お知らせ

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターで「阿弥陀仏無遮大超度法会」を主法し、円満に終了

2014年8月24日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで第十回目に「チベット仏教直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大超度法会」を主催されて、合計1316人はこの殊勝な済度法会に参加しました。祖師ジッテン・サムゴン、歴代伝承上師、三恩根本上師直貢チェツァン法王、直貢チョンツァン法王及びアキ護法の加持の下に法会は清浄で円満となり、功徳は無辺な衆生を広く被って、参列者の皆に法喜に満たされました。

2005年から今まで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは10年連続して自ら殊勝な「チベット仏教直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大超度法会」を主催します。10年で参列する信者の総数は延べ15万人を超えました。無辺無量無数の有情衆生を利益し、直貢噶舉派は多くの台湾民衆に広く知らせて、直貢噶舉派法脈を弘揚するだけではなく、直貢噶舉派法脈は永遠にこの世に伝える因縁を備えます。

午後二時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは薫香炉、楽器、宝傘の先導及び護送の下、八吉祥図が印刷された花弁を撒き散らしている白い絨毯の上を歩いて壇城に上がり、諸仏菩薩に恭しく頂礼しました。また、尊勝なる直貢チェツァン法王の如意寶法座にハタを献上し、灯をともして仏を供えた後、法座に上がりました。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法する前に出家弟子が一切衆生を代表し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上して供養しました。宇宙の中に最も貴重な宝物で上師及び仏菩薩に供養しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示されました。法会が始まる前にハタを献上するのは主法上師は歴代上師及び諸仏菩薩を代表し、衆生の供養を受けます。そうすれば、衆生は福報があってこの法会に参加できます。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは浄土へ往生する条件及び修法の修行者は必ず行った修行次第を開示されました。この済度法は尊勝なる直貢チェツァン法王は自らリンチェンドルジェ・リンポチェに伝授しました。この法の殊勝及び得難いことを分かりました。リンチェンドルジェ・リンポチェは特に今回法会の規模が小さくなる原因を開示されました。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは次の通りに開示されました。今日修めるのは阿弥陀仏速証浄土法です。つまり済度法です。多くの人はとても簡単だと思って、読経や仏号を唱えれば、衆生を助けて済度できると思います。リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げましたが、若し他の国へ移住したいなら、移住する前に色々なことを準備しなければならないです。第一は現地の言葉を習い、第二は十分な金が必要、第三は決心があります。他には多くの手続きを通して、申し込みが必要です。

故に阿弥陀仏浄土へ行くと、阿弥陀仏を唱えれば、必ず行くわけではないです。《阿弥陀経》にははっきり記載されましたが、浄土へ往生する人は必ず生前には十善法を修める人です。十善法とは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪(自分が得るべき物以外を取らない)、不瞋(人を憎まない)、不痴(因果を深く信じる)です。十善法を修める人は尚更《阿弥陀経》に説かれた「少なる善根、福徳の因縁によって、浄土へ生まれることを得ベからず」です。此の世また過去世の中に福(人天の福ではなく、修行の福)、徳(修行から得る功徳)及び因縁(阿弥陀仏、上師の縁)などこの条件があって、発願すれば、往生できます。

《阿弥陀経》には阿弥陀仏の仏号を唱えるとありますが、如何なる唱えることを説かれません。唯往生する前に若し一念、二念と説かれます。念とは何回を唱えることではなく、考えです。経典にも往生する前、若し一日、二日と説かれます。此れは往生する前1日、2日至る7日まで閉関修行と表しますが、この修行を通した人だけ、自分は能力があって阿弥陀仏国へ生まれることを出来ます。むしろ《阿弥陀経》或いは《観無量寿経》でもこの浄土の経典には亡者のために阿弥陀仏を念じれば、必ず往生できると説かれません。

《地蔵経》により、若し人は往生すれば、眷属は亡者のために広作仏事(仏事を広く修する)とあります。「広く」とは寺院に灯を点すことではなく、仏の教導に従って、亡者のために福報を累積する事を行います。供養、布施、懺悔などを含めます。そうすると、亡者は福徳因縁を得て善道を往生できます。決して紙の蓮を焼く、往生布団を被る、仏号を唱えれば、往生できるわけではないです。仏を学ぶなら、仏が説かれる事に従うべきです。仏経に説かれないのは必ず間違いです。釈迦牟尼仏が伝えた仏法から見えますが、亡者を済度すれば、亡者は必ず福徳因縁を具えなければ、ならないです。若し亡者は福徳因縁がないと、眷属は亡者を助けて求められます。

例えば、目犍連尊者は母を救うため、釈迦牟尼仏にの開示を求め、如何なる母に餓鬼道から離れます。釈迦牟尼仏は目犍連尊者に教えて、全ての閉関修行を終了した僧衆に供養します。釈迦牟尼仏に従う人は決して一般の凡夫ではありません。仏経には嘗て仏の側に1200人の弟子があると説かれます。この1200人の弟子は全て阿羅漢果を証しました。目犍連尊者はこの1200人の阿羅漢に供養したから、功徳、福報があって、母を助けて餓鬼道を抜け出す事ができます。

この物語により、理解できますが、目犍連尊者は自分が阿羅漢であり、神通第一なのに母を助けて済度出来ないです。故にどんな事をしても全て根拠が必要です。仏を学ぶことも仏が説かれた事に従う必要です。若し人を頼んで仏号を唱えれば、亡者を済度できると思うなら、此れは正しいではありません。唯好い所は彼のために唱えた後、彼の未来世に因縁を持たせます。リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年始めて仏法を広めてから今までに多くの人は他の所で仏経を唱えた事があるのに解決できなかったです。しかし、彼達は嘗て仏を唱えたから、因縁があって寶吉祥に来る事が出来ます。

若し阿弥陀仏本尊で衆生を済度すれば、密法により、修行者は閉関修行の中に少なくとも100万回阿弥陀仏真言を唱えなければならないです。閉関修行とは一定の時間に必ずなし遂げます。若し三ヶ月間に100万回を唱えないといけないなら、この三ヶ月間に関房に死んでも離れることが出来ません。100万回をなし遂げた後、不共四加行を修めます。(10万回大礼拝、10万回百字明、10万回マンダラ供養、10万回上師相応法)更に上師から阿弥陀仏の灌頂、口伝を授けられ、閉関修行を通して、自らはっきり生死を把握できるなら、始めて人を済度出来ます。簡単に言えば、ある人をある所へ送りたくて、若し自分は行った事がないと、如何なる説明し、人を連れる資格があるでしょうか。そなた達は浄土について、全く分からないと、如何なる自分が仏を唱えれば、人を連れると言えるわけではないでしょうか。

多くの人は済度法会に参加した後、病気が治れるや夫と子女は教えに従えると思いますが、我々が済度法会に参加するのは生々世々に沢山の衆生を傷付けたから、障碍になって我々に此の世に浄土へ行かせないです。済度法会に参加するのは彼達に我々一生の修行を妨げないようを望み、我々にいい日々を過ごせるわけではないです。だから、今日法会に参加する人が若し此の世に生死を解脱することを決めなく、唯加護を求めれば、今日の法会はそなたに対して、唯人天福報を少し得て、此の世に決して使えないです。若しそなたは生死を解脱する事を発願すれば、そなたは今日法会に参加し、衆生を助けて、因縁を得て済度されるから、今後そなたも因縁を得て済度されることが出来ます。

若し自分の病のため、自分の冤親債主、妊娠中絶の胎児を済度し、胎児に自分を恨まないよう、夫婦の縁がよくなるためなら、そなたを勧めて、法会に参加しないほうがいいです。それは役に立たないですから。仏は衆生を救済するのは世間に於いてこのような短い苦しみではなく、生々世々の輪廻の苦しみを救済します。未来世に再び輪廻しないなら、此の世に一切の悪を断たなければならないです。わずかな悪を作っても阿弥陀仏の所へ行く資格が無いです。

仏経に沢山の人は往生前に大懺悔心を起すとあるのを思わないで、この人はめったに少ないです。そなた達に対して、無理です。それはそなた達はあまり苦しくないですから。仏経に説かれたとおり、「富貴では修行が難しい」。台湾では最も富貴の所ではないですが、少なくとも台湾では今戦争が無く、皆は安らかに暮らし楽しく働きます。だからそなた達は幸せすぎなので、世間ではわずかな事に遭えば、大変な苦しみと思います。福徳因縁の定義とは全て関係があると関係が無い衆生も生死を解脱させるためです。此れは仏の願いです。そなた達は今法会に参加して、若しこの願いがあれば、始めて仏菩薩の願いと結べます。

多くの人は法会に参加して、冤親債主を済度すれば、自分がよくなれると思います。此れは余り正しくないです。釈迦牟尼仏は嘗て一つに比喩を話した事があります。ある部屋の中に沢山なアワビを置きましたが、アワビを除いた後部屋の中に相変わらず臭いを残ります。この臭いはすぐ消えるわけではありません。そなた達も僧ですが、済度法会に参加した事があるから、冤親債主を済度したからもう大丈夫と思わないです。実はまだ大丈夫ではなく、そなた達の身では相変わらず臭いがあって、消えていません。それではどうすればいいでしょうか。決心を持って修行しなければならないです。

修行とは気性を直すことではないです。気性を直すなら、苦労で仏を学ぶ必要ではないです。本を読むと十分ですが、或いは毎日海を見るや山を見ると、遠くを眺めても快適になります。修行は輪廻の行為を修正します。若しそなたは悪を作らなく、悪を止めて善業が起こると自然に輪廻のことは徐々にそなたを離れます。若しこの気持ちで法会に参加しないと、そなたの祖先及び冤親債主は済度を得てもそなたの修行と関わらないです。修行のためにも関わらず、皆が一生では修行しています。世間法も自分の行為を修正しなければならないです。若しそなたは行為を修正したくないと、簡単に法律を犯します。出世法の中に輪廻の行為を修正します。宗教を信奉する人だけ修行が必要だと思わないですが、世間に於いて、このような多くの人が汚職や法律を犯すとは修行をしたくないですから。事件があれば始めて仏菩薩、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、無事であれば、自分がいい日々を過ごします。自分の貪欲が段々重くなるので、過ちを犯します。釈迦牟尼仏は仏経の中に「叮嚀(言いつける)」と説かれました。意味とは一日中そなたを監督して、一日中繰り返して言いつけています。それはそなた達は本当に業障が深くて重いから、一句を話さなく、しっかり監督しないと、そなた達はもとに戻って堕ちます。

リンチェンドルジェ・リンポチェは9年の阿弥陀仏大法会を主催して、毎年衆生にもはや肉を食べない事を勧めましたが、毎年皆は肉を食べ続けます。広作仏事とは仏が説かれた事を全て行うです。仏が説かれた事を行わないと、法会に参加しても加護を得ません。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日阿弥陀仏大超度法を修めるのはリンチェンドルジェ・リンポチェは阿弥陀仏と約束があって、毎年必ず一回を修めますから。しかし、規模が小さくなります。リンチェンドルジェ・リンポチェは人を済度しませんが、人間を難しく済度しますから、《地蔵経》にはっきり説かれたとおり、宇宙の中に最も済度しにくいのは地球の人間です。剛強自用(他人の話を聞かなく、忠告を聞かなく、理由を探して反駁した)で調伏しにくいです。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの二十数年間に衆生を救済し、本当に深く体得しましたが、鬼を済度するのは簡単で人なら本当に難しいです。人の考えと欲望は最も多いです。法会を行なう時、人が現れるから、衆生はこの縁を起こします。縁があるから、仏菩薩は助けを与えます。多くの人は自分が毎日発願していますが、何故まだ沢山の人は苦しめて、多くの天災があるでしょうか。それは発願しても唯発願だけです。阿弥陀仏と釈迦牟尼仏も発願しますが、因縁、福報がないと、いくら発願しても無駄です。多くの人は何故自分が既に発願したのに相変わらず変わらないと聞きますが、それはそなたが行わないですから。

今日修める超度法会について、済度者は必ず慈悲、功徳を具えなければならないです。嘗てある瑜伽士(在家の修行者)は喪家の前に通して、その中に出家衆が二人亡者を済度しています。瑜伽士が見ると、主法者は能力があるけど慈悲がなくて、心の中に施主がどんな物を持って自分に供養する事を考えています。もう一人の小沙弥は慈悲があって、亡者が済度を得ると望んでいますが、能力が無いから、亡者を済度出来ません。瑜伽士は心で慈悲を持って、亡者を済度したいけど、亡者のために因縁福徳を播く必要です。だから、喪家に「バター茶を一杯布施できるでしょうか」と聞きました。喪家は瑜伽士にバター茶を一杯布施して、瑜伽士が心の中に此れは亡者を代表した供養と考えます。瑜伽士はバター茶を飲むと、亡者を助けて済度しました。

この物語はとても簡単ですが、意味が極めて深いです。まず若し供養、福徳が無いと、亡者を助けたくても助けられないです。更に慈悲があっても功徳がないと出来ませんが、慈悲がなくて功徳があっても出来ません。そなた達は必ず聞きますが、如何なる慈悲、功徳があるかどうか分かるでしょうか。それは修行者は通常の行為を見て、法会を行なう時にお金を払う必要かどうか、いつも広告で宣伝するかどうか、功徳を貪るかどうかを観ます。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一生に功徳を貪らなく、唯ゆっくり行って頑張って行っています。仏菩薩が分かればよいです。だから、済度法会に参加するのは決して仏を念じて、仏を拝む事ではないです。特に今日の済度法は阿弥陀仏が自ら伝授した密法であり、公の場で伝授しなくて、そなた達が分かるような顕教に於いて使った読経、拝仏の方式ではありません。読経、拝仏は済度出来ないわけではなく、唯かなり長い時間にかかる必要です。

皆は「梁皇寶懺」を分かりますが、寶誌公は100人余りの出家衆を率いて、千仏を拝んで続けているから、梁武帝の妃に畜生道から天道へ行かせました。皆は仏経の中に多くの物語を読むと、その中に阿弥陀仏の所へ済度するのを説かないです。釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介する時、時間はもう足りないため唯済度法を釈迦牟尼仏の叔母に伝授しました。この法は「浄土十六観」です。その後修める人はもういないです。今日修める法は若し修法者の自身がポワ法(ポワ法とは此の世往生する時に確実に阿弥陀仏へ行ける成就法)を成就まで修めないと、阿弥陀仏大超度法を修められないです。若し累世の因縁がないと、そなた達はこの法会に参加しません。既にこの法会に参加したから、大慈悲心を起して、自分の些細な事のためではなく、一切の衆生が浄土へ往生できるよう望みましょう。阿弥陀仏の広い願いと同じようであれば、未来は自分が阿弥陀仏に引かれます。

そなたが修行するかどうかや上根器かどうかを問わず、今日この法会に参加すれば、浄土へ往生する因を播きます。慈悲の心があれば、上師と阿弥陀仏が一切衆生を助けるのを望むなら、今後修行者や上師がそなたの往生を助ける因を播きます。個人的な考えを持つなら、感情、妊娠などため、今後上師の助けを得る果報が現れないです。これはとても重要です。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて法を修めます。チベットではこの法を修めると一日にかかる必要です。それは沢山の密法の儀軌がありますから。そなた達は必ず可笑しいと思いますが、何故チベット仏教密法の壇城に沢山の物を置くでしょうか。それは修行者が大きい法を修める時、現場の人のため修めるだけではなく、六道の中に一切衆生のためです。だから、多くの儀軌、法器が必要で、沢山の本尊、護法、勇父、空行母の助けが必要ですから、壇城に沢山の物を置く必要です。

阿弥陀仏大超度法は尊勝なる直貢チェツァン法王が自らリンチェンドルジェ・リンポチェに伝授しました。法本の内容では一部分はある時期に伝承が絶えて、直貢チェツァン法王が纏めた後、リンチェンドルジェ・リンポチェに伝授しました。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝授する時、とても簡単でした。唯一回を唱えた後、法本をリンチェンドルジェ・リンポチェに渡しました。リンチェンドルジェ・リンポチェのように一日中そなた達を監督していません。尊勝なる直貢チェツァン法王が口伝した後、リンチェンドルジェ・リンポチェに修めさせました。若し分からない所があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び教示を求めます。それだけです。

若しリンチェンドルジェ・リンポチェは過去世にこの根器がないと、この法を修められません。若し入定出来ないと、修め難いですが、速やかに3や4時間以内にこの法を修められません。そなた達は止らなく唱えるのはとても簡単だと思わないで、実はリンチェンドルジェ・リンポチェが唱える時に絶えずに観想しています。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を少し考えてください。個人のエゴの考えのため或いは沢山の考えを持たないでください。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは始めて法を修めます。各修法の段階に奥深い修法の儀軌と意義を分かりやすい言葉で開示しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示しました。先程唱えたのは発心、発願及び阿弥陀仏の浄土、宮殿と上師が本尊と無二無別を紹介しました。更に修めたのは法身の本尊を壇城に八供の供養を受けるよう恭しく迎えました。全ての供養は意味があります。例えば、音楽を供養し、一切善知識、如来及び眷属を供養して、永遠に供養します。そして恭敬心で供養して、殊勝な仏果位を賜って欲しいです。供養はお金持ちや健康のためではなく、成仏するためです。供養を行った事があれば、未来ではある世に必ず仏果に成ります。続いて、供養し続けます。先程修めたのは全部供養です。何故供養が必要でしょうか。つまり、自分と衆生を助けて福報を累積しますから。全ての供養は意味があります。例えば、灯を供養すれば、一切闇を除けて、光明になり、無辺な虚空に充満します。供養はとても重要です。

法会の中に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者を率いて、阿弥陀仏真言を唱えました。参列者に殊勝な機会を得させて、リンチェンドルジェ・リンポチェ及び千人と共同に法本の真言を唱えて、八供女が歌った献供歌を聞けて、諸仏菩薩が広大無辺の加持を得られました。参列者は薈供の儀軌に諸仏菩薩と共同で受用できる得難い因縁を得て、仏を学ぶ資糧と福報を累積できます。

済度の進行時、、リンチェンドルジェ・リンポチェは救いたい往生者の名を参列者に何度も大声でいわせました。また参列者に起立し、壇城の諸仏菩薩に頂礼するようご指示になりました。そして、参列者を率いて、法本の祈祷文を念誦くださって、引き続きに修法し済度しました。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な摂受力と大威徳力は虚空に満ちまして、荘厳な法音は絶えずに木霊して、無数な有情を利益しました。

修法は円満となり、迴向儀軌の進行時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皆に暫く法本を閉めるよう指示しました。更に参列者に次の開示を賜りました。《極楽浄土に生まれしことを求める祈祷文》は歌を歌うことではなく、心で発願しなければならないです。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いてチベット語で念誦しますから、皆は用心に聞いてください。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語及び中国語で自ら《極楽浄土に生まれしことを求める祈祷文》を念誦なさり、法音の中に慈悲及び殊勝な加持力が満ちまして、極めて懇切に一切有情のために祈りました。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは無辺輪廻衆生の苦しみを哀れみ、念誦なさる時には感極まって声を詰まらせ淚を流されて、天地とも感動されました。参列者は上師が弘法利生(仏の教えを世間に広め衆生に利益する)、限らない恩を深く感じて、心から無比な懺悔心及び恭敬心を起しました。多くの弟子と信者は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力に引かれて感謝の涙を流しました。

チベットでは「阿彌陀仏大超度法」の修持には通常丸一日必要だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは不可思議な大禅定力で、わずか三時間余りで修法を円満になさり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは名声を求めたりせず、ご自身の密法修行の大成就及び大慈悲願力を以て無私に弘法なさり、集まったすべての衆生を済度されて無数六道有情を利益しました。参列者はだれもが賛歎し深く感謝しました。

 

 

 

 

2014 年 09 月 12 日 更新