尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2018年9月23日

2018年9月23日中秋節の前日、寶吉祥仏法センターの住持上師であられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北市南港展覽館で殊勝なる第十四回「阿弥陀仏無遮大超度法会」を主法なさった。参会者20,750人は、一切の有情衆生が離苦得楽できるよう祈願し、法会は荘厳盛大で参会者を感動させた。諸仏菩薩、祖師ジッテン・サムゴン、歷代伝承上師、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王、尊勝なる直貢チョン・ツァン法王、アキ護法の加持庇護の下、法会は清浄かつ円満となった。

今回の法会には顕密四衆が揃った。参加者は台湾の弟子と信衆の他に、ブータンからのリンポチェ、及び9人のケンポス、2人のラマ、21人の比丘、128人の比丘尼の計161人の出家衆も参加した。参会者は米国、カナダ、アルゼンチン、ドイツ、フランス、スイス、スペイン、ノルウェー、中国、香港マカオ地区、日本、韓国、シンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイ、ミャンマー、ベトナム、インド、ブータンの世界21ヶ国から訪れていた。

2005年より、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはすでに14年連続で「チベット仏教直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大超度法会」を主法しておられる。「阿弥陀仏大済度法」は直貢噶舉の岩伝密法で、極めて清浄殊勝だ。主法者であられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは10年以上の顕教基礎を備え、三恩根本上師であられる尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の指導の下、基礎の「不共四加行」から多くの本尊灌頂、並びに閉関修習を円満とし、大手印禅定離戲瑜伽の成就を得ておられる。よって大威徳力、大慈悲心を備えておられるため、大超度法会中では、亡者を済度させ生者に利益できるのだ。今回の法会のため、リンポチェは予め数日閉関くださった。ご苦労なことだ。

これまで同様、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは悲心に基づき、今回の参会者がご自分に供養した供養金、約612万元の全額を寄付された。衛生福利部社会及び家庭署、弁護士、銀行代表の立会いの下、50%を衛福部社家署302専用口座に寄付し公益慈善用とし、残りの50%を財団法人仏教チェ・ツァン法王基金会に寄付し、参会者に広く善縁を結んでくださった。これまでの寄付額はすでに8422万元に達している。

法会開始を前に、司会者が先ず尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを紹介申し上げた。リンポチェは台湾ですでに20数年弘法度衆しておられ、「阿弥陀仏無遮大超度法会」の開催は今年で十四回目となる。いかなるメディアでもまったく宣伝しておらず、広告やポスターを貼ったりなどもしていないが、口伝ての評判だけで、今回も2万人を超える人が参加していることは特筆に価する。これは実はリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲願力が有縁衆生を摂受したからこそ、ここに集まることができたからなのだ。

例年の大超度法会では一切費用を徴取せず、すべての支出は寶吉祥仏法センターの弟子が共同で護持し、外部から募金を募ったり寄付を受け付けたりすることもない。今回の法会での不足分の経費はリンポチェがお一人で負担なされた。無遮平等であるため法会では功徳主を設けず、5人のマンダを献上する代表及び2,000人の点灯供仏代表は信衆が入場時にくじを引いて決定したものだ。法会の会場でも、チャリティ販売などの商業行為は一切行われず、法会の清浄を保持している。

より多くの衆生が仏法の救いを受けられ、リンポチェの教法が世間に長存できるよう、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は、自身に属する仏寺を台湾に建立するようリンチェンドルジェ・リンポチェに特別にご指示になった。そのため、2016年初より、リンポチェは適した場所の選定を開始され、3000人以上を収容できるチベット仏寺の建立を発願された。同時に、より多くの人が福田に種を蒔き福報を累積できるよう、2016年より、有縁衆生が護持を発心し共に建立事業に携われるようにし、みなの未来の学仏の障礙を減らしてくださった。

司会者は、寺院建立の進捗状況に関する報告も行った。建立の地は苗栗造橋にあり、土地の面積は1.3万坪で、4ヘクタール余りに相当する。その内の1.9ヘクタールは寺院用地で、主殿、出家衆の寮房、閉関センター、行政ビル等を備えている。2017年には環境アセスメントの申請も提出した。四度のプロジェクトチームによる審查会議と一回の環境アセスメント大会を経て、今年8月ついに苗栗県政府の環境アセスメント審查を正式に通過した。これは気持ちを奮い立たせてくれる実に嬉しいニュースだ!寺院の四天王聖像を彫刻する原木も、すでに9月10日に台中港から大溪へと運ばれている。同日午後には裁断も完成し、進捗具合は予想を上回り、非常に順調だ。

午前9時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは経幡、薰香、楽器、八供女、寶傘の先導の下、バラの花びらが敷き詰められた八吉祥の白い絨毯を電動車に乗られて通り、ゆっくりと会場に入られた。参会者はみな両手を合わせ、直立してお迎え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは壇城へと上られた後、諸仏菩薩に恭敬頂礼し、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王と直貢チョン・ツァン法王の如意寶法座にハダを献上し、点灯供仏した後に法座に上られた。

まず、出家者は参会者を率いて、《八聖吉祥祈禱文》、皈依発心及び四無量心を念誦した。

開始当初、念誦していない人が多かったので、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。

「会場にいる信衆の多くがまだ念誦をしていない。なぜこれら前行を念じなければならないのか?法会に参加するには必ず何か動機があるはずだ。なぜ法会に来たのか?加護、平安を求めるためだろう。そのため、出家衆が念誦をリードするのだ。そなた達は付いて念じれば良い。恐れたり、恥ずかしがったり、きまりが悪いなど思う必要はない。心の中で念じていれば良い、などと思ってはならない。そなたの心は非常に乱れている。心の中で念じるなどできるはずがない。私のような修行をした訳ではないのだから、声に出して念じなければならない。自分が発する声を聞かなければならない。中国語で言えない人は、スクリーンの字幕に従い英語、日本語で読めば良い。

皈依はすべての学仏人が必ず経なければならないものだ。今日は法会に参加したのだ。以後学仏せず皈依しないとしても、皈依の心は必ずあるはずだ。発心こそ動機だ。法会に来たのは何が理由なのか?そのため、皈依発心は非常に重要だ。さらに四無量心も重要だ。それは如何にして慈悲喜捨を行うかを教えるものだ。四無量心とは修行の法門だ。この四語を成し遂げられれば、菩薩果位まで証することができる。今は無理でも、少なくともいっしょに念じなければならない。

続いては、出家衆がそなた達を率いて七支供養を念じる。今日法会に来た人が法会に参加できる福報を積むため、七支供養を念じるのだ。七支供養は懺悔、発願等を含む。みなできるだけ合掌し、スクリーンを見ていっしょに念じるように。会場に足を踏み入れた瞬間から、あらゆる動作、あらゆる言葉は、そなたと関わりがあるのだ。我々が行いそなた達は見るだけでよい、というものではない。みないっしょに念じよう。」

続いて、マンダを献上する儀軌が行われた。ナンジュ・ケンポスが出家衆と、抽選で選ばれた5人の信衆を率い、衆生を代表して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩にマンダを献上する請法を行った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自らみなを率い『彌陀讚』を唱誦された。荘厳な法音は虚空に遍く満ちた。続いて、「南無阿弥陀仏」の聖号を持誦なさった。参会者も声を揃えて、長い間リンポチェの持誦に従った。

リンポチェは開示なされた。

「仏法は大きく二部に分けられる。一つは顕でもう一つは密だ。顕とは「明顕」であり、即ち仏が仰せの経、律、論だ。どれも『大藏経』に記載されている。顕教は一切の仏法の基礎だ。仏が講じられた修行理論のすべては顕教の部分だ。密法は「用」だ。我々の自修は顕教を用いて修行する。ある段階まで修行が進むと、衆生に利益するため、密法を学習しなければならない。釈迦牟尼仏はほんとうに密法を宣說されたのか?との議論はあるが、今日はこの深い修行問題を討論しに来たのではない。私の修行経験からすれば、顕教経典で講じる一切の境界は、人生の短い数十年の時間では、円満に行うことはできない。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に皈依して密法を学び始めて、ようやく分かった。顕は一切の仏法の根基であり、非常に重要だ。顕がなければ学密できない。学密すればすごいというのではなく、大変で辛くなるだけだ。なぜなら、密法を学んだなら、広大一切の有情衆生に利益しなければならないからだ。

経典内には、釈迦牟尼仏が密法を伝えるシーンがあるだろうか?密法には『法不伝六耳』という非常に重要な一言がある。上師が密法を弟子に伝える時、通常は一対一で伝法し、公開しないということだ。かつて直貢チェ・ツァン法王がご自分の関房で密法をお伝えくださった時、伝法していると知らずに、母上が関房に入ってこられたことがある。その際、法王はすぐに伝法を止められ、母上をご覧になられた。母上は事情を理解し、直ちに出て行かれた。つまり母のように近しい間柄であろうと、学密法の因縁がないなら、聞くことさえできないのだ。

経典には釈迦牟尼仏が密法を伝えられたという証拠はないだろうか?実は非常に多くの経典で見られる。比較的知られているのは、釈迦牟尼仏の叔母上の話だろう。浄土に往生するため、釈迦牟尼仏は浄土十六観を御自ら伝えられた。今になっても、この名前は残っている。だが、どのように観るのか?知らない人が多いだろう。十六観の第一は観太陽で、第二は観月だ。太陽はどのように観るのだ?朝の太陽であっても、3分見れば目が見えなくなってしまう。この十六観とは密法だ。今日修めるこの法内に浄土十六観がある。太陽、月を観ることから始め、浄土までを観る。

密法は秘密ではなく、人に言えない事でもない。簡単な例を挙げよう。大学教授が教える学問を小学一年生に聞かせたら、小学生にとっては一種の秘密だろう。その子は絕対に理解できず、しかも疑いを抱くだろう。密法も同じことなのだ。もしそなたがこのレベルまで行っていないなら、上師は伝えない。それは何か秘密があるのではない。このため、非常に多くの人が密法を誤解している。今日はこの種の大きな問題について討論するのではなく、今日は密法を用いて広大な有情衆生に利益するとみなに伝えるだけなのだ。

なぜ済度法会を開催する必要があるのか?阿弥陀仏は亡者だけを専ら救い、生者は救わないのか?そうではない。実は『阿彌陀経』は非常に明確に説いている。この五濁悪世において、この信じ難い法を説く。阿弥陀仏浄土にはある特色がある。それは、阿弥陀仏の大願力の光は十方法界を普照でき、宇宙のいかなる片隅であろうと、阿弥陀仏の光は必ず普照でき、それに障礙はない、ということだ。そなた達は、見たことがないぞ!と必ず言うだろう。紫外線、赤外線は肉眼で見えるだろうか?肉眼で仏光が見えるとどうして思うのか?衆生が、輪迴苦海を離れたいとの願いを求めさえすれば、仏の光とは仏慈悲、加持の力だ。この種の「求める」は金運や健康運を求めるのでも、妻や子供が従順になるように、と求めるのでもない。これらは仏とは無関係だ。

在世時に阿弥陀仏法門の修行を開始すれば、非常に多くの悪業をこの一生で完済できる。しかも在生の内に、悪はゆっくりと善に転換する。いくら念誦しても何も変わらない、と思う人もいるだろう。それは、そなたの心がやはり自分を良くしたいと思っており、浄土に往生したいとの決心を下していないからだ。そのため、この済度法門を修めるのは、亡者を救うだけでなく、最も重要なのは在世の人を救うことだ。この大法会を開催することで、そなた達は福徳因縁を植え付けられ、阿弥陀仏と非常に深い縁を結ぶことができる。だが、どの一世で、浄土まで修められるかは分からない。なぜなら、それはそなたの決心次第だからだ。

例年は非常に多くの人が大法会に参加した後もそれまで通りに肉食していた。これでは法会に参加しても何の意味もない。なぜなら行善しないなら、いわゆる善とは殺生しないことだが、殺生を止められないなら、阿弥陀仏をどれだけ念じても役には立たないからだ。今日修める法は、阿弥陀仏が蓮師に御自ら伝えられた法だ。そのため岩伝法という。人の口から伝わったものではない。非常に多くの過程を経なければこの法を学ぶことはできない。私には、17年前に法王がお伝えくださった。だが一度口伝くださっただけで、あとは自ら修めたのだ。

そのため修法の開始時には、三寶に対して恭敬心を持つように。恭敬とは供養だ。供養すれば福報が起きる。福報が起きれば、それを用いて、救いたいと望むすべての亡者を救うことができ、未来の学仏の障礙を消し去ることができる。自分はとても忙しく、学仏する時間がないという人が多い。私は在家だ。そなた達よりもっと忙しい。だが私はやはり学仏、修仏し、衆生に利益する時間がある。つまりすべては決心次第なのだ。修法時には、心を落ち着けるように。明日は中秋節だ。できるだけ急いで、みなが早く帰宅できるようにしよう。私に急いでもらいたいなら、出たり入ったりしないことだ。なぜならそなた達が落ち着かないなら、そなた達には見えない衆生も、そなた達につられて落ち着かなくなるからだ。実はそれら衆生はすでに長い間待っているのだ。では修法を開始する」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは暫く「阿弥陀仏大超度法」儀軌を修めた後、開示なされた。

「先ほど念誦したのは、皈依本尊阿弥陀仏だ。続いて、今日は発心を行う。つまり、無間痛苦、輪迴苦海、三悪道にいる一切の衆生を救い、彼らが苦中から済度を得られるよう、修行者と参加者が共に願(そなた達の願力)を生起し、菩提心を行う(これは私が行う)のだ」

リンポチェはある程度の修法の後に開示くださった。「先ほどの部分では、主法者は、この場が阿弥陀仏の宮殿と全く同じであると観想する。主法者は自分と本尊が無二無別であるとさらに観想し、その後に供養する。つまり今、ここは阿弥陀仏の宮殿なのだ。そうなのだから、みな落ち着いていなければならない。

続いては供養だ。我々は阿弥陀仏の一切の功徳を賛嘆しなければならない」

法会中には、多くの信衆がトイレに立つ。一般に演奏会などでは、開演後であれば、演奏者と観客を尊重するため、席を離れれば再び席に戻ることはできない。けれども、リンポチェは衆生を憐れみ、参会の信衆大徳がトイレに立つことを禁止したことはなかった。しかし、儀軌の進行中は仏法を尊重し、三寶を恭敬するため、会場の外に出ている人には、儀軌が次の段階に進むまで待ってから席に戻るようにしてもらっている。その際にも、その間に外で立って待たせることがないよう、イスを用意して座ってもらうよう、スタッフに指示なされた。

リンポチェは修法を続けて、こう開示された。

「先ほどの一段では、阿弥陀仏智慧尊にこの壇城にお越し下さるよう観想した。またこの場が、浄土阿弥陀仏の宮殿と同じであると観想した。この後は続けて供養を行う。

先ほどは八供を修めた。密法では、修法の度に8種の供養を行わなければならない。八供養を説明するには非常に長い時間がかかるので、簡単に一つについて説明しよう。音楽による仏への供養だ。4文ある。我々は最も清浄で歓悦の意の音楽を用いる。いわゆる意の音楽とは、世間の音楽ではない。非常に多くの人が仏の歌を歌おうとするが、まったく歌えないのは、清浄、極敬、悦意の音楽ではないからだ。「遍山如来及眷属」とは、あらゆる仏と他の眷属を全て供養するということだ。「我以恒常敬供養」の「恒常」とはひたすら行うことで、一回か二回行えばそれで十分だ、というのではなく、ひたすら行い、非常に恭敬にひたすら供養するということだ。恭敬とは、すぐに何かの報いを得たいと願うのではないということだ。「賜予殊勝仏果位」とは、供養は我々の福報を累積するもので、最も重要なのはいつか必ず成仏できるということだ。

先ほどは五種の妙欲の供養だ。少し説明しよう。甘露と一切の食物を供養する。酸味、甘味、苦味、渋味等の各種の味がある。重要なポイントは、この種の食物の供養が、金剛亥母に変わるということだ。金剛亥母は金剛乗の非常に重要な本尊で、金剛亥母を修めなければ済度などありえない。「供於壇城本尊舌」とは、我々のこの種の供養は本尊の舌、つまり阿弥陀仏の舌の供養だということだ。どの種の供養も咒語加持がある。そのため、きれいに洗ってテーブルに置けば供養だ、というのではない。これは物質の供養に過ぎない。物質は人の眼で見えるものだ。そのため必ず物を供養し、祈禱文と咒語を通して、供養する物質を、仏菩薩と衆生に利益できる事に変化させなければならない。続いては鏡寶だ。

七鏡寶は、修行人が今後救いが得られるよう助ける。例えば、サファイヤの光を供養すると、それは太陽と同じで他の光より勝っている。この光を供養するので、我々を満願させてくれるのだ。これは世間の願ではない。修行、衆生に利益する一切の願だ。殊勝なる功徳を備え、宝石を供養し虚空に遍く満ちる。続いては七鏡寶と八種瑞物の供養だ。

八吉祥中の一つの供養について少し説明しよう。我々は、一切の宝石を用いて装飾した寶傘を供養する。なぜなら供養の理由が、一切の有縁衆生を済度させるためだからだ。一切の供養は、衆生を救う修行と関係がある。続いては八供養天女だ。その中の一人の天女は、美しい妙なる歌を歌うことができる。聞く人は誰でも感動する歌で、無辺虚空に充満し、如来及び眷属を供養する。

もしそなたが普段からしばしば阿弥陀仏を念じ、菜食し、因果を信じているなら、浄土往生を発願していなくとも、阿弥陀仏の名号を耳にしさえすれば、事故に遭ったとしても死ぬことはない。あらゆる事故は非時死亡だ。死ぬべきでない死だ。この世には思いがけない事故などない。なぜなら一切の事故はすべて過去に自分が為した悪因果報の成熟だからだ。そのため、仏はひたすら我々に早く学仏するようお勧めになるのだ。なぜなら、いつ事故に遭うか分からないからだ。もししばしば阿弥陀仏を念じているなら、我々の寿命を豊かに増やすことができる。つまり、求めなくとも、自然に寿命が増えるということだ。なぜなら我々の寿命は、浄土に往生できるほど念仏するには、不十分だからだ。寿命を増やすのは、息子の結婚や孫が生まれ、孫がさらに曽孫を生むのを見届けさせるためではない。福報と智慧も増やしてくれる。この数語でそなた達を惹きつけよう」

リンチェンドルジェ・リンポチェは、トイレに行って席に戻っていない信衆に、戻るよう指示され、「みな、あまり健康でないな」と心を込めて仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「続いてこの段では、リンチェンドルジェ・リンポチェは己の灌頂を修める。その後ナンジュ・ケンポスに灌頂を授ける。

先ほど修めた一段は、主法者が自分自身に阿弥陀仏の灌頂を与えるのだ。なぜなら主法者はなお凡夫の身体を具備するので、無辺の有情衆生を救おうとするなら、仏と無二無別の法身と智慧身が必要なので、本尊を通して灌頂を授けた後、本尊阿弥陀仏と無二無別となり衆生に利益できる。自分に灌頂を与えるには、自分が先に上師から灌頂を受けたことがあり、一連の修行を経た後でなければ、他人に灌頂を授けることはできない。他人に灌頂を授けるとは、自分の功徳福報を相手に授けるということだ。もし、菩薩果位まで証しておらず、灌頂を授け過ぎれば、自分の身体に良くない。続いてはダーキニーの歌を歌い、諸仏菩薩の功徳を讚頌する」

続いて、八供女献唱、供茶、供飯を行い、薈供の儀軌を行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「供品により、我々はこの福報を、本尊阿弥陀仏、西方極楽世界の一切の大菩薩及び上師といっしょに用いることができる。仏法中では、これは福報がなければ得ることはできない。供品を受け取ったら、少し食べてもよいが、全部食べてはならない。後でそなた達から一部を回収し、法会に入って来られない衆生を供養する」

供品を配布し、会場内のあらゆる人がリンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった供品を一つずつ受け取った。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも、法会において、本尊及び上師と共食する得難い殊勝なる善因縁を参会者にお授けくださったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはトイレへ行った信衆に、祖先等を待たせてはならない、とできるだけ早く席に戻るように、何度も呼びかけた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「先ほど、そなた達の祖先の位牌は私の前に置かれた。そなた達が済度させたいと願う人はすべて、すでにDVD中に記録されている。一つ目の動作は、先ず彼らを灑浄し、済度がうけられる福報を彼らにもたらす」

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられ、済度儀軌を修持し、広大な慈悲心から、済度させたいと願う往生者の名前を、参会者に何度も声に出させてくださり、開示くださった。「先ほど行った儀軌は先ずタルマの食子を亡者に布施し、続いては点灯し、彼らの一切の往生の障礙を焼いて取り除いた。先ほど修めたのは、亡者は在生時に障礙があり、死後もなお悪業障礙があるからだ。今はこれら悪業の障礙を取り除き、同時に魔や鬼を満足させて離れさせたので、亡者はようやく済度を得ることができた。先ほど用いた黒ゴマは亡者の悪業を表し、持咒により、悪業を智慧の火で焼き、清浄な水で清めたのだ。経を唱えれば済度させられる、というものではないということが分かっただろう。非常に多くのことを学ばなければならないのだ。この段の修法は、砂を用いて亡者の一切の障礙を表す。太陽が昇り黒雲を消して清めるように」

修法過程で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは亡者済度リストが載ったDVDに対して慈悲深くも威猛忿怒相を示現され、苦しんでいる一切の衆生の障礙を消した。リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に、立ち上がって、亡者に代わり壇城に頂礼皈依して救護を求めるよう指示なされた。続いて、出家弟子が亡者に代わり諸仏菩薩に頂礼三拝した後、済度儀軌を続けられた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法本について開示された。「『中陰恐懼閻魔関。煩悩痛苦所折磨。淒涼処境徘徊著。慈悲之力祈救護』というこの四文は、亡者が阿弥陀仏に救いを求めていることを表す。中陰とは、人が死んだ後、投胎するまでだ。投胎とは三悪道に堕ちることも含む。三悪道に堕ちても中陰はある。中陰に堕ちる恐怖は、言葉で言い表せるものではない。世間には種々の恐怖があるが、基本的には、心の中の欲望が満たされないことで生まれる恐怖だ。中陰の恐怖は、誰であろうと取り除いてやることはできない。生前どれほど権勢を誇り、どれほど金があり、どれだけの眷属がいたとしても、世間を離れた後は、中陰には恐怖がある。なぜなら、何が起きるか分からないからだ。

『煩悩痛苦所折磨』と言う。中陰にいる時には、種々の煩悩がある。それには周辺で発生するすべての事に対して、非常に敏感になることも含む。例えば、鬼道衆生は正午12時までは出て来られない。なぜなら太陽光を見ると、気分が悪くなるからだ。『折磨』というのは、自分の煩悩と痛苦を解決することができないため、非常な寂寞を感じ孤独だからだ。『淒涼処境徘徊著』という。毎日祖先を拝んでも役には立たない。なぜならそなた達には祖先を救う能力がないからだ。祖先は鬼になった後、自分がどれほど苦しんでいるかを眷属に直接伝えることはできない。そのため、行ったり来たりするのだ。家に帰り、子孫が幸せに暮らしているのを目にし、自分は苦しんでいるのに、と怒りを募らせる。祖先が一度怒れば、家族は不和となり、争いが起き、物事はうまくいかなくなり、子供は悪くなり、病気にかかる等のことが発生する。祖先が子孫に害を及ぼすだろうか?と、そなた達は言うだろう。これは害ではない。子供がいる人なら分かるだろう。子供が言うことを聞かないなら、叱り、叩くこともあるだろう。鬼がそなた達を叩く、というのはそなた達に不快に感じさせるということだ。なぜ仏教はこれほど済度を重視するのか?それはそなた達の祖先のほとんど百%が済度を得られていないからだ。読経したので、阿弥陀仏を念じたので、済度できるなどと思ってはならない。必ず非常に多くの儀軌を経なければならないのだ。

この4文は亡者に用いられるだけではない。在生のものにも関わる。自分は幸せに暮らしている、自分の多くの事はどれもとても重要だ、と思っているなら、死後に分かるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがいなくなった後、金も命も要らずに、そなた達を救ってくれる、このような人を見つけるのは難しいのだ。まだ老いず、まだ生きている内に、私はそなた達を救おうぞ!

先ほどの段では、一切の亡者の身体が金剛薩埵の身体となることを修法人が観想する。侍者がそなた達に代わり、バターランプを持って前に跪いている。灯は仏光を表す。亡者を導き浄土と三善道に往生させるのだ」

リンチェンドルジェ・リンポチェが唱頌される法音には、無比なる慈憫と不捨が現れており、参会者はみな感動で落淚し、輪迴中で苦しんでいる亡者を救ってくださるよう、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに心から祈った。リンポチェが衆生を済度する時には、荘厳な法音が発せられ、会場全体は衝撃と感動に包まれ、これにより衆生は超抜を摂受した。この時、参会者は上師の弘法利生無盡の恩徳を深く感じ、心中に無比なる懺悔心と恭敬心が起き、淚を流した。

法会が円満となり、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「続いて、私は法座を下り、みなに浄水を振りかける。浄水には六種の薬材を含む。これは法本に記載されている有用な薬だ。サフランと甘露丸もある。甘露丸は直貢の祖寺である直貢梯寺で每年行われる六字大明咒の法会で、45日間連続で、すべてのラマが24時間リレー方式で六字大明咒を持誦したことによる甘露丸だ。法本には、浄水を振りかけることで、上師の観想と咒語により、衆生は未来に必ず阿弥陀仏の浄土に生まれることができる、と記載されている。未来とは次の一世とは限らない。少なくともこの縁は結ばれた。現在会場内の人はすでに阿弥陀仏浄土へ行ける善縁を結んだのだ」

この時リンポチェの法座での修法時間はすでに4時間近くになっていた。胡座をかいて座り、こんなにも長い時間修法されていたのに、法座を下りれば、直ちに飛ぶような勢いで歩き壇城を下りられた。電動車に乗り、八供女の前導の下、会場全体を回り、絶えず持咒を声に出しながら、吉祥草を甘露水に浸し、会場内の参会者に絶えず灑浄加持を行った。参会者は席で静かに恭しく待っていたが、目からは切実な期待が溢れており、みな恭敬して合掌し、リンポチェの甘露加持を待っていた。

法会会場は7,000坪あり、サッカー場3.5個分の広さがある。灑浄時には、リンポチェは心中で衆生を思い、手中の吉祥草を22分間にもわたり振り続けた。右手にお持ちになった吉祥草は、甘露水を吸ってひどく重くなっている。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは、ご自身の脊椎S字型側弯症の宿疾と右肩関節の疼痛を押して、灑浄加持をくださったのだ。リンポチェの右肩関節には、滑液囊がないにもかかわらず。会場全体を灑浄するため、リンポチェの痩せたお身体は、ずっしり重い吉祥草の束を振ること、4百数回にも及んだ。平均で3秒毎に1回振っていることになり、大変なご苦労だ。灑浄の過程において、リンポチェは絶えずみなを持咒加持し、会場では多くの人がリンポチェの無私無我の犠牲を目にし淚を流した。

灑浄の終了後、リンポチェの全身はすっかり濡れていたが、再度壇城に上られ、壇城区に腰掛けている出家衆に灑浄なさり、続いて参会者に貴重な仏法の開示を続けてくださった。

「みな帰宅して中秋節を祝うが良い。バーベキューはせず、バーベキューに参加してはならない。真実の話をしよう。バーベキューの匂いは山神、ダーキニー、龍を傷つけるのだ。バーベキューするなら、食べなくとも、その場にいるなら同じことだ。私のある弟子は、皈依する前のバーベキューのせいで不治の病に罹った(度衆事蹟020参照)。今日は得難い法会に参加したのだから、ちょっと我慢してみよ。家族と喧嘩になるのを恐れてはならない。バーベキューはもともと身体に悪いのだ。バーベキューを食べすぎればガンになる。

私のように71歲まで生き、数時間トイレへ行かず、さらに駆け下りてきて、そなた達に灑浄できるようになりたいか。他でもない、諸仏菩薩がお守りくださっているのだ。なぜ私を守ってくださるのか?それは私が衆生のためだからだ。みな良く考えるがいい。人生はあっという間に数十年が過ぎてしまう。数十年争えば、最後には何一つない。名も利も空に過ぎない。それなら、なぜリンポチェは商売するのか?とみなは聞くだろう。仕方がないのだ。私は幼い頃から人に頼らない習慣なのだ。また私は、非常に多くの信衆の供養を受け取らないので、自立しなければならないのだ。『寶積経』中で、釈迦牟尼仏は非常にはっきりと仰せだ。在家菩薩は財と富を持っても良いと。これは仏が仰せなのだ。私が言うのではない。私は仏の仰せ、仏の教えに従い、仏法事業を行っているのだ。

今日はみなに大きな救いを与えられたことを願う。また、みなが阿弥陀仏と非常に深い縁を結べたことを期待する。いつか必ずそなた達が阿弥陀仏のおそばで私に会えることを願う。私は再来しない。ここで待っていても無駄だ。待つなら、阿弥陀仏のおそばで待つのだ。みな今日はありがとう!」

リンポチェは開示の終了後、壇城を下りられた。会場全体の参会者は起立して恭しくお見送りし、リンポチェも合掌して応え、口中では持咒し続け、慈悲の眼差しで黙々と参会者一人一人を加持くださった。続いて電動車でゆっくりと退出なさった。会場全体にたくさんの歓喜心をお残しくださり、法会はここに成功円満となった。

<« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2018 年 10 月 15 日 更新