1028:リンポチェの法会開示内容に対する出家弟子の感想報告

感想一

4月12日日曜日の法会において、尊きリンポチェは「成就を得たいなら、一心に護法アキ心咒を修める。そうすれば成就できる」と仰せになった。

リンポチェがこんなにも多くの法を修学しておられるのは、度化する広大な衆生の必要、修学に応じるためだ。畢竟それぞれの衆生の根基は異なり、因縁も異なり、啓発も異なり、知覚も異なる。リンポチェの摂受力は、得体が知れないほど深い大海のようで、海が数多の川を受け入れるように、一切の愚鈍な衆生を受け入れ、慈悲深く忍耐強く教導し、順序立って教え諭してくださる。リンポチェの並々ならぬ苦心を誰が理解できるだろうか?

法会において尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは六度波羅蜜について「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若だ。資糧道が不十分なら福報は不足する。そうすればさらに上の段階へ登ることはできない。六度波羅蜜はすべての菩薩行者必修の善徳だ。成就とは最終的には菩提の根本資糧なのだ!」と再度お話しくださった。

法会においてリンポチェは「一人の非常に精進を積んでいた人が、一日80000遍の六字大明咒を念じていたが、やはり成就できなかった。我々が一日一二万遍念じたところで、劣るのは明らかだ。非常に強い力を増やせるなどと妄想しないことだ!みなさらに精進しなければならない!」と仰せになった。

皈依弟子 第四組 釋慧中 謹んで書き上げます

感想二

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼申し上げます。

この一生でこの福報があり、大菩薩リンチェンドルジェ・リンポチェの『寶積経』開示に巡りあえたことを感謝申し上げたい。弟子は多くの益を頂戴し、前代未聞の歓喜に満ち溢れている。

弟子は上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前、顕教大徳の録音による開示をたくさん聞いた。けれども、開示と関係がある空性の名詞については、いつも名相を用いて名相を説明し、経典を用いて経典を説明していたため、私はやはり自分自身の方法で理解するしかなかった。

だが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、日常生活における例を用いてくださるため、弟子は仏法をより体得できるようになった。例を挙げよう。「無生法忍」は、顕教では多くの修行人が羨む名詞だ。だが弟子は明確な開示をまだ聞いたことがなかった。そのためせいぜい自分自身に「忍耐しなければならない!忍耐しなければならない!」と言い聞かせるだけだった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが「自身の心が先に念を起こすので、初めて外縁もある。そのため一切すべては因縁法だ」と明確に開示くださった。自身の貪嗔痴の心を放せば自然無念なのだと理解できた。

「捨於禅定衆生教化修諸善根。」以前、我々出家人のすべては成就するため、開悟するためだったが、これが自己の欲望であり、修行でないとは知らなかった!上師の強烈な悲心教導がなければ、弟子は、自分の過ちに気付くことができなかっただろう。他人に利益しようとする心がまったくなかったのだ。またさらにリンポチェの強烈な悲心を感じ、それでこそこのように明確にご説明になれるのだ。しっかり学仏しようと弟子は感動した。

「如我此身空処亦爾。如我此身菩提亦爾。如如無妄想。如空無妄想。」字面だけでは何を言っているのかまったく分からない。けれどもリンポチェは接見された信衆の例を挙げて、「無妄想」とは自分自身の欲望、要求がないのであり、無念ではないのだと知らしめてくださった。そうでなければ、衆生が何を求めているかを知り、真に衆生を救うことはできない。

皈依弟子 第八組 釋慧寶 謹んで書き上げます

感想三

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼申し上げます。

末法時代に仏法を聴聞するのは、特に修行し証した大菩薩の説法を聴聞するのは、貴重で得難いことだ。しかも大部経『寶積経』を聴聞するのは、全くもって不可能だ。出家して十数年になるが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する以前は、正法をまったく聞いたことがなかった。

尊き上師の慈悲深い仏法開示に感謝申し上げたい。ここ数週間、上師は六度波羅蜜を詳細に徹底的に開示くださった。証悟していない人はあれほど深く開示することはできない。以前は名相だけを知り、いかにして用いるかを知らなかった。資糧を累積していないなら、後々非常なる大障礙があり、すべては繋がっているのだ。上師は後ろの方の「如我此身空処亦爾。如我此身菩提亦爾。如如無妄想。如空無妄想。」を開示くださった。字面だけではどんな意味かまったく分からない。一切の考え、雑念がなく、その点で空であれば、定だと思っていた。だが枯木が坐禅を組んでいるようなものだとは気づかなかった。もし尊き上師がおられなかったなら、はっきり知ることはできなかっただろう。上師は二人の兄弟子の往生を比喩となさった。上師は無念で妄念はなく、念頭は一切の衆生への利益で、三悪道へ堕ちないよう二人を救われた。衆生が求めれば縁が起きる。上師の心は本来は如如不動で常に定中にある。そのため衆生が求めれば感応道交するのだ。上師はその因縁に従い救う。そうでなければ「心容太虚」ではない。

凡夫の心の起心動念は自己だ。念じるすべては貪嗔痴だ。「自分」を暮らしに用いている。弟子は心から懺悔申し上げたい。六度波羅蜜、『仏子行三十七頌』を日常生活に用いず、そのためしばしば問題を生じ、戒定慧を得ることができていない。定がないなら、いかにして衆生を教化し、諸善法を修め無生法忍まで到達するのか?外から入って来れば、それに従い出て行ってしまう。そのため上師に絕対に恭敬でなければならないのだ。尊き上師はご存知だ。衆生の一切の因果因縁に応じて、異なる方法で衆生を教化し、今生で生死を解脱し輪迴不要としてくださるのだ。

皈依弟子 第一組 釋慧續 謹んで書き上げます


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2020 年 05 月 25 日 更新