尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ、日本・城崎温泉寺にて「阿弥陀仏無遮大済度法会」を厳修、円満成就
2024年11月26日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ猊下は、日本・城崎の千年古刹・温泉寺の住職、小川祐章師の祈請を受け、温泉寺大殿にて「阿弥陀仏無遮大済度法会」を御主法されました。本法会は、今よりおよそ百年前に発生した北但馬地震により命を落とした衆生を済度するために修されたものであります。当日は、日本国内より信徒19名、帰依弟子97名、信者2名が参列されました。
今回の法会は、城崎温泉寺の住職・小川祐章師の深き祈請により、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下が、当地において地震により命を落とされた先祖方の霊を済度せんがために主法されたものであります。大正十四年(1925年)、城崎の地において大地震が発生し、町は壊滅的な被害を受けました。とりわけ昼食の支度をしていた多くの女性が、家屋の倒壊や火災により命を落とすという痛ましい出来事がありました。そして本年、あの大震災よりちょうど百年の節目を迎え、百年にわたり救済を待ち続けていた数多の衆生が、ついに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ猊下の広大なる大慈悲による済度を受け、苦しみを離れ、善道往生へと導かれました。
温泉寺では、尊きリンチェン・ドルジェ・リンポチェ猊下のご来臨を謹んでお迎えするにあたり、寺院正面に猊下の御法影を大きく掲げ、誠を尽くしました。リンポチェ猊下が温泉寺にご到着の折、殿外において数羽の烏が清らかに高らかに鳴き声を上げ、その音色はまるで空行母が大修行者の到来を讃えて迎えているかのようでありました。猊下が壇城に向かって頂礼を捧げられたその瞬間、大殿はたちまち光明に満ち、清らかな妙香があたりに漂い、大地が震動いたしました。その際、本尊である阿弥陀仏のタンカは、まばゆいばかりの光を放ち、まさに吉祥の瑞相が顕れたのであります。
リンポチェ猊下が法座に登壇され、修法を開始されたその瞬間、大殿の内部は刺すような冷気に包まれ、殿外の山林には突如として激しい烈風が巻き起こり、風音は悲愴に響き、まるで女性たちの慟哭にも似た声が空を裂いて響き渡りました。その風は大殿の木扉を揺らし、経幡を鳴らしながら、切なる救済を求めて久しく待ちわびていた衆生が一斉に押し寄せたかのような、激しい気配を伴っておりました。冷たい烈風は堂内にも吹き込み、供物は何度も吹き飛ばされそうになり、奉納されたカタは宙を舞い、酥油灯の上に覆いかかるも、いささかも火が燃え移ることはありませんでした。壇城に供えられた供灯の光は風によりすべて消え去った中、ただひとつ、リンポチェ猊下が御自ら灯された主灯のみが変わらず光を放ち続けておりました。修法の途上、猊下は二度にわたり忿怒尊の相を顕され、威厳に満ちた低い咆哮を発せられ、その尊容は壇城に掲げられた金剛手菩薩のタンカと寸分違わぬものでありました。また、仏に供養された際に、猊下が頭上に置かれた一瓣の供花は、いかなる烈風にも揺るがされることなく、法会終了まで落ちることなく保たれました。これらすべては、尊きリンチェン・ドルジェ・リンポチェ猊下の大威徳と深遠なる慈悲の加持によるものであり、本法会が無事に円満成就へと至ったことの何よりの証であります。
済度法会が円満に成就された後、殿外に吹き荒れていた風雨はたちまち鎮まり、山中は静寂と平安に包まれ、空は明るく晴れわたり、空気も柔らかく温もりを帯び始めました。歴史の記録によれば、百年前の大震災における犠牲者の多くは女性であり、今回の法会中に現れた現象は、まさにその史実と深く呼応するものであります。リンポチェ猊下は、自己の身体を顧みることなく、ひたすら衆生の利益のため、大手印の禅定に入り、通常は四時間以上を要する大規模な済度法を、休憩を挟むことなくわずか三時間あまりで厳修され、その不可思議なる功徳の大きさには、ただただ驚嘆と敬服の念を禁じ得ません。
法会終了後、リンポチェ猊下が休息室よりお出ましになり、階段を降りられる際には、すでに二名の侍者の扶助を要するほどにお疲れの様子でありましたが、殿外で加持を願い待ち受けていた日本の信者を御覧になるや、御自身の疲労を一切顧みられることなく、一人ひとりに温かく加持を賜り、健康への配慮を説かれ、さらには幼き弟子へも自ら進んで慈悲の加持をお授けになられました。リンポチェ猊下の衆生済度の大願は、いかなる時空の制約にも囚われることなく、助けを求める声のあるところには、可能な限り必ず仏法をもって赴かれるのであります。今回、日本の地において主法された、殊勝なる「阿弥陀仏無遮大済度法会」においても、リンポチェ猊下は再び、大修行者としての広大な慈悲心、勇猛果敢なる菩薩の行願を、余すところなく示現されました。
2024 年 12 月 02 日 更新