尊いリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示-2020年11月22日

尊いリンチェンドルジェ・リンポチェが台北にある寶吉祥仏法センターにて自ら殊勝な施身法法会を司られ、貴重な仏法を開示された。

リンポチェは法座に上がられると、六字大明呪を長く持誦(じじゅ)され、その慈悲なる法音はまさに波のように絶え間なく続き十方(じっぽう)に遍満され、大慈悲心を以て一切の衆生を苦から離れられるよう救済される。悠遠で深長な持呪声は、道場中、虚空中に響き渡り、参列者の心を感動させ、衆等、皆はリンポチェが衆生の輪廻苦海から解脱させる懇切な大悲心を感じ取り、思わず涙を流した。続いて、施身法を始めて、円満に修めた後に、こう開示された:

リンポチェは月に一回、施身法を修めているが、初めての参列者もいるが、この法は何のためかと好奇心を持つだろう。その実、好奇心は不要で、そのレベルまで修めれば自ずと分かるものになる。ただ、この法を修められるのは、幾人もいないのだ。

施身法は、あるチベットの女性瑜伽士マチク・ラプキドゥンマ(Machik Lapkyi Drönma / Machig Labdrön)が創られ、彼女は在家の行者で結婚し子も設けている。施身法は、釈迦牟尼仏の開示された顕教の『大般若経』の理論、密法の所作タントラ、行タントラと、瑜伽タントラに基づき、マチク・ラプキドゥンマが書かれたテキストである。マチク・ラプキドゥンマの仏寺は現存し、場所はチベットの、グル・リンポチェ最初の仏教僧院のサムエイ寺より更に奥へ、徒歩一日ぐらいで到着できるところにある。マチク・ラプキドゥンマは大よそ唐の中期以降に出現した行者である。

この法は伝承が母タントラと父タントラで分けられる。なぜなら、マチク・ラプキドゥンマはこの法を瑜伽士の夫に伝えていたからだ。多くの特殊な条件が必要とする故、現在四大教派の中で施身法を修するのが少なくなっている。『大般若経』では、空性について説かれるため、空性を証するまでは、この法を修められないし、菩薩道も行えない。空性の理論を知ったからと言って、悟りを証されるとは限らず、多くの修行法門を避けて通れず、まずそなたの貪瞋痴慢疑を五智に転じ、一連の閉関修行を通じて、初めて空性を体得するとされる。

菩薩道を修めるにはまず資糧道の蓄積を必要とする。即ち福慧を修めるなり供養布施を行うなりする事だ。資糧道を充分に累積して福慧が円満になり次第、加行道(けぎょうどう)に移る。つまり上師から弟子に口伝などを教え授け、修行の力の強度が増すのだ。

修行の力の強度とは、そなたはずいぶん精進し、促されたり叱られたりせず、法が教え授けられると自ら遂行する程度の事を指すのだ。遂行するとは、本尊が見えたり何らかの霊験があったりのことではなく、様々に考え込まないでまっすぐ実践する有り様である。加行道が円満になってから見道になるが、つまり空性の証悟(しょうご)である。またその次に、修道(しゅどう)となる。だから、そなたらはちっとも修めていない。四つの段階をよく考えてみよ。福慧が既に足りたか。あたかも、『阿弥陀経』で説かれた不可少福徳因縁のようだ。法会の参列やら、剃髪出家やら、誦経の先導やら、自ら座禅し朝晩の勤行を行うやらで、修行そのものになると思うこと勿れ。これ等みな資糧道の範疇だ。僅かな供養を行えば修行だとも思ってはならない。まだまだかけ離れている。前述したように、資糧道、加行道、見道の順を経て、修道へたどり着く。皆はまだ資糧道の段階に居るのだ。仏教学院に通った、人の法会参列に手伝った、多少仏典を読んだぐらいなら、修道ではなく資糧道である。加行道では自利、利生の能力を持ちながら、円満なほどに至らない。見道に至って空性の証悟ができて初めて、そなたの念頭がありとあらゆる所に届けられる。何故、テキストに「鳥の辿り着ける所であれば、ポワ法が修められる」と書いてあるのか。それは四相(しそう)を破ったからだ。『金剛経』で説かれた無寿者相、無人相、無我相、無衆生相の四つとも破ったからこそ、空性の証悟ができるのだ。

如何にして四相が破られるか。四相の破り方について、『宝積経』の他にいずれも書かれていない。『金剛経』、『楞厳経』、『楞伽経』に至っては、四相を如何にして破られるか教えていない。実は、慈悲喜捨を修めるに当たるのだ。私も開示したことがある。密宗のテキストはどれも真っ先に慈悲喜捨を唱える。何故、釈迦牟尼仏はそれを『宝積経』に盛り込むのか。それは菩薩道を修めるには四相を破るのが必須だと教えて下さるのだ。でなければ、菩薩道を修める資格を持たない。

四相はどうやって破られるのか。ガラス瓶を落とすようにガシャーンと割れるのではなく、少しずつ実践していくのだ。まず、資糧道における福と智慧を充分に蓄積しなければ、加行道の実践に苦労する。何故苦労するのか。それは資糧道が足りていないからだ。毎週のように、法会に参列し、ちょっとしたお金を供養すれば十分だと思ってはならない。私はお金のためではないと、度々強調している。帰依して十数年、二十数年の弟子らには、これまでどれだけの事が発生して、リンポチェが手助けをしても、費用はいくらすると言ったことがあるか。ご先祖様を済度するにはいくらの供養があって初めて済度するかと言ったことがあるか。(参列者全員は、ありませんと答えた)何故ないか。我相、人相、四相を破るからだ。慈悲喜捨を修めず細かく計算するままでは、如何にして破られるか。

仏寺によっては、例えば法会の挙行に50万元が掛かるとして、「100万元回収しなければ、僧団に経費が無くなる、どうしよう」と思う場合もある。釈迦牟尼仏の開示された如く、出家衆は乞う人(乞食)で、人に何かを乞うだけしかできず、何かと引き換えるのではない。法会の挙行に代わり、何かもらいたいなら、交換になり売買になる。今日の済度リストに何位があったか。(頼という弟子は14万強いますと答えた。)仮に一位につき2,000元を徴収するとすれば、月に一回の施身法で十分だ。しかし、そうしてはいけない。仏典ではそう書かれていないし、法王にもそう教えておられない。そなたらの参列は、私が菩薩道を行うのを成就してくれるから、供養そのものだ。リンポチェに供養するに至っては、それはそなたらの考えだ。賽銭箱を持った弟子も、そなたの供養が厚いからと言って感謝を連発することもないし、供養が薄いからと言って無言なままで何もしないからだ。そうしてくれと言い付けがないからだ。供養が厚かろうが薄かろうが会釈をする。クーポン割引券を入れるなら、会釈しない。以前もこういう事が発生したが、それが供養ではない。

釈迦牟尼仏は『大般若経』の御開示に、およそ三分の一の時間を掛けたのですか。(出家して30数年の弟子が、釈迦牟尼仏は『大般若経』の御開示に22年使いましたと答えた。)何故、そんなに長く説かれたのか。空性智慧は、人類の経験値で無く、ご学問が高かろうが、仏典の解説が得意であろうが、空性を証されるに等しくない。釈迦牟尼仏は慈悲深くも、菩薩道に最も重要なのは空性だ(と提示して下さった)。空性なしに菩薩道は修めようか。文字般若を通じて空性の内包を少し分からせるように、言葉を使う他ならない。仏は不可説不可説と仰せになった意味は、何らかの秘密があるから言えないのではなく、いつか空性を証された際、その境界は言語で伝えられない、完全に、文字、言語、感覚、感受などで形容し得ないものである。同じく証された同類なら、お互いにチラッと見れば分かるもので、あたかも、釈迦牟尼仏が一輪の花を捻じて微笑んだのを、大迦葉尊者が見かけるとすぐ悟りを開いたように、累世でその因縁を持ち、因縁や時間になったら、ちょっとした動きでも、音でも立てば、空性の証悟ができる。そなたらの場合なら、たとえ私が大きなガジュマルを思い切りよく置いても、悟らないだろう。

空性を証悟するには、十分な福徳資糧を蓄積し、資糧道、加行道を円満にし、時間になれば悟りを開くとされる。以前、私が自身の事を言ったように、リンポチェが閉関修行の際に、部屋の広さを問わず、食後は必ず立ち上がって歩いたりする。ある日、関房を歩き回ったら、不意に椅子の足を蹴って「かっ」という音が聞こえてきて、すぐ悟りを開いた。これも因縁になった、時間になったということだ。私も屡々言うように、ご自宅に帰ったら椅子ばかり蹴らないでくれ。椅子100脚、蹴り壊しても変わらないよ。

噶舉派の禅定は大手印である。大手印には四つの段階があり、それぞれまた三つの次第に分れる。施身法を修めるには少なくとも第二段階の離戯瑜伽まで修行しなければ成就できない。この段階になるまでは、まだ多少執着を持つから、この法を学ぶとしたら恐らくそなたに害を及ぼすだろう。

施身法のテキストの中は供養布施ずくめである。『阿弥陀経』では、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏の功徳を讃歎し、諸仏からも阿弥陀仏の功徳を説かれた釈迦牟尼仏の事を讃歎するのは何故か。これぞ、随喜功徳(ずいきくどく)だ。仏であられるのに随喜功徳するが、そなたらはそう修めないのは何故か。そなたらが帰依した時に上師の功徳を称えるべきだと言ったが、上師は称えられて欲しいのではなく、これが仏を学ぶ資糧を蓄積するのに最も早い方法なのだ。なら、自分は仏の功徳の讃歎にするだろう。仏の功徳を讃歎する事はもちろん良いが、現代の人は仏に教えられる資格を持たず、弥勒菩薩が地球においでになって初めて有りうる故、上師の功徳を讃歎するのがとても重要である。

経典で曰く、ある日法会が終わった後に弟子が釈迦牟尼仏にこう聞く。「今回の法会で最も功徳の大きい方は?」と。「何方だと思う?」と仏は聞き返した。弟子は答えた「出資した功徳主ではありませんか?」と。仏曰く「いや、一番遠く立った老婦人の功徳が最も大きい。法会に参列できたことで、法会の挙行に出資した功徳主を讃歎したからだ。」お金が無い場合、それなりの供養法がある。お金をしまうのではなく、必ず供養すべきだ。これが諸仏の教えである。

施身法を修める際に、多種多様な法器が使われるが、法器ごとに使う理由がある。顕教の寺院には太鼓と鐘があるが、それは礼拝を促すよう人を起こすためではない。チベット仏教の仏寺に鐘鼓がない代わり、法会で鈴を使う場合は鐘撞(かねつき)に等しいし、手鼓は太鼓のつもりではある。鼓は衆生の亢奮する心を抑え付け、鈴は衆生の貪瞋痴慢疑による昏沈する心を起こすためだ。昏沈とは昏睡とは限らず、衆生の五毒業力によって覆われた心を指すのだ。昏沈した心を起こしてはじめて、衆生は仏法を受け入れられる。

亢奮は、金運成就やら結婚成就やらで、何事にも執着する事に起因するから、鼓声でその興奮する心を抑え付けるのだ。そうしてはじめて仏法を受け止めて聴聞される。手鼓も、鈴も様々な種類があり、真言の彫られたのさえもある。現在私の手に持ったのは五鈷鈴(ごこれい)で鈴が五つ股あるもので、九鈷のもある。九鈷のは、通常は専ら金剛部忿怒尊を修める際に使われるため、一般的にはあまり使用されない。

施身法の修められる行者は少ない理由に、この法を修めるには特殊な条件が多数付くことがある。今さっき修法の際に使われた法器は変わった所がないように見えるが、実は、今吹いた人類の腿骨は、法王が前世に使われたもので、この世で直貢梯寺のラマがそれを出して法王に返したのだ。法王はさらにそれを私に伝えられたから、直貢噶舉施身法の伝承は私にあるという意味であった。何故、人類の腿骨なのか。人身が無常であり、亡くなったら骨の他に残るものがないという事だ。それを通じて吹き出した音を、地獄道、中陰身の衆生らが聞くと、みな寄ってくる。金属で作られたもので吹けば、霊は音が聞こえても寄りもしない。この腿骨で吹かれた音だったら霊は寄ってくる。但し、何方の腿骨でも使えるわけではなく必ず特殊な条件が付くのだ。

何故、髑髏(どくろ)が五つ付く帽子をかぶるのか。霊が人の頭を見かけたら同類でないから寄らない故、髑髏のある帽子を被って同類と見させ寄らせるのだ。五つの髑髏も五智を代表する。五毒を五智に転じてはじめて仏法の聴聞、受け入れができるようになる。

また黒いのれんを目の前に垂らしているのは何のためなのか、霊を恐れているではないか等で、変に思われるかもしれない。その実、霊が私の目を見るのが怖いのだ。少しでも智慧の光が現われれば、鬼道衆生は恐れるから寄ってこない。忿怒尊の身に火が付くのが屡々見られるが、それは本当の火ではなく智慧の火なのだ。施身法を修める際に、行者は必ず生身で修めなければならず、いっさい身に何の保護も付けられない。

この法を修得するには、10年の顕教の基礎を持つ事とされる。いわゆる顕教の基礎とは、あらゆる仏典の理論をよく理解でき、道を逸れない事である。『宝積経』で説かれた八正道がすべて実践できたら、10年の顕教の基礎が備わると言える。単なる経典や名相などを知るだけで顕教の基礎が備わるとは言わない。顕は顕かなという意味で、道具、文字などを通し仏の説かれた仏法を会得される事だ。

仏は密法を開示されたことがある。仏典に書かれた《浄土十六観》は修め方は知っているか。(出家弟子は書かれていませんと答えた。)これが密法だから当然何も残さないのだと、リンポチェが開示された。第一に「太陽を観ずる」に当たるが、肉眼で太陽を半時間見つめられるか。したら、間違いなくめくらになる。第二に「月を観ずる」であるが、現在は光害が深刻化し、観ようがあるか。《浄土十六観》は釈迦牟尼仏の叔母のために、当時の大弟子らから釈迦牟尼仏に求めたのである。何故なら女衆は何も修められず可哀そうだから、輪廻解脱の方法をいただくよう仏に求めたのだ。そうすると、釈迦牟尼仏は神通を使い、阿弥陀仏の浄土十六観を叔母に授けられた。単独で叔母に授けられたから、何も残さないのは当然だ。当時、仏の身の周りにいる弟子らはすべて大神通を持つが、大神通でも使い仏の伝授を見なかったのは何故か。仏はこれを全部封じ止め、残らない事にされたからだ。密法な故、その資格まで到達しなければ伝授しないからだ。数週間前に、開示した『阿弥陀経』では、ひたすら不可少福徳因縁に言及している。

全ての経典に一文字たりとも残さずにそのやり方についていっさい言及しない。これ以上、釈迦牟尼仏は絶対に密法を説かれたことがないと言わないでくれ。これこそ、釈迦牟尼仏が伝えられた密法である。また、何故チベットにだけしかないのかと疑問を持つ人もいるだろう。一つは、チベットと中国本土と隔たりがあること、もう一つは、彼らは修めないなら別論だが、し出すと修行に専念できるのである。ここら辺の出家衆みたいに、どれも昔は用事が有りすぎた。「師僧よ、息子は結婚しますから、披露宴に出席しませんか」などと尋ねてきて、仮に出席しなかったら、彼らはもう来なくなってしまう。これほど用事があっては、修行に専念できようか。

密法が伝授された後、紙に書かれた内容ですらすぐ焼かなければならない場合もあるから、文字での記録は残らないとされる。まるで、ある年、法王が関房で私に法を授けられていたが、法王のお母さんはそれを知らないで関房に入られたが、法王は直ちに伝法を中止し、話さないであらゆる振る舞いを停止した上、テキストを閉じたように。法王のお母さんがその光景を見かけたら、何も聞かず、「失礼」と言って出て行かれた。そなたならきっと何の法を授けたと興味津々に聞くだろう。

または、傍に寄って何の法が授けられるかと覗いたり、密法の伝授と知ったら、厚かましくも利益がもらえたかのように傍に佇んだりする。法王のお母さんからは、彼が漢民族なくせに、なんで法を伝えるのかと聞かないし、法王も「お母さん、どうぞ外へ」なども言わない。以心伝心で、これこそ玄人で目利きだ、法を尊重する有り様だ。密法は六耳に伝わらないとされる事は確かなのは、このことから覗える。それが故に、密法の修められる人はどんどん少なくなっている。

施身法は広大なる衆生に利益を齎し、地球に長く留めれば留めるほど、多くの衆生が救済される。この法の伝承が途絶える際には、人世間の福報が少なくなる一方だということを意味する。

密法まで修めれば、どう変わるか。どうも変わらない。目2つ鼻1つのままだ。変わったのは心である。多くの人が法を求めに来たとしても、心さえ違えれば、何があっても伝授はしない。泣いてばかりいても、供養を多く持ってきても、伝授はしない。心構えが合えば、求めさえすれば、伝授する。そなたの心が正しいかどうかは、上師と護法は知っている。菩薩道を学ぶ以上、凡夫の心ではない。凡夫の心で求めれば、伝授しないのは当たり前なのだ。

昨日、3名の弟子が会見を求めてきたが、私が話している真っ最中に話を割り込まれた。喧しく、礼儀正しくない。会見を求めてきた衆生等に対する開示は、仏典を見たままで説くのではなく、敢えて定の状態で言い出すとは言えないが、すべてが私の智慧によって自然と流露した説法である。思考しているわけではないから、割込まれると途切れるし、また途切れる前の話を探しなおさなければならない。だから、彼女等に、私は聞こえないようにするから内容を問わずとにかく大衆に向かって一時間話せと懲らしめた。今後、女性出家衆が宿舎で喧嘩すればこう懲らしめるし、以後仏寺が建てられてからは、男衆の場合も同様に扱う。まだ懲らしめにならなければ、2時間話せにでもしよう。それでも、性懲りもないなら、今度は朝晩の勤行のように、1日に2時間ずつにしよう。

近頃、耳にした面白い話だが、チベットのとある場所では、過ちを犯した出家衆への罰則としては、両手で五冊もの大蔵経を持ち上げたまま、仏寺をグルグル歩かされるのだ。これほど厚い大蔵経をこうして挙げるのよ。この方法はなかなかいい。手に仏典を持つのが法に対して敬意を表す上、仏寺をぐるぐる巡るのは仏を巡るのと同様で功徳を持つのだ。今後、仏寺が竣工したら、この罰則を採用しよう。何か間違いを犯すと、袈裟を持ち上げたままで仏寺をぐるぐる歩かされる。いったい、袈裟を着た身にこの立ち居振る舞いは何だと、ご自身で見てくれ。寶吉祥仏寺を一周すれば、一時間半ぐらいかかる。私みたいな70代のお年寄りにとっては、そなたらを律するぐらいなら、弥が上にも方法がある。しかも、そなたらの思いがけないようなのだ。

リンポチェは参列者全員を従えてアキ護法と廻向儀軌を修められた。

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2021 年 02 月 16 日 更新