尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年5月16日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、六字大明呪を唱えられ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を説かれた。

政府の感染拡大防止措置に対応し、寶吉祥仏法センターは、今週よりオンライン法会を実施し、室内は五人以内に留めている。

リンポチェは法座に上がられるや否や、その場にいる弟子に四天王の仏像前にある雑物を動かすよう命じられた。弟子らには恭敬心がなく、四天王をただの木彫りの飾りに過ぎないとでも思って、やたらにその前に雑物を置いた事について、面詰された。更に、真心の恭敬心が無ければ、将来、仏道修行に障りが出るだろうと、慈悲深く開示された。弟子らは上師からのご教導に感謝し、素早く雑物を動かした。その後、リンポチェは先週の開示に続き、衆らに仏法開示を授けられた。

経典:「ねがはくはまさに三摩地さんまじ安住あんじゅうして かいのもろもろの法門ほうもん演説えんぜつすべし忍辱にんにく精勤しょうごんおよびじょう演説えんぜつすべし ねがはくはまさに成仏じょうぶつして群生ぐんじょうすくふべし」

仏典を多く拝聴すれば仏法を説かれるというのではなく、「願わくはまさに」というのは諸仏菩薩に向かって願を発すことで、自分だけで発願することではない。必ず諸仏菩薩によるご加持、ご加護を必要とするものである。「三摩地(さんまじ)」に安住するとは、自分に一切の意識・身口意を安住せられ、自性・法性より流露して六波羅蜜を演説することだ。経典を紐解いてのあるいは辞典を開いての六波羅蜜の演説ではなく、三摩地により演説することだ。法処比丘はとても謙遜で居られるものだ。

「演」と「説」は異なることだ。「演」とは、生涯を尽くし絶えず六波羅蜜を用いて、自ら修行し衆生利益することであり、一刻たりとも六波羅蜜を離れることはない。六波羅蜜を使わず、修行する仏教徒は嘘つきだ。大乗仏法は菩薩道を学ぶものであり、菩薩乗の根本となる修行法門は六波羅蜜である。六波羅蜜を成し遂げられないのに、自ら菩薩と名乗った者は嘘つきだ。

法処比丘は、その生活の中で為された事はすべて六波羅蜜に基づいているのである。「説」とは、衆生に六波羅蜜の重要さを解説したり、言い聞かせたりすることだ。

「庶はくはまさに成仏して群生を済ふべし。」三摩地の中で、六波羅蜜を演出し解説しないで、もっぱら自身の意識や経験を頼りにして仏法を説くのなら、成仏することはない。どうやって、自分の自性を現わして、三摩地に入るのだろうか。それは、戒定慧を頼りにすることだ。戒定慧ができたら、自ずと心が三摩地に安住するものだ。三摩地とは、仏法僧によるご加護、仏法僧を尊重することである。

先ほど、何故弟子を叱ったのか。四天王は仏法を保護するのに当たるのに、弟子らはなんと膨大な雑物を四天王の前に敢えて置き、まったく尊重などしていない。これ等の弟子は、修行上で障りが現われるだろうと予言できる。道場にあるあらゆる物を尊重すべきだ。そなたらは尊重せず、我々は四天王を修めていないからと思ったりして、更にそれはただの玄関先の飾り物だと考えている。

実は、四天王は天界の欲界天に居られ、その眷属は六道中に散らばっていて彼等は怒るものである。そなた等が四天王や護法を尊重しないと、間違いなく修行に差し障りが出てくるだろう。何故、こんな事柄が発生したのか。道場中の千人以上の弟子らは誰も尊重せず、日曜日の法会に限って誰かが雑物をどかせばいい、それは他人事で、自分がやったのではないと思い込んでいる。皆のご自宅では、居間に膨大な雑物を置くのだろうか。もちろん、このように生活をする人もいるが、一般的には、こうしないだろう。そなた等は玄関先の四天王が保護する場所に敢えて膨大な雑物を置くなんて、どうやってこの道場を保護できようか。

千人以上の弟子らは、見て見ぬふりをしていて、私が言わない限り、誰も進んで取り計らおうとしないだろう。日曜日の法会に私が法座に上がることで、いつも綺麗にしている。本日は、パンデミックによってオンライン法会にしているということで、弟子らが集まれなくて雑物を置いても構わないと思っているのだろう。私が怒るからというのではなく、四天王の眷属が癇癪を起こすというのだ。弟子が怠けていることを表している。まったく自分の事ではないと思っているのだろう。

経典:「ために無上むじょう大菩提だいぼだいもとめ」

無上の大菩提は、つまり勝義菩提心のこと。菩薩道での最も重要な宝は、菩提心である。菩提心が無ければ、菩薩道は修められない。菩提心は望めば手に入る物ではなく、たまに唱えたり修めたりすれば手に入る物でもない。ステップバイステップの他、五戒十善を守り、慈悲心、菩提心を修め、更に祈り求める必要がある。

経典:「十方じっぽうのもろもろの妙覚みょうがく供養くようし」

修行する過程の中で、絶えず十方諸仏を供養し続けるべきである。何故なら、どの一尊の仏がそなたと累世でご縁があるかわからないからだ。十方諸仏の中で、きっと何方かがそなたと縁があったに違いない。そのご縁の深さや浅さを問わず、きっとそなたとご縁がある仏が居られる。どうして、毎日のように廻向したり、発心したりするのだろうか。これ等はすべて供養であり、七支供も供養である。供養してはじめて無上の大菩提が得られるのであって、供養しなければ得られないのだ。

跪いて泣いたりすれば、菩提心が得られると思ってはならない。菩提心文を唱える際に、上師がそなたにまだ起こっていない菩提心を起させることができると説き及んだ。上師がどういう風にそなたを加持するのだろうか。帰依した際に言ったように、話を聞くべきだ。話を聞かなくては、菩提心があるようになるだろうか。それは不可能だ。

経典:「百千倶胝那由他ひゃくせんくていなゆたなりとも かの恒沙ごうじゃ数量しゅりょうきわめん」

「百千俱胝那由他」について、ちょっと調べてもらおう。これは古代で数字を数える場合に使われた用語で、天文数字のはずだ。

「かの恒沙の数量を極めん」とは、ガンジス川の河辺と川底の砂は無数にあるという意味だ。その発された願は軽く済むものではなく、「私は菜食を貫くことを発願する、何遍も六字大明呪を唱えると発願する」なんて、何れもその類に数えられず、とても軽く微小な願だ。

この二節では、どんなに時が経っても、どんなに空間が大きくても、数え切れない数字があってもという意味なので、その発された願は簡単なものではなく、大きな願だということを示している。

経典:「またねがはくはまさに大神光だいじんこうて ますます恒沙億ごうじゃおく仏刹ぶっせつらし」

こうした大きな願を発したのは、自分の安逸な生活が為ではなく、大神光を得て、仏の光にご加護され、億の仏刹を照らすことが為である。仏土は娑婆世界にしかないものではなく、それはガンジス川の砂の数みたいに多くの仏刹が宇宙中に遍満されている。有情衆生が居る限り、自ずと仏と仏土がある。仮にこの光が不十分であれば、こんなに多くの仏刹土を照らすことが出来なかろう。無量の光があってはじめてあらゆる仏土を照らすことができることに因み、阿弥陀仏は無量光と名付けられる。

経典:「および無辺むへん勝進力しょうしんりきをもつて 殊勝しゅしょう広浄居こうじょうこ感得かんとくすべし かくのごときの無等むとう仏刹ぶっせつのなかに 群生ぐんじょう安処あんじょしまさに利益りやくすべし」

更に、果てしない殊勝の精進力を以て、殊勝の広大で清浄な住居を引き寄せたのが、つまり仏土である。こんなに無等に多い仏刹の中で、生死解脱の利益を得られる。

経典:「十方じっぽう最勝さいしょう大士だいじ かしこにみなまさに往生おうじょうしてこころよろこばしむべし」

十方の中で最も殊勝な大士とは、法身菩薩である。彼等は歓喜の心を起してこの仏土に往生すべきだ。

経典:「ただぶつ聖智しょうちのみよく わがいまの希求けぐ堅固力げんごりき証知しょうちしたまへり」

「聖」は聖人ではなく、仏法での聖とは生死解脱、涅槃に入る事を指す。智とは、仏に限ってこんな殊勝な智慧を持ち、それではじめて、この種の事が分かるように証されるものである。

現在、私は堅固の力を求め得られるよう願っており、つまり上記でその発願された一切の事である。

経典:「たとひ無間むけんのもろもろの地獄じごくしずむとも かくのごときの願心がんしんはつひに退たいせざらん」

たとえ累世での悪業がそなたを無間地獄に陥らせたとしても、その発願した心は退転していない。人は往々にして、上手くいく場合には発した願が良いと評価し、上手くいかない場合には自分が当初発した願を忘れがちだ。そなたが良い境遇であれ、悪い境遇であれ、発した願は退かないことが重要だ。人はよく、苦しんで願でも発したところを、良くなった頃にはすっかりと忘れてしまいがちだ。更に、自分がまた良くなくなったら、かつて発した願をいっそう忘れているはずだ。

まるで、一万人が心を一つにして仏寺建設を護持することに参加した弟子らのように、当初はご自身で承諾したことで、誰一人もそなたを強いていなかった。そなたが承諾しなければ、上師がどうのこうのするなんか一切なかったし、上師からもそなたを無理をさせなかった。ご自身で承諾したにもかかわらず約束を破った以上、今後は誰かが承諾した事も約束が破られるようになるに違いない。

経典:「一切世間いっさいせけん無礙智むげち まさにかくのごときのしん了知りょうちすべしと」

智慧無碍(ちえむげ)とは何だろうか。清らかな根本智(こんぽんち)である。それは世間での学問や経験、或いは本から得られるものではない。六道には宇宙が含められ、本来、六道衆生は無碍の智慧を具備しているが、修めなければ有碍(うげ)になる。

先ほど四天王の前に山積みの雑物があるのを見かけた時、私は何とか動かさなきゃと思った。私の弟子には、どうして見えないのか。それはまだ発願していない、発心していない、菩提心を修めていないからだ。そこいらにある、四天王はただ4体の木彫りの飾り物で、山のような雑物を置いても構わなく、自分の便利だけしか考えていないのだろう。一人の行者においては、何事に対しても尊重するものだから、こういうのを見かけると動かさなきゃと思う。そなたが座る所の前に、山積みの雑物が置かれた場合、そなたはどう思うのだろうか。それと同じ観念なのだ。

千人余りの弟子はしょっちゅう道場に来ているのに、こういう事が見えないのは何故だろうか。六波羅蜜を修めていないことを表しているのだ。六波羅蜜の一個目に当たるのが供養である。布施・供養をよく知っていれば、自然と明白になる。如何なる仏像を見ても尊重すべきことこそ、供養である。彼らが尊重しないのは、道場では四天王という法を修めていないと思っているからだ。それは間違いだ。施身法を行法する度に、アキ護法を修める度に、四天王が含まれているのに、そなたらは、よりによってそれを尊重しない。

我々はまだ欲界天に居ながら、四天王に対してすら尊重しないのに、阿弥陀仏の身許へ行ける道理があろうか。誰もがそうだ。自分自身の事とは思っていないだろう。仏像を見れば尊重するが、リンポチェを見かけたら適当に尊重する。他のを見れば、更に尊重しなくなっている。たとえ、私が事前に言い含めておかなくても、尊重が要らないということは無かろう。道場にある全ての物は、時間と努力を積み重ねた結果であって、四天王の仏像前に山積みの雑物を置いても間違いがないと思われては、六波羅蜜をどう修めようか。

根本智を修め得られたなら、間違いなく法処比丘の発された心が分かるだろう。まだそこまで修めていなければ、おとぎ話のように聞こえる。「我々はできない、彼だけしかできない」なんて思うと、間違いだ。こうした無碍智(むげち)が有ったら、この心が成仏し衆生利益する心だと分かる。つまり大菩提心である。大菩提心を持っている人なら、きっと衆生の事に細心の注意を払って、どの事物にも留意することに違いない。敢えて雑物を四天王の仏像前に置くことは、その担当者が遠くまで運ぶのが億劫だから、こうしたほうが便利だと思っている証拠である。また、担当ではない人等は、「それは他人事で、自分はただ法会の参列に来ているだけで、僅かな賽銭をリンポチェに捧げれば、そして毎月のように道場に供養すれば、自分は仏教徒なのだ」と思っているだろう。こう考えては、実に修め得られないものだ。

経典:「またつぎ阿難あなん法処比丘仏徳ほうしょびくぶっとくさんじをはりてまうしてまうさく、世尊せそん、 われいま阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいしんおこす。」

「阿耨多羅三藐三菩提心」と言う言葉だが、それは三蔵法師が翻訳された際に、直接音訳にし、中国語にしなかったものだ。阿耨多羅三藐三菩提心とは空性の菩提心を指し、即ち勝義菩提心である。どうやって阿耨多羅三藐三菩提心を起せるのだろうか。つまり、先述した六波羅蜜、戒定慧のことだ。山のような雑物を四天王の前に置くことこそ、戒律を守らず、木を苛めることだ。「四天王は木彫りで、苛めてもどうもされないだろうし、私が毎日礼拝しているものでもないからだ」とのお考えだ。

阿耨多羅三藐三菩提心を起す事こそ、成仏するのに備える最も重要な道具である。仮に、空性を証せず、菩薩道での見道を修めずしていては、見道になるまでの全てが資糧道、加行道ということだ。この二道を為してはじめて見道になり、見道の後、修道を伴うのだ。何の道を修めるかと言えば、即ち阿耨多羅三藐三菩提心を起すことだ。

修道というのは、毎日のように何遍という仏典を唱えたり、菜食をしたり、奉仕をしたりすると思われがちだが、実はこれらはすべて資糧道の範疇だ。もし、資糧道が成仏する方法であれば、仏典では、はっきりと資糧道、加行道、見道、修道、無修道との五つの方法を言っていないはずだ。そなたが阿耨多羅三藐三菩提心を起した時こそ、修道のかけ出しだ。

自分が阿耨多羅三藐三菩提心を起したかはどうやって分かるのだろうか。そなたの人や事物への対処から分かるものだ。簡単に言えば、一生涯の中で、損をしても構わず、損得を気にせず、何事も人の為を考え、人の苦を思惟し、自分の快楽を以て衆生の苦と引き換えなどしていれば、だんだんと菩提心が育つようになり、それではじめて勝義菩提心、阿耨多羅三藐三菩提心を修める資格を持つようになるのだ。

経典:「ややねがはくは如来にょらい、 わがためにかくのごときらのほう演説えんぜつしたまへ。世間せけん無等等むとうどう大菩提だいぼだいじょうじ、」

こうした法を演説して頂くよう仏に勧請する。前の部分からずっと大菩提を得ることを言い続けてきたが、一度も大開悟を言っていない。大菩提心に他ならない。法会が終わったら菩提心文を唱えるが、何れも菩提心妙宝を説いている。菩提心という妙宝なくしては、菩薩道を修めるどころか、凡夫の累世で為した善悪業を転じることさえできない。紛れもなく菩提心を必要とするということだ。

経典:「ともに清浄荘厳しょうじょうしょうごん仏土ぶつどせっせしめたまへと。ぶつ比丘びくげたまはく、 なんぢみづから清浄しょうじょう仏国ぶっこくせっすべしと。」

仏よ、清浄荘厳の仏土をどう摂受(しょうじゅ)しようかと、あらゆる法門を教えていただきますように。仏は法処比丘に曰く:自分でやれよ。仮に彼に条件が備わっていなければ、きっと仏も自分でやれよと言わないはずだ。まるでひたすら法を請い願いに来ているような人たちもいるが、私は相手にするのも億劫だ。条件ですら無いのに、どうやって伝法しようか。菩提心を起す準備が無ければ、そなたが言うところの伝法とは、たんに自分をより過ごしやすくさせ、少し凄くさせ、少し業障を減らさせ、更により穏やかに最期を迎えさせるが為だ。もっぱらこうした観念ばかりだ。誰一人も、法を得られると、自分に菩提心を起させるよう助けるだろうと思っていない。

法処比丘は仏果を証する一歩手前だと、仏ははっきりと見えているから、直接にこう彼に言ったのだ。自らやれるものだから、特に私からの伝法は必要としないと言う。

経典:「法処ほうしょぶつにまうしてまうさく、世尊せそん、 われ威力いりきよく摂受しょうじゅするにふることなし。 ややねがはくは如来にょらい仏土ぶつど清浄荘厳しょうじょうしょうごんきたまへ。 われらきをはりてちかひてまさに円満えんまんすべしと。」

それにしても、法処比丘は謙虚にこう仏に申し上げた。私は仏みたいな、摂受できる威力を持たない故、仏に仏土の清浄荘厳を教えていただけますよう希っている。仏に教えていただければ、私はこの仏土を清浄円満に致しますと誓う。

経典:「その時世尊ときせそんそれがためにひろ二十一億にじゅういちおく清浄仏土しょうじょうぶつど具足ぐそくせる荘厳しょうごんきたまふ。 このほうきたまふとき億歳おくさいたり。」

法処比丘は自分の仏土を摂受する前に、清浄仏土を知りながらも、各仏土の間の違いがどこにあるかを知らなかった。何故なら、各仏が発された願が違うことから、各仏刹に清浄さも違ってくる。長かったり短かったり、深かったり浅かったりする。成仏する前の彼は、一切の仏刹を遊歴する大威徳力を持たず、それらの差異について探ることができない。その差異とは、この仏がその仏より凄いというのではなく、ただ仏によって発された願が違う上、とある衆生等とのご縁も違う故、こうして生まれた清浄な仏刹も違ってくることだ。仏にしか見えない物であるこそ、仏に教えていただきたいと希っている。

仏から法処比丘にこの事について言い聞かせるには、一億年かかった。21億の清浄仏土の荘厳さ(殊勝さ)を、各仏土に何が有るかを、どういった方法で修行を助けられるかを説かれた。これ等を一億年もかけて、説き終えたのだ。

「一億年も!この二人はどこにいるの」と聞かれるだろう。彼等は説法をし続けているところだ。その説法は三摩地の中でされるものだ。我々から見れば時間があるように見えるが、彼等にとっては時間がないのだ。彼等にとって、過去、現在、未来はなく、目下しかない。凡夫からすれば、時間があるように感じる。荘厳な仏土を詳しく紹介するには、適当に一節、二節にして説明できるものではないことを、凡夫に分からせるが為に、それに、法処比丘がどういう風に修めてきたかを教え、凡夫に法処比丘に対する恭敬心を起させるよう、仏がわざわざ「時間」名相という概念を仰せになった。

私が亡者にポワ法を修めさせた場合でも、時間という観念が存在していない。私がヨーロッパに居て、亡者が台湾に居るのでは、時差が存在するはずだが、行法時には時差がなく、目下で取り計らえるものだ。我らがする事としては本当に取るに足らず、それと桁違いで比べようがない。時間は虚空の中では存在しない。心が動じなければ時間はないものだ。『金剛経』で菩薩道を成すには四相を破ることを、仏が絶えず強調している。寿相こそ時間だ。他の仏典では四相をどう破ろうかと講じていないが、『宝積経』では四相を破るには慈悲喜捨を修めることだと言う。

これ等の弟子は、慈悲喜捨を修めなくては、我執(がしゅう)を破ることができない。テキストを唱える際に、必ず慈悲喜捨が出てくるのに、何故分からないのだろうか。それは進んで修めようとしないからだ。慈悲喜捨を修めると、凡夫が為すことと正反対なわけだ。「慈」とは、私の良いものを、先方の良くないのと交換すること。「悲」とは、先方を助け、彼岸へ済度すること。「喜」とは、衆生に永久の楽を得させること。「捨」とはあらゆる好きや嫌いを平等に捨てる事であり、これではじめて我相、人相、衆生相、寿者相が破られるわけだ。

この四つの相を破らずしては、修行はおろか、そなたの人生ですら苦痛でたまらない。何事も自分が為だからだ。「どうして彼は私にこう言ったのか。彼の言ったことをはっきりさせないと、私は決められない」なんて誰もがそう思っている。こう考えてばかりいては、慈悲喜捨を修められないのだ。この四つの相まで修めていなければ、永遠に信者レベルの弟子に過ぎない。そなたの我念、我執が強すぎるからだ。ご自身の力で生死解脱することができず、浄土ですら行かれないのだ。

仏が特別にこれ等の事を言い含めたのは、法処比丘は既に無我まで修めたから、空性の中を一億年居られ、定の境地という三摩地の中で、仏から仏土を一個ずつ紹介されたのが聞けたということを、我々に教えているのだ。口で説かれるだけではなく、仏は見せるよう示現されたりするものだ。例えば、彼が薬師仏の浄土を見たりすることのようにだ。もし、法処比丘が三摩地の中でなければ、見えないものだ。もし、彼が法身菩薩まで証していなければ、見る資格もないのだ。

前述のように、阿難尊者が仏に申し上げたら、仏はまず最初に「それは天人が告げたのか」と聞かれた。それは、天人だけしか仏の光が見えないからだ。この一節ではっきりと教えられた。阿弥陀仏のところへ行ったことがあると言ってはならない。そなたは死んではじめて行かれるのだ。死ぬ前から行かれるのは、来住(こじゅう)自由の菩薩を除いては、不可能だ。何故ならそなたはまだ清浄ではないからだ。阿弥陀仏の国土は清浄であり、凡夫の心では行かれるものか。またそれは夢で見たものだと主張するだろうが、実は、浄土がどうやって生まれたかの解説を聞いたからこそ、その夢を見たのだ。全て偽りなのだ。

経典:「阿難あなん法処比丘ほうしょびくかの二十一億にじゅういちおくのもろもろの仏土中ぶつどちゅうにおける所有しょう厳浄ごんじょう、 ことごとくみな摂受しょうじゅせり。すでに摂受しょうじゅしをはりて、五劫ごこう満足まんぞくし、思惟修習しゆいしゅじゅうせり。」

法処比丘は聞いてから、21億の諸仏土における荘厳な事を彼の清浄な本性に摂受でき、完全に受け入れ、微塵も忘れない。五つ劫の中で、彼は絶えず21億の諸仏土における功徳事業を思惟し続ける。五劫は実に長い時間のことで、たとえ一つの劫にしても充分長いのだ。

劫は大劫、中劫、小劫に分かれる。仏は特にどんな劫とは説かれないから、ここでは仮に小劫にしよう。人類の寿命が10歳から8万歳まで増え、また8万歳から10歳に減るという一つの循環が一小劫と言う。現在、人類は寿命が減る段階にある。三つの小劫から一つの中劫に成り、また三つの中劫から一つの大劫と成る。

法処比丘は、五つの劫の時間を使って、時間を省かずに、仏が説かれたことを、絶えず清浄な本性を以て、どう実践するか、どうこの法門を修めるかと、思惟している。少しも自分が出来ないなどと考えていない。

経典:「阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、世尊せそん、 かの世間自在王如来せけんじざいおうにょらい寿量じゅりょういくばくぞやと。世尊告せそんつげてのたまはく、 かのぶつ寿量四十劫じゅりょうしじっこうてたり。阿難あなん、 かの二十一倶胝にじゅういちくてい仏刹ぶっせつに、法処比丘ほうしょびくせっせるところの仏国ぶっこくかしこに超過ちょうかせり。」

突然に、阿難は仏に指示を請うた。彼の世間自在王如来の寿命は幾つに有られるかと。世尊曰く、この仏の寿量は満四十劫だ。法処比丘が摂受されたあらゆる仏刹仏土は、世間自在王如来の寿命を超えている。

経典:「すでに摂受しょうじゅしをはりて、世間自在王如来せけんじざいおうにょらいみもと往詣おうげいし、双足そうそく頂礼ちょうらいして、みぎめぐることしちそうし、しりぞきて一面いちめんじゅうしてまうしてまうさく、世尊せそん、 われすでに功徳くどく具足ぐそくせる厳浄ごんじょう仏土ぶつど摂受しょうじゅせりと。」

彼はあらゆる仏土の荘厳を摂受してから、また世間自在王如来の住まれる所へ行き、仏の両足に手を触れ、頭を両足に着けたまま、時計回りに七回めぐり、ある方向で止まってから仏に「私は既にあらゆる功徳が具足した清浄なる仏土を摂受いたした」と申し上げた。

経典:「ぶつのたまはく、 いままさしくこれときなり。 なんぢつぶさにきてしゅをして歓喜かんぎせしむべし。 また大衆だいしゅりょうしてみなまさに円満えんまんなる仏土ぶつど摂受しょうじゅせしむべしと。法処ほうしょまうしてまうさく、 ややねがはくは世尊せそん大慈だいじをもつてちょうとどめたまへ、」

仏は再確認した上、こう仰せになった:「今だ。そなたはできたのだ。衆生に歓喜心を起させるように、それを衆生に言うべきだ。」ここでの摂受は前のと違って、ここでは衆生に歓喜して円満な浄土を受け入れさせることだ。法処比丘は、世尊に、我が発す殊勝な願を聞いていただくよう、大悲心を以て留意し残すことを請い願う。

この事を通じて分かったのは、単に願でも起せば仏や菩薩に成れるわけではない。発願する前に、それを成し遂げられるような時間、能力や方法が自分にあるかを見極めることだ。もし、それが無ければ、謙虚になって自分をよく修めることだ。好き勝手に発願してはならない。法処比丘がこの願を起こせたのは、それに先立った菩薩道が既にできたからだ。供養、布施、六波羅蜜を全部円満にできた上、大菩提心もできている故、自分にはこうする能力があると知っているからこそ、自分の起こした心の願いを達成できるのだ。

仏がこう問うた。法処比丘は六波羅蜜を修め戒律を守った以上、戒律を守ることは成し遂げられなくては言えないものだ。彼は仏に聞いて頂くよう請い願ったのは、仏に自分がどんなに凄いか伝えたいのではなく、仏が聞いてから、それはできるものだと再び確認してくれることだ。以前、私はインド・ジャンチュウブリン(JANG CHUB LING)で、法王から坐床を賜られた際に、ドラブ・ワン・リンポチェを始め、ケンポや大勢のラマがその場に居られた。これ等の方々がその場にいらっしゃったことは、この坐床は本格的な仏法儀軌に従っての事だということを教えている。

法処比丘は、ただ衆生にその発された願を知らせるだけではなく、それはできることだと言っている。法処比丘は仏から認可され、彼ならできると太鼓判を押された。みなさん知っている通り、仏は妄語をしない。無い事を有ると言わないし、有る事を有ると教えるからだ。法処比丘は自分はできるという十分な信心を持った上、仏に聞いて頂くよう請い願ったということだ。凡夫に聞いてもらうよう求めないのは、仏ならそなたが言った事の真偽をよく弁えているからだ。いったんそれを言い出し、仏は聞いてから、そなたができると見込まれると、必ずそなたの願は成し遂げられると仰せになるからだ。

発願というのはやたらに起こすものではない。そなたらは現時点では成し遂げられる能力が無いとしても、我々は仏がかつて為された事を、仰せになった事を、歩んだ道を学べば充分だ。自己流で何かを発明する必要は無かろう。法処比丘がおっしゃったこれだけ多くの話の中、そなたらはそれの一件も出来ていない。私すら何れも出来ていない。だが、少なくとも私はその方向に向かって実践しているから、遅かれ早かれ、いつか成仏する機会が訪れるだろう。そなたらが出来ていない以上、大人しく話を聞け、何をしようと多く思惟する必要があり、自分自身を放縦しない事だ。

経典:「われいままさに殊勝しゅしょうがんかんとす。もしわれ無上菩提むじょうぼだい証得しょうとくせんに、国中こくちゅう地獄じごく餓鬼がき畜生ちくしょうしゅあらば、 われつひに無上正覚むじょうしょうがくらじ。」

法処比丘の一個目の願は、私が最高の菩提心(勝義菩提心)を証した際に、もし私の仏土に地獄、餓鬼、畜生等の三悪道衆生が居れば、私は成仏しないということだ。一個の願に見えるが、実は誓言だ。必ず出来ることだから、仮に出来なかったら、彼は成仏しない。理由は、それらをまだ度していないからだ。即ち彼の仏土に来た以上、紛れもなく三悪道ではないものだ。逆に考えれば、在世の間に為した行為が三悪道に堕ちる事だったら、阿弥陀仏の所へ行ける道理があろうか。称名でもすれば行けるものか。それは不可能だ。我々が、早め早めに、できる限り一日も早く仏道修行し、悪を断ち切るのは何の為だ。なるべく早く悪を断ち切らなければ、どう行かれようか。

阿弥陀仏国土には地獄、餓鬼、畜生道がない。『阿弥陀経』で説かれたように、そこは大善人のみ行かれ、諸大善人の生まれる所である。我々は、在世の間で大善人になりかねても、少なくとも中善、小善まではするべきだ。いつまでも根に持ち、妬みや恨みの心、人に対して不満を抱えているならば、十善法ではなく貪瞋痴だらけだ。たとえ前からの七つの善を成し遂げたとしても、とある事柄によってそなたを満たせなかったら、今度そなたは瞋恚の心、恨みの心を起し、終日それを口にしたり、それをはっきりしたいと言うのならば、貪瞋痴に当たる最後の三つがあるので、十善法を円満できなくなってしまうのだ。

前の七つは、後ろの三つである不貪、不瞋、不痴によってはじめて、円満させるものである。例えば、不殺生は修めながらも、長寿や健康の事を貪れば、円満ではなくなる。例えば、ある種の動物は殺さないものの、もう一種別の動物は殺していれば、不殺生は修めてはいるが、衆生を傷つける瞋恚がまだあるから、不殺生という善は現われなくなるのだ。

例えば、ふとした事で誰々が自分に癇癪を起こしたとかと告げ口したりすることこそ、瞋恚だ。人に信頼されたことや、人に必要されたことを上手く利用して、誰かに敵対するやら、上の人にこの人を律しさせるやらと望むことこそ、瞋恚だ。不殺生、不両舌を修めているとしても、そなたは既に両舌を犯し、唆していざこざを引き起こしているのだ。もし、この事柄が仕事に支障がなく、単に二人の間にだけ関わる事なら、なおさら言うべきなのか。それは言ってはならないのだ。仮に、それが仕事の面で組織全体に影響を及ぼそうな事であれば、助言としてヒントを与えるといい。先方にこう言われて私がムカつくから、誰々かに告げ口をして先方を律しさせるようであれば、十善法を修めていないのだ。そうだったら、阿弥陀仏浄土に行けなくなってしまうのだ。

十善法を修めなければ、間違いなく地獄、餓鬼、畜生道に堕ちるだろう。阿弥陀仏がこの三種の衆生を受け入れないのではなく、そなたが在世の時から、阿弥陀仏は一切の方法を尽くし、そなたを改めさせ、三悪道に堕ちさせないよう、そなたを迎えるのに努めている。だが、そなたは非常に深い悪の因を植え付け、三悪道に堕ちる準備をしている。しかも、そなたは喜んで三悪道に堕ちる。こうした場合では、阿弥陀仏はどうやってそなたを迎えるのか。そちらへ行ってから修め始めるわけにはいかない。もし、行かれるようなら、『阿弥陀経』では、そこは諸大善人の行く場所やら、善男子(ぜんなんし)善女人(ぜんにょにん)は福徳因縁を欠かせてはならないやら、発願してはじめて行かれる所やらと言ってないはずだ。

前述した一節目ではっきりと言ったように、在世の時に貪瞋痴がある人が、たとえ五戒、十善法を修め、帰依していたとしても、貪瞋痴がまだあるということから、十善法が円満ではなく、五戒も円満でなくなる為、行かれないのだ。自ら戒律を守っていると思ってはならない。必ず毎日の自分自身の言行を見直さなければならない。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう衆生しゅじょう三悪趣さんまくしゅすることあらば、われつひに正覚しょうがくらじ。」

仮に私が成仏しても、我が国土の衆生に三悪道に堕ちたのが居れば、私は仏果から退き、本格的な仏ではなくなる。

一節目では無上菩提を証すると言うが、どうして二節目になれば成仏するというのか。それは、一節目では、私が菩薩道を修め無上菩提心を証してから、衆生を我が国土へ迎える能力を持つようになるからだ。だが、衆生を迎えるには、私がまだ成仏していない間では、まずこれ等の衆生を三悪道に堕ちさせないよう救っておけば、また私が成仏した後、彼らを行かせるよう迎えられるのだ。そのため、法身菩薩まで修めていない限りでは、私は成仏できない。

法処比丘が発された願は我々のと違う。彼は次第に則って、根拠に従いながら、一節ずつ言っていくもので、真っ先に私は成仏すると言わない。彼は、私はまず無上菩提を証し、無上菩提を証した場合、私は一切を尽くし衆生を、三悪道に堕ちないよう救済すると言った。衆生を三悪道に堕ちないよう救済する因がある以上、我が国土では三悪道からの衆生が居ないことこそ、因果だ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう、 もしみなおなじく真金色しんこんじきならずは、正覚しょうがくらじ。」

阿弥陀仏の仏土では、全員が仏なわけではなく、まだ有情衆生(うじょうしゅじょう)で覚悟なものもいる。阿弥陀仏の浄土では、衆生は菩薩道を修めるのだ。彼らは、菩薩道を修める事を通じ、仏果を修めている。成仏するまでは、八地より前の菩薩は覚悟した有情衆生だ。阿弥陀仏の国土にたどり着いたら、登地菩薩から修め始め、その体は紛れもなく本物の金色がし、それ以外の色は現われない。つまり、前述したことに呼応したように、仏の体は金色であるのだ。

仏菩薩の体は金色である。我々が修める際に、菩薩には赤、緑、白とに分けられるとしても、それはその願力と事業に関わるだけで、彼自身の色が金色なのだ。仮に、我が国土の有情衆生が、全員本物の金色を具備しなければ、私は成仏しない。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう形貌差別ぎょうみょうしゃべつして好醜こうしゅあらば、正覚しょうがくらじ。」

阿弥陀仏国土での衆生は、十善法を修めている故、彼らの体つきや顔つきには醜美の区別がない。これ等の衆生は阿弥陀仏国土に行く前から、地球にいるにしろ、他の惑星にいるにいろ、何れも十善法、五戒を修めている故、彼等の身は端厳な相しかない。全てが自身で修めて得たものだ。そなたは行く意欲があれば、在世の間から修めるべきだ。簡単に言えば、醜いのならそこへは行けないのだ。阿弥陀仏と、浄土の仏菩薩が醜い人を見くびるのではなく、そなたがこのレベルまで修めてはじめて、我が国土に来られるのだ。皆で共に修め、皆の因が同じくいいものだからこそ、同じ果が生まれるのだ。因が違うと、いくら修めようとしても行かれない。この一節で、はっきりと言ったが、来られるものの相は皆よくなるから、醜いのが無ければ、区別もないのだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう宿念しゅくねんずして、下億那由他百千劫しもおくなゆたひゃくせんごうらざるにいたらば、正覚しょうがくらじ。」

もし、われ法処比丘が成仏したら、我が国に居る衆生は宿命通を持ち、過去、現在、未来の一切事物を漏らさず知る。即ち、神通がある事を示している。仮にこれ等の衆生が我が国土に来たにも関わらず、こうした能力を持たなければ、私は成仏しない。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう、 もし天眼てんげんなくして、すなはち億那由他百千おくなゆたひゃくせん仏国土ぶっこくどざるにいたらば、正覚しょうがくらじ。」

我が国土では、必ず天眼(てんげん)を持つ。仮に天眼を持ちながらも仏の国土が見えないので有れば、私は正覚を取らない。簡単に言えば、そなたが行っている限り、阿弥陀仏の力に加持されるわけだ。天眼にもレベルの区分けがあるが、場合によっては欲界天、色界天しか見えず、それより遠くなったら見えなくなる。だが、阿弥陀仏の国土に居れば、より遠いのも見える。そなたは誰に加持されているのか。阿弥陀仏の光、寿それに智慧によって加持されて、そなたに宿命通と天眼通を持たせるのだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう天耳てんにずして、 すなはち億那由他百千踰繕那おくなゆたひゃくせんゆぜんなほかぶつ説法せっぽうかざるにいたらば、正覚しょうがくらじ。」

どうして天耳(てんに)を得なければならないのか。それは、外からの、大勢の仏様による説法を聞く為だ。もしそれが無ければ、私は正覚を取らない。ここから諸仏は皆平等であり、区別がない事が分かる。如何なる仏も、これ等の人が別の仏からの説法を聞けると願っている。この数字は、大勢の仏という意味で、一尊や二尊ではない。

天耳通を得たら、ひねもす様々な音に影響されるのではなく、そなたが入定してはじめて聞こえるものだ。通常では聞こえない。そなたは常日頃から多くの人に声かけられるようなら、空耳か、亡霊に声を掛けられているかだ。真に天耳通を持つ人なら、聞きたい時にすぐ聞こえるのではなく、必ず定という境地に居なければ聞こえないのだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう他心智たしんちなくして、 すなはち億那由他百千おくなゆたひゃくせん仏国土ぶっこくどのなかの有情うじょう心行しんぎょうらざるにいたらば、正覚しょうがくらじ。」

我が国土に居る有情衆生は、きっと他心通(たしんつう)の智慧を得ている。だが他心通の智慧を得ても、他の国土にいる有情衆生の心の行為を分からなければ、私は正覚を取らない。ということは、他心通の智慧を得た以上、別の国土にいる一切の有情衆生(覚有情の菩薩)の心の中で為される行為が全て分かるのだ。菩薩果位を証していれば、衆生の心を分からないことはないという意味だ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう神通自在波羅蜜多じんずうじざいはらみったずして、一念いちねんのあひだにおいて億那由他百千おくなゆたひゃくせん仏刹ぶっせつ超過ちょうかすることあたはずは、正覚しょうがくらじ。」

阿弥陀仏国土に生まれた有情衆生は、神足通(じんそくつう)を得ていて非常に自在だ。自在とは、居心地の良い、快適な意味ではなく、来住自在(こじゅうじざい)だ。更に生死自在だ。ということは、阿弥陀仏国土に生まれた衆生は、いつかとある世界へ衆生済度に行こうとする場合、自在だ。波羅蜜多がその智慧であり、その神通を通じ、彼はとある場所に生まれ衆生利益しに赴くのなら、自在に実行できるのだ。

神足通を得てから、如何なる仏土にも、念頭を起せばすぐ着くのだ。もしそれが出来なければ、私は成仏しない。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう少分しょうぶん我我所ががしょそうおこさば、菩提ぼだいらじ。」

阿弥陀仏国土での一切の有情には、まだわずかな我執が存在する。我想を減らし、僅かなまでに減らす。かつて阿弥陀仏国土に来る前の、終日自分の事だけ考えていたみたいなのではなくなる。「少分も我我所の想」とは、主に彼が想ったのが専ら修行や衆生利益の事の為だということだ。前述した法処比丘が仰せになった思惟のように、彼が絶えず考えていたのが衆生を利益する事で、自分がどうしたいのかを考えていない。

この一節では、こちらに来た以上、私はその我執の減少を助け、更に僅かなまでにする事もできることを表している。少分とは、修行する中で、我という分量が減少し、更に我想の事も減少すること。阿弥陀仏のところへ行って、自分が何が欲しいのか、何がしたいのか、何が知りたいのか、というのではない。逆に、仏の教えで満ち溢れ、自分が実践したか、自分が実践する能力があるのかだ。私がどうのこうのしたい、どうのこうの望みたいのではない。如何なる者も、自分の考え方や欲望を満たしたいが、こうした観念ではそなたを成仏させることができず、生死解脱させて阿弥陀仏へ行かせることすらできないのだ。

よって、阿弥陀仏はひたすら称名し、念仏成片、一心不乱に念仏せよと教えているわけだ。一心不乱に称名することは、心で阿弥陀仏との一節のみだ。「どなたが唱えているのだろう」すら聞かない。何故なら、「どなたが唱えているのだろう」というのが、そなたのお考えだからだ。率直に唱えるだけで、私の一切の考え方や観念は、すべて阿弥陀仏という仏号に取って代わられるまで唱えれば、そなたは間違いなく行かれるのだ。まだ、誰が念仏しているのか、私が念仏しているのだろうかと、こう考えたらダメだ。我という念頭がまた強烈に出ているのだ。

如何なる凡夫という身を具備し、覚有情(かくうじょう)という段階に居る者も、法身菩薩を証するまでは、「我念、我想」を持っているが、これこそそなたの薫習(くんじゅう)だ。仏からのご加持とご加護によって、「私の念頭や考え方」の減少が助けられるのだ。何故なら、そなたはまだ虚仮の私を以って修行するものだから、今や虚仮の自分を捨て、我なんか無いということが出来っこないからだ。出来ないと知った以上、こうした我を少分にしなければならない。大我や小我に分けて欲しいのではなく、我という分量を生活の中で最小限にとどめるべきだという事。我の分量とは何だろうか。何事も、人がそなたの考え方、要求、望みに合わせてそなたの為にやって欲しい事こそ、我というものだ。

まさに絶えず減少し続けていれば、ほんの小さな我しか残らないようになる。この小さな我というのは、大小の区別があるわけではないが、ただ単に小さな分の我だけで、小分量の我を残して修行に向かうのだ。修行道をし切って無修道となれば、我という観念が全く存在しなくなる。しかし、無修道の手前にある修道では、私が修めているという観念はまだある。この小さな我という意識はまだ存在はしているが、その分量はかつてと同様ではない。この段階でのこの「我」は自分の欲望を満たすように存在するものではなく、この段階での「我」はそなたの第八意識田での我の力だ。この「我」の力があるからこそ、そなたを絶えず修めさせるようかきたてるのだ。そなたが真我まで修めれたら、あらゆる清浄なる本性は開き、はっきりとした如来蔵が真に見えるようになるとなれば、虚仮の我、最も小分な我すら存在せず、ようやく本来の面目に戻る。本来の面目に戻るまでは、我執が真に重く、特に凡夫地での際にだ。

そなた等は朝目覚めると、まずは「我」を考える。私がどうのこうのと考えたり、今日の段取りを決めたりして、死ぬまでずっと我だらけだ。この一節では、一切の諸仏、一切の菩薩、一切の上師はそなたらに我を小さいものにさせるよう教え、命の中で執着する我を非常に小さな一部分として残して、それを食事に、睡眠に、修行に使わせるのだという意味だ。それ以外は、因縁法だ。

全てが因縁法だが、努力しなくていいという意味ではない。待つことしかしないなら、それは因縁法ではなくなる。何故なら、いつでも新しい因を作れるし、いつでも古い因が現われ、それに伴う縁が生じるからだ。努力とは、仏法の教えに従う中で、五戒十善、六波羅蜜に基づき、因縁に沿って生活をすることだ。今日は仕事を頑張ったから、給料がもらえる縁がある。仮に私の因縁が縁に従うことだとすれば、そなたの怠惰に従って生活するようになるだろう。

どうしてあんなに雑物が玄関先に堆積したのか。彼等は彼等の怠惰という因縁に従い、「どうせ今日は誰も来ないから、玄関先に置いてもいいだろう。動かすのが大変で、しかもリンポチェが言い付けていないから、それは他人事だ。」と、今日来た人たちは法務担当、映像担当だから、それ以外の事は無関係だと思うだろう。それでは、来てもらったのは何のためだ。

どうして彼は動かさないのか。「誰も言い付けていないから」これがまさに我だ。「やれと言われていないから、私はしない。私は動かさない。動かすと、誰かの気に障るから。」これもまた我だ。「私が来たのは、リンポチェに仕える為だ」また我だ。私は侍される必要があろうか。まともに侍していない。

この一節は解説しにくかった。(出家弟子は、リンポチェのおっしゃったほど、はっきりと解説されたのを今まで聞いたことがありませんでしたと言った)

リンポチェがこう開示された:阿弥陀仏はここでは絶えず有情衆を強調するが、ここでは覚悟した有情衆を指し、つまり菩薩道を修める有情のことだ。この有情衆は、一般的な、覚悟していないのと違う。一般的な有情衆は、善悪業を問わず業力に従い生活する。それに対し、覚悟した有情衆は仏法の真理を用い生活するのだ。その心にはまだ、「これほどまでしなければ、成仏できないから」と、我という執着がある。いったん成仏したら、この我すら無くなり、さっぱりしている。

覚悟した有情衆と、一般的な有情衆との違いは、一般的な有情衆は何もかも自身のことを考慮することにある。まるで地蔵菩薩が仰せになった「起心動念はみな業であり罪である」のようにだ。何故なら、如何なる事柄も、自分が為だからだ。それに対し、覚有情が考えている事は専ら衆生が為だ。この場合、我も存在するが、大きいのではなく小さい我だ。我々は我でいっぱいで日々を送るものの、菩薩の日々は「我」が極めて少なく、この小さい我を後回しでもし、目が覚めると衆生にどう奉仕しようか、衆生をどう助けようか、衆生救済のためにどう修行し続けようかだけしか頭にない。そのため、その生活様式が非常に簡単だとそなたは感じる。何故なら、その「我」を小さく留め、その命の中で「我」が非常に小さい部分を占めるようになり、それ以外が全て衆生だからだ。

だが、誤解してはならない。リンポチェにとって他が衆生でいっぱいである以上、我々はどんどん頼めばいいと思うのなら、そなたの間違いだ。リンポチェの「我」がちょっとしたしか残らないようなら、そなたはどうやってその小さな分を入手できようか。小さい「我」という概念は、即ち既に名聞利養の事を気にしない意味合いを持つのだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう、 もし等正覚とうしょうがくじょう大涅槃だいねはんしょうするを決定けつじょうせずは、菩提ぼだいらじ。」

この一節は、我ら仏道修行する者にとっては重要だ。仮に有情が我が国土に来たにも関わらず、成仏するのを決定しないのであれば、私は成仏しない。私が屡々口にしているが、阿弥陀仏のところへ行っても決して安逸な日々を過ごすことにはならない事は、まさにこの一節だ。決定せず、終日寝られるものか。眠れない毎日が続き、24時間ともそなたを起し、ひたすら聞け、聞け、聞け、修め、修め、修めと促し、ご自身が成仏すると決定するまで修める他ならない。まるでリンポチェがひねもす呵責しているように、そなたらが決定しない限り、私は叱り続ける。いつかそなたらが決定するまで叱り続けるのだ。

そのため、決定できない弟子らが自然に離れてしまうようになる。更にリンポチェに罵られたとまで思う人も居る。阿弥陀仏の所では叱られないと思うのか。叱らなければ、どうやってそなたを等正覚になり大涅槃を証することを決定させようか。特に阿弥陀仏の所に行けば、阿弥陀仏は大神通を持ち、そなたの心が動じるや否や、彼は「またどうしたいのか。あれを考えただろう。これを考えただろう。それは成仏とは無関係だ!」と叱り始める。今私の弟子をしていながら、そなたが為した事が生死解脱と無関係であれば、私がそれを知ったら指摘するに違いないようにだ。だが、指摘すると、また仄めかしていると言われるから、今どきのリンポチェは実に苦しいのだ。仏典で説かれた事を言わなければならないし、実践しなければならないが、末法時代の衆生は何れも我という観念が強く、いつも自分を中心にしているのだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、光明限こうみょうかぎりありて、下億那由他百千しもおくなゆたひゃくせん算数さんじゅおよ仏刹ぶっせつらさざるにいたらば、菩提ぼだいらじ。」

私が成仏しても、もし私の光に限りがあって、億那由他百千の算数の及ぶ仏刹を照らせなければ、私は菩提を取らないそうだ。ここ数個の願はこれまでのと違う。これより前のは正覚を取らないとするが、ここでは菩提を取らないことだ。どういう意味なのだろうか。これまでの幾つかの願では、もし私が出来なければ、成仏しない意味ではあるが、ここ数個の願では、菩薩という資格すらないということだ。ということは、阿弥陀仏はもし自分にはこれまで起こした幾つかの願が出来なければ、成仏する資格がないと言うのに対し、もし自分が成仏してからでも、ここ数個の願が出来なければ、間を置かずに菩薩に退くというのだ。これぞ、大修行者の発願だ。そなたらは敢えて言えようか。紛れもなく言えない。仏から菩薩に退くどころか、部長から一般の係員に左遷するぐらいでも、もう堪らないだろう。いっそのこと、仕事を辞めてしまうだろう。

前は正覚を取らないのに対し、後は菩提を取らないことは、どういう意味だろうか。私が既に成仏したにも関わらず、もしこれらの願が出来なければ、菩薩をする資格すらなく、絶えず退いていくことだ。どういう意味なのか。そなたが約束した願を実践しなければ、退いていくのだ。例えば、万人が気持ちを一つにして寺院の建設費に対する寄附を約束したようにだ。気にしなくていいだろう、どうせできないもんだなんて考えてはならない。誰もそなたにこの願を起こせと脅迫していない。誰も約束するよう強いていない。だけど、約束した以上、実行しなくてはならない。出来なくてもいいが、ただ早めに何故出来ないのかについて理由を述べていればいいのだ。

仏は率直に仰せになったが、もし出来なければ正覚を取らない、もし出来なければ菩提を取らない。正覚を取らないとは、前からの幾つかの願は、仏だけしかできないという事であって、神通を持たせるのだ。後からの幾つかの願は、大菩薩だったら必ず出来得る事であって、そなたに少ない我を持つよう助け、等正覚を成す事と、あらゆる仏刹に光を照らす事を決定させるのだ。これ等の事は大菩薩ならできることだ。だが、そなたを開悟させ神通を持たせるのは、仏に他ならない。よって、そなたを開眼させると名乗っている他所のを信用してはならない。それは不可能だ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、寿量限じゅりょうかぎりありて、 すなはち倶胝那由他百千くていなゆたひゃくせん算数さんじゅおよこういたらば、菩提ぼだいらじ。」

私が成仏しても、もしこの寿量に限りがあれば、たとえこれだけ大きな数字があったとしても、私は菩提を取らない。即ち、彼が成仏したら、その仏土(仏自身も含め)での寿量は無限にあるということだ。それが所以に、無量寿仏と称するのだ。いくら我々が大きな数字で数えようと、多くの劫を経るとしても、その数に量がある限り、菩提を取らないものだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう声聞しょうもん、 そのかずるものあることなからん。 たとひ三千大千世界さんぜんだいせんせかいのなかにてらん有情うじょうおよびもろもろの縁覚えんがく百千歳ひゃくせんざいにおいてそのくしてかぞふともまたることあたはざらん。 もしることあらば、正覚しょうがくらじ。」

私が成仏しても、我が国土に生まれた声聞(阿羅漢)として、私は聖者がどのくらい居るかわからない。たとえ三千大千世界の中に、有情及び諸縁覚が満ちていようとも、という意味だ。仏が起されたこの願が途轍もないから、私には出来ない。仏が仰せになった三千大千世界とは、小千が三つ揃ったら一中千になり、中千が三つ揃ったら一大千になる故、無量無辺の世界ということだ。満中とは、一切の世界の中は、有情及び諸縁覚ということだ。

「百千歳においてその智を尽くして数えようともまた知ること能わず、もし知ること有らば、正覚を取らじ。」ということは、私が成仏したら、あらゆる世界の中、有情衆にしろ、縁覚の衆生にしろ、百千歳においてその智を尽くして数えても知ることが出来ない。あらゆる衆生がすべて仏、菩薩及び阿羅漢に成る智慧を知ることが出来ないということだ。

「知ること能わず」とは、彼等が分からないのではなく、阿弥陀仏は彼等を分からせるよう助けるのだ。「もし知る者が有らば、正覚を取らない」とは、前の部分とは変わったところがあるようだが、前では「亦知ること能わず」、後ろの部分では「知る者が有らば正覚を取らじ」という。阿弥陀仏はこれらの衆生を声聞縁覚から菩薩道にさせるよう助ける故、なるべくこの知が起こらないよう努める。何故なら、声聞縁覚から菩薩道に転じることが困難な事だから、「知る者が有らば正覚を取らじ」というのだ。いったん声聞縁覚が起きると、菩薩道に転じにくくなる故、わざと彼等に声聞縁覚の修行方向や法門をさほど詳しくさせないのだ。

だが、それを知らせないのではなく、この種の法門を伝授しない意味だ。例えば、寶吉祥道場では声聞縁覚という法門を授けないようにだ。いわゆる十二因縁法や四聖諦法(ししょうたいほう)という名相を知りながら、その修め方について説かないようにしている。説かないというのは、四聖諦法や十二因縁法が釈迦牟尼仏のお教えではないというのではなく、ただ我々が授けているのが菩薩道だからだ。それだけは、誤解しないように。菩薩道を伝えている以上、四聖諦法や十二因縁法を学ぶのに時間を費やす必要が無くなる。何故なら、我々がこの世での時間に限りがあるからだ。

四聖諦法や十二因縁法を修めるには、何れも毎日のように数時間も、絶えず座禅したり、思惟したり、改めたりすることを通さなければならないし、一個ずつ破り、破り切ってはじめて、あらゆる煩悩を断ち切り、生死解脱が出来て阿羅漢に生まれるのだ。この段落では、阿弥陀仏では声聞縁覚、その数を知る者が無いならばとあるが、ここでは阿弥陀仏が知らないことを指すのではなく、阿弥陀仏国土での声聞がこの法門の修め方を知らない数のことなのだ。三千大千世界は有情及び諸縁覚に満ちており、百千歳においてその智を尽くして数えようともまた知ること能わずとは、彼らにこの小乗の法を修めさせないようにし、大乗法を学ぶように助けることだ。大乗法を学び終わってはじめて、仏になる。

釈迦牟尼仏ははっきりと仰せになった。小乗を修めても成仏することができず、せいぜい四果阿羅漢までだ。もちろん、我々にしてみれば、阿羅漢という位も珍しいが、阿羅漢にしては広大な衆生を度することが出来ず、もっぱら自分自身と縁を持つ衆生だけしか度させられない。自分自身とご縁がないと、殆ど度されないのは、それはそれだけの大きな心を持っていないからだ。それが故に、この願では、阿弥陀仏のところには声聞が来ている上、阿弥陀仏もしっかりとその数を知っているということだ。しかし、うわべだけ大乗を修め、心の中では小乗を修めているのもいる。こうした、うわべを取り繕うだけでも、たまには誤魔化せる時もある。但し阿弥陀仏なら、そなたの機根が小乗を修めるつもりか、大乗を修めるつもりかが分かる。そなたの機根が小乗なのであれば、阿弥陀仏はそれを大乗菩薩道へと改めさせるよう教えてくれる。

いくら三千大千世界において、時間がどれだけ経ったとしても、仏はなるべく智慧を以って有情声聞縁覚に小乗の修め方を分からせないよう努める。仮に彼等に分からせたら、仏は成仏しない。阿弥陀仏は気前よく大胆に、敢えてこの一節が言えたが、私は言えない。そなたらはそれどころか、話を聞くことすら難しい。こう修めると決めた人を変えようとしても変えにくい。この一節は、阿弥陀仏が小乗を見下しているのではなく、ただ小乗では成仏することがない上、普遍的に衆生済度することが出来ないのだ。よって、阿弥陀仏の願力としては、それらが仏との間にご縁があることを知っていれば、すかさずそれらのこの方向への発展に歯止めをかけ、菩薩道、大乗の仏法を修め直させるよう努めることを願っている。こうして成仏すれば、もっと広く有情衆生を利益することが出来るのだ。

(リンポチェはその場に居た出家弟子に、むかし彼等が唱えた願については、どういう風に解説されたのだろうかと尋ねた。出家弟子がこう答えた:何れも以前は唱えたことはありますが、その意味がこんなに深いとは知らなかったのです。以前は、彼の国に声聞縁覚が大勢いると、サラッと言い流されたが、リンポチェほど詳しく解説されていませんでした。)

今や大乗菩薩乗を修行ぶっている人が多く居るが、心の中では、広大な心で衆生利益するつもりがなく、特に多くの信者が何を修めようと、自分自分や身内に振り向けている。それなら、声聞縁覚が考えるのと変わりがないのだ。よって、もしそなたは大乗仏法を修めず、菩提心を起さなければ、累世の業を転じられないのだ。阿羅漢を良く修めた場合、七世輪廻してからこれ以上輪廻を繰り返さずに阿羅漢果を証することが出来るものの、阿羅漢果を証しても成仏が出来ないまま、ただ輪廻を繰り返さないだけなのだ。

成仏しないデメリットは何だろうか。つまり、この宇宙に苦難の衆生が多々居るわけだ。苦難の衆生が多い中、いくらそなたが阿羅漢まで修めたとしても、全世界の業力が苦難ということで、そなたも牽引されるようになる。現在、世界規模で蔓延している疫病のようにだ。我々も牽引されて、少なくとも本日は誰も道場に来れなくなっているだろう。前もはっきりと言ったように、仏に遇えることは、3000年に一回咲く花を見たかのように、得難い事だ。ついでに言うが、仏像や行者を見かけることも難しく、そう簡単な事ではない。私は、そなたらに会わせることを簡単にしすぎている。だから、阿弥陀仏が発された願は必ず衆生の輪廻解脱を助ける為なのだ。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう有情うじょう寿量限斉じゅりょうげんさいあらば、菩提ぼだいらじ。 ただ願力がんりきをもつてしょうけるものをばのぞく。」

もし私が成仏してから、国土中の有情の寿命に限りがあり人並みなのであれば、私は菩提心を取らない。「ただ願力をもって生を受けるものをば除く」とは、とある果位まで修めると離れると発願した場合を指すのだ。つまり、そこでの寿が無くなり、別の所で生を受けに赴くこと。こうした願によって生を受ける場合もある。または、阿弥陀仏のところで八地菩薩まで修めたら、次は自分らとご縁のあるところで生を受ける場合も有り得る。もし、この類の願を発さないで阿弥陀仏国土に居る場合、そなたの寿は阿弥陀仏と同様で、阿弥陀仏が居るだけ、そなたも居る。仏が退役すると、寿が存在しないのではなく、まだ存在している。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、国中こくちゅう衆生しゅじょう、 もし不善ふぜんあらば、正覚しょうがくらじ。」

ここでは有名かどうかの話ではなく、不善の名だ。この名を聞くと、この名が不善のように思われるだろうが、つまり十善法、菩薩道を修めていないことだ。もし、彼が私の所に生まれると、私はその名を不善のように思わせることはしない。現在、我々が六字大明呪を唱えているように、観音菩薩の名号が善の名そのもので、そなたが唱える限り、菩薩の善の力が我々を加持してくれるのだ。ということは、阿弥陀仏国土に生まれた以上、名号が何であろうと、名号が称えられるものだけ、善の力で衆生を救済し加持することが出来るのだ。もし、称名されても衆生を加持し利益する事が出来なければ、私は正覚を取らない。仏はそれらに善法を教えたり助けたりし、その名自体が善の力となり衆生救済をさせる意味だ。この一節も説明するのが、なかなか難しい。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、 かの無量むりょうせつのなかの無数むしゅ諸仏しょぶつ、 ともにわがくに諮嗟ししゃ称歎しょうたんせずは、正覚しょうがくらじ。」

阿弥陀仏は本当に凄い。阿弥陀仏曰く、私が成仏してから、もし無量の国土での無数の仏が共に我が国土を称讃しなければ、私は正覚を取らない。ということは、如何なる者も阿弥陀仏を一言でも批判すれば、如何なる一尊の仏も阿弥陀仏の浄土を批判すれば、彼は成仏しないのだ。彼が為された一切の事はあらゆる仏に賛同され褒め称えられるという意味だ。それが故に、『阿弥陀経』では、釈迦牟尼仏もはっきりと説かれた、十方諸仏が廣長舌相を出して阿弥陀仏を讃歎する事は、正にこの願がもたらしたものだ。

どうして阿弥陀仏はまだこの名が必要なのだろうか。人から讃歎される事を必要とするのだろうか。いや。それは一切の仏が阿弥陀仏を讃歎できれば、仏の国土での衆生が福報を得られ、阿弥陀仏によるご加持がいただけるからだ。簡単に言えば、阿弥陀仏は、あらゆる衆生が仏の光によって加持されることを願っている。あらゆる諸仏が絶えず彼を称名し説かれていれば、あらゆる衆生がそれを聞いて、発願した者が自ずと行くようになり、たとえそこへの往生を発願しなくとも、きっとある仏がこうして修め得られたことは知り、あらゆる衆生はみな成仏できると知っていれば、努力して修めるだろう。だから、勘違いしないように。阿弥陀仏にこうした虚名、ちやほやされる事、彼の国土(浄土)が褒められる事が必要なのではなく、衆生の仏道修行を励ます為なのだ。

経典:「もしわれ無上覚むじょうかく証得しょうとくせんとき仏刹中ぶっせつちゅうのもろもろの有情うじょうたぐい、 わがきをはりて、 あらゆる善根ぜんごん心々しんしん回向えこうして、 わがくにしょうぜんとがんじて、乃至十念ないしじゅうねんせん。 もししょうぜずは、菩提ぼだいらじ。ただ無間むけん悪業あくごうつくれると正法しょうぼうおよびもろもろの聖人しょうにん誹謗ひほうせるとをばのぞく。」

この一節ははっきりと述べている。私が成仏したら、あらゆる仏刹の中の諸有情衆(一切の菩薩、乃至一切の有情)は私の名号を聞いて、その植え付けた善根をつぶさに廻向し、我が国に往生すると願おう。つまり、そなたが他の仏土で、他の仏を修め、他の仏を拝んでも、そなたがあらゆる善根、あらゆる功徳を阿弥陀仏浄土に廻向さえすれば、間違いなく彼の国に生まれるのだ。即ち、阿弥陀仏を称名しなくとも、単にそなたのあらゆる善根をそちらへ廻向すればいいということだ。

「乃至十念せん、もし生ぜずは」とは、我々が事切れる前の十の念頭が阿弥陀仏のみであれば、絶対に往生できる。もちろん、これが事切れる際になってはじめてすることではなく、常日頃から清浄なる心を訓練しなければならない。事切れる前に、自分はそろそろだと分かった時に、十の念頭の中が全て阿弥陀仏だ。簡単に言えば、六字大明呪の持呪を例に取り上げると、一つの念頭に六字大明呪だけしかない。もし、この念頭に他の思いが紛れ込んだら、この念頭は正しくなくなるから、行かれなくなる。

六字大明呪を絶えず唱え続け、中に何も紛れ込まずにいると、この念頭は清浄だ。それに対し、途中で「女房はどこだ」と思い浮かんでしまっては、念頭が途切れる。十念をやり直すのには間に合わなく、時間的にそんな余裕がないから、日頃からの訓練が大事だ。そのため、本日リンポチェはちょっとそれについて話そう。毎回の施身法の後半に、私が唱え切ってから、何故もう一度唱えるのかと言えば、これこそ十念だ。それは、日頃の訓練が必要で、例えば今日は日課として五千遍や一万遍を唱え終わったところに、十念に雑念を交えない訓練を加える必要がある。訓練しておく必要がある。往生してから唱えようというのは止めよう。

そなたが唱えているのが、緑度母であれ、他の本尊の真言であれ、十の念頭の中に本尊の真言のみになれればいい。それに、前には既にあらゆる善根を阿弥陀仏の所に廻向している。善根を廻向してから、発願する事を必要とする。死に際に本尊の真言を唱えても、往生できる。ただ、この十念の中に、他の念頭を交えないこと。どうやったら一つの念を区分けできるのか。つまり、一回の呼吸の間だ。(リンポチェは六字大明呪を唱え、一つの念頭とはどういう風だと、見本として示された)こうしたのが一つの念頭で、もう一回の呼吸が二つ目の念頭だ。

もちろん、息を引き取りそうになる場合、その呼吸はそれほど深くも長くもないが、常日頃からの訓練が必要だ。この呼吸が停止したら、次は仏号の番だという訓練だ。もし、続きに出たのが「私は死んだ」という念頭であれば、それは無効になる。そなたが前に唱えた一個、二個、三個、四個の念頭が全てなくなってしまう。十念とも清浄なのが必須であり、雑念が紛れ込んではいけない。もし、そなたができれば、仏典で明白に説かれたように、絶対に生まれる。仏七や、仏一などをするなんて必要がない。ここではっきりと言っている。そなたのあらゆる善根(つまり毎日修めている法門の事)をつぶさに廻向し我が国に生まれんと願うこと。もし、心の中で、どうのこうのと我が息子や息子の嫁に廻向したいとばかり考えると、また無効になる。如何なる心も阿弥陀仏国土に廻向すべきだ。「乃至十念せん。もし生ぜずは、菩提を取らじ。」こんなにもはっきりと仰せになっているが、皆はきっとこの段落を留意していないだろう。

「ただ無間の悪業を造れると正法およびもろもろの聖人を誹謗せるとをば除く。」この一節が重要だ。前述した事を成し遂げたとしても、そなたが五無間の罪(仏身より血を出させる事、阿羅漢を殺す事、父母を殺す事、正法を誹謗する事を含む)を犯した場合を除く。多くの人々は正法を誹謗する事を犯しがちだ。自分自身が絶えずこの法を修めながらも、求める事が叶わないと思うと、誹謗だ。正法はそなたの願望を満たすものではなく、そなたを生死解脱させ、悟りを開かせ、正信正覚を持たせるものだ。そなたはご自身の欲望を満たせなかったら、批判し始めるのだろう。

聖人とは何だろうか。人を生死解脱させる人だ。仮に、そなたが聖人を誹謗したり批判したりすると、行かれないに違いない。故に、あらゆる弟子よ、いいか。いくらリンポチェが悪くても、私は皆に後ろめたい事をしていない。いったん、そなたが誹謗の罪を犯すと、阿弥陀仏の所に行く資格を失う。私が聖人ではない理由に、そなた等が見た私が聖人でないからだ。だが、私は心の中では、はっきりと自分のしている事を知っている。つまり、絶えず仏法で衆生利益をし続けている事だ。

近頃、流行っている感染病の件だが、リンポチェが感染されないよう、リンポチェに休んでもらおうと勧めた弟子が多く居るが、リンポチェは休みのは惜しいと思っている。もし、休んだら、説法が一週間少なくなる。何故なら、私にはもう先が長くないから、一週間休めば、一週間少なくなるのだ。自分が聖人だと敢えて言うことは出来ないが、少なくとも私は聖人になる方向へ進んでいる。だから、心がけよう。帰依した際に、上師に悶着を起さない、上師に癇癪を起さないと言ったのは、この箇条に関わりがあるからだ。もし、こうしたことを習慣づけたら、いつかそなたの上師が真に聖人に成れば、かつてそなたが起こした癇癪、揉め事などによる因果が存在し、消滅などはしない。だから、心がけよう。もし上師の事を気に入らないなら、ご自宅に戻った後、批判しないように。私は評価されるのを恐れるのではなく、私は74歳まで生きてきていて、いくら評価されてもこのまま老けていき、いつか死ぬものだから、恐れていない。

経典:「もしわれ成仏じょうぶつせんに、刹土せつどにおいて、 もろもろの衆生しゅじょうありて、菩提心ぼだいしんおこし、 およびわがところにおいて清浄しょうじょうねんおこし、 また善根ぜんごんをもつて回向えこうして、極楽ごくらくしょうぜんとがんぜん。 かの人命終ひとみょうじゅうときのぞみて、 われもろもろの比丘衆びくしゅとそのひとまえげんぜん。 もししからずは、正覚しょうがくらじ。」

そなたが別の所に居ようと、阿弥陀仏の所でなくとも、そのポイントは菩提心を起す事だ。仮に、そなたの仏道修行がご自身のちょっとした私的な事の為だったら、全然菩提心ではなくなる。例えば、健康状態の為やら、とある人の為やら、金運成就の為やらだったら、まったく菩提心ではない。菩提心が無ければ、そなたは阿弥陀仏に対して清浄な念を起せず、きっと期待を持ったりして、阿弥陀仏がそれを満たすようとそなたが願っている。まるでそなたらがよく上師に対して期待があり、上師がそれを満たすとよく効くなあと思い、上師がそうしなければ効かないと思うようにだ。それが満たされなかったら間違いなんて、まったく清浄な念ではない。

「また善根をもって廻向して、極楽に生ぜんと願ぜん」。いわゆる善根とは、修めたあらゆる法門の功徳を阿弥陀仏浄土に廻向することだ。そのため、そなたの死に際に、命終に臨んだ場合(息を引き取るか、引き取らないかの間)に、阿弥陀仏はあらゆる出家衆を連れ、そなたの前に現前する。もし、しからずば、正覚を取らない。よくある質問だが、いつ阿弥陀仏の来迎引接(らいごういんじょう)に遇えるのかと。この一節で、既に答えが出ている。先ず、そなたは菩提心を起していないかご自身に聞いてごらん。次に、そなたは阿弥陀仏に清浄なる念を起しているか。第三に、毎日修めた善の功徳を廻向し、極楽浄土に生まれんと願っているか。これらの幾つかの条件が揃ったら、阿弥陀仏は来迎引接するに違いない。もし、しからずば、それは正に一個目の菩提心を起すことさえ誰も出来ていないようにだ。何故出来ていないのか。それは、するのが難しいからだ。

« 昔の法会開示 法会開示へ戻る新しい法会開示 »

2021 年 08 月 08 日 更新