201:飛ぶ鳥の如し──日本にいるリンチェンドルジェ・リンポチェは海を渡ってアメリカにいる父にポワ法を修法して下さいました

私は、黄英俊と申します。この度、父がリンチェンドルジェ・リンポチェの「ポワ法」を受けた過程を報告する機会を得られたことに感謝し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げます。

私の父は、2007年11月23日に往生しました。その時、父はちょうど満93歳でした。実は父は七十を過ぎてから嘗て中風を患ったことがあり、脳内出血を起こしたため、歳をとるごとに行動が不便になり、最後には小脳も萎縮してしまい、完全に歩けなくなりました。他には、父は十五年前、病院で頚部の手術を受けたのですが、回復室にいた時、自分で呼吸管を抜いてしまい、咽頭軟骨を傷つけてしまったため、以後飲み込むことが困難な状態になりました。私たちは普通、食べ物を飲み込むと胃へ入りますが、父は飲み込むと肺へ入ってしまい、肺炎を起こすのです。

それで五年半前に、父は肺炎で病院に入院したことがあります。当時アメリカにいたのですが、入院した後、医師の精密な検査により、以後は何も飲み込むことができなくなりました。そのため、父は腹部に穴を開け、そこから栄養分を取ることになりました。つまり、この五年半の間、父はベッドに寝て食べ物を食べることができない、非常に辛い状態でした。特に老人の体力は常に変化するため、栄養食の量が多かったり、入れる速度が少し速かったりすると、吐いてしまいます。しかし、それでも外へ吐けば良いほうで、仮にそれが肺へ入ってしまうと、肺炎になり、そうなると、老人の肺炎は非常に面倒なことになります。

他には清潔面があり、少しでも注意を怠り、大便が何度も出てそれをすぐに処理しなかったりすると、小さな子と同じで、お尻が赤く腫れてしまいます。かと言って、何度も拭くと皮膚がむけてしまい、何日も経ってやっと良くなるのです。そのため、私がいる時には、漢方薬を飲ませ、便の量が多いのを少なくし、柔らかすぎるのを硬くし、回数が多すぎるのを少なくしていました。そのため、こんなにも細心を払わなければならないので、いつも家を離れるときには心が乱れていました。

ある年、ネパールのルンビニにいた時、私は リンチェンドルジェ・リンポチェに父の状況を報告しました。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは私に活を入れ、「私がなぜ、あなたを叩いたかわかりますか?」と尋ねました。リンチェンドルジェ・リンポチェが、後日私に開示したところによると、あなたは上師を信じず、菩薩も信じていないからということでした。因縁は互いのものであり、もしも教えに従ってしっかり実践しなければ、何をお願いしても何も叶うはずがなく、教えに従ってしっかり実践すればいいのだと解りました。そのため、それ以降、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに父の情況のことを聞かなくなりました。が、反対にそれ以降、リンチェンドルジェ・リンポチェは、いつでも父の情況のことを気づかせてくれるようになりました。

確か、2006年の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは私に福報を累積する貴重な法門を賜って、私に毎日アキ護法をお願いし、父にリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得させなさいと言いました。それで、その時から私はずっとそのようにしてきました。

皈依弟子黃英俊は誠に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝して、今まで父親への加持及び加護を与えました。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関する前のある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは私に、十二月に日本で演唱会があるので、奥さんと一緒に参加しなさい!と言いました。当時の私はそんなことができるわけがない!と思いました。なぜなら、妻は私の父の世話をしているので、できるわけがないのです。その後、田兄弟子が私にリンチェンドルジェ・リンポチェができると言うならできるのですよと言いました。私は今振り返ってみると、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは父がその前に亡くなることを暗示していたのだろうと思います。リンチェンドルジェ・リンポチェは、閉関後、私に、あなたのお父様は10月に往生されるでしょう。旧暦の10月はおよそ新暦の11月ですとおっしゃいました。9月初旬、私は、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行くと、今回、戻った時にあなたのお父様は亡くなりますと言いました。そのため、9月末の時、父が肺炎で入院したと聞き、私は妹と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法で父を済度する事をお願いしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に了承してくださり、そして私たちは喜んでアメリカに戻ったのです。

アメリカに戻って父の主治医に父を退院させてくれるように頼みました。なぜなら、父は最期の数ヶ月の間、よく泣いたのです。私は嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに父が泣くというのはどのような意味があるのでしょうかと尋ねたことがあります。リンチェンドルジェ・リンポチェは、第一に、彼はあなた方子供たちを疲れさせたことで泣いている、第二に、彼は旅立ちたいと思っている、だからあなたは病院で様々な処置をしないようにと言いました。そして私は医師に退院をお願いしたのです。医師は退院したいならそれもいいでしょう。看護士に注射を打ってもらいましょう。10日間打ってくださいと言いました。私は医師に10日間注射を打つという意味はどういうことですかと尋ねました。医師は、「10日間注射を打てば、あなたのお父様は半年寿命が延びるでしょう!私は気管切開をしておいてあげましょう!」と言いました。私は、それは絶対にできませんと言いました。私はそれでは注射をしなければどうなりますか?と尋ねたところ、医師は三週間くらいで亡くなるでしょうと言いました。そして、私は再度医師にあなたは半年間生きたら何か意義があると思いますか?と尋ねたところ、医師は特に意義はないでしょうと言いました。私は、そうです!と答えました。それでは私は父をこれ以上苦しめたくないのでこのまま父を退院させますと言いました。

退院後、私たちの看護が良かったせいで、三週間が過ぎ、父の様子は益々良くなっていくようでした。私は心の中で、私が教えに従ってしっかり実践していなければ、父はまた苦しむようになるのではないだろうか?と思っていたところ、やはり、往生の11日前の晩、父は突然吐きました。その時私はそれを見て、はっきり解りました。その吐いた汚物は殆ど肺の中へ入ったのだということを。その時、もしも今私が何もしなければ、父は数日内に逝くだろう。しかし、妻は私の父をずっと長い間、看護してきたので諦め切れません。彼女は主治医に電話したところ、看護士に明日注射を打ちに行き、四日間打つと言いました。その後、情況は益々悪くなり、心拍数、血圧はどんどん下がっていきました…。亡くなる3日前の晩、父は黒い粘り気のある便を出しました。私は、これは宿便だろうと思いました。毎日連続三日間、便を排泄し、私は父が間もなく旅立つのだと解りました!そして私はすぐに看護士にもう注射は打たないように要求し、私たちは全ての治療を放棄しました。

そして、11月23日夜中の3時半、父は旅立ちました!父が旅立つ時、私はすぐに電話を掛け、時計を見ると3時半を指していました。台湾はその時、7時半です。私は頼兄弟子と連絡がついた時、彼女はずっと私の電話を待っていたと言いました。頼兄弟子はすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェに連絡を取るので待っているように言いました。そして、すぐに彼女から電話があり、三分後にリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたのために修法を行うと伝えました。

修法前、私は父の額と後頭部に触ってみました。前も冷たく、後ろも冷たい状態でした。30分後、修法が終わった時に触ってみると、前はやはり冷たいのですが、後頭部は暖かいのです。しばらくすると、枕まで熱くなってきました。そして顔つきも良くなってきました。元々口は大きく開いた状態でしたが(鼻腔が通らないので口で呼吸していたため)、ゆっくりと口が閉じてゆき、最後に口が少しだけ開いていました。その時の様子はずっときれいな顔になり、父はまるで眠っているようでした。最後に家で30分かけて服を着せた時、体は柔らかい状態でした。お経を8時間唱えた後、葬儀会館へ送りました。葬儀会館の職員はもう一度お清めをする必要があると言いました。お清めをする時、口はすぐに閉まりました。葬儀会館の職員は私にこのような状態だと喜んでいました。父の体はこの時も柔らかい状態だったのです。

全ての過程に於いて、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさん、たくさん私を助けてくださいました。それは私の体、私の母にも及びます。私はもう一度、皆の前で言います。私の父が亡くなったのは10月14日(旧暦)でした。それはリンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃった10月に往生するというのとぴったりと合います。リンチェンドルジェ・リンポチェは父に会ったことがなく、写真すら見たことがなく、更には声も聞いたこともありません。なんと不思議なことなのでしょう!もう一度、リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩に感謝致します。同時に頼兄弟子がその数日、きっと寝ることもなく、私の電話を待っていてくれたことに感謝します。更に田兄弟子に感謝します。多くのことは彼女に頼り連絡したものです(私はアメリカにいました)。感謝!皆様に感謝!ありがとうございます!

弟子 黃英俊 謹んで書き上げます
2008年12月29日
2016年12月2日修正

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2016 年 12 月 02 日 更新