001:人生は無常、諸受は苦しみ
寶縁は私の二人目の子だったが、この娘は生後の様子がおかしかった。生後2週間経ったある日私たち夫婦は娘を病院に連れて行くことにしたが、娘の外見には特に大きな異常は見られず、急患の当直医も何の手がかりを見つけられないのではないかと思われた。心配だったので、家を出る前に呉兄弟子に電話をし、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けをお借りしたい旨を伝えた。呉兄弟子の「お子さんがどうかされたのですか。」との質問に、私は「よくわかりませんが、何やら様子がおかしいのです。」と答えた。五分後、兄弟子が電話を掛けてきた。この三日以内に家の者以外の人間が娘を見に来たかどうかを、リンチェンドルジェ・リンポチェが気にかけているとのことだった。私は、娘の叔母が来ただけだと答えた。
病院に着いてすぐに産科に駆け込んだ。豊富な臨床経験を積み、嬰児のことを熟知している古参の看護士を探した。看護士は娘を見ると、「大丈夫です、赤子は水を飲んだとき少しむせぶことがありますから、、」などと説明をしながら娘をたたいた。しかし強くたたいても娘は泣かず反応を示さなかった。次第に看護士は自信を無くし疑いを持ち始めたようだった。私は心は更なる不安で張り詰めた。その時、呉兄弟子からの電話を受けた。と、同時に娘が泣き出した!つられて私も泣き出した。看護士は、重責から解かれたように娘を私に返した。娘はもう大丈夫なようだった。しかし、その電話で今回の事が起こった理由をリンチェンドルジェ・リンポチェに告げられ、同時に、これから娘のベッドの横で持呪を行い続けること、夜の11時になったらリンチェンドルジェ・リンポチェに電話をする必要があることを告げられた。11時になり、私は呉兄弟子に電話をした。電話で、娘はもう大丈夫だが、もしも夜半に大事に至ったなら病院に行くようにとのリンチェンドルジェ・リンポチェのお話を伝え聞いた。
夜半、案の定娘が熱を出し、集中治療室に運ばれた。ドア越しに娘が大声で泣くのが聞こえる。娘がすぐ入院しなければならなかった。生後間もない嬰児の高熱は非常に危険な為、私は翌日にでも娘を連れてリンポチェの元に行きたかった。医師達は娘の状況の深刻さを説き、翌日に外出するなど以ての外だと絶え間なく忠告した。私は、娘を連れて病院を一度出て明日の午後にリンチェンドルジェ・リンポチェの所に行ってから戻ってくることを了承して欲しい、と夫に懇願した。夫は、「どうして普通の人と同じように、通常の医療を受けさせてやらないのか。」と疑念を呈した。しかし、涙にくれる私が誰よりも娘を案じていることを信じて、私のやり方に懐疑的ではありながら同意してくれた。
翌日の午後リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは寶縁を抱いて長々と加持を施され、仰せになった。「この子はもう大丈夫だが、病院へ行って身体の苦痛を受ける必要がある。仏は人間が持って生まれた業を変えることはできない。今回の一連の出来事は、この子の業によって必然的に起こったのだ。命を永らえただけでも幸いで、心を痛めても仕方が無いことなのだ。」リンチェンドルジェ・リンポチェは、今回の事は私達夫婦が仏について深く学ぶ契機となるとも言われ、寶縁に渡す物があるので、明日取りに来るようにと夫に指示された。次の日、夫は自分の代わりに私がリンチェンドルジェ・リンポチェの元に行くようにと言い出した。これに対して私は、「リンチェンドルジェ・リンポチェの指示に従うべきで、少しくらい違っても良いなどと決して一人合点してはならない。貴方が受け取りに行くように言われた以上、私を代理にすることなど以ての外である。」と強く反論した。その日リンチェンドルジェ・リンポチェは夫に、常に娘の首から提げておくようにとお守りをひとつ渡され、また、上師の法写真を枕元に置くように言われた。娘は小児内科の集中治療室にいて、一日の面会時間は非常に限られていた。私達は、お守りを寶縁に肌身離さず持たせることと法写真も枕元にきちんと置いておくことを当番の看護士に懇願した。入院期間中、面倒だから私達に協力したくないと言う看護士もいたし、娘の体を拭く時にお守りが無くなりはしないかととても心配だったが、全ては大過なくうまく運んだ。
リンチェンドルジェ・リンポチェの仰せになったとおり、娘は病院で数々の苦しみを伴う検査を受けた。本当に由々しきことだったが、奇跡的に何事もなかった。私達の心は安心と不安の間を激しく揺れ動いた。例えば、脳に百個もの生きた白血球が見つかった。これは細菌が娘の脳にまで到達していたこと、即ち脳膜炎になったことを示していた(言われてみれば正にその通りで、娘の目付きが不自然になったのは、やはり細菌が脳細胞を侵していたからだったのだ。)しかし翌日、細菌の詳細な検査報告によると、細菌は既に死滅していたことがわかった。娘の体には数え切れない程の症状が発生していたのだ。脳膜炎、敗血症、輸尿管肥大、深刻な尿逆流、輸尿管球の問題、水腎、血便、、、等々。医師が言うには、他の子供だったら、このうちの一つでも発症すれば非常に危険なことだったろうに、私の娘にはこれらが全身にいっぺんに発症してしまったというのだ。
リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなかったらどうなっていたことだろう。本当に見当もつかない。仮に、寶縁が生きながらえてくれたとしても、今日のあるように、活発で元気な娘ではいられなかっただろうと思う。病院に運ばれる直前の二日間熱を出したのを除いて、娘は退院するまでの間よく食べよく眠った。医師による「恐怖の検査」にもびくともしなかった。大掛かりな検査の際にも、娘は熟睡していた程である。痛みや恐怖を少しも感じていなかったようだ。同じ検査をした別の子供は恐怖と痛みで泣き叫んでいたというのに。本当にリンチェンドルジェ・リンポチェが言われた通り、娘は業を償い終えて助かったのだ。寶縁にふりかかった苦しみを和らげ、全てを無事に切り抜けさせてくれたリンチェンドルジェ・リンポチェの偉大なお力に感謝致する。
リンチェンドルジェ・リンポチェのご指示とお助けにより、娘は別の病院に移ることができた。しかも巧いことに外科主任が主治医になった。こんな事は小児内科では稀だそうだ。娘にオペが必要かどうかは外科主任の決定するところとなったが、主任は2週間の抗生剤投与の後、輸尿管の水泡を突き破る方法を採った。従って、娘は大がかりなオペを経ることなく、入院21日後に退院することができた。もしも主治医が小児内科主任であったら、あくまで手術にこだわって3週間の抗生剤投与の後手術が行われる見込みであった。
夫が勤める病院の院長と医師達、更には他院の医師もが多くの資料やアドバイスをくれた。しかし、どれも教本通りの治療のことばかりで、どの病院からも同じ答えしか返ってこなかった。著名な医師とて同じで、友人の熱心な医師も例外ではなかった。夫は、医師の能力の限界とリンチェンドルジェ・リンポチェのお力の偉大さをしみじみ実感したようだった。多くの人が、当初の夫のように、「どうして普通の人と同じように、通常の医療を受けさせてやらないのか。」と聞くことだろう。多くの人が、通常の医療を受けることが病人にとって最も安全で正しい選択肢だと考えるだろう。もしも医師の通常の方針に従っていたならば、尿の逆流という一症状に対してさえ少なくとも入院、開腹手術、そして長期の投薬が必要だっただろう。しかし、実際は、寶縁は4歳になった今に至るまで、退院後の数日間を除き抗生剤を服用する必要がなかったのだ。小児科の医師によると、通常の医療が施された場合、娘は生後2週間のあの時から今に至るまで、そして今後も抗生薬を飲み続けることになっていたそうだ。しかし、娘はリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従い菜食をたべ、薬も飲まなかった。あの時、娘の4本の輸尿管には「重度」の逆流が起こっていたが、今は1本が「軽度」の逆流を起こすのみとなった。このことも、「菜食精進料理を食べ法会に出れば、子供はじきによくなる。」というリンチェンドルジェ・リンポチェの当初からの言いつけが正しかったことを示している。
尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは励ましにかつてこのように仰せになった。
「苦しみは、公平不公平の問題ではない。因果応報の顕れなのだ。過ぎてしまえば大丈夫、新たな喜びが始まる。個々人にとっての苦しみはそれぞれ異なるもので、比較などできない。但し、苦しみには深い浅いの違いはある。善人たろうとする私達が、これしきの苦しみに耐えられないというのか。悪道に堕ちた者たちは、この千倍万倍の苦しみに苛まれているのだ!」
「一切の苦難を喜んで受け入れれば、苦しみはずっとは続かない。心が苦しくなければ、苦しみは苦しみでなくなるのだ。」
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのご加護は娘を救っていただいて感謝します。夫にリンチェンドルジェ・リンポチェの大能力を深く感じさせます。私の夫も、娘の退院を機に娘共に皈依しました。これは、私の寶縁を救ったリンチェンドルジェ・リンポチェが下されたもう一つの大恩であり、この恩に感じ入り、涙が止まらないです。
弟子 江美娥 李子雋 李寶縁 李宗德謹んで書き上げます
2004年10月11日
修正2016年9月21日
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2016 年 09 月 21 日 更新