尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年6月9日

台北台北寶吉祥仏法センターにて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ主催の共修法会が行なわれた。法会が始まる前に一人の弟子が母親が救われた経過を皆に分かち合う機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べ、自分の悪行について懺悔した。

続いて、台北寶吉祥仏教文化交流協会の理事長より報告があった。

6月3日は祖師ジッテン・サムゴンの記念大法会が開催された。午前11時、顕教の出家者が会場の外にいた。彼は入場券がなかったので入場できなかった。これを彼は非常に不満に思い執拗に入場したがり、密教は顕教によって支えられている等の無作法な事を言っていた。皈依して十数年のグループリーダーである男性弟子がその時現場にいたが、責任を尽くさず、この件について適当な処理を進んで行なわず報告もしなかった。もし尊きチェツァン法王に対し不敬を働く者があったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェツァン法王を守る為に命さえも惜しまないだろう。しかし、この男性弟子は何も反応しなかった。ましてや今年は初めて開催された大法会ではなく、この男性弟子は長年法会の開催に携わっていて経験があったのにもかかわらず、こんなに簡単な事に出くわしてもうまく処理できなかった。無作法なことを言う者を見ても、何も行動を起こさないばかりか人に責任を押し付けようとし、責任を取ろうとしなかった。理事監事会議の話し合いで、この男性弟子のグループリーダーの職位を解除することが決議され、別の弟子が任務に当たることになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、列席者に向けて貴重な仏法を説かれた。

釈迦牟尼仏は多くの御経を説かれた。あらゆる仏典の中で三宝を恭敬するようにと衆生に語られた。一切の御経は、最終的には私達が将来生死輪廻を解脱し、浄土に往生するか善道に往生することを助ける。どうやって成し遂げるのか?懺悔の礼拝、御経の念誦、仏を礼拝することが修行なのではない。これらは単に仏法を学ぶことの助縁となるだけである。即ち、皆に仏法を学ばせる助けとなる縁である。しかし、本当の修行ではない。修行で最も大切なことは自分が本当に三宝を恭敬しているか否かにある。三宝は仏、法、僧である。私達の心は仏法を完全に敬わなければならない。若干の動揺もあってはならない。三宝を恭敬する人こそが仏法を生活に完全に溶け込ませることができる。なぜあなた達に絶対に三宝を敬えと言うのか?それは、三宝に恭敬心のない人は簡単に怠け、いい加減な事を言い、いい加減に修行するからである。

例えば小学校に上がる時も試験に通過してこそ学ぶ資格ができる。必ず学ぶ心が必要だ。基準に依らなければならない。同様に、浄土への往生もあなた達が思えば行けるのではない。条件に符合しなければならない。「阿弥陀経」の中で説かれる通り、浄土に往生する者は福徳因縁を必ず有する善男子、善女人だ。善は良い人、良い事をした人を指すのではない。十善法を修する人である。十善法はまず、不殺生。まだ肉を食べているなら慈悲心を修していない。いかに仏法を学ぼうとも役に立たない。先ほど法会の前に分かち合った弟子が、彼の母親は既に顕教に皈依しており菩薩戒を受けているのにまだ肉を食べていると言っていた。彼の母親は生前にリンチェンドルジェ・リンポチェに何度も会っており、沢山の加持を授けられたが、殺生をし悪行を続けていたため、臨終前に肛門から出血した。

仏法は因縁を語る。もし衆生が仏法を信じないなら無縁である。仏法を学んだ後は仏の説かれたことに基づいて行動する。依教奉行(教えに遵って行動する)こそが基準だ。仏教は宗教ではない。仏は宇宙一切に本当に発生した事を説かれた。先週分かち合った女性弟子の夫は科学者だった。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に正のエネルギー、負のエネルギーををどうやって説明するのか、どうやったら負のエネルギーを正のエネルギーに変換できるのかと聞いた。結果、彼は科学を知っているのに言葉に詰まっていた。実のところ仏法では、正のエネルギーは善行を行なうことによって生じ、負のエネルギーは悪行によって生じる。善行は善の力が生じ、悪行をせずにずっと善行をすれば非常に大きな善が累積され、これによって悪果を圧して抑えるか悪果を生じさせないようにする。御経は、皆が諸々の仏菩薩の教えに遵って行動することを望まれると説く。だから、必ず修行して成就しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の修行の経験より、御経に説かれる事が全て真実であることを知っているのであなた達にこうするよう教えることができる。あなた達は話を聞くことさえもできない。法会に参加しても肉食を続ける。死後は最もよくて血を吸う鬼となるであろう。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは入口の外にいた女性弟子に道場に入るよう指示され、法話を続けられた。この弟子は皈依して4年余りとなった。以前はよく他の道場に行っており、嘗ては南部で有名な仏教団体内で文章を書き、お金を慈善団体に寄付していた。最近彼女の叔母さんが他界したが、他界する前に病気のために加持を求めていた。私は彼女に菜食しなければ加持の力を得られないと言ったが、彼女と家族は拒否した。叔母さんの夫が出家者を雇って助念(臨終後の念仏)したいと言ったので、彼女は自分で出家者にお願いしに行った。自分ではこの事を隠し通せると思い、グループリーダーには相談しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に、家族が他界した時は外の人に助念を頼む必要はないと話したことがある。もしあなた達の家族を済度してくれるリンチェンドルジェ・リンポチェが見つからなくても、あなた達は既に皈依していて、上師の加持と伝法があるのだから、自分で家族のために助念するのが最も良い事だ。それは、あなた達は他界者を助けたいと心から思っているからだ。

この弟子は別の団体の出家者を呼んで助念してもらっても問題ない、全て仏教だからと思った。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て説いたことがある。末法時代には附仏教の外道が沢山ある。手に金剛鈴や金剛杵を持つのが密法の修法ではなく、頭上に法帽を被って忙しくしているのが密教でもない。しかも、皆が済度する能力があるとは限らない。仏法を学ぶには御経に説かれた事に基づかなくてはならない。御経には人のために助念をして御布施をいただくことは説かれていない。また、あなた達は助念してくれた人に済度の能力があるかどうかを知る事もできない。他界者には鬼通もいる。助念をしてくれた人自身に徳がなく、済度できず、本当に助けられないのに御布施を受け取ったことを他界者が知ったら瞋念を起こす。瞋念が起きたらすぐに地獄に堕ちる。これではこの他界者を地獄に堕とすようなものだ。この女性弟子は寶吉祥仏法センターに出家者がいることを思いつかなかった。彼女の叔父さん(叔母さんの御主人)が出家者に助念してもらいたいと言ったら、寶吉祥仏法センターの出家者に頼んでも良い。その時彼らも皆にアドバイスをしてくれるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは今迄、寶吉祥仏法センターの済度が最良だとは言ったことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切を尊き直貢チェツァン法王の教えに遵って行なっているだけだ。

この皈依して4年余りの弟子は以前、仏教団体のために文章を書いていたので自分は仏法を理解していると思い込み、自分勝手で非常に高慢であった。リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた仏法を彼女は聞き入れず、叔父さんが出家者に助念をお願いしたいと言ったら、言う事を聞いて呼んできた。自分は会場に座ってリンチェンドルジェ・リンポチェを観想すれば他界者のためになると思っていた。しかも、この弟子が助念をお願いした出家者は葬儀の時にリンチェンドルジェ・リンポチェを批判し、正しくない話をしたにも拘らず、彼女はその場に座ってその言葉をまた聞いていた。彼女は自分がその場を離れなかったのはその場に残ってリンチェンドルジェ・リンポチェを観想し叔母さんを加持して頂くためだったと説明した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは今迄に彼女に観想を伝授したことはなかったのに、どうやって観想するのか?続いて、彼女の他界した叔母さん自身、菜食もしておらず、修行もしておらず、請い求めることもなかったのに、リンチェンドルジェ・リンポチェはどうやって加持を与えて浄土に行かせたらよいのか?あなた達の考えはとても奇妙だ。自分では修行せずに、何も行なわず、事が起きたら仏菩薩と上師に加持を求めればいいと思っている。だが、他界者自身、生前修行していないので因縁福徳がない。あなた達は家族の身であるのに他界者が福徳を積むよう助けないのだから、仏菩薩と上師が助けようと思っても助けることはできない。

あなた達は仏法を学び皈依した後に善念を起こさずに悪行を続けるなら、つまり悪念を持つなら、生死輪廻を解脱することはできない。一切の悪念を断ち善念を起こし慈悲心を育て、仏菩薩と上師の教える次第に依って修行してこそ利益がある。あなた達が悪を断たず、善行せず、十善法を修さないのなら、御経に説かれる条件を満たす事はできない。皆は御経に説かれる事が真実であることを信じず、見ていないふりをし、聞いていないふりをする。

この弟子は自分の上師を人が批判するのを聞いても、阻止せずその場を離れることもなかった。この様なのですべての戒律が破られてしまった。あなた達は親戚の恨みを買うことを恐れるが、仏菩薩に申し訳ないことをするのは恐れない。修行者は義理人情を語らず、仏法に基づいて日々を送る。一切の事は仏法に基づいて行なう。孔子の儒教思想でさえ私達に教えている。誰かが自分の両親を批判するのを聞いたらすぐにその場を離れるべきだと。両親でさえこうなのだから、あなた達に仏法を教え生死輪廻を解脱させる上師なら当然ではないか?この弟子は孔子の教える人としての道理も行なえなかったのだから、仏道については言及する必要はない。誰かが自分の上師を批判したのに、弟子である者がまだその場にいる。出家者が批判したのは金剛乗の上師であるのだから尚更だ。あなたはそれを阻止せずその場を離れなかった。これは即ち悪に随い、人に悪口を行なわせ、地獄に堕ちる因を作らせたことになる。

この件についてのリンチェンドルジェ・リンポチェの説法は、他人の批判を恐れてしたのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは人の批評を今迄恐れたことはない。人が批判するのを聞いて逆に相手に感謝する。批判する人に出会うのは自分の過去において他人を批判したからだ。しかし、人に口業を作らせ、地獄の因を作らせてはならない。あなたが今日誤って通りすがりの人を殴ってしまったなら、ただの傷害罪で起訴されるだけだ。だが、もし一般人ではなく警察だったら、あなたの罪は傷害罪では済まされず、公務執行妨害罪等となり、すぐに多くの重い罪が加えられることだろう。同様に、凡夫と修行者を批判する果報の重さも異なる。この弟子は事が発生した後、終われば済むし、リンチェンドルジェ・リンポチェに知られる事はないと思っていた。意外な事に、この事を自分で言わなくても最終的にリンチェンドルジェ・リンポチェの耳に入ってしまった。彼女は懺悔をすれば済むと思っていた。この事は別の弟子から聞いたのではなかった。別の弟子の友人が彼女の叔母さんの葬式に参列し、この出家者がリンチェンドルジェ・リンポチェを批判しているのを聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家者が言っているような人ではないことを知っていたので、ちょっと尋ねた時に、この弟子がいい加減なことをし、災いを招いた事が分った。

その出家者はその場でリンチェンドルジェ・リンポチェは偽物のリンポチェだと言った。彼の言葉をリンチェンドルジェ・リンポチェは怒らない。リンチェンドルジェ・リンポチェの果位は尊き直貢チェツァン法王が確認して授けて下さったものだ。他人が本物か偽物かを言う必要はない。ただ仏菩薩と直貢チェツァン法王だけがリンチェンドルジェ・リンポチェの果位について語る資格がある。その出家者はリンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスをするべきではないと言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは在家だ。出家ではない。出家者は当然ビジネスをすべきでないが、御経には在家はビジネスをしてはいけないと説かれていない。まして、リンチェンドルジェ・リンポチェの生活費は全てあなた達の供養に頼っているのではない。逆に、現在は多くの出家者が御寺の中で仏教の名義でビジネスをしている。台湾にも物を売っているお寺が沢山ある。ビジネスもしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家であるのにビジネスをしてはならない?その出家者は仏法を学んだらビジネスをしてはならないと言った。実際のところ御経の中に取り上げられる「長者」はビジネスをしている在家者だ。維摩居士も在家の修行者であり、ビジネスをし、沢山の財産があり、結婚し奥さんと子供がいた。御経には維摩居士の周りには歌伎、舞伎もいたとさえ記載されている。リンチェンドルジェ・リンポチェの周りには歌伎や舞伎はいない。ただ大法会の時に八供養女が空行母の歌をリンチェンドルジェ・リンポチェに聴かせてくれるだけだ。だが、諸々の仏菩薩を褒め称えるそれらの曲をリンチェンドルジェ・リンポチェはただ代表して受け取っているだけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜこんなに沢山のビジネスをしなければならないのか?それは、多くの事にはお金が必要だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身がお金を必要としているのではない。多くの場所が助けを必要としており、一本の電話で数百万、数十万円が出て行く。これらの事をリンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に知らせなかった。しかも、あなた達が通常リンチェンドルジェ・リンポチェに供養したお金もリンチェンドルジェ・リンポチェは貯めておいて、必要があればそれに使う。リンチェンドルジェ・リンポチェは普段あなた達には言わないし、あなた達に募金させようとしない。ただ毎年大法会を行なう時、あなた達に募金させる。その他はあなた達に供養を要求することはない。あなた達はなぜはっきり言わないのかと言うかもしれない。この様な事はありすぎるし、数字が大きすぎる。もしあなた達に言うと恐がるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子にプレッシャーを与えることを望まない。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの弟子を養っている。あなた達は何も知らない。弟子が本当に困っているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは助ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達のプレッシャーとなる供養に頼りたいと思わない。ましてやあなた達は自分で考えて見なさい。自分が上師に供養するのは打算的だ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは自分のビジネスをして稼ぐことに頼っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが行なう全ては良心事業だ。弟子である者なら上師のやり方をしっかり心得ているはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが経営する日本食品店はコストを考慮していない。他の同業の社長は、リンチェンドルジェ・リンポチェが食品を有効期限の15日前に陳列棚から撤去し廃棄することを知り、リンチェンドルジェ・リンポチェのビジネス方式は不思議だと思っている。現在台湾はなぜ多くの食品が保存期限を変えているのか?それは良心がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェだけが有効期限の15日前に食品を陳列棚から撤去することを貫いている。撤去した食品は職員に売ったり弟子に食べさせたり人にあげることもない。直接廃棄する。食品は有効期限前に廃棄するのは、人がうっかり食べてお腹を壊したり中毒を起こすのを防ぎたいからだ。食べる物はとても重要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を理解しているので、人に中毒を起こさせたくないしそれによって人を害することもしたくない。食べた人が中毒になったらそれはとても悪い因となる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様にすると損失となることを知っているが、一貫した原則はやはり貫く。

リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ旅行社を経営しているのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは弘法のためによく出国するからだ。旅行者がないなら関連日程をどうやって段取りしたらよいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは今迄皆に、自分の商品に加持を与えている、購入したら加持が得られる等の話をしたことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、日本の食品には加持がある、宝石を身につけたらすぐに貴婦人になる、旅行社に参加したら空へ舞い上がるとかの話をした事があるのか?会場の列席者は頭を横に振り、「ありません」と答えた。皈依弟子であるなら因果をより理解しているはずだ。悪口を言うのを聞いたら相手を止めるべきだ。アキ護法は本当にすごい。この事が明るみとなったのはやはり彼女自身が語ったものではなかった。他の弟子の友人が葬儀に参加した後にその弟子に言い明るみとなった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でこの事を明るみにしてくれたアキ護法に感謝した。この様にリンチェンドルジェ・リンポチェはまた一つの負担を減らした。

多くの人は世俗心で修行する病気を犯している。自分の親戚が罪とならないように助けるべきだと思っている。ある皈依弟子は夫が経営している会社に人数あつめのために名前を貸し、自分が代表になっていた。現在問題が噴出し他人から告訴されたが、彼女は意外な事にリンチェンドルジェ・リンポチェの所にとんで来て問題はないか?と聞いた。十善法を修さないなら問題が起きないわけはないだろう。彼女は名前を貸すことは違法だということを明らかに知っているのに夫にこうさせた。違法は当然問題だ!彼女はもしかしたら、こう思ったのかもしれない。あれは他人がしたことだからと。だが、彼女が反対したなら他人も彼女の名前を使うことはなかっただろう。彼女は心の中で人数集めのために名前を貸す人が多く自分がこうやっても問題は起きないだろう、この事は自分でやった事ではないのだからと思っていた。その結果、事もあろうに問題が出て告訴されてしまった!この弟子の仏法を学ぶ心は保護を求めることにあった。仏法を学べば問題は起きないと思っていた。他人は過ちを犯してはならない、違法してはならない。だが自分の夫は構わない。彼女がこうしたのは因果を信じていなかったからだ。十善法を修さず貪欲である。すでに皈依して暫く経ち明らかに理解しているのに罪を犯した!仏法はこの様にあなた達によって滅亡させられてしまう!

皈依し仏法を学べば自分は必ず浄土に往生できると思っている者は多い。しかし浄土に往くと発願するのは別の事だ。本当に浄土へ往くには基準に符合する必要がある。顕教を学ぶ人の多くがいつも「阿弥陀経」を唱えている。その中に非常に重要な一言があるが、浄土宗を修する者の多くは注意しておらず、自分が往生すると発願すれば往けると思っている。御経の中には、浄土に往生する者は、必ず福徳因縁を有する善男子と善女人だと説かれている。善は良い人または良い事を行なう事ではなく、十善法を修することで、自分を輪廻させる行為を改め、仏法を生活の中に根付かせることである。間違った事をしたら、懺悔、或いは懺悔の礼拝、咒を唱え、念仏すれば悪業がなくなると思ってはならない。自分は既に懺悔したから悪い事が起こることはないと考える人も沢山いる。多くの人がこの様な間違った心の持ち様で懺悔の礼拝をしている。この様であるなら、御経はリンチェンドルジェ・リンポチェを騙したことになる。直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに苦労して修行する必要はなく、ケンポスや出家者も修行しなくてよいことになる。

浄土へ行きたいなら福徳因縁が必要であるが、皆はそれを信じず、自分の方法だけで物事を行ない、厳しく遵守しようとしない。自分の人生経験だけを用いて物事を行なう。法会に参加してもまだ肉食を続ける者もいる。当然ながら十善法を守らない。十善法を修さなければ福はなく、浄土に往くことは不可能だ。《無量寿経》と《観無量寿経》の中にも説かれているが、浄土は全て偉大な善人ばかりである。もしあなたが十善法を行なわないのであれば、どうやって往く事ができるのだろうか?浄土へ往くには必ず条件と資格に符合しなければならない。御経には、必ず福徳因縁を備えた善男子と善女人が往生を発願することが条件だと説かれる。五戒と十善は一切の善の根本である。基本的な五戒と十善さえも成し遂げられないなら、人としても根本条件さえも成し遂げていないのに、成仏の境地を修しようとするのか?それはまるであなたが綺麗な場所に行きたいと思っているのにお金があってこそ行けるのと同じである。浄土に往生したいなら十分な福徳が必要であり、それがあってこそ行く事ができる。十善法を少しでもしっかり修することができたら天道へ至ることができる。しかし、途中で高慢な心を起こしたなら阿修羅道へ往ってしまう。修行が少し劣るなら人道である。

十善法の最初は殺生をしないことであるが、現在もまだ肉食している者もいる。なぜあなた達に菜食させようとするのか?それは、肉食する人は必ず殺生業を犯す大きな機会を持ち、慈悲心を育てられないからだ。よって、会場には現在もなお肉食している信者がいるが、以後は来なくてもよい。何度も法会に参加したいと思ったり、ある日自分が理解できた時に菜食しようとは考えなくてもよい。仏法を学ぶとはすぐに悪を断ち善を行なわなくてはならない。肉食を続けることは、悪を行なっていることになる。因果を信じず、仏法を信じずに法会に参加しても役に立たない。最も良くて、来世で血を飲む鬼王となる少しの福徳が得られるだけだ。あなた達は今日、自分はなぜ仏法を学び、修行をしているのかを明確にしなければならない。加持を受け取るのでなければゴーイングマイウェイ、皈依したらどんな事もないと思う。仏菩薩は一度だけあなたを助ける。その後あなた達は自分で修行していかなければならない。あなた達がやろうとしないのなら、何のためにあなたを救うのか?だから、仏菩薩が厳格であるのは多くの事をはっきりと見ているからだ。なぜ仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェはただ一回だけあなたを助けるのか?心を改めないあなたを何度も救ってあげたら、あなたにもっと沢山の肉を食べさせる福徳を与えて、より多くの悪を行なわせる事になるのではないか?

《妙法蓮華経》には、仏菩薩は沢山の玩具を載せた二台の車を引いて来て、生死輪廻に苦しむ火宅の前で皆を引接しようとしたことが説かれている。皆は車に乗って少し遊んだ後車から降り、振り返ってまた火宅の中に急いで戻っていった。仏菩薩はあなた達を教え導くが、あなた達は受け入れようとせず、行動しようとしない。つまり無縁である。無縁であるので済度できない。一般世間には密教の修行者の閉関を死んだも同然の閉関だと批判し、人を助けるために外に出て来ないのであれば全く慈悲心がないと批判する者もいる。実際のところ、修行者は必ずしも人を済度するだけでない。六道一切の衆生は全て済度できるが、人は言う事を聞かず、強情で済度し難いので、先に彼に苦しみを味わわせてから済度する。今日この人達が話を聞かないのであれば横に置いておく。それは言ってもあなた達は話を聞かず、続けて話しても意味がないからだ。先に他の衆生を済度した方がいいだろう。天道、鬼道、阿修羅道等の眾生は皆済度できる。

直貢チェツァン法王によって書かれたリンチェンドルジェ・リンポチェのための長寿祈請文中にあるように、リンチェンドルジェ・リンポチェは善縁があるなら何処へでも行き済度する。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子がいないことを気に掛けず、貫禄があって、或いは弟子が多くて場面を支えることを気に掛けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子がいなくてもやはり修行し、同様に衆生を済度する。更に、修行者は仏法を必要とする善縁があれば何処へでも行く。善縁とは何か?いわゆる善縁とは、生死を解脱し輪廻を断ち切るために仏法を学ぶ決意をし、教えに遵い行動することのできる衆生のことである。

事もあろうに、皆は法会に参加することを参拝のように考えている。拝めばご加護があると思っている。十善法、《仏子行37頌》を成し遂げたかどうかを自分に聞いてみなさい。何のために拝むのか、他人に助念(臨終後の念仏)を唱えてもらって浄土に往生できるのか?十善法は人としての基礎であり基準でもある。また、《仏子行37頌》は仏に皈依した弟子が必ず成し遂げなければならないものだ。仏様が仏法を説かれた後の数千年来、どんな人でも仏の説かれたものに遵って行なったなら必ず成就する。リンチェンドルジェ・リンポチェは完全に上師と諸々の仏菩薩の教えに遵ったからこそ、今日のように少しの成果を修することができた。少し前に他界した皈依弟子も、話をよく聞いていたからこそ福徳因縁がありポワ法を得ることができた。当時彼は自分が癌にかかったことを知った時、自分も家族も事実を受け入れることができなかった。その後彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの教えを聞き、心を変化させた。彼は癌にかかり臨終するまでの間全くどんな痛みも感じることもなく、他界する時は、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼のためにポワ法を修法し浄土に往生することができた。出家した彼のお姉さんも彼が気に掛けている事に気付かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修法した時に、他界者が気に掛けている事を告げて初めて、彼らは知った。彼がポワ法を得られたのは、教えに遵って行動していたからである。また、彼には出家したお姉さんがおり、少し福徳があった。これもまた彼の因縁だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの加持は平等心で一切の衆生に与えるものだ。しかし、各個人の福徳と根機が異なるので異なる結果となる。あなた達が修行者を敬うかによって結果は異なってくる。夫のために名前を貸して告訴された弟子は皈依して長いが、夫に問題が出たら、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えをすっかり忘れてしまった。因果を信じず、行なってから考えればいいと思い、更に彼らに問題が出ないようにとリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いに来るほど面の皮が厚かった。アキ護法は本当にすごい。この件は全ての弟子に、明らかに知っているのに罪を犯す深刻性を教えた。

皆が支払っている税金を政府は公共の建設物に用いる。皆が税金を払わなかったら、如何なる事もできなくなってしまう。ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェと1000~2000万の契約をした者がいた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは悪に随いたくなく、人に違法させたり貪欲を起こさせる事をしたくなかったので、このお金を稼がないことにし、契約を既に交わしていたが、やはりキャンセルした。その女性弟子は、夫が違法な事をするのを明らかに知っているのに彼に名前を貸した。彼ら夫婦二人はこの様にして貪欲を起こし悪業をなし、一つの人を助ける事から貪欲を起こして悪業をなした。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは「この弟子は因果を信じていないので今後も密法を学んではならない」と指示した。

多くの人が言う。他の道場は寶吉祥仏法センターのようには厳しくはない。あなた達が法に基づかない事を起こした時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずあなた達を叱責する。あなた達は皈依しリンチェンドルジェ・リンポチェの下で弟子となった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子供であっても過ちを犯したら逃がす事はない。弟子なら尚更ではないのか?あなた達はこう言うかもしれない。「衆生を仏法に近づかせるべきだ。彼らはいつかは自分を改めるかもしれないから。」しかし、仏は無縁の衆生は済度できないとおっしゃっている。有縁とは何か?仏様の説かれる内容に随って行なうことこそが有縁である。衆生は話を聞かず、行なわないので無縁だ。《寶積経》に説かれているが、弘法する者は名聞利養のためにおべっかを言って信者に媚びへつらったり、仏法をねじ曲げてはならない。上師及び仏菩薩を代表し仏法を弘通させる身として、信者が法に随わない事をした時、絶対に妥協してはならない。尊き直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェがどの様に弟子を教えるかを知っている。寶吉祥仏法センターの教導方法は非常に厳しい古代チベットの方法であると公に述べられたことがある。チベット仏教は古代に印度からチベットに伝わったもので、一部分の顕教は隋朝から始まり、主には唐朝の時に中国からチベットに伝わった。古代の禅宗の弟子を教える方法は非常に厳しかったので、当時の教導方法が残っている。

釈迦牟尼仏は人を叱責しないと思ってはならない。御経には釈迦牟尼仏が弟子を叱責したことがよく取り上げられている。叱責の意味は現代の言葉を用いれば、怒鳴りつけ、口汚く容赦せずにののしることだ。仏菩薩は慈悲相を示し、慈悲は菩薩の本体であるため、皆に仏は慈悲深いと知られているが、法の伝授時に仏菩薩はこのような相を示すとは限らない。仏菩薩が慈悲をもってあなたに向き合ってもらいたいと願う時、それは一種の欲望であり、仏菩薩があなた達の考えを満足させてくれることこそが慈悲であると考える。仏法を学ぶ事は仏の思想、言語、行為を学ぶことであるが、現在、仏法を学ぶ人の殆どは御経や仏陀の教えに依らず、自分の人生によって法を体験して自分では仏法を学んでいると思っている。

仏典には末法時代に仏法を滅亡させようとする人が現れると説かれている。それはあなた達のような人だ!各人の仏法の学び方は、一部を取り出して自分勝手な解釈をし、自分の考え方でリンチェンドルジェ・リンポチェの説法を濫用する。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは、先ほど法会の前に分かち合った弟子の話を途中で止めさせたのか?それは、彼もまた、一部を取り出して自分勝手な解釈をし、いい加減な事を言ったからだった。この男性弟子の母親は別の道場に皈依し、菩薩戒を受けていた。加持を受けた後もまた肉食していたが、男性弟子は母親に菜食を勧めなかった。更に、「リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法で他人に教訓を与えてはならないと説かれた」とも言った。一部を取り出して自分勝手な解釈をした。リンチェンドルジェ・リンポチェが話したのはこの意味なのか?あなた達は既に皈依し仏法を学んでいる。家族の悪行を見たら、止めるよう勧めるべきだ。衆生の悪業に従ってはならない。

台湾の多くの人は三宝を尊重しない。あなた達は法輪常転を希望するが、信じる事はそんなに簡単ではない。あなた達が確実に行えば法輪は回転する。あなた達は発願すると言うが、願は発こしたいと思うだけでよいのではない。行動しなくてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前皆に「信、願、行」が必要だと話したことがある。皆は信じるだけで、発願せず行動もしない。また、皆は「聞、思、修」を成し遂げない。ただ仏法を聞くだけで思惟せず、自分の行為を改めない。仏法を学ぶ人は必ず仏法を貫ぬかなくてはならない。なぜ現在仏法を学ぶ者がこんなに沢山いるのに修行できないのか?それは、上師及び仏菩薩の教えに基づいて話を聞き実際に修行することをしていないからだ。仏法は宗教ではない。信仰でもない。修行とは、我々自身を輪廻に堕としめる行為及び執着させる習性を改めることである。習性を改める事は、生活習慣を改めることではなく、累世の輪廻の習性を改めることだ。仏法を学んだら生活に用いなければならない。あなた達の心の持ち様を改めないなら、ただ表面的な努力となるだけで役に立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に年老いている。今年既に66歳になった。以後は益々厳格になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を滅亡させたくないと願っているからだ。

寶吉祥仏法センターは正法を弘め、あなた達を生死輪廻から解脱させる場所である。弘法する人があなた達にニコニコしていることを希望し、仏菩薩と上師があなた達の要求を満足させてくれると思っている人は他の道場へ行っても良い。他の道場へ行かせようとするのは上師に慈悲心がないからではない。話を聞かないのは縁がないからだ。縁のない衆生は済度できない。皆は仏菩薩をいじめ、上師をいじめている。あなた達はこの様だ。あなた達は上師や仏菩薩は慈悲心が必要だから、あなたに対して良くしてもらいたいと思う。だが、なぜ他人があなたに良くしなければならないのかを少しも考えないのか?

ガムポパ大師は「三蔵経典は靄のたちこめる大海の如く広大であり、また、綿々と続く山脈の如くおびただしい数であるが、あらゆる内道の経典により解釈された道理をまとめたのなら、次の二つの内容となる。即ち、我々の来世を上善に生まれさせる『不了義の教え』と、我々が生を生じる事を浄化する『了義の教え』である。」三蔵経典とは経、律、論を指す。「靄のたちこめる大海の如く」は数量が非常に広大であることを指す。我々はその一生を終えてもその中の道理を理解することはできないが、上師は経験のある修行者であり、仏法を既に全面的に理解している。よって、仏法を学ぶには必ず徳を具えた上師の案内が必要である。

ガムポパ大師はこう説かれた。「一つ目であるが、私達を来世で上善に生まれさせる(上善生処)『不了義の教え』によって解釈した内容は、十不善行をなす因の過患と果の過患、十善業の因の利益と果の利益である。増上生を求める修行者は、十不善業を断ち切り、十善行を着実に実修することにより、最終的に必ず増上生の人天の果を得ることができる!」経、律、論は何れも仏法を学ぶ助縁となるだけだ。それに含まれる二つの内容の一つは、我々の来世を上善に生まれさせる不了義の教えである。「上善生処」とは天道、阿修羅道、人道であり、「不了義」とは、まだ輪迴の中にいるため生死輪廻を解脱できないことを意味する。

ガムポパ大師はこう説かれた。「二つ目であるが、私達が生を生じることを浄化する了義の教えによって解釈した内容は、決定勝の種性を備える三類補特伽羅(フトガラ)は、三乗の法門に入った後に、その助けを借りて本法門を着実に実修すれば、最後には必ず決定勝の三種の菩提の果を得ることができる!」ここで説かれる了義と不了義であるが、いわゆる「了義」は解脱できるものであり、「不了義」は完全に輪廻を解脱できないものであるが、私達を未来において善道に生まれさせる教えである。例えば、十善法を修するとあなたは来世では悪道に堕ちることはないが、恐らくまだ六道輪迴の中である。不了義の教えさえも受け入れず成し遂げられないのなら、生死輪迴からの解脱は語る必要はない。十善法の最初の一条の基準も守れないのなら、その事を言う必要はない。

また、我々が生を生じることを浄化するのが了義の教えである。浄化とは往生の障礙を取り除くことができる事を意味する。一般人は臨終時、自分の業力に随って生まれ変わる。悪業が多ければ悪道に生まれ、善行が多ければ善道に生まれる。観自在菩薩の自在とは、他界する時にどこに生まれるかを自分で決定できることを意味する。世間に戻って衆生を済度するか、或いは浄土に往生するかを決定できる。あなた達は仏法をただ次の世で畜生道に堕ちない福徳を積むためだけに学んではならない。我々は今世で修した果に基づいて、次の世でどこに生まれるかが決定される。一角度から言えば、必ず一切の十悪法を断ち切らなくてはならない。簡単に破戒してはならない。戒律が円満でなければ人道には生まれない。

仏法は仏の発明ではない。仏は宇宙一切の存在の真理を悟った。仏法を信じず、因果を信じない人は痴を犯したことになり、次の世では恐らく畜生道に堕ちることになるだろう。皈依した後は三悪道に堕ちることはないと思ってはならない。もし皈依後に因果を信じず、三宝を敬わないのなら恐らく悪道に堕ちることになるだろう。先ほどの夫のために名義を貸した女性弟子の如くである。彼女は仏法に従わず因果を信じないので、恐らく畜生道に堕ちることだろう。しかし、彼女は皈依し仏法を聴き、いくらかの福徳を累積したので、次の世では恐らくペットの犬か猫になるだろう。宝石を身につけた福徳のある動物だ。あなた達が因果を信じず悪を断ち切らないのなら、あの様な主人の財産を受け継ぎ、身体にルビーやサファイヤを身につけた犬や猫になるだろう。現在この様なペットが沢山いるが、この様に生じたのだ。嘗て仏法を学んだがしっかり修さず、悪を断ち切らずに善行するなら、出家者であっても恐らく畜生道に堕ちることになる。なぜ、主人の財産を受け継ぐペットがいるのか?それは、前世で仏法を学んだが修さなかったからだ。供養したり、仏法を聴いたので福徳がある。

五戒十善は一切の善の根本であり、我々が生を生じる事を浄化できる善法である。ガムポパ大師は我々に着実に法門を修習するよう教え、自分に何れの割引もさせない。お経には、上師がする事をそのまま行なうようにと説かれている。上師の与える教えが如何なる一字であっても、その教えを拒む理由はどこにもない。上師は道理を語らない。リンチェンドルジェ・リンポチェの24時間の生活はいつも法性の中であり、如何にして衆生を助けたらよいかだけを考えている。分別心はないがあなた達は分別し、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座上で話したものは仏法の説法であるからと聴くが、法座を下りて語った話には聞く耳を持たない。あなた達が言う事を聞かないのであれば、台北寶吉祥仏法センターで仏法を学ばずに他の道場へ行ってもよい。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達のように話を聞かない弟子に他の道場を紹介するよう出家弟子達に権利を授ける。そこでは御飯が食べられ、歌を歌え、園遊会が開かれ、商売の話ができる。

ガムポパ大師はこう説かれた。「了義の教えを細分するなら、三種類に分類される。声聞の教え、縁覚の教え、大乗の教えである。同様に、ここで我々は声聞乗、縁覚乗は闡明せず、大乗の教えに対して必要な法を説く。大乗の教えは更に二種類に分類される。波羅蜜多乗の教えと秘密真言果乗の教えである。」

声聞、縁覚の教えについては今日は解釈をしない。それは、現代人は煩悩が多く、生活方式が非常に複雑であるからだ。声聞、縁覚の教えを修習するには出家が必要であり、煩悩があってはならず、現代人が修行するのには不向きである。大乗の教えは我々に仏法を生活の中に応用するよう教える。波羅蜜多乗の教えと秘密真言果乗の教えの差異を述べると、波羅蜜多乗は顕教の修行方式であり、《華厳経》には出家者のあらゆる念いは衆生を代表するものでなくてはならないと説かれている。物を食べる前にまず迴向をし、衣服を身につける前に迴向をする等である。在家者も行なえる。仏法を生活の中に応用すればよい。だが、一切は因地から修行し、波羅蜜を修し、菩薩道を行ずるため、非常に長い時間が必要である。因地の修行は、我々の累世の輪迴の因によって生じる輪迴の果を輪迴からの解脱を修持する因に変え、さらに輪廻から解脱する善果の教えを生じさせる。累世の凡夫の身を得る果報を仏の境地に至る因に変える。菩薩は「覚有情」とも呼ばれ、悟りを開いた有情衆である。情は欲望に用いられるものではなく、煩悩を作るのに用いられるものでもない。菩薩は既に、世間の情に対する凡夫の執着を一切衆生に対する慈悲に変えている。一切の情に執着することは輪迴の因である。もし因地から修行を始めることを発願できたなら、既に容易な事ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは夫のために名義を貸した女性弟子を叱責した。彼女の執着を取り除く手助けをするためだった。法律でさえも、犯罪を買う者の罪は行う者の罪よりも一等重いとされている。或いは人は自分が殺したのではないと言うかもしれないが、あなたがお金を渡さなかったなら、彼は殺人を起こさなかったかもしれない。だから、主謀者の罪はさらに重い。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で、法律のわかる弟子に説明するよう指示した。犯罪を買った者の罪は犯罪を行なった者より重いのではないか?その弟子は答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃる通り、犯罪を買った者の罪は犯罪を行なった者より重い。犯罪を買ったものはそそのかしたのであるから、確実に罪を行った者よりも重大な罪となる。

儒家は「相夫教子(夫を助け子供を教育する)」と言う。これは夫の考えが偏ったり誤った時に、妻は夫を引っ張り戻すという意味だ。しかし、多くの女性は彼女と同じように、夫と喧嘩するのを恐れて間違っているという事を言わず、聞いても問題がないとし、過ぎたらそれで良いと考え、以後夫の考えには変化があると思っている。これでは儒教の思想は実行されない。夫が違法である事を明らかに知っているのに止めず、彼に名義さえも貸す。お金はそんなに重要なのか?彼らには同様に輪廻の習性がある。同類の者でなければ一緒に歩くこともない。

波羅蜜多乗の教えで修行すると沢山の時間がかかる。凡夫が善を福に変えるためには、多くの努力と時間を要し、布施、供養、お経の念誦、懺悔、座禅等をしなければならない。これらは単に助縁となるだけで、成仏を助ける縁となる。修行者が資糧を増やす助けとはなるが智慧を開くことはできない。なぜ因地を修する時間が長いのか?衆生は累世の輪迴の習性により執着を引き起こす。いわゆる執着を取り除く事は、即ち輪迴の習性を断ち切ることである。あなた達には皆分別心がある。他人が間違った事をしたら叱責する。自分の夫が間違いを犯しても言わない。多くの者はこの様な誤った観念を持っている。自分の家族が殺人を犯しても罪はないが、他人が殺人をしたら罪だと思っている。自分の家は横領をしても罪はないが、他人がしたら罪だ。これはどちらも間違っている。我々はいつも「道理に基づいて是非を問い、親しい者だからといってその言葉に従うことはしない」と言っているが、現在の人は本当におかしい。台湾社会全体にもこの様な現象があるが、ただ自分と親しい者であるなら、どんな罪を犯しても許される。

凡夫には多過ぎるほど輪迴の習性がある。輪迴の習性を改められたなら聖者となる。これには本当に多くの時間が要される。過去世で上師に背いたことがある者は、今世で問題が起きる。これも全て因果だ。衆生に求める物があれば助けに行くことが衆生に随順することだと思っている者がいる。しかし、衆生に随順する事は衆生の考えに従うことではなく、衆生の縁に従って相手を助けることである。衆生が苦しんでいる時、衆生の苦しみに従って相手を助けることであり、衆生の欲望に従い、欲しい物をあげる事ではない。衆生の考えに従うなら、衆生の欲望を次々と生じさせる事を手伝うことになる。

ある女性信者が二人の子供を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に許可しなかった。それは、彼女は懺悔のテープを聴いた後、夫の間違いに怒りと恨みを起こすかもしれないと思ったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼女に、スムーズにいかない婚姻について討論する番組を見てはならないと説いた。これらの人は報酬をもらって話をするのだ。彼女は報酬をもらわないのに、婚姻についての愚痴を聞き、結果、逆に被害者となってしまう。現在、テレビでは多くのトーク番組があり、男女交際の事やうまくいかない婚姻についてを好んで語っている。あなた達の多くはテレビのトーク番組を好んで見ているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にこんなテレビ番組を二度と見ないように勧める。テレビで語っている人は報酬をもらっているから、こんな話をするが、あなた達はこの話を聞いて影響され、本当の被害者となっている。

この世には悪い男または悪い女はいない。それは全て自分が悪いのだ。全て自分の因だ。対象はあなたが自分で選択する。なぜこんなに多くの人をあなたは選ばずに彼だけを選んだのか?一切はあなたの因縁にある。ある人は良くないと思われる事に出遭い、自分は騙されたと言う。あなた達はそんなに簡単に騙されるのか?世間にはこんなに沢山の人がいて、他の人はあなたを騙せないのに、なぜ彼だけがあなたを騙せるのか?これは全て因縁だ。全てあなたが過去世で作ったものだ。あの番組に出ている女性は夫の過ちを批判するが、もし彼女の夫でなかったら彼女も報酬をもらってテレビに出ることはない。それなら、やはり彼に感謝しなくてはならないのではないか?

一般世間では夫に迴向するようにと女性信者に言うのが流行っている。こうすれば夫は心を改めると言う。しかしこの方法は正しくない。密教には「懐法」があり、意見が合わなかったり争う時に懐法を修法して相手にあなたの話を聞かせるようにすることができる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは信者或いは弟子のために懐法の修法をしたことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェの父親は道教を修しており、道教の方法で人を助けていた。道教には和合符(一種の御札)というものがあり、夫婦や男女間の喧嘩にこの御札を使うと、相手に話を聞かせることができる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの先父は使わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの女性が夫婦間のトラブルのことで祈りに来たのを見たが、リンチェンドルジェ・リンポチェの父親はこの御札を使って人を助けたことはなかった。官位やお金をくれると言っても使わなかった。二人が夫婦になるのは、彼ら自身の因縁であり、ある日因縁は熟し、縁が尽きれば終わるからだった。御札を使って相手に話を聞かせたなら、後遺症が残る。

リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求める人の中にはいい加減な事を言う者もいる。この様な人に会う時、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に彼らと話をさせる。出家弟子が顔を出すと解決する。昨日、ある信者が謁見を求め、「お節介な人と喧嘩したい」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「何のためか」と聞いた。彼は「彼女が友人の話を聞いて自分と別れたがっている」と言った。一般の人なら恐らく、彼に沢山お経を唱え、念仏をして回向するようにと言うだろう。しかし、彼の心は既に混乱状態だ。どうやって唱えたらよいのか?また、彼にこうするよう教えたなら、彼は恐らく、自分が間違っておらず、間違っているのは他人だと思うことだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に告げた。「リンチェンドルジェ・リンポチェは在家だ。以前、やはり女の子を追いかけたこともあるし追いかけられたこともある。二人が一緒にいるか別れるかを決めるのは二人が自分で決めた事だから、他の人に責任を転嫁してはならない。相手が別れたいというなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の過ちだと思う。責任を相手或いはその他の人になすりつけてはならない。別れたいと言うなら別れなさい。相手がお節介な人の話を聞いて別れたいというなら、こんな相手は必要ないだろう!」

女性は本当に奇怪だ。明らかに自分がしたくないことは分っているのに、責任を他人に押し付ける。あなた達二人の関係が最初良かった時、事前に他人に聞いたことがあるのか?両親或いは友人に話したことがあるのか?必ずやないだろう。あなた達の誰が他人に「私は今晩、相手とどんな事をする」と言えるだろうか。あったとしても事後に初めて言うだろう。それなら、なぜ別れる時は、母親がこう言ったからとか誰かがこう言ったから別れたいと、責任を転嫁するのか?自分の事は自分でしっかりと処理すべきだ。他人に責任をなすりつけてはならない。この様な心の持ち様は最悪だ。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めてこの信者に説いた。「彼が本当に喧嘩を売りたいなら、この場にリンチェンドルジェ・リンポチェの女性弟子が沢山いるから彼女達と喧嘩してもよい。少なくとも女性弟子が彼を告訴することはない。無差別に外の人に喧嘩を売ったら恐らく告訴されることもあろう。」

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの信者に話をし、出家弟子に彼と話をして、彼が受け入れられる方法で彼の悪念を善念に変える手助けをするよう指示した。彼が彼女との縁が尽きたことを理解した時、この結果を受け入れることができる。善念と悪念は一念の間にある。ただ考えを変化させれば、あなたは一切が全て因縁の生滅であることを受け入れ、一時の縁が終わったことを受け入れることができ、悪念を生じさせることもない。これによってあなた達の間の縁は今世で終わることができる。さもなくば、現在、世間で見られるような事件が起きる。沢山の男性が彼女や妻が自分から離れたからと相手を殺害しようとする。当然、その中には複雑な因縁があるが、もしこうしたなら、悪果が新しい悪因をさらに引き起こすことになる。こうして二人の間の悪縁がずっと継続され、善となることはない。だから、あなたに特に良くしてくれる夫に出会い、夫は自分をとても可愛がってくれると思っても喜ぶ必要はない。全て怨親者だ。彼が死んでからあなたの苦しみが始まるが、その時には彼はおらず、あなたはどうしたら良いのか分らなくなるだろう。

因地の方式での修行はとても苦労が多い。仏菩薩は常に衆生を利益したいと思っている。だが、我々には損をしたくないという累世の輪迴の習性がある。どんな事をするにも自分の事を考える。仏法の偉大さは根本的な問題を解決することにあり、ただ皆に一日二日聞かせて心を落ち着かせるだけではない。仏菩薩の教えを聞いても実行できない、考えを調節できないなら、仏を誹謗することになる。因乗の教えを修するのはとても良い事だ。だが、現在は商業社会である。皆の心は外在の境界に影響されて変化し易い。心が境界を変化させることは必ず実行できる。だが、多くの事を諦めなければならない。まず、五戒を守り慈悲心を持つ等を実践し、次第に遵って修さなければならない。

心は本当に境界を転じることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がインドで行なった閉関を例にあげた。当時、インドは正に真夏であり、気温は40度にまで達していた。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を行なった関房は西向きで、リンチェンドルジェ・リンポチェが関房に入った時、関房内の温度は非常に高かった。閉関時、関房内には扇風機もクーラーもなかった。また、インドは常に予告なく停電し、現在もやはり同じである。この他、閉関時は窓やドアを開けられなかった。通風のための小さな隙間を残すことだけは可能だった。当時の天気は実に暑くて、関房の中の暑さはまるで竈のようであった。関房の中は本当に暑くて、何もできない程であった。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を用いて、自分は本尊であり火地獄で衆生に加持を与えていると観想すると、一瞬涼しさを感じ汗も流れず、全く暑さを感じなくなった!

その時太陽の光は入ってきていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは暑さを感じなかった。それは、心が境界を転じることができたからだ。あなた達はどうなのか?あなた達は心が境界を転じられないことは勿論のこと、その心さえも環境の影響を受けているので、それどころではない。環境が変わればあなた達の心も一緒に動く。あなた達は心が境界に転じられているのだ。我々の感覚は神経システムの反応だ。あなたには冷たい、熱いの感覚がある。それはあなたの末梢神経が温度の変化に対して起こす反応だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは汗を流さない。それは神経システムをコントロールできるからだ。神経システムの反応を切断するので、どれ程熱いか冷たいかを感じない。自然に環境に対しても反応しない。別の方面においては、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲心を修したので、定の中で、自分の身体を火地獄におき、苦しみを受けている衆生に加持を与えていると観想をした。火地獄の苦しみは関房の気温の千万倍である。自然と、関房の高温はさほどのものではないと感じられた。あなた達は心が静まれば自然に涼しくなると言う。自分で本当に実践できるどうか、試してみるとよい。あなた達は皆、心は境界に従い転じており、ほんの僅かな風が吹くだけでも草が動き、心も一緒に変化する。

こんなに沢山の例を挙げたのは、あなた達にお話したいからだ。因地から修して仏の境地に至るのは非常に難しい。非常に長い時間がかかる。非常に長い時間とは今世を指すのではなく、恐らく生生世世である。人の福徳から仏となる十分な福徳を累積するのは本当に難しいことだ。

秘密真言果乗の教えは、直接、果地から修する。一切の衆生は仏と同様の円満な仏性を備えているため、直接、仏果から修する。《心経》の真実義を理解することができたなら、秘密真言果乗の教えを修し始めたことになる。《心経》の冒頭に説かれた主旨では観自在菩薩を取り上げている。なぜ観世音菩薩は観自在菩薩とも呼ばれているのか?「観」とは、法性の智慧によって法界一切の事と縁を観測することであり、空と有に陥ることがない。「自」は《心経》に説かれる「心無罣礙」である。出家弟子の中にはこの点について多少体得できた者もいる。《心経》に説かれる「不生不滅」、「無有恐怖」は仏の心境を表している。即ち、私達の本性である。衆生は皆、仏と同様の本質を有する。ただ累世の善悪業が累積して、この業報身になったのである。

ガムポパ大師はこう説かれた。「秘密真言果乗の教えは更に二種に分類される。生起次第の教えと円満次第の教えである。同様に、我々はここでは一時的に生起次第については説かず、円満次第の教えの内容について説くことにする。」

生起次第では福徳を修する。生起次第を修する時、自分と本尊が全く同じであると観想する。これにより、我々の小さな福は仏菩薩の功徳の大海と一緒に融け合うことができる。それはまるで一滴の水が大海に融け込むようなもので、長い間、使い終わることはできない。今、あなた達はついに知ることができた。なぜ生起次第を修すると福徳を累積することができるのか?自分は沢山の事をしたと思ってはならない。実際のところ、あなた達の福は小さな水滴のように僅かなものだ。大海に融け込まないなら、一滴の水滴は地上に落ちてあっという間に枯れてしまうのではないのか?地上に落ちると言わずとも、あなた達の福は僅かで、一滴の水が滴り落ち、地上に落ちる前に風に吹かれて蒸発してしまうようなものだ。生起次第を修する時、我々は自分と上師及び本尊が全く同じであると観想しなくてはならない。全く同じとは外観を指すのではなく、心だ。あなたと上師及び本尊の心が皆、同じ心である時、それは衆生を輪迴の苦しみから解脱させようとする心であり、上師及び本尊の功徳の大海と融け合って一つとなる。

円満次第は智慧を修する。円満次第を修すると我々は縁起空性を体得することができる。空は何もないのではない。《中観論》に説かれる如く、有に執着せず、空にも執着せず、さらには中間にも執着しないことだ。龍樹菩薩の《中観論》は《宝積経》に基づく。ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の生まれ変わりだ。よって、自然に多くの著作も《宝積経》に基づく。また、ガムポパ大師の多くの論著は《華厳経》に基づいて著された。生起次第と円満次第に基づいて法に遵い修行をするだけで、福と禅定を修する方式を通して、未来には必ず会得し成就することができる。

果地から修する方式は、直接、人の心を指摘する教えである。人には皆仏性がある。ただ無明によって隠されてしまっているので、自分がこの仏性を備えているかどうかを理解できず、自分の法性の存在を感じることができない。仏菩薩と上師の教えを通して、我々を隠してしまっている全ての物を取り除いて初めて、清らかな光明である法性が露顕する。金剛乗が与える教えは一切の清らかな本性に基づく。《金剛経》に説かれるように、求むるところなく、住するところなくその心を生じさせることは自然な事である。もし法性を露顕したいと思うなら、秘密真言果乗の教え、つまり完全に上師の教えを聞き入れ、仏の教えを聞き入れて、全く自分の考えを持ってはならない。

秘密真言果乗の教えは五毒を五智に転ずるものだ。五智の一つに大円鏡智がある。それは、仏の心はまるで鏡のようであり、本質は動かず、ただ衆生の相を反映していることを意味する。衆生には皆、清らかな法性及び智慧があり、法性の顕現はまるで鏡のようである。鏡は鏡の前の物を映し出し、鏡は不動である。鏡の前の物体がずっと動き回っている時、鏡は動かないので物体をはっきりと映し出すことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェの心は不動なので、あなた達の事をはっきりと見ることができる。鏡と物体が一緒に動いたなら有り様をはっきり見る事はできない。鏡の前の物体が離れたら、何れの物も鏡の中に残らない。先ほど取り上げたが、彼女が別れるというのでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた男性弟子は、心の中であれこれ考えていて、猿と同じように飛び跳ねている。

秘密真言果乗の教えは、全ての衆生が仏の境地に至る本質があることを確認し、一切の果、業、道をはっきりさせるものだ。これには必ず経験のある上師の教えが必要である。生起次第の修習によって迅速に福徳を累積し、円満次第の修習によって迅速に智慧を啓き、輪迴の習性を改めた後に清らかな本性が開かれ、さらに衆生を済度する法を学ぶ。多くの者が自分が衆生を済度すると言う。だが、自分に聞いてみるとよい。自分は世間の種々の事情に透徹しているのか?もしあなたが自分を完全に投げ出すことができず、世間の一切に影響されざるを得なく、世間の事をはっきりと見て取ることができないなら、如何に衆生を済度したらよいのか?能力がまだないなら、先ず自分を済度してからでよい。まず自分を済度し輪迴生死から離れる自信を持ってから、衆生を済度する。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も話しているが、仏法は人生の経験法ではない。あなた達がもし自分の人生経験によって仏法を学ぶなら、如何なる体得もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法によって衆生を済度するが、衆生が世間で受ける苦しみと種々の人生を経験しているので、一般人が経験及び受け入れられるやり方を用い、仏菩薩の智慧を結合させて物事を処理する。仏法で説かれる「後得智」とは、人生の経験法とお経の智慧を結合して衆生を助けることを言う。

因地或いは果地からの修行に拘らず、徳を具えた上師の導きが必要である。特に、果地からの修行はより上師が必要となる。チベット仏教は、仏法を学び修行する過程において上師の教えが必要であることを強調する。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、いかなる法会においても、直貢チェツァン法王に教えを請う。直貢チェツァン法王が許可されて初めて法会を開催する。直貢チェツァン法王が許されるという事は、歴代の伝承上師の認可と加持を受けたことを意味する。あなた達は寶吉祥仏法センターのこんなに沢山の大法会が円満に開催されたのを見てきた。ただほんの小さな問題にならないような問題があっただけだ。これは表面的にはとても簡単な事に見える。毎回大法会の時、直貢チェツァン法王はインドの御寺で護法を修法し、特にナンジュ・ケンポスを派遣して協力させた。それは、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェがチベット語を理解できないことを知っていたので、チベット語と中国語ができるケンポスにお願いしたのであった。

直貢チェツァン法王は数年前にリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法した時に説かれた。この法本にある二つの言葉を多くのリンポチェは知っているが、どうやって修したらよいのかを知らない。法本の二つの言葉が少なければ、修する効果は全く異なったものとなる。多くの場合、直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝える時、法本はナンジュ・ケンポスによって翻訳されているが、直貢チェツァン法王は再度法本を見て確認される。これは、ナンジュ・ケンポスの翻訳を信じないからではなく、法本には多くのバージョンがあるからである。その中の観想部分には漏れがある可能性もあり、上師は口伝方式で弟子に密法の観想を伝授する。

上師が伝法する時、我々は自分の考えを持ってはならない。あなたの心に一つの考えが浮かび、上師の伝える法が少しだけあなたが以前に他の場所で聞いたのとは異なると考える。この様な考えは絶対にいけない。この様な考えを持つのは恭敬心がないことになる。上師が伝法する時は本尊を代表する。観想方式が異なるのは、伝承が異なるからだ。異なる伝承の下での異なる修行方式である。必ず上師の教えに基づいて行なわなければならず、自分で少し減らしたり付け加えてもいけない。上師一、二、三、四、五と言ったなら、あなたが行なうべきは一、二、三、四、五である。一を飛び越えて二、三、四、五と行なってはならない。自分は既によくできたと思っても、飛び越えたり減らしたりしてはならない。上師の言うステップに基づいて行なわないなら、次第がないことになる。次第がないなら福徳を修することはできない。福徳がなければ修行を成就できない。

仏の相は隋朝からずっと変化しているが、修行の次第は変化したことはない。次第が完全でないなら福徳を積むことはできない。仏法を学ぶには必ず福徳と智慧の両方を修さなければならない。智慧だけで福徳もなく慈悲もないなら衆生を利益することはできない。福徳だけで智慧がないなら、やはり仏の境地に至ることはできない。それは傲慢だからだ。円満次第を修さない人は一切が縁起空性であることを理解できない。自分は既に沢山の事をして成就したはずだと思い、執着心を起こし易くなる。先程の助念をお願いした弟子はなぜ長い間仏法を学んでいたのに、学んだ仏法をやはり使えなかったのか?それは、彼女は「理」の部分だけで「事」の部分は修していなかったからだ。しかも、彼女は、以前いろいろな事をした、沢山の文章を書いて沢山の人を助けたと自分に執着し、自分だけで成就できると思っていた。だから、上師は彼女にとって重要ではなかった。上師を批判する者がいても、彼女はそれを当然止めず、その場を離れることもなかった。この様にして皈依戒は全て破られた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でこう説いた。この出家者を雇って助念させた弟子は以後、信者になれるだけで、毎月開かれる施身法の法会にだけ参加できる。リンチェンドルジェ・リンポチェに供養しなくてよい。法会後の供養も不要だ。懺悔しても無意味だ。

円満次第は一切の相の執着を破る。いわゆる本尊と同じであるとは、外面的に本尊と同じなのではなく心が本尊と同じなのである。心が成し遂げられたら、自然に外面的にも現れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、法会で上師がどう観想するかを教えている際、観想する本尊には何本の手があるかの話になった時、手で描いている者がいたのを見た。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に報告する際、法会でこの様な奇妙な行動をする者がおり、もし直貢チェツァン法王が千手観音を伝えた時に、千手観音の千本の手はどう置くか、千の眼はどこにあるかを説いたなら、信者達は忙しくて描き終わらないだろうと言った。直貢チェツァン法王はそれを聞いてちょっと笑った。いわゆる本尊と全く同じ存在であるとは、あなた達の心を指す。外面的な形状ではない。自分の心に菩薩と同じかどうかを聞いてみなさい。もし同じではないなら、菩薩の相を修することができるのか?

世間一切の森羅万象はすべて空性であり、一切は縁起空性であることを悟らなければならない。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修法する時、他界者の傍にいなくても同じ様にポワ法を修法して済度できることを知っている。それは、「理」の部分と「事」の部分は何れも縁起空性だということを悟ったからだ。ポワ法を用いて他界者を修することができる修行者は必ずこの境地に至らなければならない。さもなくば衆生を済度することはできない。四相を看破する修行者こそが縁起空性の境地を成就できる。四相を悟らなければ、ポワ法を修法できない。《金剛経》では、四相を看破しなければならない事が説かれている。四相とは、我相、寿者相、人相、衆生相である。リンチェンドルジェ・リンポチェは他界者のためにポワ法を修法する時、相手の考え方を理解できる。修法する時、自他の分別がなく、自我の認識がないため、自分は即ち相手である。よって、相手が何を考えているかを知ることができるので、相手に執着を手放させ浄土に往生できる。

6月3日の祖師ジッテン・サムゴンの記念大法会の当日、あの入場できなかった出家者が密教は顕教の助けを受けなければならないと故意に言いふらした場面であるが、彼の言葉は正しいとも言えるし、正しくないとも言える。正しいのは、密教の修行は顕教の基礎が必要である点だ。正しくないのは、6月3日の大法会時にリンチェンドルジェ・リンポチェが話したとおりであるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる招待状も各仏教団体に送っていない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは、誰も知らない小さな役柄だからだ。顕教の出家者が喜んで法会に参加してくれるならそれも良い。来なくても良い。リンチェンドルジェ・リンポチェが気に留めることはない。

ガムポパ大師はこう説かれた。「円満次第の教えは二つに分類される。大円満の要訣に関するものと、大印の要訣に関するものである。同様に我々はここでは一つ目の大円満の要訣については説かず、大印の要訣に関して説く。」

秘密真言果乗の教えの中の円満次第は、大円満と大手印の二つの方法に分類され、二種類の方法は何れも仏果を得ることができるが、中間の過程が少し異なる。各伝承により大円満の要訣は異なり、大手印(マハームドラー)の要訣は直接、人の心を指摘することにある。当時ティロパは顕教と密教の法をナロパに伝えた時、ガンジス川のほとりにいた。よって、ガンジスマハームドラーとも呼ばれる。一般の人の中には、大手印はとても大きな一つの手の跡だと解釈する人もいるが、実際はそうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの謬論を聞いた時、笑いすぎて本当にお腹の皮が破れそうになった。大手印は禅定で仏の境地に至る法門だ。「大」は大きさではなく、絶対の、何れの物も取って代わることができない修行の法門を意味する。「印」は実証、授権である。「手」は我々の手ではない。全ての物は両手に頼って生み出される事を象徴し、物事をなす方法と過程を指す。大手印(マハームドラー)は即ち、我々に生死を解脱する権利を必ず得させる方法である。

マハームドラーは四つの次第に分かれ、各次第はそれぞれ三つの次第に分かれる。よって、マハームドラーは合計12の次第があり、どうやって凡夫から成仏果を修するかを教えている。3つ目の次第(一味瑜伽)まで修するのは非常に難しい。世間でここまで修した修行者は非常に少ない。マハームドラーの四つの次第を円満に修したなら、今世で即身成仏できるが、現在にはほとんどこの境地に至れる者はいない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは、波羅蜜多の修習は何を学び、何を修するのかを教え、皆に一つの基準を与えた。上師が教える内容を皆はしっかりと心の中に刻み付けておきなさい。過ちを犯したら懺悔すればよいと思ってはならない。あなた達は皈依後、過去の諸々を懺悔し、以後は悪を断ち善を行なわなくてはならない。特に、金剛乗には必ず上師の加持が必要である。あなた達は上師に対して完全に恭敬してこそ、加持を得ることができる。

秘密真言果乗の修行において、生起次第、円満次第では観想を行なわなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に六字大明咒を伝え、いかに観想するかを教えたことがあるが、あなた達は修することができなかった。自分の記憶力が悪いと思っている者もいるだろう。上師が観想を伝授した後、上師が何を説いたかを忘れてしまい、この様であったと思ったり、あの様であったと思ったり、ある部分ははっきり記憶できていない。あなた達は、ノートを取ったり録音をしてはいけないからと、言い訳してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェツァン法王から法を伝えて頂く時もノートを取ったり録音したりしないが、自然と非常にはっきりと記憶することができる。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェツァン法王を敬っているからだ。だから、直貢チェツァン法王が語られた話を自然に聞き入れて、記憶することができる。あなた達ははっきりと覚えられない。それは、上師に完全に投降していないからだ。上師に完全に投降したなら、上師の全ての教えを受け入れることができ、自然に上師の説かれる内容をはっきりと記憶できる。もし上師の法話を習慣的に拒否していたら、上師の教える仏法ををだんだん覚えられなくなる。

上師が説かれる一切を全て聞き入れなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは法座の上だけで仏法を説いているのではない。法座上で説かれたものかどうかに拘らず、上師が語った話であるなら受け入れて、話を聞かなければならない。あなた達は、いつも上師の話を聞かず、受け入れず、習慣的に拒否し、或いは自分の考えで上師の説いた事が自分に必要かどうかと判断するなら、最後の因果は、徐々に記憶できなくなり、上師の教授する仏法を聞いても理解できなくなる。以前リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた事があるが、テレビの信号はずっと存在するが、テレビをつけなければあなたも信号をキャッチできないようなものだ。しかも、あなた達が上師の習慣を拒否する様な習慣を身に付けると、改めるのは非常に難しい。

寶吉祥仏法センターでのリンチェンドルジェ・リンポチェの弘法方式は非常に厳格だ。皆に正真正銘の仏法を学ばせるためだ。皆はただ心地の良い話だけを好んで聞こうとする。最近は顔色が良くなり、まるで観音様のようだ、とてもよく修行しているからだとか、夫があなたに良くしてくれ非常に可愛がってくれるのは、よく修行しているからだと人から言われるのを喜んで聞く。これらの世俗の話は生死からの解脱と少しも関係がない。観音様があなた達に似ている等と誰が言ったのか?人の心が違うので、各朝代の仏像は多少異なる。唐朝から現代に至るまで、観世音菩薩の相は全て異なる。どの仏像が観世音菩薩なのか?一尊の仏像は、開眼供養を済ませお経を中に入れて、修行者が傍らでずっと修法する時に初めて仏の加持がある。さもなくばただの装飾品だ。古い仏像には本尊の様子を表現しているものもある。見る事ができる人もいるが、心が清らかでなければならない。

ガムポパ大師はこう説かれた。「大印の教えは、二つに分類することができる。有垢大印と無垢大印である。」この部分について、リンチェンドルジェ・リンポチェは後日皆に説くことにする。

今日の法話により、皆は、仏法では一体何を学ぶのかをよりはっきりと理解することができたであろう。はっきり理解したら二度とぼんやりしてはならない。着実に修行しなくてはならない。皆は皈依したのだから、仏法を貫き、一時的な方便を求めてはならない。現在世の中には沢山の仏の名義を借りる外道がある。表面的には仏法と関係があり、あなたにお経を唱えなさい、良い事をしなさいと言うが、生死輪廻を解脱する方法を教えない。あなた達の供養があればよい。御経には助念の時に御布施するようにとは説かれていない。あなた達の福徳が不足しているなら、自然に自分の考えで仏法を学ぶだけで、貪念が一緒なら悪行を起こす。仏法を学ぶ者は人に見くびられてはならない。自分で間違いを犯したら懺悔をすれば良い、懺悔するだけで物事が解決できると思ってはならない。真の懺悔とは、上師と仏菩薩の教えを聞き入れて自分を輪廻させる行為を改めることだ。次々と過ちを犯し、問題が出た時に上師に解決を求めることではない。この様な心の持ち様で仏法を学ぶのなら、全く役に立たない。ただ時間を浪費するだけだ。今日の法話を皆が聞き入れてくれることを願う。

法会は円満に終了した。列席者の皆は起立し、法座から下りられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しく見送った。また、諄々と教えを授け、皆のために殊勝な仏法を説かれ、無数の有情を利益して下さった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対し、一斉に感謝を表した。

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2014 年 08 月 26 日 更新