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2021年、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「チベット佛教直貢噶舉阿弥陀仏無遮大済度法會」を円満につかさどられた

2021年9月26日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センター台北道場で、17度目の殊勝な「阿弥陀仏無遮大済度法會」をつかさどられた。

2021年、世界各地で「新型コロナ肺炎」の蔓延が引き続き厳しい中、感染防止対策の規制により、万人規模の法会は挙行することができないが、リンポチェは衆生を思い遣られて、政府の感染防止対策に則った上、寶吉祥仏法センター台北道場で、「阿弥陀仏無遮大済度法會」をつかさどられた。法会は清浄かつ円満になり、功徳が果てしなく衆生を広く加被(かび)する。

午前9時30分に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは薫香(くんこう)、楽器、宝傘の先導の下で迎え入れられる中、八吉祥白カーペットに沿って壇城に上がられた。諸仏菩薩に恭しく頂礼され、尊勝なるティクンチェツァン法王如意寶法座にカター(Katag)を捧げられ、灯りを点して仏に供養されてから、法座に上がられた。

法会の壇城は清冽荘厳である

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは薫香(くんこう)、楽器、宝傘の先導で、迎え入れられる中、八吉祥白カーペットに沿って壇城に上がられた。

リンポチェより貴重な仏法開示を賜わられた:

本日は阿弥陀仏済度法会を挙行する。元々、毎年南港エキシビションセンターで執り行われているものだが、今年は政府のイベント開催制限等の方針により開催が不可となり、その上、政府によるイベントへの収容人数も減少している状態では、我々はこれだけ多くの人々を法会に参列させることができなくなっている。その代わりに、道場での挙行となった。これは上辺の理由だが、本当の理由は衆生にとってはこの法会が要らないことと私が察したからだ。これまでの17年間の大法会では、毎年私は参列者に菜食をするよう勧めてきたが、多くの人は話を聞いていない。一部の人は法会の数日前だけ菜食はしているが、一年中他の期間は菜食をしていない。(食べて)一年間貯まって、法会に参列して、それを綺麗にさせるよう私に助けてもらうようにしている。

本日のテキストを開くと、薈供の供え物にお肉を使ったらダメだと書いてある。そなたらは阿弥陀仏に助けていただきたいのに、ひたすらお肉を食べている。こうだったら、どう助けようというのか。絶対に助けられない。阿弥陀仏や、阿弥陀三尊が慈悲ではないのではなく、そなたが『阿弥陀経』で説かれた「十善法を修めた福徳因縁を具備する善男子善女人だけ浄土往生する」に背くからだ。十善法の一個目に当たるのは、不殺生なのだ。お肉を食べる者なら即ち殺生ということに加わっていることになる。だから、去年法会が終わってから、私はもう南港エキシビションセンターで2万人強の大法会を行いたくないと考えていた。弟子がお金を出して大法会を護持したとしても、全額返すつもりだった。

また、ここ十数年、大法会の挙行の後、私に声をかけてくる参列者の信者がいる。もちろんそれは良い事だが、声をかけてきた十数人の信者の多くは、冒頭から私がつかさどった大法会に参列したことがあると言う。まるで私の大法会に参列して、私が彼に借りを作ったように、助けてあげなければならないみたいにだ。毎回の大法会に、私は取り付きから本日この大法会は衆生を阿弥陀仏と縁を結ばせる為なのだと言っている。名や利の為に大法会を執り行っているわけではないし、信者らに私に帰依する必要がないように言っているのに、誰もそれを分かっていないようだ。

今年済度大法会を執り行うに先立ち、信者が済度リストを書くのなら、生涯菜食を貫くことが条件だと、私は言った。結局、元々二万を超えた申込者数から、今日は千名強の弟子のほか、信者リストは一気に1847人へと変わった。よって、釈迦牟尼仏は『阿弥陀経』に「此の五濁悪世で此の信じ難い法を説かれる」と言われた所以だ。釈迦牟尼仏には言い違いがない。そなたらに信じさせるのは難しい。此の法が信じ難いのではなく、そなたらに信じさせるのが難しい。何故なら、衆生はみな業障が重く、誰も法会に参列して、洗えばまた英雄になると思っているからだ。

そなたらは諸仏菩薩より恩恵を受けながら、仏菩薩の話を聞かず、自分自身を放縦し悪業を為している。こんなことは本当に良くないのだ!今年、この方策を出したところ、通常こんな万人単位の大法会だと、二日間前から閉関修行を行わなければならないはずだが、今は三千余りの済度リストしか残らないから、piece of cakeでお茶の子さいさいだ。すぐ負担がかなり低減し、一万数遍を唱えれば済度できそうだ。法会にさえ参列すれば私の顔が立てられると、多くの人が思っている。実は、そうではなく、仏菩薩の顔を立てているのでもない。毎年の大法会で、そなたらがあっての法会だと私は言っているが、実はそなたらには仏法が必要なのだ。そなたらが大切にしなければ、仏法が自ずと段々と減っていくわけだ。

多くの人たちは参拝のつもりで年に一回阿弥陀仏大済度法会に参列している。守られてはいるが、決して今生ではなく、ある世になってそなたに因縁が成熟してはじめて浄土・阿弥陀仏の法門を修習することができるようになる。現在、台湾にはこうしてこんな法を修める人なんていない。何故なら、阿弥陀仏済度法は一般顕教の法ではなく、テキストに此れは妙法甚深妙義の密義済度法中とある。というのは、これは密法で、一般の顕教で誦経などすれば行かれそうな法ではないという意味なのだ。

顕教と密法は両方とも仏法だが、レベルの深さが違っていて、小学生と博士との差なのだ。小学生には、博士が取り組んだ学問が出来ようか。とても無理だ。今生はひたすら法会に参列できればいい、自分には修得することができないだろうと思っている人たちがいるが、こう言う人こそまだ信じていない表れだ。台湾では年配の方だったら誰でも知っている出家衆の話をしよう――廣欽老和尚。何故、彼が修め得られたのか、それは信じたからだ。我が直貢噶舉派、祖師の一人のミラレパ尊者も非識字なのに、何故修め得られたのか。それは信じたからだ。自分には業障が重く、この一生で修めなければ、後世にはもうチャンスがないと信じているからだ。

一・二回法会に参列すれば私の顔が立つと思ってはならない。それは私の顔を立てるのではなく、私に危害を加えている。どうしてか。例えば、去年大法会を司ってそなたらをちょっと清めさせたところ、去年の法会から今年までそなたらがまた肉を食べていたら、私はまたもう一度清めさせることになるのではないか。肉を食べない者はさておき、信じない者なら、一年開けて来ればまだ信じないままだ。また最初から対応させなければならなく、こうなるのだと私に危害を加えているのと同じではないか。

仮に私が六十代であれば、危害を加えられても構わない。でも今はもう九月で、旧暦では八月なのだ。あと四か月で75歳になる。限られたこの先の時間だが、衆生・教派・仏法の為にたくさんの事をしなければならない。信じない者らに関しては、誤解しないように、私は皆を見捨てるのではなく、ただ縁に随おう。そなたらの縁に随おう。私は進んで誰かに法会に参列してもらったことはない。我が道場に役立つ者であれば、参列するよう呼ぶ場合を除くが。これは何故だろうか。後世になってまた来て返すことのないように、借りを作らず、仏法を以て返しているからだ。今日の法会に参列するようリンポチェに呼ばれたのは、きっと重視されているだろうと思ってはならない。そうではなく、私は借りを返しているのだ。完済すれば、そなたに借りがないから、今後私を探そうとしても見つけられないのだ。

そなたが傲慢にならないよう、今のうちはっきりと言っておく。我ら数人しか呼ばれてないから、きっと自分が特別だと思っているだろう。確かに特別だが、もう借りを作らないから、仏法を以て返しているのだ。だが、私の帰依弟子だと違う待遇だ。私の発した願は一切衆生を成仏させるよう助けることだから、弟子が上師に対してひたすら忠実でいれば、これ等の帰依弟子が成仏していない限り、私は生生世世、面倒を見るからだ。もちろん、私が転生して人となって世話する意味ではなく、私は再び来ないことを認識してください。

法会への参列で、私に呼ばれた人達は、債務を返済する為かもしれない。いったん完済すれば、もう来るよう呼ばれることは無くなるだろう。充分返している。何故なら、そなたらは仏道修行しに来るのではなく、参拝のつもりで、加護を求める為だからだ。守られたいのなら、一回・二回・三回で充分だろう。もし、加護を求めるぐらいで効くのなら、私はとっくに求めていたのだ。そなたらが求める余地はなかろう。どの人も私に構われたくないと考えている。私は74歳で、人を構うに足る資格があるはずだ。そなたの学問がどうであれ、肩書きがどうであれ、行者でなければ、自分自身で生死解脱させることができなく、死と向かい合った場合、自分が怖くてたまらないのだ。

今日言ったのはついでの話で、阿弥陀仏大済度法会と直接な関わりがない。ただ、私はこの法会を執り行わなければならないわけではなく、衆生の縁に従ってしているだけだと伝えたかっただけだ。衆生にはこの縁がない。今回、生涯に渡って菜食を貫くという参列者を調べたところ、千人あまりに激減したように、来年も挙行しないだろうと予測ができている。このままでは、意味がないではないかという理由だ。

何故衆生に菜食をさせるのか、多くの寺院ではそう要求していないのに、とよく思うだろう。それは他人事であって、我が寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェの所に来ては菜食を要求するのだ。仮に、そなたは十善法を完全に修めず、最も簡単な不殺生すら進んで修められないのなら、何を根拠に阿弥陀仏と観音菩薩によって守られるのか。例えば、私の弟子の一人が新型コロナウイルスに感染したが、何故かかったのか。それは、彼は介護福祉士をしているが、仕事を失うのを恐れ、患者さんに生臭ものを買ってあげたからだ。弟子の中には介護福祉士をしているのが多くいるが、彼等は事前に相談し、患者さんが菜食を約束してくれなければ、この仕事を受けないようにするのだ。また、弟子の中に医者・看護師や医療従事者が多くいるのに、この弟子だけトラブルが発生し、病院で働いている他の人たちは皆無事だった。まさか他人に生臭ものを買ってあげただけでも、厄介事に見舞われるとは思わなかっただろう。そなたらは大したことないだろうと思われるが、今生で食べた物を何を以て返すつもりか。もちろん、そなたらの体を以て返すのだ!

返さなくていいと多くの人は主張している。だが、穏やかな最期を迎えられる人が何人いると思うのか。そんなことを聞いた或いは見たことがあるだろうか。たとえ死ぬ前にこんなことが無くとも、きっと膨大な問題が出てくるはずだ。財産をめぐる争いや喧嘩などがあり、何れも累世に食べられた肉が、そなたが死ぬに際して清算にやってきているのだ。構わないよとそなたが言うだろうが、人は誰でも情緒があるもので、終日トラブルが発生していては、自ずと心が集中できなくなり、事への対応もし損なったりするようになる。仏道修行はさておき、人や事への接し方すら間違えたりする。これが怨敵の出現なのだ。

よって、このような法会への参列は、決して加護を求めるのではなく、そなたの怨敵・そなたに傷つけられた衆生から寛恕をもらい、そなたにこの一生でチャンスを掴んで修行させ、こうしてこの一生で生死解脱を成し遂げる機会を得るためだ。自分が死んだ時に、リンポチェはまだいるだろうという、まぐれ幸いの心構えを持ってはならない。まだいる可能性があるとはいえ、ご自身が事切れた際にもリンポチェの事を思い出せると思っているのか。そんなことがあるわけないだろう。そなたは私の弟子でもあるまいし、私のことを思い出せないのだ。私が在世の時に言うことを聞けと言っても、そなたはそれを空嘯いていては、いざそなたが事切れる前になると、言うことを聞いてくれる可能性があろうか。聞かないに決まっているだろう。

私を信じるといい。何故なら、私は終日衆生を済度しているし、私は誰よりも衆生の考え方を知っているからだ。毎年のようにこの法を修めているが、苦難を受けている衆生を三悪道・苦海から離れさせ、阿弥陀仏国土への往生を得させるよう助けているのだ。阿弥陀仏国土への往生が簡単そうだと、多くの人たちに思われている。今年私が開示した『宝積経』の中で釈迦牟尼仏が説かれた、どんな人が阿弥陀仏のみもとへ行けるかについての内容に照らせば、そなたら皆不合格だ。これは釈迦牟尼仏が説かれたことで、私が説いたのではない。

そなたらのように私に帰依していない皆は、私が釈迦牟尼仏を代表して開示した仏典(詳しくは2021年8月8日『宝積経』の開示を参照)を読んだことがあれば、ご自身がこの三種類の人間に入っているか分かる。もし、そなたが中に入っていなければ、何を理由に法会にさえ来れば行かれるのか。不可能だ。人間がある事を毎日学んだり、練習したりしてはじめてよく出来るようになるようにだ。浄土往生も同じように、普段触れていず、年に一回しか触れない状態で、阿弥陀仏のみもとへ行けると思うのなら、それはとても行けないと私は保証できる。これに関しては仏典に裏付けられているからだ。

誰かが誦経してくれればいい、自分は出家衆に唱えに来てもらえると思ってはならない。それでも浄土へ行かれないのだ。或いは、死後、仏教の儀式で菜食で祭られれば行かれると思われているが、実は、このやり方の唯一のメリットは十八層地獄に堕ちないことで、依然に浄土に行くことはないのだ。「極楽世界往生」と書かれた扁額を掲げれば行かれると思ってもならない。もしそうだったら、法王はとっくに私に言い、私も修めていなかったはずだ。釈迦牟尼仏もとっくにこう語られている:今後、「極楽世界往生」と書いて位牌に貼れば行けるよ。だが、釈迦牟尼仏はこう言わない上、修め方について教えて下さっている。

だから、皆で留意しよう!仏法を迷信・宗教・売買と見なしてはならない。実行するのを決めるのはそなたで、私と関係がなく、仏菩薩とも関係がない。私に弟子が必要だと思ってはならない。こんなそなたらを見ては、先ずそなたを憐れみ、次に惜しいと思っている。何が惜しいかと言えば、今生、人の体を得て仏道修行できるのに、学ぼうとしないことだ。学問さえあれば、人生の一大事を解決し得ると思ってはならない。また次は、悲しいと思うのだ。こんなに良い物が目の前に現れたのに、そなたらはわかっていない。

ご自身にこの三つの条件が備わっているかどうかをよく考えよう。この法を修める者は、リンポチェ級のでなければ修められない。一般の出家衆やケンポなどで、戒律を守る者でも、修めなどはしない。修めないというのは、このテキストが分からないのではなく、自分自身に亡者を善道・浄土へ往生させるような、功力・功徳を持たないのを知っているという意味だ。仮に、亡者を助けられそうな功徳を持たずに、無理やりにこのテキストを修めると、修法者が傷つく他、亡者も癇癪を起す。故に、これは大きな法であって、普通にお経でも唱えればいいわけではない。よって、冒頭の一節目に「此妙法甚深妙義の密義済度法中」と書かれている。

修法に先立ち、皆を諭した。こんな法会に参加できるのは、そなたが累世に修行したことがあるから、こんな法会を得られる因縁・福報があることを理解して欲しい。まさに、仏典に説かれたように、人には隔陰迷があるから、一生を開けるとかつて自分がしたことを忘れてしまうのだ。仮に、過去世に修行したことがなければ、今生は人天の安楽な日々を享受する福報がない。即ち、そなたは過去世に修めてはいたが、今生に生まれては忘れているのだ。名利の為、どうして今生にこんな福報があるのかを忘れている。自分が努力し、勉強し、コネを使って築き上げたのだと思っている。

勉強にしろ、努力にしろ、コネにしろ、何れも累世の修行によった福報に関わっている。そもそもこのような福報の副産物として功名利禄が生じるものだが、そなたはそれを間違ったところに使ってしまっている。その福報を修行に使うと、今生は著しく進歩するかもしれない。だが、一部の人は自分がリンポチェに追いつかないと思っている。どうして追いつけようか。私はこんなに何世も修めてきて、ようやく今生で修め得られるようになったのだ。そなたには私に追いつける裏付けがあるのか。

リンポチェの言っていることを聞いても分からないと言うだろう。そもそもそなたには分からないのだ。そなたがやっている職業について、私もしたことがないから、分からないでいるように。だが、分からないからと言って、仏道修行できないわけではない。こうした考え方を持っている人は、コンプレックスでなければ、傲慢だ。何もかも人より優れないとダメだというお考えだ。以前も言ったように、私が仏道修行を始めた日から、いつか法座に上がりリンポチェになることを一度も考えたことがない。仏法で諭し、仏法を以て人を戒めることを一切考えたことがない。何れも考えたことがなく、専ら仏法が良い事だから進めるべきだという、純粋な考え方だった。だから、修法後、ご自宅に帰ってからよく考えておくといい。いいか。これは参拝のつもりで来ているわけではない。

リンポチェは「チベット仏教直貢噶舉阿弥陀仏無遮大済度法会」の儀軌を修持された。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、修法を開始し、様々な供養儀軌を進行されている。修法する過程の中で、薈供の儀軌が進行され、参列者全員は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによって加持された供え物を一人一袋頂くと同時に、法会中に仏菩薩と共に食する得難い殊勝な因縁を得ている。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、参列者全員を立たせ、引率の出家弟子が参列者の祖先及び傷ついた衆生の代わりに仏菩薩に頂礼するよう指示を下された。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲深く殊勝に加持し修法され、一切の有情の為に切に祈願された。参列者全員は、上師の弘法・衆生利益するための果たしない恩徳を深く感じており、心より懺悔心と恭敬心を起し、涙が止め処なく零れた。

済度儀軌が円満に終わった後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子らを率いて、アキ護法と廻向儀軌を修められた。

法会が清冽且つ円満に終わり、参列者全員が合掌してお礼を申し上げてリンポチェをお見送りした。


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2021 年 09 月 29 日 更新