020:感謝の気持ち
元来とても活発な子供でしたが、川辺に行きバーベキューをして、龍族を害したから、帰った後稀に見る悪質な天疱瘡に罹り、医師も治れないです。一時は生死の瀬戸際を彷徨う程の状態になってしまいました。しかし、縁あって尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお助けを頂き、奇跡的に一命を取り留めることができたのでした・・・。
2002年の3月21日木曜日の晩、私の息子の林昜が目の痛みを訴えたので、眼科で診察を受け、薬を飲ませた。その後、何故だかわからないが手の指の間から小さな水疱が現れだし、同時に軽い熱が出てきた。気分が悪いというので、息子を家でゆっくり休養させ、学校は休ませることにした。しかし、息子の状況は好転するどころか、体調は悪くなる一方であった。水疱は更に増え、熱もひどくなる一方であった。そこで、診療所に行って、小児科の医師は診察した後腸の感染症を疑った。
翌日の朝、昜(私の息子)の体の水疱は更に増えていた。元々四肢だけだったのが全身に拡大していた。更に、口の中もただれていた。事ここに至って、医師は腸の感染症という前の診断を翻し、息子の病状から稀に見る奇病-天疱瘡に罹患した可能性が疑われると説明してきた。その時、昜の体全体の皮膚のおよそ半分が水疱で覆いつくされていた。顔にも小さな水疱が出始めていた。昜は昏睡状態に陥ってしまった。尿の排出も止まっていた。医師は、息子の病気が前に診断したような疾患ではなく、稀に見る病毒によるものだと判断した。目下出来る事と言えば、『免疫グロブリンタンパク』の注射だけだということだった。更に、この薬剤は患者の体重に応じて注入量が決まるもので、当時の昜の体重から換算すると40アンプル分の注射が必要とのことだった。1本で約5000元(約15000円)の費用がかかり、これは健康保険では賄われないので、大変な負担がかかることになってしまった。私はとっさに、息子が助かるのであればお金などいくら使ってもかまわない、と思った。医師が、台北ある病院に十分な量の薬剤があるという知らせをもたらしてくれた。すぐに転院の手続きをし、私はようやく重圧から解放され、雨が上がれば空が晴れるように息子の状況も好転し、一時の悪夢のようなこの出来事も、やがては夢から目が覚めるように消えてなくなるだろうと思ったのだった。
ところが、思いもよらず、その日の夕方病院の急患窓口で転入院の手続きをしていた時、担当医師が、息子の症状の危急性と、それに対処するのに、どの薬剤を使えば有効な治療ができるのかが未だ不明であると言ってきた。従ってまず、小児毒物科、眼科、整形外科の火傷集中治療室で診察を受けて、治療方針についての協議を行うしかないとの事だった。この瞬間、ここに来るまでは少しは安堵していた私は、突然奈落の底に突き落とされたようなショックを受けた。体中が震えて硬直し、今にも卒倒しそうになった。しかし、私は意志の力で持ちこたえた。ここで倒れてしまってはだめだ。息子はこの母の助けを必要としている。
その後、昜は小児毒物科の集中治療室に入った。既に息子の顔と体の90%は水疱に覆いつくされていた。元々の小さな水疱が肥大していたのみならず、肥大した水疱の中にも小水泡が見られた。瞼をあける事すらも困難になっており、半昏睡状態に陥っていた。何とか目を開いて私を見つめ、「お母さん、助けて、痛いよ!」と言いながら治療室に運び込まれる息子を目にして、私の心は張り裂けそうになり涙が止まらなかった。出来うる事なら私が子供に代わってやりたいと神に願った。私の大事な子供を苦しませないで下さい。私が一体何をしたというのでしょうか。因果の報いが子供の身に降りかかってきているというのに、どうすればこの苦難を取り除く事が出来るのか誰も教えてくれない。
翌早朝の6時くらいだったか、医師が私に「創痍部除去手術」が必要になる可能性を伝えてきた。そして、昜は手術室に運ばれて全身の皮膚を切除する「創痍部除去手術」を受けた。家族と私は、為すすべも無いまま手術室の外で座って待っていた。刻々と時間が過ぎて行き、私の心からも一滴一滴と血の涙が流れて行った。丁度その時、楊兄弟子が夫(私の職場のボス)とともに見舞いにやってきて、当座のお金にと、私に20万台湾ドルの現金を渡してくれた。
手術室の電光掲示板上「手術成功」の大きな文字が私の目に飛び込んできた。私はとても喜んで手術室の扉に駆け寄り、可愛い子供が出てくるのを迎えた。手術室の扉が開いたその瞬間、私が目にしたこの時の情景は生涯忘れることはできまい。一体のミイラ!全身にガーゼをあてがわれたミイラのようになっていた。顔の皮膚も半分が剥除されていた。皮膚は眼の下から剥除されており、手の指と頭の先と足の裏を除いた全身の皮膚が剥除されていたのだ!想像できますか?普通は、小さな水ぶくれが割れてしまっただけでも、痛くてどうしようもないのに、にわかに全身の90%以上の皮膚が無くなってしまったとしたら、一体どのくらいの痛みを伴うのか、想像もできない!
その時執刀医が私達のところへ来て、治療方針と手術の影響について説明をしたが、私の頭の中はからっぽで、返答のしようもなかった。昜の体はガラスの人形のようなもので、不用意に触れることはできないのだ。体に触れると昜は心の奥底まで響くような激痛に襲われるだろう。まるで生き地獄のような光景だと思った。
一日一日と時間が過ぎていく。昜の体はぴくりとも動かない。呼吸用のチューブや点滴に頼ってその日の命を永らえている状況だった。医師は、もうあきらめるように私に言い含めた。昜は明日をも知れない状態なのだ。加えて、治療に費やした私の負担額が既に膨大なものになっていたので、病院のソーシャルワーカー達でさえ、助けが必要かどうか私に聞きに来てくれた。その好意は丁重にお断りした。私はまだ経済的に余力があるので、限りあるそれらのお金を自分が貰ってはならないのだ。それらのお金は本当に助けを必要としている人達の所に届けられるべきなのだ。
昜が食べられなく、言葉も話せないが、まるで生ける屍のようだった。医師は融通を利かせて私を集中治療室に入れて、24時間絶え間なく付き添いをすることにした。医師は私達親子に残された時間は恐らくあまり多くない可能性が大きいと思っただろう。来る日も来る日も、昜の病状は好転の兆しを見せなかった。免疫グロブリン剤注射の治療行程も2準目を終え、注射の回数も80回に達していた。小児毒物科の主任によると、この薬剤による治療が2準目までかかったことは今までになかったそうだが、そうまでしても効果の程は未だに不明であるとのことだった。とにかく無駄を承知で治療を試みるしかなかった。医師達の力を合わせても打つ手が無かった。ついに生命維持の為の基本的な薬剤投与のみが残された以外、薬物治療は打ち止めとなってしまった。
私自身、何処に助けを求めたら良いのか見当もつかず、助けになって下さる方を知らなかったからだ。どこかに霊験あらたかな神仏、寺院、廟などがあるかどうかを聞いてもらうくらいのことしかできなかった。さらには病気快復に効果があるという護符、神水、等々、どのような効果があるのか定かではない民間療法の数々も、出来ることは全て試してみた。しかし、昜の病状は依然として好転しなかった。そして、結局は2度目の「創痍部除去手術」が必要である、との告知を受けたのだった。2度目の手術の前に、医師は「最悪のケース」に対する心の準備をしておくように、と私に告げた。それは、昜の肺に萎縮が見られ、尿の排出も異常をきたす、という状況であったため、どのような薬を使っても、肺や腎臓に悪影響を及ぼしてしまうようになってしまった。
昜には毎日輸血が行われていたが、赤血球値は依然として基準値を下回っていた。体の内部の臓器や粘膜が絶え間なく出血し癒着を妨げていたため、皮膚の再生もまた上手くいかず、血液や体液が常に包帯に染み込んでいた。午前に行われる包帯交換はいつも大仕事になった。体中の包帯をはずして、新しいものでもう一度傷口を覆いなおすのだ。皮膚に張り付いた包帯を引き剥がす時の苦痛は、常人には耐え難いものであろう。知覚を失っているからなのか、それとも痛みが度を越しているからなのか、常人には耐えるすべも無いはずの痛みの中、最初から最後まで昜は泣き叫んだりせずに堪えていた。包帯交換の時、私はいつも悲しみのあまり死にたいと思うほどであった。私にはこのような残酷な場面はとても耐えられなかった。
元々信仰がなし私はある寺社で御神籤を引いて平安を願った。御籤を一つ引き、それを持って廟の人に書いてあることの意味を尋ねた。廟の人は私を見て、「何がお望みですか?」と聞いた。私は「健康です」と答えた。するとその人は、はたと動きを止めたあと頭を振って、喪に服す準備をしなさい、と答えた。私は「大凶」を引いていたのだ。その場で地面に崩れて大声で泣いてしまった。全身の力が吸い出されたかのように、力がまるで入らなくなってしまった。廟の人に他によい方法ないものかと聞いた。その人は頭を振って、御籤にこう書いてあるのだから仕様が無い、と言った。しかし、嘆き悲しんでいる私を無碍に断るのも気が咎めたのだろう、仏菩薩に助けを求めに行って願いを聞き届けてもらえるかどうか試してみては、と教えてくれた。私の心は本当に傷ついたと同時に、私はこの状況に本当に納得できなかった。だから、その晩、内湖にある霊媒士の所に行って命乞いの願掛けを頼んだ。霊媒士は、出来たのは祈祷によって昜の命を少しは永らえさせることは出来るだろうと言い、その間に、昜を助けてくれる尊き御仁を見つけるのが良い、と言った。すぐにでもそのような御仁を探し出さなくてはならない、と私に何度も言ってきた。
2回目の「創痍部除去手術」が行われた。医師の話によると、通常、治療を受けている患者の病状は悪化するか好転するかのどちらかしか無いのだが、昜の場合は入院当初からずっと同じ状態できているというのだ。彼達が分からないのは天疱瘡の患者は14日以上生きられないのに、昜が2週間経っても同じ状態で持ち堪えているという事実に、医師達も首をひねっているそうだった。しかし、効きそうな薬をどれだけ使っても効果は見られなかったし、昜の皮膚にどのような治療を加えても、拒絶反応を示すだけだった。昜の体は自分で皮膚を産生することができず、血液は止むことなく体からゆっくりと染み出していた。昜の眼は、白目をむいた魚の目のように濁っており、口を開いて私を呼ぶこともなかった。私に出来ることと言えば、昜の体を撫でてやることと、栄養補給の為の果汁を注射筒に入れて昜に飲ませてやることだけだった。仏菩薩に感謝して、見舞いに訪れた楊兄弟子が、私達の状況に同情するあまり泣き出し、目を傷めてしまった。そして、目の治療のため方医師の所に訪れた。このことが機縁となり、私はリンチェンドルジェ・リンポチェの元に導かれることになったのだ。
3週間目の火曜日の午後、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しました。早速子供の林昜の名代として私はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し、子供の命を助けてくれるように嘆願することができた。その時、涙がとめどなく流れて言葉にならなかった。嗚咽に混じってかろうじて「お助けください」とリンチェンドルジェ・リンポチェに言上することができた。リンチェンドルジェ・リンポチェははとても慈悲深い様子で私の願いを聞き届けてくださり、翌日に病院を訪れて林昜に加持をして下さることになった。そしてその当日の午後、リンチェンドルジェ・リンポチェはお約束通り集中治療室で昜に加持を施してくださった。二人の医師兄弟子を伴って病室に来てくださった。私の妹は医療関係者であったので、妹は病室の外でこの二人の兄弟子に、息子を助ける方法が有るかどうかを病院に問い合わせてもらえないかと頼んだ。しかし意外なことに二人の兄弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェのみが昜を救う事が出来るのであり、他の方法では無理だろう、と答えた。
リンチェンドルジェ・リンポチェに従って昜のいる集中治療室に入った。リンチェンドルジェ・リンポチェは懐から法具を一つ取り出して昜の頭のてっぺん近くに置き、口の中で真言を唱えられていた。私が目にしたのは、リンポチェの真言に合わせて、易の頭から足の先まで、まるで波がゆっくり覆いかぶさりさざ波立った様に、幾重のガーゼが揺れ動き、そよ風に誘われたかの様にたなびいたである。そして、濃度の高い痰が口から次々と湧き出し、小便も尿瓶の中にゆっくりと排出され出したのだ。昜はずっと医療用機器にチューブで繋がれていたので、体の力が弱り、もはや自分では痰を吐き出すことが出来なくなっており、吸引機の助けが必要になっていたのだった。これまで昜は肺炎のような症状も呈しており、尿の排出が出来ないという憂慮すべき状態にあった。さらに、止血も止まらなく、白血球も不自然な増減を繰り返していた。従って、理論上は自力で痰を吐いたり排尿することは不可能な筈であった。だから、その時現場にいた医療関係者も唖然としていた。
リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、御自身と昜が機縁で結ばれていたから、この度昜が病を発する原因となった因果について教えてくださった。それは、昜を連れて家族で川辺に行きバーベキューをした時に、炭火の火が衆生龍神を害した為にこの病気を招いた。更に続けて、昜の命を救う事は難しいと仰せになり、私に信仰心があるかどうかを聞かれた。仏菩薩は慈悲深いが、私はこれから6ヶ月以上苦労しなくてはならないとのことだった。今日の加持は、体内に溜まった排泄物を外に出し、昜を楽にさせただけであるとのことだった。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは、心配しないよう私に教え諭してくださった。その時リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように仰せになったと記憶している。「仏菩薩は急場を救うが貧困は救わない。命をお救いになられるが、生き永らえることが出来るかどうかは本人達の信仰心次第である」と。最後にリンチェンドルジェ・リンポチェは、私に、明日一瓶の未開封未冷凍のミネラルウォーターを持参して寶吉祥仏法センターを訪れるように言われた。私はすぐさま承諾し、また私に何の徳が有ってリンチェンドルジェ・リンポチェのお助けを頂けたのか、とお聞きしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、既に沢山の心根の善い人達が私のことを助けてくれているので、まずその方達に感謝することだ、と仰せになった。もしも仏菩薩が昜をお救い下さったなら、狂わんばかりに喜ばしい事だが、もしも昜の命が失われても甘んじて受け入れよう。この世の因果の摂理を受け入れ、恨んだり悩んだり嘆いたりはしまい。最後にどのようになるにせよ、それを受け入れよう。これからは涙を隠れて流し、他人の前では気丈に振舞う事等するまい。私は全てを天に任せることにした。
その翌日、私は約束通り寶吉祥仏法センターへ行って、リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲の加持が施された水と一袋の甘露丸を私に下さった。この水を、昜の頭や手足等四肢と体全体に軽く撒くべし、とのことだった。甘露丸は昜の口に含ませれば苦痛を和らげてくれるとのことだった。そして、金曜日に行われる施身法の法会に私が参加するように、と仰せになった。
入院してからの昜は、目を開くことも無かったし、輸血をしても体液の流出と赤血球値の減少を止めることができないという状態だった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持された後翌日の早朝、昜の体は既に流血を止めていたし、同時に黒目のはっきりとした目付きで私を見つめていた。これまで医師は、肺炎や腎炎の状況を心配していたが、それも既に良くなっていたのだ。私は嬉しくてどうしていいかわからなかった。医療関係者達は、こんなことは有り得ない、不思議な事だと繰り返し、同時に、喜ぶのはまだ早い、と私に言ってきた。昜の病状に関する検査結果は、依然として予断を許さないものだったのだ。しかし、そんなことはどうでもいい。リンチェンドルジェ・リンポチェを信じ、仏菩薩を信じ、本心からの懺悔の心を持っていれば、必ず奇跡は起こるに違いない。
金曜日の朝、整形外科の医師が私に、自分のところに人工皮膚のようなナノ銀イオン医療用材料があると告げてきた。其の後分かったのはこの医療用材料は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが賜って、范兄弟子を通して、医師に紹介されたものだった。それは昜の体は病院で施される治療や薬物を拒絶していたので、生命維持に必要なもの以外の諸々の薬剤投与は既に中止されていた。病院関係者は誰もが、状況が良くないと見ていたが、面と向かって「もうあきらめなさい」などとは言い出せないでいた。毎晩当直医たちは、インターネットや世界各国の有名医療機関との直接の連絡を介して、治療に関する資料を懸命に集めていた。そして明け方には主治医と昜の治療方針について討議を重ねるのであった。私は、このような気遣いをしてくれた医師の方々には本当に感謝している。
それから後、私は毎週金曜日には民生道場へ行って法会に参加した。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェの真言が唱えられるたびに、私は何故だか分からないが涙が止まらなくてどうしようもなかった。だから、上師が唱える経文も耳に入らなかったし、師の講話の意義についてもよく分からなかった。ただ、自然と涙が流れ出てくるばかりだったのだ。私は全てリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従って、心の底から懺悔をして。仏菩薩を信じていて、心からリンチェンドルジェ・リンポチェを頼りにして、輪廻の苦海から私をお救い下さるように助けを求めた。
不意に方兄弟子から、リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いして加持をしていただいた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに海外に赴かれる予定になっていたので、出国の間際まで昜のために法会を開いてくださった、と言う事を知った。そして前後計3回の法会と加持によって、昜の命は保たれたのだった。それは後日、リンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩とに縁を結ぶためだった。この3日間の加持が無ければ、昜は生き永らえることはできなかっただろう。私にも深く理解させたのは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲願力はとても偉大で、衆生が苦しみを受けけたに忍びなく、思いは全て衆生がまだ苦痛から解脱していないことだった。だから昜は今回、福に恵まれ、手遅れになる前にリンチェンドルジェ・リンポチェにお助け頂くという奇縁を得、以後回復に向けて進むことができたのだった。
一連の奇跡を目にした医療関係者達は沸き立っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェに是非お会いしたい、とこっそりと私に告げてくる人もしいた。私も、彼らに寶吉祥仏法センターを紹介して得度させてあげたいと思った。
5月の時点で6月30日の林口体育館における万人大法会のことを知った。この法会に昜をつれて是非とも参加したいと心に決めていた。主治医は無理だろうと告げられた。昜の状況は、悪化はしていないものの、まだ予断を許さなかった。この短い時間に、感染の危険を冒してまで外に出るのは良くないと言われた。昜は厳重に管理された集中治療室にいるわけなのだし、その昜を外出させることは実際のところほぼ無理なように思われた。私は非常に悩み、毎週金曜の定例の法会に参加した際、兄弟子の魏さんにこの問題をどう解決したらいいか相談した。すると兄弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに直接相談してみてはどうかと言われた。既に大変多くの時間を私達に割いて下さっているリンチェンドルジェ・リンポチェを、さらに煩わせるのは厚かまし過ぎるのではないかと心配になった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に満ちた態度で私に接して下さり、もう一度病院を訪れて昜に加持をすることをお約束して下さった。さらに、昜を皈依させて、仏法について学ばせてはどうか、とも言ってくださった。私は、昜が退院できたならば、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェの元に皈依し仏法を学ばせるようにする、とお約束した。
リンチェンドルジェ・リンポチェが加持に来られるその当日の朝、病室は実に騒がしかった。誰もがリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかりたいと願っていたので、誰もが首を長くしてリンチェンドルジェ・リンポチェのお姿を目にするのを待ち望んでいたし、出来ればリンチェンドルジェ・リンポチェの加持の御加護を得たいと思っていたのだった。やっとのことでお出でになられたリンチェンドルジェ・リンポチェをお迎えした。リンチェンドルジェ・リンポチェのきりりとしたお姿は、皆に恭敬心を起させた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは昜に加持をして下さり、私は昜にリンチェンドルジェ・リンポチェへのお礼を述べさせた。すると驚いたことに、昜は「オン-マ-ニ-ベ-メ-フンと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは微笑しで何も言わなかった。当時側に居る魏兄弟子は易の顔を見ると、びっくりして、チベットの小ラマと似ていると言った。此の世で私は大善事や大供養を一切やった事がないのに如何なるこの福報があって、大修行者の加持と救済を得られただろう。その後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示により、易の前世はある世、リンチェンドルジェ・リンポチェの側の侍者なので、此の世にこの因縁と福報があって、リンチェンドルジェ・リンポチェの命を救う恩を得られた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、昜の体に塗るためのバタークリームを用意するよう私に仰せになった。昜の体に再生しつつある皮膚を保護し、痒みを止めるためのものであった。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に丁重な態度で、この処置を許可してもらえるよう看護士長に頼んでくださった。同時に、主治医の許可をとってから行うようにと私達も言われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、その時に昜が使用していた薬にも加持を施してくださった。また、私の長男辰にも加持をしてくださり、そして、集まった人々に向かってにこやかに頷きながら、部屋の外にお出になられた。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは階下の病室の兄弟子の所に行かれ、その家族に加持をされていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、疲労や煩わしそうな表情を見せることなど無く、また、慈悲の力があって、現場の皆に歓喜心を起させた。
翌日、私は植物性のバタークリームを2つ携えて、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴しに寶吉祥仏法センターに赴いた。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持をして頂いたクリームを昜の全身に塗って使い始めたが、体も徐々に快適になった。それどころか、昜の体に再生しつつある皮膚の成長状況は良くなっていた。その結果、定時の投薬時間のたびに、看護士たちは「バターたっぷりのいい香りのするトーストでも焼きましょうかね」などと冗談を言うようになった。また、クリームによる処置が思いのほか効果的であったことから、この方法は同じ病室内の他の患者にも使えるのかどうかリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いてくれと医療関係者が私に言ってきたほどである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのやり方は昜にとっては最良の処置であるが、他の人には意味が無いと開示された。
昜はこの病を得てからすでに3ヶ月もの間を寝たきりの状態で過ごしていた。両手両脚は萎縮変形し、自力で動くことができなくなっていた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の後、昜は少しずつベッドを離れて歩く練習ができるようになっていた。私は本当に嬉しくて、この喜びとリンポチェへの感謝の気持ちをどのように表したら良いのか分からない程であった。一週間という短い間に、昜の状況は驚くべき進歩を遂げた。最初は歩行補助器具を握り締めての歩行であったのが、松葉杖を捨てるまで、一歩一歩注意深く歩くようになった。この数日の間に紙で折ったバラを、何の補助器にも頼らず、ゆっくりと面倒を見てもらった看護婦さんたちに配って廻って、彼女達の苦労に感謝の意を表していた。昜の歩みはほんの短い距離であったが、病院の人々は本当に驚いて、この事は本当に不思議だった。
6月30日大法会の当日の朝、私達は病院に外出届けを出した。喜んで感謝の気持ちを持って、林口体育館に来た。昜の体中に塗ってある匂い立つクリームのせいで、蚊やその他の虫が寄って来て昜を刺したりしないかと心配もしていたのだが、彼は不便や不都合を生じさせる事は何ひとつ起こらず、心躍るばかりであった。
法会の最中、中休みの合間を縫ってたくさんの兄弟子達が昜の見舞いに訪れては近況を聞いてきた。これらの方々は皆、昜の回復具合を見てとても喜んでくれた。同時に、是非とも昜をリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いさせて、リンチェンドルジェ・リンポチェに直に見て頂くべきだ、と言ってくれた。その時、昜は車椅子ではなく、自分の足で歩いてリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしようと決めた。そして、昜がリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしたその瞬間、私はまさに万感胸に迫る思いであった。二人の様子はまるで、長らく会うことのなかった父子が再開を果たしているかのようであった。リンチェンドルジェ・リンポチェは昜に優しく言葉をかけて近況をお聞きになり加持をして下さった。更に、チェツァン法王への謁見を願い出てチェツァン法王の加持を頂いてはどうか、と私に勧めて下さった。その時の私は、やっとのことで「有難うございます、リンチェンドルジェ・リンポチェ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持をして頂いただけでも、本当に有難く、十分でございます。」とお答えした。リンチェンドルジェ・リンポチェはにこやかな表情で頷かれ、お話を終えた。私達一行はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申し上げて休憩室を辞去して法会の会場に戻った。その後、この特別な一日は、素晴らしく晴れやかな気分とともに過ぎていった。
私は、かつて昜の発病後すぐに診てもらった眼科診療所には、多大な不満と怨恨があった。裁判所に訴えたいと思ったこともあったくらいであった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェのお話になる因果の法則について知ってからは、このような恨みと不満は段々と解消されていった。私は恨みの心を捨てることを学び、思い出したり怨んだりすることは無くなった。これで(前世からの)債務を返したと考えることにした。今生で清算を終えれば来世で債務を負うことは無いだろう。
昜は7月8日に退院した。退院に際して医師が昜に、彼は本当に幸運に恵まれていたと言った。そして私に、今回の玄学的な事はどう説明すれば良いのやら全く訳が分からないが、本当に奇跡が起こったとしか考えられないと言った。私も今回のことは本当に不思議な事だと思っていた。本当にどのようにしたらリンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に報いることができるのか、見当もつかない!
昜は、退院後も、胸部と腕の傷口がまだ完全に癒着していなかったことから、毎週病院に行って傷口の癒着具合を診てもらわなければならなかった。同時に、傷跡を抑える為に圧力服(Pressure Garment)を着用しなくてはならなかった。幸いにも、陽光基金会のソーシャルワーカーの陳さんの協力を得て、昜をできるだけ早く人ごみの中を歩いたりするのに慣らすことができた。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持のお陰で、胸部の傷口を悪化させることもなく、昜は順調に快復への道を歩んでいた。
昜は多くの人の助けを得てここまで来ることができた。このことは、いわゆる子供の「完璧」さであるとか、外見上の秀麗さへの私の拘りを減らしてくれた。彼の視力は0.1程度で、殆ど失明な状態で、両目の角膜は変形しており、不規則な形になってしまっている。乱視と遠視の視力は700度余にもなり、両目のまつげは倒れ込んでしまい、本来なら薄いはずの下瞼の皮膚が盛り上がって眼球と摩擦するようになり、よく眼を赤く腫らすようになってしまった。そんな時は、涙が出てくるのだが、同時に眼の乾きと滑りの悪さからくる不快感を訴えている。
私ははっきりとわかったのだ。このような苦境から解決に導いてくれる存在はリンチェンドルジェ・リンポチェしかいない、ということを。病院での毎回の回診や薬剤投与は、単なる恒例行事の繰り返しのようなもので、子供の視力の回復には殆ど役に立たなかった。しかし、施身法の法会やリンチェンドルジェ・リンポチェの説法が行われる度に、易の視力はどんどん回復していった。これには、担当医も驚きを隠せなかった程である。彼女によると、長年多くの患者を診て来たが、このような奇跡的な回復を目にしたのは二度ほどしかなかったらしい。理論的は易は失明べきだが、角膜は変形し破損するのは自ら修復できない。更に乱視と遠視の視力は700度余にもなり、自ら眼鏡をかけないまま、自由に行動できるのは改善できない。新薬を使っておらず薬剤治療も殆ど行っていない状況下で、昜の視力は左右ともに0.8程まで回復し、乱視と遠視の指数も700度強までに回復したが、その理由は担当医の彼女をもってしても如何とも解釈できないようだった。本当に医学上の奇跡だった。其の後昜は眼鏡を掛けなくても黒板の先生の字が見えるようになったし、歩いては転び膝に怪我をするということも無くなった。全てはリンチェンドルジェ・リンポチェが加持によって昜に福報を下さったことだった。リンチェンドルジェ・リンポチェが、慈悲の心を余すことなく昜に注いで下さったお陰で、昜は健やかに成長することができるようになったのだ。現在、昜は12歳で、菜食を4年続けている。身長は178センチ程で体重は約70キロ、本当に丈夫で健康、そして快活な子供に育っている。
私は、上師の御恩の深さに心から感謝すると同時に、その恩にどのようにすれば報いることができるのかわからない。だから、心からの懺悔によって一切の執着と貪る心を捨て、是非とも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したいと考えた。仏法を懸命に学び、生死について悟ることによって師恩に報いることができるのだ。今回の経験を振り返ってみれば、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ門下に皈依することで、再び輪廻の苦しみを味わわなくてすむ事を信じている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲加護を感謝している。
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはご健康、法輪は常に転じて、仏法事業は盛んで、直貢噶舉法脈は永遠に存在して、十方法界一切有情衆を利益する事を祈ります。
皈依弟子 第四組 方惠芬 謹んで書き上げます
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2016 年 09 月 18 日 更新