045:リンチェンドルジェ・リンポチェのおかげで、重大な交通事故から命を救われた
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで助けてくれて、本日ここに立って諸仏陀菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝の意を表せる機会を与えてくれたことに感謝します。リンチェンドルジェ・リンポチェからお助けやご恩恵を何年も受け続けたにもかかわらず、弟子としての私が仏法を学ぶ決心はしませんでした。いつも心の中でリンチェンドルジェ・リンポチェの大福報から守られているから大丈夫だと安易に考えて、衆生に懺悔する気持ちは、みじんもありませんでした。
毎年リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の修行で留守するたびに、私はリンチェンドルジェ・リンポチェのご庇護がなくなるではないかとびくびくしていました。特に今年、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関の修行がいつもより長かったです。交通事故が起きたその日、学校で授業を受けた時に、心の中でもう少ししたらリンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の修行を終えるから、私は無事に過ごすだろうと思ったことを覚えています。今まで衆生に懺悔する気持ちは毛頭もなく、自分の利己的な考えにちっとも恥ずかしいと思ったことはありませんでした。今から思い出すと、本当に恥ずかしいです。
交通事故は民国96年6月28日夜8時に起きました。私は原付に乗っていて、急に一台のタクシーがウィンカーをせずに対抗車道からこっちの車道に突っ込んできました。車二台の距離は大体歩幅10歩ぐらいの至近距離でした。タクシーがこっちの車道に突っ込んできたのを見た瞬間、大変、ブレーキが間に合わない!事故が起きっちゃう!と思って、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェを観想しました。そう思ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは遠くない空い現れて、次の瞬間、私はタクシーのフロントガラスの上の縁を飛んで、体の左側がフロントガラスにぶつかって、また別のところへ飛んで行きました。空中で何周回ったか分かりませんが、どこへ飛んでもリンチェンドルジェ・リンポチェがずっと目の前にいらっしゃいました。2周目飛んだ時のことをよく覚えています。心の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェに、とても恐いよ、なんでこんなに長く飛んでもまだ地面につかないかと思いました。そしたら、とても優しい声が聞こえて、私に「リンチェンドルジェ・リンポチェを信じよう」と言ってきました。心の中で、「もちろんリンチェンドルジェ・リンポチェをを信じています」と返事して、それから意識を失いました。
時間はどれくらい経ったか分からないけど、誰が「お嬢さん、聞こえますか?」と叫んだのが聞こえて、また別の人が、「彼女は自発呼吸しているけど、意識が遠のいているよ」と言って、また「はやくCPR装置を作動して」と言ったのが聞こえました。実は心肺蘇生法を行われたら肋骨が折れる可能性があって、かなり苦しまなきゃならないと知っているから、心の中で、もし死んでしまっても大丈夫、どのみちリンチェンドルジェ・リンポチェは助けてくれると思いました。それから私が目を開けた時に、看護婦さんは私をレントゲン室へ運んで行きました。レントゲン室の担当のお姉さんは、こんなに骨が砕けた人を見たのは久しぶりだなと繰り返し言いました。私はあまりの痛さに叫びまくってレントゲン室のお姉さんは私がショックを起こすのではないかと心配そうな表情でした。
再び集中治療室に帰された時、多くの道場の兄弟子たち、兄嫁も病院に駆けつけてくれました。兄弟子達は続々と駆けつけてきて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真と甘露水を持ってきてくれて、寶吉祥漢方薬診療所の漢方薬軟膏をも持ってきました。私が常にリンチェンドルジェ・リンポチェのお顔が見れるように、兄弟子達はずっとリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を持ち上げてくれました。また彼らは綿棒で甘露水を飲ませてくれました。私の左顔と左手も怪我したので、兄弟子たちは漢方薬軟膏で傷のところを塗ってくれて、一日、二日ぐらいで、もう顔の傷跡は分らないほどよく治りました。
兄は何度もリンチェンドルジェ・リンポチェをよく観想しようと念入りしました。翌日の午後オペ室に入る前に、兄弟子の方さんもわざわざ病院に駆けつけてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェをよく観想しようと念入りし、リンチェンドルジェ・リンポチェは守ってくれると言ってくれました。オペ室に入った後、医療関係者たちは両足の骨がこんなに粉々に砕いた人を見たのは本当に久しぶりだと言っているのが聞こえました。手術の麻酔がされる前からリンチェンドルジェ・リンポチェを観想し出しました。手術が進行している間、自分がまるで太陽のような金色、白い明かりのボールかのような空間にいると思えました。再び目が覚めた時、すでに集中治療室に帰ってきていました。
後で分かったことですが、手術の開始から集中治療室で目が覚めたまで、この間に8時間を過ぎました。手術の間に、夢の中で一人のおじいさんが私のそばにやって来て、ついておいてと言いました。私は嫌だと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェが迎えに来たら、リンチェンドルジェ・リンポチェについていくと返事しました。そうするとそのおじいさんは私の家族、同僚、上司、同級生など様々な顔に変わって、またついておいてとしつこく言いました。私はずっと嫌だと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェが迎えに来るまで待っているから、リンチェンドルジェ・リンポチェが来なければどこにも行かないと返事しました。そのおじいさんは次に彼について行ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場所に行って私を迎えると言いくるめましたが、私はやはり嫌だと断りました。こんなやりとりしている最中に、そのおじいさんはリンチェンドルジェ・リンポチェに変形できず、リンチェンドルジェ・リンポチェが私を守るために作ってくれた光の球室にも入れませんでした。それから兄は集中治療室で私を軽く揺らして、私はやっろ目が覚め始めて、そのおじいさんは無駄な時間を使わせてやがってと文句をこぼし、不機嫌な顔してやっと去りました。
集中治療室に戻ってから、私の血圧は下がり続け、看護師さんは医療機器から音が出たたびに、ベッドに駆け寄ってきて私としゃべり、私が寝たら昏迷状態に落ちる恐れがあるから、寝ちゃいけないと言い続けました。ある時医療機器から音が鳴りっぱなしして、三名の看護婦さんは家族に最後の顔を見に来てもらおうかまで議論しました。幸いなことに、リンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩のご庇護のおかげで、弟子の私は一番の山場を無事に過ごすことができました。
一般病室に変わってから、血圧は40ぐらいまで下がり続けたため、ずっと昏迷状態でした。兄は寶吉祥漢方薬診療所に電話して助けを求めました。漢方医の先生は兄から私の様子を聞いてすぐ漢方薬を処方してくれました。兄弟子は処方された漢方を煎じてわざわざ病院まで届けてきて、薬を受け取った時にまだ温かったんです。薬が届いた時は夜の10時すぎ頃でした。私は11時に薬を飲んでからまた眠りに落ち、早朝4時に看護師さんが血圧を測りに来たとき、血圧はすでに正常値に戻りました。それからは血圧が再び下がることはありませんでした。
一般病室に変わったばかりの時、痛いと訴えなくても看護婦さんはモルヒネを打ちに来ました。1、2日が過ぎてから兄弟子は私がモルヒネに病みつきになるのを心配して、痛みは我慢できないほどになるまでモルヒネを打たないと教えました。私はできるだけ我慢して、激痛を感じた度に、リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真をみて、心の中でリンチェンドルジェ・リンポチェにとても痛いと訴えました。不思議なことに、それを言うと痛みはゆっくりと消えていって、看護婦さんも私があまりモルヒネを使わないことにびっくりしました。
しかし、自分の何世代を渡ってやってきた悪業があまりにも多すぎるため、7月5日にまた2回目の手術が行われました。手術すると8月にラダックの聖地巡礼へ行けなくなるのではないかと心配しました。私はラダックの聖地巡礼に行けるように、毎日アキ護法、リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真にお願いしていました。医者さんが診察しに来た時に、私はいつ退院できるかと聞きました。医者さんはあなたの場合はかなりの重傷なので、病院で少なくとも6ヶ月、もしくはもっと長く病院にいなければならないから、長期にわたって寝たきりになると心の準備はした方がいいと言いました。私は更にいつ回復できるかと尋ねました。医者さんは基本は1年で、2、3年もかかって、更にもっと長引く可能性もなくもないから、個人差にもよるけど、少なくとも1年はかかると返事しました。
幸いリンチェンドルジェ・リンポチェのいつものご加持とご庇護のもとで、医者さんが毎回部屋に見に来たたびに、私の回復が順調だと言って、7月13日に退院できて家で静養することになりました。
7月末に、右足のひざの内側が三分の一ほどくぼんで、右足は曲がれず萎縮したことに気付きました。術後診察の時にひざのくぼみを訴えたため、8月3日に再び入院することになりました。入院当日にMRI検査した結果、整形外科、放射線科の医者さんと理学療法士は骨と筋肉がくっついたため、リハビリの時は大変苦痛なので、恐らく手術で解決する方がいいと言いました。それから1日がすぎ、ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に帰ってきたので、水曜日の午後に道場に行ってリンチェンドルジェ・リンポチェのお目にかかりました。リンチェンドルジェ・リンポチェのご加持とご開示をいただき、その日の夕方にくぼんでいたひざが少し元に戻りました。木曜日の朝に医者さんが病室へ診察しにきた時、膝のことはただの血の塊で、軟膏で揉んでうっ血を解消したらいいと診断しました。リンチェンドルジェ・リンポチェのご加持を感謝します。
リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の修行を終えて、台湾に帰ってきたら、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈しく次のように開示しました。弟子は死んでもリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を助けて、弟子は生きていても、リンチェンドルジェ・リンポチェも弟子を助けるということです。私は心の中で大変恥ずかしく、悔しいと思いました。長年リンチェンドルジェ・リンポチェのお助けを受け続けたにも関わらず、今まで心から自分が何世代を渡ってやってきた過ち、衆生に対して懺悔するどころか、衆生を傷つけたことに、ちっともうしろめたい気持がありませんでした。私のような愚劣極まりない人でも、高貴なリンチェンドルジェ・リンポチェは、私を見捨てずに、見くびることなく、追い払わず、かえってこんなに慈しく私に開示くださいました。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、大礼拝を終えたかとお聞きになったので、弟子の私は終わりましたと返事しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて百字明呪は終えたかとお聞きになって、私は終えましたと返事しました。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに、マンダを捧げるのを終えたかとお聞きになって、私はまだですと返事しました。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「心から懺悔せず、哀れみの心もなく、どれだけお経や呪文を覚えても無駄だ」と開示しました。
リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の私に8月17日にラダックの聖地巡礼へ行く機会をくださったことに非常に感謝しています。8月14日の朝に私は医者さんに退院すると言ったら、医者さんは私は聖地巡礼のために急いで退院したいと分って、カンカン怒りました。しかし私は医者さんにどれだけ先生に怒られても、絶対退院して聖地巡礼へ行かなければならないと言いました。医者さんは見向きもせずに部屋から出て行って、看護婦さんも恐る恐るついて出て行きました。30分ぐらいしたら、看護婦さんがもう一回レントゲンを撮ると知らせにきました。翌日の夜に医者さんは不機嫌な顔で病棟に来て、最初はやはり退院して聖地巡礼にいくかと聞いてきました。私ははいと答えました。医者さんはレントゲンから見たらすべての骨が固定されているけど、骨は癒合する気配はないから、退院するかどうかをちゃんと考えなさいと言いました。私はやはり譲らないので、翌日の朝は退院の手続きしました。
私のような足が不自由で、何もかもみんなに手伝ってもらわなきゃならない弟子をラダックの聖地巡礼に参加させてくれたことに、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければなりません。そして祥楽旅行社にもとても感謝しています。普通の旅行代理店だったら、お金を遣してお願いしてもツアーに入れてくれないはずです。リンチェンドルジェ・リンポチェは旅行代理店の兄弟子に、私に最善の手配をするようにと念を押してくれました。リンチェンドルジェ・リンポチェは家族さえ思い付かなかった細部までこまごまとご指示くださいました。巡礼の道中、旅行代理店のスタッフ、すべての兄弟子はとても世話してくれました。今までみんなに気をかけたことがなく、みんなのため力を尽くしたこともなく、道場の仕事に対しても自ら手伝うことはなかったのに、今回の交通事故で兄弟子皆は私を助けて、気をかけて、支えてくれました。心から非常に感謝しながらたいへん恥ずかしく思いました。ここですべての兄弟子に申し訳ないと、ありがとうと言わなければなりません。
ラダックに滞在している間、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても弟子の私に気をかけてくれて、ある晩旅行代理店の添乗員さんにリンチェンドルジェ・リンポチェが加持したクッキーを持たせて来てくれました。当時私たち一家は大変感激しながら、恥ずかしく思いました。
ラダックから台湾に帰ってから、また病院の外来を通い始めました。医者さんは私のレントゲンを撮って、骨がずれていないと確認しました。医者さんは次は骨が成長し始めたとうれしく言いました。レントゲンから見ると、骨折した箇所は全部成長しはじめて、もともと医者さんが成長できず、人工関節で固定しようという大腿骨も成長し始めました。医者さんは仏法の力は本当に凄いねと言いました。この時から二週間一回の通院から毎月一回に変わりました。
9月に経過観察の診察を受けた時、医者さんはうれしくレントゲンを見つめていました。簡単に状況を説明すると、私の骨は継続的に成長し、10月26日に過観察の診察を受けた時、医者さんは骨の伸び具合が良好なので、杖に換えていいと言って、これからはもっと歩く練習しようと、今度の診察は2ヶ月後にしたらいいと言いました。
手術した時、医者さんはベッドで半年かもっと長く寝たきりになって、歩き出すには1~3年ほどかかると診断しました。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩のご庇護のおかげで、明日はもう病院で杖を使う練習していい状態になりました。医者さんはあと2ヶ月で骨が癒合できると言いました。医者さんは喜んでなぜこんなに速く回復できたんだろうと言いました。毎回診察を受けた時、医者さんは仏法の力は本当に凄いねと称賛しました。
退院してから、鎮痛剤は一つも飲まず、他の西洋医学の薬も飲まず、完全に漢方を飲んでいます。最初は水薬しか飲めず、2週間前から漢方薬診療所の漢方医は粉薬に換えてもいいと言いました。漢方医は水薬でも粉薬でも私の体に顕著な効果が現れたと言っています。毎週漢方薬診療所で見てもらった時、漢方医は注意深く問診して、薬を飲んだ後の体の変化にも注意して観察してくれました。
祥楽旅行社に感謝します。足の不自由な私を嫌がらずに、かえって私にたくさん配慮をしてくれたおかげで、ラダックの聖地巡礼ができました。
交通事故の時に両足の大腿骨は粉砕骨折になって、医者さんはどこまで回復できるかも把握できない状態でしたが、身につけているブレスレットとペンダントはすり傷もありませんでした。どんなものでも駄目になる時がくると知っていますが、好きなものは傷がないことはやはり大変うれしいことなので、とても感謝しています。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今までのお助けを感謝します。私はどんなに大きな過ちを犯しても、どれだけ愚劣な器質を持っていても、どんなに教えられないほど頑固でも、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の私を捨てず、様々な方法で弟子の私を教えて、助けてくれました。私は心の中からリンチェンドルジェ・リンポチェから与えられたお助け、してくださったすべてを心から感謝します。リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝しているのと同時に、リンチェンドルジェ・リンポチェに仏法をちゃんと学ばず、教えに従ってしっかり実践しないことを懺悔します。
朱甚珍 謹んで書き上げます
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2016 年 08 月 01 日 更新