆しが出るまで修めてはじめて衆生救済することができるようになるのだ。仮にそれがなければ、成功裏に修められないとしている。

これはパドマサンバヴァが伝承してきたテキストだが、当時自分がどうやってこれを入手したかも覚えていない。何故か、このテキストを手に入れたのだ。テキストをもらってから、私は閉関修行を通じて、テキストで言及された閉関の成就後に現われる瑞相を得て、そこではじめてこの法を以て衆生救済するようにしたのだ。旧正月の一日に、私はいつもこの法を修めるのはどうしてか。そなたらは私を供養したことがあったし、道場などを供養したこともあるから、そなたらが首にならないよう、私はこの法を修めてあげたのだ。たとえ首にされても、一年分の解雇金がもらえるようになる。もちろん、そんなことにならない。ただそなたらの富を安定させているだけなのだ。

これは岩伝法であって、洞窟の中に隠している物だから、一般のテキストではない。よって修法者本人が本尊観世音菩薩・不動仏と関係がなければ、いくらこのテキストを得たとしても修め得られるわけがない。何故かと言えば、黒水財神はより凶猛で、八地菩薩ということで、まだ人としての思惟モードが残っているからだ。中国語で言うと、資格が足りない者は相手にされないということだ。チベットのリンポチェから財神の真言を授かり、毎日唱えれば金運成就すると信じている人が多い。

私は一年中自分で修めていず、皆の為に旧正月の一日だけ一回修めている。もし上記のようなことになれば、私は自分を金運成就させるよう、毎日修めるべきではないか。毎日修めるのも疲れることだ。何故なら、テキストの中でも毎日修めた場合、どんな事が発生するかも言及されたからだ。皆さんが聞けばびっくりするかもしれないが、富が溢れるようになるのだ。富が溢れると、収納ができなくなってしまうから、皆にそうさせるのを止めておこう。良くさえなれば充分だ。

リンポチェは黒水財神を修め始められ、並びに慈悲深く参列者全員に黒水財神に祈り求める機会を与えられた。


« 昔の法会開示 法会開示へ戻る新しい法会開示 »

2022 年 05 月 08 日 更新