尊勝なる直貢チェ・ツァン法王が台北寶吉祥仏法センターに来臨し「チベット仏教直貢噶舉派祖師ジッテン・サムゴン803年紀念大法会」を主法
6月15日は祖師ジッテン・サムゴンの803年紀念日であり、吉祥なる日である。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは6月14日、根本上師尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の台北寶吉祥仏法センターへのご来臨、「チベット仏教直貢噶舉派祖師ジッテン・サムゴン 803年紀念大法会」の主法を恭請申し上げた。これは新型コロナウィルス感染症の状況が落ち着き、政府が感染予防の大規模解除を宣言したあと、初めての全体が参加可能な法会となった。
リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を哀れみ、仏法により衆生の煩悩と苦痛を解決しようと、新型コロナウィルスの感染が警戒された期間も毎週土曜日は常に信衆弟子を接見して来られた。警戒期間中もリンポチェは変わらず政府規定の範囲内で、日曜日の法会を継続して開催しておられた。それは衆生が最も苦しく、最も仏法を必要としている時に苦を除き楽をもたらしたいと思っておられたからだ。そのため新型コロナウィルス感染症の状況が落ち着き、日常における感染予防措置が緩められた後、リンポチェは直ちに根本上師尊勝なる直貢チェ・ツァン法王のご来臨と主法を恭請申し上げ、衆生のために因縁福報を作ろうとなさったのだ。この艱難なる日々において、リンポチェは身命を賭して衆生に利益なさり、何物をも恐れない大修行者の大悲願力を体現なされた。
寶吉祥仏法センターの住持上師-尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率い、根本上師尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の台北寶吉祥仏法センターへのご来臨を恭請申し上げた。
法会が始まり、薰香、楽の音、宝傘の前導と迎請の下、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王と尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは鮮やかな花々が敷き詰められた八吉祥白絨毯を進まれた。
続いて、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は壇城の諸仏菩薩に頂礼され、ハタを敬献された後、法座に上られた。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェ・ツァン法王、壇城上の尊勝なる直貢チョン・ツァン法王の法写真、諸仏菩薩に頂礼三拝なされた。
リンポチェは開示くださった:我々にはこの福報があり、本日、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の道場へのご来臨と上師供養法の主持を恭請申し上げることができた。明日は祖師ジッテン・サムゴンの紀念日である。月曜日なので、みな出勤しなければならないだろう。そのため本日は一日早くこの法を修める。台湾の感染予防措置が緩められた後、みな初めて全員揃って参加できる法会であるし、またそなた達には福報があり、本日は法王が御自ら我々を率いこの法を修められるのを自らの目で拝見することができるのだ。我々は法王に感謝申し上げなければならない。(参会者は声を揃えて法王に感謝申し上げた)
尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は、参会者を率い『直貢噶舉上師供養法儀軌』を修めるようリンチェンドルジェ・リンポチェに指示なさった。
リンポチェは開示くださった:上師供養法の第一の部分は「不共発心」である。我々は金剛乗と菩薩乗発心の祈禱文を修める。小乗を修めるものは、この祈禱文を念じることはないだろう。中国語で念じるが、法王はご理解になられる。
修法が一段落した後、マンダ献上の儀軌を行い、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥出家弟子衆等と寶吉祥仏教文化交流協会理事長を率い、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王と諸仏菩薩にマンダを献上し請法申し上げた。
リンポチェは法王に対して恭敬に大礼拝頂礼された
その後、リンポチェはみなを率いて持咒くださるよう法王に対して恭敬に祈求申し上げた。法王は、上師供養法心咒の念じ方と殊勝なる含義を開示くださった後、みなを率いて念誦くださった。
念誦が完了した後、法王は開示くださった:この場所で我々は薈供し、薈供が終了したら迴向祈願しなければならない。この機会に、ジッテン・サムゴンの生涯について簡単に述べよう。私は先月ジッテン・サムゴンの詳細な伝記をすでに書き上げている。我々の祖師ジッテン・サムゴンの円寂803年を記念するためだ。完成後は中国に送り中国語への翻訳を進めている。翻訳が完成すれば、恐らく一ヶ月後には目にすることができるだろう。
ここでは簡単に述べよう。ジッテン・サムゴンは玉樹において誕生された。そこは大乗仏教の地方であった。現在の玉樹には新しい巴塘(バタン)空港がある。空港の正面にはちょうど山があり、卓瑪札という。かつてアキが空性を了悟されダーキニーとなられた場所だ。そこがジッテン・サムゴンが誕生された場所でもあるのだ。ジッテン・サムゴン800年紀念の際に、玉樹政府は学術界の人々を集め、その地がジッテン・サムゴンの生誕地であると確定し、イタリアの石材を立て、「ジッテン・サムゴン生誕地」と記した。それが空港の正面だ。
ジッテン・サムゴンは西暦1143年にお生まれになり、まだ5、6歲の幼子であられた頃から大いなる慈悲心を現されられた。一つ二つ例を挙げよう。当時ひどく深刻な天災、飢饉が発生し、何も食べるものがなかった。ジッテン・サムゴンは一匹の犬がたくさんの子犬を連れており、食べ物がないため今にも死にそうなのを目にされ、誰も見られない場所で、ご自分が食べたものを吐き出して犬に与えられた。ジッテン・サムゴンの幼い頃は、我々のようにキャンディがある訳でなく、黒砂糖があっただけだが、それさえも食べず、道端で食べ物を求める盲人を目にし、黒砂糖をその口の中に入れてやった。このような慈悲にあふれた故事はたくさんある。
ジッテン・サムゴンが19歲の時、囊謙(ナンチェン)地区にも閉関する場所があった。以前は知らなかったが、最近ようやく写真を見ることができた。ジッテン・サムゴンはそこで三年間閉関なさった。非常に聡明であられた。22歲より、そこで三年間閉関なされ、25歲で初めてその上師パクモドゥパの名前を聞いた後、眠れなくなってしまった。その日の夜目を覚まし手伝ってくれる人を見つけ、敬虔な心で夜通しチベット帕竹山へ急ぎ上師にお目にかかった。さらにもう一つの話については、本日夕方7時に言おうと思う。ここでは一先ず言わないことにする。
ジッテン・サムゴンは夜通し急ぎ帕竹寺へ至った後、合わせて33ヶ月と13日間上師に従った。その後上師は円寂された。29歲の時、山南地区耶瓊浦の山の洞窟で三年間閉関なさった。その後また帕竹寺へ赴き、帕摩竹巴の舍利塔の繞行と供養を行った。ご自身の閉関房をお持ちだったが、それは石を用い、舍利塔の周囲をすべてよく作ってあった。
続いて、歩いてラサへ行かれた。ゆっくり歩けば恐らく一年かかる道のりだ。大昭寺、惹瓊、達隆など多くのところへ行かれた。二年の後にお戻りになり、再度閉関なさった。つまりこの三年間、ジッテン・サムゴンは真の閉関をしていなかった。もちろんたくさんのことは行った。だが真の修行を了悟してはいなかったので、最後の二年に多くの修行を行った。その功徳は、この最後の二年で成就したのだ。「このように継続して行うなら、開悟にはなんの問題もない」とこのように仰せになった。
34歲になるまで、完全な比丘戒を受けたことがなかった。なぜならたくさんのところへ行ったので、食事にさえ事欠いたからだ。そのため35歲になって、ようやく完全な比丘戒をお受けになられた。35歲の時、パクモドゥパには500人余りの宝傘の大弟子がいたが、帕竹寺の住持になるよう、みなジッテン・サムゴンを推薦した。ジッテン・サムゴンは三年間住持を務めた。ある時、パクモドゥパが夢枕に立たれ「自分には古い敷物がある。この敷物を彼らに与えてほしい。そしてチベット中部へ行くように。そこには多くの仏業がある」と伝えられた。そのため、その日の晚、帕竹寺の主要なラマを招集し、自分は住持の位を捨てると告げた。ラマ達は住持を続けるよう求めたが、その日の晚、三、四人の信頼できる者を伴い、チベット中部へ向かった。その後、ある人が、直貢という名の、ある非常に良い場所があるというのを聞いた。それを聞き非常に喜び、そこへ向かった。
当時、直貢という地では、パクモドゥパの弟子が円寂しており、30数人の弟子がいたが、ジッテン・サムゴンが来ることがあったら、この土地を与えるよう、そのパクモドゥパの弟子は弟子達に言い残していた。この人が円寂した後、ちょうどこの因縁があり、彼らは直貢梯というこの地をジッテン・サムゴンに贈った。その日、ジッテン・サムゴンは閉関房の建設を始め、直貢寺を建築し、直貢噶舉を始められた。1179年、直貢噶舉の初めての寺院が基礎を定め、こうしてこの地に直貢噶舉が誕生したのだ。
ジッテン・サムゴンは39歲の時、チベット・ラサ北部牧区の囊措へ行かれた。そこには大きな湖がたくさんあり、かつてのチベット国王の孫もいた。ジッテン・サムゴンは彼らの老師となり、彼らはジッテン・サムゴンを供養申し上げた。ジッテン・サムゴンはそこに住むことを願わず、帕竹寺のラマに招請され、帕竹寺へ行った。当時の国王は少なくない供養を行ったので、人を派遣してネパールで大きな金宝傘を作らせ、帕竹寺のパクモドゥパの舍利塔の上に置いた。41歲の時直貢へ向かい、44歲の時には第一世カルマパが直貢へお越しになり、二人は顔を合わせた。カルマパはジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の化身だと仰せになった。実はチベットの第一の転世は、第一のカルマパから始まったのだ。
実はカルマパだけがジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の化身だと仰せになったのではない。かつてスリランカにいたある羅漢はとっくに知っていた。ある北インド・カシミールの学者が、当時仏教はインドでイスラム教の迫害を受けていたため、多くの学者がチベット、インドネシア、南アジアの各国等に逃げて来ていた。当時ある兄弟が、スリランカに非常に有名で神通を有する羅漢がおられると聞き及んだ。そのため彼らはそこへ行ったが、一ヶ月待ってようやく会うことができた。羅漢は彼らに、チベットへ行くよう言い、彼らに二輪の花を渡した。一輪はラサ大昭寺の文成公主がもたらした釈迦牟尼仏像に献上し、もう一輪は北部直貢のリンチェンベ(ジッテン・サムゴン)に献上せよ、この方は龍樹菩薩の化身だと言った。
カルマパも、ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の化身だと考えていたので、ジッテン・サムゴンを二世龍樹菩薩だと書いている人が非常に多い。45歲の時、帕竹寺の両側の裕福な小土司(二人とも帕竹寺の功徳主)が、恐らく内部の問題のために殴り合いしていたが、ジッテン・サムゴンが彼らの間の問題を解決してやったので、帕竹寺は団結した。当時彼らの中には、帕竹寺は自分たちのものだと考える者がおり、争いが起きていたが、ジッテン・サムゴンが帕竹寺を手にしたので、中で再び争いが起きることはなかった。後にジッテン・サムゴンは二百人余りのラマを派遣し梯寺を再建した。これ以後、上師の帕竹寺(丹薩梯寺)は、直貢梯寺といっしょに直貢噶舉の主要な寺院となった。これはその時から始まったのだ。
後に、ジッテン・サムゴンは直貢梯寺へ行き多くの法を講じた。夏の法と冬の法があり、共用と個別の十人法と三人法があり、たくさんのものが始まった。49歲の時、病に罹り健康を害し、そして閉関に行った。その時にはたくさんのラマがいた。閉関を始めた時、千人のラマを受け入れようと考え、千人のラマを受け入れた後、全部を修行閉関に送り出した。ちょうどその時すでに千人を超えていた。とても小さいラマも三百人余りいた。かつてラサには、基本的な学習を教授する場所があったので、彼らをそこへ行かせた。
その頃、ちょうど帕竹寺の信徒が舍利塔を建てようとし、比較的大きな寺院を作ろうとしていた。そこでジッテン・サムゴンは若いラマをたくさん派遣した。年齢が高い者はみなガンディセ、ラキなどで閉関させ、長く修行した者はみな送り出した。彼自身は閉関したので、寺院へは行かなかった。寺院内でジッテン・サムゴンが暮らした場所のあらゆる物品を人にあげてしまい、何一つ残さなかった。そして山の洞窟に入り出て来なかった。直貢梯のラマ達はみなそこへ行き、寺院へ来るよう請うたが、自分は閉関しているとして、彼らが寺院でジッテン・サムゴンは山上にいるか、彼らが山上でジッテン・サムゴンが寺院にいるかを彼らに選択させた。彼らは自分が山上へ行くと言ったため、ジッテン・サムゴンは寺院へ行き、他のラマは山上で閉関した。
ジッテン・サムゴンは五十代の頃、病に苦しみ、9ヶ月間痛みに苛まれた。手足が腫れたと言うことだ。だが後に、ある瑜伽修法のおかげで良くなった。続いて、ジッテン・サムゴンは特別な著作『一意』の執筆に取り掛かった。当時チベットには修行派と学者派があったが、学術見解の差は甚大で、そのためジッテン・サムゴンの主な弟子は非常に多くの問題を取り上げていた。それは全部で150にもなった。ジッテン・サムゴンはそれに一つ一つ回答し、修行経験と学術的考えを総合した150の回答となった。彼にも少なくない論争がある。学術界の見解からすれば通らないものだ。修行の経験を経なければ了悟することはできない。サキャ等を含む多くの問題について、かつては論争があった。そのためジッテン・サムゴンは60歲の頃に、この150の問答集を完成させたのだ。今ではジッテン・サムゴンの著作は13部にもなる。現在では整理され、一段一段に通し番号が振られている。70歲の頃、ガンディセは主要な地方で、直貢にはおよそ55550人がいた。
直貢のある弟子が以前ブータンにいた。札日山で閉関を終えた後にブータンへ行ったのだ。当時ブータンにはまだ国教がなく、ボン教だけがあった。彼が行った後にチベット仏教が国教となったのだ。その頃、国王はおらず、彼は政治と宗教の最高指導者となった。当時、彼はジッテン・サムゴンを七回供養申し上げたが、最後の一回の際に、すべてのものを100セットずつ供養した。ラグドゥン100セット、ワンドゥン100セット、孔雀の羽で作った大宝傘蓋100セット等だ。これらの詳細な内容は直貢噶舉の歷史には記載されていない。多くの直貢人が知らないのだ。私は一人の学者を見つけ出した。彼の著作は中国の整理を経てすでに五十部余りもある。ある非常に有名な学者だ。今回私はジッテン・サムゴンの伝記を整理する過程で、詳細な部分も書き加えた。今後そなた達も読むことができるだろう。
その際は彼が請法したので、曼荼羅を供養した。計4回行ったが、その時が最後の一回で、ジッテン・サムゴン60歲の時だった。直貢梯寺の下方では、供養の列の先頭が到達しても、列の後ろの方はまだブータンで、品物をヤク、牛馬に載せており、一頭ずつ進んでいた。そのため彼らは、先頭は直貢梯寺にもう到着したのに、最後尾はまだブータンにいる、と言った。これらは詳細な歷史だ。
その頃ラキには55550人の出家人がいた。書にも書かれている。あるラマが小石を用いて一人一人ラマを数えたと言うのだ。そうしたところ55550人となった。書中に記載がある。最後にジッテン・サムゴンが円寂された時、直貢梯寺には18万人がいた。これは五世ダライ・ラマの伝記でも触れられている。ジッテン・サムゴンの不思議なところは、75歲で円寂された際、円寂の予定の日は旧暦の4月25日だったが、数日とどまることを周囲が望み、それを受け入れられたので、27日に円寂されたと言うのだ。各項目に言い遺された後、周囲が「何日を紀念日にしたら良いでしょうか?」と訊ねたところ、「旧暦の25日(つまり明日)」と答えられた。これがジッテン・サムゴンの簡略な歷史だ。詳細については、直貢噶舉ジッテン・サムゴンの伝記で読むことができる。
この機会に座禅、禅について言おう。座禅、禅とはなんであるか、知っている人は多い。禅について我々は適当に考えてはならない。禅については、「示」と「単」が単一の思想を表し、二つの思想であってはならない、とみな知っている。パクモドゥパは「無二が大手印」だと仰せになった。二つのもの(「そうだ」と「そうではない」、「良い」と「悪い」等)があると言うなら、それは大手印ではない。無二が大手印なのだ。一つのもの、無二であり、一体であり、専一なのが大手印なのだ。これはおおよその観念だ。
我々直貢が座禅する際には楽にする。それは多くの人にとっては容易ではない。五分間座禅を組むだけで、あれこれ考えてしまう。仕方がない。どのようにするかには方法がある。それは観呼吸(呼吸を見る)だ。数息(呼吸を数える)が小乗の修行だと多くの人が言う。「ヴィパッサナー (vipassana) は小乗の修行、南伝の教導」だと言う。このような言い方は正しくない。釈迦牟尼仏がチベットで翻訳された『大蔵経』律部の第二内には、いく種類もの数息教導がある。だが我々はこの種のやり方を真に発揚してはいない。法本にはあり、『大蔵経』内にもあり、チベット語の翻訳もある。完全な数息法の前後は書かれていないが、内容はいくつもある。一つは舍利仏が仰せのもので、もう一つもある。
最初に、釈迦牟尼仏は世に出られた後に舍衛城にお暮らしになり、七年間苦修されたが、何も見つけられなかったため、苦修を捨て、観呼吸により座禅を始め開悟されたと言う。そこでは呼吸について少なくない記述がある。つまり座禅の功夫を養わなければならないのだ。座禅ではあれこれ考えてはならない。起心動念せず専一に思想する。どうすればこのようにできるのか?それは呼吸から、精力を呼吸に集中するのだ。呼吸にも長いものも短いものもある。どちらも行っても良い。
普段呼吸する時、吐き出し、吸い込む。吐き出し、吸い込む。ここに集中する。これも容易ではない。ベトナム、フランスではこれを専ら言う。数息すれば良いと言う。呼吸一回で一を数える。1、2、3、4⋯⋯から10まで数え、次に再び1から10まで数える。基礎がない人にとっては、最初は集中することは難しい。この10まで数息する方法を用いてみるがいい。最初、数え始めた時には5、6まで数えたところで、どこかへ行ってしまうだろう。1、2から始め10まで数え、再び10回数え、さらに10回数える。だんだんと長くなり15回まで数えられるようになる。そして徐々に数える必要がなくなり、自然にある期間が過ぎると、息を調整でき、自然に定まるようになる。この時期になる度に、数えてみよ。様々な方法を行ってみよ。そうした方が良い。続いては薈供の儀軌を行う。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に点灯供仏を恭請された後、自ら灯供を壇城に捧げられた。
続いて、リンポチェは点灯供仏され、衆生を代表し点灯供仏するよう出家弟子衆等に指示された。
八供女が献唱し、清らかで透き通った歌声で上師と仏菩薩を供養申し上げ、また衆生の感謝を表した。その後供茶、供飯儀軌が行われた。
次に薈供の儀軌を行い、参会者は誰もが法会供品を一つ受け取り、法会において上師、仏菩薩と共食する得難い殊勝なる因縁を賜った。
リンポチェは参会者を率いて迴向文、法王長壽祈請文を念誦され、法王とリンポチェは参会者を率いて『求生極楽浄土祈請文』と『発菩提心』を念誦された。
修法迴向が完了後、リンポチェは弟子衆等を率いて法王に感謝申し上げ、法会は円満に終了した。リンポチェは法座を下りられる直貢チェ・ツァン法王をお支え申し上げた。寶吉祥の弟子は直貢チェ・ツァン法王の殊勝なる修法に感謝申し上げ、リンポチェが殊勝なる因縁を賜与くださったことに感謝申し上げ、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王を恭送申し上げた。
2020 年 06 月 19 日 更新