尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年7月8日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前に、ある女性の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「施身法」を修めて彼女の舅を済度して助けた過程に恩に着た。

彼女の舅と姑は2005年にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、今後殊勝なポワ法を得て生死に解脱することができることを望んだ。二人のお年寄りの信念はあまりしっかりとないため、後期に肉を食べたことがあり、因縁を備えないで、多くの苦しみを受けた。姑は去年(2011年)4月に往生し、舅も去年リンチェンドルジェ・リンポチェがインドで閉関修行している時につまずいて転んだ。彼女はこの話を聞き取った後、慌てている時、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが手術が順調に進むのを加持するよう祈るしかできない。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝して、彼女の舅の手術に順調に終わって、そして予定の通りに退院した。それから家族が世話をおろそかにするため、彼女の舅はまた2度も転んで、リハビリはそこで中断した。彼女は毎日固定的に彼女の舅を見舞いに行って、しかも道場の兄弟子が上師の功徳を褒め称えたこと及び分かち合った事績を伝えて、彼女の舅は聞いてとても喜んだ。彼女は毎週舅を漢方医に連れて行って、約1ヶ月後、何ゆえが分からないで、舅は食べ物を食べることを拒んで、彼女はもともと舅が偏食すると思ったが、しかしそれから漢方薬さえ服用しないで、甚だしきに至っては寝床から起きることができなくて、全身痛いと言って、しかもよく咳をして痰が止まらない。あの期間舅は彼女に教えて、「どうして仇を仇で返すのか。私はとても苦くて、浄土に行きたい。」と言った。

医者は彼女の舅が肺気腫だと判断した。40年前に舅がタバコを止めてしまったが、しかし吸んだことがあったら、やはり痕跡を残した。彼女は昔ハンサムな男である舅が病気で40キロまで痩せて、背を叩くのが彼を悲しみのあまり死ぬほど痛くさせたのであり、痰を取り出すのは更にもう一つの苦難である。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示された「3管齊下(三つのパイプが体に挿管されること)」を思い付いて、舅の境遇は生き生きとしている描写である。彼女が3年余り前のことを回想して、姑は病気でリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、その時舅は記憶力が衰退したため、いっしょにリンチェンドルジェ・リンポチェに加持されるようお願いした。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲に舅に、脳が老化しているので心配する必要がないを教えて、肺部に注意すると言った。しかし彼女はその時ただ舅に風邪を引かないことだけを思い付いて、また舅に首にマフラーを結ぶように勧めたが、タバコの危害だと連想しなかったのである。

彼女の舅は治療の期間に彼女は娘と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、舅の苦痛を軽減して浄土へ往生できるように祈った。リンチェンドルジェ・リンポチェは加持した後、舅は既に車椅子に乗って湖の側で休める。また病院に付設される老人ホームに療養した。十数日に経って、舅は血気が足らないから、救命救急センターに来た。しかし、病院の全ての手配は病状に役に立たない。舅は病気の間に彼女の夫は機会を多く把握しなくて舅のために福徳因縁を累積しなかった。彼女は仕方が無くて娘、再び夫の妹と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して舅を加持する事を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。「加持すると、すぐ亡くなるが、貴方達は責任を取れるかどうか」彼女達は三人とも黙った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女達に知らせたが、舅は脳細胞が減ったけど、頭は相変わらずはっきりにして唯回答する力が無い。また続いて開示されたが、舅はまだ苦しみを受ける必要があるが、更に舅の生死を予言した。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた舅が脳卒中にかかるかどうかと聞いた。当時彼女の頭は真っ白になった。しかしその後色々な兆候を考えると、脳卒中と現した。彼女は舅が仕事の関係で常に日本人と付き合って、沢山な衆生の肉を食べた。更に清潔を重視するから、常に家の中に殺虫剤を使った。彼女は自分が様々な不孝な行為を懺悔して、舅が衆生の肉を買うことを含めて、舅に一切の苦しみを受けさせた。彼女も舅を代わりに懺悔して、自分の肉体を惜しむから、一切衆生を傷付けた。

今年(2012年)2月、彼女の夫は高血圧で帰国して上師に舅を加持する事を求めなかった。3月に帰国する時、緊急に舅のために福報を累積しなくて、4月を延ばして帰国してリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しようと思ったが、上師はちょうど海外へ行った。彼女の夫は6月1日に帰国と決めて、6月2日と6月9日二回の機会で供養して舅を助けてポワ法を求めたいと望んだが、無常があって、当時を把握できなくて、機会を失った。

5月23日、彼女は日本へ行って法会に参加した。行く前に舅に「法会に参加するのは衆生を代表して参加するから、貴方も衆生の中にいて、恐がらない。」と教えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の中に、円満の長生きとは苦痛が無い、と開示された。その時彼女は極めてリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝して、舅に苦しめない。

5月28日舅は血糖値と血圧は急に下がった。彼女は舅の青白い顔を見ると、急に「お父さん、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想しなさい。」と叫んだ。その後すぐ舅は目の縁に涙が溢れた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝して、舅に臨終の時に救急車にいたのに、応急手当の苦しみを受けなくて、彼女に時間があって甘露丸を舅の舌の下に置いた。当時彼女は娘、夫の妹と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェを観想して、《快楽と痛苦》の本にリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を舅に見せた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を頂礼した後、間もなく兄弟子の電話を受けた。「リンチェンドルジェ・リンポチェは既に貴方の舅を助けて、神識を守った。貴方の舅はある女性を懸念しているが、家族に皆一緒にあの女性が誰だと考える。」リンチェンドルジェ・リンポチェの威徳力を感謝して、ポワ法を求められないけど、家族皆の心は既に落ち着いた。家族は何回も考えたが、心当たりが無かった。1時間に経った後、リンチェンドルジェ・リンポチェは叔母だと伝えた。彼女が分かったが、舅は二十代の時叔母を世話したが、最近関係は厳密に繋がらない。彼女は懺悔したが、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェの体力、時間及び福報を消耗した。

5月28日夜、六字大明呪を翌日の朝まで唱え続け、その後、遺体を第二葬儀場へ送って、家に帰ってもう朝3時で、彼女はアキ護法を修めて及び朝課(朝の勤行)をした後、上師に申し訳ないと深く感じ、壇城の前で懺悔してむせび泣いた。上師が既に3回のチャンスをくれたが、彼女と夫と良く把握しないで、自分が本当に悪弟子と感じた。舅には因縁福報があるかどかを問わずに、只ポワ法を貪欲し、上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体を傷つけたかを考えなかった。その後、娘より6月3日に施身法を行うとのメイセッジが聞いた。あの頃、心より深く感じた、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生のため、苦労を問わず、 5月25日に日本で大法会を行ったばかりで、6月14日にはまた祖師ジッテン・サムゴン記念大法会があり、それに、6月3日に施身法法会を挙げる。こんなにリンチェンドルジェ・リンポチェの体力と福報を尽くして、本当に恥ずかしい、師恩が広くて、どう報いるかだろう。

6月2日、彼女ら家族全員はリンチェンドルジェ・リンポチェに舅、祖先及び全て害した衆生を西方の極楽浄土へ済度するように、また告別式の日期を選んでくれるように願いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲で承諾した。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に大変すごくて、彼女の義理妹に本当に菜食出来るかと笑いながら聞いた。昨年姑が往生した時、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持をとても感謝するため、夫と娘がすぐ菜食し、しかし、義理妹はアメリカへ帰った後返った魚を食べ、如何なる事はリンチェンドルジェ・リンポチェの法眼より逃げることが出来ない。彼女の夫はまたリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を願いした。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲で仰った:「彼の声はかすれになったのは、飲用水の水質が良くないから、水が濾過したがまだ足りない、漢方薬診療所には水質の改善薬がある。」。その上、彼女の娘のことも配慮して、8月職場に辛いがあれば我慢すると仰った。昨年リンチェンドルジェ・リンポチェも彼女に辛い事があれば我慢すると警告した。常にリンチェンドルジェ・リンポチェに頼って、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持で、無事で過ごしている。リンチェンドルジェ・リンポチェに弟子及び眷属に対しての慈悲なお世話を感恩する。彼女の夫は寶吉祥漢方薬診療所の薬を飲んだ後、もうかすれない。漢方薬を食べない彼も引き続き漢方薬診療所に行って、脈をとって体をやりくる。

6月19日、舅の告別式を開催して、当日の夜明け方に大雨を延々な降っていて、舅のご遺体が会場についてから、少しの小雨を降っていて、彼女の心の中に「これは甘露水で、舅の色身を洗っ加持することができる」と思っていた。その後、また晴れる天気で、告別式の行いもとても順調で、法事が一切な円満になるまでに、帰宅すると大雨を降っていて、儀礼社の従業員さえ舌を鳴らしたり言い立てたり珍しさに感心した。儀式を行う司会者は私に彼が6月14日の上師が主催した祖師ジッテン・サムゴン記念法会に参加したことを話して、が、残念で告別式ですので多くて話されなかった。司会者は家族に代わって舅への思い及び追懐の文章を読むときに、リンチェンドルジェ・リンポチェが舅のために殊勝な施身法を修めて済度することを述べて、彼女の感謝する涙が絶えずに流れていた。舅のご遺体は火葬した後に、骨が白色と少しの赤い色と黄色と緑色を混んで示して、天辺骨の上にある円な穴があって、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェの恩沢に感謝し、また、風雨に関わらず告別式に参加する兄弟子達に感謝した。

舅が往生したことは彼女に生死が無常であることを少し考えさせた。供養布施は我々が生前に必ずすることで、その上、直ちにして、躊躇しないで、また、他人あるいは目下の人がすることを望んでいはいけない。なぜならば、時間と空間の変わりが我々が掌握することができない。リンチェンドルジェ・リンポチェが舅と姑を済度してくれることに感謝し、あるいは、彼らのお年寄りと病気の苦しみにてどの道に下りることがわからない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を宝物として、また、弟子たちの家族も世話し、詳しい話されないで、彼女は感謝してまた感謝し、教法により従うことを除いて、上師と教派を保護しなければならなくて、実際に認められて修める修行者を随意に浪費してはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェに働いて過ぎて失望させない。我々は自分の力を尽くして上師の仏法事業と事業体を多くて護持し、上師の御身体が健康し、長くてよにとまって、仏法事業が五大洲を円満な遍くことを祈っている。

この女弟子はも懺悔しました。去年、旧暦年に「三十五仏懺」を礼拝し、真実な清浄な懺悔を起こさないで、また、疲れる心が起きて、兄弟子に今年に「三十五仏懺」を礼拝する因縁を害させて、自分の悪行敗徳で、戒律を守らないで、八風五毒を消えていないで、さらに『仏子行三十七頌』をいえない、自分が生々世々で傷害して殺した衆生にも懺悔した。

引き続いて、一人の寶吉祥仏教文化交流協会の理事を担当する女子の弟子は大衆に最近発生した事件を分かち合って、大衆と一緒に懺悔し警戒した。

ある女性弟子が以前に皈依した師父の奥さん(出家衆)は病気にかかって、彼女はこの生活が困窮する出家衆を助けるために、彼女は自分が働いている会社の社長に募金した。彼女は先に自分が寶吉祥仏法センターの弟子だということを表示して、社長に大法会に参加するのを誘って、そして、病気にかかった出家衆のために、この社長に募金した。このようにすれば、寶吉祥仏法センターと募金ということが相手に誤解されやすくて、やはりその社長に誤解されて、寶吉祥仏法センターがいま募金していると誤解された。その故にこの社長は特にもう一人の寶吉祥弟子がいくらお金を寄付したのかと聞いた。寶吉祥仏法センターは社団法人であり、お金を寄付することが出来なくて、外に募金しないので、リンチェンドルジェ・リンポチェは何回も開示されたことがあるから、この事について我々がはっきりとよく知っているであろう。

我々の上師 リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも戒律が厳しくて、外の人も良く知っているのに、弟子とする我々はどうして用心深くきちんとしないのか。このような事が発生して本当にとても苦しく感じさせた。法律上から言えば、わが協会はこの女性弟子の行為について、法律の責任を追及することができる。仏法から言えば、彼女は今そうしたら、仏弟子の名義で仏法を利用して、仏法を利用したら、釈迦牟尼仏を利用すると同じであり、寶吉祥仏法センターを利用したら、リンチェンドルジェ・リンポチェを利用すると同じである。

もしこの弟子は本当にあの出家衆を助けたいと思っている場合であれば、詳しい状況をグループ長に伝えて、グループ長はリンチェンドルジェ・リンポチェにご報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェは手配するのである。事実上、皆さんのご存知のとおり、リンチェンドルジェ・リンポチェが多くの家計が困難である者或いは病気にかかった者を助けたことがあって、お金の援助をも含む。最後にこの事の善後処理の方法は、協会の理事長がこの女性弟子を連れて、彼女の社長に説明に言ってしかも謝って、そして、この社長の寄付したお金を全部返させたのである。

それ以外、皆さんが数ヶ月前にリンチェンドルジェ・リンポチェが長い時間も風邪を引いていて、開示される時にいつも鼻音を持っていた。というのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが外で修法する時に、壇城チームの弟子は法座を意外にも法座を冷気の吹き出し口のまん下に設置してしまい、冷気を直接にリンチェンドルジェ・リンポチェに吹き出させて、リンチェンドルジェ・リンポチェが風邪を引かせた。南珠ケンポスはこのことが分かった時に、頭を振って、そして、これが用心しないと言った。たとえ年長者に席を設けても、きっと年輩者の体の状況までよく考慮しなければならないだろう。まして尊き上師はなおさらであるのか。弟子は本当に用心しない。道場の後方の病気にかかる信者と弟子の座る地区は、天井の冷気の吹き出し口の風があまりにも集中して、風力が大きくて、ここに座る人に気分が悪くさせることを恐れるから、特にアクリルキャスト板を据付して風力を分散するようにした。仏法を聞きに来る人について、私達はすべて考えてうまく調整して、意外にも上師の座る席はすべて注意していないで、弟子達は本当に用心していないのである。

今年5月、リンチェンドルジェ・リンポチェが日本京都の寶吉祥仏法センターで修法する時に、撮影を担当する弟子は意外にも撮影器材を勝手に入り口に置いて、歩く道を遮ってしまい、そして写真を易く取るために、仏法センターの庭の石の上に座って、仏法センターのすべての石が背景と経緯があることを全然思い付かなかった。どうしてこのように勝手に座ったのか。日本寶吉祥仏法センターは、リンチェンドルジェ・リンポチェが独立で創建されて、台北の寶吉祥仏教文化交流協会が護持したことがないので、リンチェンドルジェ・リンポチェの家に等しい。今日他人の家に行ったら全ては慎重に注意して、そして礼儀に注意して、自分の行為に注意する。まして更に道場、上師の所はなおさらである。

それに、リンチェンドルジェ・リンポチェは2年前にすでに晩餐会の写真をホームページの内容に加入しないように指示したことがあったが、今回の日本法会の後の晩餐会の写真を、撮影チームと行事日程チームは依然としてホームページの資料の内容に加入して、理事長と理事達もよく監督する責任を尽くしていないで、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェに指示されてから削除をするようになった。それも弟子達がすべて用心していないのを示する。

協会の理事を担当する女性弟子も自分の先日発生した事を例として、皆に我々の心構えに問題があることを知らせた。ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働いていて、初めて間違いを犯した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の年末のボーナスを取り消した。女性の弟子が聞いた後に、「そうか」と言った。それから彼は改正しなくて、依然として再び犯して、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が法会に参加することを許さなかった。この女性弟子は耳にして、「これが大変だ」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼女を叱責して、このように言ったら、女性弟子がふだん修行していないことを示す。というのは、彼女は法会に参加することができないのが大変だと思って、法会に参加して加護があると思うから、法会に参加する事が大変なことである。しかし弟子が上師に仕事をする時にしっかりとしていないのに、大変ではないでしょうか。ただ、法会に参加するのは大変なことを考えると、これは分別の心がある。女性弟子はそれで懺悔するとも感じる。

リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て開示されたように、弟子が上師に追随して仕えて、上師を礼敬して、上師を喜ばせて、上師の言われた話に専念するべきと言ったが、しかし弟子達すべて用心していなくて、上師に喜ばせないだけでなく、また常に上師に弟子達のためによく心配させる。我々は本当にいつも 聞、思、修をしなければならなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示するように、法会が終わった後に、あちこち無闇にぶらぶらしないでください。よく心を静めて上師の開示を考えてみて、どこかがやり遂げていない所があるかどうか、あまりよくやっていない所があるかどうか。もし弟子達はすべて上師の開示された話を専念することができて、話を聞き取ってそれに従ってしたら、全く投降して、今はこれらの事がすべて発生しない。彼女が皆に互いに、我々が本当に上師の教えに従って修行して、懺悔することを発することができて、生活の中に用心深く、びくびくして自分の身、口、意をしっかりと見守って、しかも本当に上師に喜ばせて、上師に仕えて、上師に礼敬して、上師の言葉に専念することをやり遂げるように励まし合った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後に、法会に参列する大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

前回の法会の中で既に広の菩提心を解説して、金剛乗と大乗の仏法は菩提心の重要さを強調する。もし菩提心を発ていないならば、たとえ今仏像に礼拝しても、累世の業を転じて、輪廻に解脱して、悟りを開いて道を証することができない。菩提心を発する前に、まずは5戒と慈悲を修行しなければならない。すべての戒律は全部5戒を基礎にして、慈悲は学習し、育成する必要があるので、しかも心の中のから発して、そして智慧を修行しなければならなくて、多くの人は密宗の双修を誤解して、実は双修は慈悲と智慧を二つとも修めることである。

慈悲はよい事をするのではなくて、良い事をして良い日をするのは慈悲だと誤解しないでください。それはただ身を処する根本であり、もともと身を処するのは法律に違反して悪い事をしてはいけない。今そなた達はすべて慈悲を濫用して、よい事をするのが慈悲を修行していると思って、さっき法会前に分かち合って言及された出家衆に募金してあげる弟子がこのようなのであり、自分が人を助けると思って、病気にかかった出家衆に募金してあげたら、とても大きな功徳があると思っている。お経には確かに出家の修行者に布施して功徳があると言及されるが、しかしこの弟子も自分が供養したこの出家衆が供養を受ける資格があるかどうか分からないが、寶吉祥弟子の名義で募金してあげて、もし相手が供養を受ける資格がなくて、供養を受けてしまったら、必ず別の方法で返さなければならないのである。この事からも、彼女が日頃、法会に参加しているが、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を全然聞き取らなかったのである。

慈悲と智慧を一緒に修行しなければならなくて。リンチェンドルジェ・リンポチェは既にそなた達に修行する方法を教えて、それはそなた達が法会が終わって家に帰った後に、落ち着いてよく思惟することである。しかし、どの弟子は本当にやり遂げたのか。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが法会の中に開示したのが仏法だと思っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座の上で言ったことだけを聞き取る必要があるが、法会が終わった後に、そなた達は勝手にむちゃなことをしても構わないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、勤務時間、非勤務時間を分けていない。なぜかと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェがは24時間のリンポチェなので、ずっと仏法の中にある。そなた達が8時間勤務して、偶には退勤時間が遅くなったらまた残業手当てを収めると違わない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にどのように慈悲を修行するかを教えたことがある。仏法が福慧双修を言うのは、慈悲を修行することだけではなくて、同時に智慧を修行しなければならない。智慧は事のやり方する方法が分かるのではなくて、すべての事の因果と起因が分かることができる。智慧がある修行者は衆生に問題を解決するときに、物事の表面を見なくて、この人の身分と背景を見なくて、物事が発生した因果と因縁から見て、因果と因縁が分かった後に、慈悲の法門で彼を助ける。一部の信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに智慧をくれるように祈り求めるが、しかし智慧が祈り求めるものではなくて、与えることもできない。仏はすべての人が仏性を持つと仰って、全ては仏と同じ成仏する特質と条件を備える。しかし五毒で悩みを生じて、私達の清浄な本性が覆い隠されて現れることができない。仏法の修行を通して、悩みを減らして障害を除去してから、やっと智慧を開くことができる。上師はそなた達に何かを与えることはできなくて、そなたに自分の知恵を開発して出ることを助けるのであり、しかしそなたが上師の教えに従って自分でしなければならない。

自分で修行して開く知恵は後得智であり、後得智を修め得てから、はじめて生まれ付きの清浄本性の根本智を開くことができる。両者が結び付けてようやく本当に智慧の力を現れることができて、これをやり遂げるのは次第に修行することがなくてはならないのである。金剛乗を修習する成就はスピードが速いが、しかし一年、二年間だけ学んだらすぐ悟りを開くことができるのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェを例に言えば、数十年も修行しているが、そなた達は更に言うまでもない。しかしそなた達は本当に修行さえできれば、功徳を累積して、きっとそなた達の業を転ずることができて、そなた達の未来を変える。いわゆる悲空双運とは慈悲と智慧を一緒に修め得ることができなくて、ようやく他人を助けることができるのです。慈悲があって智慧がなければ、慈悲をやり間違えて、「爛好人(腐ったいい人)」になる。智慧があって慈悲がなければひどく傲慢になる、すなわち貢高我慢になる。というのは、智慧を修め得たら、多くの事に精通することができるため、もし慈悲の心を修め得なければ、衆生の苦しみを体得することができなくて、衆生をも助けることができない。慈悲と智慧を修習することを通して、自然に菩提心菩を生じることができる。

市中では、ある人は仏の足印を設けて、毎回試験の時に受験生に触ることを提唱して、このようにして受験の成績が良くなると言う。しかし、試験を受けてよい成績をとることができるかどうか、福報と関係があるのである。福報が十分であれば、本をちょっと見ると気軽によい成績を取れる。福報が足りないなら、たとえ徹夜で24時間勉強しても、試験がうまくいかない。仏の足にちょっと触ってすぐいい成績を取って、実はそんなに簡単ではない。また一部の人が上師の開示した話は彼が覚えることが出来ないと言って、これも福報が足りなくて、及び正確な仏を学ぶ心構えがないから。

ガムポパ大師は嘗て、「私達がどの段階の教法を修行したに関わらず、私達がすべて必ず知らなければならないのは、表面の事件は重要ではなくて、ただ発心の良し悪しは最も重要である。」と開示された。そなた達はただ表面だけを見て、仏を学んでそなた達の事をよく転ずさせると思って、或いは自分が仏を学んでいるので事をよく転ずると思っていて、実はこれはすべて誤解である。悪いことだけは障害を生じるのではなくて、或いは、良いことが発生して、かえってそなたが仏を学ぶ障害になるか。たとえば、一部の弟子は結婚が比較的に重要であるから、結婚しに行くと感じて、結婚した後に、法会に参加しに来ることが出来ない。一部の弟子は会社に海外駐在に派遣されて、もっと多くの給料をもらうが、しかし、法会に参加することができない。これらはよい事らしくと見るが、実はすべて仏を学ぶ障害であり、これらのいわゆる良い事が発生して、福報もそのゆえに少し使ってしまうのである。

どうしてそなた達が仏を学ぶのは、家庭、仕事、健康など方面の障害があるのか。これらの障害があるのは本当に菩提心を発していないから。そなた達の発心は間違いでさえあれば、仏を学んで功徳を累積することができなくて、ただ人天福報を累積することしかできない。菩提心を発した行者にとって、すべての良い事と良くない事は全部修行することができて、仏経には修行の因果を開示されたことがあるが、しかし、そなた達はこのような因果応報を貪って求めるため、修行するのでなくて、菩提心を発する行者は因果を深く信じて、いかなる仕返しを求めないで、ただ因縁が生じてから消えるまでの間に衆生を利益して、自分のためではない。しかし、行者が菩提心を発したら、すべてもはきっと自利利他をすることが出来て、求めなくても得ることができる。そなた達が今思う良さと悪さはすべてただ自分の利益を考えていて、もし一人はそなたに対して良いならば、そなたは彼がいい人だと思って、もし自分を傷つけることがあったら、そなたは彼が悪人だと思っている。

当初リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターを設立した時、特に基金会を成立しなくて、社団法人を成立した。それは社団法人は対外的な募金ができない。若し基金会を成立すれば、沢山な金が引き続きに振り込んでくる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場が沢山な金を望まない。それは金が多くなると簡単に問題を生じるから。ちょうど毎年の用度があれば十分だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは面白くて言われたが、だから我々のセンターは月光族(月給を全て使い済み)ではなく、年光族である。毎年の金はちょうど使えて、ちょうど使い済みだ。アキ護法の加持と加護はとても素晴らしい。リンチェンドルジェ・リンポチェはある検事としての弟子に説明させて、先程言われた対外的な募金した弟子は法律上に如何なる犯罪された。この検事の弟子は次の通り説明した。寶吉祥仏法センターは社団法人として対外的な募金ができない。だから先程対外へ募金した弟子は詐欺の疑いがある。また、彼女は寶吉祥仏法センターの他の弟子の同意を得ず、募金したから、信用を違反する事を巻き込んだ。この弟子の状況から見ると最悪7年の刑期を受けなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示されたが、この募金した弟子は過ちを起したのは確実に戒を守らないから、自然に智慧が無くて間違い事を犯した。他の一つの原因は「貪」であるから。福報を貪って、出家人を助ける功徳を貪ったから、リンチェンドルジェ・リンポチェが社団法人を設立した意図を聞き込めない。はっきりに対外へ募金できないと規定したのに、彼女は寶吉祥弟子の身分で彼女の社長に募金した。また、先週の法会前に分かち合ったが、スタッフになれば、福報があると思って、必至にしたと言われた。実は此れも福報を貪ったから、いつも過ちを犯した。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までスタッフになれば、福報があると言わないのに、そなた達は勝手に言って伝えた。道場は皆の物なので、弟子として全ての人は必ず力を尽くす必要であり、道場のためにスタッフになるのは当然な事だ。

そなた達は発明家になる事が好き、用心に仏法を聞かなくて修行しない。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェが道理に合わないと思うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に仏法を教えて道理に合う必要が無くて、そなた達の解釈も聞かない。それはそなた達の解釈とはそなた達の欲望である。全ては貪、瞋、痴、慢、疑である。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに解釈のはリンチェンドルジェ・リンポチェに自分を認めさせるため。しかし、上師はそなた達を助けて煩悩を減らして取り除くためが、若しそなた達の解釈を聞けば、つまりそなた達の欲望を認めて、そなた達と同じなレベルと表した。そうすると、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に座って仏法を開示する資格が無いが、そなた達の上師になる資格もない。

智慧は如何なる修めるだろか。つまり戒、定、慧を通した。戒を守れば、定がある。戒は完全ではないなら、定力が足りなくて智慧を開けない。若し戒を守れないなら、自然に定が無くて、智慧を開けない。「定」は何も考えないではなく、はっきりに自分の全ての考えの生滅を分かって妄念を起さない、空性を証した修行者はいつまでも入定できる。《六祖壇経》の中に、五祖は開示された時、六祖慧能は坐禅だけしても開悟できる。しかし、この前に多くの工夫が必要であり、見えたように簡単ではない。そなた達は破戒しやすいが、一つの念が間違いと、全ての戒を破ってしまった。

そなた達は皆過ちを犯せば、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔すればいいと思った。懺悔は仏法の特別な法門である。仏法の懺悔法門はそなた達に機会があってゼロから始まるため、しかし昔に修めた功徳は全て小さな人天福報を換える。そなたは改めて功徳を累積する。功徳があれば、そなたの業力を転じられて、そなたを助けて輪廻を解脱できる。懺悔すれば大丈夫で業力が無く、所謂水は鴨の背を通す。

仏法の懺悔とは自分の過ちを承認して今後再び犯さなく、一切果報を受ける。他の宗教の「告解」と違う。他の宗教の告解儀式は過ちを犯す者は自分の過ちを告白した後、自分は大丈夫でその後再び過ちを犯せると思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を恐がるが、そなた達は因果を恐がらなくて、法律を恐がるから、リンチェンドルジェ・リンポチェは特に基金会を設立しなくて、社団法人を設立した。そなた達に法律の制限内に事情を処理するため。例えば最近汚職のニュースを報道したように、行う時因果を恐がらなくて、法律に制裁されると、始めて怖ろしいと感じてやっと自分が過ちを犯したと分かった。

仏法の中に戒は修行者によって異なる戒を守ると言われたが、全て五戒から起こった。戒をうまく守れば、欲望、妄念は減っている。戒体は清浄であれば、自然に定を生じた。毎日沢山に考える人、脳は自然に止らなくて体も消耗して自然に定を得ない。定を修めないと、智慧を開けない。智慧がないと修行は自然に力を得ない。智慧は開くと、過ちを犯さない。そなた達は常に用心に事情を処理しなくて、過ちを犯すのは戒をうまく守らなくて沢山な考えを持って上師が説かれたことさえ聞き込めなく他人の話しも言うまでも無い。当然に聞き込まない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の解釈を聞かないだろうか。そなた達は上師に対しても自分の考え方を解釈して、上師さえ尊重しないが自然に他の人も尊重しない。また慈悲心を培養する事も難しい。

昨日ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、自分が昔にリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったことがあって、リンチェンドルジェ・リンポチェと「天語」で会話するのを言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは直接彼女に分からないと言って、彼女と共鳴を起さなかった。彼女は仏を学ぶのは感応があると思った。ある者は自分は霊能力者であり、法師に自分に従うと言った。通常このような人は全て感応を求めて、精神上の問題が現れた。本当に幽霊に体を乗っ取る或いは本当に何を見えるわけではない。若し本当に体を乗っ取るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に来ると、目はリンチェンドルジェ・リンポチェを直接に目に合えない。

何故体を乗っ取る人は直接にリンチェンドルジェ・リンポチェの目に合えないだろうか。施身法法会の時、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修める間にある黒色のパールカーテンのような帽子を被るのを見たが、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは法を修める時、目は非常に輝いて、強い光は衆生に恐がらせる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは黒色のパールカーテンで目を覆って、鬼道の衆生に恐がらず、始めて近付いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの身の血肉から化した甘露を食べられて、更に彼達に仏法の助けを与える。黒色のパールカーテンを使うのは鬼衆を見るのを恐がるわけではない。若し鬼衆を見ることを恐がるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェ施身法を修めて彼達を利益できない。仏経に説かれるが、衆生は中陰身になる時、仏菩薩の強い光に心から怖れを起した。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて顕教に皈依した時、嘗て夢の中にこの体験があった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは十数年前から始めて聞、思、修を説かれたが、真に用心に行う人がいない。何故聴きでは無く、聞で使うだろうか。中国人は文字を作るのは本当に意味があって、聞という字は耳が門の中にいて、そなたが心で聞くと表した。我々の意識で綺麗なこと、自分が好きなのを選んで聞くわけではない。清浄な心で仏法を聞いた後、心で考えて、自分の思想、言語、行為を検視して、自分の身、口、意は仏法と違う所が有るかどうか。若しあれば修正しなければならない。そうすれば、聞、思、修である。いつも仏法の開示の意味や自分が出来るかどうかを考えるわけではない。

何故今回日本法会に弟子は撮影機器を入り口に置いただろうか。此れも戒を守らなかった。そなたは他人の家に行って、何も問わずに勝手に物を置くだろうか。また、今日そなたは他人の道を妨げて、他人に歩く道が無いと、将来の果報は自分が歩く道が無い。仏経に記載があって、道を開いて他人に歩かせると、福報はとても大きい。そなた達は道を開かないのに、更に他人の道を妨げる。

そなた達は小説やテレビを沢山に見て影響されたが、男女は付き合って、もし恋人は他の相手があれば、自分が既に沢山な感情を入れて、感情は騙された。そなた達はもはや誰が自分の感情を騙したのを言わない。感情は固体でしょうか。台ばかりに置いて測るだろうか。そうしないと、そなた達は沢山な感情を入れると言われたが何処に入れただろうか。どんな感情だろうか。はっきりに言うと、所謂感情とは唯そなた達の欲望、そなた達の要求、そなた達の需要である。唯文字で綺麗に作った形容詞である。どんな感情を投入したと言うのは実はそなたの欲望がいくら有ると言った。しかし、欲望は益々増えている。

そなたと付き合った人は必ずそなたが好きな人である。何故そなたが好きだろうか。必ず相手がある条件を持って、そなたの要求と合って、そなたの欲望を満足できる。若しそなたは感情に節度が無くて要求すれば、いつも相手に尚更に多く要求すると、相手は自分の要求を満足できないまで、あなたは諦める。だから、愛人はこのように起こった。愛人は全て女性だと思わない。愛人は男性もあるが、この事はかなり多い。

そなた達はいつも彼方此方に多くの所へ行って、多く聞けば多く分かると思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に勝手にテレビの仏法の開示番組を見ないのを要求した。それは簡単に文章断片から意味を取って、誤解を起す状況がある。だから、自分は仏法をはっきりに分かって理解できると思わない。この考え方は全て間違い。たとえ貴方は既に仏の果位を証しないと、此れを言う資格が無い。皆は今日寶吉祥仏法センターに来て、チベット仏教直貢噶舉派の伝承であり、尊勝なる直貢チェツァン法王の道場に来たから、専念にこの伝承の法門で修めるべき。直貢チェツァン法王は実修を重視して、仏法を生活の中に確実に活かしなければならない。如何なる仏を拝んでも、真言を唱えても読経しても全て唯助縁であり、修行ではない。上師にとって、仏法でそなた達を助けて病状を改善するのはとても簡単な事である。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは最近報道されたニュース、交通事故に遭った親子を救った。患者のGCSも徐々に高める。しかし、此れは最も重要ではない。

ある者は疑うかもしれないが、《華厳経》に善財童子五十三参を説かれただろうか。多くの人は善財童子は唯子供だと思ったが、実は善財童子は唯彼の名号であり、仏法から見ると、善財童子は既に明心見性である。五十三参とは実は我々の五十一心所を対治して、五十一種の心の煩悩を対治する。その中にある菩薩が衆生を済度する法門はそなた達は考えられない。その中にある菩薩は現在の遊女屋で遊女を化して、専門に来る男衆を済度するため。そなた達は因果因縁を分からないから、遊女は妖狐のような女性と思った。だから、そなた達は社会価値観或いは道徳観で他人を評価しない。知恵がある修行者は衆生を助けて問題を解決する時、事情の表面を見なくて、この人の身分と背景を見ない。だから、金剛乗は説かれたが、衆生を仏として見る。それは衆生は皆仏性を持つから、分別心を持たない。更に誰が菩薩であるのはそなた達も皆分からない。

衆生は皆成仏の条件を持つから、平等心で他人と付き合う。若し分別心を使えば、自然に傲慢になって、慈悲心を培養できない。傲慢の人は慈悲を学べない。慈悲はそなたと無関係するとき、菩提心もそなたと無関係する。菩提心がないと、仏法を学べない。そなたはどんな読経しても真言を唱えても、如何なる多く行っても役に立たない。役に立たないとはそなたは自分の業を転じられなくて、輪廻を解脱できなくて、衆生を助けない。出家衆は若し自分は在家衆より地位が高いと思えば、傲慢も起す。此れも修行の障碍だ。

あの募金した弟子の前の法師が昨日リンチェンドルジェ・リンポチェと面会を申し込みに来た。彼がリンチェンドルジェ・リンポチェの座席の前に来て、リンチェンドルジェ・リンポチェは在家のを見た。自分が出家、また弟子を収めて、在家の修行者に跪いておれをするか十分まよって、困って、最後にやはり跪いた。これは区別心で、実はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼が跪くかどうか気にかけない、彼に自由させる。そなた達を見て、我等は常におれをする八大菩薩はすべて髪の毛があるのなのではないか?全部在家の相を現れ、只地蔵菩薩は出家相を現れる。しかし出家衆も常にこれらの菩薩にお礼をする。顕教の地蔵菩薩像は出家相を現れたが、実は、チベット仏教の地蔵菩薩も出家相を現れる。

末法時代の衆生の業力はとても重くて、閉関する大福報がないので、本当に従順する必要だ。閉関した後大変福報があって、業を消して、証悟が出来ると思わないで、これらは全部正しい考え方ではない、衆生のためではないから。真な修行者はまったく衆生のため閉関し、閉関することを通じて自分の問題を良く見る。閉関した後外の人と違うのではない。仏を学ぶ者は外貌が普通の者と違って、生活方式が異なって、やり方が他人と違うのではなく、心が違うのである。そなたは仏を勉強し始めると、自分が一般な者ではいと知る必要だ。

菩提心を起こさなければお礼をもっと多くして、念仏が多くしても号転化することが出来なく、只すこしの福報を蓄積する。功徳のみ累世の業をまわって、未来を変わることが出来、さもないと只業力に従い輪廻する。しかし、菩提心を起こしても、閉関することを通じなければやはり修め得ない、そなた達がすべて唱える呪文は役に立たない、衆生を利益することが出来ない。仏経の中にすぐ閉関出来ると載せてあるが、あれは既に空性を証得して行者と言い、そなた達はまだ修め得ない勿論出来ない、部屋の中に閉めなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは前嘗て友達と一緒に「仏一」をしに行き、夜和室な部屋に寝る時、左右側に寝るルームメイトは一緒に行きを吐き出して、こちあち起きて、リンチェンドルジェ・リンポチェがまったく寝らねなかった。しかし翌日の四時に起きらなければならなくて、夜寝なければ、翌日閉関が出来ないと思うと、観世音菩薩に自分が衆生のため閉関するので、寝られるようにお願いした。願った1分後、2人ルームメイトが息を吐き出す事をとめって、リンチェンドルジェ・リンポチェが無事に寝つく事ができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生のため閉関する心は自然に起きて、人に教えてくれるのではない。その後、直貢チェツァン法王に皈依した後、菩提心を起こすなどこれら修行次第の理論を始めて勉強して、自分が前に既に自然に出来たのを発見した。あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェの心は衆生のためにするので、願いは自然に相応し、このような小さい物語りはとても多い。

現在坊間では多くの者は煙供を提唱し、いろいろないい事があると言った。実はそなた達が毎日1本の線香をつけて仏に供養するのは即ち煙供のである。仏を学んで、あるおかしい事を聞いて、自分が分かって、修めていると思わない。またテレビにある法器の常識を説く番組を聴いて、自分が密宗を勉強し始めると思わない。これらの法器がどの意味か、いつ用いるかをずと知りたくならない。実は、これらはリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助ける工具で、法器の大切さはその中にの意味で、用途と使うタイムのではない。ある者は他人の好奇心に満足するため、テレビの上に説明して、実は仏法を壊していて、これは大変良くない。仏を学ぶのは「聞、思、修」と「戒、定、慧」のであり、実修とは仏菩薩と上師の教導に従い、私達の身、口、意を改めて、只名相の解釈の上に注意するのでない。

坊間での名相を研究する者と同じではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは実証実実修の経験があり、そなた達が法会に参加しに来て、リンチェンドルジェ・リンポチェも坊間のように講演代を取るのではなく、自然にそなた達が好きな話しを説かなくてもいいだ。嘗てある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加するのが好きで、リンチェンドルジェ・リンポチェのご開示した仏法を聞きたいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った:「そうであれば、来なくてもいい、なのゆえだろう?そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法を聞いた後、大変好きと思い、しかし、現在が好きと言って、以後は嫌いになる場合もある。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょっとそなたの問題をいって、まったくそなたの間違いを言い、そなたは嫌いのため、離れる。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは坊間のように鈴と杵の意味を開示されれば、鈴だけで一ヶ月がかかり、杵も一ヶ月がかかり、更に深く説けば、1年がかかり、その中にの意味が深い過ぎるから、簡単に外形を説明するのではない、例え杵とは只五股と九股があり、実は大変深遠な意味がある。しかし鈴と杵が了解しても仏法を了解するとは言えない、行者も必ず鈴と杵を使って始めて修めるには限られない、あれは只縁を結ぶである。直貢噶舉派の大手印境界までを修めれば、鈴と杵を使う必要がない、一切は「心」の上に工夫をする。

そなたが菩提心を起こして、慈悲を修め得て、智恵が開いたら、とても明らか変化がある。慈悲と智恵を日常生活の中に用いて、どの衆生に対しても平等な心で持て成して尊重するのはこれは常より訓練する必要で、段々自然に他人野尊重を得る。衆生に対して平等で未来仏として、自然に衆生を尊重する。そなた達は何時も他人が尊重してくれないと思い、それはそなたが他人を尊重しないから。今年日本寶吉祥仏法センターで法会を挙げた時、ある弟子は石の上に座って、まだ撮影器材を上師の休憩室の入り口に置く者もいた、これは全部正しくない行為だ。道場の中にのどの石でも全部その理由があり、更に京都寶吉祥仏法センターはリンチェンドルジェ・リンポチェが創立した道場である。上師にたいして尊重することさえも分からなければ、他人を尊重するわけがないだろう。

一切の衆生を尊重すれば、職場でわざと工夫をしなくても人々はそなたが他人に対して尊重するのを段々感じて、そなたの違うさを発見し、そなたも段々他人の尊重を得る。なぜ釈迦牟尼仏は道中を歩いても、ある者が主動的に向かい彼にしたがって仏を学ぶか?釈迦牟尼仏の荘厳相は修行することより自然と生んだ。釈迦牟尼仏は法相が荘厳で、一切衆生を尊重し、衆生も感じられて、仏に対して尊重を起した。そなたの心中に他人を尊重すれば、外貌に現れ、他人がそなたを知らなくても、そなたのやり方と慎重より、そなたに尊重するとさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに厳格で、そなた達に対して少しもリラックスしないのは、そなた達に良い習慣を身につけさせる。顕教を学ぶのは割合に気楽で、密教の勉強が比較的に厳格と思わないで、実は顕教も大変厳格で、只多くの者は要求しないから。

菩提心を起こせば、諸仏菩薩がそなたをたすけて、仏を学ぶ上にの障碍を割いて、そなたを障害する人事物をしばらく側に放させ、彼らを取り消すのではなく、やはりある状況がでるが、そなたに仏を勉強するのを順調させる。そなたが足りる福報がなくても護法もそなたのため少しを動き、そなたが見えないが、そなたに出来させる。心之障害あるいは外在の障害を問わず、そなたが菩提心をおこして、自分のため修めるのではなく、仏菩薩はそなたのため動いて、上師もそうである。毎回法会終わりに皆が読んだ「菩提心妙寶」とは皆の菩提心を訓練し、菩提心は使いやすい、多くの衆生に利益することが出来て、宝だといえる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜこのように厳格なのか、そなた達に対して少しもリラックスしない。それはそなた達に良い習慣を身につけさせるため。顕教を学ぶのが比較的にリラックスすることができる。密教を学ぶと比較的に厳格だと、と思わないでください。実は顕教もとても厳格であり、ただ多くの人は求めないのである。

この時、ある女弟子はあくびをした。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が立ち上がると指示し、また彼女にどのくらい皈依したかと聞いた。彼女は既に七年間と回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:「既に七年を皈依したのに、またあくびをして、菩提心を修めないとの現われだ。現場でリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が寶吉祥仏法センターの赤い法衣を戻させ、信者になり、これから寶吉祥仏法センターとリンチェンドルジェ・リンポチェに供養する必要がない。この弟子の心の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた菩提心と自分と関係ないと思って、自分が出来ない、耳に入らないで始めてあくびした。これも彼女が集中しなくて上師の開示を聞き、考えが多くて酸素を多く尽くして、酸素がかけて、自然とあくびをした。

人様は多すぎて複雑な考えがなければ、呼吸した酸素は自然と十分につかう。酸素が体内の器官と細胞の運営をさせ、考えが多くて、思いが多ければ、酸素とエネルギーはこの方に消耗して、時間が長くなるとお体も良くなくなった。外のところであくびをしてもかまわなく、居眠りをしなければいいと思い、しかし寶吉祥道場ではいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアで仰った。そなた達は1人視力の良い上師に皈依し、先あの弟子はとても技巧で少し体を斜めにして隠そうとしてあくびしたが、やはりリンチェンドルジェ・リンポチェに見られて、これもアキ・ドロルマの手伝いで、そなた達はもう修めなくて、改めなくて、真に仏を勉強しなければ、アキ・ドロルマはそなた達を一人ひとり掴みだす。

なぜそなた達は常に間違って上師に罵られるのでしょうか?が、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に務めて少なくて罵られるのでしょうか?ただ一回でホームページの内容はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に間違って書かれたので、リンチェンドルジェ・リンポチェに直貢チェツァン法王に罵られて、この以外に、直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェにほとんど少なくて罵る。この差別はただ心を使うかどうかだけである。上師に皈依することはとても重要で、なぜならば、上師がそなたに監督し、そなたにどこで間違うこと教えてくれるわけである。

尊勝なる直貢チェツァン法王はインドに遠くているが、ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに監督している。最近、直貢チェツァン法王は電話でリンチェンドルジェ・リンポチェがホームページにある一言をうまく言ったことを言及した。直貢チェツァン法王は常にコンピュータを使って、これにより、直貢チェツァン法王はずっとリンチェンドルジェ・リンポチェを視ている。

仏を学ぶことは本当に自分のためではない。例え表面的そなたが学んでそなたが修めても、しかし、そなたの一人で修めるのではなくて、また、多くの衆生がそなたと一緒にいる。これはそなた達が思う後ろに従う無形な衆生ではなくて、そなたの身にいるもので、体内の腸の中の細菌を含んで、これらの衆生がいないならそなた達も生きられない、自分が最も重要な者と思ってはいけない。仏経に記載されているのは人々の眉と首に多くの寄生虫がいて、そなたと一緒に生きていて、現在、科学もこの点を証明された。人々は生まれてから、眉と首に多くの種類の虫がいて、そなた達のすべての人がある。

そなたたちはすべて衆生の一人で、そなた達の個人の苦しみはそなた達に対してとても厳重であるかもしれない、が、この宇宙には衆生が六道に輪廻する苦しみに比べて、そなた達の個人の苦しみが本当に取るに足りないで、が、衆生が輪廻の中に本当にとても苦しむ。菩提心を発することがないならば、真言を唱えて、座禅を組んで、閉関をしても、ただ人天福報を累積するだけで、そなたに業力を変わって生死を解脱させる功徳のではない。一部の人々は人天福報があることも悪くないと感じるかもしれない、多くの人々は人間とすることが悪くないと思っている。そなたたちはこの世に人間としてどれだけ苦しみ、どれだけの挫折、どれだけの風波、静かって我慢することを回想してください。多くの男性は表面的にどのぐらい地位に至ることがとても威風があるように、実際に多くの苦しみを経て、苦しみのところがただ自分だけで知っている。なぜならば、男性は涙を流れられないで、が、帰宅してから、布団をつけて悔やんでいる。人道の苦しみは楽しみにくらべて多くて多くなって、そなた達は人道に経る苦しみと楽しみがすべて体得するはずで、人とすることが何かよいのでしょうか?天道にいたら大きな福報があって楽しんで暮らすことと思ってはいけない。楽しんで暮らしても、多くても5百年、1千年、1万年、10万でも、すべてとても短くて、一瞬に終わると感じられて、結局、依然として輪廻していく。

ある者は上師ではないけれども、他人に読経するように教えて、そなた達は何に基づいて仏法を開示するのでしょうか?果位がないならば、他人にどの経を唱えることを教えないて、あるいは、何を読み間違えることを言わないでください。実は、どのお経を唱えても成就ができて、しかし、坊間に『地蔵経』が夜に唱えられないで、あるいは、鬼を招いて、昼間に『薬師経』を唱えるはずなどである。いかに仏経を間違って唱えることがあるのでしょうか?そなた達が真言を唱えてから自分が達成したい効果がないならば、自分が間違って唱えることと思っている。真言は上師から伝えられて、伝承から伝えられて、このように言ったらまさか上師が間違うのでしょうか?すべての仏経は釈迦牟尼仏に諭されて、自分が仏経を間違って唱えて、ほかのお経を唱えるはずだ思ったら、このように言ったら仏を謗るのでしょうか?いかなる法門は衆生に仏になることに助けられて、仏経を間違って唱えることがない、ただそなたの心が間違いだけである。

だから、上師に皈依して仏を学ばなければならなくて、上師が経験があった修行者で、とても重要な務めは人に応じて適切な教育をして、弟子の根気と因縁により、彼に最も適して修める法門を教導し、その上、弟子に堅持してすることを監督する。そなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェのようなことをやり遂げないで、だから、必ず言うことをきかなければならない。なぜそなた達に上師の功徳を常に褒めることを教えて、上師と菩薩はそなたの褒めがいるのではなくて、却って、そなたが言うことが誰かが聞きたいなら、衆生に因縁があって、仏菩薩の助けをもらえて、将来に機会があって仏法を学んで、生死を解脱される。しかし、そなた達はただ少しの変わりがあったら、すべて自分が修めて来ると話す。

ただ仏法に関することであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に必ずお伺いを立てて、尋ねてからしていって、自分ができると思ってからしてはいけない、なぜならば、自分がはっきりみえないことを恐れて、自分が高慢することを恐れて、況して、直貢チェツァン法王の同意をもらうt、上師とすべての教派の加持をもらって、衆生に順調な利益をもらえられる。多年の前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を広めたばかりに、多くの人々は直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに特に可愛がって、私的にリンチェンドルジェ・リンポチェに多くの法を伝えたと思っている。実は、本当にこのようのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に皈依したばかり時に、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに特に何を伝えるのではなくて、ほかの信者と同じ態度で、先にリンチェンドルジェ・リンポチェに観察した。いま、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に法をお伺いを立てるなら、直貢チェツァン法王がほとんどリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えて、しかし、これは後のことである。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの心がすべて衆生のために、学ぶ法がすべて衆生に利益するわけである。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに病状を好転させることを求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して、仏法にてそなた達に病状を好転させることがとても簡単なことである。最近、リンチェンドルジェ・リンポチェはニュース事件の中で交通事故が発生する母子を救って、患者の昏迷指数もますます上げて、仏法により病状に好転させることがとても簡単で、しかし、これは最も重要なことではない。最も重要なのはそなたが仏を学ぶことを始まって、五戒、慈悲、知恵、菩提心を修めて、やり遂げるならば、未来が必ずよくなっていて、この世に病気があっても、そなたに仏を学ぶことを障碍させない。

人生の時間はとても短くて、瞬く間に半年はまた経て、この世に地球で仏を学んで修行する時間がまた半年を少なくなる。半年、半年で経て、人生はとても速くて終わる。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に法会がもうすぐ終わる時に、そなた達に法会が終わってから、友たちと一緒に食事してチャットしないで、帰宅してよく静かって法会の中の開示をうまく考えることを教えた。これは聞思修の「思」である。リンチェンドルジェ・リンポチェがかつて「聞思修」の修行方式が開示したことがある。「聞思修」それから「戒定慧」で、そして、慈悲心を発して、慈悲を修めて、最後菩提心を修めて始めて、これは次第がある修行の方式である。そなたたちは長年で仏を学んで、なぜ菩提心を発することができないのでしょうか?この次第にしたがってすることがないわけである。そなた達は菩提心を発していないならば、お経を唱えて仏を礼拝しても役に立たないのである。施身法を言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは空性の慈悲を認めないなら、菩提心を発していない、これらのくる衆生に助けてあげない、これらの衆生が主法者に許さないで、主法者に状況させて、法会に続けて行わせない。

かつてあるものはリンチェンドルジェ・リンポチェに300坪の事務所と500坪の道場に供養し、しかし、条件がリンチェンドルジェ・リンポチェに彼に肉食させる。リンチェンドルジェ・リンポチェは先に彼に同意することができて、彼に布施の功徳がとても多くて、後で彼にゆっくり菜食することを同意する。が、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような利益の誘惑を受けないで、そなた達であれば、きっと動揺する。かつて政治人物は私的にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見すること要求し、リンチェンドルジェ・リンポチェも婉曲な拒絶をした。先日、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場の上師休憩室に二人の出家衆の女弟子に仏法を伝えて、休憩室のカーテンを開けさせて、リンチェンドルジェ・リンポチェが男性で、二人の出家衆が女性で、慎重にするはずのである。これも戒律を守るのである。

現在、末法時代で、社会に多くの誘惑があって、特に修行人に対して多すぎの誘惑があって、さまざまな誘惑が纏めると「名」と「利」で、ちょっと油断で名声と利益の落とし穴に落ちて易くなる。これもなぜリンチェンドルジェ・リンポチは番組を参加しないで、メディアの取材を受けないで、名声と利益を誘惑させたくないで、また、簡単に高慢になるわけである。そなたたちは番組を参加して仏法を諭すことをしないで、このようにしたら、見せる人に仏法をうけることと思ってはいけない。今日、こんなに多くの人々は法会に参加し、番組でリンチェンドルジェ・リンポチェを見てくるのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェも何も宣伝をしないで、そなた達が来るのがそなたの友たちがそなたに言うかもしれないし、しかし、そなたが聞いても行かないこともできる。そなたは法会に参加することを決定し、縁があることを表示する。そなたたちはすべて直貢噶舉と縁があって、だから、他人が言うとそなたが来るわけである。いま、多くの上師は名声と利益のために逆に弟子に影響されて、だから、仏経が修行人に名声と利益を注意しなければならないことを提示する。気をつけていないならば、弟子を影響することができなくて、逆に弟子に影響される。たとえば、募金して助ける女弟子は彼女の前の師父にお金がくることが簡単で、逆に正確がない考えをもって、逆に精進して修行しないで、これも彼たちにとてもよくない。

衆生はすべて仏性を具えていて、上師とする任務はそなた達が仏になる条件を開発する。そなた達がいまいるのは最も困難な段階で、自分の行為を改正することが本当にとても困難で、上師の前に、自分の前に自分の間違いを承認し、自分の間違いを改正することがとても困難である。この修行の過程はとても困難で、しかし、この前の困難なことを我慢できて、本来の仏性を回復できるなら、その後一切がとても簡単である。縁を大切するのは他人に喧嘩しないのではなくて、却って、仏を学ぶ因縁を大切されて、簡単な放すのではない。上師はそなたのために調整して手配し、そなた達は仏法を学ぶ機縁があったら、仏菩薩と上師の教導を聞かなければならなくて、この世の意義と方向をわかって、この世に浪費しなければならない。

なぜそなた達にも共修法会に参加させるのでしょうか?そなた達は法会に来て、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達にみてそなた達の問題をみえて、直ちにそなたに指摘させて、自分が家に修めることと思ってはいけない。そなた達は家に毎朝に起きて子供と主人に朝御飯を準備し、忙しくし終わった後に功課をするときに、心の中にまた主人がなぜまた電話がこないことを思っている。自分が修めること思いきや、実は生活を暮らしているだけで、お経を唱えることがただ時間を潰し、お経を唱えるときにこれらの考えがあったらそなた達によくない。また、そなた達は家に功課をするときに、衣服が随意につけて、整然なつくのではなくて、このように本当にとてもよくない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が弟子とするので、そなた達の間違いを指摘し、そなた達が続けて間違っていくことを保護し、輪廻の中に下りることを避ける。上師はそなた達に問題を見付かって、そなた達に改正してあげる。自分のすべての問題を並べて、自分をだまさないでください、上師をだまさないください、菩薩をだまさないでください、自分の問題を改正しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが伝えるのは直貢噶舉派の教法で、直貢チェツァン法王が教えてくれる仏法である。そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェが教える方法を聞き入れて、完全にしたがってして、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに加持するだけではなくて、直貢チェツァン法王もそなたに加持し、すべての直貢噶舉派の伝承上師がすべてそなたに加持する。このように多くの護法と仏菩薩は後ろにそなたに助けて、何を心配するのでしょうか?そなたが足りる福報があって正確な決定をするとしても、護法も後ろにそなたに助けて提示し、ただこれらの助けをそなたたちに見えない。そなた達がやり遂げないのは決定をしないわけである。信が足りない。いわゆる「信」とはひとつは因果を信じていないで、因果を信じるなら再び如何なる間違いを犯す勇気がない、また、信がもうひとつの処がとても重要し、自分が仏の教導に従って未来が必ず仏になることを信じる。

仏が説かれる一切なのは信じていて、仏が諭すことはすべて真実語で、仏が衆生が仏になる条件をすべて備えることを諭した。そなた達は自分がやり遂げることを信じていないで、先、そのあくびをした弟子がこのように、上師が説く菩提心が自分ができないで、私と関係がないで、だから、あくびをした。最近、何人の弟子は法会にあくびをするので放させて、アチ護法がとてもすばらしくて、そなた達は本当に仏を学ぶのではないなら、アチがそなたに寝たくて上師に離される。

菩提心を発する人は心が何も恐れないで、因果を深く信じてるので、少しの悪を行わないで、未来が安全でまた落ち着くのを感じている。毎日に暮らしがとても安心して、上師が説くことが自分がわかるかどうかを思っていない。いつに修めるか?いつまでに悟られるか?これを考えないで、ただ上師が教導してくれる方法を生活に使って、おのずから心が安定して、知恵を開けられる。

そなた達は上師の教導により自分を全部で自分を改正し、最初の困難過程を我慢してから、その後、簡単になって、未来に機会があって、浄土に行けて、その時に、みなはあそこに楽々して仏法を会話することができる。みなは浄土に修めるときに、それは本当の同修で、その時に、みなは「どこに衆生が済度することが必要する?今日、あなたが済度していって、私はいかない」とお互いに討論し、あるいは「明日にどの仏様の浄土に行けるか」と討論する。その時に、どの仏様の浄土に行きたいならば、行けて、これは物語ではなくて、本当にやり遂げて、そなたたちはこの日に絶対があることを信じている。リンチェンドルジェ・リンポチェは先に行って、浄土にそなた達を待っていて、なぜならば、そなた達が若くtれ、だから、そなた達が後ほどいく。ある者は自分が仏を学ぶことがこれのためではなくて、仏になるのではない。だから、そなた達が決心をしてうまくて修めないならば、未来世にリンチェンドルジェ・リンポチェを難しくて見つかって、そなた達の業力をますます多くなって、その時に業により暮らすことになる。

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2012 年 09 月 13 日 更新