尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年07月19日
仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」および祖師ジッテン・サムゴン著『一意』のご開示
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に登壇され、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」および祖師ジッテン・サムゴン著『一意』について開示された。
リンポチェは法座に登壇された後、百字明呪を唱えられた。続いて、出家衆に指示され、参会者一同を導いて帰依発心、四無量心、七支供養、伝法祈請、『随念三宝経』および『八聖吉祥祈祷文』を唱和した。
その後、リンポチェは長時間にわたり六字大明呪を唱えられた。御身と壇城は黄金色の光に包まれ、妙なる香りがあたり一面に満ちあふれた。参会者一同はたちまち脈輪の振動を覚え、全身が温かさに包まれ、雑念は静まり、心身はかつてない安定と清浄を得て、リンポチェの殊勝なる教えを授かることができた。
リンポチェが六字大明呪を唱え始められた際、会場では多くの人が上師がすでに持咒を始められたことに気づかず、なおも法本を片づけ続け、ざわついた音を立てていた。リンポチェはその様子をご覧になり、一人の弟子に対して退場を命じ、本日の法会への参加を許されなかった。その後も引き続き長時間にわたり持咒を行い、衆生を加持された。
持咒を終えられた後、リンポチェは貴重な仏法の開示を授けられた。
先ほどの弟子が退場を命じられた理由は何か。それは、あなた方が法を重んじず、上師が何をしているのかに注意を払っていないからである。上師がすでに持咒を始めているにもかかわらず、あなた方は自分のことを優先し、法本を片づけ続けていた。私が千遍の真言を唱えるとすれば、あなた方が法本を片づけている間だけでも、少なくとも十遍は唱えている。その十遍は、あなた方とは無関係になってしまう。いったい何をそんなに忙しくしているのか。このことからも、あなた方はまず自分を優先し、その後で仏法を学ぼうとしていることが分かる。
先ほどの弟子が退場を命じられたのは、のんびりとティッシュを取り出して鼻をかんでいたからである。鼻をかむこと自体が悪いのではない。しかし、私の修行経験では、上師が仏法を説き始めたり持咒を始めたりした瞬間に、私は定に入り、ほかのことは一切しない。ところが、あなた方はまず自分のことを済ませ、時間があれば上師が何を唱えているのかを聞こうとしている。だから、どれほど加持しても効果が現れないのである。あなた方は、それで違いはないと思っているのか。仏法とは心の問題であり、表面的なものではない。心にほんのわずかでも恭敬の念がなく、受け入れる心がなければ、それで終わりである。ただ録音された音声が一言流れているのを聞いているだけになってしまう。
仏法では、心の中にこれほど多くの雑念や妄念があれば、善なる法はその心に入ることができないと説かれている。あなた方は、自分の用事が済んでから私の話を聞けばよいと思っている。道場に来て法会に参加しているにもかかわらず集中せず、依然として自分のことを優先している。あなた方が法本を片づけることについては、私は以前からずっと言おうと思っていた。毎回少なくとも一分ほどそのために時間がかかっている。あなた方は、法本を先に片づけてから、落ち着いて法を聞けばよいと思っている。しかし、あなた方はこれほど何度も法会に参加しているのだから、読誦が終われば、私がすぐに持咒を始めることは知っているはずである。それでも、私の持咒には大した意味がないと思い、自分が先にすべきだと思うことを済ませている。その結果、持咒の最初の数遍に込められた加持を受け取ることができないのである。仏法を学ぶには、非常に繊細な心が必要であり、粗忽な者が仏法を身につけることはできない。では、どのような人が粗忽なのか。それは我執の極めて強い人である。
一つ逸話を紹介しよう。法王がインドで法会を開催されたある年、私は法王のお側に座っていた。その時、一匹の蜂が法王の真正面、中央の位置に飛んできた。しかし、法王はそのまま読誦を続けられ、まばたき一つされなかった。あなた方も、私が法座に上がった後にどのような状態であるかを見ることができる。地震でさえ、私は動じることはない。あなた方はまだそこまでできないとしても、自分自身をその方向へ向かって訓練しなければならない。「先に自分の用事を済ませてからでなければ、リンポチェの説法や持咒に集中して耳を傾けることができない」と考えてはならない。一句聞き逃せば、それは一生失われる一句である。人生は短く、時間は一秒一秒過ぎ去っていく。上師がいつまでも存在し、常にあなた方に仏法を説き続けてくださるわけではない。過ぎ去ったものは、もう戻ってこない。だから、皆の心は仏法を最優先に置かなければならない。もし自分という個体を先に置くならば、それでは菩薩道に入ることも、さらには菩薩に触れることさえもできない。しかし、寶吉祥道場は小乗を教える場所ではなく、大乗および金剛乗を教える道場である。大乗と金剛乗の道場とは、あなた方に非常に速やかに福徳資糧を積ませるためのものである。しかし、それに相応して、あなた方が行うべきことは一般の人がすべきこととは異なるのである。
『宝積経』が説いていることは、すべて菩薩がどのような心を持つべきかということである。あなた方が「自分は菩薩修行をしているわけではなく、ただ無事だけを求めている」と考えるなら、いったい誰があなた方を助けるのか。それはリンポチェである。では、なぜ菩薩はリンポチェを助けるのか。それは、リンポチェが菩薩の心を修めているからである。もしあなた方が菩薩の心を理解することも体得することもできないのに、菩薩に助けてもらいたいと願うなら、どのように助けることができるのか。だからこそ、『地蔵経』には明確に説かれている。毎日一万遍の地蔵菩薩聖号を唱え、三年間続けることで、初めて自宅周辺の善なる鬼神がその家を守護するのであり、地蔵菩薩が直接あなたを加持すると説いているのではない。毎日必ず一万遍の六字大明咒を唱えられる人は、ほとんどいない。これは私が言っているのではなく、経典に説かれていることである。もし毎日一万遍唱えれば観音菩薩があなたを守護してくださるというのであれば、上師は存在する必要がなくなる。
なぜ『地蔵経』では「鬼神がこの家を守護する」と説き、「この人を守護する」と説いていないのか。善なる鬼神はどのようにして家を守護するのか。それは、悪しき鬼神や冤親債主が家に入ることを防ぐのである。外へ出ることはできる。ただ、あなたにずっと付き従うという意味ではなく、あなたが眠る時に少し安らかに眠れるようになるだけである。なぜ地蔵菩薩はこのように説かれたのか。それは、あなた方はまだ修行者ではなく、ただ絶えず加護を求めているからである。その場合、あなたを守護するのは鬼神であり、仏菩薩でも、リンポチェでもない。私が仏法を説く時は、経典に基づいて説いている。『地蔵経』には明確に説かれている。だからこそ、なぜあなた方は求めても得られないのか。鬼神自身でさえまだ輪廻から解脱していないのに、どうしてあなたを輪廻から解脱させることができるのか。仏経に説かれている通り、私たちを輪廻から解脱させることができるのは、仏菩薩だけである。上師は学んだ後、その方法をあなた方に教えることで、あなた方は初めて輪廻から解脱することができるのである。毎日願い求めるだけで得られるものではない。『地蔵経』については、以前にも開示したことがあるので、皆もう一度聞いてほしい。(尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによる『地蔵菩薩本願経』の開示)
なぜ地蔵菩薩がおられるのか。それは、人間はどうしても自力では難しいからである。修行しなさいと言っても、実際に行う人はほとんどいない。そのため、地蔵菩薩は慈悲の心から、まずこの一生においてあなた方が地獄へ堕ちないようにされている。地蔵菩薩の誓願は「地獄が空になるまで、誓って成仏しない」というものであり、畜生道や餓鬼道について述べているのではなく、地獄について述べているのである。なぜなら、畜生道や餓鬼道にはまだ仏法を聞く機会があるが、地獄道には決してその機会がないからである。なぜ地蔵菩薩はこのように説かれたのか。それは、衆生が仏法を信じないからである。そのため、救うことのできる者を一人でも多く救おうとされているのである。
『妙法蓮華経』には明確に説かれている。仏菩薩は、鹿が引く車や牛が引く車を用意し、その上にたくさんの玩具を載せて、子どもたちを誘い乗せ、燃え上がる火宅から連れ出された。しかし、途中で車から飛び降り、引き返してしまった子どももいた。それが、まさにあなた方のことである。あなた方は今、後戻りしている。それなのに、自分は修行していると思ってはならない。あなた方は「外では、ここまで厳しく説いていない」と言う。しかし、当然である。外の多くの場所では信者を求めているが、私は弟子を求めているからである。信者になりたいのであれば、ほかの仏寺へ行きなさい。ここにいる必要はない。なぜなら、私はすべて仏経に基づいて仏法を説いているからである。
もう一度あなた方に注意する。毎日六字大明咒を唱えていても、菩薩道を学ばなければ、観音菩薩があなたを救いに来てくださると思ってはならない。確かに『普門品』には、観世音菩薩は大慈大悲であり、声を聞いて苦難を救うと説かれている。しかし、「聞」とはどういう意味なのか。それは、観世音菩薩の名号を唱える時、真摯で切実な慈悲の心をもって唱えることであり、その時初めて観世音菩薩は聞くことができるのである。そうでなければ届かない。なぜなら、観音菩薩の誓願力とはそのようなものだからである。あなた方は、観音菩薩はとても慈悲深いと思い、絶えず願い求めている。しかし、観音菩薩はそれほど厳格ではないとしても、やはり条件はある。ほかの本尊であれば、さらに厳格である。何が厳格なのか。それは、仏法の中で説かれている条件を満たしてこそ、一人の修行者と言えるということである。だから、多くの人がいつも法を求めに来るが、私は「いったい何の法を求めているのか」と言う。リンポチェはすでにあなた方に多くの法を授けている。『仏子行三十七頌』をあなた方は完全に実践できているのか。できていないのに、なぜさらに法を求めるのか。『仏子行三十七頌』は仏法の根本であり、基礎である。一つ一つの偈は、「仏子行(仏子としての行い)」を説いている。つまり、仏弟子であるならば必ず実践すべき行為なのである。それを実践していないのに、何のために仏法を求めるのか。上師がもっと多くのことを教えてくれれば、自分は悟ることができると思っているのである。
先ほどの仏経にも説かれている。悟りは因縁に随って得られる。では、どのような因縁なのか。それは修行の因縁であり、徐々に悟りへ至るのである。あなた方は一気に悟る人間ではない。皆、自分の心に問いかけてみなさい。毎日『仏子行三十七頌』によって自分自身を反省している者がいるのか。毎日実践していないのに、なぜさらに法を求めるのか。あなた方が帰依した時、私はこう説いた。上師が法を伝えているのに、自ら修行しないことを「懈怠(けたい)」という。懈怠する者には、もはや法を伝えない。なぜか分かるか。絶えず法を伝え続け、より高い法を得れば得るほど、その果報はさらに重くなるからである。リンポチェはあなた方を害したくないのである。「不共四加行」を学び、修め終えれば、自分はすぐに何か特別な存在になると思ってはならない。そうではない。基礎がしっかり築かれていなければ、風が吹いただけで家は倒れてしまうのである。
今日から始める。もしあなたが自分を私の弟子だと思い、すでに帰依したと思っているのであれば、これから先、『仏子行三十七頌』によって毎日、自分の身・口・意を反省しないなら、私はアキ護法に頼んであなたを追い出すこともできる。私は弟子を必要としていない。ここに残って何をするのか。毎日私をこの場に縛りつけ、身動きできなくするだけではないか。あなた方が仏弟子としての基準を満たせば、法は自然にあなた方の前に現れる。しかし、あなた方はそれを実践せず、一日中、前にひざまずいて根拠のない話をたくさん述べ、「もっと多く学べば、もっと良く修行できる」と思っている。それは不可能である。『仏子行三十七頌』は、すべての仏弟子が必ず実践すべき基準である。それを実践していなければ、あなたは仏弟子ではない。すでに帰依していても、実践できていないなら、仏弟子ではなく、ただ帰依した信者である。その場合、あなたにできることは一つだけである。供養することであり、もう法を求めてはならない。法を求めても修行の成果が現れなければ、必ずまた「上師は法を伝えてくれない」と上師を責めることになる。あなたが本当に器のある者であれば、自然に法は伝えられる。例えば、法王は自然に私を閉関へ導き、さまざまな修行をさせた。法王が私にインドの法会へ参加するようにされたのも、私を加持して福報を増やすためではない。私がどのような者なのか、法を受ける器があるのかどうかをご覧になっていたのである。
あなた方は本当に変わらなければならない。毎日これまでと同じように安穏な生活を送り、私が話したことを誰も心に留めていない。『宝積経』にも明確に説かれており、『仏子行三十七頌』にも明確に説かれている。「親族や味方への執着は、水の流れのように揺れ動く」(2002年9月22日、リンチェンドルジェ・リンポチェによる『仏子行三十七道品』第一品・第二品の法話より)あなた方は実践できているのか。例えば、ある江姓の弟子の息子が仏法を学びたいと思った時、彼女は無理に留学へ行かせようとし、「もう申込金を払った」と言った。リンポチェはその弟子に尋ねられた。「お金の方があなたにとって大切なのか。それとも、その学校が息子に卒業後、月収20万元を稼げるようになると約束したことの方が大切なのか。あなた自身、この一生ですでに多くの間違いを犯してきた。どうか子どもまであなたと一緒に間違わせないでほしい。もしあなたが言うことを聞かないなら、私はあなたを追い出す。私はもう十分あなたを助けた。あなたに対して何の借りもない。」
あなた方はまったく言うことを聞かない。年初に株式投資をするなと言った時も、ある弟子は聞かず、数百万元を投じて投資信託や株を購入した。私は株を買うこと自体に反対しているのではない。ただし、長期投資の株を買うように言ったのである。例えば、私には二銘柄の株がある。それは基金会へ寄付したものである。購入した時は十数元だったが、今ではおそらく四十数元になっているだろう。二つ合わせれば数百万元になる。私はずっと動かさず、毎年配当を受け取っている。リンポチェは会計師の弟子に尋ねられた。「私が寄付した二つの株は、現在およそいくらの価値になっているのか。」(報告:「リンポチェが寄付された二銘柄の株は、現在およそ台湾ドル400万元ほどの価値があります」)私が購入した時は数十万元に過ぎなかった。しかし、利益を得たとしても、それは自分のためではなく基金会へ寄付したのである。あなた方はそれができるのか。手放すことができるのか。二つの株をそのまま持っていれば、毎年配当を受け取ることもできる。基金会に渡さず、自分のものにすることもできた。しかし、私は一つのことを信じている。「苦労せずに得られるお金はない。自分は運が良くて、突然お金が入ってくるということもない」と。私たち広東人には、「財が多ければ、身体が悪くなる」という言葉がある。必ず何か一つを代償として失うものがあり、すべてが良いままになることはない。あなた方が今、仏法を学ぶということは、株の売買や投資を禁止されているという意味ではない。しかし、貪ってはならない。リンポチェを見習いなさい。二つの株を買ったら、そのまま置いておき、値上がりしたら寄付するのである。あなた方にはそれができるのか。結局、皆惜しくて手放せないではないか。
それなのに、私に向かって「申込金を払った」と言い返す。リンポチェは江姓の弟子に尋ねられた。「息子が仏法を学びたいと言って、泣き崩れるほどだったことをあなたは知らないのか。人が仏法を学ぶことを妨げる罪がどれほどのものか、あなたは分かっているのか。母親としてのあなたの考えでは、息子は留学から戻って初めて将来があるということだろう。しかし、どのような『将来(お金)』なのか。それは、あなたが仏法を信じていないということを表している。それなのに、ここに残って何を学ぶというのか。私は留学したこともない。しかし、今あなたは私のために働いている。あなたは本当に恩を忘れている。これは家庭の問題である。私はもう関与しない。あなた自身で処理しなさい。信じないのであれば、去りなさい。去った方があなたにとって楽になるのではないか。なぜなら、あなたは完全に仏法を受け入れていないからである。あなたは昔から今まで、ずっと言うことを聞かなかった。あなたを首にはしない。これからも出勤してよい。」
経典曰く:「持戒生彼寂靜心。」
この言葉は非常に重要である。つまり、前に述べたことをすべて実践できた時、心が戒を保つことによって、「生彼寂靜心」(その寂静なる心を生じる)のである。戒・定・慧であり、戒を修めることによって定が生じる。戒を守らない者には、決して定は生じない。例えばあなた方は、法本の読誦が終わると、すぐに片付けてしまい、音を立てて上師の持咒を妨げている。それは戒を守っていないことである。もし上師の定力が十分でなければ、あなた方のその音を聞くだけで影響を受けてしまう。あなた方は「大したことではない」と思い、自分のことを先に済ませようとする。しかし、まず自分自身の行いを整えてこそ、上師の持咒を一心に、よく聞くことができるのである。すべて自分勝手なのである。「寂静」とは、心が完全に動かなくなることではない。心が停止することでもない。寂静とは、心がいかなるものによっても揺れ動かされず、眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法に随って動かされることがなく、完全に寂静の状態にあることである。あらゆる衆生が求める願いと、この本尊の願いが一致した時にのみ、その心は動き出す。それ以外のいかなるものにも、彼の心は煩わされることはないのである。
なぜ私たちは持戒しなければならないのか。持戒しなければ、自分が仏法を学ぶ範囲がどこにあるのか分からないからである。なぜなら、私たちはすでに自分自身の考え方で仏法を学ぶことに慣れてしまっているからである。したがって、仏がこの戒を定めたのは、あなた方を束縛するためではない。あなた方の心が少しずつ寂静になれるようにするためである。例えば、私が法王の法会に参加した時、法王は最初から最後までチベット語で説法され、通訳もなかった。それでは、私はどのように加持を得たのか。それは心が持戒していたからである。何の戒を持つのか。上師が法を伝授されている時、私がその話を聞き取れるかどうか、上師が何の言語を話しているかに関係なく、上師はまさに法を伝えているのである。上師が法を伝えている時は清浄である。ゆえに、私の心も清浄でなければならない。「私は聞いても理解できない」「何を言っているのか分からない」「こんなことは私にはできない」と考えてはならない。それは清浄ではない。いわゆる不清浄とは、心が寂静ではないことを意味する。そのため、自然に清浄なる仏法を受け取ることができないのである。なぜあなた方を叱るのか。上師が持咒を始めた時、あなた方は心を定めなければならない。なぜなら、心が清浄でなければ、私が唱える咒をあなた方は受け取ることができないからである。なぜなら、私の咒語は清浄であるからである。私はあなた方に、「いくらのお金を供養すれば、その分だけ咒を唱える」と言ったことはない。私はただ、絶えずあなた方を加持しているのである。
あなた方が受け取らなければ、加持はなくなる。あなた方は「一秒間でもそんなに重大なのか」と言う。しかし、本当にそれほど重大なのである。なぜなら、私たちが死ぬ時というのは、まさにその一秒間だからである。何句の真言を唱える必要があるということではない。息を引き取るその瞬間に、真言を思い出し、上師を思い出せば、上へ行くことができるのである。だから、あなた方が上師が仏法の修行を始めた時に、心を定めて聞く習慣を持っていなければ、死ぬ時にもその習慣はないのである。あなた方は「上師は年を取り、もうすぐ八十歳だから、『死』をそんなに重視しているのだ」と思うかもしれない。しかし、そうではない。私が仏法を学び始めた時から、死ということを非常に重視していたのである。なぜなら、仏法だけが私の生死を解脱させることができると、私ははっきり理解していたからである。世間にはそれ以外の法門はなく、どのようなものも私を助けることはできない。ただ仏法だけである。だから私は常にこの方向に向かって修行してきたのである。そのため、今になって少しずつ、人がなぜ死ぬ時に恐怖の心を起こすのかが分かってきたのである。なぜ死ぬ時に自分自身を自在に保つことができないのか。それは持戒せず、上師を信じていないからである。上師に対してほんの少しでも疑いの心を持ち、世俗的な目で自分が何をすべきかを決め、上師から与えられた意見さえ聞き入れることができない。そして「上師は自分のことを理解していない」「上師は自分を害している」「上師は自分がどのように息子を育てるべきか分かっていない」と考えるのである。
もし寂静なる心を生じることができなければ、すべての仏法はあなたにとって何の役にも立たない。寂静は一日二十四時間必要なのか。必要ではない。ただ一秒間でも寂静になれば、死の時には必ず役に立つ。咒を唱える時にも必ず役に立つ。このような寂静なる心に慣れることが大切である。持咒の中で一秒、二秒、三秒、五秒でも寂静が現れれば、その真言の加持力は非常に強くなるのである。もし常に忙しく動くことに慣れ、例えば先に法本を片付け、それからリンポチェの持咒を聞くという習慣になっているなら、そのような習慣のまま死を迎える直前、息を引き取る前後にも、まず自分自身のことを気にかけ、まず自分のことを考えてしまうのである。そのため、仏法が現れ、上師が現れたとしても、すでに「まず自分のことを整える」という習慣が身についているため、ただ一つの念を起こした瞬間、「ぱっ」と過ぎ去ってしまうのである。
仏法が私たちに寂静なる心を訓練させるのは、私たちに「気持ちが楽になるため」でも、「雑念がなくなるため」でも、「煩悩がなくなるため」でも、「妄念がなくなるため」でもない。究極的に言えば、私たちがどのように生死を解脱するのか、どのように三悪道に堕ちないようにするのか、どのように仏菩薩と上師の光に従って善道へ向かうのか、そのためなのである。だから、数多くの仏法の中で繰り返し説かれていることは、すべて生死という大事のためである。決して、わずか数十年の間の喜怒哀楽や愛憎の情、恨みや執着について語っているのではない。また、家庭の事柄について語っているのでもない。たとえ金剛乗の法本の中で「眷属を円満にする」と説かれていたとしても、それはあなた方が修行する時に、あまり多くの煩悩の心を起こさないようにするためである。そのため、まずあなた方を少し安心させ、落ち着いて修行できるようにしているのである。私のような人はいない。私が閉関していた時、家で問題が起きていることを見ても、同じように閉関を続けた。仏菩薩に願い求めることもしなかった。魏姓の弟子が何度も私に願い求めるようなこともしなかった。もし何か問題が起きたとしても、それは私自身の業であり、私自身の縁である。既に閉関は生死を解脱するため、そして衆生のために行っているのであるから、家のことのために私の閉関の時間を無駄にすることはあり得ないのである。
多くの人は、家族のために尽くすことは当然だと思っている。間違いではない。なぜなら、あなたはその人に対して借りがあるからである。しかし、借りを返し続けている時、そろそろ手放すべきではないのか。あなた方は「それは自分の責任だ」と言う。確かに、法律上では子供が18歳になる前までは親の責任である。18歳を過ぎれば、法律上はすでに成人であり、自分自身の責任を持つ。親はもうすべてを管理することはできない。私のことを見習いなさい。私の子供が18歳を過ぎてからは、彼がどのように生きようと本人に任せている。何でも自分で決めればよい。何かあって戻って来た時、私が助けられるなら助ける。助けられないなら、「私には助けられない」と伝える。どうしてあなた方はこのように、自分の心も血もすべて差し出すようなことをするのか。さらには、息子が仏法を学ぶことを妨げている。あなたはそれでも人の母親なのか。しかもあなたは皈依している身である。私は法座で何度も何度も説いてきた。人が仏法を学ぶことを妨げてはならない。なぜあなたはそんなに無慈悲なのか。それなのに「愛している」と言い、「将来、息子には成功してほしい。父親のようにはなってほしくない」と言う。そんなのは戯言である。今日は朝から気分が良いから、少し多めに叱っているのである。
経典曰く:「忍辱發彼無盡心。」
前回も話したが、私たちは他人が耐えられないすべてのことを忍ばなければならない。多くの人は、忍辱とは「人から誹謗された時、いじめられた時に耐えること」だと思っている。しかし、そうではない。それらのことは忍ぶことができる。本当に最も忍び難いものは、あらゆる名利の誘惑である。名誉や利益の誘惑こそ、非常に忍ぶことが難しいのである。まさに江姓の弟子がそのような状態である。子供が学校を卒業すれば将来は明るいと思い、その後で仏法を学べばよい、急ぐ必要はない、まだ若いのだから、と考えている。リンポチェが最も優れているところはどこか。それは「忍辱」である。誹謗されても、笑って済ませる。名利が目の前にあっても、それを求めない。それができてこそ、修行の成果を得ることができるのである。出家者でさえ忍ぶことができないことがある。ある人が「法師様、あなたは法相が荘厳でいらっしゃいます」と言うと、自分は修行によって成し遂げた、閉関修行によって得たものだと思ってしまう。六波羅蜜の中で、私が最も修することが難しいと思うものは、「忍辱」である。
「無盡心」とは、まだ成仏する前であるならば、忍辱の心を決して緩めてはならないということである。絶対に許されない。現在、リンポチェはリンポチェであり、道場もあり、仏寺もある。名や利が近づいて来ることはあるのか。ある。ではリンポチェは忍ばなければならないのか。そうである。遮らなければならない。なぜなら、修行する人であればあるほど、自分が修行によって得た福報が何のためにあるのかを明確に理解しているからである。一つは、自分自身が生死を解脱するためである。もう一つは、衆生が生死を解脱することを助けるためである。もし福報を名利のために使えば、自分を助け、衆生を助ける力はすぐに減少してしまう。多くの人は「家族に回向することは問題なのか」と考える。問題があるということではない。ただ、この二つの目的に向かう力が次第に減少し、その目的を達成できなくなるのである。私たちが仏法を学ぶ時、特に修行者、ましてや出家者は、名と利について特に注意しなければならない。「少し緩めても大丈夫」と思ってはならない。必ず問題が起きる。少しでも緩め、忍辱波羅蜜を修めることができなければ、その後のすべてがなくなるのである。
人から褒められれば褒められるほど、より慎重にならなければならない。なぜなら、業障がやって来るからである。職場においても同じである。人から少し褒められたからといって、自分が非常に優れていると思ってはならない。もしかすると、その人は口先で褒めながら、その後さらに多くの仕事をしてほしいと思っているのかもしれない。または、口では褒めながら、あなたに警戒心をなくさせ、その後で何かをしようとしているのかもしれない。自分の仕事の範囲をきちんと行うことは当然である。なぜなら給料を受け取っているからである。しかし、自分の最も良い面を人に見せようとすることは余計なことである。会社の規則を守り、会社が定めた方法に従って仕事をすれば、良いところは自然に人に見られる。争う必要はない。福報があれば自然に上がっていく。福報がなければ、どれだけ争っても無駄である。
昨日、ある官僚が昇進したことへのお礼を伝えに来た。私は「私に感謝する必要はない。私とは関係がない」と言った。なぜ私と関係がないのか。私はあなたが官職においてすべて順調に進むよう守ることはしないからである。以前、ある大臣が私の弟子であったが、私は彼と妥協することはなかった。この大臣については、私が助けたことで大臣になることができたのである。彼はもともと大きな訴訟問題を抱え、どう解決すればよいか分からなかった。私は彼に、彼の書類が部下によってどこに保管されているかを伝えた。彼が探しに行くと、実際にその書類は存在した。その書類によって、彼が汚職をしていないことが証明され、彼はその後大臣に昇進したのである。しかし、大臣になった後、仏法を持たない大臣となり、最後まで二度と私に会うことはなかった。だから私は官職に就いている人を見る時、特別扱いすることはない。なぜなら、官職とは名と利だからである。
官職に就く以上、人民の税金を給料として受け取っているのであるならば、ただ諸葛亮が言ったように「身を屈して力を尽くす」べきである。そこまで自分を犠牲にする必要はないが、少なくとも当然果たすべきこと、自分の責任の範囲のことは行うべきである。それなのに、私にあなたを加護してもらう必要があるのか。もし私に官運が順調になるよう加護してほしいというなら、それでもよい。しかし給料を全部私に渡しなさい。もちろん全部渡すことはできないだろう。住宅ローンもあり、子供の教育費も必要だからである。それなら、私に何を加護してほしいというのか。だから、官職に就いている人たちは「リンポチェのおかげで昇進しました」と私に言いに来てはならない。私とは関係がない。それはあなた自身の福報である。官職に就いている人たちは、官運が良くなったからといって、将来寶吉祥道場の役に立つと思ってはならない。役には立たない。大臣でさえ私から探しに行くことはない。あなた方のような小さな者を探すと思うのか。自己を大きく見積もってはならない。
台湾では、私はあらゆる人に会ってきた。しかし、私は一度も彼らを利用して、自分個人のことを助けてもらったことはない。もし何かお願いしたことがあるなら、それはすべて法王のため、教派のためである。あなた方は私の弟子であり、しかも官員である。その立場なら、人にこう伝えるべきである。「今日、私が良い仕事をできているのは、リンポチェが仏法を教えてくださったからであり、私は仏法を用いて自分の仕事を行っているのです」なぜ言わないのか。人に仏法を学んでいることを知られるのが怖いのか。外道の信者なら「ほら、あそこに門がある」と言うかもしれない。では、なぜ私たちは「ここには阿弥陀仏がおられる」と言うことができないのか。あなたが十三職等であろうと、十四職等であろうと関係ない。もし私に、あなたが外で自分が仏教徒であることを言っていないと分かったなら、大変なことになる。私たちは仏法を学ぶ者である。人前に出られない存在なのか。「忍辱發彼無盡心(忍辱によって彼の無尽心を生じる)」。世間法であろうと、出世間法であろうと、私たちはそれを成し遂げなければならないのである。
経典曰く:「精進發彼最上心。禪定離彼散亂心。勝慧無彼戲論心。念處無念處作意心。正斷隨彼生滅心。神足離彼嬉戲心」
「精進」とは、どれだけ読誦したか、どれだけ長く閉関したかということではない。「精」とは、最も精要なものを見つけることである。例えば、リンポチェは仏典を読み終えた後、修行を通じて得た経験に基づき、その最も核心となる教えをあなた方に説かれる。だから、あなた方はそれをしっかりと受け止めなければならない。「進」とは、その精要な教えの中で、また仏法を学ぶ中で、絶えず進歩していくことである。凡夫の身から絶えず進歩し、生死を解脱すること、さらには菩薩を修めて成仏すること、それこそが「最上」の心であり、加護を求める心ではないのである。
あなた方が精進すれば、自然に世間の事柄も少しずつ整っていく。精進しない者は、一日中ただ加護ばかりを求めている。まさに『地蔵経』に説かれているように、毎日一万遍唱え、それを三年間続けたとしても、それは善鬼神がこの家を守護するということであり、その他のことを守護するという意味ではない。仏経には、善鬼神がこの家を守護するから、財産が増える、子供の成績が良くなる、とは説かれていない。ただ、この家に突然の災難が入り込まないようにすること、例えば火災、水害、鬼魅などが家に入ることができないように守護すると説かれているだけである。仏経には、何でもかなえてくれるとは説かれていない。地蔵菩薩は人を欺いたりはしないのである。ところが、あなた方は勝手に自分自身を欺き、地蔵菩薩が自分を守ってくださると思い込んでいる。地蔵菩薩は、自分があなたを守るとは言っていない。守るのは鬼神なのである。
『普門品』にもはっきりと説かれている。観世音菩薩は大菩薩からの供養を受けることができるにもかかわらず、自らは受け取ろうとされなかった。そこで釈迦牟尼仏が受けるよう勧められた。では、何のために受けたのか。それは衆生のためであり、仏を供養するためである。大菩薩の法身菩薩に対して、「家庭がこうなのです」「夫が言うことを聞いてくれません」などと話せば、菩薩が助けてくれると思うのか。そんなことはない。菩薩は、それがあなた自身の業であり、因果であることをはっきりと理解されているからである。菩薩が助けようとされるのは、この一生を終えたときに浄土へ往生できるようにすることである。なぜ私は法会の前に必ず六字大明呪を唱えるのか。それは、あなた方がこの一生を終えるとき、善き因縁によって浄土へ往生できるよう助けたいからであり、今この数十年の人生におけるさまざまな欲望を満たすためではない。
あなた方は一日中、私に法を求めているが、もう求める必要はない。なぜなら、私が法会のたびに六字大明呪を唱えているからである。もしあなた方が信じるのであれば、それだけで十分であり、浄土へ往生することができる。もし本当に法を求めるのであれば、自分が上師を百パーセント恭敬し、仏法を百パーセント信じることができるかどうかを求めなさい。上師が何をしようとも、ほんのわずかでも疑う心を起こさないことである。法王も直々におっしゃり、私も何度も言っている。上師のなさることを見て受け入れられないのであれば、それはあなた方が間違っているのであって、上師が間違っているのではない。「上師はそんなに偉大なのですか。何をしても許されるのですか」と言う人がいる。しかし、上師の行いはすべて戒に基づくものであり、その戒体を超えることは決してない。上師にできることがあなた方にはできないのだから、上師の教えに従いなさい。いいか。(大衆「はい。」)それほど自信があるなら、あなた方が施身法を修めてみなさい。できるか。もし施身法を修められるのであれば、私の言うことを聞く必要はない。だから結局は皆、でたらめを言っているだけなのである。慢心に満ち、自分が正しいと思い込み、傲慢極まりない。
皆は私を、自分たちと同じ一人の人間だと見ている。それは間違いではない。私は確かに人間の身体を持っている。しかし、私の心はもはや人間ではない。もし私が今もあなた方と同じような人間であったなら、今年八十歳になる私が、今日こうしてここに座り、九時半から今十時半まで一時間も叱り続けることができるだろうか。(会場笑)試しにやってみなさい。ここには年配の人が大勢いる。その中から誰でも一人選んで、一時間話し続けさせてみなさい。私はすでに普通の人間ではない。なぜそう言うのか。それは、今の私は仏法を説いているからである。私は法を修める前ごとに必ず釈迦牟尼仏の加持を祈り、智慧が大海のように広大となり、『宝積経』を説いてあなた方に聞かせ、疑問を解き、少しでも早く成仏できるよう導いていただくことを願っている。私は一度たりとも、「あなた方が早く金持ちになりますように」とは祈ったことがない。本当なら、そう祈ったほうがよいのかもしれない。あなた方が裕福になれば、少しくらいは私にも分けてくれるだろうから。今では仏菩薩も私の願いを聞いてくださるのだから、私は仏菩薩に向かって、「皆が早く豊かになりますように。」と願うこともできる。どのような意味での豊かさであれ、少しは私にも回ってくるでしょう。しかし、リンポチェはそのようなことは決して言わない。世間の考え方からすれば、そのように言うほうが都合はよいだろう。寺にも道場にも、あらゆる場所でお金は必要だからである。しかし私は、すべてを因縁に任せ、因縁に随順している。今日、あなた方が寶吉祥で仏法を学ぶことは、最もプレッシャーの少ない環境である。私は「大功徳主」をことさらに作り上げて見せ、あなた方同士を競わせるようなことは決してしない。
以前、私は経験したことがある。ある人が功徳主の席を奪おうとしたとき、師父はわざわざ私のところへ来て、「今回は譲ってくれないか」と相談された。私は「わかりました」と答えた。師父はそれ以前にすでに私に約束してくださっていたが、それでも私は「わかりました」と答えた。しかし、あなた方にはそれができない。たとえ口では「わかりました」と言っても、心の中では必ず腹を立て、「師父はすでに私に約束したのに、今になって功徳主ではないと言うのか」と思うはずである。私にとって、功徳主とはただ一つの名称にすぎない。私はすでにお金を供養している。もしかすると、ほかの人のほうがもっと高く入札したのかもしれない。それなら、その人が功徳主になればよいではないか。(会場笑)また、当時は顕教の師父の仏寺にも資金が必要だったので、おそらくその役人に遠慮せざるを得なかったのだろう。私は違う。相手が役人であっても、私はそのまま叱る。昔、かなり地位の高い役人が東豊店に私を訪ねて来て、あれこれ話をしたことがある。私は「あなたは実に官僚的だ」と、その場で直接叱り、直接言った。それ以来、彼のあだ名は「官僚」になった。私の言うことを聞かなかったので、結局、問題が起きたのである。一方で、その人は道場のためにいくらかのことを手伝ってくれたこともあったので、今でも私は時折その人のことを思い出す。
いわゆる「最上の心」とは、修行には上・中・下の心があるということである。しかし、この「心」とは、人を異なる等級や階級に分けるという意味ではない。学仏する者の心について法本では発心を重視しており、発心が大きければ大きいほど、得られる加持も大きいと説かれている。もし学仏していても精進せず、毎日ただいい加減にお経を唱え、日課も義務を果たすように済ませているだけなら、それは最上の心ではない。「最上の心」とは、毎日、真言を唱えるときも、日課をするときも、最も敬虔な心、最も専念した心、最も慈悲深い心をもって行うことであり、自分のために何かを求めることではない。また、自分が修行を成就すれば人とは違う存在になれるなどと考えることでもない。そのような心では駄目である。それは最も劣った心であり、貪欲な心だからである。仏法を貪欲に変えてしまい、貪欲な者は永遠に仏法を学び得ることはできない。たとえ法本を授かり、口伝を受けたとしても、修行を成就することはできない。護法も本尊も、すべてそれを遮り、成就させない。なぜなら、成就してしまえば、その人はさらに思い上がり、貪欲な心をもったままでは取り返しがつかないからである。そのため、護法や本尊はあなたを遮り、障碍を与える。すると、理由もわからないまま、考えがまとまらなくなり、唱えられなくなり、修法もできなくなってしまうのである。
学仏において、先ほど私が話したいくつかの心をもって毎日の日課を続けていれば、いつか必ず、「隨順覺悟」(その因縁に従って悟りを開く)こととなる。覚悟とは、たちまち大徹大悟することではない。少しずつ、自分のどこを改めるべきか、何を捨てるべきか、何に執着してはならないのかを悟っていくという意味であり、それには時間が必要である。私がいつも言っているように、あなた方は勉強するのに何年かけたのか。二十年である。そして毎日八時間授業を受けてきた。自分自身に問いかけてみなさい。今、あなた方は毎日八時間を仏法のために使っているだろうか。一時間でもできれば大したものである。それなのに、なぜ毎日三十分、あるいは一時間しか修行していないのに、五、六年修めれば空を飛び、地を遁れるような境地に至れると思うのか。あなた方は二十年近く勉強して卒業証書を手にし、それでも社会に出てようやく五万元ほどを稼ぐだけではないか。
今、学仏と勉強との唯一の違いは、卒業証書がないということである。しかし、勉強でも最高の段階まで進めば、成績が良いかどうかだけではなく、学び続けられるかどうかを決めるのは誰か。それは指導教授であろう。論文がどれほどよく書けていても、教授が気に入らなければ、「だめだ」と言われて終わりではないか。学仏もそれと同じである。自分では精進し、恭敬していると思っていても、リンポチェが「だめだ」と言えば、それまでである。なぜか。リンポチェはその道を歩んできた人であり、実際に修行によって成就した人だからである。しかも私は転生のではない。修行の全過程を自ら経験してきた。そのため、あなた方の修行方法が正しいかどうかは、私にははっきりわかる。あなた方は、「教えどおりに唱えているのだから間違いない」と言う。しかし、心が正しくない。心が正しくなければ、それ以上は伝えない。
ちょうど大学で論文を書いたとき、自分ではよく書けたと思っていても、なぜ教授はそれを合格にしないのか。それは教授自身が学びを修めてきた人だからであり、論文を見れば、本当に理解しているのか、それとも理解したふりをしているだけなのかがわかるからである。学仏もそれとほぼ同じである。だから、文字が読めるようになったから、物事がわかるようになったから、大人になったから、少し読めば理解できる、少し聞けば修行できるなどと思ってはならない。釈迦牟尼仏は四十数年にわたって説法され、これほど多くの仏典を説かれた。それは何のためか。私たちのような愚かな人間のためである。私たち人間は実に愚かでありながら、自分では賢いと思い込んでいる。
私はインドのさまざまな場所へ行ったことがあるが、郊外にはどこにも猿がいる。猿がどのようなものかは、皆知っているだろう。ところが、舎衛城――釈迦牟尼仏が晩年に説法された場所――では、不思議なことに、その猿たちは非常におとなしく、人にちょっかいを出してこない。一群の猿が静かにそこへしゃがんでいるのである。畜生でさえ、舎衛城ではほかの場所とは違うのである。私が舎衛城へ行ったとき、一匹の犬が私を見ると、ずっと前を歩いて道案内をしてくれた。そして菩提樹のところまで連れて行ってくれたが、周りの人が追い払おうとしても、その犬は離れようとしなかった。
初めて舎衛城を訪れ、菩提樹の下に座って仏法を説こうとしたときのことである。突然、木の後ろから一人の女性が現れ、私に向かって微笑んだ。振り向いて見ると、もう姿は消えていた。彼女がどこかへ飛んで行ったはずはない。菩提樹の周囲は鉄柵で囲まれており、出入り口は一か所しかなく、そこを通るには必ず私の前を通らなければならないからである。しかも、その柵はこの法座ほどの高さがあり、彼女はインドの女性の衣装を着ていたので、それを乗り越えることはできない。可能性があるとすれば空を飛んで出て行くことだけだが、そのような様子も見ていない。彼女は木の幹のあたりから私に向かって一度微笑み、私が振り向いたときには、すでにいなくなっていた。私は神話を語っているのではない。舎衛城には、このような不思議で興味深い出来事が数多くあるのである。
前回、ネパールの釈迦牟尼仏の生誕地へ行ったときにも、似たようなことがあった。釈迦牟尼仏の生誕地にあったその木は、日本人に買われてしまい、そこには切り株だけが残っていた。私たちはそこへ行くために橋を渡らなければならなかった。その橋は一方通行で、こちらから入ることはできても、向こう側からこちらへ来ることはできず、一方向にしか歩けなかった。私が先頭を歩き、弟子たちが後に続いていた。木のところまで来ると、一人のスリランカの僧侶が私にハタを差し出した。スリランカの人は普通ハタを持つことはない。しかも、私の後ろには青海のリンポチェもいたが、そのラマはそのリンポチェには渡さず、私にだけ渡したのである。私がそれを受け取り、顔を上げると、その僧侶の姿はもう消えていた。彼が私の横を通り抜けることはできなかった。木のところから反対側までは、この壇城から入口までほどの距離があり、一瞬でぱっと姿を消せるはずがないからである。このように、修行がある程度の境地に達すると、多くの出来事は言葉や文字では到底表し尽くせないのである。
ちょうど今回の台風のとき、日本の気象台も「台湾には不思議な力があって、突然台風が弱まった」と言っていた。(会場笑)私も、その「不思議な力」が何なのかは知らない。台風はみな報復のためにやって来る。だから慈悲の心をもって、台風に関わる衆生の瞋恚の心を取り除いてあげなければならない。そうすれば、彼らは報復に来ることはない。
「禪定離彼散亂心」(禅定は彼の散乱心を離れる)。なぜ禅定を修めなければならないのか。それは、私たちの心は散乱することに慣れており、一秒ごとに次々とさまざまな考えを起こすことに慣れているからである。しかし、禅定を修めれば、心を集中させ、散乱しないようにすることができる。とりわけ真言を唱えるときには、なおさら禅定の力が必要である。そのため、私たちは毎回修法を終え、回向を終えた後には、少しの間、定の時間をもたなければならない。ここでいう「少し定まる」とは、まったく動じない境地になるという意味ではない。ただその場に座って、しばらく静かにするだけでよい。これを少しずつ積み重ねていけば、禅定の力が身についてくる。真言を唱え終わるとすぐに立ち上がって、あれこれと別のことをしてはならない。少しの間座っていなさい。どれくらい座るかは重要ではない。一分でも二分でも役に立つ。自分の心を少しずつ訓練し、このような散乱しない状態に慣れさせるのである。
真言を唱え終えたら、心を少し静める。「心を静める」とはどういうことか。真言を唱えているとき、動いている。静とは、本来寂静である心である。私たちは、動いている心を本来の寂静な心へと戻さなければならない。そのために、禅定や結跏趺坐によって心を寂静へと帰らせるのである。寂静でいる時間の長さは重要ではない。ただ雑念が起こらないと感じられれば、それが寂静である。雑念が起これば、その時点で禅定の力は失われたということであり、そのときは立ち上がってよい。禅定の力は少しずつ伸びていく。ゆっくり訓練を続けていけば、禅定に入ってから雑念が起こるまでの時間が次第に長くなり、以前のようにすぐ雑念が起こることはなくなる。
いわゆる雑念とは、禅定に入り、何の念もない状態から、突然一つの念が起こることである。それは、禅定の力が失われたことを意味する。もし坐禅を修めているのであれば、再び自分の心を集中させればよい。そうすれば、定は再び現れる。本来は、この定境にとどまり、一つの境地に安住すべきなのである。しかし、定まった後に再び念が起これば、その定も、その力も失われたということであり、もう一度その定を回復しなければならない。これは長い年月にわたる訓練によってのみ可能になるものであり、一日や二日、一年ほどでできるものではない。改めて皆に言う。あなた方は役にも立たない本を読むために二十年も費やしてきた。それなのに、なぜ仏法だけは短期間で身につけられると思うのか。このことを考えたことのある人はいない。誰もが自分は特別だと思い、仏法を学びに来た自分には善根があるから、一度見ればできるようになると思っている。そんなに簡単なことがあるだろうか。もし本当にそんなに簡単なら、私だって修行する必要はなかった。
「勝慧無彼戲論心(勝れた智慧は彼の戯論の心を離れる)」。智慧が開かれると、それは最も殊勝であり、「遊戲論」の心に対して最もよく働く。つまり、智慧そのものは、定から生じた空性によるものである。空性が現れれば、智慧は自然に顕れる。智慧が顕れるといっても、そこに形あるものや形なきものが現れるわけではなく、一つの念が生じるわけでもない。そうではない。ただ極めて寂静な状態において、「慧」が自然に生じるのである。では、その「慧」が生じるとはどういうことか。何かの事象が現れたときにのみ、智慧はそれに応じて働く。何もなければ、智慧は静まり返って微動だにしない。この最勝の智慧の心が生じると、世間のあらゆる出来事はすべて一つの戯れ、一つの議論にすぎないと見える。しかし、そのような心は、私たちの修行を助けることは決してない。
「念處無念處作意心」。仏経には四念処が説かれている。ここでは簡単に説明する。私たちが仏を念じ、真言を唱えるとき、初めの段階では意識が働いている。意識が働いているから、一句の真言を唱え出すのである。しかし、長期間にわたって真言を唱え続けると、真言を唱えることを通して禅定の境界へ入っていく。禅定の境界に入ったとき、念じているのは智慧であり、いわゆる清浄なる本性が念じているのである。したがって、本性が念じているということは、念じるという意識がすでに存在しないということであり、自然に生じるのである。ちょうど『浄土経』に説かれている「念々阿弥陀」のように、仏号を絶えず唱え続けることである。しかし、仏号が絶えず、「念々阿弥陀」ができたとしても、まだ「念處無念處作意心」には到達していない。それはただ精進の心を成し遂げたということである。
しかし、「念處無念處作意心」に至るには、空性の智慧を修めなければならない。例えば、「夢の中でも仏号を唱えている」と言う人がいるが、それでもまだこの境界には達していない。この境界とは、禅定に入ったとき、一たび本尊を観想すると、その真言が自然に起こることである。そこには思惟も記憶もなく、作為もない。なぜなら、真言は清浄なものであり、その真言はすでにその人の清浄なる本性の中に存在しているからである。真言の定義とは、本尊の智慧、願力、功徳、福報のすべてが真言の中に含まれているということである。私たちは、この上師・本尊と相応するところまで真言を唱えなければならない。しかし、十万遍唱え終えたからといって、それで相応できるわけではない。そのようなことはあり得ない。それにはさらに、絶えず閉関修行を行うことによって、初めて上師と相応する機会が得られるのである。なぜなら、上師の心とは衆生を済度する心であり、衆生が成仏できるよう助ける心だからである。もし今日、このような心がなければ、永遠にただ作為によるもの、考え出したもの、意識の中から現れたものにすぎず、空性の中から生じたものではない。
したがって、「念處無念處作意心」とは、真言によって衆生を助けようとするとき、真言の念が起こったとしても、それは自分自身のために生じた意ではないということである。その意はすべて菩提心と慈悲心に符合して生じる。衆生を済度しようという念が生じた後、その念の力によって、一つの力が生まれ、それをまとめ上げる。ちょうど今回の台風のようなものである。私が慈悲の力を起こしたため、「念處無念處作意心」が働いた。なぜなら、私の意とは、衆生が苦難を受けないことを願うものだからである。そのため「念処」が現れ、真言を念ずることによってエネルギーが生じ、私が成し遂げようとすることを実行するのである。(リンポチェが出家弟子に尋ねる)「そうだろう? まだ目が覚めていないのか。」(出家弟子答える)「ご報告いたします、リンポチェ。このようなお話は以前まったく聞いたことがありません。これほど深遠な仏法は以前聞いたことがありません。」「それほど深遠なものではない。ただ話をしているだけだ。役に立つか。」(出家弟子)「役に立ちます。」「どこに役立つのか。」(出家弟子)「自分の清浄なる自性を回復し、慈悲と空性の妙用を発揮することです。」
この境地を成し遂げるには、ただ考えればできるというものではない。なぜなら、考えた時点ですでに意識だからである。眼・耳・鼻・舌・身・意は、すべて「六賊」とも言われる。そのため、あなた方が行っているものは作為によるものである。しかし、作為による「意」が悪いということではない。ただ、その能力の範囲には限界があり、しかも有漏である。なぜ私たちは絶えず空性を修めなければならないと言うのか。空性は、毎日一万遍、二万遍と六字大明呪を唱えれば成し遂げられるものではない。十万遍の大礼拝をすれば成し遂げられるものでもなく、上師相応法を唱え終えれば成し遂げられるものでもない。空性は、絶えず閉関修行を行い、さらに人間的な多くの考え方や行いを手放して、少しずつ体得していくものである。どれほど時間がかかるのか。それは分からない。一人ひとり違うからである。
「正斷隨彼生滅心」。正しい断を生じたならば、眼・耳・鼻・舌・身・意、そして色・声・香・味・触・法という六つの接触を断つのである。「隨彼生滅心」とは、この心が生滅するものであり、永遠ではないことを理解することである。ある一点に永遠に留まることもなく、永遠に消滅することもない。『地蔵経』に説かれているように、「起心動念は皆これ業、皆これ罪である」。私たちがこの二つの言葉を理解してこそ、生滅を掌握し、正断を生じることができる。では、「正断を用いる」とは何か。自分には貪・瞋・痴・慢・疑があり、眼・耳・鼻・舌・身・意があり、色・声・香・味・触・法があることを知ることである。これらはすべて、私たちが修行し、空性を証得することを妨げるものである。しかし、人間はこれらの道具がなければ生きていくこともできない。
例えば、眼・耳・鼻・舌・身・意がなければ生きられない。色・声・香・味・触・法がなければ生存することもできない。では、どうすればこれらが自分の清浄なる本性を妨げないようにできるのか。それは自分自身の力によるものではない。仏菩薩、そして上師の加持の力によって、少しずつ、眼・耳・鼻・舌・身・意とは、ただ自分が生存するための一つの道具にすぎないと理解できるようになるのである。それがたとえ修行を助けるものであったとしても、それもまた一つの道具であり、この道具が私を成仏させてくれるのではない。色・声・香・味・触・法もまた一つの道具である。私たちは何かを完成させたなら、その道具を手放すではないか。例えば文章を書き終えたなら、その筆を置く。永遠にその筆を握り続けることはない。この考え方も同じなのである。
つまり、私たちが真言を唱えるときには、声・色・香・味・触・法が必要である。しかし、真言を唱えているとき、一つの念――「衆生を助けよう」という念が起こったならば、声・色・香・味・触・法は手放さなければならない。ちょうど先ほど、私がなぜあなた方に「なぜ先に法本を片付けるのか」と叱ったのかということである。あなた方は先に自分のことを考えている。あなた方は、私が真言を唱えているとき、多くの衆生が聞いていることを知らない。道場にいる衆生だけではなく、虚空全体の衆生が聞いているのである。あなた方の妨げは、私に対するものではなく、彼らに対するものなのである。しかし、あなた方は先に自分のことを考える。「リンポチェが真言を唱え始めた。私たちは先に法本を片付けて、それから心を集中してしっかり唱えよう。」これは間違っている。やはり自分自身のことを考えているのである。
だから仏法の考え方は非常に鋭く、非常に微細である。ただ一つの念によって、多くのことが変わる。自分自身で、その念がどこから起こっているのかをはっきり理解しなければならない。「私は知りませんでした」「分かりませんでした」「すみません」と言えば済むものではない。私には関係のないことである。それはすべて、あなた方自身の自分勝手で自己中心的な念なのである。すでに仏法を学ぼうとしているならば、学仏とは、わずか数十年の人間世界における欲望を満たすためではない。重要なのは、この一生において未来世を変えることである。だから、この一生において、食事をすること、仕事をすること、日常のこと以外は、自分の生命力のすべてを仏法の中に注がなければならない。そうして初めて、この一生が終わった後、未来世が必ず良いものになる機会を得られるのである。
自分自身に問いなさい。毎日、どれほどの時間を仏法のために使っているのか。私が教えたように、毎晩寝る前に『仏子行三十七頌』を使って自分のことを振り返るとしても、せいぜい十数分ほどしかかからない。しかし、あなた方の多くはそれすら行っていない。なぜなら、自分に間違いがあるとは信じていないからである。「私は間違っていない。私は帰依した。菜食もしている。戒も守っている。私は良い人間だ。今は何も問題が起きていない。ずっと快適に暮らしているし、まだ病気にもなっていない。」そう思っている。だから、永遠に一つの段階に止まり、進歩することはできない。弟子に『仏子行三十七頌』で自分の身口意を毎日確認させる道場など、ほかにはない。それを要求しているのは、私のところだけである。そしてこれは、観世音菩薩も支持し、賛成されていることである。
しかし、観世音菩薩がおっしゃったことをあなた方は聞かず、上師が伝えた法も聞かない。私は、あなた方がいったい何の法を求めているのか分からない。自分の身口意が仏法に違反していないかを反省もしないで、いつももっと多くの法を学びたいと思っている。学んで何のためになるのか。あらゆる仏法は、生死を解脱するためであり、衆生を利益し、衆生が成仏できるよう助けるためである。それ以外のものは一つもない。それなのに、あなた方の身口意は毎日過ちを犯している。それでどうやって修行するのか。毎晩寝る前に自分を反省することが、それほど難しいことなのか。反省するのは、天が知り、地が知り、あなた自身が知るだけである。私が知るわけでもなく、あなたの話を上へ行って聞きに行くわけでもない。なぜやらないのか。なぜ自分は良い人間だと思っているのか。『三十七頌』が何を説いているのか、よく見なさい。最後に説かれているのは六波羅蜜である。
今、説いている『宝積経』の内容は、すべて六波羅蜜に関係している。関係しないものは一つもない。あなた方が六波羅蜜を修めようとしないのなら、一日中仏菩薩に加護を求め、上師に加護を求めてもよい。しかし、それなら法を求める必要はない。おとなしく法会に参加し、静かに聞き、変えられるところは変えなさい。変えられないなら、死を待つしかない。死ぬ時に、私があなたを済度する因縁があるかどうかを見るだけである。それだけである。言っても聞かない、叱っても聞かない。それでも自分のやり方を続けるのである。
もう一度あなた方に注意する。あなた方一人ひとりは、勉強するために二十年を費やしてきた。そして社会に出て五万元ほど稼ぐだけである。私は、あなた方に毎日八時間を仏法に使えと言っているのではない。仕事や家庭、子供をすべて捨てろと言っているのでもない。意味するところは、少しでも多くの時間を仏法の中に振り向けなさいということである。そうすれば、あなた方が得られる機会は非常に高くなる。しかし、あなた方はただ怠けている。毎日一本の線香をあげ、アキ護法などに……。それは、一皿の果物を供えて、神様に「何でも私に与えてください」と願うのと同じである。そんな都合の良いことがあるのか。もしそんなに簡単なら、私がまず修行などしない。それなのに、私は毎日これほど多く修行しているのである。
「神足離彼嬉戲心」とは、「神足」とは神足通を有することであり、神足通を修得した人は、あらゆる遊戯の心から離れることができるという意味である。「神足」とは、この場所からあちらへ飛んで行けるという意味ではない。今日、リンポチェがこの話をする時、少し大げさに表現している部分もある。例えば、私が自分自身を台風の中心にいると観想する。これが神足通である。また、私がポワ法を修して衆生を助ける場合、もし私に神足通がなければ、彼を助けるためにポワ法を修することはできない。例えば、施身法を修する時、私は衆生をその場に招き、彼らを済度することができる。しかし、もし神足通がなければ、それも不可能である。「離彼嬉戲心」とは、その人が神足通を得た後、世間のさまざまな事柄を、一つの遊戯、一つの遊びの過程のように感じるようになるということである。それらは非常に短い時間のものであると理解するため、遊びを重視する心は徐々に消えていく。そして、日常生活そのものが仏法になるのである。
私はよく若い人たちに諭している。若いうちは、あまり遊び過ぎてはいけない。遊んではいけない、遊ばせないという意味ではない。福報がなければ遊ぶことはできないのである。そうではないか。遊ぶことで、自分の福報を使い果たしてしまう。そして年を取った時、あらゆる問題が現れてくるのである。私たちはよく「晩福」ということを言う。晩年の福は、若い時の福よりも重要である。晩年に福がなければ、身体は自然と悪くなり、自然と何事においても間違った判断をするようになる。修行も間違い、生活も間違い、何もかも良くなくなるのである。だから、若い時の遊びたいという気持ちを、完全になくせと言っているのではない。しかし回数を減らすべきである。必要がなければ遊ばないことである。若いからといって、もっと遊ぼう、毎日遊びたいという心で過ごし、「年を取ったら遊べなくなるのだから、今のうちに遊んでおこう」と思ってはいけない。たとえ年を取って遊べなくなったとしても、少なくとも自分で歩けるだけの力や余裕が残っていればよい。例えば、私ならまだ車を運転できるし、飛行機に乗ってどこかへ行くこともできる。
しかし、若い時に遊び戯れる心が非常に強く、一日中ただ遊ぶことだけを考え、福報をずっと使い続けてしまえば、使い果たした後、晩年には何も残らない。なぜなら、あなた方は福報を蓄積することを知らない人だからである。だから多くの老人を見ると、年を取るにつれて身体が徐々に悪くなっていく。それは必ず生老病死を経験しなければならないからではない。私も生老病死を経験する。しかし、この苦しみを減らし、遅らせることはできる。すぐに自分の身に現れることはないのである。なぜなら第一に、私は以前まだ仏法を学んでいなかったが、若い時からあまり遊ばなかった。毎日仕事をし、仕事が終われば家に帰った。せいぜい友人と食事をして帰る程度であり、遊び歩くことはなかった。また当時は、今のように遊ぶものも多くなかった。現在は遊ぶものが多過ぎるのである。第二に、仏法を学んでからは、さらに遊ぶという考えがなくなった。だから、あなた方がこの神足通を得た時、「離彼嬉戲心」のである。
経典曰く:「於信進念定慧起彼無礙自然平等入解心。」
「於信進念定慧」とは、遊び戯れる心から離れた時、揺るぎない信、精進の心、そして念が生じるということである。現在の私も毎日、「信進念」によって行っている。つまり、自分がいつか必ず成仏できると信じ、そのために絶えず行い、非常に精進しているのである。この念は、口で言うだけのものではない。この非常に堅固な念が生じた時、「念定慧」が生じる。定力が現れ、智慧が開かれるのである。例えば、私が台風を度する時、それを消滅させようとしているのではない。なぜなら、台風となった衆生が報復のために来ているのに、どうして私がそれを消滅させることができようか。そうではなく、彼に瞋恨の心を持たないように勧め、私が与え、瞋恨を離れるようにするのである。これが智慧である。ただ打ち消すのではない。もし打ち消したなら、その中の衆生は誰に求めればよいのか。結局、私のところへ来るのである。彼らは必ず求める場所を必要とするではないか。だからこそ、衆生を済度するには智慧が必要なのである。
「起彼無礙自然平等入解心」とは、このような心が生じた後、仏法を学ぶ上での障害がなくなり、自然に「平等入解心」になるということである。つまり、平等であり、分別する心も、損得を計る心もなくなり、解門へ入り、仏法に対するあらゆる疑惑を解き明かす心になるのである。現在、なぜあなた方は仏法や上師に対してこれほど多くの疑いを持つのか。それは六波羅蜜を修していないからであり、自然に「平等入解心」がないからである。例えば、リンポチェが法王にお会いした時、自然に信じ、自然に帰依し、自然に法王に従って仏法を学んだ。そこには何の考えもなかった。これは前世から修してきたものである。あなた方は前世においてそこまで修していなかったため、今生で改めなければならない。自分自身の考えで判断してはいけない。あなた方の考えは凡夫の考えである。どうして凡夫の考えで、上師を見ることができようか。仏経を見ることができようか。修行によって成就し、証果を得た上師を見ることができようか。
私はいつも言っている。もし今日、私が戒を破り、仏陀と上師の教えに反することを何かしていたなら、私に済度ができるだろうか。鬼はあなた方よりも敏感であり、私に済度する力があるかどうか、鬼はすべて知っている。もし私に済度する力がなければ、今私が施身法を修しても、あなた方は寒く感じるだろうか。感じないのである。なぜなら鬼が来ないからである。あなた方が寒くないことを望むということは、鬼が来ていないということであり、二つの可能性がある。一つは、すべて私が済度したということである。しかしそんなことがあり得るだろうか。あり得ない。毎日、人は亡くなっているのである。二つ目は、鬼が来たくないということである。なぜなら私が戒を破ったからである。だから、あなた方がまたそのような心で私を見るなら、覚悟して下へ落ちることである。私ができることを、あなた方はすべてできない。もし能力があるなら、台風が来た時、私が法を修さず、あなた方が代わりに修してみればよいではないか。もうすぐ台風が来るなら、私があなた方に修法の方法を教えよう。
あなた方は根拠なく勝手なことを言い、私と比べようとする。しかし、私は表面上は一人の人間に見えるかもしれない。あなた方が私の心がどれほど修まっているかを見ることができるかどうかは別として、私は35歳から現在まで、もう40年近く修行している。私は毎日千遍唱えている。それだけでもあなた方より多いではないか。もう私と比べるのをやめなさい。比べるなら、私より年を取っているか、私より若いか、あるいは私と車の速さを競う程度にしなさい(笑)。その他のことで比べ合ってはいけない。あなた方には私と比べる能力はないのである。
もう一度言う。私は40年間修行してきた。少なくとも毎日、六字大明咒を千遍唱えてきた。あなた方は計算してみればよい、私が何遍唱えたことになるのか。さらに私は十数回の閉関を行っている。一回につき少なくとも一週間以上であり、最短でも一か月、二か月、三か月である。あなた方は閉関をしたことがあるのか。どうして私と比較できるのか。何をもって私と比べるのか。「あなたは男性で、私も男性だから」という理由で比べるのか。しかし男性にもいろいろな男性がいる。広東語訛りの国語を話す男性、閩南語訛りの国語を話す男性もいるではないか(笑)。だから比べてはいけない。仏経にも「比較してはいけない」と説かれているではないか。(大衆:「はい」)自分自身の立場をわきまえ、自分の状態に満足して安分にすることである。安分である人ほど、成就する機会が多いのである。
以前、私はチベット人の中にいる唯一の漢人であった。その時、私は非常に安分であった。法王が私をそこに座らせなければ、私は座らなかった。席を奪おうともしなかったし、先を争って法王に会いに行こうともしなかった。法王ご自身が、私を大功徳主であると言われたのである。一千六百万ドル以上を布施した者が、大功徳主と言えないだろうか。しかし私は争おうとはせず、非常に安分に、上師の采配を待ったのである。あなた方はそうではない。何かを求め、私に「これが欲しい、あれが欲しい」と伝えようとする。私は一度も法王に「この法を学びたい」と言ったことはない。それなのに、法王は何でも私に与えてくださった。どうすればよいのか。
経典曰く:「如是五根五力起彼無能損壞屈伏心。」
「如是五根五力」という二つの言葉を調べてみなさい。これは仏法における専門用語である。つまり、このように修行する人こそ五根と五力を得るということである。「起彼無能損壞屈伏心」とは、このような心を起こすことで、屈伏の心を損壊することができるという意味である。屈伏とは、心から望んでいないのに、ある事情のために仏法を学ぶことである。生死という大事から解脱し、衆生を成仏へ導くために仏法を学ぶのではない心である。屈伏とは、ある現状に不満を持ち、仏法が自分を助けてくれることを期待して仏法を学び始めることである。あなた方の99パーセントは、何らかの理由によって仏法を学び始めている。それを屈伏の心という。しかし、屈伏の心は、何もないよりは良いのである。少なくとも、自分には因果があり、業力があることを知り、仏法の助けを得たいと思っているからである。何も信じない人たちよりは遥かに良い。しかし、さらに上へ進もうとするならば、自分自身の問題を解決するためだけに仏法を学ぼうとするこの屈伏の心では、それ以上進むことはできない。ある段階で止まってしまうのである。なぜなら、それは心から望んで発心して仏法を学んでいるのではなく、屈伏の心によって仏法を学んでいるからである。
経典曰く:「於七覺支起彼分別菩提心。」
「七覚支」について、男性出家弟子たちは知っているか。知らないのか。(出家弟子答える:「聞いたことはありますが、忘れました。」)調べておきなさい。次回、これについて皆に説明する。
「起彼分別菩提心」とは、菩提心にどうして分別があるのか。菩提心には、世俗菩提心と勝義菩提心がある。世俗菩提心とは何か。我々が慈悲の力を生じ、自ら菩提心を修したいと思うこと、これが世俗菩提心である。勝義菩提心とは空性の菩提心であり、自然に生じるものである。思考を経る必要はない。ただ衆生に苦難があり、衆生が仏法による助けを必要とし、衆生が仏法を学ぶ必要がある時、それは自然に生じるのである。では、なぜ菩提心の分別が生じるのか。それは「七覚支」の中において、悟る段階によって異なる段階の菩提心が生じるということである。つまり、発心が非常に重要なのである。いわゆる発心とは、例えば自分個人の利益のために法会へ参加する場合、得られる加持も個人的な加持であり、諸仏菩薩や上師からの大きな加持を得ることはできない。もし発心が「衆生を成仏へ導くため」であるならば、加持の力は非常に大きくなる。大きな加持にはどのような意味があるのか。それは、仏法を学ぶ上で生じる障害を減らし、取り除き、さらには現れないように助けることである。
経典曰く:「於八聖道起彼觀察正解心。」
ここまで述べたことは、すべて仏法修行における次第である。まず五根・五力を説いた。五根・五力が生じた後、自分の屈伏の心を損壊することができる。屈伏の心が消えた後、七覚支が生じる。七覚支が生じると、分別の菩提心が生じる。分別菩提心が生じると、今度は「八聖道起彼觀察正解心」が生じる。我々が八聖道を理解したならば、八聖道によって正しく観察し、迷いを解く心を起こすことができる。八聖道も仏法の専門用語である。書き出しておきなさい。私は経教を学んだ者ではないので、こうした用語はすべて詳しく知らないのである。
一人の出家修行者には、修行の次第がある。顕教の修行方法によって、段階を追って修行していく。五根・五力から始まり、屈伏の心を損壊し、七覚支を生じ、分別菩提心を起こす。そして分別菩提心が生じた後、八聖道を得るのである。八聖道によって、我々は正しく観察し、正しく観想し、迷いを解く正しい心を見ることができる。もしこれらの基礎がなければ、我々はしばしば仏法を自分自身の本意、つまり自分の意識や経験によって解釈してしまう。例えば、以前ある人が「一度懺悔すればそれでよい。もう懺悔してはいけない。もし再び懺悔するなら、その念がまだ心の中に残っているからだ」と話しているのを聞いたことがある。これは正しくない。なぜなら、法本の中には、無上瑜伽部に至るまで、懺悔が必要であると説かれているからである。なぜなら、過去世から積み重ねた修行の障害がまだ残っているからである。つまり、その人は無上瑜伽部まで修していないため、懺悔が何のために用いられるのかを知らないのである。ただ世俗的な事柄のための懺悔だと思っている。世俗的なことのための懺悔によって成仏できるだろうか。できないのである。
例えば、無上瑜伽部で修する金剛薩埵も同じではない。したがって、修行がある段階に達すると、正解的な、迷いを解く心とはどのようなものであるかを理解できるのである。異なる段階とは、例えるなら、小学校、中学校、高校、大学などで学ぶ知識が異なるようなものである。だから、ここでは明確に説かれている。もし顕教の方法によって修行するならば、平等に入解する心、五根、五力、屈伏の心を損壊すること、七覚支を経て、段階的に八聖道へ修め至った時、初めて自分自身にすべての仏法を正しく理解する能力が備わるのである。だからこそ、上師が必要なのである。上師はそれを理解しているため、正しい方法であなた方に説明し、どのように修行すべきかを教えてくれる。そして、あなた方が遠回りすることなく、多くの時間を節約できるようにしてくれるのである。
もし仏経に説かれているこれらの教えに従って修行するならば、非常に長い時間がかかる。毎日禅定し、毎日読誦しなければならない。しかし、あなた方にはそのような「フランス時間」はなく、「台湾時間」しかない。「台湾時間」とは何か。スマートフォンを見たり、テレビを見たり、おしゃべりをしたりする時間である。だから、あなた方には時間がないのである。では、なぜ金剛乗では上師の言葉に従うことを強く求めるのか。それは、徳を具えた上師は突然現れた存在ではなく、必ず数多くの試練と長年の修行を経てきた人だからである。上師が説く仏法は、決して自分で考え出したものでも、自分で作り出したものでもない。すべて法本、経典、そして自身の修行経験に基づいてあなた方に教えているのである。そのため、あなた方は多くの時間を節約することができる。
なぜ上師に供養しなければならないのか。その理由もここにある。上師はあなた方の多くの時間と費用を節約してくれるからである。もし経典に説かれているこれらの段階を一つ一つ修し、一つ一つ悟ろうとするならば、少なくとも十数年間は閉関しなければならない。あなた方にそのような「台湾時間」があるだろうか。ないのであれば、上師の言うことを聞きなさい。では、どうしてその上師が本当に修行を成就していると分かるのか。私は自分が優れているとは言わない。しかし少なくとも法王は私に「あなたの仏寺を建てなさい」とおっしゃった。チベットでは明確に説かれている。成就したリンポチェには、必ずその人自身の仏寺を建てる福報があるのである。法王から仏寺を建てるよう命じられた時、私は仏寺をどう建てればよいかも知らなかった。土地がどこにあるのかも知らず、いくら費用がかかるのかも知らず、お金があるかどうかさえ分からなかった。しかし、建てなさいと言われて建て始めると、本当に建ったのである。これが私の修行の成就である。法王がおっしゃったように、何をするにも必ず助けてくれる人が現れるということ、それが仏法における成就なのである。なぜなら、私が行うあらゆることは仏法だからである。自然に諸仏菩薩が私を成就させ、助けてくださる。人が必要なら人が現れ、必要なものがあれば必要なものが備わる。だから、あなた方はもう私と比べようとしてはいけない。仏寺を建てろとは言わない。木の上に土地公を祀る小さな祠一つ造れと言われても、あなた方にはできないではないか。それでも比べるのか。恥を知りなさい。今の言葉はかなり厳しい叱責である。本当にあなた方は恥を知らない。「なぜあの人にはできて、私はできないのか」と言う人がいる。「人と人を比べれば」、その次の言葉は何か。(大衆:「もう腹が立って仕方がない。」)あなた方が言ったのであって、私が言ったのではない。
仏経にも、人と比べてはならないと説かれている。菩薩は互いに比べたりはしない。なぜ菩薩は比べないのか。それぞれにそれぞれの願力があるからである。釈迦牟尼仏は前世において阿弥陀仏とともに法を説いていた時、人と比べることを好んでいた。釈迦牟尼仏は、自分が説く空性こそ最も優れた仏法であり、阿弥陀仏が説く空性ではない教えは、それほど高度なものではないと考えていた。そのため、釈迦牟尼仏は今世、娑婆世界で成仏し、大変な苦労をされた。一方、阿弥陀仏は極楽世界で成仏された。非常に安楽である。その違いは、ただ一つの考え方によるのである。仏経が説いていることは、すべて将来あなた方が成仏する機会を得るためである。だから、自分の考え方を正し、発心を正しくしなければならない。今すぐできなくても、それは重要ではない。しかし、歩む道、心の向き、進む方向は正しくなければならない。間違った道へ進んではならない。もし間違えたなら、自分で正しい道へ引き戻さなければならない。
なぜ『仏子行三十七頌』を用いるように言うのか。それは、『仏子行三十七頌』が絶えずあなた方の誤りを正し、正しい道へ戻してくれるからである。もし『仏子行三十七頌』を用いなければ、たとえ今生において私があなた方を三悪道へ堕ちないよう助けたとしても、それは来世に仏法を学ぶ機会があることを意味するわけではない。なぜなら、考え方が間違い、歩む道も誤ってしまうからである。リンポチェが教えることは、すべてあなた方のためになることである。それなのに、なぜ私はこれほどまでに『仏子行三十七頌』を読むよう勧めるのか。私なら財神法を伝えることもできる。毎日財神法を修し、裕福になったら私に供養してくれればよいではないか。あなた方も、私が財神法を非常によく修めていることを知っている。それなのに、なぜ私は伝えないのか。財神法は、貧しい衆生や仏寺、そしてセンターのために修する法だからである。あなた方は供養をしたことがあるので、私はそのために修している。毎年元旦には必ず財神法を修する。それは、あなた方が供養してきたからである。だから、今では皆仕事があるだろう。
あなた方は、仏法についての正しい考え方は、自分で考え出すものでもなく、人づてに聞いた話によるものでもないということを理解しなければならない。必ず仏経に説かれていることに従わなければならない。仏経に説かれていること、法本に説かれていることは、あなた方は素直に聞かなければならない。今日私が話したことは、すべて仏経に説かれていることである。私が考えたことでも、私が作り出したことでもない。例えば、先ほどの五根、五力、七覚支を、あなた方は実践できているだろうか。できていない。それで、どうして自分は仏法を学んでいると言えるのか。素直に言うことを聞き、そのとおり実践しなさい。
とりわけリンポチェは在家の身から修行してきた人間である。あなた方の世俗のことは、誰よりも私の方がよく知っている。私は出家者ではない。在家である。だから、世俗のあらゆることについて、あなた方以上によく分かっている。私は「(株の)売買を繰り返してはいけない」と言ったのに、それを「(カブ)の料理を作ってはいけない」と聞き間違えた人がいた。どうしてこんなに愚かな人がいるのか、本当に理解できない。これ以上はっきり言うことはできない。あまりにはっきり言えば、金融業界の人たちに商売の邪魔をしたと叱られてしまう。それでは、護法の修法を行う。(大衆:「ありがとうございます、リンポチェ。」)
祖師ジッテン・サムゴン著『一意』
リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法の儀軌を修した後、続けて開示された。
私はジッテン・サムゴンが著した『一意』を開いた。その最初には、「いかなる衆生も戒を持てば、皆功徳がある」と説かれている」とある。ジッテン・サムゴンは次のように説いている。「不善を制止することは、一切衆生のために戒律が制定されたからであり、因果・縁起の本性は決して欺かないからであり、いかなる衆生も戒制を踏み越えれば過失がある。この三つの理由によって、いかなる衆生も戒を持てば皆功徳がある。」この言葉の意味は、出家であれ在家であれ、弟子は戒を守りさえすれば必ず功徳があるということである。
ジッテン・サムゴンはまた、「いかなる衆生も戒制を踏み越えれば過失がある。」と説いている。つまり、いかなる衆生も戒を守らなければ過失があるのである。すべての戒律は全体の衆生のために制定されたものであり、出家と在家を分けて制定されたものではない。
さらに次のように説かれている。「ゆえに、いかなる人であっても、身分の高低にかかわらず、戒制を踏み越えれば過失がある。これは縁起の本性である。ゆえに、教主が制定された学処、このように尊い戒律については、命を捨てることがあっても決して犯してはならない。」この言葉は非常に明確である。 戒を破ってしまっても、後で懺悔すればよいと思ってはならない。命を捨てることがあっても、戒を破ってはならないのである。戒を「開く」ことはできるし、「犯す」こともある。しかし、「破る」ことだけは絶対にしてはならない。何が「犯」であり、何が「開」であるかについては、以前すでに説明したので、ここでは繰り返さない。
今日この二点を特に取り上げたのは、多くの人が密教には戒がないと思っているからである。実際には戒はある。しかも金剛乗の戒は、在家の五戒や、出家の比丘戒・比丘尼戒よりもさらに厳格である。なぜそれほど厳格なのか。金剛乗を修すると、願力・心力・能力が非常に大きくなるからである。もし修行者が戒を守らなければ、自分自身を傷つけやすくなるだけでなく、他人を傷つけることにもなりかねない。法本の中には、むやみに用いてはならない法があり、それを用いた場合どうなるかまで説かれているものもある。しかし、それは今日ここで論じる範囲ではない。
今日、仏法を学ぶかどうかにかかわらず、戒を守り、戒を持たなければならない。もちろん、戒を受けた人は、戒を破った果報が比較的早く現れる。帰依も受戒もしていない人が戒を破った場合でも、果報はやはり現れる。ただし、現れるのが少し遅かったり、より重かったり、あるいは何度かに分かれて現れたりするだけである。この戒律は、釈迦牟尼仏が人々が仏法を学ぶから制定したものではない。
「ゆえに、仏陀が世に出られるか否か、戒を制定されるか否かにかかわらず、諸法の法性に基づき、いかなる有情、いかなる聖者であっても、苦と楽の果報は決して混じり合うことなく、それぞれ現れる。これは本来そのようなものである。ゆえに、いかなる衆生も戒を持てば、その功徳の果実を得る。」つまり、有情衆生であれ修行者であれ聖者であれ、苦の果報と楽の果報は混ざることなく、それぞれ現れるということである。一生涯ずっと楽であることも、一生涯ずっと苦しいこともない。必ず果報は現れる。そして、いかなる衆生も戒を守るならば、必ず功徳の果実が現れる。だからこそ、戒を持つことによって初めて定が生じ、定によって慧が生じ、智慧が生じて初めて空性を悟ることができるのである。
ここでは非常に明確に説かれている。仏法を学びながら軽々しく戒を破り、後で補えばよいと思ってはならない。戒を補うためには、さらに多く修行しなければならず、しかも心の底から徹底的に懺悔しなければならない。「自分は間違えたが、今は上師も仏菩薩も許してくださった」と、幸運を期待するような気持ちであってはならない。仏菩薩にも上師にも、「許す」「許さない」ということはない。あるのは、あなたの懺悔を受け入れることだけである。懺悔を受け入れるとは、懺悔した後、本当に改めるかどうかを見るということである。受け入れられても改めなければ、結局何も変わらない。つまり、懺悔を受け入れるということは、上師と仏菩薩が証人となり、「この人は改めようとしている。だから衆生よ、少し時間を与えなさい」と証明することなのである。その役割はそこにある。「上師、私は間違えました」と言えば、それだけで果報がなくなるという意味では決してない。もしそうなら、皆が先に戒を破り尽くしてから、「上師、懺悔します」と言えば済んでしまうではないか。では果報はどうなるのか。もちろん、そのようなことではない。
私はいつも皆に注意している。仏法を学ぶかどうかにかかわらず、慎重でなければならない。とりわけ、このような混乱した世界では、一歩一歩慎重に歩み、自分を放逸させず、自分に甘くなってはならない。少し油断すれば、すぐに問題が起こる。なぜなら、私たちが住んでいる場所は、仏経に説かれる五濁悪世であり、いつでも悪い共業に巻き込まれる可能性があるからである。だからこそ、戒によって自分自身を守ると固く決心しなければならない。戒は自分を守るためのものである。戒はあなたを縛るものでも、支配するものでもない。あなたを守るものなのである。戒を破って懺悔すれば果報が現れなくなる、と思ってはならない。それは誤りである。皆が戒を破ってからリンポチェに「私は間違えました。どうかお許しください」と言っても、私が許すかどうかとは関係がない。私はただ、あなたの懺悔を受け入れるだけである。多くの人は、懺悔すれば何も起こらなくなると勘違いしている。
『梁皇宝懺』を拝したことのある人は多いだろう。その中に「罪花飛」という一句がある。罪の花が飛ぶということである。「飛ぶ」とはどういう意味か。多くの人は、罪の花が飛んで行けば、もう実を結ばないと思っている。しかし、そういう意味ではない。罪の花が飛ぶ時には、まだ種子を伴っている。その種子がいつ実を結ぶかは分からない。つまり、罪の花は散っても、果報が現れる時期が遅くなるだけなのである。その間に、あなた方には多くの善法を修する十分な時間が与えられ、その結果、悪い果報はそれほど苦くも酸っぱくもなくなるのである。もし懺悔したら果報がなくなるのであれば、なぜ懺悔する必要があるのか。なぜ帰依した後、まず受戒しなければならないのか。受戒しなくてもよいではないか。他の宗教のように、頭から顔まで水をかけ、水槽に一度浸かれば「きれいになった」と言うのであれば、毎日浴槽に浸かっていれば十分ということになってしまう。
仏陀が世に出られたかどうか、戒を制定されたかどうかにかかわらず、私たちは理解しなければならない。いかなる有情衆生も、生まれた以上、楽の果報と苦の果報は、それぞれ絶えず現れる。つまり、必ず因果があるということである。因果がある以上、これ以上苦の因を作りたくなければ、戒によって自分自身を守らなければならない。戒はあなたを支配するものでも、管理するものでもない。あなたを守り、将来の苦の果報を減らし、さらにはなくすためのものなのである。
多くの人は、自分に対してすぐに気を緩めてしまう。「リンポチェ、私は間違えました。懺悔します。」菩薩である以上、あなたの懺悔は必ず受け入れなければならず、拒むことはできない。しかし、懺悔した後はどうなのか。本当に改めたのか。改めていない。相変わらず同じである。それなら、何のために懺悔するのか。とりわけ、上師があなたの懺悔を受け入れるということは、上師があなたの証人となり、「この人は改める」と証明することである。護法は本来あなたを懲らしめようとしていたが、ひとまずそれを止める。しかし、あなたが改めなければ、護法は必ずやって来る。決して信じないなどと思ってはならない。私はアキ護法の修持を重ね、多くの人が私の背後にアキ護法がおられるのを見ている。あなた方にはそれを見る資格はないが、自ら霊能力があるとか、第三の目が開いていると言う人たちの多くは、それを見ている。今日、リンポチェが特にこの二点を取り上げたのは、「戒を持つ者には皆功徳があり、戒を踏み越える者には皆過失がある」ということである。これは非常に明確である。ジッテン・サムゴンは一派の開祖であり、決して軽々しく物を言う方ではない。口にされたことは、必ず事実なのである。
だから、あなた方は必ず言われたことを聞き、必ず実行し、必ず自分自身をよく見守り、自分を甘やかしてはならない。一つの念が起こるだけでも問題になるのか。私たちは「身・口・意」と言うではないか。悪念が起こったら、すぐに真言を唱えてそれを抑え込み、決してそのまま続かせてはならない。私たちの念は、数珠の珠のように一つ一つ連なっているのであって、一気に飛び出していくものではない。一つ一つが輪になって続いていくのである。最初の一つが起こった時、それを止めさえすれば、次に生じる念は変わってくる。しかし、そのまま追い続けて、「この上師は間違っている。どこが間違っているのだろう」と考える。それで二つ目である。「やはり間違っている。」三つ目である。「どこが間違っているのだろう。」四つ目である。このように悪念は絶えず積み重なっていく。悪念が積み重なれば、心そのものが悪になってしまう。そうなれば、あらゆる善法はあなたとは無関係になる。仏法はすべて善だからである。もしその念を止めることができれば、何によって止めるのか。信と恭敬によって止めるのである。そうすれば、善念が生じ、その悪念を抑え込むことができる。理解できたか。あなた方を教えるのは、まるで幼稚園児を教えているようで、本当に大変である。(大衆一同、「ありがとうございます、リンポチェ。」)
もう一度言っておく。あなた方は凡夫である以上、善念も悪念も持っている。なぜなら、貪・瞋・痴・慢・疑がまだ存在し、それを捨て去っていないからである。しかし、悪念を追い続けてはならない。悪念が起こり、「上師は間違っている」と思ったなら、それ以上考えてはならない。「どこが間違っているのか。どう間違っているのか。その間違いは受け入れられるのか。どの程度の間違いなのか。証拠を見つけるべきか。他人に話すべきか。それとも自分だけが知っていればよいのか。それとも本人に言うべきか。」これで九つくらいの念になっただろう。これを悪と言わずして何と言うのか。そんな身体が健康になるだろうか。私は断言する。決して良くはならない。
私はそのようにはしない。なぜか。私は因果を恐れているからである。あなた方は因果を恐れていない。懺悔して、「リンポチェ、懺悔します」と言う。私はあなた方に腹を立てたことはない。誰が何をしようと、私に対して何をしようと、私は怒ることもなく、許さないこともない。ただ、リンポチェはあなたの様子を見て、「この人は仏法を学ぶ気がない」と判断したなら、学ばせないだけである。それは、あなたがこれ以上悪業を積み重ねないようにするためである。皆、このことをよく理解しなさい。瞬く間に七月になった。今年もまもなく終わろうとしている。私がこの地球で過ごせる時間も、また少し減った。私はあとどれくらい生きられるのか、自分でも分からない。おおよそのことは分かっているが、あなた方には話すことはできない。だから、皆よく理解しなさい。仏法を学ぶという決心はあなた自身のものであり、自分で決めなければならない。決して、屈伏の心で仏法を学んではならない。
続いて、リンポチェは大衆を率いて回向の儀軌を修された。
2026 年 07 月 22 日 更新