尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年5月31日

法会の開始に先立ち、二人の出家衆弟子が参会者に語った。一人目の出家衆弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがみなに伝える機会をくださったことに感謝した。「5月24日尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本で地蔵経の殊勝を開示くださった。私は強い衝撃を受け、また大きな歓喜を感じた。かつて学仏を始めたばかりの頃、どこかで講経があると聞いたら)、出かけて行って聞いていたので、自分は仏法を聞くことから学仏を始めた。しかし最後には、自分は貢高我慢で、聞き続けられないと気づいた。それは自分にとってとても辛かったが、どうしてそのようになるかが分からなかった。ただ、どんなに聞いても所詮は文字に過ぎないとしか感じられなかった。そのため、内観十日禅などの参禅に行くようになったが、やはり自分が何をしているかを理解できなかった。

けれども寶吉祥を訪れ、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を初めて聞いた時、どのように言い表せば良いのか分からないほどの感動を覚え、経典を聞く法喜を改めて感じた。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがお話になる内容が全て空性智慧から流れ出てくるものだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは講経なさる時にはノートを準備したりなさらず、衆生の機に応じて講じられるのを皆も見て知っていると思う。だからこそ、聞いた誰もが非常なる歓喜を感じるのだ。歓喜を感じるだけでなく、自分の盲点を知り、いかにして自分を改めるべきかを理解することができる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこの度日本で『地蔵経』の最初の十文を午前中いっぱいを使い講釈くださり、午後は後半の仏がいかにして『放大光明雲』かを開示くださったが、私はとても殊勝に思った。『如来含笑,放大光明雲』のこの段は、シンプルな一文だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの講釈を聞くまでは、『如来含笑』にこんなにも深遠な意味があるとは、思ってもみなかった。『如来含笑』の部分を見ても、普通は『如来が微笑した』と考えるだけで、『如来含笑』にこんなにも深遠な意味があるとは、思いもつかないし、体得することもできないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、如来が『含笑』されたのは、十方各国土の諸仏菩薩が釈迦牟尼仏が開示なさる『地蔵経』を聞きに来られた、つまり『地蔵経』が十方国土に伝わり、無量の衆生に利益できるからだ、と開示くださった。

如来に諸仏と同様の大悲願がなかったなら、諸仏菩薩の心願が何であるかどうして分かっただろうか?ここまで聞き、私は初めて、『如来含笑』は『如来が微笑した』だけでなく、こんなにも深遠な意味があったのだと知った。かつて他で講経を聞いていた時には、このように深遠な意味を聞くことはできなかった。それどころか、最初から最後まですべて経の注釈ばかりで、最後には、自分が講じる経に誤りはないというばかりだった。私は最後まで聞いた結果、しばしば自分とは何の関係もないと感じてしまう。そのため、自分は恐らく調伏し難いのだろうと考えていた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『放大光明雲』について開示くださった。みな良く考えて欲しい。当時仏陀は色身の身分で講経なさった。どのようにして大光明雲を放てたのか?普通の人は光明雲を放つなど不可能だし、他人が光明雲を放つのなど見ることもできない。つまり『放大光明雲』とはどういうことなのか?一般の人は、仏が光を放たれるということだけは知っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示がなければ、どのような光を放つかは知らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に簡単な物理原理を用いて説明くださった」と述べた。

続いて、二人目の出家衆弟子が語った。「我々は仏や大菩薩と近いほどの、とてつもなく素晴らしい上師に巡り会えたのだ。それは極めて貴重で有り難いことだ。私がかつて聞いた経典の講釈は、すべて大修行人によるものだった。けれども彼らは自分の話を用いて講じようとはしなかった。別の経を用いて、その字を講釈しようとするため、聞けば聞くほど文が多くなり、聞けば聞くほど複雑になった。もともとはただ一つの文字であったのが、聞いていく内にたくさんの文となったが、その数文の意味も非常に深いため、聞き終わってもやはりはっきりとは理解できなかった。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は自性から出発され、一般人の生活と内心にとても近く、真の仏法に近い。

リンチェンドルジェ・リンポチェが光明雲につい説明くださった時、すべての物質は電子とプロトンの形態で存在すると仰せになった。非常に多くの電子そのものが雲状で、電子とプロトンとは構造は同じだが、性質が違い、異なるものになる。上師と仏菩薩の加持エネルギーは雲の様子に変わり、分子の構造を変える。みなが眼にするたくさんの聖跡と不可思議な現象は、つまりこのように出現するのだ。なぜならエネルギーが放出されると、電子雲の形態に変わるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェのこの開示を拝聴した時、非常に生き生きと具体的で、一枚の絵が眼前に出現したかのように感じ、とてもはっきりと理解することができた。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェが自性から描写されているからで、誰もが眼前に絵が出現したかのように感じられることで、理解に近づくからだ。我々の身体はすべてこのように加持を得て、異なる構造を生じ、聖跡が出現する。これは不可思議な仏法の加持力なのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは普通の菩薩ではなく、すでに非常に高く深いところまで証量された大菩薩であられると感じる。仏法の醍醐灌頂についてしばしば耳にする。リンチェンドルジェ・リンポチェのすべての開示は、リンチェンドルジェ・リンポチェが智慧を用いて経典をすっかり消化なさった後、最も理解しやすい方法を用いて、最も良い養分をみなにくださる。これこそ醍醐灌頂なのだ。少し聞くだけで分かって、心は加持を受け取り、光を発する。光明雲とはこれに似たものなのだろう。みなはエネルギーを受け取る。それは極めて喜ばしいことだ。一字、一句、一偈をしっかり聞きさえすれば、成仏するまで、第八意識田に非常に深い影響を植え付けることができる。この種の加持力、開示はみなに影響を与える。学仏の道において、成仏に至るまで、この種の加持力の大きさは想像をはるかに超えるものだ。

このような上師に巡り会えたことを、私は心から感謝したい。自分が上師の開示をしっかり聞き、しっかり領受できることを願う。なぜなら上師の開示はすでに一般の形式、時間、空間を超越しているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、仏菩薩は仏法を開示なさる際に、我々の面前に来られる必要はないと開示くださった。我々の上師はすでにこの種の能力をお持ちなので、仏法の開示に際し、この種の方式を必ず用いなくとも、我々に体得させることができるのだ。特に日曜日に、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださる際、子供や重病で昏睡している人は理解できないが、それでも同じように加持を受け入れることができる。これから、リンチェンドルジェ・リンポチェがすでに時間、空間の形式を超越し、すでに仏菩薩の程度に至っていることが分かる。この種の加持は言語や文字が不要で、その場で受け入れようとし、チャンネルが一致し、歓喜を以て受け入れることを願いさえすれば、成仏するまで、生生世世で用いることができるのだ。

仏もこのように我々に授記くださる。今日我々は少しの仏法を領受し、みなが今後必ず成仏できることが保証された。これは上師と仏がひたすら行ってくださっている事だ。けれども、我々にできるだろうか?我々にどれだけの徳行、どれだけの福報があり、どれだけの好事を行っているだろうか?今日このような情況に遭遇しながら、我々はなおその中の貴重性について知らない。私はみなに呼びかけたい。上師の開示を聞く際には、落ち着いてしっかり聞き、吸收し、しっかり行おうではないか。我々がしっかりと聖教を領受し、信受奉行しさえすれば、このような一字、一句、一偈が我々の身上で効果を生むのだ。無量無辺の仏法が現在からひたすら広がっていき、ひたすら行っていけば不可思議な利益を得ることができるのだ。みなもこの点を弁えなければならない。そうでなければ、このような上師に巡り会えた幸運を無駄にしてしまう」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、施身法法会を御自ら主持くださったが、修法前に参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「今日は密宗八大成就法の一つ、施身法を修める。チベット語によれば、施身法とは『断』と呼ばれる。施身法は何を断つのか?煩悩障と所知障だ。心に貪嗔痴を存してさえいれば、煩悩は止まらない。だが現在、煩悩をなくすのは不可能な事だ。この世間に生きていれば、出家の相を現していようと在家の相を現していようと、毎日非常に多くの物事を処理しなければならない。この世間に生きているのは、絕対に何かの使命があって来たのではなく、何かの責任があって来たのでもない。そなた達はすべて乗業により再来したのであり、乗願により再来したのでは絶対にない。乗業と乗願の違いはどこにあるのか?菩薩だけが乗願で、我々凡夫俗子はこの一生で修行人であろうとなかろうと、すべて乗業だ。

煩悩を断つには先ず煩悩がどこから来たのかをはっきりさせなければならない。ここまで言ったが、説明するには長い講釈を行う必要がある。だが、今日は時間が足りない。小乗、大乗、金剛乗の煩悩に対する定義は違う。小乗は南伝仏法だ。南伝仏法のタイ、スリランカ等では煩悩を毒薬と考えている。そのため、南伝仏法の出家衆は自分では料理せず、仏珠を身に付けず、完全に禅定に頼り、禅定により先ず煩悩を抑えこみ、さらには煩悩が起こらないようにすることを願う。大乗は、煩悩は薬に転じられると考える。なぜなら煩悩がなければ、どれだけの苦があるか分からないからだ。煩悩がなければ、苦が楽よりも多い世界に自分が生きていることが分からない。そのため、大乗仏法は煩悩を精錬して薬とし、修行の方式とする。いかにして精錬するかには非常に多くの方法があるが、今日は時間が十分でないので、一先ず別の機会としよう。金剛乗は煩悩を薬と見做す。精錬しなくとも、煩悩と言うこの薬を用いて、自分の一切の貪嗔痴の問題に対するのだ。

西洋薬にも漢方薬にも、毒である薬がある。毒性を理解しさえすれば、この毒は反対に病を癒せるのだ。金剛乗では成就までの期間がなぜ短いのか?それは、時間を節約できるからだ。金剛乗にはある特徴がある。顕教の基礎、具徳の上師による教授がないなら、金剛乗の修行は非常に難しい。チベットのラマ、リンポチェに会い、数句の咒語を伝えられたので自分で学密できると思ってはならない。密法を学ぶには次第があり、レベルに従い修めるのだ。一般人が学べるものではない。

煩悩障と所知障とは、我々を輪廻させる障礙であり、修行の力を失わせる障礙だ。普通の人にとって『所知障』は『私は知っている』だ。人と争い、意見を生み出すのは、普通はすべて、自分は知っている、学んだ、見たのはこうではない、と思うためだ。そのため非常に多くの争いを引き起こす。そなた達は自分の文化、風俗、家は相手が言うようなのではないと思っている。これこそ一般的な所知障だ。顕教によって『所』と『知』を説明しよう。観世音菩薩成就の法門は『聞所聞盡』だと聞いたことがあるだろう。これを『聞いたことがあるので、再び聞くことはない』と解釈している人が多いが、これは正しくない。

仏法が用いる名詞はとても愉快だ。分かり易く言えば『所』とはコンピューターのソフトのようなものだ。すべてのデータはここから開かれる。誰もこのデータを動かさなければ、能を生じることはない。どれだけのデータをインプットしようと、コンピューターをオンにしなければ、データは内部にあるだけで全く動かない。誰かがコンピューターをオンにし、パスワードを入力する等しなければ、情報が出現することはない。仏法で用いる『所』と『能』において、眼耳鼻舌身意を通して受け取る外在と内在の信号を保存したものが『所』だ。『所』が継続して動かなければ、『能』は出現しない。つまり『能』とは我々の動態で、神経が見て、聞いて、嗅ぐ。この種の感覚こそが『能』だ。『所』が神経にこの種の感覚を生み出させる。『所』の中とは、第七、八意識田に保存するものだ。『所』に保存しても、不動なら『能』を生じない。いわゆる『聞所聞盡』とは聴覚を用いて『所』に定を生じさせ、定を生じた後には『聞能』が不動となり、世間の音声に心が掻き乱されることはなくなる。

人類の最も鋭敏な臓器は目と耳だ。覆っても、閉じても、目の感覚はやはり存在する。耳はいうまでもない。真空の部屋にいても、やはり音声は聞こえる。原子、分子が摩擦する音が聞こえ、さらには自分の身体の中の音が聞こえる。そのため、心が定まらないのだ。胡座をかいて30分、一時間座っても『聞所』、『聞能』が停止せず動いている人がいる。観世音菩薩の成仏はまさにこれに頼るのだ。そのため、かつて観音法門を修めた多くの人が水音を聞いた。日本人もこの方法を学んだが、滝に打たれる方法に変えている。これは正しくない。だが、もしかしたらいくらかは入定できるのかもしれない。なぜなら冷たい水にひたすら打たれることで、寒くない寒くないとひたすら考え、他のことは何も考えられなくなるだろう。これも一種の定だ。定は思考がないのではなく、『所』がある場所に定し、『能』を生じないのだ。

所知障の『所』の中には、どのようにして食べるのかなどの生生世世に知ったたくさんのものがある。科学では、動物には食物を探す本能があるという。この種の本能はどこから来るのか?医学も科学も今に至るも説明できていない。子供はなぜ生まれてすぐ泣くのか?口を開いて乳を飲むのか?これこそ本能だ。だがどこから来るのか?科学は遺伝子だという。だが、一つ目の遺伝子はどこから来たのか?科学も正しいという訳ではない。だが、そなた達は科学を盲信し、仏法から研究するということをしない。研究と言っても、文字に頼るのではなく、修行の面からゆっくりと体悟するのだ。それでこそ、仏の仰せが科学よりさらに先端的であると理解することができる。

生生世世で学び、知った経験法がすべて『所知障』の『所』の中にあり、これにより我々はこの一生で異なる行為と思想を生じる。一卵性双生児の兄弟姉妹であろうと、出生後の考え方と嗜好には違いがある。これこそ『所知障』から来たので、そのため好き嫌いが生じるのだ。前世から携えた、という人もいる。実はこのような説明は牽強付会の嫌いがある。なぜなら生生世世に累積されたものは、ある時にある因縁に出会い資料が呼び出され、『能』を生じるからだ。仏法はつまり『所』と『能』に対する。リンチェンドルジェ・リンポチェが一、二年かけて説明しなければ、そなた達は理解できないだろう。

最も簡単な食を例とする。夫婦であっても、一人は甘党で、もう一人は辛党だということがあるだろう。それほど愛し合っているなら、全く同じであるはずではないか!誰かを愛し、その人がいなければ死んでしまうという。これはあまり利口ではない。食においてさえ違うのだ。『私の心中にはあなたがいる。あなたの心中には私がいる』などと、どうしてあり得るだろうか?これは自分で自分を騙しているのだ。我々は一人一人みな業が違う。同じということは絕対にない。遺伝子が同じであっても、業力はやはり違う。

科学はこんなにも発達し、羊や犬など動物のクローンを作れるが、今では作ろうとしなくなっている。なぜなら遺伝子はすべて同じなのに、生まれた後は父母と違い、必ずいくらか問題があるからだ。科学的に原因を探したが、見つけられなかった。医学に携わる人はみなこの事を知っている。今でもクローン人間が作られないのは、道徳的に問題があるからだと思っているだろう。実はそうではない。科学者は、遺伝子が同じでも、生まれた後は父母と違い、行為、思想、動作がすべていくらか違うとはっきり知っているからだ。

仏法がすごいのはここだ。すべての有情衆生に対する煩悩障と所知障の面で教導において工夫を凝らしている。顕教の方式を用いるのは悪いのではない。だが、非常に長い時間が必要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは二人の出家弟子に法会前に話させた。それは、彼らに持ち上げてもらおうというのではなく、彼らがどれだけ吸收したかを確認したかったのだ。だが、彼らは、自分が聞いたことがなかったと思ったことだけを吸収し、聞いたことがあったものについては語らなかった。これも所知障だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば出家弟子を試す。弟子に賛歎してもらう必要はない。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを法座に上らせ続けてくださるだけで十分だ。諸仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェを法座から引きずり降ろさないだけで良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは他人の賛歎を必要としていない。それを求めているなら、とっくにテレビに出演しているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはカメラ写りが悪い訳ではない。ただ、そうしないだけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが二人の弟子に法会前に語るよう指示したのは、彼らの所知障がどこにあるかを確認したかったのだ。こう言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェには神通があるのではないか、どうして彼らの所知障が分からないのだ?という人がいるだろう。神通は神通だ。彼ら自身に語らせることに意味があるのだ。そうしなければ、自分の問題がどこにあるかが分からないからだ。ある弟子は皈依して13年になるが、自分にある病があることを知り、昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは『母はそなたの発育不良を心配し、鶏をさばく時に卵巢を残し、子供の頃から、そなたに毎日食べさせていた。そのため、この病を得たのだ』と告げると、彼女は『そんなことはありません!』と答えた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェがさらに叱ると、彼女はようやく『ありました』と答えたのだ。これはどういうことだろうか?なぜなら彼女の所知障の中では『母は自分に対して良かれと思ってしてくれたのだ。そんなに恐ろしい因果などない。みなこのように食べている』と思っているからだ。

昨日一人のカナダの弟子が転んで手に怪我をしたと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは加持してやり『蜘蛛を殺しただろう。そのせいで骨にヒビが入ったのだ』と告げた。自分がエビやカニの殻を剥く時のカリッという音を思い出してみよ。ここにいる者はみなやったことがあるだろう。それでいて、何も起きないなどということがあろうか!このカナダの弟子は因果を深く信じていたので、現世報があり、すぐにこの問題を解決することができたのだ。これはただ一匹の蜘蛛を殺したに過ぎない。リンチェンドルジェ・リンポチェは神通で彼が蜘蛛を殺すのを見たので、告げたのだ。彼は、自分は確かに蜘蛛を殺したことがある、と答えた。一匹の蜘蛛を殺せばこうなるのだ。そなた達はなお深刻に考えず、ただの蜘蛛じゃないかと思っている。試してみるがよい。やってみるがよい!

我々には多くの知識があり、清浄な本性を覆い隠している。今日修める施身法が『断』と呼ばれるのは、『所』を断つのではない。『所』がないなら、我々は生きていけない。修法を通して資料を増やす機会を減らし、さらには断ってしまうのだ。断つことができないなら、ひたすら增加するだろう。煩悩障であろうと所知障であろうと、增加し続けるなら、輪廻を解脱することなどできない。輪廻を解脱などと、そんな深奧なことを言わなくとも、少なくともこの一生は絕対に悲しい一生になるだろう。なぜならそなたはすべてが良くないと思うからだ。良いも悪いも自分で決めるのだ。他人が決めるのではない。誰かが、そなたは非常に良いという。それは、そなたが修めた福報だ。そなたが自分で決定したのだ。誰がそなたは良くないという。それもそなたが修めた福報だ。そなたが自分で決めたのであり、他人とは関係がない。

施身法は修法者が顕教と密法を通して衆生を救う。密法は四つの部分(事、行、瑜伽、無上瑜伽)に分かれ、施身法の法本にはすべてを含む。施身法法本を書いた行者は一人の女性瑜伽士だ。瑪吉拉尊とおっしゃる。瑜伽士とは在家修行者ということだ。瑪吉拉尊尊者は歷史上では蓮師とほぼ同じ時期のお方だ。『大般若経』に基づき施身法をお書きになった。出家衆はみな『大般若経』を知っている。釈迦牟尼仏は空性を説明するために、『大般若経』を講じられた。『大般若経』は『大蔵経』全体の約三分の一を占めている。仏が空性をいかに重視しておられたかが分かるだろう。

『大般若経』の顕教基礎を通して、あらゆる学仏人は福と慧を修めなければならない。智慧とは空性だ。福報がないなら、智慧を開くことは非常に難しい。だが、智慧があっても福報がなければ、非常に傲慢になる。よって、我々は必ず二つをいっしょに共修する必要があるのだ。つまり、いわゆる福慧双修だ。金剛乗の法本中では、誰でもすべて福慧をいっしょに修める。みなも知っておろう。供養布施は福報累積の最も速い法門だ。供養布施は外供養、内供養、秘密供養に分けられる。外供養とは一切の物質、体力面を含み、内供養とは身口意だ。つまり、心は極めて重要なのだ。秘密供養は密法なので、非公開だ。

布施は財施、無畏施、法施に分けられる。施身法の法本にはすべてを含む。『寶積経』は財施について、あらゆる菩薩は布施を行うに当たり、脅し、脅迫、他人の金を用いて行ってはならない、と明確に記す。台湾では現在、親族に『もし布施のために私にお金をくれないなら、今後私たちは悪くなりますよ』という言い方が流行っている。これこそ脅迫、脅しだ。脅迫されて布施しても、それは功徳も福報もない。自分の金を用いなければならない。自分はお金を稼いでいない、という人もいる。それなら、他人からもらった金でも良いが、それは騙し取ったものではいけない。他人が自ら望んでくれたものでなければならないのだ。

自ら望んで、とは、騙した後に納得させるのではなく、何かの取引をするのでもなく、ほんとうにそなたに対して一種の布施をし、そなたの金銭となったものでなければ、供養布施に用いてはならない。子供に与えるお小遣いも、子供に与えたなら、それは子供のものだ。専業主婦が、毎日の食費から少しを自分のへそくりとし、自分のものとするのも、あってはならない。なぜならそれは、食費のためにもらった金だからだ。もらったのだから、自分の金だ、と思ってはならない。別のお金をはっきりとくれた、というのであれば別だが。供養布施という、この事はほんとうに非常に複雑なのだ。

無畏施について、仏法を説き、その結果、相手が恐れなくなれば、それが無畏施だ、という人が多い。『寶積経』中では、菩薩はどこへ行っても全て無所畏懼だという。無所畏懼なのは、菩薩に法力、神通力がありすごいので、どこへ行っても恐れることはない、というのではない。菩薩は六道中で輪廻しても恐れず、生死に対して恐怖心がない。なぜなら、乗願により再来し六道衆生を超度されているからだ。地蔵菩薩が『我不入地獄,誰入地獄』と仰せなのは、地獄に堕ちる苦を恐れておられないのだ。地蔵菩薩は地獄に堕ちたのではなく、乗願により地獄へ行かれたのだ。無畏施は修行人でなければ行えない。衆生を輪廻の恐怖から救うことこそ、無畏施なのだ。

法施とは、簡単に仏法を講じるというのではない。釈迦牟尼仏、菩薩であれば、衆生が輪廻苦海を解決できるよう教えなければならない。衆生が因果を深く信じ、自分の一切に向き合えるよう教え、それによって衆生に利益することができる。この種の供養布施を用いれば、福報は当然非常に速く起きる。特に『普門品』中には、非常に素晴らしい供養が記載されている。たくさんの人が『普門品』を読んだことがあるだろう。だが、この段を見逃している。無盡意菩薩は、釈迦牟尼仏の観世音菩薩の種々の功徳についての紹介を聞かれた後、ご自分の首にかけていた瓔珞を観世音菩薩に供養なされた。観世音菩薩は少しも心を動かされず、受け取ろうとなさらなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェもしばしばこうする。リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩ではないが、観世音菩薩を学んでいる。釈迦牟尼仏は最後に観世音菩薩に『衆生を憐れみ、お受け取りください』と言われた。

この段は、菩薩道を行うにはいかにして供養すべきかを演じて見せてくれているのだ。無盡意菩薩はすでに菩薩だ。供養時には自分に対して何らの要求もない。供養時に、自分に対して何らかの要求があるなら、菩薩ではない。どうして観世音菩薩はお受け取りにならなかったのか?瓔珞は現在の翡翠、サファイヤ、ルビーより貴重だ。なぜなら福報を修めたものだからだ。修行人が宝石を身につけるべきでない、という人がいる。実はこれは正しくない。なぜなら菩薩はみな宝石を身に付けておられるからだ。これは福報に従い自然にそうなるので、求めなくとも自然に出現するのだ。

無盡意菩薩は瓔珞を外し観世音菩薩に供養なさったが、観世音菩薩はお受け取りにならない。それは、大菩薩は小菩薩の供養を受け取らないからではない。菩薩には大も小もない。ただ果位が異なるに過ぎない。観世音菩薩がお受け取りにならなかったのは、そなた達一般人と同じで、法王、リンポチェ、出家者が非常に荘厳なのを目にし、歓喜して供養したからだ。歓喜して供養するとはどういう意味だろうか?それは、自分の欲望を満たすためで、真心からの供養ではなく、衆生のための供養でもないからだ。この種の考えを持ったことがある人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェが最近とても疲れているのを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養でもするか、と思ったりする人もいる。

『普門品』は、とても簡単に思えるが、しっかり検討するに値する経典だ。たくさんの人が『普門品』を簡単だと思うのは、観世音菩薩について言っているだけだからだ。しかし、観世音菩薩の果位を修めれば、再来仏だ。簡単であるはずがあろうか?『普門品』が簡単だと思うのは、非常に短いからだ。みな大きい経を好む。だが、『普門品』が最も根本的なものだ。供養の方法さえ為せないなら、この一生のどこに福報があるだろうか?福報がなければどのように修行するだろうか?

無盡意菩薩と観世音菩薩が演技していると分かったので、釈迦牟尼仏は口を開かれた。供養する人は、衆生に福報をもたらさなければならない。自分の何らかのfeelingによるのではなく、完全に衆生のためでなければならない。なぜなら衆生は福薄縁浅で、仏法に触れる機会がないからだ。よって、我々のあらゆる動作は全て衆生のためでなければならないのだ。『華厳経』は教える。衣服を着る際にも読経せよなど非常に複雑だ。在家の方は学べないのだ。衣服を着る際にも読経し、トイレでも読経し、食事の際にも読経し、すべて衆生のために読経するのだ。

釈迦牟尼仏は観世音菩薩に『衆生を憐れみ、供養をお受け取りください』と言う。観世音菩薩はお受け取りになった後、自分では身に付けられず、二つに分けて、さらに供養された。これから分かるように、観世音菩薩は大菩薩であられるが、それでも絶えず供養なさるのだ。そなた達はどんな身分なのだ。少し供養しただけで、自分はとてもたくさん供養したと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でも、絶えず供養している。仏法修行の供養の他に、外、内、秘密の供養もひたすら行っている。止めたことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが供養を止めていれば、今年の初めにとっくに死んでいただろう。今まで生きていられたはずはない。

施身法の法本は供養法の中で最もすぐれている。仏法を少し学んだことがある人なら知っているだろう。釈迦牟尼仏が菩薩道を行う時には、虎穴に入り母虎に餌を与え、子虎に母乳を与えられるようになさったこともある。仏はハトの命を救うために肉を切り取られたこともある。これは天帝が、釈迦牟尼仏の慈悲心が十分かどうかを確かめるためだった。魔に他人を傷害させないよう、仏は眼をえぐり取り魔に与えたこともある。これらは我々にはできない。空性まで証された大菩薩でなければできることではない。空性まで証するとはどういうことだろうか?近代チベットでは、たくさんの人が空性まで証している。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが浅学なのかもしれないが、中国で空性まで証した人がいるとは聞いたことがない。

空性まで証するとはどういう意味だろうか?一人一人の肉体はすべて原子、分子が結合したものだ。空性まで証した行者は、原子、分子を再び分けることができる。外見は見たところ肉体だが、実はすでに分かれているのだ。できているといかにして証明するのか?ポワ法が最も明確だ。数日前リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子にポワ法を修めた。昨日が海葬だったが、彼の梵穴にははっきりした洞があった。だが、遺体はここに運ばれて来てはいない。空間を隔てて洞を穿ったのだ。これこそエネルギー、願力がなければ行えるものではない。仏法の最も高いエネルギーは宇宙の分子、イオン等を再構築できる。いわゆる空性とは菩薩の身体のすべてのものを用いる準備ができているということだ。自分のものではないのだ。

だが、我々は今はできない。よって瑪吉拉尊尊者は慈悲深くもこの法本をお書きくださった。観想と密法の気脈明点を通して、自分の肉体を甘露に変え、上は諸仏菩薩に供養し、下は六道衆生に布施するのだ。つまり菩提心だ。当然、これは一日二日でできることではない。ある程度の時間絶えず訓練することが必要だ。施身法を修めれば非常に速く福報を累積できる。リンチェンドルジェ・リンポチェが年初に健康を害した時、用いたのは施身法の法本だ。短期間でリンチェンドルジェ・リンポチェはまた元気に復活し、皆を叱責し続けている。それは施身法のおかげだ。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは調子が悪く、施身法を修める力もなかった。だが、2ヶ月目には力が戻り、また叱責を始めていた。

仏法は有用だが、着実に行うかどうかにかかっている。施身法の力は非常に強い。特に修行せず横死した人の超度にはそうだ。世間の多くの人が誤った見解を持っている。自分が殺した衆生と冤親債主を超度すれば、それで何事もなく、自分の好きなように日々を暮らせると思っている。実は、経典と法本ではしばしば言う。いわゆる超度とは、仇であろうと恩であろうと、生生世世にそなたと関係があった衆生を三悪道と輪廻の世間から離れさせ、つまり彼らの悪の因縁を善に転じ、これによりこれら祖先と冤親債主は、この一生の修行に障礙を及ぼすことがなくなることだ。彼らを超度させても、その後精進せずしっかり学仏せず、すでに超度させ懺悔したのだから修行する必要がないと思い、先ずは結婚してから考えよう、などというのではないのだ。

皈依して13年になる、この弟子は、これまで一度も徹底的に懺悔したことがなかった。自分は善人で、悪い事をしたことがなく、自分の母が殺したとしても、それは自分に食べさせようとしたのであり、自分自身が食べたがったのではないと考えている。そなた達にこの種の共業がなかったなら、この種の家に生まれただろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて調理師として学んだことがあるが、肉を切ったことはない。これこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世にこの種の業力がなかったからだ。だが、そなた達は聞き入れようとしない。

いわゆる超度とは、冤親債主と祖先にそなたの修行を障礙させないようにするのだ。だが、そなたが傷害した一切の冤親債主の業力はやはり存在する。釈迦牟尼仏は開示くださった。部屋にアワビをいっぱい入れれば、アワビを運び出したとしても、その匂いは残るため、絶えず掃除し、きれいにし続けなければ、匂いが消えることはないのだ。そなた達はまさにこうだ。冤親債主を超度すれば、そなたが殺した魚は大丈夫になるなどと思ってはならない。この気はなお存在するのだ。患ったことがある人はみな分かるだろう。病気が治っても、しっかり運動し、栄養に気をつけ、身体の調子を整えなければならない。医者が『良くなりました』と言うのは、症状が悪化し続けないということで、すぐに元気になる、ということではない。身体はやはり弱っているのだ。

さらに仏法から言えば、過去に行った一切の悪の因は、すでに自分の福報を損耗している。そんなに速く福報を新たに累積するなど無理だ。アルバイトをしたことがある人は分かるだろう。一ヶ月働かなければ給料はもらえない。だが、そのお金を不用意に使おうとすれば、一時間で使い切ってしまえる。福報もそうなのだ。自分には福報があるなどと思ってはならない。そなたに福報があるなら、現在までひたすら殺生し続けるなどということはない。そなたに福報があるなら、母の胎内でも肉食しないはずだ。我々はみな福報がないのだ。福報がないなら、どうしたら良いのか?それは言いつけに従い、しっかり如実修行するのだ。『地蔵経』で言うように、我々は亡者のために福報を累積し超度することができるが、仏事を広く行わなければならない。

たくさんの人がこの言葉を、多くの寺へ行き、多くのところで点灯し、どこへ行って拝懺してもいくらですか、と尋ね、お金を振り込まなければならないと解釈している。『広』とは多いということではない。諸仏菩薩の心が広大で、ある特定の対象のためということではなく、すべての六道衆生を救うということなのだ。経典では、仏光は現れれば、すべて十方で、前方、左方、右方などないとある。たくさんの人がリンチェンドルジェ・リンポチェにどの方向かと聞きに来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは、方向はない、と答える。なぜなら仏光は十方に放たれ、東、南、西、北がないからだ。そなたの心の領域が小さく、狭いなら、諸仏菩薩がそなたにくださる加持も有限となり、そなたが救える亡者も有限となる。

因縁があり亡者を超度させれば、亡者はすぐに阿彌陀仏のお側へ行けるというのではなく、亡者自身の前世の因縁福報を見なければならない。亡者の前世の福報が不十分なら、この一世で因縁があり、修行者がこの事を行おうとしても、求法者の方が大切なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが大切なのではない。なぜなら受動だからだ。諸仏菩薩であっても受動だ。そなた達求法に来た者は、法会に一回参加したので問題は解決し、自分の事ではないと思っている。誰が言ったのだ?『地蔵経』には、広く仏事を行わなければならないと非常に明確にあるのだから、仏が仰せの事は全て行わなければならないのだ。仏はどんな事を仰せか?第一に十善法を修めなければならない。よって殺生してはならない。今も殺生し、喫煙している人は、二度と来ないでもらいたいし、来場を拒絕する。どうして拒絕するのか?それは、そなた達が聞き分けが悪いからだ。来てどうするのか?加護を求めるのか?そなた達が加護を求めるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは符の書き方を教えよう。だが、しばらくするもっと大事になるだろう。

仏法は我々の生生世世の問題を根本的に解決してくれる。根本的な解決は迅速だろうか、すぐだろうか?当然いくらか時間がかかる。思い返してほしい。母の胎内からこれまでのこの期間に、どれだけの衆生を傷害しただろうか?先ほどの者は一匹の蜘蛛を殺したに過ぎないのに、骨が砕けてしまったのだ!仏菩薩は慈悲深くていらっしゃるので、この外国の弟子をリンチェンドルジェ・リンポチェのもとに寄越された。そなた達は生生世世にどれだけ殺したのだ?自分は懺悔した、うまく修行していると、それでも言うのか?このカナダの弟子はうまく修行していたのですぐに報いがあり、自分の身体で返済したため、もう大丈夫だ。ところが、そなた達は度々逃げ隠れし、嫌だと言っている。だが、逃げれば逃げるほど、向こうはそなたを追ってくるのだ!衆生を殺したことがあるのに、何事もないということがあろうか?果報が軽くなるに過ぎない。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法しさえすれば、訳も分からず手に少し傷ができ、血が流れる。これこそ返済だ。そなた達は何を以って返済しないのか?返済しなければ、借金はどんどん増え、いつになれば完済できるか分からないほどになる。

『広做仏事(広く仏事を行う)』というように、仏が我々にお教えになる事は全て行わなければならないのだ。なぜか?それは、仏菩薩の助けを求めるなら、仏菩薩は六道の一切の衆生がすべて輪廻しないことを最も望まれるからだ。『地蔵経』では、亡者のために、仏法を用いて何らかの事を行えば、その功徳の内そなたは七分の六を占めるが、亡者は七分の一しか占められないという。『地蔵経』では、この考えがどこから来たのかを、説明しておらず、他の経典にも全く説明がない。仏は『地蔵経』で七分の六と仰せなだけではなくて、なぜ説明なさらないのか?仏学院で学んだことがある人もたくさんいるだろう。その者たちはリンチェンドルジェ・リンポチェよりよく知っているはずだ。なぜ、七分の六はそなたに、七分の一は亡者に、と言うのか?ここまで読み進めば、誰でも非常に喜び、亡者は七分の一だけで、自分は七分の六もらえる、と思う。

リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単に要点を説明しよう。だが、密法の部分については触れない。人であろうと動物であろうと、色身を失えば、残るのは意だ。つまり、あらゆる動作は、かつての意識から携えてきた『意』からとなる。意識を解決すれば、物事は解決される。だが、我々は意識だけではなく、眠る際には快適に眠りたいし、スープを飲むなら美味しいスープが飲みたいし、映画を見るなら面白い映画が見たい等と思う。我々の眼耳鼻舌身意は止まることなく動いている。我々に七分の六くださるというのは、眼耳鼻舌身意のこの種の煩悩を菩提、功徳に転換するためなのだ。そのために、我々は七分の六を得られるのだ。仏は依怙贔屓なさらない。表面的には見たところ我々を宥めてくださっているようだ。それなのに、我々は七分の六をもらっても、なおしっかり行わない!しっかり行うはずなのだ。だが、実はそういう意味ではない。

仏はどうしてはっきり仰せくださらないのか?『地蔵経』では、その日聞きに来た中で最低な者は鬼王、天人、菩薩、護法部だという。彼らには説明は要らないのだ。だが、そなた達は説明を要し、説明しても『そうなのか?ほんとうなのか?』と聞いてくる。今日修める施身法により、衆生に善な縁を植え付け、これにより衆生は未来世で必ず生死を解脱する機会を持つことができる。この一世で三悪道に堕ちたくないなら、今すぐに十善法を学び修めた方が良い。今は仕事があるので修行できない、と言う人が多い。だが、十善法の修行はほんとうに非常に簡単だ。日常生活を送りながら行え、しかも他人に影響を及ぼすこともない。

十善法を修めようとするなら、物事をはっきりと見られるようになり、間違った考えに固執することはなくなる。十善法を修めようとするなら、自分と他人への傷害は減り、さらには消えてしまう。自分と他人を傷害しないなら、不慮の事故など発生するだろうか?たとえ天変地異が起きたとしても、そなたは安泰だ。施身法を修めると言うことは特別なのだ。別の法本には、修法者が修法を求める、と言う記載はない。この法門だけだ。これは、自分の分が不十分なのではないかと恐れたのだ。修法時に六道衆生を招いても、修法者の分が不十分、つまり菩提心、慈悲心、空性が不十分なら、修法者は彼らに食べられてしまう。衆生は呼ばれて来ても、食べるものがなければ、怒り出す。リンチェンドルジェ・リンポチェがもったいなく思い、どこかを咬まれて痛いと思えば、おしまいだ。

施身法の法本が特別なのは、本尊と伝承上師に、この法の恩賜、修める許可を求めるからだ。簡単に言えば、マチク・ラプドゥン尊者は後世の人がこのレベルに達しないことを恐れ、この言葉を付け加えられたのだ。我々が伝承上師に加持を求めるなら、修法者が少し劣っても、伝承上師が助けてくださる。別の法本にはこのような記載はなく、この法本がことさらに特殊なのだ。一切の聖衆に頂礼しこの法の恩賜、修める許可を求めるとある。たくさんの人が自分が求めればすぐに得られる、と思っているようだが、実はそうではない。

顕教と密宗のすべての法には、外魔と他の鬼神が邪魔できないよう結界、つまり清浄な修法壇城がある。だが、施身法には結界がなく、完全にオープンだ。しかも、修法者は自身を保護するための聖物を一切身に付けない。すべて外さなければならない。それは、衆生が修法者が保護物を身に付けているのを見て、怖がって来られなくなると困るからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが前に黒い垂簾がある法帽を被るのを、あとで目にするだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を見るのが怖いのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの目を見るのを衆生が恐れるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの目は何も特別ではない。普通の東洋人の目だ。だが、修法時には修行人の目に光が出現する。衆生はこの種の光を恐れ、来なくなるので、目を遮るのだ。目を遮っているからといって、そなた達が下でおしゃべりしているのを、リンチェンドルジェ・リンポチェがはっきり見えないなどと思ってはならない。やはりはっきり見えるのだ。はっきり見えないなら、法本を唱えることなどできるだろうか?

施身法を修めるには、法器が必要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの法器は尊勝なる直貢チェツァン法王がこの一世と前の一世でお使いになったもので、人の腿骨を用いて作ったものだ。密宗は何故しばしば骨を用いるのか理解できず、不気味に思っている人が多い。だが、どんな骨でも使えると言うわけではなく、非常に厳格な規定があるのだ。通常この種の法器は代々伝えられる。仏教文物専門店で何個か買ってくると言うものではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの種の法器を見たことがあるし、検査したこともある。だが、すべて役に立たないだろう。腿骨法器は必ず女性信衆の腿骨でなければならない。なぜならマチク・ラプドゥン尊者が女性の方で、特定の形状があるからだ。しかも、この女性信衆は不慮の事故で死んでいなければならない。今日手に入れるのは非常に難しい。なぜなら、チベット人だけがこの種の腿骨を供養するからだ。台湾では完全な遺体でなければならないので、供養しない。よって、チベットでなければ、この種の腿骨を手に入れる機会はないのだ。この種の腿骨には規定された形状があり、上面には護法がある。適当に墓を暴いて一本取ってくればいいというものではないのだ。それでは、吹いても音は出ない。

なぜ腿骨を用いるのか?それは、三悪道の衆生を超度させるには、同類のものが彼らを呼んでいると感じさせる必要があるからだ。彼らはそれを聞くと、ここにはいいものがあるぞ、食べに来い、と呼んでいるように感じ、やって来る。もし、とても厳粛な音だったなら、彼らはやって来ないだろう。非常に慈悲に満ちた音でも、彼らが来るとは限らない。なぜなら、彼らが知らない音だからだ。犬には犬の吠え声、ネコにはネコの鳴き声があるようなものだ。修行がうまくいけば、この腿骨は非常なる力を発揮する。だが、今のところは、どうすごいのかは教えない。

法会に参加するには、第一に懺悔の心が必要だ。懺悔心とはなんだろうか?自分の過去の過ちに責任を負うと認め、懺悔すればそれでいいなどと思わず、絕対に受け入れ、認め、責任を負い、二度と再び為さないと悔いる。第二に慈悲心が必要だ。法会に参加するのは、自分の何かの欲望のために祈るのではない。法会に参加すれば商売がうまく行く、良い彼氏に巡り会えるなどと考える。瑪吉拉尊尊者が、これらのことでそなた達を助けてくださることは絶対にない。第三に恭敬の心が必要だ。貪嗔痴を消したいなら『常念恭敬観世音菩薩』と『普門品』にははっきりある。『常』は永遠、『念』は念頭であり、『恭敬』は最も大切だ。ここでいうのは、受け入れ、聞き入れなければならない、ということだ。つまり、仏法は我々を騙すのではなく、我々ができないに過ぎないと信じるのだ。

『恭敬』のもう一つの意味は供養だ。恭敬心がなければ供養心もない。一切の福報はすべて供養から生まれる。寶吉祥仏法センターは功徳主により法会を開催するのではないので、供養、つまり恭敬の心は非常に重要だ。恭敬とはなんだろうか?恭敬三寶と言う。法の出現は非常に有り難いことであり、行者の修法を得られるのも非常に有り難いことだ。生生世世でも得難い事なので、恭敬でなければならないのだ。また、一切の衆生に恭敬でなければならない。それは、衆生がいなければ、今日ここに来たはずがないからだ。この男は毎日そなたを泣かせるにしても、そなたは彼に対して恭敬でなければならない。なぜなら、そのおかげで、そなたは仏法に触れることとなり、未来の人生を変えることができたのだ。この男性に感謝するために、会いに行くべきだろうか?それは不要だ。なぜなら彼は学仏していないので、そなたが会いに行けば、奇妙に思うだろう。心の中で感謝しているだけで良い。

恭敬とは、誰が自分を害している、自分を捨てた、自分を遠ざけたと考えないことだ。これは全てそなたの考えだ。実は、そなたが相手を捨てた可能性もあるのではないか?世間のゴチャゴチャとややこしい事は、すべて自分の念頭が決めているのだ。懺悔心、慈悲心、恭敬心はどんな法会に参加する際にも必要だ。顕教、密法、法王、リンポチェ、ラマなどと区別せず、行者が修法するなら、その時の心は清浄でなければならない。読経がいくら、経典がいくらなどと言わないなら、それは清浄だ。そなた達には、修法者の果位を知る資格は全くない。なぜならそなたと修法者とは違うからだ。修法者がどの程度まで至っているかをどうして知ることができるだろうか?だが、行者が法座に上れるなら、それは絕対に能力があるのだ。特に密法、施身法ではそうだ。

直貢噶舉のアキ護法は身体に一本の腿骨を挿しておられる。なぜなら施身法を修め成就されたからだ。どうして恭敬心を起こさなければならないのか?なぜなら、こうしなければ、一切の衆生を救う福報ができないからだ。冤親債主であろうと六道衆生であろうと、こうしなければ救いを得ることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日は特にたくさん開示した。なぜなら初めて来た人が多いからだ。開示するものはすべて、年寄りの繰り言だ。だが、仕方がない。どう言ったところでやはりこうなのだ。所知障はやはり非常に深刻だ。

近頃いくつかの家族が法会への参加を禁止されている。リンチェンドルジェ・リンポチェは最近新しい技を考えた。皈依して長くなる弟子、家族の中に皈依した人が多いほど、罰を重くする。家族全員の出入りを禁止するのだ。どうして家族全員が来られないのか?なぜなら家人はいっしょに学仏しているからだ。普段しっかり仏法について話し合わず、どんなことでもリンチェンドルジェ・リンポチェに処理させる。これは家族間でお互いに関心を払っていない証拠だ。家族に対してさえ関心が払えないなら、どうして衆生に心を寄せられるだろうか?ある弟子は一家揃って出入り禁止だ。また別の弟子も、叔母を含めた家族全員が来られない。さらに別の三人の弟子も家族すべてが参加を禁止されている。

寶吉祥仏法センターは興味深いところだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が多いのを好まない。なぜなら、そなた達が如法学仏せず、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養したなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは悲惨なことになるからだ。どうやってそなた達に返せばいいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依師であられる滇津尼瑪リンポチェは往生の2年前からまったく供養をお受け取りにならなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェとお側の2人の弟子の供養だけはお受け取りくださった。どうしてお受け取りにならなかったのか?なぜなら、そなた達が学仏しないのを目にし、そなた達のために戻って来るのでは、あまりにも大変だと思い、よってお受け取りにならなかったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、ドラブ・ワン・リンポチェが、ある台湾信衆の供養をお受け取りにならなかったのを、この目で見たことがある。信衆はドラブ・ワン・リンポチェの面前に跪き、手には紅包(祝儀袋)、哈達を捧げて供養しようとするが、ドラブ・ワン・リンポチェはどうしてもお受け取りにならない。そなた達も知っておろう。リンチェンドルジェ・リンポチェもしばしば供養を受け取らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が開示する仏法がどれほど殊勝だなどとはとても言えないが、開示するすべては仏、直貢チェツァン法王がお教えくださった仏法だと言う自信はある。リンチェンドルジェ・リンポチェが言っても、そなた達は聞き入れず、着実に行わず、一日中加護を求めている。それなら家に帰った方が良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは今、いくつかの家族に団欒の喜びを与えている。普段彼らは日曜日に法会に参加しなければならず、時間に追われ、さらには叱責もされ、床に2時間余りも座り、動いてはならないばかりか、居眠りをしてもならない。なんと大変なことか!よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに家族団欒の喜びを与えたのだ。彼らは日曜日家族揃っていっしょに過ごせ、良い事がきっと起きるだろう。

どうして家族全員が皆来られないのか?父母が学仏を開始し、一人また一人と連れて来たのは、仏法が彼らにとって良いと思ったからだろう。それなのに、彼らが改められていないのは、父母に何事かがあるということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子を例としよう。息子はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後も、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で他人の事を話していたので、昨年より今に至るも出入り禁止だ。大晦日の食事会にも帰宅させなかった。なぜなら、息子は両舌、悪口の戒を破ったからだ。そなた達は一日中この戒を破っている!家の中で怒りまくり、両舌と悪口の戒を破っているのではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェは身を以って示す。自分の子供だからと言って甘やかしたりしない。子供であっても皈依すれば、弟子だからだ。

家族揃って同一の上師の門下に皈依し学仏すれば、家族であっても同門の兄弟弟子だ。それなのに、お互いに励ましあって改めたりせず、上師に丸投げするのか?上師は他の人を助けなくとも良いのか?助けているのは、すべてそなた達ではないか?そなた達は利己的に過ぎるのではないか!弘法しないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても快適だ。自分で修めるなら、天を見ても修められる。それなのに、なおそなた達のために修めなければならないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日罵っているのは、そなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェに対して良くしてもらいたいからではない。聞いたことがないだろう。あっという間に数十人を出て行かせたのだ。それによって、少なくとも数十個の紅包をもらい損ねてしまう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは要らないと言ったら要らないのだ!聞き入れないくせに、来てどうするのだ?

中でも一人の弟子はメチャクチャだ。彼は法務を司っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの日本の道場へ行き、リンチェンドルジェ・リンポチェには全く聞きもしないで、すべての天馬を変えてしまったのだ。彼は、開光時にはこうだから、というのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは高齢だが、彼とは違い、いつから天馬を挿すかをしっかり記憶していた。だが、彼は口答えし、しかも3度も口答えしたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは怒っているのではない。彼の所知障は、自分が知っているのはこうだと考えている。みな人としての道理を弁えているだろう。他人の家へ行き、他人の物を動かすなら、主人に聞かなければならないのではないか?だが、彼は聞かなかった。その結果、兄弟弟子がすべてを再び挿し直すことになり、彼はこれら兄弟弟子に借りを作った。今はまだ時が至らないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に、これら兄弟弟子に連続十日間食事をおごらせようと考えている。なぜなら彼は、これら兄弟弟子に挿し直しをさせ、借りを作ったからだ。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに聞くことができたのに、聞かなかった。すべてやってしまった後に、彼がすべて変えてしまったことをリンチェンドルジェ・リンポチェが発見した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の弟子だ。直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェがすでにリンポチェまで証したと確認くださっている。直貢チェツァン法王は、行うべき事をリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝え下さる。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんなやり方が直貢チェツァン法王がに良いと分かっていても、先ずはお伺いする。これこそ他人を尊重する姿勢だ。現在、台湾では尊重が欠けている。そのため、人命が軽んじられている。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年の旧暦の正月、今年は地震と火山の爆発が非常に多く、今年は呼吸器と肺の病気が多いとみなに告げたが、その通りになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責するが、やはり哀れに思うので、冷たいものを食べたり飲んだり、冷蔵した或いは冷たい果物を食べたりしないよう、皆に勧める。さもなくば容易にこの病を得るだろう。この病に罹らなくとも、絕対にすぐ風邪をひく。

自分は太平の日々を送っているなどと思ってはならない。今年はあまり良い年ではないのだ。訳も分からずまた一人の子供を殺してしまった。これは共業なのだ。殺業はあまりにも重い。小さい頃から殺し続けていれば、命を大切にしなくなる。中国の倫理道徳が我々に他人に対する尊重、親孝行を教えるのは、人は簡単に誘惑に負けるからだ。一旦誘惑に引きずられてしまえば、引き戻すのは非常に困難だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日みなに施身法を修めたが、それは非常に大変なのだ。とてつもなく厚い超度リストに、少なくとも4000人分がある、その中にも歷代の祖先が書いてあって、一家族で何人分か分からないほどだ。一家族で何人分か分からないほどだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に金のことは言わない。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに感情的なものを言わないでほしい)。だが、恭敬するべきだ。三寶に恭敬するべきだ。過ちを恐れる人ほど過ちを犯す。なぜ過ちを犯すのか?なぜなら、過ちを犯したくないと思う、これも欲望だからだ。決まりを守って物事を行いさえすれば、どうして誤るだろうか?人が法を犯すのは、法を守らないからだ。人命に関わる不慮の事故は、すべて法を守らないことによる。仏法が我々に守戒を求めるのは、戒は我々のプロテクター、保護だからだ。戒体がないなら、一切何もない。リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は二言話しただけで、今まで罰せられている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの子供だったおかげで罰を受けられたので、この二言の果報を減らすことができた。

どうということもない、と考える者もいるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの母も、息子を大晦日の食事会のために帰宅させるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェを諌めた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは動かされなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは『仏子行三十七頌』を修めたが、その中では親族は『親方貪心如水盪』とある。我々の一生の恋人、夫婦、子女はすべて縁なので、縁生縁滅だ。我々が責任を尽くしてそれらを助けても、相手が守戒しないなら、心を改めない限りは、それ以上関わらない。自分の過ちに気づいたからこそ、改めるのだからだ。我々は自分を甘やかしてはならないし、自分の子供を甘やかしてはならない。今日の社会がこんなにも問題が多いのは、小さい頃から甘やかされ、しつけられていないからだ。経典では、父母が子供をしっかり躾けないなら、その父母は地獄に堕ちるという。子供ではない。なぜなら子供は知らないからだ。父母が小さい頃から教えた通りに、子供は大きくなってから振る舞う。

どうして家族全員が出入り禁止なのか?それは、父母が子供が小さい頃からこのように教えた結果、子供がそのように育ったからだ。よって家族全員出入り禁止なのだ。そなた達は、子供の業障が重いと思うだろう。だが、業障が重くなければ、どうしてそなたの家に生まれただろうか?業障が重いからこそ、そなたの家に生まれたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは身を以って示す。自分の子供に対しても同じだ。子供はリンチェンドルジェ・リンポチェの姓を名乗っているが、守戒しないなら、出て行かせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子供であっても出て行かせるのだ。弟子については言うまでもない。弟子は子供より大切だ。なぜなら少なくとも学仏しようとしているからだ。だが、弟子が守法せず、如法せず、守戒しないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは同じように彼らを出て行かせる。そなた達の皈依時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに開示している。後出しじゃんけんではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて先にはっきり言った後で動作している。教えずに罰しているのではない」と仰せになった。

この時、子供が泣き出したので、リンチェンドルジェ・リンポチェはその子の親に「子供は暑がっている。そんなにしっかり抱いてはならない。子供は汗をかき続けている。少し水を飲ませれば良い。子供が泣けば業障が消えると思わないで、しっかり世話しなければならない。子供は祖先を目にしたので泣いている、などということもない」とご指示になり、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに「やはり出家の方が良い。面倒が少ない。在家衆は面倒なことが非常に多い」と仰せになった。修法前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率い、非常に短い禅定をお修めくださり、みなの心をお静めくださった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる直貢噶舉施身法の修持を始められた。修法の過程で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わず、長時間鈴や鼓を鳴らし修法くださり、参会者を率いて六字大明咒を唱えられた。慈悲なる荘厳な法音は虚空を揺さぶり、無数の有情に利益した。参会者は懺悔心、慈悲心、恭敬心で法会に集中し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの撮受力に衷心から感謝した。上師の殊勝なる仏法加持を領受し、多くの弟子が知らず知らずの内に満面を涙で濡らした。

修法が円満となり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは貴重な仏法の開示を継続して下された。

「リンチェンドルジェ・リンポチェが修法時に唱えた音声を、帰宅してから真似してはならない。これは密法だ。この音声には説明が必要だし、理由があるのだ。みな好奇心に駆られているだろう。みなの好奇心を少しは満たすことができるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェは一点だけ教えよう。この音声は我々が往生する時に非常に有用なのだ。どのように用いるかは、教えない。

2007年時、リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールの標高4500m余りの大雪山で閉関した。その地はミラレパ尊者が修行なさった聖地だ。6月初旬の頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは夜中にふと目覚めたが、心拍も呼吸も止まっていることをはっきり意識した。これがそなた達なら、『大変だ!言い残していないことが沢山ある』と思うだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェにはたくさんの『大変だ』の考えはない。ただ、アキ護法に『リンチェンドルジェ・リンポチェを残せば有用だとお考えなら、リンチェンドルジェ・リンポチェをお残しください。リンチェンドルジェ・リンポチェを残しても役に立たないとお考えなら、どうぞお連れください!』と申し上げた。

残せば有用、とは、残すことにより、衆生、仏法、教派にとって利用価值があるかどうかだ。衆生にとって利用価值がないなら、連れて行っていただいだ方が良い。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに楽に死に向かい合えるのか?それは、施身法とポワ法のおかげだ。漢方医である弟子は知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは少し前に事切れそうだった。その弟子が、リンチェンドルジェ・リンポチェに鍼灸を施す時、リンチェンドルジェ・リンポチェは弱々しい声でなお『娘に体罰を与えてはならない』と彼に言っていたのだ。

修行とは何を修めるのか?現在の何らかの利益のためではない。大切なのは、往生する時のためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を修めて以来、すでに三度の死の過程を経た。人は普段どれだけ有能で、どれだけ学び、どれだけ修めたとしても、この種の経験をしたことがないなら、その時に至ればやはり恐慌と恐怖の心を抱く。それは、死ねばどうなるかを知らないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは適当なことは言わない。リンチェンドルジェ・リンポチェの心拍と呼吸が止まる前は、4月から閉関を始めた。尊勝なる直貢チェツァン法王の関房はリンチェンドルジェ・リンポチェの関房の隣りで、しかも、直貢チェツァン法王は一度も関房を離れておられず、リンチェンドルジェ・リンポチェに食事を届ける侍者に『リンチェンドルジェ・リンポチェは食事をしたか、トイレに行ったか?』と毎日尋ねておられた。ところが、リンチェンドルジェ・リンポチェが一度死に、死にきれなかったその日の後、直貢チェツァン法王は何も尋ねられなくなり、その後は別のところへ行ってしまわれた。

当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、アキ護法が現れ、リンチェンドルジェ・リンポチェに甘露丸をくださったのをはっきりと目にした。これにより、リンチェンドルジェ・リンポチェの心拍はすぐに回復したのだ。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは科学チャンネルの番組で見た。高山気候で心臓が突然止まるのは、普通健康な人で、弱々しい人は反対に死ぬことは少ないということだった。医学的には、普段健康な人は、たくさんの養分を吸収することに心臓が慣れているので、酸素が突然減ると、心臓が適応できないということだ。修行人の修行過程では、どの過程でも障礙と試練が出現する。そなた達においては、死に至るような、そんな恐ろしい試練はないだろう。愛しただの、愛されただの、その種のことだけだ。

ある弟子は現在法会に参加できない。少し前、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼と話していて、娘は最近どうだと聞いた。すると、大喜びで娘について話し出した。この弟子がこんなに嬉しそうなのを見たことがないほどだった。みなも、彼がこんなに嬉しそうに笑うのを見たことがなかっただろう。彼はその日は娘のことをとても喜んで話し出した。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子の癖を知っていたので、彼が話し終わるのを待って、娘は帰って来てもリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ない、といった。するとこの弟子は『来ていました。ただちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座におられなかったのです』と言った。彼がこのように言うのは、娘のための言い訳だ。海外留学している学生も、帰国すればなんとか機会を作って、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来るのに、彼は、娘は不要だと思っている。しかも、彼はほんとうに全身全霊で娘を甘やかしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に『修行人は子供に対して責任を尽くし、甘やかしてはならない。さもなくば、この世を去る時去り難くなる』と告げた。

この弟子の妻は宝石店に勤めている。宝石店では、一種の礼儀として、従業員は薄化粧しなければならないと規定している。それなのに、この弟子の妻は毎日スッピンで出勤している。この弟子は金を全て娘に注ぎ込んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、金がなくて妻に化粧品を買ってやれないのではないか、と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は彼の妻に化粧品を買ってやる資格はない、と伝えたのだ。なぜなら、妻はこの弟子の妻だからだ。だが、彼が金がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは貸してやることができる。彼は、金はある、と答えた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは、一ヶ月法会へ来なくとも良いとこの弟子に告げた。

広東人は『入門嫁,落地孩児』という。嫁いできた嫁はすぐ教えなければならない、という意味だ。だがみな、嫁いできた嫁を先ずは怒らせないようにしよう、嫁は気が強いかどうかを見極め、気が強いなら嫁に譲り、気が強くないなら教えようと、考える。しかも子供が小学三年生にもならない内に躾を止める。昔の人の言うことを聞かなければならない。嫁を教えなければならないのは、違う家庭から来たのだから、新しい家の習慣を教えなければならないからだ。嫁はそなたの家に来たのだから、しっかり伝えなければならない。嫁が聞き入れるかどうかは分からないが、みな連れてきてから考えようという態度だ。

最近一人の女性信衆が皈依を求めてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の皈依を受け入れたくないとずっと思ってきた。それは、彼女の夫にいくらか問題があると知っていたからだ。だが最後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは哀れになって皈依を受け入れた。ところが、彼女の夫が起き上がり、リンチェンドルジェ・リンポチェに向かって『俺に代わって、しっかり教育してくれ!』と言ったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は騙されたと思った。なぜなら妻は彼が自分で娶ったのだし、彼と暮らしているのだ。だが末法時代の今はほんとうに仕方がない。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェは言い返すことができなかったので、一時的に忘れていた。だが後になって考えれば考えるほど、おかしいと思った。どうして、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の妻を教育しなければならないのだ?

今日リンチェンドルジェ・リンポチェはみなに施身法を修める。末法時代はほんとうに事態が多いため、みなが真に断悪行善できることを願うからだ。金を稼ぐな、というのではない。金はやはり稼がなければならない。金を稼がないなら、日常生活を送ることはできない。だが金儲けは合法的であり、道徳的であり、稼ぎは少なくなっても構わないが、問題があってはならないのだ。金儲けできるのは自分の福報だ。理に適わない金で、非合法な金なら、稼いではならない。社会で仕事に従事している人は、自分ができるだけ速くできるだけ多く儲け、できるだけ速くある程度になれることを皆望んでいる。どこにそんな都合のいいことがあるのだ!成功するには、非常に大変な過程を経なければならない。金儲けの才能があろうがなかろうが、自分が稼いだ金は他人を騙したものではないだろうか、良心を用いて稼いだものだろうかに注意しなければならない。また、この種の金でなければ手元に残ることはないだろう。良心を用いて稼いだものではなく、しかも殺業によるものなら、この種の金は良くない金だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはみなに施身法を修めるが、それはそなた達に加護を与えるのではなく、そなた達の思想を変えるのだ。他人の金を騙し取ったなら、ほんの少しであろうと、必ず返さなければならない。しかも倍にして返さなければならない。どうということもない、などと思ってはならない。相手ははっきり分かっていないようだと考え、騙す。みな因果を深く信じなければならない。一匹の蜘蛛を殺しても、手が折れるのだ。母が鶏の卵巢を食べさせた結果、彼女は病気になった。因果とは非常に明確なのだ。あとで考えよう、などと思ってはならない。為したのであれば、あとで、などないのだ。先ずはこの金を儲けて、後でゆっくりと改め、今後は良い事をしよう、などと思ってはならない。もしそうでも、後で行われる良い事は一つ、悪い事はまた別の一つだ。とても明確なのだ。

良いことと悪いことは相殺できない。二本の平行線なのだ。一切の悪を停止しひたすら善を行えば、悪の力は初めて減少し、さらには消してしまうことができる。もし、二つの善を行い、一つの悪を行うなら、それでもある。歷代の祖師、諸仏菩薩は絶えず我々に仏法をお教えくださる。それは、衆生が苦しまない事を望まれだ。そなた達は今日いくらかの因縁福報があり仏法を聞くことができ、しかも密法の修法を得た。これは非常に有り難いこと、容易でないことなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を必要としている、と思っているだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは何一つ不要だ。68歲まで生きたのだ、それで十分だ。そなた達が決心を下さないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが決心する。一家族ずつ出入り禁止とするだろう。

下に座って、得意気に喜んでいる者がいる。自分の家で皈依しているのは自分一人なので大丈夫だと思っているのだろう。もしそうなら、また別の事があるだろう。そなたの家人が改められず学仏に来ないのは、そなたが彼らを変えられないのではなく、そなたが自分を変えないので、家族が仏法の殊勝を感じて学仏しようと思うことがないからだ。以後そなたに何かがあれば、これら家人はそなたの巻き添えだ。我々は必ず自分を改め、徹底的に改めなければならない。一時の貪念のために、この一生で補うことができない過ちを犯してはならない。しかも、それは次の一世まで引きずるのだ。

そなた達も見ただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしても死ねない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに長生きしたいと望んでいるのではない。2007年のあの日、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しの恐怖も感じなかった。ただ、アキに『役に立たないなら、お連れください!』と軽く申し上げただけだ。アキは浄土をお持ちなので、我々はひたすらアキを修める。アキは同じように我々をお連れになる。当時、アキはリンチェンドルジェ・リンポチェをお連れになろうとはなさらなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの体重が軽過ぎたのかもしれない。そのため、アキは軽過ぎるので、連れて行かないでおこうと思われたのかもしれない。

学仏するなら、当然善の方向へと進み、良くならなければならない。だが、大切なのは一切の悪を断つことだ。ゆっくりとやろう、などと思ってはならない。旧暦の一日と十五日や朝食の時だけ菜食するという人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそのような人には、旧暦の一日と十五日、或いは朝食だけの仏法を与える、と告げる。その他は彼らの分はないのだ。このようなものはない!経典では十斎日というが、これはこの十日間だけ菜食するという意味ではない。この十日とは閉関の期間なのだ。よって、十日間菜食すれば、他の日は普通食でも良い、外では不便だから、などと信衆に言ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この種の言い方を嘲笑せざるを得ない。外で菜食するののどこが不便なのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは世界中どこででも便利に菜食できている。

十斎日とは、この十日間閉関して八関斎戒を守れれば、その功徳は倍になるということだ。この十日は、天界と星宿の善のエネルギーが地球に来るのだ。この十日間菜食するというのではない。たくさんの人が仏法を適当に解釈している。方便は良いが、適当ではない。いわゆる方便法とは、例えば、台湾では中国語で話さなければみな理解できない。日本では日本語で話さなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本語が話せないので、通訳を雇うということだ。方便とは適当ではない。そなた達の考え方に応じて仏法を解釈するのではない。仏は一ヶ月のうち十日を選び菜食せよなどと仰せではない。他の日はどうするのだ?他の日は、動物を殺しても良いというのか?

斎とは菜食の意味ではない。守戒のことだ。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは一つの翡翠を持っていたが、なくしてしまった。上には『斎戒』と書いてあった。かつては閉関する際、比較的良い者は、この札を外に掛けていたのだ。これにより、その日は閉八関斎戒なので邪魔をしてはならない、と示していた。現在たくさんの人が仏法に間違った解釈を加えている。『十斎日とはこの十日間菜食することだ』と信衆に言ってはならない。経典はこのようには言わない。十斎日が十日間の菜食のことなら、どうして経典は『斎』というこの字を用いるのか?菜食とは斎を食することなのか?そうではない。斎戒とは身口意を清浄とすることなのだ。みなはっきりさせなければならない。さもなくば信衆を間違った方向に導いてしまう」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向儀軌を修持くださり、修法後に継続して開示を下された。

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2016 年 04 月 30 日 更新