尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年7月12日

法会開始前に1人の弟子は、上師の済度を受けたことについて賞賛する機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

この弟子はお姉さんと義兄さん(二人とも皈依弟子)の紹介で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主法した「チベット直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大済度法会」に参加したため、衆生のために長年来修法し続けて衆生に菜食することを促した、体の負担を耐えながら手に吉祥草を持って一人ひとりの衆生のために浄める大修行者に会うことができた。その後、妹(皈依弟子)と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求め、2013年6月2に皈依した。

去年5月頃、彼は道場でアキ護法を持誦した時に、急に眩暈がして視線がぼやけてしまい、冷や汗をかき始め、体力を失った。状況を隣の師兄に言った後、その場にいた医者である黄さんと陳さんいう師兄が見に来てくれた。初歩的な推測は血糖値が低すぎるということで、椅子で休ませてくれるように手伝ってくれた。翌日、彼は漢方クリニックに行って診察してもらった。漢方薬を飲んで体力は大部回復したので、その次の日曜日も順調に、乗車して宜蘭から道場に来て合同修行法会に参加した。

翌日の朝から、彼は食事の後に下痢し始めた。その後は更に濃褐色、黒色の血便を排出した。体力が大変悪くなったが、家族には知らせなかった。ただ、休みを取って家で休憩し、食事を軽く調整した。三日目の朝起きた時に、彼は立ち上がれず、倒れて気を失い、すぐ病院の救急処置室に搬送された。入院後、ヘムは4.2と判定された。医者によると、正常数値の最低限は13くらいであるため、その場緊急に輸血してもらった。しかし、それで体は熱を出した。拒絶反応だと判断されて輸血は続けられなかった。そして、便潜血反応があったから、内出血の停止が確認できるまでに食事も、飲水もできないと医者に指示された。当時は点滴で体力を維持するしかなかった。そして病床で休ませられ、観察のために入院が必要となったため、病室の空きを待っていた。当日ほかの治療行為は行われなかった。

彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでもどこでも、大加持力で始終彼と家族を見届けていたことに感謝した。救急車に乗った時から入院後まで、彼は体力を失っただけで、意識ははっきりとしていたため、大慈大悲の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの荘厳なる法相を観想することができた。その一週間前の週末の前に、上師は道場で信衆を面会したため、皈依しなかった母親と2番目のお姉さんも道場に入って尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼した。これにより、母親と2番目のお姉さんはこのことが起きた当時に、台北在住の1番上のお姉さんと義兄さんに連絡し、落ち着いて入院手続きを済ませることができた。しかも1番上のお姉さんと義兄さんが病院に到着した後に普通の通りに出勤できた。後から1番上のお姉さんによると、当時、実際に母親はずっと震えていた。

1番上のお姉さんと義兄さんが病院に着いたら、すぐ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子たちに与えた貴重な甘露水と甘露丸を取り出して飲ませてくれた。翌日、病院の胃鏡検査を受けた結果、胃の内部は大変きれいで異常はなく、十二指腸に一カ所の小さな潰瘍だけが検出され、2日連続で大量に出血した患者とは思えないくらいだと医者に言われた。しかし、ヘムは3.9までに下がり続けたため、医者は、内出血が停止したか確認できないから、暫く観察が必要と告げた。

彼は続けて感謝を述べた。道場の師兄の連絡と協力で、彼は宜蘭から台北にいる医者である謝さんという師兄が担当する病院の病室に転院した。これにより、1番上のお姉さんと義兄さんは遠く行かなくても看病でき、生活への影響も軽減できた。宜蘭のほうの病院の医者は、低いヘム数値が続けている状態で退院すると再び意識を失う可能性が極めて高いため、転院に同意しなかったが、とうとう家族の強い意志に背けられなくて危篤通知を発行し、家族が自主退院同意書に署名した後、彼の退院に同意した。

宜蘭から台北まで1時間以上もかかる途中、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが唯一で最大な頼りだった。台北の病院に到着する時、彼は全身真っ青だったが、自分で救急処置室まで歩けた。看護婦はヘム数値の資料を見てとても信じれなかった。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは仏であり、慈悲で衆生を救護する大修行者であり、いつも最高の物を衆生に与えてくれることを賞賛した。彼は日本食品の元気豆乳を毎日飲んで漢方診療所の漢方薬で体をケアし、一週間で退院できた。

今回の病気をきっかけに、彼の母親は菜食を始めた。年を取ると菜食のほうが健康のためだと母親は平気に言ったが、彼には分っていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大加持力がなかったら、自分の愚かさでは、家族に自分の病気に落ち着いて対応してもらうことはできなかった。入院期間、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた。その時は、自分は親不孝で母親に心配をかけてばかりでなく、たくさんの師兄にも迷惑をかけ、上師を最上位におかず、上師に迷惑をかけたことも知らなかったと言った。そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに大声で叱られ、家庭会議でも開いて自分の過ちは何かをはっきりせよ、と要求された。彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。自分は普段家族と生活のことを分かち合うことがめったにないことが、リンチェンドルジェ・リンポチェは分かっていた。今回の機会で彼は家族の前に自分の生活面の悪習をきちんと反省することができた。退院後、彼は母親と一緒に、道場に来て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝した時もまた、上師のエネルギーを消耗し、加護を求めてばかりだったから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼の供養を受け取らなかった。

彼は懺悔した。皈依の後でも、無常を常に念頭におかず、法に従って修行せず、怠ることに自覚しない。常に、同僚との共同仕事が自分の意志通りにうまく行かないことで短気になり、謙虚な心で指導を受けず、生活面で貪瞋痴が絶えない。今生で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会う前に、数えきれない鶏、家鴨、豚、牛、羊、魚を食べたし、この不孝な自分の食欲を満足させるためにも母親に殺生させた。彼は懺悔した。

彼は2012年9月に初めて上師に面会を求めた時のことを思い出した。その場で自分の傲慢、意固地な悪習、及びいつも自分が家族の中で一番賢い人だという間違った思いが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに指摘された。当時尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたは自分の問題でさえ解決できない。」と彼に言った。今回の病気で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのちょっとした言葉には大義と深い用心があることが分かり、どの言葉も衆生を助ける貴重な教えだと分かった。

彼は以前、母親に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法会で開示したことを話したが、母親は興味を示さなかった。しかし、今はじっくりと最後まで聞いてくれる上、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまた何かを開示したかと聞いて来る。これらの全ては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大摂受力の影響だと、彼は分かっている。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「人身難得、仏法難聞、上師難遇(人の体を得るのが難しい事、仏法を聞くのが難しい事、上師に出会えるのが難しい事)」を言ったことがある。彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を見捨てない慈悲で自分に、入院期間中でも順調、定時に日曜日の法会に参加させて仏法を聞かせてくれたことに感謝した。彼は今生で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依できたから、必ず教えを聞き、教えに従って行動し、自分の行為を修正する。最後に、彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が健康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛して広大な有情衆生を利益することを祈った。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、慈悲的に参加した弟子と信衆に貴重な仏法を開示した。

「今日は『宝積経』の開示を続けよう。『彼菩薩信諸如来正真正覚無上菩提』に大変重要な一言、『信諸如来』がある。今、世間の人は仏法を学ぶ時、いつも阿弥陀仏を修めるのは阿弥陀仏がいいから、釈迦牟尼仏を修めるのは釈迦牟尼仏がいいから、大日如来を修めるのは大日如来がいいから、という分別心がある。この観念は正確なものとは言えない。そのため、釈迦牟尼仏はわざと信諸如来を開示した。その意味は、全部の諸仏を信じることだ。この仏だけを修めるのでない。一切の諸仏は同じく、正真正覚無上菩提である。仏果を成就するには、正真正覚無上菩提を備えなければならない。ここの真は真実と虚偽ではなく、真実で虚偽のない事を指している。菩提心に取って代わる世間法はない。菩提を比喩する世間の経験法はない。菩提の意味を明確に解釈できる世間の言葉は一つもない。

菩提は世俗菩提と勝義菩提に分かれている。正真正覚を言えば、勝義菩提心のことだ。名相に陥らず、ただ人類の分かる言葉で少々解釈するだけ。仏説不可説というのがあるが、仏が言ったことを言ってはならないと解釈した者もいるが、実はそうではない。仏説不可説の意味は、仏の境界は言葉で明確に説明できるものではないことだ。小学生は博士の知識が理解できるわけがないのと同じだ。だから、仏は言ってはならないといった。それはいくら解釈しても、もしあなたたちはその境界に達していなかったら、体得しようがないからだ。なぜ信という字が使われたのか。理由は、信じれば、あなたたちはきっとその境界に辿り着く日が必ず来る。

あなたたちが分かるまで、名詞から説明し続けることもできない。理解できるわけがない。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに会った時に、いつも自分はわからないと言った。あなたたちはもともと分かる資格がなかった。仏法について何故中国語の『悟』という字が使われたか。はっきりと見なさい。『悟』は我の心、他人の話で自分を理解させてくれるわけがない。自分の心で理解することが必要だ。そうしたら、諸仏菩薩と上師が教えてくれる仏法を理解することができる。何故信じなければならないのか。迷信、妄信することを要求しているわけではない。仏教のたくさんの教えを信じることを言っているんだ。例えば仏教に守戒がある。その1つは妄語せざる戒。妄語とは、男性が女性を騙したり、女性が男性を騙したりすることではない。そんなことは倫理道徳のこと、妄語せざる戒には関係がない。多くの人は嘘を言うことが妄語だと思っているが、それは違う。妄語とは、その境界、果位を証得していないのに、証得したと人に言うこと、或は、証得したのに他人に教えないことだ。仏は私たちにこの戒を守るようにを要求しているから、仏自身はこの戒を破るわけがない。

仏は私たちに信じることを教えてくれた。その理由は、仏もわたしたちと同じく平凡な人間から修行を始めた。急に現れた仏はどこにもいない。人間に取りついてその人を成仏させる仏はどこにもいない。突然石から飛び出した仏はどこにもいない。ある日突然に菩薩が修行を教えてくれると夢見た仏もどこにもいない。諸仏は私たちと同様に、平凡な人間から地道に修行して仏果を証するようになった。だから、信じることができれば、きっと成仏する日が来る。しかし、その日は決して今世ではない。自分は学問が良い、頭が良い、賢くて能力がある、何でも分かると思う人もいるが、分かると言い出す途端、世間法に陥ったことになる。

何故運転できるのか。人生の経験があるからだ。今私たちが勉強しているのは以前の人の経験からのものだ。以前の人の経験に、人それぞれの考え方が加わると、別の経験になる。2つの博士号を取得するにしろ、10個の博士号を取得するにしろ、人生の経験法に過ぎない。人生の経験法は不思議なものだ。どの人も、地域も、民族も、国もそれぞれの人生経験法がある。複雑に言う必要はない。単に食事のことを例にあげよう。各地域の食事の方法はまちまちだ。同じ食材でも食べ方は異なっている。それぞれに違う心を持っているからだ。

仏法を学ぶ以上、経典の中も必ず菩薩を信じ、信じなければ学ぶことはできないと言っている。寶吉祥仏法センターでは、皆に『仏子行三十七頌』を唱えることを教えているのは、私たちが往生する前に生じる障害は家族に関することばかりのためだ。家族への愛情を抱く思いを改める、或は捨てなければならない。しかし、夫、妻子、子女がいないからこそ修行者だと言うことでもない。要はいわゆる恋、夫婦関係、生活の感情、子女はどれも縁に過ぎないと理解しなければならない。縁は生滅するもの、永遠なものではない。来た途端に、消える。多くの人は、この観念が納得できず、仏は四大皆空を求めると思っている。感情のない人間は慈悲を学ぶことができない。六道の衆生を有情衆と呼んだのは、感情を抱いているからだ。猫でも犬でも自分の子女には特に優しくするのだ。

有情衆は悩みが生じるので、死亡の時は苦しむ。自分の死期はまだ来ていないのに、たくさん心配するのは無用だと思う人もいるが、人、事、物に執着するようにもなれば、死ぬ時はきっと苦しくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去に開示したことがあるが、ポワ法を求めることができても、リンチェンドルジェ・リンポチェが約束してあげても、あなた自身に縁がなければ、何もできない。多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに連絡が取れないのは、教えを聞かないから、縁がないからと思っている。多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェは他人の話をしているから、自分には無関係だと思っている。しかし、どの話もあなたたちに関係している。どの人も同じ問題、即ち貪、瞋、痴、慢、疑を持っているからだ。

最近、ある弟子は往生した。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは海外にいた。彼女はポワ法を求めることがあったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを忘れた。彼女がポワ法を求めた時は恭敬心が欠けていた。ほかの弟子たちは、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に約束したことを思い出させてくれた。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女のためにポワ法を修めてあげた。修法の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にたっだ1つの念頭、『家に十数万元のお金があって、それを娘に残したい』という念頭があったことを知った。後からそのことが確かめられた。あなたたちは、こんな思いは間違いだろうかと思うかもしれない。もちろん、人間の観念から見れば、間違いではないが、学仏者にとっては、正しいことではない。

その弟子が死んだ時間は夜だった。リンチェンドルジェ・リンポチェには連絡が取れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは翌日の午前11時頃になって初めてそのことを知った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、人間は死後の8時間内に神識は体から離れないことを何回も開示した。彼女の遺体は冷凍庫に十数時間も保存されていた。本来腹水があった。道理から言えば、彼女は皈依したし、リンチェンドルジェ・リンポチェもポワ法を修めてあげると約束したから、彼女は往生の前に腹水があるはずがないのではないか。それらの腹水はどういうことだろうか。医者の観点から言えば、病気だ。しかし、仏法の点から言えば、それは貪欲だ。何を貪るにせよ、腹水は生じる。それらの水は自分の一生で飲み込んだ衆生だ。

あなたたちは、法会に参加したのに、なぜそれらの衆生は済度されなかったのかと言うかもしれない。法会に参加することは確かにそれらの衆生を済度することができるが、彼らの神識しか済度できない。あなたたちはまだ貪欲を持っているから、飲み込んだ栄養は残っている。この理由で、その弟子はまず寒氷地獄に入った。冷凍庫の中は大変寒いじゃないか、想像してみなさい。しかも、最初の8時間内にリンチェンドルジェ・リンポチェに連絡できなかった。どんな人が寒氷地獄に堕ちるのだろうか。貪欲のある人だ。そのため、この一生で何を貪るにしろ、寒氷地獄に堕ちる可能性は高い。感情に対する貪欲をも含むが、相手に振られるのを許せず、自分が相手を振ることだけを許す。これはもっとひどいことだ。寒氷地獄に堕ちるほか、その地獄から出てきたら、もう1つの屠る地獄が待っている。悪い心を持っているから、こんな目に遭わされるのだ。振られることは良いんだ、振られたら借りを返すことになる。でも、相手を振ったら、その相手に対して借りができることになる。どんなことに対しても受け身になってよい、自ら仕掛ける必要はない。しかし、男女を問わず、多くの人は納得できない。

最近往生したその弟子は、娘さんはそのお金を知らないから、心配していた。そのため、、寒氷地獄が現れ、そして貪欲があったから、お腹に腹水ができて餓鬼道に堕ちたこともあり得る。リンチェンドルジェ・リンポチェは数多くの人のためにポワ法を修めたが、その中1や2人位だけがリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したいと言った。ほかの人は一切そうは言わなかった。ただ自分の子女と家族のために願い求めたかった。人間の執着は大変恐ろしいもの、供養心を全く持たない。リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めてあげて阿弥陀仏の所に行かせることができる。それにしても、在世の時は上師が教えた仏法に対して疑いを抱き、自分は子女のためにやっているから大丈夫だと思う。やるなら、早めに子女に教えてあげるべきだ。子女は分からないと、死んでからまだそんなことを心配するのではない。早めにはっきりとすべきだ。しかし、今子女にお金をあげたら、自分は相手にされなくなる、或は子女は一銭も残らずに使ってしまうと心配する人は多い。皆が同じだ。

例えその弟子は未来に衆生を済度する機会があっても、まずは寒氷地獄、そして餓鬼道を経てからでないと、できないのだ。自業自得だ。毎回仏法を開示する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、『仏子行三十七頌』にある『親方貪心如水蕩、怨方嗔心似火燃』を繰り返して注意する。私たちの人生は数十年だけ、短いのだ。出会えた人、事、物は皆、結縁のために顕れてくれた。縁が尽きるとお別れだ。自分は学仏者だと思ったら、罣礙を抱くこともないはずだ。そんな罣礙の心を持っている人は、学仏者ではない。

昨日、ある弟子は怒られた。彼は健康が悪いのに、息子に会うためにフランスに行きたいから、1ヶ月の休みを取っていいか、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞いた。フランスに行くための航空券を買うお金があるのに、供養と善事をするためのお金が出せない。息子さんに会いに行くのは間違いではないが、問題は彼は体が弱い。向こうに行って、もし何かがあったら、またリンチェンドルジェ・リンポチェに加持してもらうことになる。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェに対してこのようなことばかりしている。多くの人は、息子に会って来たら安心できるとよく言うが、結局、またリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めて来る。海外にいる子女が心配なら、方法は2つだけだ。1ヶ月でなく、長く向こうで住むか、或は帰国して台湾で働くように子女に要求する。いくら言っても、いくら教えても、あなたたちは変わろうとしない。

なぜこのような問題が起きたか。理由は信じない。あなたたちは、大したことではないだろう、息子に会いたい位のことだ、いけないのか、と思うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の例を見せてあげよう。息子は間違った一言を言っただけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは2年息子に会ってあげなかった。あなたたちは、リンチェンドルジェ・リンポチェはに追従して学仏することを口にしながら、好き放題なだけしている。ある弟子の例だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは年始の時に、冷たいものを飲まないように皆に勧告した。しかし、ある弟子は肺が悪いのに、もっぱら冷たいものを飲んでいた。結局、体を悪くした挙句に、先週リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求めるために来た。言っても聞かない、叱っても聞かない。その弟子が最初にリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た時は死にかけていた。リンチェンドルジェ・リンポチェに命が救われたにもかかわらず、今彼の考え方はあなたたちと全く同じ、自分が求めた結果だと思っている。

釈迦牟尼仏は早めにこの世から離れたが、実は、仏の修行で世間に1000年も、10000年も残ることができる。菩薩は皆生死に対して自在だから、この世間に残ることができる。しかしながら、何故釈迦牟尼仏は早めに離れたのか。縁がなかったからだ。縁はどこにあるだろうか。皆はどうしても教えを聞かない。何があったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで来る。大変憎らしいのではないか。どの人も同じだ。そのため、経典は、『如来正真正覚無上菩提』を信じなければならないとはっきりと言っている。

経典に『信諸如来於一念中説三世事。』があるが、仏法を言うことが今のことを言っていると多くの人は思う。実はそうではないのだ。仏が仏法を教え始めた時、過去の因、現在はどう改めるか、未来にどんな結果が顕れるかについて全部話した。リンチェンドルジェ・リンポチェも同じだ。あなたたちに何かが起きた度に、過去は何をした、今はどうすればよい、全部を教えてあげたのに、あなたたちは信じない。本当にそうなのかと疑う。自分のしたことまで認めない。自分は何をしたのか、忘れた人もいるが、家に帰ったら、確かにそうなんだと思い出す。何故忘れたのか。信じないからだ。修行者の話は自分の三世のことを言っていると信じないからだ。はっきりと言ってくれなかったと言う人もいるが、仏経の中も人のそれぞれはどのくらいの過ちを犯したかをはっきりと言っていないし、修行に影響を与えるポイントしか言っていない。些細なところについて、普通は言わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王と釈迦牟尼仏に追従して仏法を学習したが、やり方に変わりはない。

今年の初めに、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に冷たいものを飲まないように勧告したが、実は、肺の悪い人に聞かせる話だった。しかし、信じない人がいるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは守ってくれる、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めれば加持が得られると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは早くから教えてあげたのに、聞いてくれる人がいない。仏は、利益衆生のことを口にして念頭に置く時、あなたたちが現在受けている苦しみを見るのではなく、あなたたちの未来を見るのだ。あなたたちは今こんなことをしている以上、未来のことは明らかだ。だから、仏は話し出すと、念頭が顕れると、過去にあなたたちのしたことかが分かるのだ。今の苦しみは過去の行為によるものだ。未来を変えたいなら、今すぐ過ちを改めなければならない。改めようとしないなら、未来はないのだ。仏の一念は三世のことが分かる。仏が仏法を教えるのは、今を変えたいからだと思ってはいけない。持咒するのは今のためだ、拝仏するのは今のためだと思ってはいけない。あなたたちの今は過去の結果、そして今やっていることは未来のためなのだ。

あなたたちは今、拝仏も、持咒もしたくない、上師が開示した仏法も聞かない。未来を期待することはできるわけがない。経典の中に、確かな教えがあるのだ。仏法とは、今のことを変えるものではなく、未来を変えるものだ。だから、皆に分かってほしいのは今からやり始めることだ。改めようとしなければ、未来はあり得ない。改めてほしいのは、仏は既にあなたの未来は三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)を見たからだ。拝仏でもしたら、三悪道には堕ちることはないとあなたたちは思うだろう。可能性は避けられない。最近往生したその弟子だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のためにポワ法を修めなかったら、十数万元のお金を娘さんにあげたいのを案じていた彼女は餓鬼道、地獄道に堕ちたかもしれない。その可能性が非常に高い。彼女は学仏、菜食、皈依をしていたから、堕ちることはないと思ったら間違いだ。それらのことは寒氷地獄にいる時間を短くするだけ、餓鬼道にいてほかの霊が食べることができなくても、彼女はまだ少しを食べることができるが、行くことは避けられないのだ。それも彼女の念頭によって引き起こしたことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちを責めたり、阻止したりしたが、理由は一念三世だ。一念であなたたちの三世(過去、現在、未来)のことを話す。三世は過去世、現在世、未来世のことではなく、念頭が生じると、動き始める。それはあなたの未来の因縁になる。しかし、仏と上師の念頭があなたを助けようと動き出そうとしても、あなたは聞かないのなら、全然役に立たない。あなたは依然として過去のしたこと、現在の起きていることのままに続けていく。そして、未来も同じ事が繰り返される。変わることはできない。

改める必要がない、人間は改めるものかと多くの人は思っているが、仏は人間にならないように教えてくれた。人間になりたいなら、あなたは仏法を学ばなくてよい。もし、仏は人間になろうと思ったら、方法を教えてくれるはずだった。人間になるのは簡単だ。孔子の言ったとおりにすれば、未来世も必ず人間になれるだろう。しかも、ほかの宗教を修めれば、未来も人間になれる。しかし、仏が教えてくれたのが人間になることではない。仏の教えを聞きたくないなら、ここに来る必要はない。私たちは現在人間の外見を有しているだけだが、未来は必ずしも人間になれるわけがない。

私たちは、諸如来の一念で三世を言うことを信じなければならない。どんな仏法を言うのも現在の利益を得る、或は現在を変えるためではない。現在を改める方法は何だろうか。現在は過去の因による果報だから、あなたは現在お金があるかどうか、恋は成功するかどうか、全部が過去の行為によるものだ。恋の成功や失敗のどっちも、必ずしも良いことではない。法には決まっている規則がない。世間のあらゆることは常に変わらないということもない。全てが因縁法、変わることのない業力でなければ、心が動くと、未来を変える。定業がまだ完全にできる前に、仏法を通して自分を変えるのがまだ可能なのだ。ふざけるような態度や講演を聞くような思いで仏法を学習してはならない。聞いた話をきちんとするのだ、自分を改めるのだ。

あなたたちは、リンチェンドルジェ・リンポチェは特に自分のことを言っていると思うかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの話は特定の人を対象にしていない。どの人も同じ過ちを犯すから、同じく貪瞋痴を持っているから、皆には同じことが起きるのだ。程度のはなはだしさが違うだけだ。だから、諸如来の一念で三世を言うことを信じなければならない。

次に、経典に『信如来蔵不老不死無量無辺不生不滅不常不断。』があるが、大事な一言だ。ある年に、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に付き添って香港のランタオ島にある仏寺に行った。当時、数人の出家男衆は直貢チェツァン法王に会見を求めた。その中の1人は『衆生には如来蔵があるか』と尋ねた。直貢チェツァン法王の中国語は文革時代に習った北京語だったが、香港で使われるのが広東の中国語、それに台湾で使われる中国語を加えると、当時は混乱していた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前にこの内容を読むことがなかったが、衆生には如来蔵があることを確信している。如来蔵は、仏性、本性とも呼ばれ、全ての有情衆生が仏と同じく持っている成仏条件であり、すなわち、如来蔵、仏性のことだ。経典は如来蔵を信じることを言っているから、それらの出家衆は『宝積経』にあるこの一言を読んだことがあったら、尋ねなかっただろう。人間は皆如来蔵という条件を持っていると信じなければならない。不老不死とは、如来蔵があったら、不老不死にならない意味ではない。仏性が不老不死、無量無辺のことだ。

ところが、無量無辺はどういう意味なのか。以前、禅宗には『心包太虚』という言い方があった。如来蔵は無量無辺であり、虚空を包むことができる意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年に閉関を終えた時、尊勝なる直貢チェツァン法王にこの言葉の意味を尋ねた。『心包太虚』ができるのは心に際(辺)があって量があること、物を包むなら際があるはず、容器があるからこそものを収納することができると聞いた。経典で言われた無量無辺は『心容太虚』のことを指している。太虚はいくら大きくても、全部飲み込めるのだ。包む必要はない。無量無辺だからできるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはインドにいた時、台湾にあった遺体の頭頂部に穴を開けることができたのも、この言葉が根拠だ。法性、仏性は無量無辺のもの、虚空の中に行けない場所、行けない隅はない。

仏光普照はあなたたちが思うように、人類だけを照らしていることではない。六道をずっと照らし続け、未来も必ず学仏、修行できる機会を六道の衆生に与える。如来蔵は無量無辺だが、私たちはあまりにも心が狭いから、本性を完全に表すことができない。『私』の彼氏、『私』のお金だと思って何時でもたくさんの執着を抱いている。この話は、気が狂ってものを全部他人にあげる意味ではない。この話の観念は、この一生においてどの人も、どのものも行き来しており、固定しておらず、止まって変わらないことがないと言っている。これは無常だ。学仏者の度量がますます大きくなるのは、仏性が無量無辺、どこにも行けると分かっているからだ。

如来蔵は不老不死、不生不滅だと分かったら、初めて涅槃の境界に入ることができる。生滅、老死があると思ったら、入ることはできない。あなたたちにとって、今は遠くて触れることもできない境界だが、これを体得して理解しなければならない。不生不滅、不常不断とは、たくさんの悪業をして地獄道に堕ちても如来蔵はあることだ。如来蔵は変わらない。変わるのが業力だ。私たちが改めなければならないのは、如来蔵を遮る障害を捨てることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に開示しているが、学仏はあなたたちに何をあげるのではなく、捨てることを教えてあげるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故なんでも分かっているか。理解できない人は多いが、それが、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんのものを捨てたからだ。

物を捨て、如来蔵を少し出すことができたら、大したことだ。どんなレーザー光線よりもはっきりと見えて来る。リンチェンドルジェ・リンポチェの前に来たら、リンチェンドルジェ・リンポチェは手を出して走査しなくても、その人の体にどんな状況があるかがはっきりと言える。如来蔵がその理由だ。如来蔵はどんなものでも通過できる。衆生は仏、リンチェンドルジェ・リンポチェと縁があったら、リンチェンドルジェ・リンポチェはなんでも分かるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに見通されるのが怖いと言う人もいるが、こんなことを言う人は改めたくない。改めたければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を助けたいから、問題を指摘してくれると思う。怖いと思う人は改めたい意志を持っていない。

最近往生したその弟子の娘さんはリンチェンドルジェ・リンポチェに会うのを怯えている。彼女が初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た時に責められたから、今になっても来ようとしない。これは改めたくないことだ。改めたいと思う人は怒られても恐れない。自分の過ちを認めない人こそ、改めることがないし、絶えずに過ちを犯す。しかし、如来蔵と言う宝を信じることができたら、必ず改められる。あなたたちは修行しているのに、改めることはしない。それは如来蔵を信じず、異教の方法で修行し続けていることだ。冤親債主のために大悲咒でもたくさん唱えればよい、菩薩にたくさん求めれば開悟できると、あなたたちは思うだろうが、これらは何れも助縁に過ぎない。いらないものを捨てることも分からなければ、助けてくれる人はいないはずだ。名利を求めない、法を広める上師しかいない。このような上師だけが助けてあげる資格があり、しかも、常にあなたの問題を指摘する。

あなたの問題を指摘しない上師だったら、如法な上師ではない可能性がある。上師はあなたの問題を言わなければ、あなたはただの信衆としてしか見られない可能性がある。参拝したい時だけ来ればよいし、参拝したくなくても構わない。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めた信衆がいた。父親のことをたくさん言い、最後に父親のために何ができるかと尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日2000回の大礼拝をしたら、必ず父親のためになると答えた。そしてできるかと彼に聞いた。その信衆はできると答えたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にまず試みで道場でやってもらった。

結局、80数回をやって彼は既に息が激しくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは座前に来るように彼を呼んで如何かと聞いた。彼は気持ちいいと答えた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そうだったら続けなさいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェが下座の時に、彼は130回以上も参拝した。結局、休まなければならなかった。彼は家に帰って参拝を続けるといった。それは口だけの強がりだった。2000回の参拝は30歳以下の出家衆ができるかもしれないが、家でするのが難しい。彼の観念は自分がすごいと思って如来、仏、菩薩、上師を信じず、自分だけを信じる。

そして、経典に『信諸仏実際法界一切智。』がある。全ての諸仏は実際法界にいることを信じる意味だ。実際法界とは菩薩や平凡な人間が体得できる法界のことではない。法界は具体的に存在している空間ではない。今、三次元空間はよく言われているが、科学においても五次元と六次元の空間が発見された。宇宙に十次元の空間があるはずと思われている。仏法の観点から言えば、十次元空間は十方法界であり、六道、声聞、縁覚、辟支仏と仏を含む境界である。ここで言う実際法界は十法界とは異なり、仏の境界を指している。

仏の境界を体得するには、どうすればよいか。リンチェンドルジェ・リンポチェも分からない。仏果を証得していないからだ。でも、今は修行者として皆に実際法界の意味を話すことができる。実際法界は肉体や思想で動かす必要がなく、自然に衆生の心が動いていることが理解できる。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆の内面は何を思っているかを見通すことができる。神通で言えば、他心通のことだ。何故他心通ができるのか。修行者自身は1つの法界に入っているから、自分自身にとってもはや寿者相はない、即ち時空の差異がないことだ。寿者相をなくすにはどうしたらよいか。心が落ち着いたら、時間に操られることがなく、衆生相を破ることができ、私とあなたの区別もなく、衆生の心を理解することができる。これはいわゆる法界だ。

この程度まで修行したいなら、たくさんのものを捨てなければならない。この能力を持っている人が羨ましいと思わないほうがいい。こんな人はたくさんの苦行を経験した。世間に鬼通を持っている人がいるが、霊から能力をもらった人のことだが、こんな人はあなたたちの過去のことを言うと、よく当たるが、未来のことは当たるとは限らない。仏法の如法修行をしない神通者が言う吉凶のことを信じてはならない。仏は、吉凶をよく言う者は決して修行者ではないと言った。常に吉凶のことで信衆、弟子を引き付けようとする人は、決して本当の修行者ではない。本当の修行者は、あなたのためになることを言う。言ったら、もしあなたは決めようとしない、やろうとしなくても無理に要求しない。あなたたちの後に2人か数人かがついていると言いたがる人がいるが、そんな人はあなたたちを脅かし、ついて来たから大悲咒を唱えてあげなさいと言う。これこそ釈迦牟尼仏の言った『吉凶を言うことが好き』のことだ。

実際法界の存在空間は平凡な人間が体得できるものではない。実際法界にいるからこそ、虚空の全体において発生する全てのことが分かる。今の天文学の研究で証明されたことだが、大変遠い昔に銀河系で爆発した時の光と影は今になって初めて私たちの所に来たそうだ。それは数十億万年も前のことだった。だから、私たちは過去に起きたことが分かるし、未来に起きることも分かる。差別は時空だけだ。仏が言った実際法界は全く動かない。仏にとっては、4つの相がないから、虚空の全体にいる衆生の心が分かる。どの空間、世間に仏法が必要とされていることも分かる。縁があれば、仏は行く。実際法界は決して私たちのような平凡な人間が理解できるものではない。そのため、経典は実際法界一切智を信じることを言った。

仏の境界に全ての知恵が備わっている。薬師仏にはただ薬師仏の知恵を持っている、阿弥陀仏にはただ阿弥陀仏浄土の知恵を持っている、決してそうではない。全部の智を含んでおり、つまり空性を理解する全ての方法、及び衆生を助ける、成仏のため衆生を利益する全ての方法を含んでいる。薬師仏は病気を治す方法だけを教えてくれる、阿弥陀仏は浄土に行く方法だけを教えてくれる、釈迦牟尼仏は出家することだけを教えてくれる、決してそうではないのだ。このような観念は正しくない。仏は皆一切智(あらゆる知恵)を持っている。

経典にまた『一切智人所知力無所畏。』がある。前に一切智を触れたが、それは仏が円満な知恵を持っていることだ。次は、人が知っていることが、仏は分かることについて話す。地球やほかの世界にいる人類を問わず、仏はその生活習慣、経験法則の全てが分かるから、畏懼するものはない。仏は、人間の知恵は後から得られるものだと分かり、つまり人生経験に修行を加えて得られるものだとはっきりと分かる。この力があったから畏懼するものはない。生死のこと、全ての六波羅蜜等々の修行法門についてよく理解するから、衆生から無理に要求されても何も畏懼しない。

前に往生した弟子のことみたいに、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女は娘さんにあげたい十数万元のお金を案じていたことを知っていても、ポワ法を修めてあげた。そのお金はリンチェンドルジェ・リンポチェにあげるものではなかったから、実際に、リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めてあげるのをやめてもよかった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは正直だ。死者はリンチェンドルジェ・リンポチェにあげるとは言わなかった、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して自分にくれるものだと言わない。他人だったら、死者の娘さんにそのお金は修法者にあげるものだと言ったかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘘をつかない。

無所畏とは仏法を修行する際、世間のいろんなことでへこんだり、念頭が生じたりしない意味だ。衆生が願って求め、リンチェンドルジェ・リンポチェもそれに応じたなら、縁が来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェはやるべきのことをする。そのことをして自分に利益や害が生じようとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは畏懼しない。畏懼は怖がることではない、退転しない心であり、何らかの名聞利養で止まって動かないことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは約束を守る。約束しないことなら、あなたたちはいくら無理して求めても、リンチェンドルジェ・リンポチェはしない。

経典にも『不共仏法信諸如来無見頂相。』がある。不共とは、今リンチェンドルジェ・リンポチェが開示している菩薩道は声聞縁覚を修める人にとって、今日の仏法は自分に無関係であり、自分の共同学習をしている法門とは違うと思うようなことだ。厳密に言えば、相の観点から言うと、私たちは仏の頭頂部を見ることができない。仏の境界に達しなかったら、仏の一切の相も分からない。よく聞くことだが、誰かがたくさんの修行して今は観音菩薩のように見えるという話をよく聞くが、どの観音菩薩のことだろうか。チベットの、中国の、それとも日本や韓国の観音菩薩に似ているだろうか。私たちには仏相に会う資格がない。

そして、頂とは、1つの意味では衆生は仏の頂上部が見られないことだ。何故見られないのかと疑問が出るだろう。仏の頂上部を見ようと念頭が生じると、貢高我慢になるから、仏は直ちに変わる。成仏してからでないと、仏の頂上部が見られない。もう1つの意味は、仏の頂上部は一切の実際法界の最上部にある成仏の方法であり、私たちはその境界に達していないから、見られない。だから、存在することを信じるしかない。仏は私たちを騙したりしない。私たちはやる能力がない、実践していないが、存在しないというわけではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが皈依したばかりの時のことだが、皈依した当日の夜、『宝積経』の夢を見た。自分は仏寺の前にいてドアを開けた途端に釈迦牟尼仏が放したとても強い金色の光を見たが、目に入ったのは仏像だけ、頂上部は見られなかった。『宝積経』はどんな人がこのような夢を見る資格があるかを言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはその夢のことを開示したから、あなたたちは家に帰って同じ夢を見ても同じことだとは言えない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその夢を見る前に、誰からも聞いたことがなかった。その夢にはたくさんの細部のことがあるが、今日は説明を止めておく。

経典にはまた『信諸如来三十二相八十種好荘厳其身身有円光。』がある。仏経では何度も触れられたが、仏は必ず32相、80種の好を修めることができる。仏には仏の様子があり、菩薩には菩薩の様子がある。そして、阿羅漢には阿羅漢の様子がある。様子とは、あなたたちの家で拝んでいる観音菩薩に似ている様子ではない。仏経に記載された32個の相のことだ。仏経によると、仏の足底に法輪があり、それは修得した仏果から自然にできたものだ。そして、ある親戚は仏のことを信じる人が多かったのは仏の足底に法輪があったからと思って自分の足の裏にも鉄器をはめ込んだ。結局、当時の消毒がまずかったため、足が炎症を起こして豚足みたいに足がひどく腫れた。仏はその腫れを治すように加持してあげなければならなかった。

この話から、わざと作り上げたものは無用だと分かる。きちんと修行して得なければならない。修行ができると、相は変わる。密法を修めて密法修行の相ができることと同じだ。あなたたちは好奇心で一所懸命見ようとするだろうが、それは無駄なことだから、今日はその話をしない。密乗の修行ができた上師は、骨に特別な変化が起きて相も顕れる。仏はこれを有していることを、私たちは信じなければならない。仏の福慧は円満であるため、32相が顕れるが、一般の菩薩、声聞縁覚が持っている相ではない。この相は、私たちが執着している仏の相ではない。仏の福は円満であるため、自然に顕れた相のことだ。仏が作り上げた、或は想像したものではない。福報が円満だから顕れた相だ。

荘厳其身とは32相、80種の好があるから、仏の法身は荘厳だという意味だ。身有円光とは、仏の光は放射状ではなく円状になっており、頂上部だけでなく、背中からも円状の光を放す意味だ。壇城に供奉している釈迦牟尼仏の背中に円状の光があるが、その上に天竜八部が加え付けられただけだ。仏に円状の光があるのは、仏の光は十方の法界を照らすためのものだ。どの毛穴からも仏の光が放っている。仏経にはないが、密法の修行は行部の時に、このような観想が教えられる。

そして経典にある『信声聞所説縁覚所説菩薩所説。』だが、どの法門を修行しようとしても、声聞縁覚の教えは何れも仏法からのものだと、菩薩の教えも仏法からのものだと信じなければならない。菩薩の教えは菩薩自身が発明した、或は声聞縁覚の教えは自分に関係がない、自分は大乗仏法の修行をしていると思ってはならない。

大乗仏法の修行だといっても、四聖諦法と十二因縁法について少々理解する必要はある。仏は仏法を広め始めた頃、四聖諦法と十二因縁法を教えていたから、全ての仏法の始まりはこの2つの法である。四聖諦法と十二因縁法は阿羅漢の修行する法門、私たちが学んでいるのは阿羅漢ではなく、菩薩道だといっても、声聞縁覚の教えも仏の教えだ。私たちは拒否、批判や中傷してはならない。その修行の法門は度量がより小さいから、声聞縁覚しか証得できないと言うのはいいけど、その法門は仏法ではない、よくないと言ってはならない。こんな言い方は信じないのと同じだ。なぜならば、これも仏の教えを信じないわけである。

菩薩が仰った事を信じることは尚更に多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が菩薩だと敢えて言えないが、少なくとも菩薩道の修行をしている。菩薩道を学ぶ菩薩が嬉笑したり、怒罵したりするのも仏法だ。一日中じっとしてゆっくりと話さなければならないことはない。じっとして変わらないのは、決して菩薩ではない。菩薩が済度するのはただ1種の人ではないからだ。話に絶えずに嘆きを漏らしたり、ゆっくりと話したりする人もいるが、そのような話は聞きずらい。1つの方法しか使わないのが、菩薩ではない。菩薩は対象に応じてそれぞれに適用する方法で教える。衆生の縁に合わせて役に立つ方法を教える。

あなたたちは菩薩の教えを信じなければならない。前に言った冷たいものを飲んだ弟子は、菩薩の教えを信じず、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えは修行ではなく、ただ飲食上の注意に過ぎないと思った。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供のことを心配しないように教えたが、これは仏法の開示ではないと思う弟子がいた。これも菩薩の教えを信じなかったから、そのように思えた。最近往生した弟子のことだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に『仏子行三十七頌』を教え続けて来たが、彼女は信じなかった。これも菩薩の教えを信じないことだ。『仏子行三十七頌』はリンチェンドルジェ・リンポチェが書いたものではない。観音菩薩の教えだ。菩薩の教えを信じなければ、不運になるのも自分だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの話に仏法名詞が使われなかったから、仏法ではないと思う人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは敢えて自分が菩薩だと言えないが、大変努力して菩薩道の修行に精進していることは言える。リンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩道の修行をしている以上、どのことも、どの仕草も衆生を利益したい、衆生のこの一生における全てのことを引き出してあげたい。引き出せなければ、どうしよう。菩薩の教えを信じない人は以後になって分かるだろう。多くの人は、自分は修行していて自分の過ちは何かを見ようと思うが、過ちは過ちだ、見る必要はない。過ちをしなかったら、上師も嫌味を言わない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちと友達になりたい、それとも世間法を修行してあなたたちの生活を幸せにしたいでも思っているのか。

受け入れた供養を返却することを聞いたことがあるだろうか。近々、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の供養を返却した。その弟子は金銭に執着があったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは破ってあげなかったら、彼の未来はどうなるだろうか。金銭に執念を持っている人が畜生道に戻って来る可能性がある。福報のあるペット、犬や猫になる可能性がある。

更に、経典は『及信所有善言説者。』を言った。重要な言葉だ。私たちは誰でも優しい言葉が好きだが、善言は必ずしも優しい言葉ではない。私たちの人生、未来に役立つ言葉であれば、何れも善言だ。助けてあげることは金儲け、順調な恋、元気な体にしてあげることではない。あなた自身の性格、欠点について絶えずに注意してあげることだ。言ってあげる意見は良いものでなくても、意見だから、ちゃんと受け入れるのだ。言ってあげる意見が良いものであっても、意見だから、もっと聞こう。良い意見は必ずしも良いものではないが、悪い意見も必ずしも悪いものではない。ゆっくりと話す言葉は必ずしも善言ではないが、嘆きを漏らすように『菩薩、また戻ってきましたね』と言った話は善言ではない。

本当に善を抱く人はせっかちだ。親は子供を教える時ゆっくりと話すだろうか。親は脳中卒でなければ、子供を教える時にゆっくりと話すこともないし、優しい言葉も言わないだろう。仏はあまりにも慈悲だ。経典を通して何度も私たちに教えようとして来た。菩薩と声聞縁覚の教えを聞く因縁福報がなくても、せめて善者の善言を信じるのだ。多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る時に、自分は憂鬱でいろんなことを言うが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそんな人に、修行しなくてよい、孔子の本でも読めばよいと告げる。理由は何だろうか。彼らには修行する資格がないからだ。孔子の教えは何れも善に係るもの、礼儀廉恥が知りたいなら、本を読むだけでも役に立つ。

仏の知恵は円満のものだ。あなたたちが考えられるあらゆるの所、仏は一歩先に手を打ってある。菩薩に会えなかったら、誰が菩薩なのか分かるもんか、阿羅漢に会えなかったらどうしようと言い返す人もいる。そのため、経典に、あらゆる善言を聞きなさいという言葉がこの後にすぐ書かれている。中国人の数千年の文化における倫理道徳に関する善の言葉を、私たちはたくさん聞いて来た。しかも、聞くほど簡単ではなく、信じなければならないのだ。今の世界は大変乱れているのは教えを信じないからだ。相手の話は自分に役立たないから、聞かなくていいと思い、信じない。

信の定義は、話を聞いたら、自分の行為、言葉、仕草と思想を調整、変更することだ。こんな人こそ、仏法を学ぶ資格がある。善言をあげても受け入れない、相手は敵対している、自分のことを嫉妬していると思うような人は資格がないのだ。職場も含めて自分を批判し、仕事をしっかりとやっていないと言う指摘も全部善言だ。批判を受けなければ、進歩することはできない。自分はよくやっているのに、批判されるのは御免だと思ったら、何時までも進歩できない。また、自分はたくさん尽くしたのに、相手は悪いと思ったら、進歩も望めない。何かに夢中しないように言われても聞かない。これも進歩のないことだ。だから、善言を信じなければならない。

経典も『信此世過世、信正行者住正行者。』を言った。この言葉は、因果を必ず信じ、現在世と過去世を信じ、現在世の遭遇は全て過去世の結果だと信じる意味だ。過去世において何の善因も悪因も植えなかったら、現在世においては得られない。接触する縁があっても、現在世において継続することはない。次の縁まで、つまり次の世までだけだ。そのため、学仏者、菩薩道の修行者、現在世で生死を解脱したい人は、過去、未来、現在世を固く信じなければならない。自分の何れの行為も、何れの念頭も未来に影響する。

戒律を守るのは、処罰することではない、優しくしてあげないことでもない。身口意に基準を与えることだ。基準があったら、物事をする時自然に方法が分かる。その基準を守って行動して自分の思うままにならなくても、自分の未来を害することはない。あなたたちの心はいつも欲望と要求を思っている。あなたたちの運命に福、金銭があれば、速く得られるが、運命になければ、騙してどんな手を使っても取りたいなら、得られるものは消えてしまう。例えば、あなたの運命は誰かがとの縁が短い。努力を尽くしてその人を自分のそばにいてもらうようにしても、結局は自分を傷つけるだけでなく、他人の優しさを利用することになってしまう。全てのことを縁に任せる。良い縁でも、悪い縁でも嬉しく受け止める。良い縁も悪い縁もない。全部自分自身の縁だ。

『信此世過世』は死亡のことではない。現在世と過去世に段落は付けられていない意味だ。現在世に生まれることは、過去世と全く無関係ではない。現在世に生まれる家庭、成長の過程、知り合う友達、何れも過去世に係っている。この観点から、今のしていることは全て未来に係っていると、皆はもう理解できるだろう。過去世と現在世を信じない人の未来は恐ろしい。自分を甘やかしてやり放題なことをしたり、やたらに他人にはめられたと言ったりする。未来は善悪から得られるものだと思い、邪魔する人、事、物を消せば得られると思うのは因果を信じないことだ。

『信正行者住正行者』とは、正法を行動で示す人を信じることだ。正法を実行することは、どれくらい参拝する、或は仏経をどれくらい唱えたら、どのよな結果になることではない。全ての行為は、単純に名聞利養のためでもない、或は信衆と御捻りを増やしたいためでもない、生死の解脱、利益衆生のためだと分からせてくれるものだ。このように実行する者がいたら、正行者だ。全ての行動を正確に仏法で表す。住正行者は中に住むことではなく、心はそのとおりだと言っている。利益のために仏法を捻じ曲げたりしない。名聞利養のために仏法を捨てたりしない。生死ほどの大事なことについて決して妥協したりしない。目の前の小さな利益のために変えたりしない。このような修行者に会えたら、信じるのだ。

続いて経典には『若有沙門若婆羅門、信善業果甚可愛楽微妙最勝。』がある。善業果を信じる出家衆や在家の修行者がいたら、それは全ての業は善によって得られた果だと信じていることだ。『可愛楽微妙最勝』とは、善を行い続けたら、必ず果報が予測できる、しかも非常に微妙だと言っている。即ち、本当の善果は目に見えるほど突然にすごくなって顕れるものではなく、ゆっくりと、少しずつ、知らないうちに変わるものだ。その変わり方は大げさなものでなく、いつも宣伝して見せつけるものでなく、ちょっとずつ良くなって見えて来るものだ。微妙にはもう1つの定義がある。心が微妙に変わる意味だ。学仏者の心の変化は、すぐに別人のようになったと感じることはない。以前最も嫌だったのことに対して今はどうでもいいように思える、以前大変好きなことは今になってそれほど大事でもないように思えると、何時か不意に感じる。これはとても微妙な変化だ。

このような変化は今すぐ深く感じられ、体得できるものではない。理由は、心の念頭は大変複雑である上、頻繁に顕れる。あなたたちの思うように、物事を考えるのに数秒は必要だと言うことではない。1秒間に生じる念頭は10万以上もあるが、自分は全く気づかない。しかし、長期の薫陶、訓練と信念を通して心は善に向かって変化するから、全ての行為は善業を中心としていたら、自然に心も微妙に調整できる。そして、最後には全ての善は殊勝なものだと感じられる。殊勝の意味は、善を行って善果が得られることではない。善行で得られる善果を通してもっと多くの衆生を助けることにある。意味は、ますますお金持ちになったら、金銭のほうではなく、善業が大きく、多くなったら、一切の悪を断ち切るように自分に役立つ以外、ほかに助けが必要な衆生を助けることもできる。

多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったら学仏したいと表す。何故学仏したいのかと聞いたら、答えは衆生を助けたいからだと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも『十善業を修行しなかったら、衆生を助けることができないだろう。』と教えてあげる。例えば、あなたは寄付したい。お金がなければ、寄付できないだろう。せめてお金を稼いでからでないと、衆生を助けるための寄付はできない。修行も同じことだ。『可愛楽』は、自然に事を知って楽しめる意味だ。楽しめることは良いものを食べて良い生活を過ごすことではない。恐怖の心が消えることだ。悪果ができても怖くない。人生に彷徨いはない。未来を恐れない。自分のあらゆる行為は善のものだから、悪果が顕れても、善の因を植えたから、未来に善果はきっと顕れる。

だから、悪果が顕れても時間は短い。善行を努力し続けたら、悪果が顕れる時間は短くなる。悪いことが起きても負けない。悪果が顕れる時は、もっと善行のために努力しなければならない。自分の過ちが分かったから、都合の悪いことができたのが過去に過ちを犯したからだ。だから、もっと精進、努力して自分の心を調整し、善の業力を貯め続けたら、善果は自然に顕れる。善果が顕れると、悪果は自然に消える。悪果が顕れても、諦めて死んでしまおうと思ってはならない。死は別の悪業だ。自分の行為で他人を悲しませることは全て悪業だ。自分のために泣いてくれていると思ってはなならい。残酷なことだ。自分のために泣かせることは、英語のsentimentalと同じ、感傷的という意味だ。自分のために感傷的になる人はいるだろうか。女性は感傷的になると、相は悪くなる。きっと醜くなる。林黛玉のような人はもう時代遅れだ。

仏法は特別なものであり、あなたたちに感傷的になれ、何かの情景に触れて感情的になれ、何かの名前を聞いて泣け等、要求はしない。仏経には、たくさん泣くと、泣魔が取りついてしまうとの言い方がある。泣魔は本当にいる。毎日泣いていたら、泣魔は本当に来る。仲間が見つかったと、自分に取りついてしまう。仏法は、未来を変えることを私たちに教えて勧めてくれている。未来を変えたい以上、過去の行為による結果は今に顕れているから、振り向かう必要はない。自分の未来を変えなければならない。

それから、経典は『所謂若天天主若人人主、信不善果不可愛楽苦悩無量。』を言った。天の天帝、人間の国王だったら、不善果は不可愛だと信じなければならない。つまり、不善果は無量の苦悩を生むものだと信じなければ、天帝と人間の国王になる資格はないことだ。人間の国王、天の天主だったら、一切の善業を行わなければならない。一切の悪い果をしてはならない。天も人間も不善のことをしてはいけないから、仏菩薩は言うまでもない。仏菩薩は私たちを処罰しない、私たちは信じないからだと言って私たちを処罰することはないと、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも開示している。

悪行をする時、悩みも尽きない。誰かに対して怨みを抱くのも悪だ。相手は自分に悪いことをした、自分は相手のためにたくさんしてあげたと思うが、何をしてあげただろうか。この体はあなたのものではない。親からもらったものだ。大人にでもなったら、体は自分のものになると思うのか。自分だけがしてあげたのに、相手は何もしてくれなかったと思うのか。喜ばしてくれたから、何かしてあげようと思ったのではないか。相手はいくらのことを考えてくれたら、あなたは何かをしてあげようと思えるようになるのか。こんなことを言う人は、悪行をし始めている。こんなことを思うなら、売買でもすればよい。どれくらいの時間をくれたら、自分は何かしてあげると、はっきりと相手に打ち明ければよい。契約でもすればいいんじゃないか。

人間は愚かだ。終日このようなことで悩んでいる。恋、夫婦、子女、両親についてなんでも悩む。子供を育てるのにたくさんの苦労をしたが、年取ると、子供は皆親孝行をしてくれないと言う人はいるが、このような言い方は売買と同じではないか。親が子供を育てるのは当たり前のことだ。子供は親孝行をしてくれるかどうか、自分の福報に関係がある。今日開示する仏法は意味が大変奥深いようだが、私たちの日常生活には大事なことだ。敵なんかいない。敵は皆、以前私たち自身が呼んで来たものだ。私たちが執着を持っているから、恨む相手が現れるのだ。

執着でもしなければ、私たちに悪いことをする人がいるはずはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはよく自分の例で開示したが、聞き入れる人は1人もいない。リンポチェのことだからとしか思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェも平凡な人間から修行を始めたことを忘れないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは生まれつきでリンポチェになったわけではない。転生でリンポチェになったわけではない。今世において修行した結果なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも改めることができたのに、あなたたちは何故改められないのか。簡単に言えば、あなたたちは信じない。信じず、頑として冷たいものを飲みたい弟子がいた。その行為から、その人はきっと改めないと分かる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の息子を罰して2年半もなったが、今になって信じる人は1人もいない。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子は特別だと思う。何が特別だと言うのか。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子はたっだ一言を間違えただけだ。それでも、信じない弟子がいる。フランスに行って息子に会いたいと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したが、海外まで行って子供に会いに行った年寄りは何人かいたが、お金を全部持って行って蓄積を残らずに帰って来て生活が苦しくなった人もいるが、命を危うくして帰って来た人もいる。あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはお節介でもあなたたちのことを構う。あなたたちの子供は皈依弟子ではないから、彼らのことはどうでもいい。

その弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ自分のような年寄りのことを構うのかなと思っただろう。彼は地獄に堕ちる可能性があったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは憐れみを思った。息子に会うのがいいことだと、あなたたちは思うだろうが、以前に同じことがあった。2人の弟子は子供に会えたらそれでいいと思ったが、結局帰って来た後、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持と真言を求めた。

経典もまた『或在地獄或在餓鬼或在畜生、彼菩薩如是信己得離三法、一疑二惑三不決定。』を言った。悪行でもしたら、天主にせよ、人類の国王にせよ、地獄、餓鬼 と畜生道に堕ちる可能性はあるのだ。もし、菩薩は仏が教えた前述の全てを信じるなら、必ず3つの法、即ち疑、惑、不決定から離れる。あなたたちはこの3つ全部持っている。一疑、リンチェンドルジェ・リンポチェの言ったことを見なかったから、本当なのかなと疑う。二惑、自分にはできないと思う。三不決定、あなたたち全員は輪廻の世間から離れようと決めていない。

決めることは言い出せばよいと思う人は多いが、実はそうではない。もし、最近往生したその弟子だが、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めてあげると約束しなかったら、必ず輪廻するに違いない。彼女は娘さんのことでたくさんの執着を持ち、死んだ後もその念頭を捨てようとしなかったのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは年だから、迷惑をかけてはいけないとも思わなかった。これが理由だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの死者のために修法してあげたにもかかわらず、リンチェンドルジェ・リンポチェを構う死者は1人もいなかった。

前に言ったことを全部、あなたたちは信じることができたら、疑、惑と不決定は決して存在しない。信じないから、この3つは何時までも存在する。あなたたちは聞けば聞くほど怖くなるだろう。『宝積経』の内容は全部、私たちを責めるもの、どの言葉も私たちを非難している。あなたたちは、自分はよく修行できており、自分は信じていると思うが、前に開示した内容を100% 実行している人は1人もいない。あなたたちは、自分は修行している、自分は修得した、自分は大変精進、用心、発心、発願をしていると思うが、これらの内容さえを実践していない、発願できるわけがない。あなたたちは如来蔵は必ず存在していることと仏の知恵を信じない。仏は自分に会っていないから、仏の知恵が感じられないと思っている。

そして、経典は『善男子、菩薩摩訶薩、成就如是信。』を言った。疑、惑、不決定を離れて初めて信の成就が生まれる。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもあなたたちを責めているが、何故だろうか。あなたたちの出離心は決意をしなければならない。決意できた人は何人いるか。死ぬ前に息子に会えたら出離しようと思う人がいるが、結局会ったら、出離できなくなる。会いに行ったら、もし息子があまりにも気持ちよく過ごしているのを見ても嬉しくないし、息子が惨めな生活をしているのを見ても嬉しくない。こんな状態では出離しようがない。息子の彼女に会ってどうしても自分の嫁には思えず、息子の世話ができないからと思って機嫌を悪くする。これは疑、惑 、不決定だ。大したことじやない、必要な時にリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲で助けてくれると思うだろう。しかし、万が一リンチェンドルジェ・リンポチェは死んだ、或は閉関中、或は電話で連絡できなかったら、あなたはどうするつもりなのか。

道場ではこんなことがよく起きている。疑、惑、不決定の3つが存在しているからだ。この3つが存在する限り、信の成就はできない。信の成就がなければ、後のことを言う必要もない。仏経を唱えても人天福報が得られるだけ、未来世に役立つだけだ。たくさんの弟子は過ちを犯すが、それは疑、惑、不決定があり、自分には修得できると思っているからだ。信じることでさえできないから、修行できるはずもない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはよく言ったが、尊勝なる直貢チェツァン法王が教えてくれる法だったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部修める。何故その法を修めるのか、修めてどうなるかと聞かない。リンチェンドルジェ・リンポチェは上師を信じているからだ。直貢チェツァン法王が教えてくれるものは、必ず衆生に役立つ。どのくらい修めるか、どうしたらよいかと、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞かない。

実際に、上師はいつも弟子のことを見ている。ある出家弟子は大礼拝のやり方を間違えたことみたいに、彼自身はその間違いが分からなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは一目で分かった。上師がいなかったら、自分の間違いにも気づかず、大変恭敬に参拝できていると思い込むだろう。信成就の修行をまだ始めていないなら、せめて十善法をきちんと修めることだ。十善法の修行もできないなら、学校に戻って『論語』を読みなさい。学仏して仏法と上師を踏みにじんてほしくない。あなたたちが信じないことは、上師を踏みにじむのと同じだ。皆が集まってレストランで食事をしたら、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェの前に来て自慢する弟子がいるが、自慢できることだろうが。それが供養でも思ったのか。全く信じていないことだ。

『宝積経』では、釈迦牟尼仏はこの言葉の意味を説明するため、わざわざ『信為増上乗、信者是仏子、是故有智者、応常親近信、信是世間最、信者無窮乏、是故有智者、応常親近信、若不信之人、不生諸白法、猶如焼種子、不生根牙等。』という偈を開示した。

この偈の内容はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示と同じ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前にこれを学んだと言うことだ。偈の最後に、信じないことは種を焼き尽くしたのと同じだから、根と芽が萌えるわけがないと言っている。信がなければ、何も全てもない。不生諸白法は善法を生じない意味。念仏でもすれば、白法があると思ってはいけない。白法に対して仏の定義は、私たちの生死を解脱してくれる方法だ。念仏は必ず役に立つが、人天福報くらいができる。極端に言えば畜生の福報ができる可能性もある。仏法には関係がない。釈迦牟尼仏は、皆は理解できず、複雑だと思うからと思って偈を開示した。信は一切の仏法において最も重要な修行であり、信を持っている人こそ仏の弟子だと教えてくれた。

仏の弟子は信じなければならない。自分の方法で仏法を学んだり、仏に求めたりするのが仏の弟子ではない。『是故有智者、応常親近信』は、仏法を信じる全ての修行者を信じることを言っている。『信是世間最』は、信は世間で最も重要なこと、最高の宝だという意味だ。『信者無窮乏』は、信じることができたら、窮乏になることはない意味だ。これを世間法と出世法に分けることができる。あなたたちには、ただ諸仏菩薩の教えを全部信じて実行することが必要だ。出世法の定義から言えば、信じる以上、きっと学べる。信じたら、諸仏菩薩はたくさんの因縁で学ばせてくれる、どこか叱責してくれる所に導いてくれる。あなたたちは拝仏していたから、寶吉祥仏法センターにあなたたちを送り込んで叱りを受けさせることのようだ。役立たないことではない。窮乏しないことは、仏法が聞けず、学べないことがないことだ。世間のことによってあなたは食べられるご飯、住む所がないこともない。

『若不信之人、不生諸白法、猶如焼種子、不生根牙等』、この言葉は善男子ではなく、人のことを言っている。仏の教えた一切の方法を信じなければ、生死を解脱してくれる何れの白法が生じることは決してあり得ない。種を焼き尽くしたように、根も芽も萌えることがない。この篇の内容は全部、修行者を責めている。修行者は、自分は信じていると思うが、そうではないのだ。今日の開示を聞き終えたら、皆は家に帰って自分は信じているかを反省してみなさい。信じていなかったら、あなたの修行は全部自分のためのものだ。亜旗は自分の修行は上出来だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは平凡な人間から修行をし始めて尊勝なる直貢チェツァン法王に果位を認めてもらえたのは、信じていたからだ。信じたから、白法が顕れ、利益衆生のためにできる。

自分だけを信じる人は修得できるわけがない。何時でも自分は堪能だと思って自分の過ちが知らない人も修得できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは怒っていると思う人も、リンチェンドルジェ・リンポチェを尊重しない人も修得できない。リンチェンドルジェ・リンポチェのすることは不如法だと思う人も修得できない。複雑に聞こえるようだが、言えば簡単なことだ。信じることさえできたら、自然に白法が生じる。白法が生じると、黒法は止まる。乃至消える。いわゆる縁起直しだ。悪いことが起きても、白法が増え続けるから、黒法は増えられない。あなたに対する影響程度も軽減する。これは修行の根本だ。

自分は改められない、忘れられないと思うことは、信じないのと同じだ。忘れられない理由があるわけがない。忘れられないのは自分が悪いと認めないからだ。どんなことの始まりでも自分に関係していると分かっていたら、人に悪く扱われたことは忘れられるのだ。相手のない喧嘩はできない。何事でも双方に責任がある。どんな物、事、感情でも一方的に発展することはない。人類でも一人の体で2つの性別を生み出すことはできない。相手が必要だ。どのことにもあなたが係わっている。あなたの係わりで事に影響するから、事の果報が顕れるのもあなたに関係している。あなたはきっと何かがよくないことをしたはずだ。はっきりと見えなかったから、そして貪欲があったからと言ってもいい。相手は背が高くてハンサムだし、毎日付き合ってくれる。自分の好きなことはなんでも、相手はしてくれる。これでその男性は自分にやさしいと思ってしまう。

本気で優しくしてくれる男性は決して一日中一緒にいてくれるわけがない。仕事をしなくていいのか。優しくしてくれるのは、きっとあなたはどこかが彼の未来に役立つと分かるからだ。あなたは何故見分けられないだろうか。自分を信じて自分は魅力的だと思っているからだ。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェにあまり会えないが、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは自分が格好いいと思わないからだ。

今日開示した仏法は顕教のもの、顕は仏法の根本論理だ。あなたたちはよく聞き入れるのだ。確実に全部受け止めなさい。自分の考え方があってはならない。もし、あなたたちは自分の考えがあって大丈夫だと、それほど厳しいかなと、ゆっくりとすればいいんだと思うなら、好きにすればよい。今は改められないと思うなら、好きにすればよい。あなたたちの決定だから。これこそ経典で言われる不決定のことだ。決定しないのは信じないからだ。仏の教えを信じず、今すぐやり始めよう、今すぐ改めようとしない。

あなたたちはのんびりしても構わないと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の気持ちをよくしてくれたら、のんびりと改めればよいと思う。あなたたちの気持ちをよくしてあげるリンチェンドルジェ・リンポチェは、決してリンポチェではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがいることは、必ずあなたたちの気持ちを悪くする。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の気持ちをよくするためにいるという考え方は正しくない。このように思ってはならない。

台湾では『宝積経』を開示する人が少ない。それは、『宝積経』と言ったら、皆は自分の修行ができてないから怖いと思うからだ。チベット仏教、特に直貢噶舉は菩薩道と金剛乗を広めているが、顕教の論理がなければ、菩薩道までに修行することはできない。自分をごまかしているだけになる。『宝積経』は釈迦牟尼仏の教えだ。直貢噶舉の祖師ジッテン・サムゴンの全ての論理と著作の出所でもある。菩薩道を修めるには、菩薩には菩薩の方法、人間には人間の方法がある。だから、あなたたちは今日の開示を聞いて怖がる必要がない。怖がる人には菩薩道を修める資格がない。自分にはできないと恐れるなら、自分は菩薩道に修行できると夢見なくていい。簡単に人天法を修めて信衆になればよい。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になる資格はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはどの弟子の法本を回収することを指示したのをよく耳にするだろう。それはその弟子は弟子になる資格がなかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲が欠けていると思う人もいるが、このようなことをするからこそ慈悲だ。来世に人間にならせるためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になる資格がないだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはほかの人と違う。信衆がたくさんほしい人がいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの信衆がいらない。菩薩乗を習って自分の人生を変え、そして家庭と未来を変えることができないなら、学ぶ必要はないだろう。学ばなくてよい。時間と金銭の無駄だけだ。

今から、リンチェンドルジェ・リンポチェはますます厳しくするが、怖い人になるわけではない。弟子の行為が『宝積経』の教えに相違があったら、悪いが、リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を返却する。いくらの供養も構わない。リンチェンドルジェ・リンポチェがその数字を思い出すと、返却する。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になるのは簡単だと思わないでほしい。自分は参拝したいだけ、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞くひつようがない、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分自身と自分の家庭を理解していないと皆は思っている。

『宝積経』では仏の知恵を信じることがはっきりと教えられている。リンチェンドルジェ・リンポチェはの知恵は自らの修行結果、生まれつきの知恵、そして諸仏菩薩の加持でできたものだ。あなたたちは気づかなかったかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回、仏経を開示する前に必ず法座で入定する。何故入定するか。リンチェンドルジェ・リンポチェの広める仏法は衆生のためになるように、諸仏菩薩と全部の上師の加持と庇蔭を祈るためだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の修行結果を期待することが一度もないが、あなたたちは貢高我慢、どの修行ができていないかが分からないから、考えて見ると言う。この言い方は貢高我慢だ。本来はうまく修行できるはずがない。良く修行できたら、叱られることもないだろうが。これこそ、自分の間違いを認めいないことだ。見つけた間違いだけに対処する。これではいつまでもよい修行ができない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。

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2015 年 11 月 29 日 更新