688:永遠に手を緩めない
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、諸仏菩薩、皆様、私は第六組の萬嘉珍で、法名は慧用卓瑪です。私の母は第六組の李月雲で、法名は慧恭卓瑪です。母と自分との皈依の経緯と、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが母と私をお救いくださったあらましについて語る機会をくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げました。
私は以前の同僚─鄒兄弟子の紹介で、2009 年と2010年の『阿彌陀仏無遮大超度法会』、2010年の『祖師ジッテンサムゴン紀念大法会』に参加しました。初めて『阿彌陀仏無遮大済度法会』に参加した時、入口に行ってみると、たくさんの人が入場を待っていましたので、私は本当に驚きました。けれども、どの入場の列にもスタッフがおり、とても親切に慌てず急がず笑みを浮かべて参加者の入場券を検め入場を案内してくれ、入場後はすぐに別のスタッフが席に導いてくれました。その流れは全体が非常に効率的で、SOP(標準作業手順)がこんなにもスムーズなのです。私は『これはなんとすごいことだ』と思いました。こんなにも複雑な入場プロセスをこんなにも簡単明瞭にしてしまい、法会参加者の心を乱さないなんて。私はこの団隊のCEOはどんな人なのかを知りたくなりました。法会開始後、びっしり席についた信衆はみな敬虔な態度で壇城を注視しています。私は周囲の人を何度かこっそり見ましたが、ここでは子供はあまり泣かず、お年寄りも居眠りしておらず、非常に不思議に思いました。続く一連の不可思議な事がここから始まるとは、当時の私は知らなかったです。
2011年の年初、軽度の認知症を患っていた母は、家で亡くなった祖父母を見たとしばしば独り言を言っていました。当時アメリカから台湾に戻り、一時的にうちに滞在していた下の叔母から、母を養護施設に入れるよう強く勧められました。なぜなら民間習俗では、亡くなった親族を目にするのは、もう長くないからだ、と言うからです。叔母はこの事を叔父に伝えましたが、叔母達は母の状況はすぐに悪化すると考え、その時には、母と同居しながら会社勤めもしなければならない私には、母を介護する能力がないので、母を養護施設に入れるほかないと考えていました。私は母を養護施設に入れたくなかったですが、どうしたらいいのかも分からず、とても悩んでいました。今でもやはりはっきり覚えています。ある晚の9時過ぎ、私は母のベッド脇に座っていました。その時、鄒兄弟子がかつて、自分の上師が苦しんでいる衆生を如何にして救われるかを何度か話しておられたのが、頭の中に突然閃きました。そして私はこの一生で最も重要な電話を掛けました。鄒兄弟子に母の状況を伝え、私達をリンチェンドルジェ・リンポチェに会わせてくださるようお願いしました。鄒兄弟子は直ちに、私達がその週の土曜日午後に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できるよう手配してくださいました。
当時旧正月を過ごすため、台湾に帰って来ていた下の弟と私は、母を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げました。私達は跪き、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、母が最近しばしば亡くなった祖父母を見ており、叔母と叔父は、母を養護施設に入れるよう強く主張していますが、どうしたらよいか分からない、とご報告申し上げました。同時に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに母と私を法会に参加させてくださるよう祈求申し上げました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『母はまだ寿命がある。今年の9月には注意するように。母を一人で動かせ、転ばせてはならない。9月を超えられれば、非常に良い』と慈悲なる開示をくだされました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示くださった『非常に良い』を聞いた時、私と弟の長く混乱していた心はすぐに落ち着き、心配も無くなってしまいました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださった『非常に良い』とはどういう意味でしょうか?無知で愚かな私は皈依するまで分からなかったです。『非常に良い』とは、世間の富を使い果たしても買うことができない宝物—母が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い仏法を聞く機会を得ることだったのです。
法会への参加について、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『一生菜食できるか?』とお尋ねになりましたが、私の心は非常なる悪で、なんと『できるだけ菜食します』と答えてしまいました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『それでは、私もできるだけ、としよう』とお答えくださいました。この時私は過ちにすぐに気付き、大声で『一生菜食致します』とお答え申し上げました。そのため、母と私が日曜日の共修法会と施身法法会に参加することに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは同意くださいました。不可思議なことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げた後、叔父と叔母は養護施設の事を再び言わなくなってしまい、叔父は翌年から、每年旧正月時に30人の友人や家族を招く食事会をすべて菜食に変えてしまいました。上師の慈悲なる済度に感謝申し上げたいです。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおられなければ、母は養護施設に入所していなければ、路頭に迷い家に帰れなくなっていたかもしれないのです。
2012年2月、一年間法会に参加した後、私と母は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに再度拝謁申し上げ、私と母を皈依させてくださるよう祈求申し上げました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深くも同意くださったことに深く感謝申し上げたいです。母と私は大海を長くさ迷っている小船のように、いつでもこなごなに砕けて海に飲み込まれてしまうところだったのに、上師が私達を受け止めてくださり、私達は拠り所を得たのです。同年4月8日皈依儀式を行う日、どうしたことか、母は瞬間接着剤で粘着されたようにイスに貼り付き、どうしても立たせることができなかったので、その日は私だけが皈依儀式に参加しました。数日経って、母を認知症学校へ連れて行った時、私はその原因を発見しました。母は毎週一日か二日、認知症学校に通っています。私はそこの先生に、母は菜食していると言ってありましたが、学校で母が食べているのは緩やかな菜食で、完全菜食ではなかったのです。そのため、母は4月8日の皈依儀式時に、立ち上がって参加することを躊躇っていたのです。護法が引き出してくださったことに私は感謝申し上げたいです。そして懺悔したいです。自分は母に対して親不孝で、いつ何時も母の状況に気を配ることができていません。母が法会に参加できていればそれで大丈夫だと考え、多くの事で上師に頼っていたのです。
今回の教訓を得て、私はすぐに改めることを決めました。每日朝晩、母と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に頂礼申し上げる他、母を学校へ連れて行く時には毎回必ず、その日の昼食に母は何を食べるのかと学校に聞き、母が完全菜食できるようにしました。母を連れて法会に参加し始めたばかりの頃、母が座っていられないのではないかと心配しましたが、私の心配は余計でした。母は毎週とてもスムーズに静かに法会に参加していました。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝申し上げたいです。そして母はついに今年(2014年)7月20日皈依し、人生における二つの宝—皈依証と寶吉祥仏法中心弟子の赤いベストを頂戴することができました。私は上師に感謝申し上げたいです。
この二年来母の状態は非常に安定しており、中度の認知症であるとはとても思えないと友人達は皆言い、『何があったの?』と興味深そうに聞きました。これにはたった一つの答えしかないです。それは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げたことです。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが常に守ってくださるおかげで、一ヶ月前に来たばかりのフィリピン人メイドさんまで、私達と共に菜食することを受け入れ、しかも彼女はさまざまなおいしい菜食料理を作ることができたのです。本当に不可思議だ、と私は讃歎せざるを得ないです。

皈依後、母親の体調はよくなって、何回も萬嘉珍と一緒に海外旅行していた。
昨年(2013年)2月初めのある日、午前10時頃、母は家で転倒しました。母が掛けていたプラスチックの目鏡はフレームが割れ、左目の眉毛のところを切り、血がだらだらと流れたので、当時家で母の介護をしていた王さんは驚き呆然としてしまったらしいです。王さんは完璧な介護と急救の訓練を受けてはいましたが、やはり非常に緊張し、母が転び、左の眉毛のところが出血し止まらないので、救急に連れて行く、と私に電話をしてきました。私は電話を切った後急いで帰宅し、先ずは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に頂礼申し上げ、母が怪我をした事をご報告申し上げた後、病院へ急ぎました。
救急救命室の前まで来ると、ガラスドア越しに、母と王さんが廊下のイスで落ち着いておしゃべりしているのが見えました。前に行き尋ねると、王さんは『救急室に来ると、外科医がすぐに処置し、傷口を縫合してくれた』と言います。見ると、母の左眉のところに、毛虫のような約10cmの縫合線が加わっています。王さんは『救急室の外科医は、申し訳ない。私はインターンなんです。急いだので、傷口の縫合があまり理想的ではありません、と言っていた』と言います。その後彼ら三人は一緒にアフタヌーンティーへ行き、それから帰宅しました。
転んでから抜糸するまで、母の傷口は少しも傷まなかったようでした。私達は傷口に漢方薬軟膏を塗っていただけで、病院が出してくれた軟膏は塗らなかったです。母は糖尿病を患っていたので、数年前には足指の横の非常に小さな傷口が蜂窩織炎になったことがありました。けれども今回は、こんなに大きな傷口が、感染もなく痕も残らず、あっと言う間に全快してしまいました。これはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、私と当時はまだ未皈依であった母を救ってくださったのです、と私は分かっていました。私を守ってくださるだけでなく、私の家族までも守ってくださることを、上師に感謝申し上げたいです。
2013年5月、当時まだ未皈依であった母は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの同意を頂戴した後、京都寶吉祥仏法中心で行われた殊勝なる火の供養法会に私と共に参加しました。同年11月、私と母は再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げ、母を皈依させ、12月に京都寶吉祥仏法中心で行われる長寿仏法会に参加させてくださるよう祈求申し上げました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、母の皈依と長寿仏法会への参加に慈悲なる同意をくださったばかりか、母に加持くださり、『母は腎臓が良くない。片方は既に機能しなくなっている。ダイコン、白菜、瓜類等の生ものや冷たい物を母に食べさせてはならない。漬物類も良くない。母に日本食品の元気豆乳を飲ませ、もうすぐ発売される新製品「めかぶ」を食べさせるように』と仰せくださったので、私は『めかぶ』でスープを作りました。今では毎週めかぶスープを作っていますが、母はそれを『リンポチェ様スープ』と呼んでいます。
ある時、友人が家に食事に来て、めかぶスープを飲んだ後すぐに『なんておいしいの!』と言ったので、私はめかぶを一袋彼女にあげました。そして『これは私の上師が慈悲なる思いやりで弟子達の健康のために、母に作って食べさせるようおっしゃってくださっているものなのよ』と言うと、友人は『日本製なのね。高いでしょう?』と言うので、『とんでもない。一袋たったの315元よ』と言いました。私はかつて仕事の関係で、台湾の著名な大型輸入食品スーパーの店長と話したことがありました。店長は『これら輸入食品は全然儲からない。種類が多く利潤は低い。食品には有効期限があるので、棚に並べた後も期限になれば片付けなければならない。棚に出したり片付けたりで人手を使うし、ほとんど損をするために売っているようなものだ。外側の飲食店の利益で穴埋めするしかない』と言っていたのです。私は感謝申し上げたいです。上師は衆生の健康のため、弟子が健康な身体で仏法を学習できるよう、コストを惜しまず最高の日本食品を弟子のために輸入してくださいます。不思議なことに、私のこの友人も、家で『めかぶスープ』を作り友人に食べてもらったところ、翌日その友人は『どこでめかぶを買えるのか』と喜んで電話で聞いて来たということです。なぜならその人は数年来の便秘でしたが、めかぶスープを飲んだことで、スムーズに解決したと言うのです。全くすご過ぎます。

萬嘉珍はリンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の教えに感謝する。
今年の7月19 日、私は五度目に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げました。なぜなら今回は私がとんでもない事をしでかしたからです。7月19 日の深夜一時、私は尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に頂礼申し上げ、続いてバターランプをいっぱいに満たした後、部屋に戻って就寝しました。朝6時に起き、壇城で頂礼しようと寝室のドアを開けると、家中が煙でいっぱいなのに気づきました。私と母はドアを閉め、エアコンをつけてぐっすり寝込んでいたので、何が起きているか全く気づかなかったのです。壇城前へ行くと、バターランプが燃えており、上師の写真も燃えていました。いっぱいに足していたバターはすっかり燃え尽きてしまい、バターランプを入れていた水晶の器も焼けて砕けていましたが、上師の法写真がバターランプの上を覆い消火してくださっていました。壇城机の木製の表面は一部が焼けて炭のようになっており、壁には黒々と焔の痕があったし、壇城周囲とリビングルームの壁は幾層もの灰に覆われていました。燃えていた時の火勢はどんなに強かったかと思うと、想像するのも恐ろしかったです。家中すべてのエアコンの吹出口、私と母の鼻の穴も真っ黒で、助けに来てくれた近所の人も、後にペンキを塗ってくれた蔡さんも異口同音に『ここまでひどく燃えて、あなた達が無事だなんて不思議なくらいだ!』と言っていました。
上師はご自分を焼くことで母と私をお救いくださったのです。それから、壇城机の引き出しに入れていた、2002年に尊勝なる直貢チェツァン法王が御自ら主法くださった『本尊葉衣仏母祛病大法会』のDVDも全く無傷でした。アキ護法の法写真はアクリル面が少し膨らんだだけで、香炉も八供杯も花瓶も煤けて黒くなっただけでした。命を救ってくださったご恩を、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたいです。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおられなければ、私と母はとっくに火事で命を落とし、家を焼き、近所に迷惑を掛けていたでしょう。考えるだに恐ろしい。上師の法写真をお守りできなかったことを思い、すっかり焼けてしまった上師の法写真前に跪き、私は立ち上がることができなかったです。いつになって組長兄弟子に報告申し上げたか、もう覚えていないですが、組長兄弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁を急いで登録し、上師に対して徹底的に懺悔するよう促してくださいました。私は深く感謝申し上げたいです。
土曜日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『自分は尊勝なる直貢チェツァン法王にこんなに長く従っているが、直貢チェツァン法王の法写真はまったくなんともない。そなたは皈依してわずか二年にしかならないのに、上師の法写真を焼いてしまった』と仰せになりました。そして『法写真は額に入れていたか?壁にきちんと立てかけていたか?壇城机の大きさは?』と尋ねられたので、私は一つ一つお答え申し上げました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『ではどうして焼いてしまったのか?』と仰せになりました。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェは入定なさった後『少し前友人の話を聞き、仏法学習の心が揺れ動いただろう』と開示くださいました。私は深く懺悔したいです。心を込めて学仏せず、大雑把で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い仏法を学習しようという心が充分固まっていなかったため、友人がちょっと何かを言ったくらいでぐらついてしまったのです。
続いて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは傍らの出家弟子に『この者をどのように罰するべきか』とお尋ねになりました。出家弟子は『法会参加を一年間禁止してはどうでしょう』とお答えになりました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『この者の福報は焼けてすべて無くなってしまったのだ。福報が無くなってしまったなら、法会に参加しない訳にはいかないだろう』と仰せくださいました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子にもう一度考えるようご指示になりました。出家弟子は続いて『大供養を行うのはどうでしょう』とおっしゃいました。続いて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『毎週土曜日、私が道場にいる限り、そなたは大礼拝を行いに来るように』と仰せになりました。私はこんなにも大きな過ちを犯したにもかかわらず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、道場で大礼拝を行う殊勝なる機会をくださったのです。私はただただ感謝申し上げたいです。
命を救ってくださった何度にもわたる上師のご恩に対して、私は感謝申し上げたいです。また私は懺悔したいです。自分は皈依の前は美食を貪り、数え切れないほどの衆生の肉を食べました。同僚や友人が出産すると、産後ケアと言っては麻油鶏を作って彼女達に食べさせていました。こうすることで、自分に悪因を植え付けたばかりか、友人にまで害を為していたのです。本当にひどいことをしていました。また私はあらゆる悪事をし尽くした。貪、嗔、痴、慢、疑も同じように少なくないです。しばしば思い上がり、執著心が非常に重く、自分の意図と合わない事があれば、先ずは他人のせいにしていました。実は全て私自身の問題だったのです。自己の行為を改める時、私はしばしば考えるだけで、言うだけで、実際には行わない。私は慈悲心もなく、かつて職務の便のため、時間を掛けてコミュニケーションを図ろうともせず、一人の同僚をその日の内に離職に追い込みました。私は非常に重い分別心があり、好きな人・事・物と好きでない人・事・物とをはっきり分け、好きなら頻繁に接近し、好きでないならあまり構わなかったです。またしばしば、経営者の立場で物事を考えることができず、そのため最近しばしば仕事を換えました。
今回私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を焼いてしまった時、極めて薄い自分の福報も焼いてしまいました。私は深く懺悔し、貪、嗔、痴、慢、疑の悪習を必ず改めようと思います。また、上師がお教えくださる方法にしっかり従い、修行学習に努力し、別の考えを持たず、上師のご恩に報いたいと思います。私は今まで以上にしっかりと上師に従い、一瞬たりとも気を抜かず、上師の衣の端をしっかりとつかみ、永遠に手を緩めない覚悟です。最後に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご法体が安康で、法輪が常転し、仏法が在世に常住し、直貢噶舉の法脈が永遠に流伝することを祈願申し上げたいです。
皈依弟子 第六組 萬嘉珍 謹んで書き上げます
2014年9月28日
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2016 年 11 月 07 日 更新