尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年6月6日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて自ら直貢噶挙派における殊勝な上師供養法の修持を司られる。

リンポチェは法王の法座に向かってカター(Katag)を差し上げ、灯りを点して仏を供養してから法座に上がられ、慈悲に貴重な仏法開示を授けられる:

本日は上師供養法を修めて祖師ジッテン・サムゴンに供養を捧げよう。その記念日は昨日だったが、法王はオンライン法会を挙行された故、法王の弟子としての私は、替わって本日の修法を執り行うことにした。

祖師ジッテン・サムゴンは青海玉樹結古鎮の生まれで、一家揃っての行者である。我々が修めているアキ護法はその祖母であり、その父親と祖父は元々寧瑪派に属されていた。のちにジッテン・サムゴンはパグモ・ドルパに仕え、仏道修行に励んで寶吉祥という名を授けられ、直貢噶挙派の祖師ジッテン・サムゴンになられた。噶挙派は修行を重要視し、パグモ・ドルパから、様々な系統の噶挙派が派生するようになった。

ジッテン・サムゴンの前世は龍樹菩薩(ナーガールジュナ、りゅうじゅぼさつ)であり、また龍樹菩薩の前世は維摩居士(ゆいまこじ)であった。パグモ・ドルパの心から、一本の五鈷杵が現われ、ジッテン・サムゴンの心に溶け込んだといわれる。ジッテン・サムゴンは、一生涯を使って修行に心身を向けていると言っていいほどであった。のちに、ジッテン・サムゴンは、直貢地区にたどり着き、直貢梯寺を建てられた。直貢梯寺は、数回にわたり建て替えられたが、祖寺の主要な経殿、本殿は、未だに保たれている。

ジッテン・サムゴンは、生涯、多数の国王のご要請で、遠くはネパールやラダック等へ伝法に赴いたことがある。直貢噶挙800年余りの歴史の中、今はちょうど第36代チョン・ツァン法王と第37代チェ・ツァン法王に当たっている。上師供養法を執り行うのは、まず教派の興しは容易なことではないのと、もしこうした善の縁がなくて大成就者が再来しない限りでは、一つの教派はなかなか形成しないことを分からせたいからだ。教派として37代まで伝承することとは実に容易なことではない。直貢噶挙の弟子として、自分自身が直貢噶挙の門下で仏道修行するには、修行を主にすべきであり、一般人が思われるような、参拝しては加被(かび)されるのではあるまい。

福報を蓄積するのに最も早い方法は、上師を供養することである。何故、福報の蓄積に上師を供養すると早く、仏菩薩を供養するとさほどではなくなるのだろうか。今、とある上師、教派に帰依できたのは、きっと過去世でこの上師や教派により深いご縁があったに違いない。これほど深い善縁がある以上、その筋で「法」との連携もより深いから、さらに上師を供養すると、福報の蓄積の速度がだいぶ早くなるわけだ。

供養と言えば、いくらの財物で上師を供養するものではなく、そなたの仏法を修習する心構えや、上師への恭敬を以って供養するものなのだ。恭敬とは、毎日のように上師に挨拶するなり、雑談するなり、上師を見かけた際に非常に恐れる感覚のことではない。いわゆる恭敬とは、あらゆる上師が升坐し説法までもできるのは、決して一日にして成し得ることでもなければ、一世、二世という時間で成し遂げられることでもないから、きっと累世の修行を経て、やがて今生でこうした善縁、福報と功徳が現われて升坐して説法が出来るようになったことなのだ。

上師が何を言おうと、何をしようと、必ず衆生利益という中心思想を持っている。だが、衆生は上師が何をしているのか、見抜くことが出来ないだけなのだ。どうしてだろうか。まるで学校に通っている際のように、真面目に宿題をしたとしても、テストの時にどの部分が試験問題に出るのか分からないし、先生がいつどういう風にテストするのかも分からないだろう。上師が絶えず弟子をテストするのではなく、上師はあらゆる方法で衆生利益をするが、それは凡夫で分かり得るような事ではないのだ。それが、上師が何でそうしているのかと、よく思われる所以だ。

上師が見たのが、現在皆さんが見た現在の現象ではなく、未来のことだ。簡単に言えば、上師としては、因縁、因果のことをよく分かり、衆生に、善の因を植え付け、善の縁を結ばせるのに努めるに他ならない。善因善縁による果報は良い、善なものに違いない。悪因悪縁による果報も、悪いのに違いない。上師が教えるにしろ、律するにしろ、不満を抱えさせることをしたにしろ、そなたが理解しないにしろ、全てはそなたの将来の為だ。上師は何事もそなたらに一つ一つ解き明かす必要がない。何故なら、人の心は常に変わり一秒ごとに複数回も変わるものだからだ。そのため、上師としては、私がこうすればそなたがこうなるよと、はっきり言い切ることは不可能だ。何故なら、そなたの心がどう変わるのか分からないからだろう。よって、きっと様々な方法を用い、そなたが仏道修行するように仕向け、この一生で生死解脱を遂げられるよう努めるのだ。

そなたが思った上師の良し悪しは、そなた個人の考え方、欲望によるものだ。上師の良し悪しは、率直に言えば、そなたらの能力で判断できるものではない。何故なら、そなたらの判断力はすべて欲望や俗塵の要求などに基づいているからだ。俗塵の要求とは、そなたにさえ良ければ、そなたの欲望を満たさせるものなら、この上師が良いと思われることだ。仮に、上師がそなたの欲望を満たせなかったら、さらに自分が傷ついたと思わせるような事柄をすれば、この上師が良くないと思われるだろう。良し悪しは全てそなたの心次第だ。上師を仏と見なせば自ずと仏並みの加持力を、上師を菩薩と見なせば菩薩並みの加持力を、上師を凡人と見なせば、凡人並みの加持しか得られないとされる。

上師は、伝承上師と諸仏菩薩を代表してそなたらに伝法するに当たる。そなたはどんな加持が得られるかについては、上師の功徳、能力の他に、その大部分はそなたの心持に左右される。仮に、そなたの心が頻繁に変わったり、さらに上師が間違ったやら、正しくないやら、良くないやらと思ったりすると、そなたが受け取ったのが良くない、正しくない、間違ったもののようになる。それは、そなたが自ら取り戻したものだ。

一人の上師をどう判断するか。それは俗塵の見解からではない。仏道修行中と自ら認識している以上、もちろん仏法の観念から見るのだ。この上師がしている事は、いったい衆生利益に当たるのが多いのか、そうでないほうが多いのか。自分自身の名誉や利益の追求に当たるほうが多いのか。それとも、衆生の利益に努めるほうが多いのか。これは、ご自身が仏法を修習する中で、仏法を以って察することで、判断という手段を使っているのではない。何故なら、そなたらには判断する能力がなく、そなたらの判断はすべて個人の欲望に基づいているのだ。

上師の良し悪しはそなたの決定に左右されることを弁えれば、上師に対して恭敬心を起すと、取りも直さず、上師がした全ての振る舞いや、如何なる言葉も、そなたにとって加持になる。仮に、そなたが上師を敬わないなら、いくら最も殊勝な仏法でそなたを助けようと、そなたも加持が得られないのだ。もし、上師が正しくないと思ったら、たとえ上師が最善の仏法を説いたとしても、そなたも進んで聞き入れないのだ。全てがそなた次第だ。

上師と弟子との関係は、密接かつ奇妙であるが、脆弱でもある。凡人の心は常に変わり、不変なことはないからだ。なんで寶吉祥道場では生死解脱を教えてあげているのだろうか。もし、そなたはこの一生で真に生死解脱を習得するつもりなのであれば、さらに仏法と上師による助けを頼りに生死解脱をしようとするのなら、そなたの心には、上師の行為に対して自分が喜び満足できるほどの欲望や要求をいっさい持ってはならないのだ。

本日、上師供養法を修める理由に、歴代上師の祖師であるジッテン・サムゴンが、自分自身の修行を通じ教法を残し、それが今に伝わっていることがある。我々の、ジッテン・サムゴンを偲ぶ気持ち、感謝の気持ちは恒久に変わらず、我々が成仏に至るまで、その気持ちは変わらないのだ。ご自身が修め得られないのは、ジッテン・サムゴンが助けたかどうかなどに直接関係ない。ジッテン・サムゴンは、歴代の伝承上師や、歴代の升坐されたリンポチェを通じて、そなたに仏法を教えているから、上師を敬わない限り、伝承全体を敬わないことになるのだ。

寶吉祥道場を既に離れたにしろ、直貢噶挙派の他のセンターで仏道修行しているにしろ、恭敬ではない心をいったん起したら、のちには得られる加持力が少なくなるのだ。それでは、ある上師に帰依した以上、一生涯この上師に仕え続け、離れられないということはあるのだろうか。仏典ではこうした記載がなければ、テキストでもこう書かれていない。それはそなたの決定次第だ。

寶吉祥道場では、一回もあらゆる形式の宣伝を使って弟子募集を呼びかけたことがない。毎年執り行われる参列者二万人超える「阿弥陀仏無遮大済度法会」でも、誰一人の信者からの帰依も要求していないし、阿弥陀仏済度法を修めさせたからと言って「帰依しなさい」と言わない。帰依するかどうかはそなたの決定だし、仏道修行するかどうかもご自身で決められる事だからだ。そなたが決めた以上、諸仏菩薩と上師は、そなたの好きな、嫌いな方式を尽くして助けようと努めるのだ。

寶吉祥の帰依弟子は自分自身で近づいてきたのだ。上師がそなたの欲望による要求を満たせない場合、上師が正しくないやら、良くないやらと思われるだろうが、それはご自身の考え方だ。もし、上師が悪くて正しくないのなら、私に助けられた大勢の衆生が助けられた際に、衆生にしばしば効果が現われたのは何故だろうか。もっぱら私の能力だけではなく、歴代上師と諸仏菩薩からのご加護、ご加持が無ければ、こうした広大なる衆生を利益する能力が持てないだろう。

上師が衆生を指導したり助けたりする心は変わらないにしても、いつも変わっているのが弟子の心だ。疫病の関係で、我々は一か所に集って修法することは出来ないものの、オンライン法会を通じてでも、皆さんに上師への供養をさせている。

(リンポチェは上師供養法を修められている)

不共の発心とは、金剛乗の方法で修めることで、一般の共の発心とはちょっと異なる。前述した二節ではっきりと言ったように、私に憤った敵、私を傷つけた魔物や、私等の解脱、得証を邪魔する者ですら、安楽を得て諸苦痛から遠ざけてもらうよう願っている。

発心は三種類に分かれる。まず第一には、仏果を証するまで、身口意(しんくい)とも善を行ずることを誓う。それに次いで、この一生で命が尽きるまで、身口意とも善を行ずることを誓う。最後に、最低でもとある日に限って善を行ずることとし、今から明日の此の時間まで身口意とも善を行ずることを誓う。身口意の身とは、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不飲酒(ふおんじゅ)で、身口意の口とは、不悪口(ふあっく)、不両舌(ふりょうぜつ)、不綺語(ふきご)、不妄語(ふもうご)で、身口意の意とは、貪瞋痴がないことである。そなたとしては、一生涯どころか、一日24時間の実践ですら、容易なことではない。たとえそなたは身と口が実践できようと、そなたの念頭はなかなか制御できないものだ。金剛乗を学ばない限り、不共の発心を身につけることはなかなか難しいことだ。

途中に、薈供、供茶、供飯、燈供の儀軌が進行されている。

修法の半ばに、リンポチェはこう開示された:今から第四灌頂(かんじょう)を授けようと思うが、第四灌頂は簡単に授けられるものではない。だが、法王も公の場で灌頂を授けられたことが有る故、弟子たる私も皆に灌頂を授けよう。一般的には、身口意という三つの灌頂しか与えていないが、前の三つの灌頂は意識面において、資糧道、加行道において、助けてくれる働きである。第四灌は自性灌頂であり、我々の清浄な本性を加持するに当たり、それは我々の最も原始的で清浄な本性である。仏や菩薩に成るには、清浄な本性を頼りにしなければならない。第四灌の自性灌は、見道、修行道での修行で助けくれるもので、我々にとっても非常に重要だ。

本日修めたテキストでは、絶えず上師のことを説き及ばれている。何故弟子と上師との関係が脆弱かと言えば、弟子が凡夫の心をして上師と繋げんとすれば、脆弱になるからだ。凡夫の心は貪りや欲望であふれているのに対し、上師の心ではこの面に関してはよほど軽く低減しており、さらに皆無と言っていいほどだ。上師供養法というテキストでは、全てが上師からの授かりだとひたすら教えている。

そなたが世間の輪廻を出離(しゅつり)する決心が無ければ、上師との関係が弱まる。世間の輪廻を出離することを決心すれば、恭敬、懺悔と信心を通じ、そなたは上師の心と相応する上、それは堅固で壊れないものになる。しかし、凡夫の欲望の心で上師にそれを満たさせようと祈り求めたら、この関係が脆弱になる。何故なら、一人の上師が現われるのは、決して衆生の欲望を満足させるためではないからだ。もちろん、衆生の一部の欲望を実現させられるが、永久にその欲望を満足させることはない。仮に、ある上師が恒久に衆生の欲望を満足させると、この上師は得法(とくほう)をせず、衆生を生死解脱させられないのだ。このテキストは始終これに関わることについて説かれているから、皆に留意してもらいたい。

修法が円満に終わった後、リンポチェは、チェ・ツァン法王が数年間をかけて翻訳作業を進められた『アショーカ王経』について開示された。アショーカ王はインドで以前勢力を持った国王だ。彼は在家で、仏道修行する前は良くない立ち振る舞いがあったり人殺しもしたが、仏法を悟ってから、南アジアへ仏法を伝えなどして仏法の護持に努めていた。今のインドネシア、スリランカやビルマなどの仏法は、すべてアショーカ王時代に遣わされた出家衆らより伝えられたと言っても過言ではない。インドネシアのとある島には、仏教寺院や仏塔が多数あるが、何れもアショーカ王の時代のものである。アショーカ王はかつてネパールの仏陀出生地に一本の鉄柱を建てたが、千年、二千年の歳月が経った今でも、このアショーカ王が建てられた鉄柱はちっとも錆びていない。何一つ毀損される原因がないからだ。

『アショーカ王経』は法王の命に従い、印刷されたのである。この版では、売り上げ金額から印刷などのコストを引いた後の全額を、財団法人仏教澈贊法王基金会に寄付させていただく。お金は既に法王に捧げたが、そなたらが購入するかどうかに至っては、そなた次第だ。

供え物のトルマ(gtor-ma)は、均等に弟子全員に配ろう。海外にいる弟子には届けられないが、依然得ているのと同様だ。何故なら、リンポチェは何よりもあらゆる帰依弟子の事に気をかけているからだ。

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2021 年 08 月 29 日 更新