674:命の暗闇で仏光が輝いた

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王、伝承祖師、諸仏菩薩、大徳各位、兄弟子各位、こんにちは!皆さまに頂礼申し上げます。第五組慧威卓瑪(陳薏浄)と申します。息子は公処定虹(許耀中)と言います。今日は皆さんに、私達が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持とお助けを頂戴したあらましについてお話しします。

息子は2003年1月1日、軍隊の休假の最中に重大な自動車事故に巻き込まれ、指数3の昏睡状態に陥りました。目は動かず瞳孔は砕けたようで呼吸器で命をつなぎ、植物状態と診断されました。5番目から11番目までの肋骨、鎖骨が折れた他、恥骨が骨折し尿道が断裂したため膀胱に出口を作り、排尿をコントロールできない状態でした。頭蓋骨内の四つの脳室は一つになってしまい、脳髄が混ざり合い、「脳髄は豆腐のようなもので、強い衝撃を受けると砕けてしまうので、どんな手術をしてもどうしようもなく、回復は見込めない」と医者に説明されました。

こうして息子は、自動車事故の後、寝たきりになり、植物状態が8ケ月と23日もの間続きました。後に目を醒ましましたが、大脳中枢神経はすでに深刻なダメージを受けており、腰も衝突の衝撃で身体を支えられず、歩こうとしても腰にまったく力が入らず、平衡感覚にも問題が生じていました。そのため歩行が不安定で、身体は右に偏り前傾しつまずき易いため、車椅子を使う必要がありました。脳の損傷状況もひどく深刻で、はっきり話せず、智力も5、6歲程度になってしまい、短期記憶が失われ、さっきやったばかりのことをすぐに忘れてしまい、一日に何度も薬を飲んでしまうこともあるほどでした。手と眼、四肢の協調性も悪くなっていました。最も深刻なのは、自分の気持ちをコントロールできなくなってしまったことで、しばしば訳もなく激しく怒り出しました。息子は身体が大きいので、怒り出すと誰も息子を抑えられず、医療スタッフや他の病人の家族を驚かせてしまい、そんな状態なので、普通の介護士ではケアできず、介護のすべての責任は母である私一人が抱えることとなっていました。

息子は軍人の身分でしたから、このような状態で九年あまりもの間入院し、私もその間介護を続けました。九年あまりの間には、息子の感情の高まりとわがままが原因で、大小さまざまな争いがありました。また息子を介護している期間に、私に子宮内膜癌が見つかり、これら多方面からのストレスで私は身心共に疲れ果て、心と身体両面からの苦しみは私を訶みました。半年間の抗ガン剤治療では、副作用で両足が針で刺されているように感じ、歩行中に足に力が入らなくなり転ぶこともしばしばで、吐き気、大小便失禁等の後遺症が残りました。辛い抗ガン剤治療が終了しても、病室に戻り、息子の症状に進歩がなく、変わらず感情がコントロールできないのを見ると、人生もここに至れば何の希望もないと感じ、無限の苦痛が眼前に広がるばかりでした。ある日息子は病室内で訳もなく私に怒りを爆発させ大声で怒鳴り散らし、身体が大きく力が強い息子を誰も抑えられず、看護スタッフが驚いて見に来てくれたことがありました。最後には私と息子とを無理やり引き離すしかありませんでしたが、その時私の内心はジリジリするように痛み、胸を締め付けられるような辛さは言葉で言い表すことができないほどでした。

けれども、私が最も苦しんでいたその頃、あるでき事が私と息子の人生を変えたのです。2011年のある日、病院へ息子をリハビリに連れて行った際、息子さんを連れてしばしばリハビリに来られている兄弟子が私を手招きし、「阿彌陀仏無遮大超度法会」への参加に誘ってくださったのです。その時私は、すでにたくさんの法会に参加したことがあったので、それほど大切には考えておらず、参加するとは答えませんでした。けれどもしばらく後に再び出逢った際、法会への参加について再度訊ねられ、その時は、行ったところで何か損する訳でもないから、と思い、参加する旨答えました。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「阿弥陀仏無遮大超度法會」を執り行い、無数の衆生を利益されます。

初めて「阿彌陀仏無遮大超度法会」に参加した際、私は心の奥底から湧き上がる何とも言えない感動を味わいました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを目にして淚が流れ出し、言葉にできないほどの激しい心の動きを感じました。これは私が他の法会に参加した時には感じたことのない感覚でした。兄弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁するよう勧めてくださいました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈愛にあふれた様子で「どうしたのだ?」とお訊ねくださり、私は、息子が2003年に自動車事故に遭ってから今までの経緯について説明申し上げました。慈悲なるリンチェンドルジェ・リンポチェは少しもためらうことなく「助けてやろう」と息子に仰せになり、同時に修法会と施身法法会への参加をお認めくださりました。私達は感謝の気持ちでいっぱいになりながら道場を後にしました。

わずかに二度の法会参加後、息子の夜尿の状況が大きく改善していることに私は気がつきました。もともとは排尿をコントロールできず、尿意を感じた時にはすでに出ているという状況でしたが、それが今ではしっかりコントロールできるようになり、24時間オムツをつけるという状態ではなくなっています。しかも、よだれが垂れる症状も大幅に改善され、ナースステーションにいるスタッフも、しばらく毎に息子を見る度に、回復が早いと口々に褒めそやしました。皆は若いから回復が早いと思っているようでしたが、母親である私にははっきり分かっていました。これらは全て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝すべきものなのです。法会参加の二ケ月後、私は息子を連れて皈依を求めました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも「助けてやろう」ともう一度仰せになり息子に加持くださり、息子の皈依をお認めくださいました。

その時私は皈依を求めませんでしたが、下がってから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させてくださるよう、再度求めるよう兄弟子が提案くださいました。私がもう一度御前に出て皈依を求めると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「息子のために皈依したいが、自分の考えで皈依したくない」とだけ仰せになったので、私は恥ずかしさでいっぱいになり下がりました。帰宅後私は、皈依を求める心持ちとなぜ皈依したいのかを真剣に考え、自分は自分の心を軽んじていたことを反省しました。私の心はまだ完全には安定していなかったのです。心は乱れ落ち着かず、何かが起きればすぐに心配し、どうしたらいいのか分からなくなって泣くことしかできず、さらには本当に菜食する決心もできておらず、息子が私にいっしょに菜食を望んでも、やはりたまにはこっそり病院のレストランで肉を食べていました。けれども、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった後、菜食するよう諌める非常に力強いお言葉を頂戴してから、帰宅後、肉を食べたいという少しの欲望もなくなってしまったのです。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝申し上げます。

またそのため、私が再度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し皈依を求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはついにご同意くださいました。これは、長年囚われていた自身の「心の牢」からの私の真の解脱でした。病院で息子を介護していた十年間、柵のない監獄に閉じ込められているようでした。毎日の仕事は終わりの見えない息子のリハビリです。脳が損傷を受けた息子は情緒が極めて不安定で、しかも物を食べるのに、噛み砕いたり裂いたりせず、大口で頬張り飲み込むため、また熱いも冷たいも食物の温度が分からず、しょっちゅう喉に詰まらせ噎せていました。これが私が毎日向き合い、心配しなければならないことだったのです。私は母としてとても辛く苦しく、しばしば隠れて一人で泣いていましたが、誰が助けてくれるか見当もつきませんでした。

皈依の後、道場で兄弟子の体験談を聞く度に、自分が過去犯した過ちと為した悪により、無数の衆生を傷つけてきたことにようやく気がつき、自分は善人だなどとはもう思えず、反対に大罪を犯した極悪人だと考えるようになりました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教誨に感謝申し上げます。上師の教導がなければ、自分はこの世間に無駄に生まれてきたのだとため息をついていただけでしょう。今では私も微力を尽くし、自身の感じたことに基づき、周囲の家族や友人に「莫因善小而不為,勿以悪小而為之(悪小なるを以って之を為すこと勿れ、善小なるを以って為さざること勿かれ)」と勧めています。

この二年あまり、絶えず法会に参加したことで、息子には変化が見られるようになりました。感情が激しく高ぶる度に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な開示を自ら思い出し、ゆっくりと怒りを鎮め、かつてのように制御不能となり怒りで震えるほどになることはなくなりました。歩行時の姿勢も以前に比べればかなり正常になり、今では外出時にオムツは不要となって、トイレでの排泄もだんだんコントロールできるようになっており、おかげで私の介護もとても楽になりました。息子は道場へ来るのが大好きで、毎週土曜日に道場へ来ると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにひたすら頂礼し続け、他の人に迷惑がかかるのではないかと心配した私はやめさせようとしましたが、頂礼したがるならさせてあげなさい、と後に兄弟子がおっしゃったので、私もようやく安心して息子に好きなだけ頂礼させています。毎回頂礼を終えると、息子はいつも喜びに満ちています。

息子はもともと良くない習慣がいくらかありましたが、私がどんなに諌めても聞きませんでした。ところが道場へ来るようになり、兄弟子から話してくださったところ、怒ったりすることもなく、息子は少しずつ改めるようになりました。これら全ては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のおかげだと私は分かっています。寶吉祥仏法センターは一つの大家族のようです。以前私は何事かに遭遇するといつも慌てふためいていましたが、寶吉祥に来るようになってからは、心が安定し、どんな事が起きようと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を用いて処理できるようになりました。さらに兄弟子達のサポートもあります。最も重要なのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頼ることができるということで、そのことで私は未来を恐れることがなくなりました。

以前私は息子の回復のため、代替療法を教えてくれる人がいれば、必ず試していました。そのため、一ケ月に数十万元を費やすのも普通でした。ところが現在では息子は法会に参加した後、非常に大きく改善しているため、代替療法に頼る必要はまったくなくなりました。息子と私の変化を目にした同じ病気の患者が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁したこともありましたが、数ヶ月後には離れて行きました。その人は、菜食では栄養が足りないと考え、またさらに自分は文字が読めない、高齢だ、体力がなく学仏できないと理由を並べていました。福報がなければ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏する機会はないのだと私は深く思い知りました。これが私と友人との異なるところなのでしょう。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかる前、私は子宮内膜癌にかかりましたが、ひどく気が進まない中、医師の意見に従い抗ガン剤治療を受けました。ところが抗ガン剤の後遺症は私に絶え難い苦痛をもたらし、両足の裏は剣山を踏んでいるかのように激しく痛み、歩けなくなることもしばしばでした。抗ガン剤は腸にも悪影響を及ぼし、私は排便をコントロールできなくなり、少しでも便意を感じゆっくりでも歩くと、我慢できず便が排出されてしまいます。同時に抗ガン剤は私の抵抗力も弱め、歩行時に足に力が入らなくなり転んでしまうことがよくあり、少し歩いただけで息が切れ休息しなければなりませんでした。この種の不快を、私は一度も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにご報告申し上げたことはなく、加持をお願いしたことなどもちろんありませんでしたが、法会に参加し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後には、完全に改善されてしまったのです。歩いても足裏に刺すような痛みを感じることはもはやなくなり、腸内の排泄物もコントロールできるようになりました。その後、私は一切抗ガン剤治療を行わず西洋薬も飲まず、漢方薬で調子を整えているだけです。すでに二年あまりになりますが、全てが以前に比べ良くなっています。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝申し上げます。

陳薏浄と息子、許耀中の診断書

ある時私は息子を連れてタクシーでリハビリのために病院へ向かいましたが、運転手は道中ずっと電話をしていました。車を降りた時、通りがかった人が知らせてくれたことで、タイヤがパンクしていたことを私達は初めて知りました。後に友人と家人にこのことを話した時、高速道路でのパンクは非常に危険だと知りました。それなのに当時は車内の誰もまったく何も感じなかったのです。こうして、自分は常に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩の庇護の下にありながら、まったく自覚がなかったのだと衝撃を受けました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに心から深く感謝申し上げます。

皈依の後、兄弟子がお話しになる外国巡礼の殊勝を私はしばしば耳にし、喜びをもってインドツアーに申し込みました。それは私がまったく訪れたことのない環境でした。法会終了後、私はことさらの疲れを感じたので、ホテルに戻り部屋で休んでいました。私は同室の兄弟子に、外出時には出入りの便のためカギを持つよう頼み、しばらくして眠り込んでしまいました。しばらくして突然、部屋の外に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェをお迎えするにぎやかな呼び声、拍手、楽器の音等を聞きました。そのため私は直ちに起きあがり衣服を着て、外に出て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェをお迎えしようとしました。ところが、すでに外出した同室の兄弟子にカギを渡していたことに突然気がつきました。ドアが開かないのです。その時ちょうど同室の兄弟子が戻ってきたので、兄弟子に「リンチェンドルジェ・リンポチェがホテルに来られたのではないですか?」と聞いたところ、兄弟子は「そんなことはないですよ!」と答えました。私はその時、自分は真に仏法学習を望んでいるのではなく、ただ学仏の門外で眺めているだけなのだと突然理解し、頭の中が混沌とし、自分はまだ完全には決心を下していないのだと気がつきました。

その晚夢のなかで私は息子と夫が深刻に衝突している夢を見ました。その時は驚いて目が覚め、自分は心の荷物を下ろしていないのだ、内心は心残りでいっぱいなのだとはっきり理解しました。今回の外国巡礼で、外国旅行は自分を見つめる良い機会なのだと知りました。ツアーでいっしょになったある兄弟子は、ご主人が突然亡くなったことについて語ってくれました。そして「家を所有していなければならないとは限らないわよね。賃貸でもいいじゃない」と言われたのです。この言葉に私は驚き、自分の執著に気付かされたのです。これまでいつも私は自分が先に世を去ってしまえば、息子はどうしたらいいのか?誰が世話をするのか?と心配で、そのため家を残し、息子に生活費を残すことに執着していました。息子の今後の生活について一日中心配し、それが心から離れることはありませんでした。これこそ私の執著です。この一生で息子のことを思い切ることができなければ、自分が真の解脱を得ることはできないと知ったのです。

ある時ネパールへの旅の際、兄弟子と仏塔を21周回った折、身体が不自由な私は最後になりました。その時私は兄弟子達がみな私を待ってくださっており、私からバックパックを取り上げ、私が負担する重さを軽くしてくださるのを目にしました。この時、私の脳裏には突然「自度度他」の念頭が浮かびました。歩みはゆっくりですが、最大の努力で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの歩みについていこうと願います。車の走行中、私は一人の年若い兄弟子が「上師に感謝する他に、さらに上師の父母に感謝し、法王にも感謝しなければならない」と言われるのを聞き、こんなに若いのに、こんなにも大きな感謝の心をもっているのだと非常に驚き感動しました。自分が学ぶべきは、なおあまりにも多いのだと嘆息せざるを得ませんでした。

私は信衆の娘を連れて広島への火供団、昆大麗曹溪寺団に参加しました。それはその娘が、兄弟子達が語る尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの度衆事蹟を聞き、母親が寶吉祥で感じている暖かさを理解できることを願ってのことでした。遠くない将来、その娘も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い仏法学習を開始する私は願っています。多くの学びの機会と無私なる教誨をくださることを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げます。

皈依して以来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な仏法開示を聞き、自分が受けてきた一切の苦しみは全て業報によるのだと思い知りました。受けるべきであり、返すべきであり、私は喜んで受け入れるべきなのです。自分自身の苦しみを解決する能力は自分にはなく、息子を救う能力などもちろんなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに一切を頼り、徹底的に救いを得なければ、苦痛の深淵から抜け出すことはできないのだと思い知りました。寶吉祥では、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大家族の家長のように、弟子の一人一人とその家族をお世話くださいます。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださるすべての仏法は、日常生活で一つ一つ印証できるのです。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる教導に心から感謝申し上げると共に、兄弟子の引見と兄弟子各位の支えに感謝申し上げます。

陳薏淨(左1)、息子許耀中(中)及び孫(右1)上師の慈悲なる救済を感謝申し上げます。

皈依弟子 第五組 陳薏淨 謹んで書き上げます
2014年7月27日
2018年12月12日修正


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2019 年 07 月 14 日 更新