尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年10月11日

法会の開始前に、一人の弟子は、弟さんの付き添いで、上師がお父さんを済度したこと及びその家族を助けた経過について、道場で語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「父は2005年5月に交通事故で脳内出血になり、何度も手術を受けた後家族のことが分からなくなったうえで、寝たきりになった。それから5年経って2005年3月の時、父は頭にひどい衝撃を受けて再び脳内出血が起き、3ヶ月間も意識を失った。その間、子供として私たちは自分の無力さとちっぽけさをつくづく感じた。常に集中治療室の外に座った以外に、病気で苦しまれた父の苦しみを和らげるために、何もしてあげられなかった。最後に、父は脳死と判定された。その時から、私たちは、父の命が時間につれて消えていくのをただ見るしかできなかった。何もできなかった。そして、弟の友達のアドバイスを聞き、父の皈依のために僧尼に来てもらったうえで、霊能者を紹介してもらった。弟もその霊能者に会いに行った。

その時、弟は、父の三魂と七魄は病院にいないと、霊能者に言われた。『病院にいないなら、どこにいるだろうか。』という弟の質問に、『地獄にいる』と、答えが出された。その霊能者に嘘の気配がなかったので、私たちはそのことに大変驚いた。それまでに、私たちにとって地獄はお寺の中に書かれた絵画、良書内の物語に過ぎなかったが、自分の父親に起きたなんて、全く想像できなかったし、納得もできなかった。そのため、私たちは焦って新竹のあるお寺に行き、そこの僧尼に会った。その僧尼は『お父さんは死刑判決が下されたのと同じだ。分かったか。』と言った後、それ以上何も言ってくれなかった。

その後、私はまた土城にある神壇に行った。降りてきたのは童子だった。子供の声で言ってくれた最初の言葉は『この人は地獄行きだから、何もできない。』だった。この言葉を聞いて私はもっと驚いた。

蘇師兄に感謝しなければならない。私たちには何の助けもなかった当時に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めたらと、一言を言ってくれた。私は直ちにそうしようと応じた。しかし、その週に尊き上師に会う因縁がなかった。次週の土曜日の午前中に、父は多臓器不全で往生した。

父の葬儀を処理した週に、私の頭にある言葉がずっと浮かび上がった。それは、寶吉祥を出た時に、頼師兄がわざわざ言ってくれた『この後、お父さんがいるかいないかを問わず、必ず上師に会いに来なさい。このことを忘れないように。』という言葉だった。その場、私は、もし父が往生したら、来てもしょうがないのではないかと思った。今になって考えてみれば、私は無知で愚かだった。本当に恥ずかしい。

この言葉がずっと頭の中にあったので、また一週間経って私はもう一度寶吉祥に来た。漸く尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会えた。上師の前に跪くと、上師は、『家族の誰かが往生したのか。』と聞いてくれた。私は、『ハイ、父が往生した。』と返事した。そうしたら、尊き上師は父の名前と生まれ年を聞き、3秒も経たないうち、父は往生の時にたくさんの罣礙があったと開示してくれた。

『兄弟の真ん中に女性がいるだろうか。』と上師はまず聞き、私はハイと答えた。『妹さんはこの頃、旦那さんとひどく喧嘩しているだろう。』と、上師はまた聞いた。これを聞いたら、私は『このことまで知っているなんて、すごい。』と大変驚き、『ハイ、確かにひどく喧嘩している。』と返事した。上師は、『妹さんの旦那さんは悪くない、妹さんの気性が悪いから、改めなければならないと、お父さんは思っている。』と言ったうえで、『帰ったら、お父さんの遺言だと妹さんに言いなさい。』と特別に注意してくれた。また、『一番下は弟なのか。』と聞いてくれた。私はまた、ハイと答えた。上師は、『弟さんの気性が悪くてお父さん自身と同じだから、卒業できないことをお父さんは心配している。ちゃんと学校の勉強を終えなさいと、弟さんに言ってあげなさい。また、お父さんは家を建てただろうか。』と言った。私はもう一度ハイと返事した。『その家のことは全部、お母さんに任せる。余計なことを考えず、安らかに生活しなさいと、お父さんは言っている。』と上師は話してくれた。

尊き上師が開示してくれた時、上師の全ての言葉に、私は驚いた。それらは何れも家族以外の人間が知らない些細なことだった。それで私は目の前にいた上師に対して強い信念が生じた。『お父さんが私に出会えたのは、彼の一生に忍という修行ができたからだ。』と、上師は最後に開示してくれたとともに、『明日、これらのことを処理し終えなさい。明後日、私の施身法法会に参加しなさい。』とも言ってくれた。上師はすごかった。確かに、翌日は父のお葬式だった。2日後、私は父に代わって上師の施身法法会に参加した。

それまでに、私と妻は、ほかのチベット仏教教派の法会に、2年間続けて毎週参加していた。施身法もポワ法も聞いたことがあったが、私たちには届かないものだった。こういう立派な法を修められる人は、法王か洞窟で修行した大成就者でなければならないことも知っていた。済度法は特に殊勝であることも知っていた。しかし、このような大成就者はこんなに身近にいるとは知らなかった。大成就者に出会えて私は大変幸せだ。

施身法法会に参加した週に、合同修行法会にも参加した。上師の開示を聞き、上師の教法の殊勝さを実感した。以前聞いた仏法とは全く違ったので、心に強い信念が生じ、大変感激した。仏法は普段の生活に運用できると初めて分かった。私にとって、仏法の学習は着実なものになり、手の届かないことではなくなった。家に帰ると、『見つけたんだ。この上師。もうあっちこっち探す必要はない。』とすぐ妻に話した。土曜日に、私は妻と一緒に寶吉祥に来て上師に頂礼したとともに、父のために修法してくれたことに、上師に感謝を申した。会見を求める前に、私たちは、妻にも法会に参加させる理由について話し合っていた。話し合った結果は、健康を理由として決めた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申した後、上師は、ほかのことはないかと、聞いてくれた。そうすると、私は上師に、『妻はずっと痩せている。』と報告した。そうしたら、上師は、『痩せていいじゃないか。ダイエットにお金を使う必要はない。』と話した。上師の言葉を聞いて私は言葉が出なかった。そして、上師は更に『一体何のことだ。』と聞いた。『妻はずっと健康がよくない。』と私は報告した。上師は妻に手を出すように指示し、2秒ほど経った後、『子供の頃、お兄さんと遊んだ時、うっかりしてお兄さんに押されて階段から落ちて硬いものにぶつかっただろうか。背中を見せなさい。ここだ。』と開示してくれた。上師はラタンで妻の背中の一ヶ所を指し、『点穴されたようだ。あれから心臓からの血液が流れず、通過できない。風に吹かれると頭が痛くなる。風邪になりやすい。生理の時はお腹が痛くてたまらないし、手と足が冷える。そうだろう。』と言った。私と妻は頷いた。『妻は大変痩せこけていた。風に吹かれたら、頭が痛いと頻繁に文句を言う。寝る時も大げさに着込む。帽子を被ったり、ジャケットを着たり、長ズボンを履いたり、手袋と足袋をつけたりする。体があまりにも弱すぎると、私はなかなか理解できない。』と私は説明した。

そうしたら、上師は開示を続けた。『これはあくまでも俗世間の言い方だ。仏教面の説明をあげよう。君の両親はかつて動物の商売をしていただろう。これが事実だったら、家族全員は心臓が悪い。法会に参加しなさい。福報を累積すれば、いつかよいお医者さんに出会って治してもらえるのだ。』上師は私たちの考えを見抜いていた。私たちは何も隠せなかった。

寶吉祥を出た時、義父は高校の先生をしていたし、義母は家庭主婦ではなかったのかと、私は不審に思った。そうしたら、妻は、この上師は大変すごいと言い出した。義父は以前、一年ほど、商売のために豚、家鴨と鶏を飼っていたそうだ。上師の言った通りだ。義父も義母も心血管のステント留置術を受けたことがあり、義兄には僧帽弁逸脱の病気がある。

妻は法会に参加してから、グループ企業に入社した。上師から入念な世話を受け、だんだん体重が増えて体も丈夫になった。今は頭が痛いと文句を言うことはめったにないし、寝る時の服装もだいぶ普通になった。妻に福報をくれたのは上師、妻の病気を治してくれたのも上師だ。

合同修行法会に参加して3、4週間になった頃、上師は開示中に話を変えて『世話をやりやすくするため、病気になった両親を縛り付ける人もいる。』と話した。この言葉を聞き、私はびっくりして背中を真っ直ぐに伸ばした。父は往生前の5年間、家で同住していた。父が自分で経鼻胃管や服を脱ぐのを防ぐため、看護婦のやり方を習って父の手を車いすに縛り付けていた。夜になると、ベッドの端っこに縛った。上師は開示を続けた。『やってみよう。あなたを縛り付けてみよう。時間は長くなくていい。一日だけでいい。あなたも辛抱できたら、親に対して同じことをしてもいいだろう。親孝行をしていると自認するなんてとんでもないことだ。』上師に感謝したい。その瞬間から、私は針のむしろに座っているようにいたたまれなくなり、父が受けた苦しみを実感した。自分のとんでもない大間違いが分かった。この是非が転倒し、価値観が混乱する時代に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのように、慈悲、無私な心で弟子を指導する上師はほかにいないと深く感じた。

父を済度してくれたことに、上師に感謝を申したい。父のお葬式は施身法法会の前日に行われたため、父の遺体は先に埋葬された。それで、遺体の変化は見れなかった。9年経過した後、母は、家族の伝統を守り、遺骨を拾って塔の中に移すように指示した。そのため、ある日の朝に、弟と一緒に共同墓地に、遺骨を拾いに行った。お棺が開けられ、撿骨師(遺骨を拾う専門業者)が父の頭蓋骨を取り出した後、交通事故の衝撃を受けて頭蓋骨にできた長い傷跡がはっきりと見えた。その傷跡は後頭部から梵穴を通過して頭頂まで続いた。撿骨師が頭蓋骨上の泥をきれいに取り払った後、ひびに沿った梵穴のところに、対称的な丸い穴が二つ現れた。しかも、滑らかで透けて光が見えた。形ははきっりだった。上師が父を済度して浄土に往生させた証だ。この不可思議なことを手配してくれたことに、仏菩薩に感謝する。9年も経過した後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大威徳力、そして仏法の殊勝さを見せてくれた。上師に父のために修法してもらった時、私はまだ信衆で、供養しなかった。それにもかかわらず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲喜捨の心で、何の分別もなく、最高のものを衆生にくれた。私は皈依したばかりの時、何もかも上師に迷惑をかけ、身勝手なことをして尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの貴重なエネルギーと健康を消耗した。

2006年、12年も飼っていたマスチフ犬(名前は宝宝)は急にものを食べなくなり、水も全く飲まなくなり、10日間も続いた。病院に運んで注射を受けさせても、全く飲食しなかった。13日も経って妻は焦って夕方に寶吉祥に来て上師に会見を求めた。上師に何事で来たかと聞かれたら、妻は涙をこぼして『家の犬は何も食べないまま、もう十数日。お医者さんに診てもらっても全然治らない。』と返事した。そしたら、上師は『甘露丸を食べさせて安らかに行かせなさい。』と指示してくれた。宝宝にもこんな時がくるとは思わなった。私たちはいつも貪欲を持って自分の持っている全てを見てきた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、衆生の苦しみを本当に理解している。衆生の離苦を望んでいる。

その日、宝宝は甘露丸を飲んでくれないと心配したので、上師が下さった甘露丸だから、大変貴重だと慎重に言ってあげた。宝宝は一口で飲み込んだし、水も飲んだ。上師の言ったように、犬もよく理解できると、私はびっくりした。2日後の朝、出勤に出かけようとした時、宝宝はドアの所で私の出勤を止めようとした。いつものことだったら、宝宝は立ち上げて道を譲ってくれるはずだった。しかし、その日、宝宝は全く動こうとしなかった。仕方がなくて妻と一緒にドアから宝宝を引きずって離させようとした。午前中10時頃、妻から、宝宝が往生したとの電話連絡があった。私は急いで帰宅した。宝宝は目を開けたまま、口も開けて歯をむき出し、口をゆがめていた。体は硬くなり、手で口を閉じることはできなかった。それで、私は師兄に電話して処理の仕方を尋ねた。助念をしたほうがいいのかを尋ねた。師兄は『いいだろう。衆生だからだ。』と言ってくれた。私は妻と一緒に、上師を観想しながら、宝宝のために六字大明咒を唱えた。約2時間の後、私たちは涙を拭いて見ると、宝宝の口と目が閉じるようになり、体も柔らかくなった。宝宝は家に12年もいたが、それほど安らかになったことはなかった。しかも、微笑んだようにも見えた。妻は『まだ往生していないのかしら。間違えたかしら。』まで私に聞いた。翌日、宝宝の遺体を取りに来た人は、その柔らかい体に驚いた。こんな仕事を10数年もしてきたが、このようなことを見たことはないそうだ。しかし、私と妻は分かっていた。慈悲の上師の加持がもらえたからだ。

2006年12月1日、私は折よく上師についてチベットに行き、ユンカ・リンポチェに会うことができた。出発日の前日に、仕事で書類をお客さんに届けた時、大雨が降り、アーケードのない道端でタクシーが止まって下ろしてくれた時、交差点で交通信号が変わるのを待って雨に濡れてしまった。当時は気にしなかったが、その時は風邪をひいて熱を出した。それで、チベットに行って高山病になってひどい症状が起きた。

成都からラサに到着した後、自分の様子が変だと気付いた。空港から車で離れる時、私は手荷物カートを取り、搭乗するバスとそばのマイクロバスの間に置いた。荷物をバスに積み込みやすいようにカートをマイクロバスの前に移動した。カートを止めた途端に、そのマイクロバスから大きなラッパの音が鳴った。頭を上げて見ると、上師が車の中でラッパを鳴らしたと気付いた。上師は金剛の怒った目を見せて指で私を指した。私はびっくりしてマイクロバスを阻害しないように素早くカートを移動して荷物を積み込んだ。上師に指摘され、私はいろんな念頭が生じ、心配と複雑な気持ちが混じって次から次へと現れた。しかし、間もなく、それらの念頭は高山病による苦しさで紛れられた。

それから状況はますますひどくなった。声がかすれ、鼻水と咳が出て、頭痛になり、胸苦しさと眩暈も感じて毎日寝付かれなかった。眠れても2時頃になると、咳をし始めて力を入れて血が出るまで咳払いしなければならなかった。

そのまま症状が続き、ユンカ・リンポチェに会う前日の夕方に、体は硬くて動けなくなり、意識混濁になったうえで、呼吸困難もなり、大変苦しかった。もうだめかと思ったので、必死に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想しようとしたが、どうしてもはっきりと上師の様子を観想できなかった。その時、初めて私は普段上師に頼ってきたが、実に上師に対して十分な信念はないと分かった。上師の無私な慈悲と真心の教えを思い出して大変恥ずかしかった。また、自分は一生において親に心配をかけてばかりしてきたが、何も役立たなかったことを思い出した。心に身勝手さと憎みで一杯だった。同乗していた義妹は私の様子を見て刮痧(かっさ、台湾の民間療法)をしてくれたのに、彼女のことを嫌いだと思った。自分の悪さ、自分は善心もなくて恩知らずだとよく分かった。

突然、心に懺悔したいと、一つの念頭が現れた。その言葉が浮かんだ時、奇妙なことが起きた。瞬間に二本の光が弾丸みたいに素早く私の眉間に差した。一本は上師、一本はアキ仏母だった。(何故、上師と護法だと分かったのかと、聞かれたことがあるが、私もよく答えなかったが、とにかくはっきりと分かったのだ。)その二本の光が差した後、心に温かみが湧き、体と四肢の硬さは和らげられたし、苦しみも大分軽減された。

急いで隣で寝ていた妻を起こして『上師に申し訳ない。私が死んだら、車を売って上師に供養して済度してもらうように上師に願ってくれるか。また、お母さんにも申し訳ない。今後は今までのように苦しんでほしくない。私の代わりに親孝行をしてほしい。お姉さんにも申し訳ない。優しくしてくれたのに、彼女のことを嫌っていた。最後に、文句を全く言わず、ついてきてくれたことに、あなたに感謝したい。』とたくさんのことを妻に言った。泣いていた時、妻は『よくなったの。』と私に聞いた。私が頷いたら、妻はまた寝てしまった。それで、皆が気分が悪かったことにやっと気づいた。そのまま、また10数時間乗車した。翌日の午後にとうとうユンカ・リンポチェに会えた。しかも、その後、梯寺に戻ってアキ仏母の閉関室まで登って行き、ツアーを完成できた。これは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと護法の助けと加持に感謝すべきだと、私は分かっていた。

以上の話は、尊き上師が私の家族を助けてくれた一部の内容に過ぎい。私は今でも六道を流れて輪廻する流れ者でいる。このことを懺悔したい。また、ここにいる皆さんは今生、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの指導の下に、浄土に往生し、輪廻しなくなることを祈る。そして、上師、法王と諸仏に重ねて感謝したい。並びに、上師の法体が健康と健勝、この世に常住し、法輪が常転すること、及び仏法事業が興盛になり、直貢噶舉派が永遠に伝承されることを祈る

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、合同修行法会を執り行い、並びに参加者全員に貴重な仏法を開示した。

「今日は『宝積経』大乗十法会第九の開示を続ける。『宝積経』は立派な経典だ。今日は、特別にこの品を開示したい理由がある。身口意にけじめをつけなければ、将来、菩薩道を修めると、必ず問題が起きる。仏は小乗、大乗と金剛乗の仏法を開示したが、定義は心の容量にある。心の容量が大きければ大きいほど、成就と功徳は大きくなる。そのため、今生の学習と修行で今世に功徳が現れるようにしたければ、菩薩道しかないのだ。

念誦、拝仏、皈依、出家をすれば、功徳が得られると思うのが勘違いだ。中国人には十分な福報があったので、修行者の行動を見せる例は、古代にしばしばあった。梁武帝のしたことは私たちよりはるかに多い。仏法面の供養と布施、彼自身の修行面のことを含めてたくさんしたにもかかわらず、何故、梁武帝には功徳がなかったと、達摩祖師はこう言ったのだろうか。理由は、梁武帝は戒定慧を修めなかったうえで、菩薩道の通りに菩薩のような身口意を実践しなかったからだ。それで、功徳は現れなかった。功徳があるこそ、累世において犯した善と悪の業を転化することができる。

毎日、仏菩薩に祈れば、業を転化できると勘違いしないでほしい。仏菩薩は障害が減少するか、或は発生しないように私たちを加持してくれるだけだ。業を転化するには、自分自身の努力が欠かせない。菩薩道を修める気がなければ、常にあれこれを祈っても無駄だ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの品を選んだ理由は、『宝積経』に中観論に関する内容が多いし、空性を語る内容も多い。あなたたちにはとって理解しがたいが、肝心なのは身口意について、菩薩道の学習における基準を理解することだ。菩薩道は、今生において功徳が得られるように修行できる法門だ。

先週は、学仏者に最もよくない『慢』、つまり、貢高我慢について話した。多聞慢、恃修行慢 のようなことは、学仏者の誰もが犯すことだ。他人は破戒した、きちんと守戒をしていないと批判することこそ『慢』だ。他人の守戒の良し悪しを批判する資格はないだろう。仏菩薩と上師のほかに、誰も資格がないのだ。あなたは戒師ではないから、他人の守戒状況について言う資格はない。他人のよくない行為を見れば、警戒と学習材料として心におくのがよいが、それは破戒だと口にする資格はない。言い出したら、妄語を言って破戒したことになる。何故なら、あなたは戒師ではないから、人のことを破戒だと言ってはならないのだ。

学生がミスを犯した場合、同級生は先生に報告するしかできない。罰を与えてはならない。道理は同じだ。しかし、あなたたちは何故、仏法を学ぶ時、考えが変わったのか。ルールはあるのだ。学仏者にとって最も破戒しやすいのは妄語を言うことだ。ないことをあると言い、あることをないと言う。特に、修行慢、多聞慢は誰でも犯したことだ。何故だろうか。誰もが傲慢で、『地藏経』と『阿弥陀経』で言及されたように、五濁悪世の人は皆強剛であり、どうしても教えを聞かないからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの品を特別に選んだ。理由は、内容に学仏者、修行者が犯す全部の問題について言及されているからだ。身口意をきちんと調整しなければ、菩薩道を修められない。顕教の言うには、仏が教えた全ての身口意の根本・基礎と理論を理解するとともに、実践しなければ、金剛乗を学ぶ資格はない。求めれば、伝授されると、あなたたちは勘違いしているが、心の動機が正しくなければ、伝授されないのだ。また、不共四加行は一般的だと思う人もいる。今は台湾で、どの教派も伝授しているが、本当に修行できた人は一体何人いるだろう。

法本にははっきりとされている。不共四加行は、法を守って円満に修行できたら、必ず瑞相が現れる。上師と仏が教えた一切の方法に従って不共四加行を修行すれば、きっと円満に修行できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行がよくできていると敢えて言えないが、変化が起きたのは本当だ。修行という善の道へと変わることが当然だ。しかし、何故、大礼拝をして百字明咒を念誦しても変わらない人がいるだろうか。理由は、以前の開示した疑、惑、不決定をまだ一杯抱えており、身口意を変えなかったからだ。

3年も皈依した、或は出家してたくさんの仏経を聞いたからと言って不共四加行を修める資格があると自認する人がいる。そうとは限らない。心が落ち着かず、菩薩道を学ぶ資質がなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは伝授しない。世間のことなら、たやすく伝法するだろう。また、今は商業時代だから、大礼拝を10万回せず、1万回だけしてよいと主張する所もあるそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこういう主張に賛成できない。商業は今時の産物ではない。昔も商売する人口も多かった。世間のいろんなことが変化しているからと言って仏法を変えてはならない。

寶吉祥の弟子に対して基本原則がある。皈依後3年経ってから、リンチェンドルジェ・リンポチェは不共四加行を伝授するかどうかを考える。しかも、伝授する最中に伝授しなくなることもある。リンチェンドルジェ・リンポチェに、百字明咒の念誦を終えたから、リンチェンドルジェ・リンポチェにハタ献上を伝授してもらえるかと、尋ねた弟子もいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、伝授しないと答えた。あなたたちは、百字明咒を念誦し終えたから、偉いと自認しているだろう。何故、リンチェンドルジェ・リンポチェは伝授してあげなければならないのか。あなたたちは学費でも払ったのか。例え学費を払ったとしても、先生は教えてあげなくてもいいのだ。

今日は特別に『宝積経』のこの品を開示する。理由は、誰もが修行慢と多聞慢を犯したことがあるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前もそうだった。『老密』と呼ばれた人は顕教を見下している。また、顕教を学んだ一部の人は、たくさんの経典を読んだと自認したから、密法を学ぶ人は持咒しかできないと軽蔑している。何れも『慢』であり、仏が伝法した初志を壊してしまった。生死の輪廻から離れる前に、せめて生老病死の四つの苦しみを減らす能力を持たなければならない。この四つの苦しみでさえ処理できないなら、自身の生死を処理することもできないだろう。

この四つの苦しみを減らす、或は発生させないために、どうしたらよいのか。菩薩道を修めることだ。往生したら、自分のお寺の管理を誰に任したらよいかを心配する人がいる。執着があるから、菩薩道を実践していないことだ。在家者は財産に執着する。出家者も同じく執着がある。死んだ後、お寺を誰に任したらいいかを考える。チベット人の転生方法は賢い。自分でやる。他人に任せない。これには特定の法門を修める必要がある。手術を受けた、或はたくさんの病気に罹った弘法者もたくさんいる。衆生のために業障を背負うことではない。『宝積経』の通りに修行しなかった可能性がある。何もかも縁に応じるべきだ。

仏寺を建てれば福報が得られるという言い方がある。仏経にはこんな話がなかったし、仏寺を建てるのはよく修行できる内容もなかった。いつからこんな言い方が現れただろう。清朝の弘一大師は律宗を修めていた。その一生に仏寺を建てなかった。だから、きっと弘一大師は『宝積経』を読んだと、リンチェンドルジェ・リンポチェは信じている。精舎、仏寺があるこそ、修行して成就が得られることだと思う人は多い。しかし、昔、仏寺を建てなかった修行者が多かった。ユンカ・リンポチェもその一人だ。テンジンニンマ・リンポチェも同じだ。ドラブ・ワン・リンポチェは、ネパールで他人の仏寺建立を手伝ったが、自分の仏寺を建てなかった。

仏寺があるかどうかは、衆生の縁だ。修行の成就ではない。修行の成就は、自分が生老病死の苦しみから離脱できるという信念を持つことだ。この信念があれば、輪廻の苦しみから離れられる。生老病死の苦しみを処理、減少できないなら、生死を解脱するのも無理だろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚ガンに罹った時、仏菩薩、直貢チェツァン法王に修法をお願いしなかったが、病の苦しみはなくなった。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の時に、息が絶ったが、死の苦しみもなかった。無常さを会得したから、死亡の苦しさを感じなかった。

今年初めに、リンチェンドルジェ・リンポチェは体の具合が大変悪くなったが、苦しまなかった。漢方医をしている弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに針灸をした時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだその弟子の娘さんのことで気になっていた。これこそ菩薩道を修めていると自称できる資格だ。法を貪り、伝法してもらったら、よく修行できると思う人は多い。そうとは限らない。身口意をきちんと調整しなければ、どんな法があってもよく修行できないのだ。出家者か在家者を問わず、これは一般の学仏者が犯しやすい過ちなので、リンチェンドルジェ・リンポチェは今日、特別にこの品を説明したい。

学仏者と自認しても、自分の身口意は仏経の通りになっているかどうかを考えないなら、修行していないのと同じだ。自分だけが違うと思ってはならない。修行しなければ、違う。仏の話した善男子、善女人と違うのだ。教えを聞かないことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今から、この品について開示する。修行者には大事なことだ。修行は求める、拝む、加持することだと勘違いしてはいけない。字が読めない、IQが低い、或は賢くないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちにこれを開示しない。以前もこのような典故がたくさんあった。以前、賢くない、何もできない人がいたから、一つの真言の音だけを教えてあげた例があった。しかし、あなたたちはそれほど賢くないというわけではないから、『聞思修』が分かれば、確実に行動に移らなければならない。

仏法を聞いたら、一人で考えるべきだ。これは閉関室に閉じ込めて考える意味ではない。他人の意見を聞く、或は、自分の聞いた法は他人のと違うと思う必要がないことだ。もちろん違う。人はそれぞれの業力、因縁があるから、同じはずがないのだ。法を聞いたら、自分の身口意は、仏と上師が教えた仏法と同じかどうかを考え、不一致があったら、正すべきだ。言い訳をしない。今聞いている法は以前聞いたのと違うと思う人もいるだろう。彼らは以前どんなことを聞いたかを、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らないが、『宝積経』と上師が話してくれたことを、リンチェンドルジェ・リンポチェは知っている。

仏経と上師の教えと異なることを話す人がいたら、外道と言ってもいい。仏が話した以上、別の方法を話す人がいたら、正しくないのだ。経典に、菩薩道を修める人は慚愧しなければならないという話がある。慚愧する理由について、リンチェンドルジェ・リンポチェはずいぶん前に開示したことがある。仏果が得られるまでに、毎日懺悔と慚愧をしなければならない。自分はきちんとしていないからだ。菩薩道の修行を始めたからといって小乗を修める人とは違うと思ってはならない。何故きちんとしていないのか。きちんとしたら、成仏して大勢の衆生を利益することができる。私たちは自分を利益することでさえできないので、他人を利益することはあり得ない。だから、慚愧と懺悔をしなければならない。

今日は念頭があまり現れなかったから、進歩したと思う必要はない。たまたまのことだ。この考えの現れは、修行の『慢』が現れたことだ。今日はたくさん念誦したと自認したことも『慢』が現れ始めたことだ。我慢心のある人は修行しても、僅かの慈悲心も決して現れないのだ。外見が慈悲に見えると自認しても、心に慈悲がない。我慢のある人は、自分が一番大事だ、他人より立派だ、地位が高い、多く所有していると思う。こんな考えを持っていたら、四相を破れるはずがない。四相を破れなかったら、慈悲喜捨はあなたに関係がない。慈悲もあり得ない。全ての仏法の根本は慈悲だ。念仏、拝仏、ボランティア、仏七の修行、八関斎戒をするように人に勧めることは慈悲ではない。全部違う。これらは何れも、仏菩薩と結縁するように衆生を助けることに過ぎない。

慈悲を学ぶように、衆生を教えるには、必ず菩薩道の修行から始めなければならない。声聞縁覚は慈悲を講じない。菩薩道だけが慈悲を強調している。慈悲がなければ、学んだ仏法にはパワーが現れない。リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢梯寺で修法した時、本尊は直ちに現れて姿を見せた。如法とはどういうことかを、あなたたちに分からせるためだった。あなたたちが写真を通して見たたくさんの瑞相は、法本で教えられた観想の方法だ。観想は単に思うことだと考える人が多いが、そうではないのだ。観想は禅定であり、福報を累積して知恵を開く方法だ。こうして初めて本尊は行者と相応する。

観想は自分で考え出すものではない。法本に基づき、上師の口伝した通りに少しずつやらなければならない。決して手を省いたり、加え付けたりしてはならない。減少もできない。密法が知恵と福報を共に修められるのは、生起次第と円満次第の観想を通して修行するからだ。『慢』の心があれば、菩薩だと自認してしまう。しかし、私たちの肉身では、決して菩薩になるはずがない。法身だけがなれるのだ。今、皆が得た肉体は、生生世世に為した業によって累積されたものだから、今世に空性までの修行ができたことに限って肉体は菩薩の化身になれる。空性までに証得できなければ(密法では虹の身になる)、肉体は菩薩の身になることはない。

観想は、自分の体が菩薩と無二無別のように観想することだと思う人が多い。そうではない。本性、法性のことだ。我慢がある人は、観想できない。法会の前に語った弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの様子を観想できなかったと話した。我慢があったからだ。我慢がなければ、すぐ禅定に入れる。しかし、我慢のある人は、いくら禅定ができても、阿修羅道までにしか修行できない。阿修羅道には出家者が大勢いる。理由は、出家者はすぐ慢を抱いてしまうからだ。在家者は簡単に慢を抱くようにならないが、すぐたくさんの悩みが現れてしまう。良し悪しがあるが、どの法門でも人々にはいいのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日、特別に開示するこの段落は、経典に基づいたもの、自分は直しているかを見直す。皈依して長くなった弟子が聞いたら、分かるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの話す『宝積経』の内容は全部、以前リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したものだ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を読まなかったが、何故同じ内容を開示しただろう。自分が密法を修め始めて開示の内容を増やしたかったので、『宝積経』を拝読した。『宝積経』は祖師ジッテン・サムゴンのあらゆる著作の根本であるため、リンチェンドルジェ・リンポチェが『宝積経』を拝読した度に、ちょうどあなたたちに必要としている、聞くべき、使うべき段落が出てきた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を拝読したが、わざとほかの経典を読んで内容の存在性を確認しなかった。ただ、仏が話した文字、意味合いと意義、及び自身の修行した一部の経験に基づいて皆に経典を開示する。リンチェンドルジェ・リンポチェは一つことに気づいた。『宝積経』に基づいて身口意を改めなければ、菩薩道の修行を始めることはあり得ない。いつになっても門外漢のままだ。寶吉祥仏法センターは何故弟子に厳しいのか。仏経内容から見ると、あなたたちはちっともやっていない。普通の人間から菩薩道を学ぶように、自分をさせたいなら、まずは一切の悪を断つことだ。悪い因縁を決して作らない。

チベットでお年寄りに先に乗車してもらわなかった弟子が二人いたので、リンチェンドルジェ・リンポチェに厳しく叱られた。何故だろう。孔子も『老吾老以及人之老』を言って因果を教えてくれた。今、お年寄りを尊敬したら、自分が年取る時、他人に尊敬してもらえる。もし、今、お年寄りを尊敬せず、幼い人をも助けないなら、将来は誰にも優しくしてもらえない。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供の頃から、お年寄りを尊敬する庭訓を覚えてきた。今の台湾には、儒家思想が殆ど見られない。誰もが若者だけが将来性があると思っている。このままではいけない。経典にもあるように、若いと自認して『慢』の気持ちがあったり、体が丈夫だからと思って『慢』を抱いたりしてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちに対して特に要求する、或は厳しく扱るのではない。経典にこの話があるからだ。

その二人の 弟子は具合が悪かったからといってお年寄りを無視した。これは、『慢』があって自分こそが大事、何かがあったらいけないと思ったからだ。これも、彼らは衆生の苦しみを理解できない表しだ。衆生の苦しみを理解できなかったら、衆生の苦しみを解決することはできないはずだ。自分だけが大事、衆生は大事ではないという思いがあったら、仏法を学んでも無駄だ。菩薩道を修める必要もない。いつも自分は間違っていない、何もかも他人の誤解だと思ったり、他人の良し悪しを話したりする人には、菩薩道を学ぶ資格はない。寶吉祥仏法センターに長くいることもできないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示の後段になったら、あなたたちは分かる。

今時の社会にはある風潮がある。つまり、何もかも他人のせい、他人の誤解と状況だから、自分は間違っていないと思う風潮だ。自己本位がこんなにひどいから、布施・供養はできない。できるはずがない。何故なら、するのを惜しむからだ。ここ数週間、リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を開示してきた。それでも、あなたたちは改めようとしないなら、時間はないのだ。あなたたちはもうすぐ死ぬという意味ではない。寶吉祥仏法センターを離れる時が直にくることを言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが第九会を話し終えたら、離れる人が出てくるだろう。あなたたちは自分に無理をさせないほうがいい。誰も知らない、改めたかどうかを、自分だけが知っていると思ったら、勘違いだ。アキ護法はすごいのだ。あなたたちが改めなかったことを、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らなくても、アキ護法は知っているのだ。あなたたちはアキを修めるのが好きだから、仕方がない。アキを修めたら、アキは相手にしてくれると思ったら、勘違いだ。アキ護法の儀軌を伝授するのはリンチェンドルジェ・リンポチェだ。アキ護法の法本にはっきりとされている。仏法を学んで輪廻を断ちたければ、アキは助けてくれる。さもなければ、アキは来ないのだ。毎日、アキを唱えれば、アキは来てくれると思ったら、勘違いだ。法本の通りに実践しなければ、アキは来ないのだ。

『宝積経』の中で、仏は一段落の偈を開示して前述の『行為増上乗、諸仏縁覚等、是故智者修、行等微妙等、菩薩大名称、無畏行成就、是故証菩提、諸仏本所説。』を説明した。修行を増上縁にしたければ、諸仏と縁覚等も含めて、この『智』は世間の賢さではない。成就したければ、あなたの思想は自身の安らかな暮らしでなく、大勢の衆生を利益するためでなければならない。このように修行しなければならない。条件を要求したり、手間を省けたりする余地はない。

『微妙』とは、私たちは自らの意念の変化について、なかなか気付かない意味だ。私たちの目、耳、鼻、舌、身、意は、毎日外部へ求めている。自分の行為は、仏が教えた仏法に背いているかを、落ち着いて考えることは一度もない。誰も考えない。ただ言い訳をして自分は間違っていないと思い、大したことではないから、全然気にしない。しかし、仏経には『微妙』が提起された。小さいことでも大きくなる。小さいことでさえ守れないなら、大きい状況が現れる時は対処できるはずがない。仏法は、大きいことや小さいことから始まるわけではない。累積が必要だ。仏法で自分の心を教化し、少しずつやっていく。一挙に達成できることはない。3年や5年修行した、或は20年出家しただけで、成就できることはない。仏経はこのように言わなかった。全部、一定の順序、次第に従って修行しなければならない。

誰もが頓悟の素質を持っているわけではないから、次第、順序を踏んで着実にやっていくしかない。気を緩めてはいけないし、毎日は忙しいと思ってもならない。あなたたちはどれほど忙しいだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェ以上なのか。リンチェンドルジェ・リンポチェができた以上、あなたたちができないのは、あなたたちは因果を信じず、自分の感覚のよさだけを信じているからだ。ちょっとしたことであっちこっち言伝えているのに、自分は言わなかった、他人が言ったのだ、或は自分は言わなかったが、誤解されたと主張する。疲れないのか。こんなに時間があったら、何故、自分の身口意は、上師の話した仏法に一致しているかどうかを考えないだろうか。たくさんの時間を無駄にしているのではないか。

人生の時間は限られている。あっという間に過ぎてしまう。もう10月、旧暦の9月になった。また一年が過ぎようとしている。あなたたちがこの世間にいる時間はあと何年残っているだろうか。特に出家衆の場合は、今生に出家の相が現れたから、この機会を掴まなければ、来世の何時になれば、また出家の機会が得られるかも分からない。今世に出家したら、来世もきっと出家できると思うのは勘違いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは前世に出家したが、今世はわけもなく在家になった。在家はそれなりの良さがある。出家では話せないことが多いが、在家だったら話しても構わない。

昨日、夫婦の信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。一週間前は奥さんのほうが先に来たが、その時、旦那さんは来ないのかと、リンチェンドルジェ・リンポチェは尋ねた。旦那さんは芸能人で大変忙しいと、彼女は答えた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分も芸能人だと話した。出家の場合は、こう話せない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう言っても構わない。何故なら、法座に上がって伝法するのも芸を披露することになるから、芸能人と同じだ。結局、次の週に旦那さんは来た。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは旦那さんを助けてあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェは旦那さんに来てもらったが、会ってあげるためではなかった。旦那さんに恭敬心を生じさせたかったからだ。恭敬心があるからこそ、供養できる。供養をしたら、福報が得られる。

仏法に疑った心があったら、供養できない。リンチェンドルジェ・リンポチェに会ってすぐ病気が治ると望む、病気になった人がいるが、こんなに都合のいいことはあり得ない。あなたたちはたくさんのものを食べた。今すぐ済度されたくないものもいる。済度してもらえば、それらのものは全部離れると、あなたたちは思っているだろうが、そうとは限らない。憎みを深く抱いているものがいる場合、一回の済度でその憎みを取り払えないから、離れたりはしないのだ。仏法は霊薬だから、飲むと治ると誤解しないでほしい。仏法はあなたの業力と決意に応じて助けてあげるものだ。決意がなくて不信を抱くと、効果はすぐ半減してしまう。あなたが阻止して仏を来させないからだ。

『菩薩大名称』とは、菩薩の名がより有名の意味ではない。また、菩薩は平凡な人間より地位が高い、名前がいいということでもない。意味は、菩薩の名称を得るには、簡単に何かをすれば得られる、円満になれるはずがないことだ。仏が話した通りに、身口意から改めることができたら、初めて菩薩という名を得る資格が獲得できる。三つの戒疤を焼き付けたり、菩薩戒を受けたりすれば、菩薩になれるわけがない。他人を在家菩薩、出家菩薩を呼ぶ人が多いが、あくまでも呼称だから、却って衆生に我慢を生じさせてしまう。実践しなければ、菩薩になるはずがない。こういう呼称は信衆を害してしまう。世間に『菩薩、よく帰って来てくれた。大した発心だ。功徳主になってよく発心したね。』を言う人もいる。どんな発心したというのか。仏菩薩は彼らのお金を使っていない。また、『あなたが功徳主になってくれたから、この法会は開催できた。』を言う人もいる。こんな言葉を、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も聞いた。

しかし、寶吉祥仏法センターの法会は功徳主を設けない。だったら、どうやって法会を行えたのか。上師の決意によるのだ。上師には利益衆生の決意があったから、自然に因縁が具足になって法会を行えたのだ。寶吉祥仏法センターは1997年以来、法会を行うため、功徳主を必要とすることは決してなかった。功徳主を募集することもなかった。じゃ、どう行えたのか。衆生のことだから、衆生が力を合わせて行ったのだ。上師、仏菩薩と護法がこのことを成就したのは、仏経に根拠があるからだ。行者は実践できたから、諸仏菩薩も助けてくれる。全然困らない。わけもなく、人々が集まってくる。この2年間、大型法会は行われていないが、行おうと思えば、全員が納まる場所もないだろう。

『無畏行成就』はその前の『菩薩大名称』に呼応している。菩薩になるには、やることの全てにおじけることなく、傷つくことも恐れない。喜んでもらえるかどうかも心配しない、考えない。ただ因果の法則を思い、慈悲の力は衆生を利益できるかどうかを考える。こうすれば、初めて菩薩と称される資格がある。あれこれを心配したり、恐れたりするなら、いっそう菩薩道の修行を止め、声聞縁覚だけを修め、毎日座禅をすればよい。これだけでも、あなたたちは声聞縁覚の修行をするくらいの信念も持っていない。

『是故証菩提、諸仏本所説』は、ここまでにしなければ菩提を証することはできないと、どの仏もこう話すから、釈迦牟尼仏だけがこう話したわけではなく、仏は皆こう開示してくれることを表している。簡単に言えば、別の仏法はないし、ほかの誰かも、釈迦牟尼仏と異なる修行結果が得られるはずがない意味だ。釈迦牟尼仏と異なる結果であれば、仏ではないのだ。ここは『諸仏本所説』に触れたが、仏であれば皆こういうふうに開示、指導してくれる。例外はあり得ない。立派だと自認した人がいるが、彼らは釈迦牟尼仏を批判した。こんな人は仏を信じなくていいだろう。

今、私たちのいる時代は釈迦牟尼仏の法運の中にある。別の仏は現れていない。だから、釈迦牟尼仏の話は間違ったという見方は邪説、邪見になる。今時、こんな説の仏法を話す人がいる。釈迦牟尼仏の仏法は間違ったと主張している。このような人は修行していないのだ。修行していたら、仏経を読めば、仏の本来の教えが分かるはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが敢えて『宝積経』を広めているのは、教えをきちんと守って実践しているから、広めるのに、少しの能力を持っていると思ったからだ。さもなければ、敢えてこうしなかった。経典の内容は全部、修行過程、修行経験の結論に関するものだから、こんな経験がなかったら、経典の内容、意味を開示することもできないだろう。

『菩薩大名称、無畏行成就』の例を見よう。二つの言葉として別々に説明する人がいるだろう。本当は一つの言葉だ。意味は、菩薩になって菩薩と呼ばれるのに、全ての身口意は自身のためであってはならないことだ。自分のためでなかったら、怖いこともないだろう。そのため、『宝積経』には、菩薩はどこに行っても恐れないという内容がある。勇気があるわけではなく、傷つけられるとは思わず、例え傷つけられても、因果だと分かっているからだ。菩薩道を修めたい以上、因果と一切の果報を受け止めるべきだ。受け止めれるなら、恐れる必要はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが2万人以上の大型法会を行えたのは、何も恐れず、怯えなかったからだ。2万人以上の参加者がいてたくさんの目に見られたら、上に座って足が震える人もいるだろう。特に、リンチェンドルジェ・リンポチェは漢人のリンポチェであり、大型法会の時、壇城側にほかの教派からの出家衆もたくさんいた。彼らは、リンチェンドルジェ・リンポチェの作法は間違ったかどううかを見ていた。彼らは最初から最後までいたので、もしリンチェンドルジェ・リンポチェに間違いがあったら、彼らはその場から去って行っただろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが実践できたのは、決して尊勝なる直貢チェツァン法王と諸仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェを特別に優しく扱ってくれたわけではない。過去の善根と今生に仏法を守って学仏、修行してきたから、自然に仏菩薩は護持してくれた。例え間違いがあっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは間違いを改めることが分かっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供の時に認証された活仏ではない。習わなかった儀軌はたくさんあるが、順調にやってこれたのは、アキと仏菩薩の加持があったからだ。定力でやってきたからこそ、順調になれた。自分が求めたいことがなかったから、恐れることもない。他人に何を言われようが、リンチェンドルジェ・リンポチェは法本に基づいてやってきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは法本の内容を信じている。しかし、あなたたちは自分のことしか信用しない。自分は修行できると信じている。そうはいっても、上師の加持がなければ、決してうまく修行できないのだ。

経典に『善男子、云何菩薩摩訶薩性成就。善男子、菩薩摩訶薩、性自少欲少嗔少痴。』がある。『性』は本性のことだ。本性が善であれば成就が得られると思う人は多い。しかし、仏の話した善は、成仏ではなく、こうすれば菩薩道上の菩薩を成就する資格が得られるが、こうしなければ成就の資格はない意味だ。『菩薩摩訶薩、性自少欲少嗔少痴』とは、欲望は少ないが、あることだ。ここの欲望は、衆生を利益したい、自分が精進したい欲望であり、ほかのものへの欲望が少ない意味だ。つまり、お腹が一杯になれるだけの食事ができればいい。住む所があればいい。何もかも縁に従う。隨縁とは、会社に勤まらない、仕事しない、勉強しないことではない。今のやっていることに精一杯にやる。皆が納得できる結果になるかどうかについても縁に従う。

釈迦牟尼仏も批判されたから、あなたたちは批判されるはずがないと思ったら、勘違いだ。釈迦牟尼仏でも、成仏の時に九つの難が遭った。だったら、仏はいっそう衆生を済度するのを止めれば、あっちこっちを回らなくてもよかったのではないか。仏には1200人の弟子がいて守ってあげたが、人に石を投げられた。仏だから、天神はそれらの石を隔ててあげたが、足は石に打たれてちょっと出血した。仏はきっと、その状況を予知していたのに、何故わざと行ったのか。自身の果報だから、納得して行ったのだ。もし、納得できなくて逃げたとしても、最終的には逃げきれないのだ。

欲望も、怒りも、愚痴(因果不信)が少ない人こそ、菩薩道を修める資格がある。仏の話は精確だった。まだ修行中なので、菩薩道を修める人は、欲望、怒り、愚痴が全くあってはならないと言わなかった。あなたたちとの違いは、菩薩道を修める人は自分を直し続けていることだ。菩薩道を修める人は、これを考えたり、あれを欲しがったりしてはいけないと、仏は言わなかった。さもなければ、仏は、少欲、少嗔、少痴を言わなかったはずだ。

菩薩はきっと優しく柔和な顔つきをしているとは限らない。菩薩にも忿怒相があるし、憎悪の相を現して衆生を済度することもある。『華厳経』に『善財童子五十三参』がある。欲望、怒りと愚痴で修行する菩薩もいた。しかし、あなたたちのできることではないので、決して習ってはいけない。空性までに証得できた人だけが、これらの法門を用いて修行できる。しかも、上師に、心法を口伝、伝授してもらわなければならない。経典にあるから、あなたたちもその通りに修められると、決して思ってはならない。

ここで『少欲』、『少嗔』、『少痴』が触れられたが、日常生活に必要なこと以外に、寝るべき時は寝る、服を着るべき時は着る、買い物をすべき時はするようにしなければならない。福を惜しんでお金を使わないと思っては行き過ぎだ。誰もお金を使わなかったら、この世界はどうなるだろう。お金を全部お寺にあげるのは福を惜しむことではない。古代の中国で仏を滅ぼす行動があったきっかけはこれだ。仏の言った『福を惜しむ』ことは、仏法学習の機会を大事に、無駄にせず、逃さない意味だ。人間の福は大事すれば消えないというわけではない。使わなくても、今生につれて消えてしまうのだが、誤解する人が多い。今生に受けていることは全て、過去世の修行によるものだから、今生に使わなくても、今生が終わると、全部消えてしまう。今生の修行があることに限って来世は再び受けられる。今生にきちんと食べるものがあり、着る服も眷属もあるのは、過去から今まで累積してきた福があったからだ。

仏法の学習は、福を惜しんでお金の無駄使いをせず、たくさん節約すべきだという人が多い。もちろん、お金を無駄にすべきではないが、仏法は、何もかもを捨てるべきだと言っていない。そうであれば、人類は生きていけないだろう。人類の人口は61億、誰もがご飯を食べる必要がある。福を惜しんで少なめに食べ、支出を減らしてお金を貯めて布施・供養に使うと思うのがいいが、仏はこう言わなかった。顕教は収入の4分の一を供養・布施に使うと言っている。密法は、5分の一で上師に供養、5分の一で仏菩薩に供養すると言っている。だから、ほかの分は、あなたたちが好きのように使っていい。仏法を誤解しないでほしい。仏法はほかの宗教と違う。信徒に、一生に寄付する金額を要求している宗教もあるが、仏はこう言わなかった。供養するかどうかは、あなたたちの決定に任せる。

『少欲』、『少嗔』、『少痴』の意味はちょっと考えることを含んでいる。以前は、ほしいものがあれば、必ず手に入れたかったが、今は買わなくてもいいように思える。これは欲望が減ったことだ。以前は人にちょっと言われたら、カッとなった。怒らなくてもたくさんの言い訳をした。これは怒りだ。人の一言に対し、あなたはそうじゃないと、必ず説明する。怒りを抱いていることだ。怒りのない人は、人に何を言われても構わない。自分の代わりに借りを返してくれると思う。去年、リンチェンドルジェ・リンポチェは中傷されても、何の行動も取ってはいけないと弟子たちに指示した。1000人以上の弟子が一斉に反撃してくれたら、いい気分のことではないか。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちに行動を禁止した。これは『少嗔』だ。累世の結果だから、受け止めたうえで、リンチェンドルジェ・リンポチェは、いつか成仏できる時は、必ずあの人をまず済度してあげると発願した。何故なら、彼は忍辱の法門を修めるように、リンチェンドルジェ・リンポチェを成就してくれたからだ。

最近、自分はどのことを話しなかったと説明したがる弟子がいた。ひどい瞋念を抱いていることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の人生経験で、皆に示して見せたが、誰もやらない。リンチェンドルジェ・リンポチェだからできたと、あなたたちは思うだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェではなかったし、転生というわけでもない。今世実際に修行しているだけだ。何故、今世にリンポチェになっただろうか。過去世に何故か『宝積経』を読んだから、今世は『宝積経』の通りに振る舞うという可能性があると、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう思っている。

『少痴』は、因果を信じる意味だ。私たちは仏ではないので、菩薩摩訶薩の果位までに証得していない。それで、些細な因を見落とすことがある。それでも、因果を深く信じるべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、弟子の問題を指摘するが、皆に気付かなかった、見落としたことがあるからだ。だから、上師は弟子に調整してあげなければならない。小さな因や悪だから、大したことはないと思ってはいけない。あらゆることが大事だ。

仏経の内容ははっきりだ。欲望、怒りと愚痴があってはならないという意味ではないが、少ない程度にとどまるべきだ。常に自分と比べたらよい。昨日と今日を比べたらいい。同じことに対して機嫌が悪くならなかったら、怒りが減っていることだ。同じことでも、ほしかったが、今はあってもなくてもいいように思えたら、欲望が減っていることだ。とにかく、自分で反省する。自分はよくなったか、少々荘厳になったかと、周りの人に聞く必要はない。仏法の修行は相ではなく、心が大事だ。心をよく修められたら、相は変わる。聞く必要もなく、自分自身の変化に気付くのだ。

ここで、皆に分かってほしいのは減少することだ。仏は、菩薩道を修める行者に、何もかもを捨てると教えていないが、減少する必要がある。他人のようにお金ばかりを求めてはいけない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェに業務を紹介してくれる人がいた。相手の政府機関がコミッションを要求したから、リンチェンドルジェ・リンポチェはその商売を諦めた。相手にコミッションをあげるのを、リンチェンドルジェ・リンポチェがやりたくなかった理由は、この欲望は強いと思っただからだ。自分の商売のために、他人に不正、汚職の機会を与えることは、地獄を堕ちらせる因を植えたことになる。こっちがやらないなら、相手は他人に頼むこともできるのではないかと、思う人もいるだろう。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェには関係のないことだ。少なくとも、リンチェンドルジェ・リンポチェは相手と悪縁を結ばなくて済む。『少欲』が影響力を発揮したのだ。菩薩道を修めなかったら、誰もがこのような商売をするだろう。台湾では外国にコミッションを払っても犯罪にならないし、そもそも貿易をする時コミッションを払うのも普通だ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはやらない。貧乏になってもやらない。これこそ、因果を信じ、欲望が少ないことだ。

仏法は私たちを守ってくれる。特に菩薩道の修行はそうだ。何故なら、『少欲』、『少嗔』、『少痴』を修める人には、自然に因果は減るのだ。今生にこれ以上の悪因を植えなくなるし、間違いを犯しても警戒、懺悔して改める。仏法学習はあなたたちの思いと違う。家に閉じ込めて毎日念誦、座禅をすれば、ためになることではないのだ。

次は『不吝不渋、不麁獷。』。『吝』は、供養・布施のほか、自分に能力があるのに、適当な因縁があっても他人を助けないことをも含めている。適当な因縁とは、あなたの助けによって人はよくない考えが生じない場合、助けてあげてもいい意味だ。遠慮する人、或はよい言葉の一言を話すだけても恥ずかしい人も、『吝』だ。面目が立たないこと、断られることがいやだからだ。判断基準は、皈依の時に受けた戒による。為すことは戒を犯さなければ、やっても構わない。そして、上師の行動方法を参考して自分も同じくすべきだ。

道場への立入が禁止され、今でも入れない弟子がいる。彼は、道場の内装工事を見た時、リンチェンドルジェ・リンポチェは目と耳がいいとは知らず、ドアと側の弟子を指してきちんとやっていないといろいろと批判したが、残りは他人事だと思った。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは、罰として彼を追い払った。道場は皆のものだ。正しい通路を通して報告したら、よかったのに。悪口を言うことでもなかったが、彼は正しい方法を取らず、人を怒らせたくないと思いながら、自分の偉いところを見せたかった。このようなことがあったから、今になっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を道場に入れたくない。ほかの所だったら、こんなことはどうでもいいだろう。

『宝積経』によると、不吝不渋になるが、『吝』と『渋』は異なる意味がある。『渋』は、持っているのに取り出せない、まずは自分の留保すべき分を計算してから取り出す意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に開示しているが、供養・布施はよいことだから、人に聞く必要はないし、人はどうしているかを見る必要もない。あなたたちの心に最初に現れた念頭が何よりものだ。多少はポイントではない。しかし、あれこれをたくさん考える人がいる。これでは少ないかな、後になったら使えるお金がなくなるのではないかと考えたりする。いっそう供養・布施をしなければいいだろう。

仏はこのように教えてくれた。理由は、菩薩道は布施が必要で、自分の捨てる心を鍛える必要があるからだ。必ずしも、金銭、人への助け、或は助けてあげていると明らかに見せたいことではない。私たちはいろんなことをして人を助けることができる。知られなくてもいい。これこそ『人に知れずに善を行う』ことだ。中国語には『陰徳』という言葉がある。知られないように善を行ったら、必ず福徳が得られる意味だ。大功徳主、副功徳主になるように、行動を見せかけることは何のためもならない。もし、仏寺にお金が必要としたら、黙って寄付すればいい。一番前に座る必要はない。一番前に座って菩薩に詳しく見てもらいたいとも思っているのか。そうはならない。菩薩は虚空にいるので、近く座ったら、却って見られないかもしれない。

『麁獷』は粗暴、下品の意味ではない。どんなことをしても、決して注意しなかったり、いい加減にしたりしてはならない。慎重に対処し、やっていることや話す言葉はどの衆生をも害さないとじっくりと考える。ちょっとした欲望でとにかく言い出し、何かがあれば謝ると思ってはならない。よくないのだ。一言を言い出したら、業力は虚空に現れる。間違った言葉を言った時、謝ればいいと思ってはならない。謝っても無駄だ。意念が動くと、虚空にそのエネルギーが現れる。科学チャンネルの番組だが、一滴の水が落ちた時に現れるエネルギーは、宇宙にいてもその信号を受信することができる。だから、一言のエネルギーは空中にないはずがない。否定できる存在ではない。一つの行動だけでも、そのエネルギーの存在は否定できないのだ。

皆は直貢梯寺の瑞相を見た。実際に、リンチェンドルジェ・リンポチェは唱えて心に考えただけだ。それなのに、何故たくさんのものが現れたのだろうか。つまり、清浄に集中すれば、エネルギーが発生する。そのため、悪質な復讐したい気持ちで他人のことを批判したら、それなりのエネルギーもきっと現れる。マイナスのエネルギーがますます増えると、あなたもマイナス、不運な人間になる。あなたたちは、話を言い出して人をやっつけたら、気持ちはよくなり、気を晴らせると思うだろうが。その気を晴らしたら、それ以後は出なくなるのだ。

仏が教えてくれたことは、修行者のすることだと思わないでほしい。人間であれば、誰もがすべきだ。私たちの身口意は何れも、粗末にどうするかを決めてはいけない。尊勝なる直貢チェツァン法王は公開的に、リンチェンドルジェ・リンポチェは慎重な心を持っていると言ったことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの『不麁獷』の法門を修める人だからだ。どのことについても深く考える。自分のためでなく、相手、衆生のために考える。こうして長期的に鍛えていたら、周りに小人、敵がまだ存在するだろう。いるはずがない。累世の業がなければ、悪口を言われることもない。しかし、あなたたちは何故他人に悪口を言われたと思うだろうか。あなたの言葉が『麁獷』だからだ。常に他人のことを言っているから、他人は自分の悪口を言っているように感じる。ちょっとしたことで、悪口を言われたと思う。あなたは他人の悪口を言い慣れているから、自分の心は他人事を言い慣れるようになる。それで大変敏感になる。あなたのことではないのに、あなたは他人に言われているように感じる。自分に絶えない悩みをもたらす。

姑と嫁の間に何故いろんなことが起きるだろうか。『麁獷』が原因だ。嫁は、自分は姑にご飯を作ってあげたから、親孝行だと、姑に褒めてもらいたいと思う。自分の作った料理に、姑は気に入ったと、何故確信できるたか。心から姑を観察したのか。だから、学仏者の心が『麁獷』であれば、うまく修行できないし、衆生を助けることもできない。自分は精進している、毎日座禅していると自認しても、全部自分のためだ。菩薩道の修行ではない。毎日、大悲咒をたくさん唱えて衆生に回向すれば、自分の病気は治ると思っても無駄だ。これも『麁獷』だ。全部自分のためだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがある。皮膚ガンに罹っても、リンチェンドルジェ・リンポチェは持咒、修法もしなかったし、菩薩や尊勝なる直貢チェツァン法王にも願わなかった。それでも、知らないうちに全治できた。

次は『不我慢、不卒暴。』。我慢がひどい人は、きっと突然暴力の行為と言葉を表す。我慢の程度がひどくない人の場合、こうならない。例を挙げよう。董事長をして妻を見下す男性がいる。常に皮肉を言う。これは暴だ。『俺の金で生活しているから、何でもしてくれ。』のようなことを言う亭主はどこが偉いのか。ただお金を稼いでいるのではないか。自分の妻を尊重しない人は、他人を尊重するはずもない。今時、このようなことが多い。道場の中もそうだ。亭主として、或は妻として、直していないことはたくさんだ。

以前、旦那をひどく殴った女性の弟子がいた。今はもう殴らないが、変なことがたくさん起きた。これも、我慢で『卒暴』が起きた現象だ。いきなり、暴力を振って人を殴るのは、普段傲慢、貢高我慢があるからだ。あなたたちも見ただろう。長らく修行してきた人が、突然怒鳴ったことがある。これは我慢だ。自分は他人よりもよく修行できている、他人はよく修行できていないと思ったりする。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』の開示を続ければ、あなたたちはますます怖くなる。針で刺せば、血が出る、或は、拳骨で殴れば、肉ではなく、心に響かせるというな言い方で形容してよいだろう。どの言葉も精確に的中するものだ。あなたたちは修行していると自認しているだろうが、仏の言った通りに実践しなければ、本当の修行はしていないのだ。未だに門外漢のままだ。実践することを、あなたたちは大変だと思うだろう。菩薩道の修行ができたら、気持ちがよくなるので、最初は苦労するのが当たり前だ。ことを成就したければ、努力するのが当然ではないか。こんな努力は、あなたたちをケガさせないし、あなたたちの寿命を短くすることもない。あなたたちの面目を失わせることもない。しかし、将来に得られる善果は数えきれないのだ。このように自分を変えられたら、これ以上悪因を植えなくなる。

自分を変えられなくて好きな放題にやる。言い出す言葉は全部人をけなしている。ウエブサイトで口論して人を怒らせても構わない。こんな人は将来かわいそうになるだろう。だから、いい加減にウエブサイトで『いいね!』ボタンを押さないほうがいい。たくさん押したら、指に瘡ができるかもしれない。事情を知らなければ、押さないほうがいい。経緯が分からなければ、皆と一緒に非難しないほうがいい。まずは自分の修行をきちんとすることだ。腹を立てて不平を言い、世間はよくないと思ったりしない。何故なら、あなたがよいものだったら、この世間には生まれなかっただろう。とにかく自分の良し悪しを反省すべきだ。周りを批判することは、自分を批判するのと同じだ。よい福報があったら、仏の話した因縁・因果法則によると、よくない所に生まれてよくないものを聞いたり、見たりすることはないはずだ。全ては自分が呼び付けたのだ。

こんな状況では、直ちに仏法に努めることを決意しなければならない。一刻の猶予もあってはいけない。1分間の猶予でもあったら、よくないものにすぐ巻き込まれてしまう。簡単に巻き込まれる。うっかりして指で『いいね!』を押したら、或は人の悪口を一言でも言ったら、すぐ巻き込まれる。今時の通信手段は大変発展しているから、悪業を作ってしまう機会もたくさん増えた。あなたたちは能力、他心通、神通を持っていないから、メールやインスタントメッセンジャーで僅かの言葉を読むだけで、物事の経緯をはっきりと把握できるわけがない。今のあなたたちは蟻のように、先頭にいる蟻がどこに食べ物があると言ったら、あなたたちも皆そこに駆け付ける。ミツバチにも似ている。舞い上がってそこら辺に花蜜があると言ったら、皆は一気に押し寄せる。

あなたたちは情報を読めば読むほど、昆虫みたいに、盲目になってしまう。ただ感覚で物事を見る。好きであれば、『いいね!』を押す。嫌なものであれば、Xを押す。人類の文化はこれで消えていくだろう。古代は符号を使っていたのに、今は古代にタイムスリップしたみたいだ。100年も経てば、誰も文字を使わなくなり、全部符号を押すようになるだろう。今の人は皆、不精になっているということだ。ただ、皆は携帯電話とパソコンを使うから、紙の使用量は減り、樹木を倒すことは少なくなるという唯一の利点がある。ほかにいいことは何もない。

そして、『調和柔軟、善言軟語。』という言葉がある。菩薩として、まだ成仏していないので、心には欲、嗔、痴、慢などが存在している。私たちは、菩薩道の修行をしていると自認した以上、一分一秒も仏法で心を調整しなければならない。念頭が起きると、直ちに仏法と対照して仏の教えに背いていないかを見直さなければならない。背いたことがあったら、すぐに調整する。また、自分なりの調整のほかに、上師に調整してもらう必要もある。金剛乗ではっきりとされていることだが、上師は調律師のような役割がある。上師が琴の弦の調整方法を知っている。きつ過ぎたら、切れるし、緩すぎても音が出ない。

上師の加持と口伝が必要とする理由は、上師は弟子のために調整してあげられるからだ。上師の調整によって自分はどう発声するかが分かる。しかも、よい音量で聞いて好かれる音だ。顕教の経典において言及された全ては、何かを消滅することを教えているのではない。まずは調整が必要ということだ。自分を調整してから、初めて物事の発生を自然にさせなくなる資格を持てる。経典に『調和柔軟、善言軟語』とはっきりされている。調和の動機は何れも衆生のためだ。将来はよくない後遺症が起こらない。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助ける時、『軟語』を使わない。常に責めている。しかし、責めた後、相手の体も状況もよくなる。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェが責める時は、怒りも、憎悪もなく、相手の需要に応じて責める、必要な方法を取るからだ。

上師の加持と口伝が必要とする理由は、上師は弟子のために調整してあげられるからだ。上師の調整によって自分はどう発声するかが分かる。しかも、よい音量で聞いて好かれる音だ。顕教の経典において言及された全ては、何かを消滅することを教えているのではない。まずは調整が必要ということだ。自分を調整してから、初めて物事の発生を自然にさせなくなる資格を持てる。経典に『調和柔軟、善言軟語』とはっきりされている。調和の動機は何れも衆生のためだ。将来はよくない後遺症が起こらない。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助ける時、『軟語』を使わない。常に責めている。しかし、責めた後、相手の体も状況もよくなる。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェが責める時は、怒りも、憎悪もなく、相手の需要に応じて責める、必要な方法を取るからだ。

法会の前に語った弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の家族のことを全部知っていたと話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは『我』を考えず、死者の苦しみを知り、心が柔らかいから、死者がリンチェンドルジェ・リンポチェに教えてくれた。しかし、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは死者を助けることで功徳を得ようと思っていたら、死者はリンチェンドルジェ・リンポチェに何も教えてくれなかったはずだ。神通はこのように現れたもの、禅定によるものではない。

禅定をすれば、神通が得られるなら、ほかの宗教も禅定があるのではないか。心が柔らかければ、衆生は助けてくれる。済度も同じだ。心が柔らかなければ、功徳、福報のために修法、済度をしても、死者は受け入れない。しかし、心が柔らかければ、死者は受け入れる。『善言』はいい話ではない。『軟語』は柔らかい声で話すことでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェの話し方は生まれつきのものだ。わざと柔らかい話し方に変えようと思ってもできない。『軟語』とは、言葉は衆生を傷つけない意味だ。一見相手のためであっても、相手を傷つけることがあったら、軟語とは言えない。これをやってしまう人が多い。女性親友の旦那さんに愛人ができたら、旦那さんをひどく批判する。親友のため、親友と同じ立場で相手をどう対処するかを教えてあげるように聞こえても、相手を傷つけることになる。愚痴が少なく、因果を信じる人だったら、家族に愛人ができたことは、きっと過去世、因果・因縁が原因だと分かる。だから、今さら相手を傷つけたら、更に悪の因を植えることになる。

男女の情愛の悩みでリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た人に、リンチェンドルジェ・リンポチェはきっと、相手の愛人に悪く対処せず、自分の因果に直面して受け入れるように教えてあげる。これこそ軟語だ。その苦しみが分かるとか、相手の愛人は家に来るべきではないとか、或は、家を消毒したり、香水を撒いたりして家中の匂いを消すなど、世間の批判の言葉を用いたりしない。仏法を間違えて使う人が多い。たくさん念誦して相手の愛人に回向すれば、離れさせられるという言い方もある。これも相手を傷つけることだ。10回、100回も念誦した後、もし相手の愛人はまだ離れないのであれば、経典は効果がないと文句を言うことになるだろう。結局、仏、経典、仏法を中傷することになる。

リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た人は多かったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、お経を唱えるように教えてあげなかった。彼らは唱え続けられないと知っていたからだ。先ほど話した失恋した弟子もそうだった。来た時は死にそうだった。跪くと、自分には愛情の悩みがあると話した。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェが最初に言ってあげたのは、『よくここに来た。私にも失恋したことがある。』という言葉だった。その弟子は話を聞いたら、すぐ笑い出した。こうして、リンチェンドルジェ・リンポチェの後の話を彼は聞けるようになった。ほかの人だったら、『執着しないほうがいい。』と言ってあげたかましれない。これを聞いたら、彼は、『執着しないようにしてくれるか。』と思っただろう。また、『常に念誦したらよい。』と言われたら、彼は毎日、念誦の時に相手の面影が浮かんだら、続けられなかっただろう。

だから、自分に能力がなければ、いい加減に利益衆生のことをしないことだ。『善言軟語』とは、話は自己利益のためではないし、特定の相手の利益のためでもない意味だ。助けてあげたい以上、徹底的に解決し、それ以上起こらないように助けてあげる。これこそ、『善言軟語』だ。これを実践するには、かなりの能力が必要だ。ゆっくりと話せばできることではない。更に悪の因を作らないようにしてあげられる言葉こそ、『善言軟語』だ。感動的な話であっても、悪因を作らせてしまうようなものであれば、『善言軟語』ではない。

そのため、菩薩道の修行は学ぶ必要がある。経典を読むだけでできることではない。以前のチベットでは、リンポチェになるには五明学を理解する必要があった。その一つは言葉だった。言葉の内容ではなく、話す論理と方法などを学ぶ必要があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは学ばなかったが、ただ人生の経験に、仏法において自分なりの工夫を加えただけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは空性の中で衆生を助けている。自分がいることも、自分の存在も思わない。また、自分はリンポチェだから、地位が高いとも思わない。

その弟子に、リンチェンドルジェ・リンポチェも失恋したことがあると話してあげたから、彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェも自分と『同事』だと思えた。菩薩道の修行における四摂法には『同事』という項目がある。同じ会社で働いていることではなく、自分と同じことをした意味だ。これで彼の共鳴を喚起できた。リンチェンドルジェ・リンポチェも自分と同じく失恋したから、きっと失恋の苦しさが分かると彼は思えた。それから、話してあげる話も聞きやすくなった。しかし、彼に、大悲咒をたくさん唱えなさいと言ってあげたら、彼はどう唱えればいいのか、中国語、台湾語、古文或は梵語のどっちで唱えればいいのかを考えてしまう。簡単の念誦なら、『六字大明咒』もある。

経典の後段に『易共同止』という重要な言葉がある。これを説明するのに、リンチェンドルジェ・リンポチェの証量でも一週間はかかる。『易共同止』とは、一切の衆生の苦しみと共にすることだ。菩薩道の修行は世間の苦しみを離れて修めることではない。衆生の苦しみが分からなければ、助けてあげられないのだ。それで、歴代の修行者は皆、一切の世間の苦しみを味わった。尊勝なる直貢チェツァン法王も歴史のせいで小さい頃からたくさん苦しませられた。尊勝なる直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェはマスターと弟子の関係ではあるが、世間話をした時もあなたたちの知らないことをたくさん話した。修行者は世間の人々と同じと、あなたたちは知らなかっただろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェの場合は、この一生にあなたたちが考えられた苦しみを全部経験してきた。『易共同止』の『易』は容易ではない。衆生たちの苦しみを経験したからこそ、衆生たちの状況が分かるようになりやすい意味だ。しかも、定に入って衆生の需要が分かる。さもなければ、理解できないのだ。患者を診る時、西洋医は設備を使って検査するが、漢方医は脈を診るようなことだ。そうしなければ、患者の問題を把握できない。医者も患者の状況を把握しなければ、正しい治療方法が取れないのと同じだ。だから、菩薩道を修行する際、衆生の苦しみと共にしなければ、苦しみの原因、感覚は理解できない。解決してあげられないのだ。

釈迦牟尼仏は地獄、畜生道にいたことがあるので、六道の苦しみと修行の大切さを理解していた。苦しみへの理解がなかったら、修行もできないだろう。富貴な人は修行に向いていないと言われている。お金持ちは、自分にお金があるから、何でも買えると思っているだろう。彼らは苦しさを理解していないから、彼らに修行を要求するのが難しい。仏教は『四聖諦法』と『十に因縁法』で苦しみの本質の因は何かを教えてくれた。もし、自分自身はそんな経験がなかったら、原因のほかに、何も理解できないのだ。それ故、離婚した人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たら、きっと勉強になることが多いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェも離婚した人間だからだ。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの子供も教えを聞かなかったので、子供が不孝な人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たら、教わることが多いだろう。

修行者は誰でも苦しんだことがあって世間の苦しみが分かる。『同止』は、菩薩の修行は苦しむことを止めさせたい意味だ。自分のほかに、衆生の苦しみも止めさせることによって慈悲の修行ができる。自分だけがいいようになり、衆生は依然に苦しませられていたら、菩薩道の修行ではない。まずは自分のことを先に修めようと言う人もいる。自利利他をすべきだと言われているが、実際には同時にやることだ。微妙で深いし、大変体得し難いことだ。僅かの成就が得られたら、自利のその瞬間に、利他もしていると分かるはずだ。戒を守る人は自利している。戒を守れば、衆生を傷つけなくなる。利他することにもなる。

戒を守る目的は、自分がよい暮らしをしたい、或はよい修行したいことではない。利他の行為だ。戒を守らなければ、当然に衆生を傷つけてしまう。そのため、比丘には比丘の戒があり、比丘尼には比丘尼の戒がある。同じく自利利他のことだし、同時に進行している。分けられることはない。方便説のために、仏は自利利他の言葉を使った。何故なら、人間は誰でも欲望があるからだ。正しいことは自分のためにならないなら、誰もやらないだろう。これは、先ほどの内容に呼応している。菩薩道の修行も欲望がつくものだ。だから、菩薩道を修める行者は何故、受用があるかと、今後は批判してはならない。まだ菩薩道にいて仏果を成就していないからだ。仏果を成就できたら、大菩薩が念頭を起こすと、受用ができる。

阿弥陀仏の国土にいるように、念頭が生じると、食べ物は現れる。しかも、黄金作りの食器で出されてくる。食べ終わったら、食器は消える。洗うこともない。だから、家事が嫌いな人は、阿弥陀仏の浄土に往生するように発願したほうがいい。食器を洗うのも、料理を作るのも一切する必要はない。思えば、食べ物は出てくる。便利だろう。これも欲望だが、『阿弥陀仏経』の中で、欲望があったら行けないとは言われなかった。欲望があったら行ってはいけないなら、食事のことも、鳥が歌うことも、樹木に音が出ることも言われなかったはずだ。釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介した。理由は、私たちは娑婆世界にいて菩薩道の修行をしていても、今生は大菩薩になるはずがないからだ。それで、欲望があっても浄土に行くことを許してくれた。浄土に行ったら、直ちに登地菩薩になる。欲望があっても、一番基本的なものであり、衆生を傷つけて取り換える欲望ではない。

今日はいくつの言葉の開示しかできなかった。字面通りに『易共同止』を説明すれば、真義をうまく説明できないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは修行してきたので、仏の話は何を指したか、何故こう話したかを、あなたたちよりは理解できた。この経験で皆を励ましたい。修行は難しいと、あなたたちは思うだろうが、実は全然難しくない。ただ、自分が正しいと思った方法で修行しようと思ったら、うまく修行できるはずはない。不共四加行を伝授するように、リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いした人がいた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは同意しなかった。理由は、彼らの心は修正されず、修行慢があったからだ。伝授してあげたら、却って彼らを害してしまう。彼らがよくないから、伝授したくないわけではない。ただ、金剛乗を間違えて利用したら、彼らの将来に悪い影響を与えてしまう。今日の開示はここで終わりにしよう。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2016 年 04 月 18 日 更新