尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 - 2025年11月16日

尊き リンチェンドルジェ.リンポチェは法座に昇り、殊勝なる施身法法会を主法され、参会した大衆に対し、貴重なる仏法の開示を賜った。

リンポチェは法座に昇られた後、六字大明呪を久しく持誦され、その慈悲の法音は深く遠くて朗々として十方に遍満し、妙香は立ちこめ、加持の力は極めて強大であり、大衆は皆、体が発熱したと感じたのである。

持呪の後、リンポチェは直ちに施身法を修持され、苦しむ衆生の済度を行われた。リンポチェのご指示により、大衆は亡者の名を三度唱え、続いて腿骨の法器を吹き鳴らし、平等なる慈悲心をもって衆生を招き寄せ、済度を受けさせたのである。その法器の音は低く悲しく響き、このとき大衆は次々と寒気を覚え、無数の衆生が済度を求めて殺到しているかのようであった。元々光り輝いていた壇城は、黒影に取り囲まれたかのように見えたのである。リンポチェは大手印禅定の中において、勝義菩提心をもって、自身の一切の血肉と骨を甘露へと化し、余すところなく諸仏菩薩へ供養し、六道の一切衆生へ平等に布施し、苦しむ衆生を救い出し、離苦得楽へと導かれたのである。

修法円満の後、リンポチェの尊身および仏像、壇城は眩い金色の光を放ち、参会した衆は、リンポチェが衆生を輪廻の苦海より切に救い出そうとする大悲心に深く感謝し、思わず涙をこぼしたのである。法会円満の後、リンポチェは弟子たちを導きアキ護法の儀軌を修持され、続いて出家弟子に命じて大衆とともに迴向文を唱誦させたのである。

リンポチェは、貴重なる開示を以下のとおり賜った。

昨日、一部の弟子が法を求めに来たが、授けた者もあれば、授けなかった者もあった。授けなかった理由は極めて簡単である。第一に、供養を惜しむこと。第二に、教えられた仏法を如実に実践していないことである。多くの者は、不共四加行を求め、これを完成すればさらに密法を学べると思い込んでいる。私はここにはっきり告げる。もう伝えない。なぜ伝えないのか。先週の日曜日、上師供養法を修した際にも明確に述べたとおり、今の時代において上師を憶念する者はほとんど存在しないからである。上師を憶念するとは、終日その姿を思い浮かべることではなく、上師が授けた仏法を、日々如実に実行しているかどうかである。実行していない者は、すなわち上師を憶念していないのである。

リンポチェにお会いして恭しく振る舞い、のし袋を差し出せば、それだけで上師を憶念していると思ってはならない。法王は私に仏法を授けてくださったが、いかなる法を伝えられる際にも細かい説明はなさらず、私はただひたすら実行し続けてきたのである。あなた方のようではない。昨日、ある者が極めて薄いのし袋を携えて法を求めに来た。彼はすでに十年間もこの法を求めていなかった。私は彼に質問した。「一か月に二千元ずつ蓄えれば、貯められるであろう。そうすれば一年で二万四千元になるではないか。」にもかかわらず、彼はそのような態度で法を求めた。長寿仏灌頂の際にも伝承について述べたが、レチョンパはこの法を求めるにあたり、三両の黄金を供養した。仏法を軽んじてはならない。仏法は金銭で買い戻せるものではない。いかに多くの金を積んでも得ることはできず、肝要なのは仏法を尊重する心があるかどうかである。法本を手に入れて、ただひたすら読誦すればよいと思ってはならない。現在、多くの道場では一日中さまざまな法本を読誦し、それで密法を修していると思い込んでいる。しかし私は玄人であり、何が真に密法の修行であり、何がそうでないかを明確に知っている。多くの者は、チベット語で書かれた法本を手に入れ、それを中国語に翻訳すればそれが密法であると思い込んでいるが、真の密法は文字に記されるものではない。たとえ記されていたとしても、それは一人から一人へと密かに伝えられるものであり、決して広く流布されるものではないのである。

多くの人が上師相応法を求めるが、なぜ私はこれを伝えないのか。相応とは何を意味するのか。それは、たとえば私が観音法門を修する際、なぜあなた方が体の熱を感じ、私があらゆることを解決できると感じるのか。それは、私が菩薩と相応し、菩薩の仏法事業と慈悲心に相応しているからである。あなた方は、毎日上師相応法を修すれば、自然と私と相応し、私があなた方を守ってくれると思っているかもしれないが、それは誤りである。そのようなことは決してない。ある男性の弟子は、上師相応法を二年近く修していたが、ついに相応することはなかった。その理由はきわめて明白であった。彼の心の奥には、「自分はすでに法を修している」「自分は修行ができている」と思い込み、上師は自然に自分へ何をすべきか告げてくれるであろう、と錯覚していたからである。

先週の日曜日、私は皆のために上師供養法を修し、明確に説いた。上師なくして仏法はなく、上師なくしては決して修行は成就しない。この法本をどのようにして得たのか、私自身も覚えていないが、ここ数年になってようやく授かったものであり、それ以前は法王も私にこの法本をお与えにならなかった。この法本は他の法本とは異なり、他の法本には本尊があり、修行者は本尊と相応し、本尊と無二無別となって衆生を加持する。しかしこの法本においては、修行者そのものが上師であり、上師の功徳・福報・事業をもって、あなた方を加持するのである。すなわち、上師自らがあなた方に与えるということである。その日、あなた方は体が非常に熱くなったと感じたはずである。そうではなかったか。(大衆:感じました。)私が修法している際、全身が熱くならなかった者は手を挙げなさい。(会場に誰一人として手を挙げる者なし)私は、あなた方が絶対に手を挙げる勇気など持てないと信じている。これほどの加持を体感してなお、この上師がいかにすごいと信じようとせず、それにもかかわらず昨日は軽々しい態度で法を求めに来た。

私一人で、ほぼ二千人に熱を感じさせ、その熱のエネルギーが体内に入るのを体感させることができるのなら、私はもはや凡夫ではない!(大衆「はい。」)しかも私は本尊を観想しているのではなく、この身自らの力によって与えているのである。あなた方に与えるのは、体を健康にするためでも、財を得させるためでも、家庭を円満にするためでもなく、また子どもを言うことを聞かせるためでもない。もしそのようなものであるなら、私はまず自分の子どもに修しているであろう。しかし私は、一度たりとも自分の子どものために修法したことはない。なぜかと言えば、『宝積経』に明確に説かれているように、冤親債主である。私は決して、彼らが私に孝行し、私に善くすることを望んだことはない。なぜなら、彼らが私に孝行し、私に善くすれば、それは私が彼らに借りを作ることになり、来世において返さねばならなくなるからである。私は、むしろこの一生において彼らが私に善くしなくてもよいと願う。それによって、この世で清算し得るからである。

あなた方は、ちょうど私とは正反対である。私は子どもに親へ不孝を勧めているのではなく、子どもが孝行かどうか、良いか悪いか、言うことを聞くかどうか、成績が良いかどうかに、あまり執着しすぎてはならないと言っている。勉強ができたところで、社会に出て働けば給料が五千元から一万元ほど多くなるだけであろう。それで財を成すことができるかと言えば、決してそうではない。私の内装会社の塗装工でさえ、一日の賃金は安くて三千元、高い者で六千元である。あなた方のお仕事よりもずっと良いではないか。仮に一日五千元で働いたとしても、月に二十日働けば十万元になる。一方、あなた方は三万元あまりで、しかも税金まで納めねばならない。

私はあなた方に「勉強するな」と勧めているのではない。ただ、何が何でも特定の成績や資格を取らねばならないと、そこまで重く考えすぎてはならないと言っているのである。多くの子どもは、親が勉強することを強く望むあまり、自分は勉強が好きではないのに、それに従えず、ついには精神に異常があるふりをするようになることさえある。多くの親は、自分の子どもを成績トップにしたいと願うが、ナンバーワンはただ一人しか存在しない。それにもかかわらず、どうしてこれほど多くの子どもすべてがなれるというのであろうか。

日曜日にあなた方へ与えた加持は、世俗的な事柄のためではなく、仏法を修する上での障碍を直接に取り除くためのものである。しかもその加持は永遠に存在するものではない。あなた方が修行を怠れば、直ちに消失する。早ければ一か月、遅くとも一年以内には消えてしまう。それはあなた方が上師と相応していないからである。すでに一週間が過ぎた。自らに問いなさい。このような力を与えられて以来、修行をさらに積み重ねたであろうか。答えは否である。依然として以前と同じ生活を続け、加持を受ける前と何ら変わらぬまま、一日に千遍なら千遍、二周なら二周、大礼拝も依然として同じ回数にとどまっている。

なぜこの法を修めたのか。第一は周年の記念のためであり、第二は、あなた方に対してこれ以上負い目を持ちたくなかったからである。私はすでに自らの修行の力を差し出した。それはすべて私自身のものであり、それをあなた方に与えたのである。あなた方が修さないのであれば、私を責めてはならない。これ以上「リンポチェは法を伝えてくれない」などと言う必要はない。他の道場へ行けばよい。多くの道場では、日々法を伝え、金さえ払えば伝授し、額の多少にかかわらず、適当に紙を二枚でも渡して「これは本尊の法であり、真言を唱えれば効がある」などと言っている。しかし真の伝法は決してこのようなものではない。必ず灌頂と口伝を経て、生起次第・円満次第を修し、その後さらに閉関修行を重ねてこそ、その法は初めて円満となるのである。なぜリンポチェが自らを犠牲にするのか。それは、あなた方にこれ以上借りを作りたくないからである。今回これを行ったことで、私はもう負い目はない。今後、弘法の方法を改めるかもしれない。怒ることも、諭すこともせず、あなた方に対して何も干渉しない。ただなすがままに任せるであろう。私はあなた方に深く失望している!

昨日は数名の弟子が訪れ、そのことが私をさらに失望させたのである。二人が上師相応法を求めてきたが、私は彼らに質問した。「『仏子行三十七頌』を修しているか」と。彼らは「していない」と答えた。私はほとんど毎回の法会において、毎晩『仏子行三十七頌』をもって自己を省みるよう繰り返し告げてきたが、あるのか、大衆は「はい、あります」と答える。この二人だけが偏って行わず、自らを完璧であり、欠けるところのない存在であると思い込んでいた。私はすでに無上瑜伽部を修するに至っているが、それでもなお法本には金剛薩埵の修行を行うべしと記されている。無上瑜伽部を修する者はもはや凡人ではなく、すでに上師の階位にある者であるが、それでもなお修し続けねばならないのである。私はかつて述べたことがあるが、我々は一日たりとも成仏していない限り、常に懺悔し続けねばならない。なぜなら、なお多くの欠点を抱えているからである。ところが彼らはこれを行わず、それゆえ私は伝法を拒んだのである。また別の者は、薄いごくわずかな供養を持って法を求めてきたが、問題は金銭ではなく、その心構えにある。それゆえ、これもまた伝授しなかったのである。

私は決して法を惜しんでいるのではない。これほどの修行と能力を身につけながら、伝えたくとも伝えられないことに、私は深い苦しみを覚えている。例えばこの施身法であるが、私はこれを伝授することができない。その理由は、慈悲心を持つ者がなく、空性を証悟した者もなく、衆生を成就させるために自らを犠牲にできる者がいないからである。皆が自分の修行ばかりを優先し、特にこれらの出家衆に至ってはなおさらである。施身法の法本の中には、出家者が日々修すべき一部の法が記されているが、私はこれを授けない。なぜなら、彼らの生活があまりにも安逸だからである。これほどまでに安楽な生活を送っている出家者を、私はかつて見たことがない。毎日決まった時間に起きて、朝食を取り、少し読誦し、拝礼し、道場で再び礼拝を行い、昼食を取り、夕方五時頃になるとまた少し修してから就寝する。このようにして一日を過ごし、ただ悟りを得たいと念じているだけなのである。出家して三十年以上になる者であっても同様である。その悟り、待っていなさい。

上師たる者は、常に弟子が仏法を学び、仏法を修し、この一生において生死より解脱することを願ってやまないのである。しかし、それはあくまでも「願い」に過ぎず、それを実際に行うか否かは、すべてあなた方自身の決断に委ねられている。他の場所のことは私には分からぬが、法王には台湾において多くの、いわゆる「弟子」が存在している。しかし、法王が真に認めている弟子は私一人であり、真にリンポチェの果位に至る修行を成し得たのもまた私のみである。その理由は、私が完全に上師相応法に則って修行しているからである。上師が行じていることをそのまま学び、上師とその法に相応し、さらにその心続に相応することによってこそ、真の修行となる。あなた方が上師相応法を修したからといって、ただちに上師の功徳や福報に相応するなどという類のものでは、決してないのである。

ゆえに、その日、皆、私の加持が終わった後、自身の体が少し良くなったとばかり思い込み、そのように口にした者も多かった。しかし、上師の加持を得たのだからこそ、より一層精進し、より多くの時間を修行に費やさねばならぬと語った者は、誰一人としていなかった。そのような言葉を、私は一度も耳にしていない。あなた方は帰宅し、改めて己に問いかけてみるがよい。先週より今日に至るまで、日々の修行の量を増やしたかどうか。もし増やしていないのであれば、それはあなた方が常に私から何かを引き出そうとし、利益だけを得ようとし続け、自らは修行しようとしない心を抱き続けているという証である。

昨日、九十歳を過ぎた一人の弟子が私のもとを訪れ、「転倒して以来、一日中めまいがする」と訴えた。私は「それは至極当然である」と答えた。彼は、私に会いさえすれば、そのめまいが止まると思っていたのである。なぜ転んだのか。それは言いつけを守らなかったからである。私はかねてより、高齢者に対して歩き方や自ら注意すべき点を教えてきたが、彼らは一切聞き入れず、ただ私を利用するのみであった。しかし、それでもよい。悉くあなた方に利用させてやろう。ゆえにリンポチェは「怨みに恩で報いる」のである。あなた方は皆、私の冤親債主であるゆえ、日曜日にはすべてを与えたが、これ以上は与えない。なぜなら、私には度すべき衆生があまりにも多く、それはあなた方ではないからである。私は幾度も語ってきた。あなたたちの一千余名が私の足を引っ張ってはならぬ。その中で、真に心を込めて育てるのは数十名に過ぎず、他の者は法会があれば来るがよい。ただし、もはや私は教えない。あなた方にこの一週間あまり与えて以来、我は神通をもって知った。誰一人として修行の量を増やしていない。相変わらずである。そのような者たちのために、なぜ私が身を削り続け、仏法を学ぼうとしない者たちを成就せねばならぬのか。

あなた方は、ただあの日、リンポチェがどれほど凄まじく、全身が熱くなり汗を流し、突然に体が楽になったということしか感じ取っていない。しかし、「リンポチェはあまりにも慈悲深く、我々の学仏の障礙を取り除いてくださったのだから、さらに精進せねばならぬ」と語る者は一人もおらぬ。これにより、私の見立ては誤っていなかったことが証明された。あなた方は修行者ではなく、ただの在家の帰依信徒に過ぎぬ。外の帰依信徒よりは多少素直であるにすぎず、真に修行の器ではないのである。ゆえに、今ここに忠告する。あなた方は無理に自らを金剛乗の器であると期待してはならぬ。ただ毎日、素直に、教え通り正しく、アキ護法、『仏子行三十七頌』、そして六字大明呪を修しなさい。それこそが、今のあなた方にふさわしき道である。

私は命を懸けてこそ、この境地に至ったのである。しかしあなた方は、あまりにも自らを労わり、自らを可愛がりすぎている。昨日、一人の弟子が私に会いに来て語った。一日に大礼拝を三百回しか行っていないと。それは修行ではない。ただの運動に過ぎぬ。今、私が育てている幾人かの弟子は、一日に千二百、千三百、さらには千五百回までも行う者がおる。ではあなた方はどうだ?

本日、敢えて厳しい言葉を述べたのは、私の立場を改めて明確にするためである。与えるべきものはすでにすべて与え終えた。これ以降のものについて、私は教えられぬのではなく、教えられないのでもない。それらはすべて理解しておる。しかし、あなた方にはそれを受ける資格がないのである。ちょうど、極度に衰弱した体に突然栄養に富んだ食物を与えれば、かえって命を落とすのと同じである。あなた方は今、あまりにも弱っているにもかかわらず、上師相応法を学べば上師が自分たちを良くしてくれると思い込んでいる。それは誤りである。上師はあなた方を良くすることはない。なぜなら、あなた方は上師を学んでいないからである。私が観世音菩薩の慈悲心と供養の心を学ぶように、自然と観世音菩薩の法門と相応するのである。我がその法と相応するがゆえに、その加持の力は自ずと私を守護するのであり、観世音菩薩に一日中守っていただこうと懇願するのではないのである。

あなた方は、観世音菩薩に祈れば相応すると聞いたことがあろうが、それは世俗の事柄を指すものではない。観世音菩薩が「救苦救難」と説かれるとき、その「苦」とは輪廻の苦を指し「難」とは三悪道に堕ちる難を指すのである。これらについては、必ず救済される。しかし、在世の時この身において決然たる覚悟を持たず、ただ己がよくなりたいと願うのみであるならば、観世音菩薩は救うことができぬ。それは、あなた方の声が届いていないからである。なぜなら、誰一人として自らが三悪道に堕ちる可能性を真に認めておらぬからである。

今後、寶吉祥道場において、我はこの世を去るその時まで、絶えず仏典を講説し続けるであろう。あなた方は金剛乗・密教を学ぶ器ではない。ゆえに、日々ただ法を求めて来ることなかれ。あなた方が跪くその瞬間、私にはすでに、あなたが教えを如実に行じているか否かが明らかである。自らに問いなさい。師の言葉に従い、実際に行じているか。行じていないにもかかわらず、なお学び続けさせることはあろうが、最も最高の次第(レベル)を教えることは決してない。チベットにおいても同様であり、上師は決して軽々しく法を伝えることはなく、数多の条件と因縁を慎重に見極めた上で、はじめて法の継承が許されるのである。

一人が無上瑜伽部の法にまで修し至れば、ただ心を動かすだけで、あらゆる事を成し得るのである。例えば今回、中国へ渡る前に大きな台風が来ると気象予報では非常に激しく恐ろしいものになると報じられていたが、私が修法を行った後、その台風は自然と消散した。私はただ一念を起こしたに過ぎない。これはすなわち、いかなる者であれ、上師に教えられた方法に依拠し、次第に従って努力を積み重ね、決して諦めることなく修行を続けるならば、必ずや成就の日が訪れることを示しているのである。上師が弟子を導く方法は多種多様であり、教えを授けないことも一つの方法であり、あえて関わらないこともまた一つの手段である。いかなる上師も、理由なく弟子に近づくことはない。ただその弟子が真に根器に優れ、不断に仏法を修行する者である場合にのみ、上師は特に注意深く導き、時に言葉を重ねる。それは、弟子が一歩誤れば道を踏み外してしまうことを憂うがゆえである。

今日こうして寶吉祥において仏法を学ぶ機縁を得たことは、まさしく宿世に培われた善因縁によるものである。この一生において、この善なる因縁を大切にせず、真摯に修行に励まなければ、これを失った後、来世において再び同じ因縁が生起することはないのである。この一生でよく修行したならば、来世も必ず同様になると考えてはならない。『宝積経』には明確に説かれている。すなわち、この一生において六波羅蜜を修さなければ、来世において決して六波羅蜜を得ることはないのである。もしこの一生において、ただ安楽な生活を願うのみであるならば、その苦しみは如何にして滅せられるのであろうか。若年あるいは壮年の時より安逸を求めて過ごすのであれば、老年に至って必ず苦が現れるであろう。それは福報を使い尽くし、苦が影のごとく常に付き従うがゆえである。苦の因縁を消耗し尽くすためには、修行によってこれを転ずるほかはない。では如何に修すべきか。それは自らを厳しく律し、敢えて苦労を引き受け、己をして一層精進せしめることである。

あなた方は日々、安逸にして快適な生活を送り、少し多くの事をするだけで「つらい」「体力がない」「病になりそうだ」「もう支えきれない」と感じている。そのような心の在り方であれば、苦は常にあなた方に随伴し、臨終に至る数年前より、苦は絶えず現れ続けることとなる。真に修行する者は、たとえ往生前に示現として病を現したとしても、それは釈迦牟尼仏が在世中に病気に掛かったが、いずれも軽微なものであり、手術や多くの治療を要することはない。これは、その福報があまりにも大きく、すでに苦を消尽しているがゆえである。ただ生・老・病・死のみが残るのであり、これは人身を有する以上、避けることのできない循環である。ゆえに、病気になったことを通して、衆生に示す教えなのである。すなわち、いまだ輪廻の苦海にある限り、生・老・病・死は必ず存在するという真理を、身をもって示しておられるのである。

あなた方は終日、リンポチェが自らを救い、助けてくださることのみを願ってはならない。長寿仏法本にも明らかに説かれている通り、レチョンパの上師は、ただ彼に「市場へ行け」と命じ、その理由を一切問わせなかったのである。彼は理由を尋ねることもできたが、あえてしなかった。それと同様に、あなた方も消費を命じられても従おうとせぬ。では、なぜ上師があなた方に消費へ行けと命じたのか、その真意をあなた方は如何にして知ろうとするのか。このような態度で、いかにして金剛乗を学ぶことができようか。なぜ上師は、彼に「あなたの死期が近い」と直接告げなかったのか。それは、ただ市場へ行けと命じ、そこで一人の修行者に「あなたの余命は七日である」と告げられ、彼が恐れを抱いて初めて上師のもとへ戻り、法を請うたのである。このことは、彼もまた当初はあなた方と同じく、上師を百分の信で信じてはいなかったことを示している。ゆえに、上師はあえて語らなかったのである。今、私もまたあなた方に対して同様である。多くの事を語らぬのは、語れば私自身がそれを解決せねばならず、加えてあなた方の信心も未だ十分ではないからである。薄きのし袋ひとつを携えて跪き、あらゆる事を平らげてもらおうなどと、そのように容易きことがあるであろうか。数多の物語は、すでに修行の方向を示しているのである。あなた方はこれらを真に聴き、心に刻み、確実に受け取らねばならないのである。

このようなことは他人の身にのみ起こり、自分たちには起こらぬなどと考えてはならない。あなた方も彼と同じではないか。すでに一週間も良いことを受けながら、誰一人として修行を強めてはいない。それは、上師があなた方に良くするのは「当然」であり、なぜなら供養をしたからだという誤った観念を抱いているからである。私は確かにあなた方に対して親切である。しかし、なぜ我のエネルギーをあなた方に分け与えねばならぬのか。私のエネルギーは、本来さらに多くの衆生を救うために用いられるべきものである。施身法を修すにおいても、もし私にエネルギーなく、福報なければ、いかにして彼らを済度することができようか。もしなおも理解が及ばず、このままでよい、なぜこれほど煩わしく考える必要があるのかと思うならば、臨終の時こそ真に煩悶することとなるであろう。かつて癌を患った弟子の例がある。一人は上師を信じ、早くこの世を去った。もう一人は信じず、あれこれと執着し続け、「多くの人に愛されている」と自らを慰めていたが、実のところ、金銭を使い尽くさぬ限り去ることすらできなかったのである。

昨日、ある者が我に一千万元以上もの供養を申し出たが、私はこれを受け取らなかった。その金は正当な商いによって得られたものではなかったからである。彼は形を変えて仏寺へ供養しようとしたが、私の仏寺もまたこれを受け取らなかった。あなた方のリンポチェは実に奇妙である。昨日、どれほどの供養を返却したかと問うたところ、(一人の男性の出家弟子が答えた「百五十万元である」。なぜあなたはそれほどまでに正確に計算できたのか。

よってリンポチェは、あなた方に今一度諭すのである。もし自らに対して少しばかり厳しくせず、修行のために自分へさらにプレシャーをかけないのであれば、いずれあなた方はその結果を知ることとなろう。ここで言う「プレシャー」とは、毎日仕事をせず、学ばず、何もせず、眠らずに過ごせということではない。あなた方には毎日、絶対にもう三十分を捻出する力があるはずである。三十分は決して多い時間ではない。あなた方にはそれがあったか?先週、あなた方に加持の力を授けた後、毎日さらに三十分修行を増やした者はいたか? いたか?(会場は沈黙した。)あなた方はまことに恥を知らぬ者たちである。気分が良ければ少し多く念じ、忙しければ念じない。では問う。気分が良い時には食事をし、気分が悪い時にも食事をするではないか。修行は食事よりもさらに重要である。仏法なくして未来はないのである。誰もがリンポチェに頼ると言うが、私はすでに私が持つものをあなた方に分け与えたのである。私は一息にして千七百人に分け与えることができる。それでなければ、あなた方一人ひとりが体の熱を感じることなど不可能である。その日は冷房を二十二度に設定しており、暖房など入れていなかった。ただ一つはっきりと言えることがある。あなた方は怠惰であり、愚かである。

私は敢えて断言する。外において、いかなる道場や仏寺の法会であろうとも、信衆がその場において即座に感応を得られるものは存在しないのである。しかるに、私があなた方にその感応をもたらすことができたという事実は、すなわち私の修行において、ささやかながらも成就を得ていることの証左である。大いなる成就とは決して言わぬ。なぜなら、私はいまだ生死を解脱しておらぬからである。しかし、この小さき成就とて、あなた方にとってはすでに十分である。今日、家に帰りて改めて深く省みよ。ただ受け取るのみで、何ら与えようとしない、そのような都合の良き事はこの世に存在しないのである。人の常識に照らして言えば、それはすなわち私の生命力をあなた方に分け与えたに等しい。命すら差し出してなお、あなた方はこのように安逸な日々を過ごし、楽に、快く生きたいと望む。それでいて、九十を超えた弟子が少しめまいを覚えただけで、私のもとへ来て愚痴をこぼす。九十の老人がめまいを覚えてはならぬという理がどこにあるのか。これが修行者の姿と言えるであろうか。口では加護を求めながら、そのすべてを捧げて加護を請うわけでもない。リンポチェはあなた方の金銭と争うことはせぬ。しかし、あなた方は私に対してあまりにも計算高く、あまりにも損得にこだわり過ぎているのである。

先週の日曜日に修した法は、おそらく十年後に再び修することとなろう。なぜなら、あまりにも私の身に大きな負担を与えるからである。ここで言う「体を傷つける」とは、肉体が損なわれるという意味ではなく、私のエネルギーが著しく減少するということである。なぜなら私は、日々あまりにも多くの衆生を助けねばならず、それには有形のものも無形のものも含まれるが、それらはあなた方の目には見えないのである。しかるに、あなた方は今日に至ってもなお、かくも自己中心的で利己的であり、ただ受け取ることのみを知って、与えることを知らぬ。「与える」とは、私に対して供養することを意味するのではない。あなた方には無数の冤親債主がいるというのに、一か月に一度施身法を修しただけで、これまで食してきた数多の魚や肉の業がすべて清算されるとでも思っているのであろうか。釈迦牟尼仏は経典において語られ、私もまた幾度となく説いてきたが、あなた方の現状は、かつて多くの海鮮や鮑を置いていた家のようなものである。今になってそれらを不要と感じ、すべて運び出したとしても、その家の中には必ず臭気が残るのである。その臭気を完全に除き去るには、絶えず修法を続けねばならぬ。しかし、あなた方は果たしてそれを行う覚悟があるのであろうか。

上師はあなた方のために、これらの海鮮や鮑を取り除くことはできる。先週の日曜日、私がいくつかの儀軌を修したことで、すでにそれらをあなた方の身から移し去った。しかしながら、あなた方自身はなお臭気を放っており、その臭気はあなた方自身が掃除し、清めねばならぬのである。しかるにあなた方はそれを行わず、なおも私に頼り、すべてを私にさせようとする。この世にこれほど苦しい運命の者が他にいようか。まことに私は苦労が多く、ゆえに、私はもう来ないこととする。法王ともこの件について話し合った。私は法王に「もうこちらへは来ません」と申し上げた。すると法王は「私は来るつもりだ」と仰せになった。そこで私は「法王はまことに慈悲深い。だが、私は法王ほど慈悲深くはない」と答えたのである。あなた方は「上師について行きたい」と言うが、どのようにしてついて来るというのか。私は来ないのである。「来ない」とはどういう意味か。それはすなわち、私は必ずどこかの仏の浄土へ往くということである。あなた方にその力があるであろうか。上師に対してさえ恭敬の心を持たぬ者が、果たして浄土へ往くことができようか。上師相応法を二年修してもなお修し終えられぬ者がいる。なぜ修し終えられぬのか。それは護法が彼に修し終えることを許さぬからである。なぜなら彼は上師を軽んじ、上師をただの凡人であるかのように見なしているからである。

あなた方にその力があるというのなら、先週の日曜日の法本をあなた方に託し、あなた方自身で修してみるがよい。そのうえで、下に坐する者たちに感応が起こるかどうか、確かめてみよ。私は護法神にこう告げることもできる。「この者に一度の機会を与えよ。彼は己の力を示したいと言うのだ。ゆえに、その修法をさせよ」と。私はあなた方に一度、法本を誦させてみよう。すべての者が自らを偉大であると思い込んでいるが、果たして私があの日、仏寺にて修法したように、全員を発熱させることができる者がいようか。あの場所は空間も広く、三千人を収容し得る大殿であって、それほどの広さにもかかわらず、私はすべての者に熱を感じさせることができたのである。ここは空間が狭いゆえ、発熱させることはむしろ容易であろう。しかし、あの日は断じて暖房を入れてはおらず、私は決してあなた方を欺いてはおらぬ。あなた方の衣服も決して厚着ではなかった。それにもかかわらず、なぜ熱くなったのか。胸のあたりから全身へと熱が広がったであろう。それをあなた方は遊び事のように、当然のことのように受け取っていた。しかし私の耳にしたのは、「リンポチェの法会に参加したあと、もともと不調であった身体がたちまち楽になった」という言葉のみであった。

なぜあなた方を楽にさせたのか。それは、あなた方にさらに多く念誦させるためである。あなた方は、楽にさせたのは医療費を節約させ、漢方診療所に行かせぬためだとでも思っているのか。すべては自己中心、利己的なのである。あなた方がこのようであるならば、あなた方の親族や友人もまた同様であり、法会に参加すれば、私は病を治す者であるとでも思っているのであろう。もし私が本当に病を治す者であるならば、極めて高額を請求するであろう。それでもなお、あなた方の供養の額に任せているとでも思うのか。今、診療所や病院に行けば、診療料や医療費の額は明確であり、健康保険が適用されなければ、数十万、百万元以上になることも珍しくはないではないか。仏法がそのように安価であるはずがあろうか。私はあなた方と金銭を計らってはいない。だがあなた方は、自らの損得ばかりを計っている。リンポチェが常にあなた方を守り、良き生活を送らせてくれると思い込んではならぬ。私はあなた方が三悪道に堕ちる機会がないよう守ることはできるが、それはあなた方のすべてを守れるという意味ではない。なぜか――それはあなた方が仏法を学ばないからである。経典に明確に示されている。発心して仏法を学び、菩薩道を修する者であれば、十方の諸仏菩薩がこれを護るのである。ではなぜ、あなた方はその加護を得られぬのか。それは、あなた方がただ毎日少し念誦して心の安らぎを求めているに過ぎず、真に仏法を学び、実践していないからである。

護法を修するにあたりながら、なお護法に対して修行とは無関係な事柄を頼み、助力を求めている者がいる。最近私が中国大陸へ赴いた際も、弟子が「自分は護法を修して云々」と語ったので、私はその場で叱責した。大勢の人々の前で、私はこう言ったのである。「何をもって護法があなたの言うことを聞き、あなたのために働かねばならぬのか。その資格はどこにあるのか。この法本はあなた方の修行のためのものである。護法に上師のための事を請願できるのは、リンポチェの位にある者のみが用いる別の法本に限られている。あなた方にはその資格はないのである!」ここに座する諸位の中で、アキ護法に対し修行以外の事を頼んだことが一度もないと言い切れる者がいるであろうか。私は信じない。必ずやおるはずである。なぜならあなた方は、護法とは自分自身を守ってくれる存在であると誤解しているからである。よく法本の記述を見よ。護法とは、あなた方が再び輪廻せず、三悪道に堕ちぬよう助ける存在であると説かれているのであって、あなた方のために雑事や世俗の願いを叶えるとどこに書かれているのであろうか。何をもってそれを請い、何をもってそれを求めるのか。その資格がどこにあるというのか。これらの出家者もまた例外ではないのである。

法本には何と記されているのか。これに従わず、勝手に己の流儀を作り出し、自らの方法で修行する。このような態度で一体どのようにして成就が得られようか。もしアキ護法がそのような俗事に関わる存在であるならば、私は断言する、法本の内容もすでに改められているであろう。しかし実際にはそうではない。理解もせぬまま、独りよがりに好き勝手なことをしているに過ぎない。私は護法を伝授する際、あなた方に明確に説いたはずである。護法とは、あなた方のために暴力の代行者となる存在ではない。あなた方を世俗的に守り、欲望を満たすための存在でもない。護法とは、あなた方が正しく修行できるよう、全面的に守護する存在である。護法が修行を守護するがゆえに、本来起こるはずの事故が起こらなかったり、あるいは軽減されたりし、また修行をやり遂げられるよう体を支えることもある。しかしそれは、「病気にならないように」「手術を受けなくて済むように」などといった世俗的願望を叶えるためでは決してない。これ以上、妄言を並べ立ててはならないのである。

私の修法はますます迅速となり、それに伴い叱責する時間も増えてきた。あなた方は運がないと言うべきか、なにしろあなた方の上師がこれほど修法を速く修するゆえであろう。そうではないか。(会衆、リンポチェの貴重なる仏法のご教導に感謝を捧ぐ。)通常、施身法を修するには一時間半ほどを要するが、私の場合は特に速い。では。もう叱ることはない。

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2025 年 11 月 19 日 更新