尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年6月27日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を解説された。

経典:「阿難あなん、 たとへば大海だいかいふかきこと八万四千由旬はちまんしせんゆじゅんにして、をもつてきわるも辺際へんざいらざるがごとし。」

仏は人類に分かるような距離の単位を使って比喩にした。「由旬」は度量単位だ。「目をもつて極め観るも辺際を知らざるがごとし。」とは、何もかも目に見えないという意味である。

経典:「もし丈夫じょうぶありて一毛端いちもうたんくだきて五十分ごじゅうぶんとなし、 その一分いちぶんをもつて大海だいかいのなかにおいて一滴いっちゃく霑取てんしゅせんがごとし。阿難あなん、 かの水滴大海すいちゃくだいかいせんに、 なにをかとすると。阿難あなんまうしてまうさく、 たとひ千由旬せんゆじゅんみずるとも、 なほもつてしょうとせん、 いはんや毛端もうたん一分いちぶんをもつてこれにくらぶべけんやと。」

「丈夫」とは、既婚女性の夫を指すのではなく、仏典での「丈夫」は行者のことであり、凡夫ではない。古代の人が言う「丈夫」となれば、そうとう偉い人のことで、決して人類や衆生を傷つけるようなことをしないのだ。

細毛の先端を五十等分にし、またその五十分の一を海の一滴の水に付けるとして、この一滴の水は海の水と比べれば、どちらのほうが多いのか。阿難は、千由旬の水を掬ってもなお少ないが、況して細毛の先端の五十分の一を以って取るのでしょうか、と答えた。

経典:「仏阿難ぶつあなんげたまはく、 たとひ比丘びく億那由他百千おくなゆたひゃくせん数量しゅりょうちたるもの、 みな大目揵連だいもくけんれんのごとくにして、百千億那由他歳ひゃくせんおくなゆたさいて、 みなともにかの無量寿如来むりょうじゅにょらい初会しょえ声聞しょうもん算数さんじゅせんに、るところの数量しゅりょうかの毛端一滴もうたんいっちゃくみずのごとく、はからざるものなほ大海だいかいのごとくならん。 もろもろの菩薩摩訶薩衆ぼさつまかさつしゅもまたかくのごとし、 もつて算計さんげのよくるところにあらず。」

仏は推論、ロジック的な方法を採っている。仮に、目犍連尊者並みの大神通を持つような比丘、億那由他百千数量という数の大神通を持つ比丘を合算したものは、又これだけ経てきた長い歳月も考慮した上でも、無量寿仏が説き始めた頃の仏法を聴聞した声聞の数に比べると、それはまるで毛先の一滴の水のようだ。無量寿仏が引接(いんじょう)された衆生は、我々に数えられそうな数字ではない。その他、我々に分からないようなことは、海の水のように多い。菩薩と大菩薩衆の場合も同じように、ビッグデータを活用するほど進化した現在ですら算出できないほど多いのである。

経典:「阿難あなん、 かのぶつ寿命無量無辺じゅみょうむりょうむへんにして、 その劫数こうしゅ多少たしょうるべからず。声聞しょうもん菩薩ぼさつおよびもろもろのてんにん寿量じゅりょうもまたしかなり。」

無量寿仏の寿命は無量無辺に有り、何劫あるかは計り知れない。浄土における声聞、菩薩及び諸天人の寿命も同様だ。

経典:「阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、世尊せそん、 かの仏出世ぶつしゅっせしたまひしよりいまに幾時いくときにして、 よくかくのごときの無量むりょう寿命じゅみょうたまへると。仏阿難ぶつあなんげたまはく、 かの仏受生ぶつじゅしょうしていまに十劫じっこうたまへり。」

無量寿仏が出世されてから現在に至るまで、どれぐらいの寿命が経ったかについて、仏は阿難に曰く、法処比丘から仏に十方仏土のことについて開示を請い始めてから一億万年が経ち、更に、五劫という時間を思考に使い、のちに四十八願を発願し、それを全部成し遂げられて、やがて無量寿仏と成られ、またそれから現在に至っては既に十劫が経ったという。

経典:「またつぎ阿難あなん、 かの極楽界ごくらくかい無量むりょう功徳くどく具足ぐそく荘厳しょうごんせり。国土豊稔こくどぶねんにしててん人熾盛にんしじょうなり。志意和適しいわちゃくにしてつねに安隠あんのんたり。地獄じごく畜生ちくしょうおよび琰魔王界えんまおうかいあることなし。」

無量寿仏の極楽世界には無量の功徳があり、非常に荘厳である。天界の天人が多く住まれ、何もかもあり、非常に豊かである。皆の心は安穏で、地球での人々と違って恐怖を感じない上、やむを得ない苦しみを持たない。そこには、地獄道、畜生道、餓鬼道の衆生が居らず、閻魔王界はない。

経典:「種々しゅじゅこうありて周遍芬馥しゅうへんふんふくし、種々しゅじゅ妙花みょうけもまたみな充満じゅうまんせり。七宝しっぽうはたぼこありて周布行列しゅうふごうれつし、 その宝幢ほうどううえにもろもろの幡蓋ばんがいおよびもろもろの宝鈴ほうりょうけ、百千ひゃくせんのもろもろのたえなる雑色ざっしき具足ぐそくせり。」

無量寿仏浄土には様々な香に満ちている。世間での香の他、様々な美しい花もある。国土は七宝の幡(ばん)に囲まれ、七宝の幡の上には幡蓋(ばんがい)と宝鈴(ほうれい)が飾られ、様々な絶妙な色が付く。

経典:「阿難あなん、 かの如来にょらいくににはもろもろの宝樹多ほうじゅおおし。 あるいはじゅんなる黄金おうごん白銀びゃくごん琉璃るり頗梨はり赤珠しゃくしゅ馬瑙めのうごくじゅ、 ただ一宝いっぽうをもつてなり余宝よほうまじへず。あるいは二宝乃至七宝にほうないししっぽうをもつて荘厳しょうごんせり。」

そこには多くの木々があり、何れも宝樹(ほうじゅ)である。地球には宝樹が滅多にない。虫が生えない、腐らない、千年以上生きられる木々が宝樹と言えよう。宝樹によっては、丸ごと一本が黄金のものもあれば、一種の宝によって成長された場合も、又は二種類が重なった場合も、更に七種類の宝が共同に成ったものもある。

経典:「阿難あなん、 かのこがねじゅとなすは、こがねをもつて根茎こんきょうとなし、白銀びゃくごんおよび花果けかとなす。白銀びゃくごんじゅは、しろがね根茎こんきょうとなし、黄金おうごんおよび花果けかとなす。馬瑙めのうじゅは、馬瑙めのう根茎こんきょうとし、美玉みごくおよび花果けかとなす。美玉みごくじゅは、ごく根茎こんきょうとなし、七宝しっぽうおよびもろもろの花果けかとなす。あるいはこがねじゅあり、黄金おうごんとなし、白銀びゃくごんくきとなし、琉璃るりえだとなし、頗梨はりこえだとなし、赤珠しゃくしゅとなし、馬瑙めのうはなとなし、美玉みごくこのみとなす。あるいはしろがねじゅあり、しろがねをもつてとなし、黄金おうごんくきとなし、枝果等しかとうかざりこがねじゅおなじ。琉璃るりじゅは、琉璃るりとなし、黄金おうごんくきとなし、白銀びゃくごんえだとなし、頗梨はりこえだとなし、赤珠しゃくしゅとなし、馬瑙めのうはなとなし、美玉みごくこのみとなす。頗梨はり真珠しんじゅ馬瑙等めのうとうじゅは、諸宝しょほうをもつてうたたかざれることみな琉璃るりのごとし。またごくじゅあり、ごくをそのとなし、黄金おうごんくきとなし、白銀びゃくごんえだとなし、琉璃るりこえだとなし、頗梨はりとなし、赤珠しゃくしゅはなとなし、馬瑙めのうこのみとなす。また無量むりょう摩尼珠等まにしゅとうたからをもつて荘厳しょうごんするじゅありて、 そのくに周遍しゅうへんす。このもろもろの宝樹ほうじゅは、光輝赫奕こうきかくやくとして、によくならぶものなし。」

木が黄金であれば、黄金を根茎とし、白銀を葉っぱと花とする。白銀の木であれば、その根茎は白銀で、黄金がその葉っぱと花に相当する。

仏が形容されたような事は、世間ではとても成し遂げられないものだ。お金が有ってもできっこない。これ等の宝は世間にもあるのだが、こうした組み合わせはまずない。お金が有っても、このように組み合わせることが出来ない。何故なら、金と銀とは融点が違うから、そうとう高度な技術でなければ、金と銀を組み合わせる事ができない。一本の黄金の木の場合、黄金を根茎にしようとすると、一、二トンの黄金が無ければ、どうしてできようか。しかも、現在は黄金の価格が高騰している中で。

地球で如何にお金持ちであれ、阿弥陀仏浄土の木一本の価値に勝らない。宝石にまつわる商売をする者から見れば、こうした物は地球上には存在し得ないと思う。この一本の木は、一、二か国の大国を合わせたくらいの財産を持たなければ、出来ないものだ。だから、地球では有り得ないことだ。古くから人類は大金をかけて、天を祭るための豪華な祭壇や廟、そして華麗なる家屋を建てたり、これを以って比べたりしてきたが、その実、それらは阿弥陀仏浄土の木一本の価値にも勝らない。というのは、地球の人類は、これ等の妙宝を、有する、享受する、鑑賞する福がないということだ。地球では、宝石を一つでも持てば、裕福のように思われる。だが、お金があるからこそ、良い宝石を入手できるとは限らない。たとえ良い宝石を一つ手に入れたとしても、持ち続けられるとは限らない。それは、そなたにはこうした宝を持つ福報がないという意味だ。

だが、阿弥陀仏の所には、この種の宝はすぐそばにある。黄金や宝石に欲がある者なら、阿弥陀仏浄土への往生を早期に発願すると良い。そこでなら、毎日見たり、触ったり、嗅いだりできるし、手を伸ばしたりすれば手に入るものだからだ。とはいえ、これ等はいずれも阿弥陀仏の神力、功徳力、福報力によってもたらされた物で、そなたに属する物ではない。どうして阿弥陀仏は自分自身の仏土をそんなに荘厳に飾ったのか。それは、成仏するまでの人は地球に居ようと天界に居ようと、色に対する執着心はまだ存在するからだ。そのため、欲界天、色界天、無色界天があるわけだ。

阿弥陀仏の国土へは、地球の人であれ、色界天、欲界天の天人であれ、発願する者だけ行かれるのだ。我々は生生世世で美しい物を見慣れていて、ある場所が上品でこの仏が凄い事を示す所として、良い場所だったらきっと荘厳で美しい品々が多いに違いないとよく自己催眠をかけている。故に、そなたがお好きである以上、お好きな環境を与えて生活させようと、阿弥陀仏は仰せになった。多く見れば見るほど、次第に事々しく思わなくなり、物質への執着が少なくなっていくだろう。

私の帰依弟子の一部は、節約を重ねて大金を貯めた。しかし、お金が貯まったところを、突然病を患った。それでは、お金を貯めたことは役だったのか。上辺から、阿弥陀仏はこんなにも美しい物がたくさんあるから、来るようにと宥めているように見えるが、実は、我々の執着を破ろうとしているのだ。こうした物がいつでもどこでもあるのなら、もう珍しくなんかない。というのは、福報をよく修め得られたら、自然に手に入ったり、自然に寄ってくれたり、そしてこうした所に生まれたりするようになる。そなたが如何に貯金に励んでも、もし福報が伴わなければ、きっとこのお金はどこかに使ってしまうのだ。皆の貯金に反対するのではなく、ただ理にかなっていればするといい。だが、倹しく暮らして飲食費ばかり浮かせて、良い物を食べようとせず、ありとあらゆるお金を貯金したのであれば、いつか病気になった時、お金を使う事には変わらない。人としての視野が狭いのだ。目の前の事ばかり考えており、高々10年、20年先までは見通しはするが、自分が最後にどうなるかということを考えていない。

釈迦牟尼仏が阿弥陀仏国土についてのこの段落を特別に紹介されたのは、決してこれらの利益を以って我々をそこに生まれ変わらせるよう惑わせているのではない。同時に、地球ではこれらの物が見える福報がないという事も教えられている。歴代の国王が如何に裕福であろうと、決して金や銀の木を造れない。歴史を専攻する者なら、今までこうした事が発生していないと分かっている。四川三星堆で出土した銅製の木があったとしても、それは、木の形が大体あるといっても、黄金の木のように、根、茎、花、葉、果が揃ったようなものではない。

修行に励み、上師と仏のお教えに従って修める者なら、これらの物はいつか手に入るのだ。ケチで、供養することすら計算を重ねるのではない。毎月いくら供養にするか。これが供養用、あれが何か用で、全部分けておいてある。屡々言うように、私が食事に事欠いた時ですら、仏前の香花、油は途絶えたことはなかった。食事に事欠いても、仏祖のことを気に掛ける。台湾人のことわざに「お腹を先に構ってから、仏祖を構おう」とあるが、私はそうではない。「迷信だ。供養したらすぐお金が入ることもないし、すぐお腹いっぱいになることもない」と多くの人々が言うだろう。しかし、こうした概念ではない。自分がこんなにも苦しいし窮屈しているから、これ以上自分の食事のため、仏菩薩からの恩徳を忘れてはいけない。仏菩薩からの恩徳がなければ、お金があっても食事ができないことを分かるべきだ。

最近、疫病の感染拡大につき、レストランはテイクアウトしかできなくなったから、お金があってもすぐご飯が食べられないだろう。昔と違って、お金を持ってレストランに入れば、注文した分だけ食べられるのではない。昔はそなたらを自由に行かせていたが、そなたらは行こうとしなかった。今や生活が不便になって、かえって買いに来ている。かつて私の中華料理レストランに行ったことのない弟子には、私は弁当を売らない。外の人に売ることで、仏道修行する者の慈悲心がどういうものなのか分からせる。非常識にも甚だしい弟子がいるなんて驚愕した。ひねもす飲食代が浮いている。節約できたお金はまたどうするというのか。

全体的に収入が下がったこの時期に、常日頃から供養を惜しまない人こそ、収入が減るどころか増えている。本日、私が説いた内容は私個人のためではなく、仏典でのロジックに基づき推論によって得たものだ。進んで修行すれば、何から何まで、仏菩薩が手配して下さる。そなたが心配を掛けなくても、自ずと現われるのだ。ご自宅に座って待っていれば、黄金の木が降りてくるというのではない。仮に、黄金の木がお宅に現れると、家屋が潰れるに違いないだろう。

自然というのは、仕事がないところを、突然にお仕事の誘いが入ったりする意味だ。仏菩薩が空からお金をやるのではなく、そなたは依然仕事をする必要があるのだ。空からお金をやるなんて、有り得ない。しかし、仏典によれば、自然に浄土に行くということはある。それは福報が足りた表れだ。『阿弥陀経』に書かれた「不可少福徳因縁(福徳因縁が欠かせない)」のように、こうした福徳因縁はいずれも在世の間に絶えず蓄積するものだ。福徳因縁というものは、成仏したとしても、足りないものだ。そなたが絶えず福徳因縁を蓄積し続けていれば、いつか因縁がやってくると、そなたは自然に阿弥陀仏の所に行くのだ。というのは、世間での供養も、布施も、結果として果報は阿弥陀仏の所に実る。宝で埋め尽くされる毎日だ。

この宝は私の物ではないと言うだろう。これは誰の物なのかに関係なく、もし福報因縁がなければ、そこいらに座る資格さえない。そなたがそこに座られるだけで、それを分かち合うことになる。阿弥陀仏の所は地球と違って、金銭の使用はない。この葉っぱが黄金で作られたから、一枚でも摘んで量り売りしようということはない。

経論の意図:まずは安心させる為だ。進んで修めれば、いつかこうした福報が目の前に訪れるに違いない。求める必要がない。前に供養、布施などを述べたが、どうして阿弥陀仏はこの国土を布施されたのだろうか。その福報が大きすぎるからだ。阿弥陀仏の国土の成立に伴い、副産物も現れる。たとえ彼が考えなかったり、念頭を動かさなかったりしても、天界の人々は運び、天龍八部もそれを変化してきてくれたりする。阿弥陀仏の大功徳力で以ては、考えるだけで国土中に遍満する。

何故、『阿弥陀経』では「善男子、善女人(ぜんだんし、ぜんにょにん)」と言い及んだのか。一般人でも、阿弥陀仏を称名すればいいとは言っていない。仏典によれば、十善法を修めなければならないとはっきり説かれている。ちょっとした戒を破ってもいいだろうと思ってはならない。最近、ある弟子は小さな戒を破ったが、彼は人前で自分が仏教徒だと言えなかった。帰依の際も言ったように、自分が仏教徒だということを恐れずに言うべきだ。他の宗教の人だったら、自分が何教だと言えるものの、我ら仏教徒だけ言えない。何故なら、彼は仏法を見くびり、仏法を見下げ、仏法を軽視するからだ。『地蔵経』で説かれたように、仏法を軽視してはならない。

何故、彼が言えないのか。仕事を無くすのが心配だからだ。もちろんお金は重要だが、それがないと生活が成り立たないとしても、仏法を捨てるほどの重要さがあろうか。無い。仮に私は貧乏になったことがなければ、理解できないだろうが、私は確かに貧乏になったことがある。食事に事欠くほど貧乏だったが、三宝を諦めようとしなかった。諦めることは三宝を捨てる意味ではなく、私には完全にそなたらみたいな素振りはない。私にとって、三宝は生活に入っており、分けたり、区別をつけたりすることができないのだ。「私は理解できない、私はまだ思考中、何が仏法なのかちんぷんかんぷんだ、私にはできない」なんて言うのは、まったくご自身の主観が強すぎるせいだ。

『地蔵経』に「剛強自用。難調難伏。」とあるが、地蔵菩薩は『地蔵経』の中で地球の人類が剛腹で調伏し難いと説かれる。「私が望んだ話ではないから、私は聞かない。あなたの話につまされないから、私は聞かない。私が期待していた話ではないから、私は聞かない。言われたことは、私には出来ていない、ちんぷんかんぷんだから、私は聞かない。」なんて、片意地だ。自分が仏道修行していると思いきや、仏道修行する資格すらない。

阿弥陀仏は大神通力を以ってこれらの宝を変化させて見せるのは、そなたが進んで修めれば、きっと良い果報となることを教えられている。いったい良い果報は地球で報われるのだろうか。それとも、阿弥陀仏の所にあるのか。地球に現れた小さな福報は実を取るに足らない。そなたに小さな欲望を満たさせても、取るに足らないぐらいだ。阿弥陀仏の所と比べると、地球では福報を論じる余裕さえない。取るに足らないどころか、見向きもされないところだ。

この段落では、一見阿弥陀仏の国土が如何に綺麗かをひけらかしているように見えるが、釈迦牟尼仏が我々に伝えようとしたポイントは、そなたが進んで修めれば、こうした福報と宝でありふれた環境に生まれ変われるようになることだ。自ら修めなければ、いくら最高の家屋をあげたとしても、きっと中から問題が生じるに違いない。何故なら、そなたに福報がないからだ。

経典:「七宝しっぽう羅網らもうをもつてそのうえおおへり。 そのあみ柔軟にゅうなんなること兜羅綿とらめんのごとし。またつぎ阿難あなん無量寿仏むりょうじゅぶつ菩提樹ぼだいじゅあり。たか十六億由旬じゅうろくおくゆじゅん枝葉垂布しようすいふすること八億由旬はちおくゆじゅんじゅ本隆起もとりゅうきすることたか五千由旬ごせんゆじゅんにして、周円しゅうえんもまたしかなり。 そのこえだはなこのみには、 つねに無量百千むりょうひゃくせん種々しゅじゅ妙色みょうしきおよびもろもろの珍宝ちんぽうありて殊勝しゅしょう荘厳しょうごんせり。いはく月光摩尼宝がっこうまにほう釈迦毘楞伽宝しゃかびりょうがほう心王摩尼宝しんおうまにほう海乗流注摩尼宝かいじょうるちゅうまにほうにして、光輝こうきあまねくらすこと人天にんでん超過ちょうかせり。その樹上じゅじょうにおいてもろもろの金鎖こんさあり、たから瓔珞ようらくらしてあまねく荘厳しょうごんせり。」

上部は七宝の羅網によって覆われているとされ、この羅網は非常に軟らかい、まるで兜羅綿のようだ。古代インドにはシルクがなかったが、おそらく当時いちばん軟らかい最高級棉は兜羅綿だったはずだ。

このような菩提樹は地球にはない。仮にあれば、とっくに仏典に書いてあるだろう。阿弥陀仏の所にはこんな菩提樹があり、木の上には数え切れないほどの宝が飾られている。眩いばかりに光り輝き、その光は人界、天界のを上回るとされる。

これらの宝の名詞のことは私には分からないが、恐らく釈迦牟尼仏は当時インドでの最高の宝を以って此の菩提樹の宝を比喩しているのだろう。古代、海から本物の真珠を手に入れることは非常に難しいことだった。そのため、海から出た真珠は極めて貴重だった。尋常の真珠だったら白が多いところを、ここでの真珠には赤色、空色、青色がある。青色は現代で言えば黒を指す。

経典:「いはく盧遮迦宝るしゃかほう末瑳宝まつさほうおよびしゃくびゃく青色真珠等しょうしきしんじゅとうたから、 もつて瓔珞ようらくとなす。師子雲聚宝等ししうんじゅほうとうありて、 もつてそのくさりとなしてもろもろの宝柱ほうちゅうかざれり。 また純金じゅんこん真珠しんじゅ雑宝ざっぽう鈴鐸りょうたくをもつて、 もつてそのつなとなし、宝鎖ほうさ荘厳しょうごんしてそのうえ弥覆みふせり。頗梨はり万字まんじ半月はんがつ宝等たからとうをもつてたがひに映飾ようじきせり。微風吹みふうふうごかせば、 種々しゅじゅこえいだして、千世界せんせかいのもろもろの衆生等しゅじょうとうをして、がく差別しゃべつしたがひて、甚深じんじんほうにおいて無生忍むしょうにんしょうせしむ。」

この木の宝は単に鑑賞用というだけではなく、仏法でもあり加持でもある。風が吹くと、あらゆる宝石と黄金でできた物によって様々な勝妙の音が立ち、多くの世界の衆生を「楽の違いに従わ」せる。「楽の違いに従う」とは、音に対して受け入れる場合に個人差があり、高い音を好む人もいれば、低いのが好きなのもいるから、自身の意楽に基づき、受け入れられそうな音を生じることだ。この木も我々を修行させるよう助けている役割だ。

様々な勝妙の音を聞いた後、意楽を起し、意楽を起してから、甚深の禅定に入り、無生法忍を証するとされる。

経典:「阿難あなん、 かの千世界せんせかいのもろもろの有情等うじょうとう、 このこえきをはりて無上菩提むじょうぼだいより退転たいてんせざるにじゅうし、 および無量無数むりょうむしゅ有情無生法忍うじょうむしょうぼうにん。」

退転とは、菩薩道を行ずるに際し、衆生の様々な素振りを見て、衆生済度の心を生起し続けない意味だ。初地菩薩から八地菩薩までの間では、何れも退転することはある。菩薩道を行ずるのを退転したり、衆生利益を退転したり、成仏の道を退転したりすることは屡々見かけられる。法身菩薩を証するまでは、我々の無明(むみょう)が実に重いのだ。菩薩道を行ずる中、様々な困難や障害、妨げに出くわし、更に衆生の度し難さを見ていると、そなたを退転させる心は起こりそうになる。嫌気が差し、どう諭しても聞き入れてくれない分、いっそのことで戒めることを止めるようになる。

それとは別に、もういいやと思って、閉関修行などして自らよく修めてから、また様子を見ようというのもある。菩薩は俗世間に入る者として、世間に入る以上、あらゆる辱めを受けなければならない。衆生の欲望を満たさせない限り、衆生は様々な方法で謗りったり、苛めたりし、更にそなたを制御しようとまでする。菩薩が仮にこうした事に出くわしたら、容易に退転するだろう。その時に、「私にも特に何か利点があるわけでもないから、そんなに苦しんで何のためなのか。いっそのことで閉関修行を行ってしまおう。自らよく修めてから、また様子を見よう」なんて思うと、退転のことだ。菩薩道を修める時、退転する可能性がけっこう高い。

仏典では、退転しないよう説かれている。釈迦牟尼仏は様々な方法、喩えを用い、菩薩道を修める行者が退転しないように教えられている。菩提心が退くと、自了漢(声聞縁覚)を修める方へと変わる。我々在家の凡夫には菩薩道を修めるほかない。声聞縁覚を修めるのは不可能だ。出家衆であっても、末法時代にあっては、修め得られるのはなかなか難しいことだ。よって、菩薩道を修める方法しかないのだ。

菩薩道を修めるに際して、衆生からそなたに降りかかった様々な煩悩は、受けなければならないというのではなく、退転しないことだ。度し易い衆生なんていない。如何なる衆生も自分自身のことを中心に行動をとる。自分は傷つけられない。自分が何かを手に入れられなかったら、傷つけられたと言う。この世で数十年を生きる間、得られない事は数えられないほどある。人生に八苦があり、その一つが求不得苦(ぐふとくく)だ。それなのに、人々はよりにもよってそれを信じず、求不得の事を人生の方向や目標にし、いつか手に入るよう断固誓ったりする。だが、福報がないと、得られないものだ。志や目標がないままで生きていくのではなく、観念としては、自ら仏道修行する者だと思えば、なるべく仏教徒としての立場や地位を守るべきだ。自ずと、多くの物事によって、今後はどう対処するか、どう対応するか体得できるようになる。自分の望んだようにならなければならないのではない。

ここでは、特別に不退転の重要性について説かれている。もし上師が様々な善巧方便(ぜんぎょうほうべん)な法門を使ってそなたらを律させなければ、そなたらは百パーセント退転するのだ。ちょっと不満や不快を抱えると、すぐ退転してしまうだろう。

経典:「またつぎ阿難あなん、 もし衆生しゅじょうありて、菩提樹ぼだいじゅこえこうぎ、 そのこのみあじはひをめ、 その光影こうようれて、じゅ功徳くどくねんぜば、 この因縁いんねんによりて、 すなはち涅槃ねはんいたるまで、五根ごこんうれひなく、こころ散乱さんらんなくして、 みな阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいより退転たいてんせざることを。」

もし、菩提樹を見るなり、菩提樹の揺れた葉っぱによった爽やかな音を聞くなり、その匂いを嗅ぐなり、果実を嘗めるなり、木の影を感じるなり、念頭に木の功徳があるなりする衆生がいれば、こうした因縁によって、そなたは涅槃するに至るまで、眼耳鼻舌身意が世間の様々な欲望によって生じた輪廻という患いを追求しなくなる上、心も乱れない。心が乱れないというのは、生計を立てないやら、仕事しないやら、結婚しないやらではなく、俗世間の事に煩わされて仏道修行の心を散らかすということなく、また帰依した原因、仏道修行の初心を忘れずに、初心を守って励むことだ。如何に順調に行かなくとも、心は動揺しない。心が動じない意味ではなく、良くない事によって悲しんだりせず、仏道修行は役に立たないなんか思わない。良い事があっても大いに喜ぶこともない。自ら修め得られたやら、さらに仏法は今の自分にとって使い道がないなんて思うと、心が動じたことになるのだ。

経典:「またかの菩提樹ぼだいじゅるがゆゑに、三種さんしゅにん。 なんらをかつとする。ひとつには随声忍ずいしょうにんふたつには随順忍ずいじゅんにんつには無生法忍むしょうぼうにんなり。これみな無量寿仏むりょうじゅぶつ本願ほんがん威神いじんけんくわふるところにして、 およびいにしえ静慮じょうりょしゅするに、比喩ひゆなきがゆゑに、欠減けつめつなきがゆゑに、 よく修習しゅじゅうするがゆゑに、 よく摂受しょうじゅするがゆゑに、 よく成就じょうじゅするがゆゑなりと。」

仏は直接に見せず、一本の木を介するのは何故なのかと問うだろう。それは仏には化身、報身、法身があるからだ。浄土往生と願う凡夫が修めていても、菩薩果位を証していない者の往生発願には、化身仏が来迎引接するとされる。引接されてから、蓮華という胎に生まれるのだ。蓮華化生(れんげけしょう)して、すぐに花が咲いて見仏(けんぶつ)できるわけではない。決まった修行を経た上で、花が咲いてはじめて報身仏、法身仏に遇えるとされる。仏典によれば、浄土に誕生されると一生補処(いっしょうふしょ、登録してある菩薩)だとされるが、登録してあることが菩薩の果位を証したとは限らないから、蓮華の中で修め続ける必要がある。修めている過程では、まだ菩薩ではなく、まだ仏果を証していないから、報身仏、法身仏に遇えない。何故なら違う空間にいる故、たとえそなたの目の前に現前されても見えないからだ。

無量寿仏は様々な神変を使い、これ等の宝やら菩提樹やらを変化させて、加持を与えている。ご自身の福報では、まだ仏を目のあたりに見ることができないのを、仏ははっきりと知りながらも、そなたを助けようとしている。よって、ここでのこの菩提樹こそ、無量寿仏のあらゆる願力・威神力によって化現(けげん)されたものである。仏そのものでなくても、仏の化身もそなたに対して加持を与えている。目に見たどの木も仏の化身というのではなく、必ずこの仏典に基づき、菩提樹に何かがあるのに一致すれば、仏の化身となる。仏典で述べられたような、金銀宝石が吊るされているとか、高さがどれぐらいあるとかに基づく。

木の高さが16億由旬だとなると、それはヒマラヤ山脈より高い。地球では100メートルを超えた木すら稀だ。枝葉が広がった分で8億由旬があると言えば、それは中国の半分を超えた大きさだ。しかも、木の上には鎖状の金が敷き詰められる。こうした物は決して地球にない。菩提樹を見かけたら拝むという迷信を信じるべきではない。縮小版の菩提樹を見たと名乗った人が居たとしても、その木には金の鎖やこれ等の宝があろうか。仮に縮小版があったら、とっくに仏典にこの縮小版の菩提樹が仏の化身だと記載してあるはずだ。仏典で説かれていない限り、たとえ作り出しても仕方がない。だから、そなたは素直に修行して阿弥陀仏の所へ行くべきだ。

ご自身がどういうふうに自分自身の事と向き合うかについて、仏典は説かれている。それなのに、そなたは進んで聞き入れず、ご自身の方法を用い、世間で学んだ学問や言語で弁論をし、自ら賢いと思い込んでいる。しかし、仏法を離れると、決して智慧ではなく、もっぱら自分自身に利点があったり、自分の得になる話ばかりになる。

無量寿仏の四十八願のうち、衆生の欲望を満たすに当たるものは一つもない。全ては衆生を成仏させる方法であり、衆生の名聞利養を満足させる願は一つもない。それがないのに、そなたはまだ男女間の欲望を気に掛ければ、ひたすら自分自身が被害者だと思って苦痛に陥るしかない。実は、世間での僅かな数十年の中では、とても煩雑で、絡み合った事でも、瞬く間に過ぎてしまうものだ。もし、我々は執着せず、世間の事をモチベーションの一つとして、仏道修行していれば、そなたをこの一生で生死解脱させることが期待できる。仮に、我々は執念を持ち、いくつかの世間の喜楽、煩悩、苦痛などを未練がましく思えば、そなたは輪廻の淵に落ち続けるのみだ。

釈迦牟尼仏が在家での修行がより困難だと仰せになった理由に、業力に付き纏われているというのがある。生生世世より執着心が多くあるせいで、良い事を悪い事と思ったり、悪い事を良い事と思ったりする。仏が説かれた方法に基づいて思惟しなければ、そなたは絶えず自分自身の苦痛を増やしているだけだ。ご自身の苦痛は、決して他人が分かり得ることではない。何故なら、苦痛を受ける感覚は人それぞれだから、他人に自分の苦しさを分かってもらうのなら、他人がそなたになるしか方法がない。もし、先方がそなたでなければ、先方は決してそなたをこんなに苦しませる事は何だと分からない。

仏典より勧告され教えられたのは、全ての事が因縁法によるものであり、因縁が起きたり滅びたりするから、永久不変のことはない。ある事やある人を独り占めすることを最高の目的としても、それは永久不変にはならない。仮に独り占めの心構えと欲望を満たせたとして、これを満足したら、今度は不満を抱え始めて、苦痛がまた押し寄せてくるだろう。常に皆に勧めているが、縁に従って過ごし、境遇に従って安住することのように、因縁が良かろうと、悪かろうと、きっと過ぎていくものだ。好きやら、嫌いやらの事に遇っても、放逸せずに、心を安住させなければならない。

「人生苦短」という四字熟語は、決して誰か一人、民族、国家だけに適用できる言葉ではなく、あらゆる有情衆に適用できるのだ。今流行っているこの疫病が皆の生活を辛く苦しくさせ、誰もがこの疫病の収束を望み、一日も早くいわゆる自由自在で楽しい生活を取り戻したいと願っている。だが、この疫病はどこから来たのだろうか。衆生が為した一切の殺業(せつごう)、悪業に起因したのだ。衆生は専ら快楽のみを受け、苦痛を受けない。自分の快楽を続けるために、きっと人に苦痛をもたらしたのではないか。衆生が受けた苦痛、怨恨がきっといつか跳ね返ってくるに違いない。今度、自分が苦を受ける番になると、避けたいと願い始めるだろう。

福報があって修行の良い人なら、この時代に生まれようか。決して生まれない。仮に我々の業力がそんなに重くもなければ、疫病があったとしても、自分自身が危険にさらされていると思わない。ただひたすらに、いっそう真剣になって仏法の中で思惟する:自分自身の思惟、物事に対する接し方、態度などをどう改めようか。これによって、自分自身、身の周り、乃至全世界の業力を変えることができる。如何なる人も心が善であれば、自然に全世界が善になる。それに対して、如何なる者も心が悪であれば、たとえ今は悪くなさそうに見えるとしても、きっといつかその行われた悪による果報を受けるに違いない。

どうして釈迦牟尼仏は絶えず阿弥陀仏を紹介されているのだろうか。それは、仏典の中で釈迦牟尼仏がひたすら説かれたように、在家相を現した我々は、この一生を以って仏果を証する事は不可能だ。既に菩薩果位を証した者なら別論で、この一生で機会があるかもしれないが、もしそうでなければ、この一生で成仏することは無かろう。そのため、釈迦牟尼仏は特別に阿弥陀仏を紹介され、一つの目標そして修行の方向として、我々に認識させるのだ。そなたが進んで聞き入れて、進んで実践すれば、間違いなく阿弥陀仏国土に生まれるだろう。

きっと、どうして釈迦牟尼仏は彼自身の国土に生まれるようと言わないだろうと、聞く人がいるはずだ。釈迦牟尼仏には(国土が)ないのだろうか。有る!釈迦牟尼仏の国土は娑婆世界にある。しかし、釈迦牟尼仏は娑婆世界が苦多き楽少なき、成仏する世界ではないと分かっている故、我々に別の所へ行って修行して成仏してもらいたいのだ。これは釈迦牟尼仏の願いだ。仏道修行すると言った以上、我々はもちろん釈迦牟尼仏の願を満たすべきであり、浄土往生を願うべきだ。

浄土往生を遂げるには、口先だけ願でも起せば実現することではなく、実践しなければならない。福徳因縁を欠かせてはならない。福徳因縁を欠かせない善男子・善女人(ぜんだんし・ぜんにょにん)というのならば、そなたは十善法を避けては通れるのだろうか。「私は今被害を受けたのに、どうやって十善法を修めるというのか」と言う人も居るだろうが、そうだったらそなたの間違いだ。自分が被害されたと感じた時こそ十善法を修めれば、この善をさらに円満にさせるのだ。逆に、被害を受けたと思って、敵討ちしたいやら、取り戻したいやらと思うと、因果因縁を信じないということを示しているのだ。

仏道修行を決めた以上、ある事を信じるべきだ。如何なる我が身に発生した事も、必ず我らが累世で植え付けた因に関わっているのだ。この一生で芽生えたかもしれない。だが、果報はどうなるかは今の時点ではまだ分からない。果報が現われるまで、まだこの果報を変える時間があるからだ。現在、我が身にあったことの多くは、まだ決定業(けつじょうごう)(決して変わらない業で、成熟したのであれば変えられない)ではない。

例えば、最近ある弟子の息子は変な病気を患った。彼等は多くの所を訪れて参拝し、いわゆる善業もたくさん為し、たくさんの医者に診てもらったが、何れも効かず転々とし、最後は私の所にやってきた。この夫婦二人は何回も私に供養したが、私は受け取らなかった。だが、彼等の息子からのを受け取った。その息子さんは働いておらず、多く供養することが出来なかった。少ないほうを受け取るが、多いほうを受け取らないというのは、私のバカだからではない。ただ、その息子さんの決定業が既に変えられないと分かったからだ。決定業で転じられないとして、無理やりして転じさせようとすれば、彼にとって不利だし、その家庭にとっても良くないからだ。それでは、どうやって手伝おうか。その両親にリンポチェが彼等の供養を受け取らなかったのは、きっと間違いを多く為したに違いないことを知らせた他、この子供の供養を受け取ったのは、リンポチェと彼との間にご縁がある事を子供に知らせることによって、この子供の信心を起こさせた。こうしてはじめてリンポチェは彼を済度させる因縁があって、彼を阿弥陀仏浄土に送らせられるのだ。上師として、弟子の業や縁を知らずに、むやみに手伝うと、有難迷惑になる場合もあろう。

上師が用いた方法は、ひょっとするとそなたが望んだようなのではないかもしれない。この例のようにだ。夫婦二人はリンポチェが供養を受け取るのを望んでいた。受け取ったら、その息子に福報があって、病気が治るだとうと、彼等は思っていた。だが、私は受け取らなかった。こうすれば、彼等には上師を誹謗する心が起こらないからだ。彼等夫婦二人は私を供養していないながらも、私はその息子を助けた。この病気だと、全部の血を吐き出し切ってから亡くなるはずだが、彼はそうではなくて、亡くなった際はきれいだった。

理解しない人なら、きっと彼等が懺悔したと思って、彼等の供養を受け取っているはずだ。だが、彼等の心はまだ清浄ではなく、ちょっとした念頭が残り、もしリンポチェが供養を受け取ったら、きっと彼等の息子に機会があるに違いないと思っただろう。私はこの決定業が転じられないと判断したが、この一生で転じられないと言っても、後世で転じられないとは限らない。私はその後世に転じたことによって、その両親に悪念を起させなかった上、上師に対して不敬な心を起させない。彼等が不敬な心を起さない限り、この息子には、諸仏菩薩と上師によって助けられるのを得るに充分な福報があるのだ。

因縁の事は、かなり入り組んだものであり、凡夫には分かることではない。リンポチェにはっきりと言って欲しいという人が多いだろうが、それは私が率直に言えるものだろうか。まるで今取り上げた例のように、その両親に息子さんは死ぬよとは言えない。死ぬ前からそれを耳にすると、両親は悲しむだろう。だから、私自身を苦しませる方法にし、彼等の供養を受け取らず、彼等の心をゆっくり落ち着かせるようにした。彼等がきっと自分に間違いがありどこかし損なったから、リンポチェが供養を受け取らなかったと分かった。だが、私がその息子の供養を受け取ったのを見て、さぞ嬉しかっただろう。自分の息子に福報があるから、やがてリンポチェが供養を受け取ったと思った。

上師をするのは大変なのだ。ご想像のような事ではない。私は因縁を理解してから、そなたらが好き或いは嫌いな方法を以って度す。たとえ嫌いな方法であっても、たとえこの一生を尽くしても私の方法を受け入れないとしても、少なくともそなたは私の事を覚えている。後世、私はきっとそなたを度する。何故なら、菩薩道を修める者なら、衆生に付き纏われることを怯えないからだ。いわゆる怯えないとは、わざと付き纏わせるのではなく、成仏していない衆生が一人でもいれば、そしてご縁があれば、私は絶対に一切の命と能力を尽くして助ける。修行して成仏させるように、ご想像もつかない機会を与える。

これらの機会、事や方法は、人の目から見れば理不尽や間違ったことのように思われるかもしれないが、私の心は彼を傷つけたいのではなく、先方の将来がよくなると願っていれば、そなたらが傷つくと思ったような方式で与えている。この一対の父母のように、私がその供養を受け取らなかった代わりに、大礼拝(五体投地)させた。きっと、リンポチェは慈悲ではない、供養させないと思っただろう。彼等は謗ったが、私は念頭を起さないから、彼等に果報がない。もちろん、彼等も息子のためだった。息子がこの一生で善の果報を得られたのは、その両親が恭敬するからではなく、上師がこんなにも段取りしたから、この因縁、福報を起させてはじめて済度させられたのだ。

吐血する人が、死ぬ前に吐血しないわけないではないだろう。吐血する人が、亡くなった際にあんなに穏やかなわけがあろうか。生前に、彼をたくさん助けたからだ。私がしたにもかかわらず、息子さんの為に何かしたとか、手柄を名乗らない。三悪道に堕ちさせない限り、上師としてすべきことが出来ている。末法時代では、弘法・伝法を司る上師、特に在家の上師が一般の上師よりもだいぶ複雑な事に出くわしている。それは衆生の業因が不可思議だからだ。

今取り上げた例で、夫婦二人とも信仰深い仏教徒で、各大名刹を訪れ切ったが、何故息子の病気が治らないのだろうか。それは累世祖先が為した殺業による!お宅が衆生の肉で稼いだことがあれば、大きな業力が伴われる。レストランの経営もそうだ。仏典でははっきりと説かれたように、衆生の肉で利益を稼ぐのなら、きっと求める事が遂行しない上、病が多くにして寿命が短い、眷属が不円満になるとされる。これ等は仏典に基づいているのだ。

それは子供のせいではなく、親がした仕業なのにという人も居るだろうが、親が儲けたお金は全部そなたを養うに使っているから、そなたもその責任を一部を負うべきだろう。果報が地獄で成熟しないように、在世の時から一部の果報が成熟するものだ。例えば、求めた事が遂行しないなど。求めた事が遂行しない果報の成熟に換えて、そなたを地獄に陥らせる果報が成熟しなくなるかもしれない。

「どうしてはっきり言わないのか」と聞かれるだろう。まさに前述したように、衆生の心は不可思議で、変わったりするものだ。今日はこうだ、明日はああだと、言うことがコロコロ変わる。衆生の心は画家のように、その画いた絵は不可思議だと仏典に書いてある。人の心はそういうものだ。絶えず、自分に何か画いている。仏教で教える事は他のと違って、もっぱら内面世界で考える事について、我々にそれとどう向き合うのか、どう対処するのかを教えている。心が思った事をどう満足させるかについてではない。

『阿弥陀経』の中に説かれた様々な宝や事などに基づけば、それは世間でやれることではない。というのは、心にどんな欲望があろうと、何れも短く暫定的なものに過ぎないということだ。なのに、人類は、私が欲しい物、私が手に入れたい物、こうしなければならないという事に耽る。何故、人類にこんなにも衝突や悶着が生じたりするのか。それは人類が要求し過ぎているからだ。動物が我々よりもずっと簡単だと思う時もある。動物の縄張りは食べ物が為だ。オス同士の喧嘩は交配する為だ。これ以上は皆無だ。人類なら用事が多くあり、それは人類が思惟し過ぎているからだ。

釈迦牟尼仏は阿弥陀仏について格別に多く紹介している。のちに、もう一つ「無量寿如来会第五之二」という会がある。また『観無量寿経』、『大阿弥陀経』、『阿弥陀経』がある。釈迦牟尼仏は他の仏様についてこんなに説かれていない。唯一多く説かれたのは阿弥陀仏のことだ。それは何故だろうか。それは阿弥陀仏は我々地球の人類とご縁が深いのと、また釈迦牟尼仏は大慈大悲であるからだ。あらゆる仏の願力として、衆生が輪廻解脱し成仏することだ。それと同時に、地球人の機根だと、上々機根の人でなければ、他の浄土に行く資格がないと、彼は分かっているからだ。

しかし、阿弥陀仏の願力は、そなたが進んで行こうとすれば、阿弥陀仏の方法に従って実践すれば行かれるものだから、上々機根なんて要らない。浄土を修める場合、はっきりと「業を帯びて往生する」と説かれているが、帯びた業は悪業ではなく善業である。即ち十善法だ。言い換えれば、十悪法を行わないことだ。十悪法とは何だろうか。貪瞋痴、悪口、両舌、綺語を全部為したら、悪業を帯びるのだ。この一生で十善業を修め、絶えず発願し自分自身に福報を蓄積すれば、絶えず修行すれば、進んで発願すれば行かれるのだ。

無量寿仏の第一会には行き方についてたくさん解説されている。これだけ説かれたのは、とある人を対象とし批判するのではなく、あらゆる生死解脱していない衆生にはこうした問題があるからだ。だから、上師の説法はとある事件についてではなく、人として三悪道に陥る条件が備わっているからだ。こうした条件が普遍に備わっているから、そなたがそうならないよう、上師として開示すべきだ。

上手く行かないことがあったとしても、ただ人生の道程に過ぎない。この道程は有っても無くてもいい。何れも一つの念頭で、そなたの思惟方式によるのだ。もし、思惟方式があやふやだったら、自然に絶えず自分に業力を作っているのだ。仏法を聴聞して、分かった分だけ実践し、分からなかった分は実践できないと思うのなら、そなたの間違いだ。仏法というものは分かるものではなく、悟るものだ。どう悟ろうかに至っては、それは一日、二日、三日で遂げられることではない。どういった方法で悟ろうか。「話を聞いて実践する」しかない。きっといつか悟るようになる。

仮に、そなたが話を聞かない上、自分が聞き取れないやら、出来ないやらと言ってばかりいると、本当に出来なくなるのだ。それは、そなたが受け入れないからだ。そなたは「上師が私の望んだ事まで言わなかった」から、私はどう実践するというのかと言う。これもまた話を聞かないことだ。常に皆に言っているように、仏を学ぶのなら三分のバカさを保ったほうがいい。賢い人は、仏を学べる人がいない。賢い人は誰でもはっきりさせたい癖がある。彼らははっきりさせてはじめて実践するかどうか、出来るかどうか、よく出来るかどうかを判断することができる。

仏道修行する場合、よく出来たかどうかという定義がなく、良し悪しは俗塵の考え方に過ぎない。良いというのは、見返り、讃歎、利点を得ることや、欲望を満足することによって判断されがちだ。何も得なかったら、良くないというのは人の考え方だ。仏法では、出来ばえが良いかどうかはなく、ひたらす実践せよとしか言わない。仏法は「薫陶する」ものだ。ある物を燻すには長時間かけなければならない。手間をかけないと燻されない。ゆっくりと燻すのだ。つまり、コツコツと蓄積するものだ。

仮にコツコツと蓄積しなければ、積もれる砂すら無い。仏道修行するに当たって、最も大事なことは自分自身の考え方を置いておいて、先に実践してみることだ。仏法によって我々が何か被害を蒙むることはない。だが、先に実践し、先に思惟し、先に決定する必要がある。いったん実践して、自分に変化があると感じたら、当然のようにやり続けることだ。仮に実践したら、多くの事を諦めなければならない、惜しいと感じたら、依然にやり続ける必要があるが、ちょっと速度を遅くしても良かろう。早かろうと、遅かろうと、最も大事なのは取り掛かることだ。自分に分からないと思って実践をしないのなら、永遠に遂げられなくなる。私が諭せば、進めれば、そなたは成し遂げられることではない。法王が私に対して、こんなにも多く仏法を授けたが、もし私は進んで実践しなければ、どう成し遂げられようか。実行に移すことだ!

来る七月に、弟子に対してある法を特別に修める予定だ。これも上師たる者として、弟子が病気を患ったのを見て、わざわざある法を求めてきており、皆に修めようと考えているのだ。疫病が蔓延した中、海外へワクチン接種しに行くよう勧めてくれた人が多く、道理では私は行くべきだが、私は行かないことにした。何故行かないのか。私の弟子が台湾にいるからだ(一部は中国大陸にいる)。私まで逃げてしまったら、どうしよう。大げさに言うと、何かあったら全員に何かある、無事であれば全員が無事だ。だから、上師がここに留まっている。どうしてか。そなたらが苦や難に遇ったら、上師のことを思い出すと救われるからだ。もし、上師が見つからなければ、誰が救うのか。誰も救わないのだ。

たとえ私が台湾にいようと、私に会う事がなかなか難しくなっている。そなたらに会いたくないのではなく、会えないのだ。最初は、道場には5人までだと言ったが、今は4人にまで減った。次はどうなるか見当が付かない。ひょっとしたら私一人だけしか残らなくなるかもしれない。どうも言い切れなく、諸行無常だ。仮に政府より説法が禁止だと規定されると、私は説法を中止する。だが、この法令がない限り、たとえ私一人だけでも、私はちゃんと法座に上がって説法し修法するのを約束する。

修習したいだけ修習できると思ってはならない。そんなことはあるまい。ご自身の決定が最も大事だ。そなたが決定していれば、自ずと仏法を聴聞し修習する福報因縁が寄って来る。もし、ご自身がよく決定せずば、いくら私に会いたくても会えないのだ。私は皆に会いたくないのではなく、会わないことを余儀なくされたのだ。今では、出国して(隔離)21日、帰国にも21日、一回の出入国でなんと42日が無くなってしまう。

この末法時代に生まれて、まさに苦多き楽少なき。苦多き楽少なきだったら、これ以上自分に苦痛を造らない。仮に、我々に発生した如何なる事も、よりポジティブな観念でみれば、苦が比較的に少なくなる。ポジティブとは何だろうか。即ち、自分がまた債務を一件返済したと思うことこそ、ポジティブだ。ひたすら自分が傷ついたと思うと、ネガティブだし、また一件債務を作った!これが「阿Q精神(精神的勝利法)」ではないかと問う人がいるだろう。危害を加えられたのに、敵討ちしないのか。これが一般人の思想だし、正しいとは言いながらも、仏道修行する者ならこうした思想を持ってはならない。

来週は、引き続き「無量寿如来会第五之二」を解説しよう。『宝積経』の下巻に、釈迦牟尼仏が阿弥陀仏について説かれた仏典がたくさんある。釈迦牟尼仏は不動仏も紹介しているが、不動仏は顕教ではほとんど修められていない。だが、密教では不動仏は重要な本尊であり、実は金剛部の多くは不動仏に関わっている。

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2021 年 08 月 30 日 更新