1037:リンポチェの法会開示内容に対する出家弟子の感想報告(二)

感想一

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼申し上げます。

弟子は出家して30年になります。またかつては禅宗心性の領域で体得に努力してきました。いくらかの理解と法喜を得ることはできましたが、修行の方向ではやはり多くの迷いがありました。リンポチェに従い仏法を学び始め五年して、初めて修行の方向がはっきりしてきました。上師の摂受が必ず必要で、しかもすべてで上師に頼り、上師の指導を聞き入れなければ、修行の方向を見つけることはできません。真の法喜とは上師の開示、衆生を救い利益し衆生のために修行する菩薩道にあったのです。特に金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは真に大澈大悟の如実大修行者であられ、菩提行者であられます。仏心に契入し、無念自性を流露することがないのでなければ、仏法の核心真髄を開示することはできず、仏の真実義を説くことはできず、衆生の必要に契入することはできず、上中下等の人に普及することはできません。弟子である私は夜間にしばしば上師の仏法開示を視聴申し上げ、喜びのあまり入眠できないことがあります。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは真の大菩薩であられます。菩薩道を行い衆生を教化するのは、非常に大変です。以前理解していた菩薩道は、名相を知っていただけでした。今リンポチェが衆生利益を心から念じられるのを目にし、これこそ真に菩薩道を行う菩提行者だと知り、リンポチェに従い菩薩道を学ぶことこそ生死解脱の根本であると知りました。

弟子公處定律 頂礼申し上げます


感想二

先ずは上師に心から感謝申し上げます。私と言うこの「我執が重い」弟子をお見捨てにならず、毎日曜の法会参加を賜与くださり、上師の座下で殊勝なる仏法開示を聴聞させてくださっておられます。

「我執が重い」人は、いかなる仏法であろうと、その意識を通し、それを捻じ曲げ邪解してしまう恐れがあります。以前禅宗語録を見ていた際に気づきました。既に明心見性されている禅師は、法を求める学子に対してほとんど何も言いませんでした。多く語れば、反対に学子らの清浄な本性の出現を妨げてしまうのではないかと恐れたのです。『楞厳経卷五』では「知見立知,即無明本;知見無見,斯即涅槃」といいますが、この部分の経文でも、「知見立,知即無明;本知見無,見斯即涅槃」と句読点を変えればその意境も違ってきます。そのため古人は経典を読む際には、他人が句読点を打った経文は見ませんでした。他人の見解を多く聞き、他人の解釈を多く見ることで、もともとは活発で随縁自如であった自身の智慧が妨げられ、変わりばえのない他人の意識型態の堆積の銘記に変わってしまうことを恐れたのです。

上師は実に素晴らしく、講経説法において作為的でない「言語文字般若」を完全に流露され、「我執が重い」弟子に対して、ただの一言「自分が傷つくのを恐れているため、我執が重くなるのだ」を用いて、なぜ「我執が重い」のかを説明くださいました。つまり目にする、耳にする、考える際にすべて先ず「自分が傷つくかどうか」を用いて一度ろ過しなければ、行うかどうかを決められないのです。最終的に行うにしても行わないにしても、「我執が重い」人は種々の理由と言い訳を用いて、自分が行った、または行わなかった理由を「説明」します。このように長期にわたる「意識的な区別」は、種々の「我執」の心理と人格を絶えず累積し、このような仏法修行では成就を修学することなど不可能です。また「真の仏法」が「我執が重い」人と何らかの関係を生じることもありません。

「我執が重い」人は、「自分自身が傷つくことを恐れる」ため、必ず慈悲心がありません。慈悲心がない人はいかなる密法を修学しても成就できません。そのため私は「なぜ傷つくのを恐れるか?」と毎日反省しなければなりません。こうして「一切の衆生に代わり害を受けることを願う」と発心できるのです。

上師は仏法開示において、どれだけの教言を記憶せよと、弟子に対して一度も要求されたことがありません。その代わりに「行え!行えるとは聞き入れたと言うことだ」と仰せです。行わないなら、上師がどれだけ教示しても記憶することはできません。上師は絶えずお教えくださいます。仏法を体悟するには、絶えず「善根」を薫陶し集聚する必要があるのです。

「善根」の開発で最も重要なのは、「上師に対する分別のない受け入れ、100%の堅信、恭敬」です。いつでも「上師の教示を憶念」する修学心を持たなければ、善根と動力で教えに基づき行うことはできません。そうしなければ、法会において上師の開示を拝聴し、尽きることのない歓喜が心に生まれることはないのです。同時に、仏法を聴聞し歓喜心が生まれた刹那に、徐々に業習が消え善根が増大します。これはすべて上師の慈悲般若エネルギーの薫陶に浸ったことで、大きな加持が得られたからなのです!

仏菩薩に感謝申し上げます。私をお見捨てにならず、上師に引き合わせてくださいました!この「見濁」の末法にあることに感謝申し上げます。自分は幸運なことに大成就者の「般若エネルギー」と衝突し、いくらかでも仏法の微光を見ることができました。さらに上師の慈悲なるお支えに感謝申し上げます。将来の生死に関わる大事にも迷いや恐れを感じることはもうありません。今は教えに基づき行い、絶えず善根を薫陶し菩提心を広く発することによって、「我執」を取り除き、「空見」を頓悟して、師恩に報いることができるのです。

弟子慧偉 感謝頂礼申し上げます


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2020 年 06 月 14 日 更新