尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年6月13日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を解説された。

リンポチェのご指示を受けて出家弟子がいくつかの仏教用語を調べた。:「那羅延(ならえん)」又は「那羅延金剛」ともいい、仏教において金剛力士に属し、仏教を守護する護法の一つである。

「一二三忍」とは、すなわち「音響忍(おんこうにん)、柔順忍(にゅうじゅんにん)、無生法忍(むしょうぼうにん)」のことである。

聞一切法知空不空」については、空性を証していない者には、なかなか体得しにくい一節だ。音にしろ、相にしろ、全て縁生縁滅、縁起縁空のことだ。「知空不空」に関しては、菩薩道を修める者なら、如何なる事も発生した時点で変化し始めるとはっきり知っている。事が生起したその一刹那も、滅びているということから、その本体は空である。空とは無いということではなく、その本体が縁生縁滅ということだから、音を含め、固有・不変なわけではないことを言う。

「不空」とは、変化し続ける体(たい)は空性に当たりながら、相(そう)は空性ではない。何故かと言えば、我々ははっきりと音が聞こえるからだ。仮に音を空だとすれば、そなたには音が聞こえる縁も生起せず、頑空(がんくう)になってしまうのだ。

ナーガールジュナの説かれた中観論(ちゅうがんろん)に「不有、不空、また中間に在らず」とある。それは、菩薩道を修める行者たるもの、あらゆる現象に対しての心構えとは、その本体が空であることを知るという意味である。仏法の聴聞ですら「知空不空」だ。何故かと言えば、いつか成仏したら、もう仏法を聞き、仏法を修めることはないからだ。だが、成仏するまでの、凡夫地や菩薩である間は、依然仏法の聴聞が必要だ。きっとそなたに仏法を聴聞したいと思わせる何らかのご縁が存在し、その縁が生起したその時点のその一秒から、その縁は滅びるのだ。いくら仏法であっても、固有・不変ではない。釈迦牟尼仏曰く、末法時代の後の12,000年は、釈迦牟尼仏の教えもこの地球に存在しなくなると。いくら釈迦牟尼仏の説かれた仏法といっても、縁さえ尽きれば、仏法も存在しなくなるとされる。

「知空不空」とは、体は空ではありながら、相は存在することだ。取り計らう際の斟酌は、考えるなり、あれこれ思考するなり、経文で立証させるなりを通じて行うものではなければ、ご自身の僅かな禅定の経験を頼りにすれば空性が体得できるものでもない。それは、菩薩道の修行を通じて行うものであり、資糧道、加行道、見道を経てから、修行道なのだ。資糧道と加行道が円満にならない限り、永遠に見道(空性が見えること)に辿り着かない。見道は、仏法の理や成仏の道などが見えたというのではない。あらゆる菩薩が真に菩薩になった道理は空性である。菩薩として空性を理解せず、掴めずとすれば、自分自身の生死解脱を遂げられない上、衆生を生死解脱させることも出来ない。

「音響忍」については、我々が一切の法が聞こえる場合とし、ここでの法は仏典によれば仏法を指すのだが、菩薩道を行ずる者にとっては、単に仏法だけではなく、宇宙で聞こえるあらゆる音を含めるのだ。我々が仏法を聞くのは、差し当たってこの仏法を以って自利利他するべきだということだ。仏法を聴聞することによって、修行する中でその果報が現われると、即ちこの仏法が滅び、存在しなくなるという意味だ。あたかも、我々が浄土に着くまで、まだ輪廻大海を横断し切っていないうちは、一艘の船が必要のようにだ。仏法は船の喩えだ。そなたらを彼の岸まで運ばせると、船が不要になったように、これも空性という意味だ。

「不可思議」。仏法と空性の定義は、人類としての学問や経験談、哲学などを以って考えられ、理解できるものではない。「不驚不畏」。諸法皆空と聞くと、怯える人もいる。「阿弥陀仏を称名して、いつか阿弥陀仏の所へ行くよう願っているのに、諸法皆空となると、念仏をしなくてもいいことなのだろうか。」と思った途端、怯えるのだ。又は、「何から何まで空性だったら、日課としてあんなにお勤めをしているのは何の為だ。なら、お勤めを止めよう。」というふうに思う人も居るが、これがまさに邪見だ。「不驚不畏」とは、仏道修行の中で、一般凡夫では分かり兼ねて、受け入れられないような過程もあることを指すのだ。

「信者受持」。信じるべきことであり、自分の疑情(ぎじょう)を解き、受け止めて把持することだ。

「受楽順入、修習安住、猶如音響、無有所住、謂之音響忍」。ここでの楽とは、楽しさではなく、受け止めて抵抗せず、何一つも言い分がないことだ。「順入」:順調に、善の力において、そなた本来の清浄な本性に入ることだ。「修習安住」:この法門を修習して心をこの法門に安住させる。まるでそなたにある音が聞こえて、その音がどこでなくなったか分からない上、音が立った場所は見つかり、決まった空間の中で響いているものの、これといった場所に音がなくなったというふうには言ってないように、至る所にあるのだ。まさに仏法のように至る所に存在するのだ。とはいえ、仏法は固有・不変というものではなく、縁起性空によるもの所以に、音響忍という。

「柔順忍。随順寂静。」随順寂静とは、因縁、果報に従い、業力に沿った上、絶えず修行するべきだということである。仏道修行する過程で、よく差し障りが生ずるものだが、心理面、生理面を含め、過去世でご自身が作った業力によって自分に差し障ったのもあれば、累世の怨敵に妨げられた場合もある。もう一種類は、所知障、煩悩障によるものだ。障碍が生ずると、往々にして自分の為に口実を探しがちで、仏道修行しない、修行したくない理由を見つけては、何もかも人や上師のせいにすることこそ、随順しないことだ。

因縁に随順することは、何が発生しても放置したままで、消極的な姿勢を取るという意味ではない。因縁が善にしろ、悪にしろ、そなたの心は寂静だということだ。善縁や悪縁によって、修道の心を影響されない。そなたは寂静で動じない。人がそなたの仏道修行を差し障えさせるからといって、癇癪を起すなどのことはしない。そして、近頃は事柄が上手く行っているからといって、自分がよく修めたと思ったら、寂静ではなくなる。

「観一切法平等正念」。心をして一切の現象を見るべきである。平等正念とは、ひねもす阿弥陀仏を称名し、口先だけ因果を信じると言うだけで正念と言えるのではない。本当の正念は空性を理解・体得し、仏道修行上での空性の重要性を分かることだ。空性を体得してはじめて、平等性智を修め、平等心を以って諸法皆空を見、平等心で一切の人や事物と接することが出来るようになる。平等とは、一切の人や事物は縁生縁滅というものだからこそ、その体は平等なのだ。ある人は現在お金持ちだが、きっといつかお金が無くなるし、ある人は現在権勢があるように見えるが、きっといつか権勢が存在しなくなるだろう。仏法の空性で言えば、体としては平等だが、相には不平等が出る可能性がある。ここでは空性を指している。

「不違諸法」とは、仏陀が教えられた一切の生死解脱、輪廻解脱、成仏する方法に背かないことだ。背かないことは、即ち自己流の方法を持たずに話を聞くことだ。巧みに名目でも立てて、自分が悟ったのは仏の説かれたのとひと味違うと思うのなら、諸法に背いているのだ。仏法に背かない他に、世間では政府が規制した全ての法律に違反する事も出来ない。

「隨順深入」とは、ご自身の因縁に沿って、修行の法門に深く入ることだ。今日が忙しいやら、明日が忙しくないやらということに従うのではない。毎日、自分や身の周りにあった事柄に従って、因縁に沿って修法することだ。例えば、現在は感染症が発生していて集うことが出来ないようにだ。我々は時勢に従い、政府の規定に随順するべきだ。だけれど、我々は依然説法する事に深く入れる。ただ、因縁に従ってしているだけだ。仏菩薩は加被(かび)してくださるからと言ってなまじっかに集うことは、良くない、それは違法行為になってしまうからだ。

「一切諸法、清浄直心」。そなたの見た、聞いた、感じた一切の現象は、本性が清浄であり、歪んだものはなく、ただ単に因縁によって変わるだけなのだ。そなたがいくら考えようと、いくら方法を用いようと、仮に因縁が成熟しなければ、現われないのだ。仮に因縁がまだ尽きなければ、たとえこの因縁を消滅しようとしても、どうにもならない。

いわゆる「直心は即ち道場である」とは、堅物で他人の機嫌を損なうのを恐れない様ではなく、仏法に対する観念を指すのだ。仏の教えられた一切の法は衆生利益するものであり、衆生を傷つけようとして言い出された話はない。上師は仏の御教えを言い継いだのも、衆生利益するに当たっている。衆生の心が真っ直ぐでなければ、耳に入った仏法も、別の考え方へと変わるのだ。

仏の説かれた仏法は、ある人達の内心の欲望を満たさせる為ではない。仏の説かれた一切の方法は、衆生を成仏させるよう願ってのものだ。成仏するには、修行という段階が必然だ。仮に心に歪んだ道理、ご自身の欲望や考え方がたくさんあれば、心が真っ直ぐではなくなり、清浄なる仏法は自然にそなたの真心に入らず、(仏法の)代わりに違うものが出来るようになってしまうのだ。多くの人々は、仏法を誤解したり、文章の一部を抜粋して拡大解釈したりしがちだ。もちろん、一節、二節だけでも、仏法を解説する事は出来るが、仏法を解説する者が心が清浄で真っ直ぐでなければ、その解説された仏法も清浄ではなくなるだろう。

清浄は、口にした言葉は自分自身と利益関係がなく、すべて仏陀の御教えに基づき、衆生を生死解脱させ、輪廻苦海から離れさせるよう導くことを願っていることと定義される。もし、衆生は進んでこうした観念を受け入れれば、自然に聞き入れた如何なる仏法も清浄である。その反面、もし、こうした観念を受け入れず、自分らの考え方が尚あれば、どんなに清浄な仏法でも、先方に着いたら様変わりするだろう。

直心は即ち道場である。直心は人騙ししないことを指すのではなく、直心はそなたの心が仏法を備えていることだ。あらゆる世間での一切の思想、思惟は、空性の上、変わり続けているものだ。これらは我々を成仏させ、生死解脱させられない。唯一助けられるのは仏法の導きである。仏が仏法を説き広める際には、我々を生死解脱させられるよう、直心を用いて仏法を広めている。だが、我々の心が真っ直ぐではなく、歪んだ念頭や間違った観念などが多くあれば、この仏法はそなたの心に入らない故、仏の説かれた仏法を体得、会得できなくなるのだ。

「分別諸法。修平等観。」衆生の機根がそれぞれ異なるものであれば、違う修行法門を伝授するものだ。我々は諸法について、法には区別があるわけではなく、衆生の業力に違いがあるのだ。衆生の業力にばらつきがあるからこそ、衆生の煩悩を退治させるために、異なった方法が生まれたわけなのだ。だが、法の本体は平等であり、大小、深浅の区分けがない。

「深入俱足。謂之柔順忍。」こうして平等観を修め、より深く修行していく。俱足は即ち資糧を全て足りるように具備することで、いわゆる柔順忍である。という事は、手管を弄せず、上師の教えた通りに実践するべきだ。でなければ、柔順ではなくなるのだ。

「無生法忍。不見有法生。不見有法滅。若不生則不滅。若不滅則不生。謂之無生法忍。」
「無生法忍。」は、なかなか解説しにくい一節だ。かつて私が顕教を修めた時、毎日座禅していた。ある時、私が座禅したところを、はっきりと国語で、以下の何節かを言い出した:「一法不生。一法不滅。法生心之動也。」私は廣東の出身で、廣東語のはずだったが、国語で言い出した。この何節かは言えたとはいえ、ピンと来ないのだ。私はある人達と違って、これで自分が突き抜けた、仏菩薩は私と意思疎通し、衆生に教えるようよくこれらのことを言い出させたなどとは思ったりしない。私がそうは思わないのは、おそらくそれは私が前世の修行で、この何節かをしっかりと覚えたが、その真実をはっきりと修め得られなかったかもしれないと考えるからだ。

のちに、これについて私は複数のマスターと呼ばれるほどの住職や出家衆に伺ったところ、メモにその一節だけは書かれたが、その意味自体についての答えはしない方も居れば、自分自身の見解を言い出した方も居たが、何れも私が思ったような回答ではなかった。なぜならば、私自身も多少その意味が分かっているからだ。やがてチェ・ツァン法王に出会って、私は法王に指示を請うたところを、法王は「それでは、そなたは大手印を修めよう」と仰せになった。当時、私は法王に中観論を前もって拝読する必要があるかとも指示を求めたが、法王は「要らない。大手印をよく修めれば、中観が分かるようになる」とお答えになった。私は中観論を拝読しない状態で、大手印を修めたが、多少なりとも「一法不生。一法不滅。法生心之動也。」のことを会得出来た。これらの何節かは、この中から出ているはずだろう。

真に悟って空性を証した行者は、何かの事柄が起きたり、何かの事柄がなくなったりすることをその心で見かけることはない。不生即ち不滅だということをはっきりと分かっている。煩悩心を起さなければ、煩悩心を滅ぼす必要がないだろう。簡単に言えば、煩悩を造らない限り、輪廻という煩悩に陥らないのだ。不生即ち不死であり、つまり生死が無くなるのだ。「若不滅則不生」とは、もし我らに煩悩があるとして、わざと煩悩を消滅しようとすると、もう一個の煩悩を生み出すという意味だ。

『金剛経』にも書いてあるように、仏道修行する者は、後半まで修習するにつれ正法すら捨てるのに、況や非法をや。法は一艘の船との喩えであるように、我々が真に悟ったら、こうした道具すら要らなくなるから、況やそれら我々を生死解脱させられない方法をや。『心経』でも空性を説かれている。『心経』は即ち『大般若経』より出ていて、『大般若経』こそ空性の智慧についてなのである。

空性の智慧は、生死というものこそ我々が生生世世で為し、積み重なった煩悩だということをはっきりと分かっていることである。煩悩を生起したからには、それに伴う煩悩の滅がある。煩悩を滅ぼすにはまたもう一個の煩悩を引き起こし、追っかけそれを滅ぼすのに追われる。仮に空性を会得する事ができるとして、煩悩は自らの貪瞋痴慢疑による事と知れば、自ずと煩悩を造るのを減少し、更に煩悩に対して泰然自若に対応できるようになる。何故なら、煩悩が空性だと分かっていれば、徒に煩悩を造らなくなるからこそ、空性の智慧を活かし、空性の仏法を以って衆生を利益させられるからだ。これは所謂、無生法忍だ。
言い換えれば、もしそなたは空性に入らず、空性を体得できなければ、単に無生法忍、生滅の名相しか知らない状況では、「不生不滅」というのを知って唱えたりはできるものの、実践に移すことが出来ない。「不生不滅」は、まさに私が言い出した何節かのように、「心が動じなければ生滅がない。心が動じてはじめて生滅が起きる」。もし、心が動じてばかりいれば、多数の生滅法が後を絶たずに現われる。一方、心の動揺を低減するにつれ、生滅法が減少し、そなたの煩悩の減少にも繋がる。生滅法は、誰かが与えた物でもなく、誰かが与えさせた物でもなく、すべて自分が作ったのだ。

現在、我々は業報(ごっぽう、ごうほう)の身が備わっている。この体こそ、煩悩の源だ。業報の身とは、累世で為した一切の善悪業がこの世で成熟したことから、この生身が現われたのだ。だが、この体に、人生僅か数十年の中で、善悪の因縁が絶えず成熟し生起している。もし、今生で仏道修行を進めなければ、この体がたとえ世間で様々な福報を享受したとしても、それは単に累世で為した善業が今生で花報(けほう)として成熟されたに過ぎない。この成熟の後を追って、累世で為した悪の業や悪の因も今生で果報(かほう)、花報として成熟されることもあろう。

行者の場合だと、業報の身がこの世にやってきた以上、債務の取り立てでなければ債務の返済、恩返しでなければ仇討ちだとはっきり分かっているから、心が動じない一方だ。動じないというのは、息をしないやら、お腹が空かないやら、服を着ないやらではなく、ただ、修行する心が如何なる因縁による事柄にも煩わされず、その心が仏法に安住することだ。因縁が起きたにしろ、滅びたにしろ、平常心で対応、向き合えばそれでいい。果報がどうなるかに至っては、特に気になることはない。だが、留意しない意味ではなく、留意と言えば非常に留意しているのだ。

寶吉祥仏寺の建設を例に取り上げると、土地探しをはじめ、設計、敷地調査などを経てきたが、もしひたすら善の因を造らなければ、自然に善の縁が現われることは無かっただろう。それも、私が過去世、現世で多くの善の因を為した故に、今回仏法の事に携わるに当たって、多くの善の因縁が自然に寄せてきて、やがて私が探しに行かなくて済むようになった。これも、諸仏菩薩からの恵みである。仏菩薩や護法に助けてくださいますようにと求めなどはしなかったが、私はただ心が動じないように留まるだけだった。気持ちが通じるもので、理にかなって違法でもなければ、きっと成し遂げられると、分かっているからだ。その反対だと、無理があることを知っている。

寺院の所在地は、もともと水道水が引かれていない地区だったが、寺院建設の担当チームに取り計らうよう要求したところ、彼らはどうのこうのと解決策を提案してきた上、相当なお金がかかるといった。だが、私は水道会社に直接相談しろと命じた。現地でも数戸かの人家には水道水がない状態だった。政府にもそれなりのインフラプロジェクトがもともとあるようで、我々の寺院が音頭を取って申請を進めると、水道会社は寺院と近所の人家に水道管を引けるようになり、これで、近所の人家も水道水が使えるようになる。ただその水道管が寺院の敷地を横断して敷設するだけのことだった。これこそ、私の心が動じないから、きっと解決策があるに違いないと信じ、特に寺院の建設は衆生利益と仏法伝承の為だから、諸天菩薩と護法がきっと助けて下さると思っているからだ。

寺院建設の資金は衆生から募ったものだからこそ、やたらに使ってはならない。こうして、寺院に既に7、8百万元のお金を浮かせている。もし、私は彼等の言われた通りにしていれば、お金を余分に使っていたはずだ。数年前に、政府側には八千億元を掛けて地方で不足しているインフラを整備するプロジェクトがあるということを私は覚えていたから、きっと解決策があるだろうと思った。当時、この補助金があるはずだと私は言い出さなかったが、申請した結果、この補助金枠に間に合った。何故私は思いつくのに、彼等は思いつかないのか。それは、彼等はテキパキと仕事を片付けたいからだ。グズグズしていると、私に怒られる恐れがあるからだ。それに対して、私の心は動じない。私の心には、如何に衆生にお金を浮かせるかのことしかない。これはもちろん善の念頭だ。それらの弟子の観念が悪とは言えないが、わざとらしい観念だ。善の観念が露わになったら、多くの事は思い出すようになるのだ。それらの弟子は出しゃばりたくて、自分らがどれだけ凄いかと私に見せようとしている。彼等の心が絶えず動じていれば、本来清浄な本性が消えたと同時に、第八意識田でのいわゆる記憶力も消えてしまったのだから、こうしてもいいと思い出せなくなったのだ。

私は寺院建設のために以前家を売ってまとまった金額を寄附していたが、近頃売ったもう一軒の家も弟子が買ってくれたから、このお金を寺院へ寄附するつもりだ。どうやって思想が冴えるようになるのだろうか。それは心が動じないから、ある事が可能だと見えるようになるのだ。彼等に見えないのは、複雑すぎて、手柄でも立てて「私は出来る」と見せようとしているからだ。実は、仏道修行自体は消極的なものではなく、物凄くいい事だ。もし、一心不動まで出来れば、世間で人々がやった一切の事物が、自然によく見えるようになる。「無生法忍」は、修行の面だけではなく、日常生活にも大変役に立つものだ。

「六三摩地」は、七つの遍覚支(かくし)の六個目に当たり、即ち知覚という意味である。人には51個の心所(しんじょ)があり、如何なる心所も我々の貪瞋痴慢疑のどれかの覚支を制御することに当たっている。いわゆる覚支は我々に感じさせた知のことで、枝などではない。覚支は、我々の神経系統によって生じた意識のことだ。我々の眼耳鼻舌身意が、この神経系統を通じて声色香味触法を生じて、我々の清浄な覚悟をさ迷わせたのだ。だが、我々は神経の敷き詰めた生身を持ち、無理やり神経が存在しないなんて言わせるのは不可能だ。だから、修行は七覚支を修めることだ。我々に神経系統をある程度把握出来たり制御したりさせるのだ。

体にある多くの神経系統は、気ままに操られなく言われた通りにはならない。痛くなる場合は痛くなるし、痒くなる場合は痒くなって、止まれなんて言っても止まらない。何故なら、我々はこうした経験による反応に慣れているからだ。我々の眼耳鼻舌身意が外観や内在のあらゆる影響を受けた際に、その意識による反応はすぐ起り、脳細胞もすぐ動き出す。脳細胞が動き出すと、間を置かずに全身にある系統に伝達し、あれやこれやと指揮し始める。

これ等の事はどうやって発生したのか。それは、我々は生生世世で危害を蒙ることを恐れ、何でも欲しがるが、損だけは欲しがらない。だから、自分を凄いというほど訓練し、観測機器そっちのけの神経の感度が育ったのは、全て自分自身が作ったものだ。累世で我々の心は自分が被害を受けないようにしてきている故、我々の心を外観や内面に対して敏感にさせ、ちょっとしたことでも異常に痛く、痒く感じてしまう。何れもご自身で訓練した結果だ。こうした神経の反応は制御できないものだ。そなたの心が既にそれによって縛られているからだ。

ご存じのとおり、私が抱えている脊柱側弯症では、通常なら非常に痛むはずで、座禅したり早く歩いたりすることはできない。だが、何故私はこうした痛みの症状を感じないほどにすることができるのだろうか。つまり、修行、座禅を通じて、自分の神経系統をある程度コントロールできるのだ。

私の頸椎にはズレたところがあるが、通常では心臓、脳部、高血圧などで全身の不調を来たしてしまうはずだ。私の身としては、20代から今までずっと不具合が続き、今はある弟子による治療のおかげで少しは軽減するが、なかなか治らないものだ。もう40数年も経ったし、自分自身の過去世による業だとわかっている。だが、複数回の閉関を通じ、自分の神経系統をある程度、ある範囲内に制御できているので、生身の日常生活に差し支えがない。仮に正常な神経系統を通じてであれば、きっと頭が歪んだまま、装具などを着用して治療していたはずだ。だから、こうした中、74歳まで生きられていることは、自ら修行を怠らない他、仏菩薩と上師からのご加護があってはじめて、自分を仏道修行し説法するよう体力と能力を持たせてくれていることなのだ。

「真知の心において、定に住す」ここでの真とは世間の真偽ではなく、我々の清浄な本性は真実だということを指す。清浄なる仏性以外の物は全て虚偽だ。仏法で説かれた虚偽は、絶えず変わったり、変わらないことは無かったりと、つまり変わる物は虚偽だと定義される。仮に、我々の心がはっきりと清浄な本性の中に住すれば、心が動じる機会が少ない。仮に、清浄な本性に住しなければ、ひねもす動じており、動じる度に煩悩が現われるから、それでは、煩悩は軽いか、重いかの話になるだろう。

本日、説いた幾つかの名称を全部体得せよというのは、実に難しいことだ。何故なら、まだそこまで修めていないからだ。だが、少なくとも体得してもらいたいのは、仏の説かれた仏法は決して目の前にある世間での欲望を満たさせることを目的にするのではない。仏の御教えは、我々が修行する過程の中で、一日も早く悟りを開き成仏して、広大なる衆生を利益させる為なのだ。

引き続きに、『宝積経』について解説を進めよう。

経典:「しかうしてかの正士菩薩しょうじぼさつどうぎょうぜしとき、 つねに語言ごごんまもりて、語言ごごんをもつておよびおのれをがいせず、」

そなたのお話しが善なのであれば、己を利益すると共に、人を利益する事もある。リンポチェが人を罵っているところを見れば、不善だと誤解してはならない。私が叱ることによって、人の仏道修行のためになれば、善なのだ。口にした言葉は大切だ。たとえそなたが講じたのが仏法であっても、衆生を誤った方向へ導いたり、生死解脱の重要性を知らせなかったり、そして衆生を俗塵へ、輪廻の方向へ導いたりすると、そなたが口にした仏法の名相すら、善の言葉ではなくなるだろう。

語業(ごごう)は重要だ。何か言い間違えると、それによる影響は累世、修行面に及ぶ。いわゆる是非とは世間における阿諛奉承ではなく、仏法という範疇の枠内において我々が話す内容が衆生利益をめぐることに準ずることだ。これで、自ずと自利すると共に利他もする。何故なら、人が聞いて、受け入れれば、その仏道修行の為になるからだ。

経典:「もしは王城おうじょうおよびもろもろの村落そんらくらんに、諸色しょしきるといへどもこころぜんするところなく、清浄しょうじょうしんをもつてあいせずいからず。」

出家衆をはじめ、菩薩道を修める者も含め、かつては多くの者が山の森の中での閉関修行を必要とした。彼等は大都会へ行ったり、人家が集まっている集落を訪れたりする機会があるだろう。賑やかな都会生活や、美しい景色、初めて目にしたものなどを見物したとはいえ、心は目に見た様々な事物によって、貪りや執着の念を起さないのだ。

清浄な心を用いれば、独り占めしたいなどと考えないようになる。同時に、自分が得られないからと言って妬み始める事にもならない。人はこういうものなのだ。見かけたら独り占めしたい。独り占め出来なかったらぶっ壊したいと思う。こうしたのは実に良くない。

経典:「菩薩ぼさつそのとき檀波羅蜜だんはらみつにおいて自行じぎょうおこしをはりて、 またよくをして恵施えせぎょうぜしめ、尸波羅蜜しはらみつおよび至般若波羅蜜しはんにゃはらみつにおいて、」

檀波羅蜜(だんはらみつ)を修め起せば、自ら修行するに際して、人に智慧を以って布施・供養させられるようになる。波羅蜜とは空性の智慧、事物を取り計らう方法を指す。布施や、人に物を与える際もそうだが、供養というのは、智慧が必要な事だ。盲目的に誰かについて実行するのではなく、仮にお金を受けた側がそれを正しくない事に振り向けると、良くないからだ。智慧を以って実行することだ。

尸波羅蜜を円満に実行すれば、般若波羅蜜も起きる。修め得られた空性智慧を以って、様々な事物を取り計らえるようにする。

経典:「さき二行にぎょうおこすことみなことごとく円満えんまんせり。かくのごときのもろもろの善根ぜんごんじょうずるによるがゆゑに、所生しょしょうところ無量億那由他百千むりょうおくなゆたひゃくせん伏蔵ぶくぞうありて自然じねん湧出ゆじゅつし、」

尸波羅蜜と般若波羅蜜が起きれば、修行が円満となり、多くの善の根が成就される。そなたがどこに生まれようと、生まれた所に無量億那由他百千の伏蔵(ふくぞう)が自然に湧き出るようになる。

チベットでは、伏蔵師(ふくぞうし、テルトン)がいるが、現在この世代ではあまり聞いていない。伏蔵師には、秘められた法、公に伝授されない法があるが、菩薩だけしか学べないとされている。彼等はこうした法、または法器、神聖な品物を秘し隠す。洞窟や、木の中に、水の中に、更に空の中に隠す時がある。正しい人に出くわしたら、こうした伏蔵が現われるものだ。という事は、二つの波羅蜜を成功裏に修めれば、そなたがどこに生まれようと、伏蔵はそなたの生まれた場所に現れてくれるのだ。

仏典で教えられたのは顕教に当たるものだ。密法と来たら、口伝や複数の閉関を通さなければならない。時には、本尊の心法の口伝はとある原因によって減少したり乃至途絶えるに至ったのもある。本尊もこうした事態を前もって見当がつくだろうし、とある時になったら善縁が不足し、こうした法は現われるべきではないと考えて秘し隠すのだ。いつか善縁が具足し、正真正銘の行者が現われたら、伏蔵法は自ずと彼の手に届けて、更なる衆生を利益させる。

むかし、チベットでは伏蔵師は皆福報が大きい。「見つけた物の真偽は知るもんか」と言うだろうが、見つかったテキストは必ず大修行者によって認証されるものだ。(テキストの)中に書かれた内容が、理の如くか、法の如くかを検証し、もしそうではなかったら虚偽なのだ。現在、私の経験の中では、ここ数十年に伏蔵師が現われた事を聞いていない。今に伝わった伏蔵法があるとしても、いずれも昔の伏蔵師によって見つかったのだ。例えば、私が今修めようとする幾つかの法は、いずれにしても伏蔵法だ。

伏蔵法のテキストを見るどころか、こうした法を聴くことすら難しい。善根が具足しなければ、こうした法はそなたの手に届けられないし、修め得られる方法もないし、更に衆生にも聞こえないのだ。釈迦牟尼仏が仰せになったこの一節で、充分はっきりしている。釈迦牟尼仏が説かれた法以外、歴代諸法と諸菩薩の秘められた幾つかの法は全て秘し隠されたとされる。伏蔵法や密法がないと思っている人も居るが、『阿弥陀経』では講じられている。何故、釈迦牟尼仏は敢えて言い出されたのか。それは、阿弥陀仏の所で最後に至っては、密法を修めなければ成仏し得ないからだ。仏典では、「菩薩が十地菩薩(法身菩薩)を修めたら、十方諸仏菩薩はこの菩薩に密法を修めるよう勧める」とある。何故だろうか。密法を修めなければ、成仏するのにかかる時間が長すぎるからだ。他の諸仏菩薩が、そなたが数歩の差で成仏しそうになったところを見て、密法を修めるよう勧めてくるのだ。密法を修めれば修めるほど、早く成仏し、早く更なる衆生を利益させられるからだ。

密法が有ろうか。有る。仏典に隠されているから、偶には言い出したりする。密法を学んでいなければ、仏がなんの伏蔵法を言っているか、本当に分からない。

自然じねん湧出ゆじゅつ」とは泉水のように、自然に湧き出てきてくれることだ。

経典:「また無量無数不可思議無等無辺むりょうむしゅふかしぎむとうむへんのもろもろの衆生しゅじょうたぐいをして、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい安住あんじゅうせしむ。」

菩薩は伏蔵を得てから、果てしない衆生を阿耨多羅三藐三菩提に安住させる。これは六道における生きとし生けるもの一切の卵生、胎生、湿生(しっしょう)と化身を含め、対象となる。こうした大菩薩が出現し、伏蔵による修行を通じ、彼らを阿耨多羅三藐三菩提に安住させるのだ。つまり、彼らを仏道修行させ、苦しませない為だ。

パルナシャバリの真言は、これら無量無辺の衆生を鎮め、苦痛や煩悩をさせない為である。この真言は苦痛や煩悩を消滅するに当たるのではなく、パルナシャバリの慈悲心、菩提心、功徳力と果てしない善根を用い、これら無量無辺の衆生を阿耨多羅三藐三菩提の中に安住させるのだ。彼等を成仏させるため修めるよう安住させるのではなく、菩薩修行としての大慈悲、大智慧の空間に安住させるのである故、これ等の衆生は引き続き人類を傷つけるよう出回ることはない。人類の殺業(せつごう)があまりにも重すぎて、これ等の衆生は人類へ復讐する為に戻ってきているからだ。

現在のこの疫病を、たとえ追い払って消滅しようとしても、今後再発しないとは限らない。人類が殺す事を止められず、殺生するなり、肉を食べるなり、娯楽するなりし続ければ、一個でもウィルスが残っていれば、疫病は再発するだろう。科学者すらウィルスに思想があると証言し、そなたが敵対的に取り扱おうとしたら、先方が猛威を逞しゅうし、さらに伝染力を増していく。その実、これは、まさに人類に殺された衆生の神識(しんしき)が、復讐を目的に化したものだ。そなたが敵対しようと思えば思うほど、先方の復讐心が募る一方だ。変異株がまた発見され、しかも感染力がさらに強く、従来株を上回る。まるで現在のイギリス変異株のようにだ。阿耨多羅三藐三菩提の中に安住させることとは、そなたらが思ったように済度を済ませばいいわけではなく、彼等を諸大菩薩の慈悲大海に安住させ、彼等の瞋恚の心を消させるようにする。瞋恚の心が消えたら、今度は輪廻にしろ、転生にしろ、少なくとも悪の意識から善の意識へと転じられる。これこそ、菩薩としての役割だ。

密宗の誅法は途轍もないと思われるだろうが、実は密宗の誅法も阿耨多羅三藐三菩提なのだ。それを残さず殺すというのではなく、慈悲の力でその恨みの心を抹殺してはじめて阿耨多羅三藐三菩提に安住させられる。仮にこの菩薩に善根が不足し伏蔵法が無くては、この種の衆生を安住させることが出来ない。

もし、単に誦経する事を頼っても、これ等無量無辺無等の衆生を安住させられれば、釈迦牟尼仏はとっくに仰せになっていたはずだ。複数の仏典では、釈迦牟尼仏はこのお経を唱えれば、それに伴う事は何だと仰せになっている。だが、それはもっぱら修行に関わることだ。この段落だけ、「この菩薩が累世で為した尸波羅蜜と般若波羅蜜が円満に修められ、多くの善根を得られれば、どこに生まれようと、伏蔵の物は現われてくれ、広大なる衆生を利益させられる」とはっきりと講じられている。

私自身のことを例に取り上げると、今生で使った法器の多くは私が見つけに行ったのではなく、時には訳が分からなく現れたりし、しかも手元にある法器は古めのが多く、わざと探しには行ったわけでもないから、これも伏蔵に属する。

経典:「かくのごときの無辺むへんのもろもろの菩薩衆ぼさつしゅもろもろの妙行みょうぎょうおこして、 もろもろの世尊せそん供養くよう奉事ぶじしたてまつりて乃至成仏ないしじょうぶつせることは、」

多くの菩薩はこうした大いなる善法の振る舞いをしている。大菩薩ですら、成仏するまでは、一切の世尊(仏)に供養し奉事し続ける。私は仏道修行しているのに、どうして上師に礼拝し、話を聞かなきゃならないのかと思ってはならない。聞く必要がなく、厄介事があれば上師に伺えばいい、無事だったら聞かなくていいと思うだろう。何故、彼が言ったことを全部、私が実践しなければならないのか。

ここでの奉事とは、言われただけ実践することであり、躊躇ったり暫く様子を見たりすると、奉事ではなくなると同時に、供養がないことだ。供養・奉事とは、絶えず実践し続けることだ。お金をいくら供養するということではなく、上師が何か持ち掛けると、違法ではない限り、間を置かず実行に移すべきだということだ。

上師が何を言おうと正しい。弟子として、言われた通りに実行すればいい。ティローパがナーローパに教える際に、ナーローパに崖から飛び降りさせたところを、ナーローパが思い切って飛び降りた。これこそ、師長に奉事する事だ。また、ある時、お妃を触ってこいと命じられたところを、言われた通りにしてきて、半殺しに殴られたのだ。今はどうだ。こんなことをとても考えられない。きっと私が言ったらが最後、皆は逃げてしまっただろう。師長が言ったことが全て正しい。もし、正しいと思わなかったら、それはそなたの師長ではない、そなたも決してその弟子ではない。凡夫で、ちょっと交流したりするだけなのだ。財物の供養のほか、奉事することが最も重要だ。

経典:「みな語言ごごん分別ふんべつのよくるところとすべからず。」

菩薩が為された供養奉事がいくらあるかについて、我々は言語で表現できない。私の法王に対する供養のように、私すらどれぐらいしたか覚えていないから、どうやってそなたらに言えようか。私が寺院にいくら供養したかについて、そなたらも知らなければ、私も言わないようにだ。それは、私がすべきことだからだ。

経典:「あるいは輪王りんのう帝釈たいしゃく蘇炎摩天そえんまてん兜率陀天とそつだてん善化天ぜんけてん他化自在天たけじざいてん大梵天王だいぼんてんのうになさしめ、 みなよく諸仏しょぶつ奉事ぶじ供養くようしたてまつり、 およびよくぶつしょうじて法輪ほうりんてんぜしむ。」

たとえ菩薩でなくとも、転輪聖王(てんりんじょうおう)にまで出来ている。帝釈(玉皇大帝)、兜率陀天(弥勒菩薩の天)、他化自在天と大梵天王(外道の天)においては、全て諸仏を供養、奉事し、更に仏に法輪を転じることを勧請する事が出来る。

経典:「もしは閻浮提王えんぶだいおうおよびもろもろの長者ちょうじゃ宰官さいかん婆羅門ばらもん刹帝利等せっていりとうになさしめ、 もろもろの種姓しゅしょうのなかにしてみなよく諸仏しょぶつ尊重そんじゅう供養くようせしむ。」

地球に生まれ、王、高位高官、宗教家、クシャトリヤ(刹帝利、インドでの貴族とされる)というのを務めるなど、如何なるヴァルナでも、諸仏を尊重し供養する事ができる。つまり、菩薩道まで修めておけば、天に、地球に生まれようと、仏への尊重供養を忘れず、ずっと続けられるという意味である。

経典:「またよく無量むりょう法門ほうもん演説えんぜつして、 これよりなが世間せけんてて無上覚むじょうかくじょうず。」

しかも、無量無辺の仏法法門を演説される。即ち生死解脱の法門だ。

経典:「しかうしてかの菩薩ぼさつ、 よく上妙じょうみょう衣服えぶく臥具がぐ飲食おんじき医薬いやくをもつて、かたちくすまで一切いっさい如来にょらい供養くようしたてまつりて安楽あんらくじゅうすることをたり。」

古代インドでは、寝るのに用いる寝具はなかなか探しにくい物だった。手に入るのは高々草シーツだ。良くて一枚木の板ぐらいだ。寝心地の良いような寝具を手に入れるのはなかなかだ。この種の物資がなかったからだ。そのため、衣服、寝具、飲食、医薬を供養するわけである。「形を尽くす」ことは、そなたの寿命を尽くして、前段に述べた全てを供養することだ。

経典:「かくのごとく種々しゅじゅ善根ぜんごん円満えんまんせることは、語言ごごんをもつてよく辺際へんざいつくすにあらず。」

菩薩が為された円満な善根がいくらあるかについては、なかなか言語で言い尽くせない。私がいくらしたかすら覚えていないし、最近もまた何件か増えた。(尊貴的 仁欽多吉仁波切致贈物資慰勞防疫英雄最新消息)。(最新情報:疫病蔓延防止の英雄を労り、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは物資を贈呈へ)

経典:「口中くちゅうよりつねに栴檀せんだん妙香みょうこういだすに、 そのこうあまねく無量無数乃至億那由他百千むりょうむしゅないしおくなゆたひゃくせん世界せかいくんず。 また一切いっさい毛孔もうくより人天にんでん優鉢羅花うはらけぎたる上妙じょうみょう香気こうけいだすに、所生しょしょうところしたがひて、相好端厳そうごうたんごんにして殊勝しゅしょう円満えんまんせり。」

菩薩は決して口臭がしない。法身菩薩を証すれば、説法によって口から放った香気は、全宇宙に広がる。菩薩の毛穴から一種類の匂いが漂い、その種の匂いは人や天を上回った花香なのだ。檀香、香水の香りではない。体に香味が伴うのは、きっと修行によるものだ。自分自身の修行の良さを示すために、人と会う前に、衣服を檀香で燻したりする人も居る。優鉢羅花(うはらけ)は地球では嗅げず、檀香に近いが檀香ではないし、花香に近いが花香でもなく、毛穴から放ったうっすらと漂う香りだ。嗅ぐと気持ちがいいような香りだ。

顔かたちが端厳で醜くない。かなり格好良く、目鼻、指十本、手足が整い、肌は非常に白いわけではないがきめ細かく、いわゆる美人でもない。顔かたちが端厳というのは、鼻が歪んだりせず、鼻筋がまっすぐで、正面から鼻穴が見えないとされる。面相学によれば、正面から鼻穴が見えないほうが吝嗇だが、私は鼻穴が見えるから金離れが良い。寺院の建設費用をまる抱えしたことがある。先日、チョン・ツァン法王は金を必要としたが、私はすかさず供養を差し上げた。

経典:「またもろもろの資具自在波羅蜜多しぐじざいはらみったれば、一切いっさい服用周遍ぶくようしゅうへんしてとぼしきことなし。 いはゆる諸宝しょほう香花こうげ幢幡どうばん繒蓋ぞうがい上妙じょうみょう衣服えぶく飲食おんじき湯薬とうやくおよびもろもろの伏蔵ぶくぞう珍玩ちんがんもちゐるところみな菩薩ぼさつ掌中しょうちゅうより自然じねん流出るしゅつし、」

自在波羅蜜多(じざいはらみった)とは、わざと考えなくても、自然にあるようになることだ。この一節で皆がはっきりと分かったように、そなたがよく修められれば、全部の物が揃ってくるようになる。これがそなたが修め得られたものであり、必要な物は欠かずに周囲を囲む。あらゆる宝、香花(こうげ)、幢幡(どうばん)は何れも現われてくれるし、最も良い衣服、食べるもの、使うもの、飲む薬も勝妙(しょうみょう)な物だ。自然に手に入り、わざわざ探しに行かずに、誰かが供養してくれるようになるのだ。

およびもろもろの伏蔵の珍玩、須ゐるところ」。修法するに当たって、テキストによっては、特別にとある宝を持たなければ修められない場合がある。この法を修めるに際して、伏蔵が自ずとこの宝を探してくださり、そなたがわざわざ買いに行かなくとも、自然に来てくれるものだ。私から法王に青金石の鉢を差し上げたかった話を例に言おう。数十年ずっと考えていたにもかかわらず、それは見つからなかった。青金石はアフガニスタンを産地とするが、アフガニスタンはこれまで長く戦争が続いたから、この種の宝石はなかなか出なかった。青金石は割れやすい特性があり、鉢の大きさにするには、相当な原石でなければならない。原石をまず四角く整え、さらに鉢状に掘る作業となる。数年前のある日に、突如、青金石を手に入れたから、それを鉢に形を整えて法王に差し上げた。法王はさらにこの鉢は直貢の伝承となるとご開示された。これこそ自然に来てくれるものだ。それからは、こうした石はもう見当たらない。奇妙極まりない。まさに仏典で説かれたようにだ。

「みな菩薩の掌中より自然に流出し」。阿弥陀仏という段階まで修めれば、手を開くとあらゆる物は手から流れ出るというのだ。もちろん、私にはできないが、もしいつかできるようになったら、おそらくそなたらは少しでも多く流れくれるように、地に伏せて待つのだろう。

経典:「のもろもろの毛孔もうくより一切いっさい人天にんでん音楽おんがく流出るすいせり。この因縁いんねんによりて、 よく無量無数不可思議むりょうむしゅふかしぎのもろもろの衆生しゅじょうをして、ひとしく阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい安住あんじゅうせしめたり。」

大菩薩として毛穴から出たのは汗ではなく、天人音楽なのだ。それで、無量無数の衆生を阿耨多羅三藐三菩提に安住させる。いわゆる人天とは、天の音楽は人間のと違う上、人間の音楽にも数種類に分かれる。ここでの人の音楽とは天界に近いものを指すのだ。

天界の人が菩薩と仏に会いに来る際して、音楽が伴うのだ。その音で多くの衆生を阿耨多羅三藐三菩提に安住させられる。前にもはっきりと言ったように、いったん修め得られると、世間では自然にこうした物が現われるのだ。大菩薩まで修める者としては、阿弥陀仏の所に行けば、手を開くと自ずと流れ出るのだ。そのため、我々が本尊と相応すれば、自然に何もかもあるようになる。

観世音菩薩も仰せになったように、そなたが法の如く仏道修行すれば、食事、薬、衣服、住まいに困ることはないと。それは正にこの一節を根拠とし、彼は手を差し出すと流れるように、直接に与えるのではなく、流れ出てから、誰かの手、因縁を通した上、そなたが得るというものだ。かつて、私は食事に事欠くほど貧乏だったが、昼ご飯を食べ終わると晩御飯がない場合もあった。だが、一日以上ご飯が食べられない日はなかった。自然とお金が入ってきたのだ。

何と言っても信じるべきだ。もし修行するのを決心すれば、決して途方に暮れることがない。たとえ、そなたは自分が途方に暮れ、命が尽きそうだと思っても、途方に暮れることはない。何故なら、阿弥陀仏、観音菩薩は来迎引接(らいごういんじょう)してくださるからだ。引接されると、途方に暮れることはあろうか。いや、ない。地獄に陥ることこそ途方に暮れることだ。いったん陥ったら、ご想像のように、十年後にまた生まれ変わったりするものではなく、落ちたら軽い場合には数百年、重い場合には千年からだ。私には800年を超えてもまだ生まれ変わらない亡霊を見た経験もある。

自分は若いからと思って、何かをし終わってからよく修めようなんて、思ってはならない。諸行無常だ!皆はもともと安穏に暮らしていたところを、突然に疫病が蔓延し出したなんて、誰も思いつかなかっただろう。クラスターの発生がないようにと、皆は自ら私に会いたくても会えなくなった。我々は本格的に仏門に帰依しようとしたら、決心するべきだ。もし、決心が付かず、ひたすら上師から何か得ようやら、上師に親切にされたいやらと思うと、時間の無駄でしかないのだ。

経典:「阿難あなん、 われいますでに法処菩薩ほうしょぼさつのもと修行しゅぎょうせるところをけりと。その時阿難仏ときあなんぶつにまうしてまうさく、世尊せそん、 かの法処菩薩ほうしょぼさつ菩提ぼだいじょうぜるは、過去かことするや、未来みらいとするや、 いまげん他方世界たほうせかいにありとするやと。阿難あなんげたまはく、西方さいほうにここをること十万億じゅうまんおく仏刹ぶっせつにして、」

仏は阿難に曰く、私は既に法処菩薩の修行方向、それによる果報及び修め得るに至った過程について説いた。仏と阿難の二人による師弟の一問一答形式を通じ、このことを言い出された。何故、仏はどんどんと直接解き明かさないのか。それは縁がなければ説かないからなのだ。誰かが聞き求めれば、仏は説かれるのだ。我々が毎回のように「法輪を常に転じますように」と唱えている所以に、それは釈迦牟尼仏が成仏後、人々が転法輪(てんぼうりん)を求めるに先立ち、魔王から仏が長生きしないことを求められてしまったからだ。そこで、天が仏に法輪を転じることを勧請するようになった。そのため、後世の我々は仏菩薩と上師に法輪を常に転じますようにと、毎日勧請するようになったのだ。

人が求めない限り、この縁は起きない故、阿難が衆生を代表して仏に指示を請うたのだ。法処菩薩の成仏は、過去、現在或いは未来のことなのかと聞いたところを、仏は阿難に曰く、今から西へと(インドより西とも言えよう)十万億土(じゅうまんおくど)だと。一仏刹というのは、一つの銀河系に等しいから、人類はとても十万億の仏刹に辿り着けないだろう。我々が火星に行くだけで四苦八苦するくらいだから、況やあんなに遠い所をや。そのため、阿弥陀仏の威神力に頼らなければ、そなたには行けようがないのだ。

経典:「かしこに世界せかいあり、づけて極楽ごくらくといふ。法処比丘ほうしょびくかしこにありて成仏じょうぶつし、無量寿むりょうじゅごうす。 いまげんにましまして説法せっぽうしたまふ。無量むりょう菩薩ぼさつおよび声聞衆しょうもんしゅ恭敬くぎょう囲繞いにょうせり。」

あそこには極楽世界という所があり、法処比丘はそこで成仏し無量寿と号する。ここでは仏ははっきりと説かれたが、その仏号は無量寿であり阿弥陀ではない。我々がよく称名する阿弥陀が阿弥陀仏の仏号であれば、釈迦牟尼仏はここでは阿弥陀と説かれているはずだ。何故、無量寿と言い、阿弥陀と言わないのだろうか。実は、「嗡阿彌爹哇啥」は無量寿仏の真言であり、阿弥陀仏は無量寿仏の法号ではない。通称の阿弥陀仏は無量寿である。その寿命に限りがない故、生滅しない。その法運には、時間に限りがなく、ずっと存在するものだから、無量寿と称される。

彼は今も説法し続け、しかも無量の菩薩と声聞衆はみなうやうやしく聴聞している。

経典:「阿難あなん、 かのぶつ光明こうみょうあまねく仏刹ぶっせつらすこと、無量無数不可思議むりょうむしゅふかしぎなり。われいまりゃくしてかば、光東方ひかりとうぼう恒河沙等ごうがしゃとうのごとき国土こくどらし、南西北方なんざいほっぽう四維しゆい上下じょうげもまたかくのごとし。 ただ諸仏しょぶつ本願ほんがん威神いじんくわふるところをのぞきて、 ことごとくみな照燭しょうそくせり。」

仏は、彼の光明はあまねく仏刹を照らし、無量無数不可思議で、その光は東にあるガンジス川の砂等といった国々に照らすことが出来ると説かれた。簡単に言えば、無量寿仏の光は十方法界の一切の仏土に照らすことができ、元々の威神力の加わる所を除き、悉く皆照燭する。古代には電気がなかった為、蠟燭という言葉を使うのは、最も光っている意味だ。

経典:「この諸仏しょぶつひかり、 あるいは一尋いちじんくわふるものあり、 あるいは一由旬乃至億那由他百千由旬いちゆじゅんないしおくなゆたひゃくせんゆじゅんひかりくわふるものあり、 あるいはあまねく仏刹ぶっせつらすものあり。」

一尋は伝統的な言い方での一丈よりちょっと多くあり、「あるいは一由旬乃至億那由他百千由旬の光を加ふるものあり」は度量衡を意味するが、仏刹全体に照らすことが出来ることもあろう。

経典:「阿難あなん、 このをもつてのゆゑに、無量寿仏むりょうじゅぶつにまた異名いみょうまします。 いはく無量光むりょうこう無辺光むへんこう無著光むじゃくこう無碍光むげこう光照王こうしょうおう端厳光たんごんこう愛光あいこう喜光きこう可観光かかんこう不思議光ふしぎこう無等光むとうこう不可称量光ふかしょうりょうこう映蔽日光ようへいにっこう映蔽月光ようへいがっこう掩奪日月光あんだつにちがっこうなり。かの光明こうみょう、 清浄広大しょうじょうこうだいにして」

仏は無量寿仏の他の名前について説かれた:「無量光、無辺光、無著光、無碍光、光照王端厳光、愛光、喜光、可観光、不思議光、無等光、不可称量光」は全て無量寿仏の別称である。

経典:「あまねく衆生しゅじょうをして身心悦楽しんしんえつらくせしむ。また一切いっさい仏刹中ぶっせつちゅうてんりゅう夜叉やしゃ阿修羅等あしゅらとうをして、皆歓悦みなかんえつしむ。」

即ち、もし衆生はこの光を体得できれば、その心身ともに安楽になる。一切の衆生のほか、一切の仏刹の、天、龍、夜叉、阿修羅等(つまり天龍八部)はみな歓悦を得られる。

経典:「阿難あなん、 われいまかのぶつ光明こうみょう開示かいじせんに、一劫いっこう満足まんぞくしてくともくすことあたはず。またつぎ阿難あなん、 かの無量寿如来むりょうじゅにょらいもろもろの声聞衆しょうもんしゅ称量しょうりょうしてその辺際へんざいるべからず。たとひ比丘びく億那由他百千おくなゆたひゃくせん数量しゅりょうちたるもの、 みな大目揵連だいもくけんれんのごとく神通自在じんずうじざいにして、」

釈迦牟尼仏は、これらの光明を説くのに、いくら自分自身の大威徳力、大神通力を以ってしたのでは、一つの劫があっても足りないぐらいだと説かれた。

無量寿仏の所には出家衆が大勢いる。彼等はみな目犍連(もくけんれん)尊者と同様で神通を自由に使いこなせる。目犍連は神通第一であり、五神通とも第一である。漏尽通を除き、全部揃っている。

経典:「晨朝じんじょうときにおいてあまねく大千世界だいせんせかいて、須臾しゅゆのあひだにかえりて本処ほんじょいたらんに、」

神通を使って大千世界の隅々まで行け、しかも一刹那の間に戻ってこられる。

経典:「かれ億那由他百千歳おくなゆたひゃくせんざいかずて、 ともに無量寿仏むりょうじゅぶつ初会しょえのなかのもろもろの声聞衆しょうもんしゅ計算けさんせんとほっし、 その神力じんりきくしすなはち滅度めつどいたらんも、百分ひゃくぶんがなかにおいてそのいちをもらず、千分せんぶん百千分乃至鄔波尼殺曇分ひゃくせんぶんないしうばにせつどんぶんがなかにおいてもまたそのいちをもらず。」

それらの阿羅漢、出家衆は、無量寿仏の所に辿り着けば、寿が無量になる。

仏が説法をし出した際に、これら大神通力を持った比丘はまだ仏の一切の事について、よく分かっているわけではなかった。何故なら、彼等はまだ仏までは修めていなかったからだ。百分の僅かしか分からない。「鄔波尼殺曇分」に関しては、また調べる必要がある。

簡単に言えば、菩薩と仏果を証する前は、いくらそなたに目犍連並みの大神通力を持っていようとも、いくらそなたが神力を持ち、乃至滅度に至ろうとも、仏に遇ってからそなたが分かる仏の証果のことについて、百分の僅かしか、千分の僅かしか知らず、全部を知ることができない。

ここまで語るに及んで、釈迦牟尼仏はずっと阿弥陀仏とは唱えていない。我々は漫然と阿弥陀仏を仏号と見なし、しかも千年以上唱えている。無量寿仏、無量光仏と呼ばれるべきであり、持呪の際なら無量寿仏の真言だと言うべきであろう。我々は仏の説かれた事を信じるということであれば、仏典に基づくべきだ。ここまででは、仏は阿弥陀仏という呼び方をしない。単に法処比丘から無量寿仏へと変わっただけで、法処比丘が阿弥陀仏であることを言っていない。

釈迦牟尼仏が授けられた浄土十六観の中に、きっと阿弥陀仏の真言があったに違いない。『観無量寿経』には、十六観の各観の名相しか言及されず、その間どうやって観ずるかについての解説が伴わない。観じ方はどうであれ、密法を修めるには持呪すべきだ。そのため、おそらくあの時から「阿彌爹」との三つの字が中国本土に伝わったが、この仏典の翻訳がまだされていない故、それを仏号として唱えられるようになったのだろう。もちろん、これがダメなわけではなく、強く非難されることではない。つまり、これが無量寿仏の真言であるということで、こう称えても良いだろう。まるで、観世音菩薩の真言が六字大明呪であって、我々は観世音菩薩を観世音菩薩と称するが、六字大明呪をその名号にしていないようにだ。

仏法では、それが間違いだとは言えない。それは、時間、翻訳の面で行き違いが生じたことによったとも言えよう。何しろ、そなたが清浄な心で称名すれば、何れも同じだ。しかし、仏典となると、仏典では阿弥陀仏と言及されてはいない。『阿弥陀経』があるとはいえ、それは釈迦牟尼仏が説かれた浄土に行くもう一つの方法に因んで、阿弥陀仏と呼ばれるようになったのだ。

ところが、ここでは仏が無量寿仏のご登場を紹介するに当たって、最初から最後まで法処比丘がどうやって修め、発願し、菩薩になったか等について説かれている。途中には修め方を説き及ばないとしても、この四十八願こそ我々の修行方向を助けさせる為がものである。それをよく弁えてから、阿弥陀仏浄土へ行ける割合がだいぶ高まる。後に続く『無量寿如来会第五之二』においても阿弥陀仏と言わないが、弥勒菩薩すら法を聴きに来られることについて言及されている。

« 昔の法会開示 法会開示へ戻る 新しい法会開示 »

2021 年 08 月 29 日 更新