尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2018年8月17日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2018年8月17日、京都寶吉祥仏法センターで殊勝なる上師供養法を主法なされた。参会者は日本及び台湾の信衆19人、日本及び台湾の弟子127人の計146人で、法会は殊勝かつ円満となった。

今日は上師供養法を修める。顕教にはこの法門はないが、密法とチベット仏教には特にこの法門がある。顕教で仏門に皈依するといえば、仏に皈依し法に皈依し僧に皈依するが、チベット密法では、仏に皈依し法に皈依し僧に皈依し上師に皈依する。なぜ上師に皈依すると言うこの儀軌を加えるのか?それは、この一生で仏法を学びたいなら、上師の伝授を必ず受けなければならないからだ。そうでなければ、仏法を聞き仏法を修めることはできない。仏法は一種の宗教だと考え、仏法は一種の哲学だ、一種の学問だと考えている人が非常に多い。そのため、多くのところで多くの人が仏法を研究している。実は仏法は研究するものではない。上師の教導伝承を受けた後に、暮らしの中に用い、その人の未来の人生を変えることができる一種の教育の方法なのだ。

なぜこんなにも多くの人が学仏しようとしないのか?さらには、多くの人が法会に参加するだけで、皈依しようとしないのか?それは彼らが「仏法は宗教だ。法会に参加すれば仏菩薩がお守りくださり、平和に日々を過ごせ、健康でいられ、望めばなんでも叶えてくださる」と思っているからだ。これは仏法ではない。これは外道の宗教だ。宗教とは、そなたの欲望をいくらか満たすものと定義できよう。だが、仏法とは、自分が行ったことは全て、未来に必ず結果として発生するものと定義される。なぜならその根本原理は「自分の未来を変えたいなら、今すぐに行わなければならない」と仏は仰せで、そう我々を教導くださるからだ。

なぜ皈依しなければならないのか?簡単に言えば、どんな学校であろうと、入学したいなら、申し込み手続きをしなければならず、申し込み手続きをしないなら、その学校で学ぶことはできない、ということだ。仏法への皈依とは、それに近い意味があるのだ。だが皈依には更に広い意味がある。いずれにしろ大切なことは、この一生で確実に発心皈依学仏するということだ。この一生でうまく修められず、生生世世の問題を解決できなくとも、この一生で皈依したのだから、未来の生生世世で仏法を聞き、仏法を学び、仏法を修行する機会があり、生死を解脱することができる。

生死の解脫など重要な事ではない、この一生を愉快に生きられ、病気をせずに暮らせるのこそ最も愉快な事だと思っている人が非常に多い。だが、仏ははっきりと仰せだ。有情衆であるなら、8種の苦から逃れることはできない。それは生老病死、愛別離、怨憎会(最も嫌いな人といっしょにいること)、五蘊熾苦(眼耳鼻舌身は欲望を追求し続け満たされることはないという苦しみ)、求不得(この一生で求めるものは悉く得られないこと)だ。仏の仰せを学ばないなら、この8種の苦は生生世世に必ず出現する。仏を学び、この8種の苦の原因を理解したなら、将来この8種の苦に見舞われる原因を作り続けることはなくなり、それが減り、さらには停止してしまうだろう。そして、未来世では、この8種の苦に纏わり付かれることはない。

人がこの世間で生きるのは、わずか数十年だ。自分はこの一生で何をしただろうかと振り返ってみよ。誰でも自分のいわゆる事業、仕事、家庭、子供のために、非常に多くの時間を浪費し、いよいよ死ぬという日になっても、一切何もない。多くの人が、死というこの事について考えるのを避けている。だが考えるにしろ考えないにしろ、死が我々から離れることはないのだ。臨終時に医者が苦痛を減らしてくれることを願っている人が多い。だが、これは不可能だ。医者ができるのは、治療を受けたと感じさせて、心を落ちつかせることだけだ。現代はガンになる人が多く、皆、医者の治療を受けているようだが、医者に「私の治療に自信がありますか?」と訊ねれば、医者は「この薬を飲めば何パーセントかの確率で効果があると思います」と答えるだろう。だが人は科学や医学をよく信じるので、医師免許を持っている人が言うんだから間違いないだろう、と考えてそれを受け入れる。

台湾のある信衆がガンになり会いに来て「医者に掛かっている」というので、「この薬はどこに効くのかと医者に聞いたか?」と訊ねたところ、その信衆は「聞いていない」という。「その薬を飲んで何か副作用があるのか?」と訊ねると、その信衆はやはり「聞いていない」という。私が「なぜ聞かないのか?」というと、その信衆は「相手はお医者さまなので」という。

仏法にはある特色がある。それは人の根本的な問題から解決するというものだ。人の根本的問題とは輪迴だ。生死大海内で絶えず輪迴する。我々の一生は、数十年間すべて食べるため、寝るため、服を着るため、家庭のため、事業のため、毎日非常に忙しい。忙しくて、最後にこの世を去る時には何一つ携えていけない。もし忙しくした後に成果があったなら、この世を去る時に次の代が財産のことで揉め、裁判沙汰になり、憎み合うことになるだろう。じっくり落ち着いて考えようとしない人が多い。人生とは何なのか?「自分は事業の面で少しは名声がある。自分のこの人生はとても豊かだ」と誰もが考えている。「この一生で少しは事業を為せたので、なかなか良い人生だった。自分の人生は成功だ」と考えている人もいる。どれだけ成功しようとも、成功した偉人であっても死を免れることはできない。それは歷史が示している。

仏法の特色は、在生の内に十分な福報と資糧を絶えず積ませることだ。この福報と資糧は、この一生でさらに幸せに暮らすためではなく、この一生でさらに健康になるためではない。健康は、薬を飲めば得られる、というものではない。私は今年もう71歲だが、十分に健康だ。それは私が医者に掛かっているからではなく、漢方クリニックの漢方薬を飲んでいるからだ。実は私は今年自分について実験した。二月から全く薬を飲まなかったのだ。だが健康状態が悪くなることはなかった。これは、私が絶えず衆生に利益し、衆生を救っているので、この種の福報が起きたのだ。身体は福報の一種の現れだ。福報に従い身体も健康になるのだ。

そなた達は、自分の福報をどうやって増やすのかを全く理解していない。たまに少しの善事を行い、少しの金を寄付し、他人に少し良くすれば、福報があると思っている。だが、これらは人として本来行うべき事だ。人は悪い事を行ってはならない。悪事を働けば牢屋に入らなければならない、と誰でも知っておろう。行善で福報を積むとはどういうことなのか、多くの人が知らない。

仏法が私の身の上に応験しないなら、そなた達も学仏しなければ良い。私は仏法を修行し、仏法を自分の人生で実験した。その結果、仏の仰せは確かにすべて応験したのだ!私は五十何歲の時に皮膚ガンに罹ったが、医者に掛からず、仏菩薩に助けを求めたりもしなかった。ただひたすら仏法修行を続けただけだ。その結果、皮膚ガンは完全に良くなってしまった。道理から言えば、71歲の老人が一日中飛行機に乗って、あちらこちらに飛び回ることなどできるはずがない。あっちへ行ったりこっちへ来たり、絶えずたくさんのことをこなしている。私に野心があるというのではない。私はこんなにも偉大だ、もっと稼ごうとしているのだ、というのでもない。私が行う事はすべて衆生への利益なのだ。私が出現することで、衆生が仏法を受け入れ、仏法に対して恭敬を示したなら、私はすでにこの衆生に、未来の学仏の種を植え付けたことになる。この衆生がこの一生で私に従い学仏するかどうかは重要ではない。なぜなら多くの人はこの一生で非常に頑固で、自分はこうなんだ、と思い込んでいる。「リンポチェなど、ただの学仏人にすぎない。説法を聞きに来てやったので、これで面子は十分立ててやっただろう」というのだろう。私の面子を立ててくれる必要など、全くない。仏菩薩が私の仏法事業をご支持くださるなら、私はそれをひたすら続けていくだけだ。

今日なぜ我々は上師供養法を修めるのか?法本は非常にはっきりと説いている。最も速く福報を累積する方法こそ上師への供養なのだ。仏菩薩への供養ではないのか?とそなた達は言うだろう。経典では言う。もし今日我々が菩提心を発し一人の修行者を供養するなら、億万仏を供養するより、その功徳は大きい。その道理とは、衆生に利益する一人の上師が出現し、この上師が多くの衆生に絶えず利益し、上師が発した願力が衆生の離苦を助けることなら、そなたが上師を供養した時、そなたは上師の行善の縁と一体に結ばれる。上師が何かを行えば、そなた達も少しのおこぼれに与れるのだ。

仏はすでに成仏しておられる。仏は不動なのだ。真に発心し仏法を学ぶ人でないなら、仏がそなたと有縁であるはずがない。仏はなぜ成仏されたのか?一切の世間の種々の煩悩を断たれたからだ。なぜ菩薩はまだ成仏なさらないのか?経典では言う。菩薩のもう一つの名号は覚有情だ。覚とは覚悟である。菩薩は未だ有情衆なのだ。この有情衆がすでに覚悟したのに、仏法を学ばず、仏法を修行しないなら、その人は生生世世に苦を受ける。そのため、覚悟して仏法を修行しなければならない。なぜなら未だ菩薩だからだ。なお仏法修行を行わなければならないのだ。そのため、菩薩にはなお塵沙煩悩がある。つまり未だ煩悩があるのに、衆生に利益し衆生を済度しなければならないということだ。菩薩に祈求し、上師に祈求すれば、救いは加速する。なぜなら少しの無明、煩悩が存在しているからだ。仏は不動であられる。真に菩薩果位まで証した者が祈求するのでなければ、仏は相応なさらない。一般人が拝仏しても、未来世で用いることができる、ほんの少しの功徳福報が積めるだけだ。だがそうであっても、全く拝仏しない人に比べれば、ずっと良いが。

上師供養法は見たところ、我々が上師を供養しているようだが、実は内部では仏法修行の方法、心の持ち方と儀軌について述べている。チベット仏教は伝承の清浄を特に重視している。伝承の清浄とは、この伝承が、お一人目であられる祖師から現在まで法脈が断たれず、すべての代が仏法を伝承してきた、ということだ。私が現在学んでいる教派は直貢噶挙派だ。すでに八百年余りの歷史がある。第一代のジッテン・サムゴン祖師から現在まで、法脈が断たれたことはない。そのため、我々は清浄な伝承と言われるのだ。

ジッテン・サムゴンは、帕摩竹巴(Phagmo Drupa Dorje Gyalpo)より仏法を学ばれた。経典中には「龍樹菩薩は雪域(つまり青海)の寒い地方に転世される」と予言がある。顕教を学んだ人なら、「中観論」という言葉を聞いたことがあるだろう。「中観論」とは龍樹菩薩の著作だ。龍樹菩薩は、前世では釈迦牟尼仏と同時期に出現した大居士、維摩詰居士であられた。仏法に少しでも触れたことがある人なら知っているだろう。維摩詰居士が病を患い、釈迦牟尼仏は、普賢菩薩と文殊菩薩に維摩詰居士を見舞うよう命じた。維摩詰居士は自分の病を用いて、文殊菩薩と普賢菩薩に仏法を開示した。文殊菩薩と普賢菩薩は仏法中の八大菩薩であられる。これから維摩詰居士の修行が、仏と等量であることが分かる。

そのため、仏法は、ある民族、ある人でなければ学べないというものではないのだ。誰でも決心を下しさえすれば学習できる。仏法は誰かが発明したものではない。すべて釈迦牟尼仏がお伝えくださったのだ。仏法は必ず経典で説くものに基づかなければならない。正に「寶積経」中で釈迦牟尼仏が開示なさったように、末法時代、つまり我々が今存在している時代には、非常に多くの僧衆がいる。在家の僧、出家の伝法上師を含め、名聞利養の為に、阿諛奉承し仏法を捻じ曲げている。名聞利養の名聞とは、有名になることで、利養とは供養を得ることだ。阿諛奉承とあるが、阿諛奉承をどう説明するかを中国人は知っている。つまりゴマスリだ。信衆を持ち上げるのだ。仏法を捻じ曲げるとは、信衆を持ち上げる為に、仏が仰せの仏法を歪曲してしまうことだ。

今日は京都道場において、皈依していない日本の信衆には一切の仏法を教えない。なぜならただの信衆だからだ。皈依している弟子にだけ、仏法を教える。そなた達は、仏寺へ行けば写経し、誰かが仏法を講じてくれるのではないか?と言うだろう。だがこれらは学仏ではない。ただちょっと聞いてみるだけだ。聞いて何かをするか?誰かがそなたのすることを見張ってくれるか?そんなことはない。勉強していても、先生が見ていてくれないのと同じだ。そんな状態でしっかり勉強できるだろうか?できない。人は誰でも過ちを犯す。自分はもう一人前だ、何であれこれ構われなければならないのだ?と思っている。実は私には構う気などない。だが、学仏するなら、こうするしかないのだ。

今日修めるのは上師供養法だ。諸仏菩薩及び上師と特に深い縁を結べるだろう。そなたがこの一生で皈依しようとせず、菜食しようとしなくとも、どうでも良い。私はそなたを懲らしめるのではない。だが、菜食しないなら、95%以上の確率で地獄に堕ちるだろう。脅しているのではない。「地蔵経」にそうあるのだ。「地蔵経」のある一段で、地蔵菩薩は前世、つまり菩薩になる前のある一生の母親は肉食を好み、鱉(亀に非常によく似た動物、日本にはいない)の卵を好んで食べていたが、死後、地獄に堕ちた。日本の信衆は考えてみよ。この一生でどれだけのものを食べただろうか?仏は我々を脅しているのか?仏は我々を脅す必要などない。学仏するかどうか、仏を信じるかどうか。仏はそなた達を脅迫していないし、そなた達を脅してもいない。仏は事実を仰せになっているだけだ。事実は述べられた。受け入れるかどうかは、自分で決めれば良い。決めなければどうだ、とは仏は仰せでない。ただ、事実を伝えられているだけだ。

今日述べたことは、私が考えだしたのではない。仏が経典を通して教導くださったことだ。この一生で正しい事をどれだけしただろうか?と我々に理解させてくださっているのだ。正しい事をしているなら、それを続けるのだ。正しい事とは衆生を傷つけず、衆生に利益する事だ。誤った事とは、衆生を傷つける事だ。誤ちを続けてはならない。仏は仰せだ。懺悔しさえすれば、その衆生は未来で救われる。懺悔しないなら、毎日仏菩薩に健康を祈り、仕事の成功を祈っても、叶えられることはない。絶対に叶わない。

私はこの一生でこんなにも多くの事業を行っているが、仏菩薩に仕事の成功を祈ったことはない。皆も知っておろう。私は在家のリンポチェだ。商売してもいいのだ。維摩詰居士も在世の折には商売をなさっていた。たくさんの人の助けを得て、莫大な財を成しておられた。なぜなら在家であられたからだ。だがは私は仕事の際に、自分の事業のために修法したり、菩薩に祈ったり、護法に頼ったりしたことは、ただの一度たりともない。すべてを自然に任せて行っている。そのため煩悩も少ないのだ。

今日皆にこの法を修めるのは、皆の未来の仏法修行の福報を積むためだ。学仏など学びたければ学び、学びたくなければ学ばなければいい、という人が多いが、それは福報がないということだ。人類の福報は非常に少ないし、ほとんど役に立たない。お金があり、健康で、子供が従順なのが福報だと人は考える。だがこの種の福報はほんの一部に過ぎない。仏が仰せのように、真の福報とは仏法が学べ、仏法が修行できることで、さらには衆生に利益でき、未来世で成仏する機会があることだ。そうでなければ真の福報とは言えない。この種の福報は無限なのだ。人世間の福報は使えばなくなってしまう。人はなぜ老いると身体が衰えるのか?老いたから身体が衰えたのではなく、福報を使い切ってしまいそうになっているからなのだ。

私は71歲だが健康だ。なぜなら私は福報が十分だし、しかも絶えず増えているからだ。そのため、身体があっという間に衰えるということはないのだ。人は病に罹ると、突然身体は急速に衰えてしまう。それは福報を使い切ってなくなりそうになっているからだ。「私が福報を使い切っているって?私は今も有名だ!食べられて、眠れるじゃないか」などと言って、信じない人が多い。老化とは福報がもう直ぐなくなってしまいそうな頃だ。人は福報を理解していない。本当の話をしよう。誰でも毎日、自分の福報を使い、毎日死を待っているのだ。いつ死ぬのか?分からない。そのため自分に対して非常に多くの希望、欲望、願いがあるのだ。

仏法を学び人生を理解すれば、自然にゆっくりと非常に多くの煩悩痛苦が減っていく。さらには、何らかの煩悩痛苦を受けても、自分に影響することはなくなる。人がこの世界で生きていれば、必ず煩悩痛苦がある。これは避けることはできない。今日皆に短い開示を与えよう。学仏は非常に重要で、時間ができたら学ぼう、健康を害したら学ぼう、今日は仕事が忙しいので行かないでおこう、というものではないと言うことを理解できただろう。ここにいる者で私以上に忙しいものなどいない。私は昨日北京から帰って来たばかりだ。私以上に忙しいものなどいない。だが私はやはり絶えずひたすら衆生を助けている。仏法はいわゆる日常生活に影響を及ぼすことはない、ということが、これから分かる。なぜ仏門への皈依をすぐに決定しないのか?簡単に言えば、それは怠け者だからだ。人は怠け者だと、自分にとって新しい事や物を増やしたいとは思わない。このまま一生を終えたいと思う。人が怠け者だと暮らし方を変えたくないと思う。今のままで十分だと思う。これこそ自分が求めるものだ。これでは福報はあっという間に使い切ってなくなってしまう。

チベット仏教の伝承が非常に重要だと理解すれば、間違った上師を求めることがなくなる。法座に上り修法するリンポチェなら必ず、誰に学んだかをはっきりと述べることができる。どの教派であるかを、はっきりと述べることができる。しかも自分の修行の過程も、弟子であれば幾らかは知ることができる。経典でははっきりと述べている。釈迦牟尼仏の過去世でさえ、生生世世に上師がおられた。ただこの一世で地球に来られた時だけが、最初から仏であられたのだ。そのため、この一生では上師はいない。釈迦牟尼仏には上師がいないのに、なぜ自分には上師がいなければならないのだ?などと思ってはならない。そなたは過去世で菩薩に成仏していないので、そうはいかないのだ。

経典中で釈迦牟尼仏は、どの一世でどんな菩薩道を行ったかを仰せだ。例えば、地獄道、畜生道にいたこともあると仰せだし、どのように学仏したかも仰せだ。なぜこの一生で地球に来られ成仏なさったのか?それは以前口業を犯したからだ。そのため、この一生で最も苦しい場所で成仏なさり、全宇宙で最も扱いにくい人類を済度しておられるのだ。「地蔵経」では非常にはっきりという。全宇宙で最も済度し難い衆生は地球の人類だと。調伏が難しく、頑固で自分勝手だと。非常に多くの日本の信衆は法会に参加しても皈依しようとしない。つまり頑固で自分勝手で調伏しにくく、聞けば分かると思っている。もし聞けば分かるのなら、私は修行する必要がないということだ。私は直貢チェ・ツァン法王が講じられる法をどれだけ聞いたことか。なぜそなた達は皈依しようとしないのか?そなた達の考えは「なぜ私がお前を信じなければならないのだ?仏を信じるだけで良い」というものだ。そなたに力があるのなら、釈迦牟尼仏に出てきてもらい仏法を説いてもらえば良い。それができるなら、敬服する。だがそんなことはできっこない。釈迦牟尼仏とまで行かなくとも、観音菩薩であっても出てきてもらうことなどできはしまい!これこそ頑固で自分勝手で調伏しにくいということだ。

今日は日本の信衆に私への皈依を迫っているのではない。もう疲れた。すでに千五百人余りの皈依弟子がいるのだ。私もすでに老いている。これ以上の弟子を持ちたいとは思わない。弟子が多ければ面倒な事も多い。なぜなら私は、皈依弟子に何かが起き、それを知ったなら必ず面倒を見る、と心に決めているからだ。弟子でなく信衆なら、遊びに来ればそれで良い。終わればそれでさようならだ。私と信衆との間の縁は、それほど深くないからだ。

今日はこの法を修める。この法を尊重し、歷代の上師を尊重し、諸仏菩薩を尊重しさえすれば、必ず福報を累積することができるだろう。福報は往生の際に助けとなるだろう。もし、今日のこの法会をはっきりと記憶しており、上師の修法時に非常に恭敬であったなら、悪を続けない限り、地獄に堕ちる機会は大きく減るだろう。記憶しており、往生前にこの思いが頭をもたげたなら、それでも地獄へ落ちることはないだろう。

人世間の福報はあまりにも少ない。しかもいつ何時変化するとも限らない。だが、我々が生死大事に必要な福報と往生の後に投胎する三善道は、我々在生の際に絶えず福報を積む必要がある。三善道とは天道、阿修羅、人道だ。私は天道に生まれたのだから、すでに十分満足だ、と思っている人もいるだろう。だが天道に生まれたとしても、やはり輪迴するのだ。天道に生まれたとしても、やはり仏法修行を続けなければならない。そのため「地蔵経」では、。釈迦牟尼仏は忉利天宮へ行き母親に仏法を説いた、と言うのだ。つまり、母は天界に生まれたが、釈迦牟尼仏は母に孝行するため、忉利天宮で母のために仏法を開示し、母は仏法を学んだことで輪迴を解脱できた。ここから、天界に生まれても、永遠に幸せとはいかない、ということが分かる。

通常我々は修法の前に、先に皈依発心する。発心皈依は不共と共に分かれる。仏法は大まかに三乗に分けられる。大乗、小乗、金剛乗だ。小乗仏法では阿羅漢道を修める。例えばミャンマー、スリランカ、タイ等では小乗を修める。小乗を修める行者は必ず出家相を現さなければならない。大乗の仏法とは菩薩道だ。日本、中国、韓国などでは大乗仏法を修行する。金剛乗仏法は成仏の道で、チベットの法脈が伝わっている。

不共とは、三乗修行の行者でないなら、いっしょに行える、ということだ。そのため、この不共の発心は、金剛乗と菩薩乗を修めることで行われる。発心とは、発菩提心で、小乗を修める仏法には発菩提心はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を開始され開示くださった。「先ほど唱えたのは不共の発心だ。我々は生生世世で衆生を傷つける事を非常にたくさん行ってきたため、この一世でいわゆる敵或いはそなたを傷つける邪魔がいる。これは彼らがそなたを傷つけようとしているためではなく、そなたが過去に為した悪業が衆生と結怨しているためだ。これら衆生は我々の生死解脫を阻害する。そのため発心しなければならないのだ。これら衆生が、今日仏法を学んだことで、安楽に痛苦を遠離でき、学仏の妨げにならないことを願うのだ。

発心の後、我々は誓言を述べる。金剛乗を修める人なら、その誓言は先ほど述べた「今から仏果を証するまで、私は身口意で絕対で行善する」だ。ほんの少しの悪であっても、絶対に行わない、という意味だ。菩薩乗を修める人なら、その誓言は「今から死ぬまで、私は身口意でひたすら行善し行悪しない」だ。一般の信衆なら、特に仏門に皈依していない信衆なら、少なくとも現在10時40分から明日の朝10時40分まで、身口意の三門で必ず行善しなければならない。これは最低限の要求だ。そのため、今日法会に参加したのだから、台湾の信衆であろうと日本の信衆であろうと、少なくともこの24時間は肉食せず殺生してはならない。飲食業を営んでいる者は、今日は廚房に入らず、肉を含む料理を客に出してはならない。誰かに持って行ってもらうようにせよ。これも良くないが、いくらかはマシだ。

さらに、口に出して人を呪ってはならない。耳障りな言葉は、少しでも口に出してはならない。思考の面ではすべて、善の方向へと考えなければならない。他人が行った何かで気分を害しても、嗔恨の心、嫌いだという心を起こしてはならない。少なくともこの一日で出来ることをこの一日で行えば、少なくとも一日の福報が有る。この一日さえやり遂げられないなら、今後は来ないでもらいたい。特に日本の信衆、皈依しようとしない台湾信衆も、今後は来ないでもらいたい。私は現在あまりにも多くの信衆と弟子を持っている。そなた達は不要だ。これが最も簡単だ。

先ほど私はチベット語を述べたが、だが私はそなた達を代表して念じたのだ。そなた達は騙された。やる気がないなら、私に会いに来ないでもらいたい。テレビ番組を見ることも含め、少しの良くないものでも見てはならないという意味だ。殺人事件を見てはならない。ケーブルテレビの番組を見てはならない。現在から明日の10時半までは。帰宅して、妻や夫が、頭がおかしくなったんだじゃないか、と言ったなら、「そうだよ!今日は頭がおかしいんだ」と言えば良い。一日を異常な状態で過ごす。このような一日は、そなた達にとっては異常だろう。だが私にとっては正常だ。異常な一日を過ごしてみよ。異常な一日を過ごして楽しく感じたなら、それは正常なのだ。一日過ごしてみて楽しくなかったなら、そなたは異常だ。仏法を聞きに来る資格がないということだ。こんなにも簡単な24時間でもやり遂げられないなら、一生行う、生生世世に行うことなどできるはずがない!自分で決心を下さなければならない。私は決心するよう迫っているのではない。法本に書いてあるのだ。私が言っているのではない。この後は不共の皈依だ」

リンポチェは修法を続け、開示くださった。「日本の信衆は今日菜食するなら、ラーメンを食べてはならない。ラーメンのスープは骨や肉で出汁をとる。麺だけ食べて肉を食べなければ大丈夫だ、などと思ってはならない。スープはすべて菜食ではない」

リンポチェは参会者を率いて誦共の発心を念じられ、開示くださった。「ここでは、学仏では必ず皈依しなければならないということが分かる。皈依しないなら、縁を植え付けてやることしかできない。仏法を学べるということにはならず、仏法を修行できるということにはならず、仏法を理解できるということにはならない」

リンポチェは参会者を率い、四無量心を念じ、開示くださった。「無量心とは、我々が発心した後、そなた心の力量は無限だという意味だ。無限とは、空性の慈悲心だ。仏門に皈依しようとしない人は、妻か娘が学べばそれでよい、と思っている。一つ訊ねよう。妻がお腹いっぱいご飯を食べたが、そなたは食べていない。お腹がいっぱいになるか?妻がお腹いっぱいご飯を食べたことと、そなたとは少しの関係もない。妻、娘が学仏しているので私には加護がある、などと思ってはならない。加護などあるものか!頭でも加護してもらえばよい。もしかしたら、血圧でも少しは下がるかもしれない。加護などあるはずがない!私は今日リンポチェだが、私の家族は学仏していないので、私であっても彼らを加護することなどできない。私が学仏する修行人なので、私の福報が少しは家族に影響し、問題の発生が他人よりは少し少ないというだけだ。交通事故に遭っても金銭的な損失だけで身体には影響がない。だが、やはり起きることは起きるのだ。多くの人が理解していない。学仏と私とは無関係で、自分が正当な生き方をしていればそれでよい、と思っている。

先ほどの一段は、釈迦牟尼仏と、釈迦牟尼仏がいかにして人世間に来られたか等の功徳を賛美している。

先ほど念じたのは七支供養だ。なぜ七支供養を念じるのか?それは、この法会中の功徳と加持を受け取ることができるよう、現在法会に参加している人に十分な福報を積ませるためだ。続いては禅定の灌頂を伝える。

日本、中国、台湾、韓国で、多くの人が禅定は簡単に学べると思っている。寺へ行き、座禅を組んで一日不動でいれば、それが禅定だと思っている。板を持ち背を打てば禅定だと思っている。実は禅定とは特別な修行の法門なのだ。どの宗派であろうと、仏法であるなら必ず禅定を修めなければならない。直貢噶挙派では、禅定とは大手印の法門だ。なぜ灌頂が必要なのか?それは、禅定を授権されなければ、今後真の禅定の法門を学ぶ機会がないからだ。少しの邪禅を学べるに過ぎない。邪禅とは似て非なる仏法を寺で少し聞き、座禅を組んで足が痛いなあと思いながら座っていることだ。これらは禅定ではない。

なぜ禅定を修めなければならないのか?第一に、我々の心を訓練し集中できるようにし、不要な波動と感情を減らすためだ。第二に、存在している必要がない心の中の一切の汚れを取り除くことを学ぶためだ。第三は、禅定で最も重要なことだ。往生前のその剎那に禅定できるかどうかだが、禅定が出現した人は、往生を前にして仏法だけ、上師だけを心に思い、他のことは思い浮かばないため、自分の冤親債主に行くべきでないところに連れて行かれることがない。灌頂を伝授する上師自身は、禅定の面で、大手印では少なくとも離戲瑜伽まで修めなければならない。

大手印は4つの次第に分かれる。第一は専一瑜伽、第二は離戲瑜伽、第三は一昧瑜伽、第四は無修瑜伽だ。どの次第もさらに3つに分かれており、合計12の次第がある。無修瑜伽まで修めれば仏果を証する。離戲瑜伽まで修めていない上師は、禅定灌頂を伝授することはできない。今日皆灌頂するが、それはそなたがすでに禅定を得たということではなく、毎日座禅を組めるということではない。そんなことをしても役には立たない。なぜなら心法と口訣を伝えていないからだ。また、なぜ先に禅定灌頂を修めるのか?それはこの後、我々はさらに非常に多くの法を修め続けなければならないからだ。禅定灌頂を受けたことがない人は、心に別のところを思う。人はここに座っていても、心は外へ行ってしまっている。飲食業を営んでいる者は、廚房はきちんとできているか、と考え、他の仕事をしている者も様々なことを考える。禅定灌頂を得れば、少なくとも心を少しは集中させることができる。

灌頂は前行に分けられる。前行とは我々の発心だ。準備作業がなんであるかだ。第二は正行だ。法本を行うやり方だ。第三は後行。つまり迴向だ。

皆座禅を組んでしっかり座るように。両足を開けない者は片足でも良い。片足も無理なら、身体を伸ばして座れば良い。腰を曲げて猫背になってはならない。両手は耳を触ったりせず、自然の前に置く。これは定印だ。手はへその少し下辺りに置く。力を入れずに自然に置くのだ。頭はまっすぐにし、目は私の真似をして見開く必要はない。そなた達にはできない。肩は上げずに自然に下ろす。腰はまっすぐにするが、ピーンと張る必要はない。自然にすれば良い。顎は少し内側に引き、内側に引いていると感じられるぐらいで良い。舌は巻いて上顎につける。力を入れる必要はない。上に上げればそれで良い。これは毗盧七支座だ。腕は強く身体につけなくとも良い。楽に下ろせばそれで良い。

この段は簡単な観想だ。そなた達には伝えない。ここは無上瑜伽部の本尊と金剛亥母に関わる。伝法の上師が無上瑜伽部まで修めておらず、金剛亥母の灌頂と修行を受けていないなら、禅定の灌頂を伝えることはできない。なぜならこの種の修行の経験がないからだ」

リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定灌頂を始められ、観想について開示された。「上師の額から白色の光が放たれており、それが自分の眉間に入り、我々の身体が犯した一切の善悪業を消し、我々が一切の仏の加持を得られるのを観想する。続いて、上師の喉から赤色の光が放たれ、自分の喉に入り、我々の言葉、話すことで為した障礙を消し、咒語を得て、耳にし、理解する本性を未来に得られることを観想する。上師の心中から青色の光が放たれ、自分の心の中に入り、思想の障礙を清めて、智慧の灌頂を得られることを観想する。最後に、上師のマニプラが光になり、我々自身に溶け込み、すべての身口意が清浄平等となることを観想する。この灌頂を得た後でなければ、未来で禅定を学ぶ機会を得ることはできない」

続いて加持鈴杵の修法を行い、開示くださった。「鈴杵は加持したものでなければ修法を開始することはできない。その辺に置いておいたもので加持できるというものではない。先に修法しなければならないのだ」

次に灯供儀軌を行い、リンポチェは点灯されたバター灯を伝えるよう参会者に指示し、開示くださった。「先ほどは灯供を修めた。灯は仏光が六道の一切衆生を普照することを象徴する。この灯は、智慧の光が我々の一切の障礙を清め、我々の一切の福報を増やしてくれることを表す。点灯の功徳のおかげで、我々の心は菩提行発願の道に安住でき、輪迴の大海に入り込む機会がなくなるのだ。点灯の功徳のおかげで、貪嗔痴を起こすのが減り、地獄道、畜生道、餓鬼道に落ち入る機会がなくなるのだ。点灯の功徳のおかげで、我々に対する煩悩の損害が減る。点灯したので、我々は上師に対して感謝の心を持たなければならない。点灯のおかげで、以後禅定を修める機会が得られ、長寿不老の機会を得られ、修行の大道上で一切障礙を消すことができ、一切浄土に往生し、仏菩薩がお迎えに来てくださる機会が得られる。

この一生で如実に仏法修行ができなければ、点灯の功徳は毗沙門天に往生させられ、仏法を聞き続ける機会が得られるだけだろう。点灯の功徳は無量無辺だ。寺へ行って灯を点ければ、それで功徳があるというわけではない。上師の修法がなければ、点灯の功徳は出現しない。ジッテン・サムゴン円寂の折には、点灯文を念じ、この灯が照耀して我々の一切障礙を消し、六道の衆生が十方一切仏菩薩に会う機会が得られることを願う」

献曼達の儀軌を行い。寶吉祥の出家弟子衆と法会に参加している来賓等が尊き リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩に献曼達し請法申し上げた。

いくらかの修法の後、尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率い上師供養法心咒を持誦なされた。

尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは修法過程で薈供と供茶、供飯の儀軌を行い、すべての参会者は リンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった供品を一つずつ受け取り、法会中で仏菩薩、上師と共食する得難い殊勝なる因縁を得た。その後 リンポチェは弟子を率いて迴向儀軌を修持なされた。

この時、 リンチェンドルジェ・リンポチェが未だ指示していないのに、弟子達が自身で法本を念じたので、 リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責した。「誰が率いたのだ?いつ上師になったのだ?この悪い習慣は、なぜどんなに叱ってもキリがないのだ?法会はそなたが責任を負っているのか?すべての法本を回収せよ。日本人のだけは回収しなくとも良い。勝手に念じるとは!」

リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率い六字大明咒を持誦なさり、阿奇護法儀軌を修持して開示くださった。

今日は上師供養法の修持が円満となった。日本の信衆は法本を開いても良い。内部には、お二人の法王の短い長寿祈請文と リンチェンドルジェ・リンポチの長寿祈請文がある。長寿祈請文とはなんであるか日本の信衆に説明しよう。そなた達は全く知らないだろう。漢人の弟子、チベット人も長寿祈請文とはなんであるか知らない者もたくさんいるだろう。

チベットで密法を学ぶ上師が、すでに証果し、すでにリンポチェの果位まで証しているなら、上師は長寿祈請文を書いてくださる。誰でも書いてもらえるというわけではないのだ。長寿祈請文の真の意味は、一人の修行人が自分の弟子のために祈請文を書き、この一生で仏法の面で行う事業、及び未来世で仏法で行うことができる事業を予言し、さらには確認するものなのだ。簡単に言えば、弟子が今行っている事と未来で行う事を確認するのだ。未来とは次の一世、生生世世だ。事とは仏法に関する事だ。
第36代 チョン・ツァン法王と第37代 チェ・ツァン法王の長寿文はともに、法王が子供の頃に坐床を始め、法王になられた時に、お二方の真の老師−親教師(每日教えてくださる教師)であられた第一世永真安陽普登リンポチェがお書きになったものだ。この長寿祈請文は、この修行者は過去にどのように修め、この一生でどんな果位を得るか、この一生でどのように修め、未来にどんな果位を得るかが書かれている。長寿とは、この一生の肉体が長寿だということではない。ひたすら長寿祈請文を念じていれば、この一生の肉体の寿命は、一般人よりは当然長くなるだろうが、ここで言う長寿とは、仏法事業を非常に長い時間、ひたすら行い止まることなく、仏果を証するまではひたすら行うということだ。

例えば、36代法王の長寿祈請文は『法王は文殊菩薩の化身で、その言葉は五方仏が伝授なさる言葉で、明灯が輝いているように、仏法を高めることができる』というものだ。 チョン・ツァン法王に持法をお願いするのは、直貢噶挙教法と仏陀の教法百劫を掌握することだ。百劫とは非常に長い時間で、地球の成住壊空、空壊住成の一循環を一小劫という。チョン・ツァン法王の事業は、過去数年、ジッテン・サムゴン大法会を、チベット直貢梯寺下で執り行って来られた。以前は歷史的な要因で行っていなかったが、最近は政府が許可するようになったため、チョン・ツァン法王は法会を執り行っておられる。一年目には30万の信衆が参加した。これらは皆チベット各地から参加したのだ。法会が何日間だったか私は忘れてしまったが、チベット人たちは空地に寝泊まりしていた。宿泊のための施設は何もなかったが、三十数万人が参加した。昨年(2017年)だったか、一昨年だったかも開催し、さらに多くの人、四十数万人が参加した。なぜ人数が分かるのか?それはその時、政府が直貢梯寺周辺を封鎖し、その範囲内に入る人から少しの入場料を徴収したからだ。そのため何人来たか分かるのだ。現在こんなにも多くの人が参加する法会を執り行うことができるのは、私が見るところ、 チョン・ツァン法王だけだ。

チェ・ツァン法王の上師は『観世音菩薩、一切仏法僧、一切の化身』と描かれている。なぜなら化身であられるからだ。そのため法王は一切仏陀の教法をお持ちだ。なぜなら慈悲の眼をお持ちなので、一切仏陀の教法を非常に円満にはっきり見ることができ、その事業が百劫続くことを祈願しておられる。法王が行われる事は特別だ。チェ・ツァン法王は全世界を巡り、我々の法を全世界に伝えておられる。
私の長寿祈請文は チェ・ツァン法王から賜った。チェ・ツァン法王は私がこの一生で修める跟授記を確定し、未来で私ができると予言なさっているということだ。学仏人は不打誑語という戒を守らなければならない。嘘をつかないのが最も基本的な解釈だ。仏法において、できていないことを、できていると言い、できていることを、できていないと言い、他人に教えない。これが打誑語だ。この戒を破れば非常に重い罪となる。上師が書いてくださった長寿祈請文とは、弟子がこの一生で修めるものと、未来世で行うことを確認するものなのだ。

法王が私にくださった長寿祈請文の書き出しは『希勝珍寶勝利者教法』である。私が非常に稀有で貴重であるとある。『勝利』とは仏法の上でひたすら絶えず進歩するということだ。私が与える教法とは、この類の教法なのだ。この言葉から、法王は、この弟子は名聞利養のために、信衆を阿諛して仏法を捻じ曲げることはないと考えておられると定義される。例えば、私は現在日本で仏法を弘揚しているが、日本の信衆に私がそなたを加護すると言ったことはない。来れば財運が上がり、健康になるなどと言ったことはない。ひたすら仏法を教えるだけだ。いつか教えを受け入れ皈依するか、それはそなたの勝手だ。私とは関係がない。だが私はこうして教える。私は自身が有名になり、幾らかの旨味を得るために、いくらかの信衆が喜ぶ話をすることはない。台湾の信衆もこうだ。耳に心地よい話を聞きたいかもしれないが、それはない。私は仏がお教えのことしか話さない。

第二文は『持有悲心舞踏威力瑞』だ。私の心は慈悲で、持有とはわざとらしいのではなく自然に生まれ、慈悲の力を用い始める、ということだ。密法では、我々はしばしば舞踏というこの二文字を見かける。非常に自在だという意味だ。その慈悲心は無理に持ち出してきたのではなく、ダンスをするように、非常に自在で非常に自然で非常に美しい。『威力瑞』とは、慈悲心の威力は非常に大きく、一切は衆生の瑞相を助けるためだ、ということだ。

第三文『自在於諸善縁所伏洲』では法王は私の未来を授記しておられる。未来世で、私は地球にいるとは限らない。宇宙のどこかに善縁があれば、私はそこに行く。伏洲とは宇宙四大洲中の非常に大きな洲で、そこには仏法がない。私はそこに行く可能性がある。善縁が具備していさえすれば私は行く。リンポチェに留まるよう、求めないでもらいたい。私は決して留まらないだろう。なぜなら地球には、真に仏法を信じる人はいない、非常に少ないからだ。法会に来るなど、そなた達はすでには十分珍しい人だ。信じることができるのは、さらに珍しい。信じて学ぶ人は、もっと希少だ。地球ではゆっくりとこの善縁がなくなっている。

第四文は『祈願持金剛者住百劫』だ。私が金剛を持つ者で、私が密法を持つ者で、私が用いるすべては密法で、以後教えるものもすべて密法だと法王が確認なさった。私は密法を用いるので、私は一百劫で金剛界に暮らし仏法を弘揚することができる。その意味は、私が来たいと思わない限り、いかなる業力であろうと私を輪迴させることはできないということだ。私が来たくないなら、誰であろうと私を引っ張って連れてくることはできない。しかも私は金剛界に暮らしている。金剛界は密乗中の一人の修行人だ。
今日は日本の信衆に長寿祈請文を説明した。なぜ説明したのか?それはそなた達がチベット密宗を理解していないからだ。しかもそれだけでなく、非常に多くの間違った情報を得ている。『嗡』と念じれば密宗だ、髭を生やしているのは密宗だなどと思っている。そんなことはない。チベット人なら必ず密宗がわかるという訳ではない。真に密宗を学んだ人は多くない。私のチベット仏教での期間において見たところ、密法まで修めることができる人はそれほど多くない。

今日は上師供養法に参加した。それにより、我々は非常にはっきりと自己の福報は完全に、過去世の供養布施から来ていることが分かった。福報は金銭と同じで、限りがあるものだ。増やすことができないなら、福報は使い切ってなくなってしまう。金を銀行に預けておくだけで、稼がないなら、いつか必ず使い切ってしまう。そのため、上師はその一切を用いて弟子、信衆を助け絶えず福報を積ませるのだ。福報がなければ、いつか決心して仏門に皈依し学仏することはできないからだ。福報がなければ決心を下すことはできない。必ずたくさんのおかしな理由を持ち出してきて、仏門への皈依を拒むだろう。

そなた達には非常に多くの特別な考え方がある。これら考え方は正しいだろうか?そなた個人からすれば当然正しいだろう。だが仏の智慧から見れば、愚痴だ。なぜ愚痴なのか?この一生で仏法を聴くのは容易ではない。如法の上師に巡り会うのはさらに難しい。名利にこだわらず衆生を助けてくれる上師に巡り会うのは、ほとんどないと言って良い。皈依を決めない人は、今後法会に参加させない、というのではない。だが、皈依を決めないなら、聞いた仏法、参加した法会の福報はすべて未来世で用いられ、この一世では使えない、ということなのだ。なぜならそなたが決定せず、なお懐疑心を抱いており、他人に管理されるのを嫌うからだ。他人に管理されるのは嫌だ、などというのか。だが、家庭がある者は家の人に管理され、事業がある者は事業に管理され、事業も家庭もない者は法律に管理されているではないか。自由だったことなどあるだろうか?深山に暮らしていたとしても自由などない。『自由』というこの二文字はないのだ。我々は一生一世いつでも業力に管理されている。

今日はこの法門を修めた。これによりそなた達に福報を積んでやることができた。今生で確かに皈依学仏するなら、今日修めた福報は、今生で確かに使うことができる。健康になれるように、福報があるように、と希望して参加しているなら、次の一世でしか使えない。次の一世は必ず人道で用いるのか?そうとは限らない。大部分は畜生道で用いる。なぜか?答えは非常に簡単だ。この一生ですでに仏法を聞いたのに、やはり皈依しようとしない。それは貪嗔痴の痴があるということだ。なぜなら因果を信じていないからだ。因果を信じないとは、臨終の際に必ず執著があるということで、執著は非常に容易に、そなたを畜生道に堕としてしまう。

現在世界中でペットのために使われている金銭は、人間に対するよりも多い。ペットの暮らしは、人の暮らしよりずっと良い。一日中誰かが傅いてくれる。24時間誰かが傅いてくれるという人がいるだろうか?よく考えてみよ。人は犬にも猫にも及ばない。我々は人間だ偉大だ、などと思わないことだ。ペットがどんな暮らしをしているか見てみよ。朝起きてから、犬息子、犬娘はあちこちへ連れて行ってもらい、一番いいものを使い、一番いいものを食べさせてもらっている。

今日は仏法の真実の意義を皆に説明した。当然耳に痛い事だ。そなた達が聞きたいと思う事ではないだろう。そなた達が聞きたいのは、法会に参加すれば財運が上がる、というものだろう。どこにそんな簡単な事があるか?法会に一回参加しただけで、金が儲かるなら、私の法会は非常に多く、私は毎日法会を行うだろう。一回法会に参加しただけで、すぐに健康になるなど、ありえない。この一生でこんなにも多くの肉を食べて、返さなくともいいのか?肉を一切れ食べれば、肉を一切れ返さなければならないのだ。肉を返したくないなら、健康がひたすら失われていく。健康に問題がないなら、必ず別の事で財を失うだろう。今日は非常に多くの時間を割いて皆に利益した。皆が聞き入れてくれることを願う」

続いて リンチェンドルジェ・リンポチは、満州語「大蔵経」中の一巻を開き、参会者に見せるよう指示され、開示なされた。

これは108巻あり、康熙年代に書かれた満州語「大蔵経」だ。これは原版ではない。この「大蔵経」は中国で最後の一セットだ。因縁が有り求められたのだ。これはおよそ200万人民元だ。私は北京故宮と少し伝手があるので、いくらか優待してもらえ、こちらの道場に置いている。こちらには現在二セットがある。一セットはチベット語の「大蔵経」で、もう一セットは満州語の「大蔵経」だ。なぜ満州語の「大蔵経」を求めたのか?なそれは私の会社の文史研究院の馮院長が、京都大学で教えている満族の教授を知っており、教授にこの事を話したところ、満州語の「大蔵経」を研究したいと言ったので、私は良いだろうと言って、一セット求めたのだ。彼は今もやはり非常に忙しく、研究する時間がない。実は「大蔵経」は研究に適さない。彼はおそらく満州語をしっかり見たかったのだろう。この中の満州語はかつて清朝がほんとうに書いたものだ。そのため、この上なくオリジナルで誤りがない。合計108巻ある。

皈依弟子は帰ったら言うように。そうでなければ、協会が求めたその経典を私は全く見たことがないと他の弟子がおかしく思うだろう。見たければ見られる。皈依弟子は誰でも見たければ見られる。祥楽旅行団に参加しさえすれば、開門して見せてやれるだろう。自費で来たなら、開門しない。

道場には必ず仏法僧が必要だと仏法では言う。仏とは、そなた達の解釈では仏像であり、法とは経典、僧は上師と修行人を指す。この三者を具備しているなら、この道場は如法の道場だ。一個の仏像を12年で一度しか見せていない、などというのではない。あれは古董だ。仏法僧の含義は三宝がすべてあれば、この道場が伝える法は初めて如法となる。チベット語と満州語の「大蔵経」が揃っている道場は非常に少ない。台湾で満州語の「大蔵経」を印刷するのは比較的難しく、元々の形態で作っているものはない。北京故宮では元々の形態で作られている。オリジナルの大きさ通りになっている。そのため、この108巻が届いた際、私はひどく驚いた。こんなにも大きかったのかと。彼らは完全にオリジナルの方式で、合計十数セット作ったのだ。この一セットは最後の一セットだ。出払ってしまえば、それ以上印刷することはない。なぜなら古いものを繰り返し持ち出すことはできないからだ。一度印刷すれば、それだけ痛めてしまうため、もう二度と印刷しないのだ。そのため、これは最後の一セットだ。

この一セットは協会が代金を出した。代金を出したのだから、知る権利がある。そなた達は帰ったらすべての弟子に言うのだ。見たければ見ることができる。必ずツアーに申し込むのだ。日本の信衆は、見たければ必ず菜食し、しかも私がいる時に申請するように。この一生で「大蔵経」を目にするには、大福報が必要だ。福報がなければ目にすることはできない。現在なぜ康熙年の「大蔵経」が最も貴重なのか?それはその頃書かれたものが最も正統だからだ。後のものは翻訳なので、数百年の歷史で、「大蔵経」の中には欠けているものもある。完璧とはいかないのだ。チベットの「大蔵経」も大きい「大蔵経」と小い「大蔵経」にわかれている。この二セットはすべて大きい「大蔵経」だ。つまり、仏陀が講じられた一切仏法がすべて108巻内にあるのだ。この一生で「大蔵経」を目にする機会を得たとは、そなたが累世で仏法に触れたことがあるため、この種の因縁があるということだ。

この一生でなぜ皈依しようとしないのか?仕方がない。社会的雰囲気の影響だ。学仏は一種の迷信のようだ、学仏すれば人と違ってしまう。私は外出しても他人と全く同じだ。そなた自身の心の中で、人と違うと思っているだけだ。この一生で密宗の法会に参加でき、「大蔵経」を目にできたのは、本来学仏できる機会があるということなのに、そなたは自分で放棄したのだ。どの一世まで放棄するかは分からない。今日法会に参加した者は、後で「大蔵経」に頂礼することができる。日本の信衆も可能だ。
リンチェンドルジェ・リンポチは法会に参加した信衆に、法会終了後に「大蔵経」に頂礼するよう指示されたが、弟子は上師の指示に従わなかったので、 リンチェンドルジェ・リンポは領衆出家弟子を叱責し、「上師に頂礼しなくともいいのか?さっきちょっと待ってから頂礼しにいくように言ったではないか。上師がなくて、経典があるだろうか?それなら私に皈依などしなくともよい。全く無茶苦茶だ」と仰せになった。

法会は円満となり、弟子及び参列者はみんな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び開示を下さったことで、無辺の有情衆生に利益なさったことに感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

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2018 年 08 月 28 日 更新