尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年05月09日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参列者全員を率い四臂観音修誦簡儀を修められ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を解説された。

四臂観音修誦簡儀を修め終わってから、リンポチェは皆に「持呪する際は、目をつぶらない。目をつぶると、眠たくなるやら、幻覚を生じるやら多くのデメリットがある。リンポチェは目の具合が良くないから、より気力を費やさないよう目をつぶっているだけで、皆はこれを真似しないで欲しい。一心不乱、念仏成片、自性念仏まで修められるなら、別論だが。」

経典:「その時仏ときぶつ阿難あなんげたまはく、 なんぢいまいかんがよくこのるや。諸天しょてんありてきたりてなんぢにぐるとせんや、われをるをもつてみづからるにいたれりとやと。阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、世尊せそん、 われ如来にょらい光瑞こうずい希有けうなるをたてまつるがゆゑにこのねんおこせり。天等てんとうによるにあらずと。」

上記のいくつかの節は先週も解説したが、本日は補充説明しよう。釈迦牟尼仏は六神通を持っている。仏の能力では、他心通と天眼通を持っていて、入定さえすれば衆生の因縁が分かっているはずなので、わざわざ聞く必要がないだろう。だが、仏が仏法を開示した際、その場に様々な機根を持つ衆生が居たため、仏は言語での応答を通じて衆生のさ迷いを解決しなければならなかった。

阿難尊者は仏の金色の光が見えたということだが、それは凡夫に見えるものではなく、たとえ出家していても見えず、天界まで修められた人だけしか見えないものだ。阿羅漢道を修める者なら、初禅、二禅、三禅、四禅天を証すれば分かることだ。仮に、誰かが仏の光を見かけたと言ったら、それは可能性が二つしかなく、一つは気違いだ、もう一つは天界から降りられた者だ。天界から来た人が、もし阿羅漢を証していれば、物凄くきれい好きで、誰一人とも気に掛かることがなく、菜食を貫くに違いない。肉で奉る者なら、明らかに天と無関係だ。

古くから、大修行者の付き人は嫉妬され、見くびられている。ここで、仏が自ら侍者の阿難に聞いたのは、彼のために特別に書き残すためだ。仏は既にこの先の事が見えているからだ。阿難曰く、それは天に告げられたのではなく、自分で見たと。何故なら、阿難は仏を完全に尊敬している故、彼の目で見た仏は凡夫の生身ではないからだ。これを通じ、阿難は少なくとも初禅天まで修められ、少なくとも阿羅漢を証されていることが分かった。

阿難は嘘をついていないか。仏どころか、我ら行者の能力ですらそなたらのことを充分に分かるから、たとえ騙されたとしても、アキ護法はちゃんと抓み出させるようしてくれるのだ。まるで先週のあの二人のように、以前、出家弟子が彼等に聞いた際、まことしやかにリンポチェに従い菩薩道を学びたいととうとうと言ったが、緑度母の一言で馬脚を現した。ということは、凡夫を騙し取ったとしても、諸仏菩薩と護法を騙し切れないのだ。

阿難は絶対に騙さない。騙すと戒律が破られ、間を置かず果位が退くからだ。帰依の際、五戒を守れと言ったが、その一つが不妄語だ。証していなかったり、見えていないのに、証したり見えたりと名乗ってはならないのだ。もし、証したり見えたりした場合、上師に聞かれた時すぐに言うべきだ。この師匠と弟子で、騙さないという芝居を示された。仏典に書かれた如何なる話も修行に関わり、気ままに言うことはない。仏から見れば、如何なる仏法と無関係な話も妄語だから、仏は無駄話をしない。

凡夫は仏の光が見えない。たとえ浄土を修めようと、厳しく言えば、阿弥陀仏浄土も天に数えられるだろう。生前に、念仏成片やら一心念仏やらできなければ、仏に遇うことはないだろう。毎日のように、仏が現われ、仏に遇うことを祈っている者もあるが、仏に遇うには二通りの状況がある:一つは、自性念仏すれば、自ずと遇うから求める必要がない。もう一つは死に際だ。この境地にたどり着けずひたすら求めるようなら、妄念であり、自身を欺き人を欺くということだ。

長年持呪してきたが、何の感覚もないと言うだろう。感覚がないこそ感覚があるのだ。心が清浄だから、感覚がない。何の感覚を望むのか。そなたらが感じたのは、お化けばかりという感覚、でたらめという感覚、以前聞いたことのある話といった感覚だ。これ等は全て偽りだ。清浄こそ感覚がない。感覚とはそなたの情緒、意識、思考によってわざと作り出したもので、自然に現われるものではない。昨日、ある出家衆は私に、参話頭とは、どなたが唱えていますでしょうか。と聞いた。私は、もう時間を無駄にせず、ひたすら持呪するとよい、きっといつか分かるからと答えた。参話頭が禅宗のほうで使われることは、以前の人は時間が有りすぎたことに由来しているが、そなたらは今や誰もが忙しい。

昨日、ある弟子が会見を求めたが、6年前に彼女の命を一度救ったことがあるが、ここ6年間は時間を作って修行しなかったせいで、病気が再発した。上師は仏を学ぶ妨げを乗り越えさせられるが、一回だけしか救うことができない。そなたらは引き続き精進して仏道修行するべきだ。だが、皆は正常的な家庭倫理の生活だけしかしたくなくて、日々を無駄にしている。

祖師ジッテン・サムゴンも仰せになったように、上師にはそなたらの病気を治させる能力があるが、あとは自ら精進して仏道修行するものだ。戒律を守るリンポチェであれば、果位が高かろうと、低かろうと病気を治すことができる。(もし、出家相を現しながら結婚していれば破戒になるが、それは別論だ)リンポチェはそなたらの病気を治させるに当たるが、病気を消すのではない。業はご自身が為した上、病気を消すとなれば因果を変えることになる。専ら福報を使い尽くしてはじめてこうした業障による病を患うのだ。そなたらの病気を治させるには、精進して修行させられるよう、体力、時間を保ってあげることだ。そなたらが怨敵(おんてき)と共に生死から解脱させられるよう私は願っている。それなのに、そなたらは怨敵を追い払うことしか頭にない。リンポチェが彼等を済度し切って、彼等が離れたら、私は良くなると思ってばかりいる。怨敵はそなたらに仇や恨みを持ち、たとえ彼等を済度しても、彼等はまだ凡夫地に居られ、ただそなたとの恨みは軽くなるが、まだそなたのことを覚えている。

帰依弟子の多くは病が再発したが、それは心が悪だからだ。話を聞かない所に悪があり、いわゆる正常な家庭生活をひたすら望んでばかりいる。そんな生活がしたいのならば、仏道修行は勧められない。家庭はそなたらの業力だ。『宝積経』にも説かれているように、そなたのこの一生はこの業力を過ごすということだが、業力に囚われて修行を諦めてはならないのだ。

私が顕教を学んだ際、少なくとも一日に『普門品』を二本から三本、『阿弥陀経』を一本、観世音菩薩の名号を一万遍唱えていた。時間があれば、長めの大悲呪を49遍、十小呪、往生呪、『心経』を唱えた上、毎日座禅を40分間していた。私は『大華厳経』を3遍拝読したが、依然に業力を転じさせず、私は破産、離婚、病気を経験した。一座の面々は、出家衆を含め、誰が私より多くした人が居ろうか。私がこうして修行に励んだ故、この一生で密法を学び広大なる衆生を利益させる因縁ができた。

一日1000遍や2000遍などを唱え、アキ護法でも修めれば、何もかも良くなると思っているのか。機嫌が良ければ供養を多めにするやら、機嫌が悪ければ供養を少なめにするやら。万人同心で寺院の建設を護持しようとそなたらが宣言したのに、約束した後は実践もしない。私はそなたらに無理にさせることはないから、私自らやる。だから家でも売ったり、今から私の収蔵品を売ったりしようとしている。

出家弟子よ、主法者が自らお金を出している法会を聞いたことがあるか。(聞いたことがありませんと答えた)私はお金を出したり力を出したりして法会を挙行するし、お金を出して寺院を建設するし、説法するし、更に良い食べ物を与えているのに、そなた等はそっぽを向き、プレッシャーがあるように感じている。修行するのは、業力を転じさせるためだ。これ等は全てそなたらに良いものだ。

帰依して18年のある弟子が、当初は脳腫瘍を患い、私に助けられた。彼女は病気が治ったと思って、家庭に重点を置くようになった。今や再発し、癌細胞が転移してしまった。私は彼女を18年間助けたのに、彼女はここ18年間で儲けたお金をちゃんと供養・布施しなかった。その分、それを正常な家庭生活に費やしている。まるで、6年多く生きたもう一人の弟子と同じようにだ。そなたらはどうやって上師と向き合うのか。私は条件交渉を行うつもりはなく、ただこの段落に説き及んだのは、そなたらにとって上師が如何に重要なのかを知らせたいだけなのだ。

阿難は無口で、あまり他人に能力を見せないタイプだ。仏は全ての弟子に分からせるように、ここで敢えて言い出し、彼の為に道を開くのに努めている。弟子は弟子らしくすべきだ。そなたらは本当に弟子らしからず、上師に対しては、単純なある種の取引行為になっている。だが、取引行為と来ても、そなたらもまともに執行していない。更に、これらは私がそなたらに与えるべきだという風に考えている。どうして当たり前のことが有ろうか。誰もが私をバカにして振り回している。ただ、私は命を尽くして衆生利益すると、諸仏菩薩に約束してあるからだ。それに対し、そなたらは余った時間を使い、施しの心構えでやっているだけだ。

もし、私は貧乏を経験したことが無ければ、貧乏の苦痛さをわからない。だが、そなたらは昼食を食べ終わったら、次の夕食がいつどこにあるすらわからないほど、家賃、電気代が払えないほどではなかった。これ等を私は全部経験した。そなたらは仏法に対して揺るぎなく強烈な尊重心を持たないし、痛くなったところをやっと思い出していてはもう手遅れだ。誰でも紛れ幸いとの心持で、リンポチェに加持されれば良くなると思っている。そうならば、私はとっくに法王に私は修めないと言っているはずだ。ひねもす法王に行法していただき、私を守るようにご加護頂ければいいが、私はそうしてはならない。

日々は過ぎていくもの。時間を無駄にしたり、守られて安逸した日々を暮らしたいのなら、寶吉祥道場に来ないで欲しい。ここは仏法を教える場所である。仏道修行が正常な生活と行き違いがあると思うのなら、来ないでくれ。私も在家衆なのに、衝突と矛盾を感じない。感じるのは、そなたらが決定を下していないからだ。仏法はだんだんと衰退していく。何故なら、敢えてこう言える人が私以外にもういないからだ。

釈迦牟尼仏と阿難との会話から、上師は弟子の世話をすることが分かった。仏は特に何かを与えていないが、彼の未来に、資格があると書き記させた。そなたらはひねもすリンポチェが何かを与えてくれるべきだと思い続け、大いに感じ取らせ、家ごとよくなったやらと望むが、これは仏法ではない。

前回、解説した経典に「つひに大悲に安住して群生を利益せんがために、優曇花の希有なるがごとく大士として世間に出見したまへるがゆゑにこの義を問へり。」とある。出家弟子に調べてもらったところ、優曇花は三千年に一回花を咲かせる花であり、天界の花で、咲くや否やすぐ消えるものだ。だから、この法門を修行する大士に遇ったら、あたかも優曇花の花が咲いたように珍しいことだ。もし、そなたがこの縁を掴まなければどんどん去っていくものだ。これは、ある行者を見かけたのは希有で得難い事の喩えで、見たにも関わらずこの機会を掴まないのもご自身の決定だ。たとえ我々が上師の長寿祈請文を唱えたとしても、彼は永遠とそこいらに居られるわけではない。たとえグル・リンポチェが仏に成り、地球に八百年もいて離れないとしても、八千年も離れないとは言っていない。こうした修行者に出くわしたら、しっかりと機会を掴むべきだ。それは得難いことだ。

経典:「われまさになんぢがために分別解説ふんべつげせつすべしと。阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、ややしかなり、世尊せそん願楽がんぎょうしてきたてまつらんとほっすと。その時仏ときぶつ阿難あなんげたまはく、往昔阿僧祇無数大劫むかしあそうぎむしゅだいこうぎて、ぶつましまして出現しゅつげんしたまへり。ごうして然灯ねんとうといふ。かのぶつまえにおいてきわめて数量しゅりょうぎて、苦行仏くぎょうぶつましまして出興しゅっこうしたまふ。苦行仏くぎょうぶつまえにまた如来にょらいまします。ごうして月面がつめんとなす。月面仏がつめんぶつまえ数量しゅりょうぎて栴檀香仏せんだんこうぶつまします。かのぶつまえにおいて蘇迷盧積仏そめいるしゃくぶつましまし、盧積仏るしゃくぶつまえにまた妙高劫仏みょうこうこうぶつまします。かくのごとく展転てんでんして離垢面仏りくめんぶつ不染汚仏ふぜんわぶつ竜天仏りゅうてんぶつ山声王仏せんしょうおうぶつ蘇迷盧積仏そめいるしゃくぶつ金蔵仏こんぞうぶつ照曜光仏しょうようこうぶつ光帝仏こうたいぶつ大地種姓仏だいじしゅしょうぶつ光明熾盛琉璃金光仏こうみょうしじょうるりこんこうぶつ月像仏がつぞうぶつ開敷花荘厳光仏かいふけしょうごんこうぶつ妙海勝覚遊戯神通仏みょうかいしょうかくゆげじんずうぶつ金剛光仏こんごうこうぶつ大阿伽陀香光仏だいあがだこうこうぶつ捨離煩悩心仏しゃりぼんのうしんぶつ宝増長仏ほうぞうじょうぶつ勇猛積仏ゆうみょうしゃくぶつ勝積仏しょうしゃくぶつ持大功徳法施神通仏じだいくどくほうせじんずうぶつ映蔽日月光仏ようへいにちがつこうぶつ照曜琉璃仏しょうようるりぶつ心覚花仏しんかくけぶつ月光仏がっこうぶつ日光仏にっこうぶつ花瓔珞色王開敷神通仏けようらくしきおうかいふじんずうぶつ水月光仏すいがっこうぶつ破無明暗仏はむみょうあんぶつ真珠珊瑚蓋仏しんじゅさんごがいぶつ底沙仏たいしゃぶつ勝花仏しょうけぶつ法慧吼仏ほうえくぶつ有師子吼鵝雁声仏うししくががんしょうぶつ梵音竜吼仏ぼんのんりゅうくぶつましませり。かくのごときらのぶつ出現しゅつげんしたまふに、劫数こうしゅをあひることみな数量しゅりょうぎたり。かの竜吼仏りゅうくぶついまだでたまはざる前無央数劫まえむおうしゅこう世主仏せしゅぶつまします。世主仏せしゅぶつ前無辺劫数まえむへんこうしゅぶつましましてでたまへり。世間自在王如来せけんじざいおうにょらいおう正等覚しょうとうがく明行円満みょうぎょうえんまん善逝ぜんぜい世間解せけんげ無上むじょう丈夫調御士じょうぶじょうごし天人師てんにんしぶつ世尊せそんごうす。」

釈迦牟尼仏は阿弥陀仏のご登場を解説するに先立ち、仏の伝承について説かれる。釈迦牟尼仏のお教えによれば、この宇宙で有情衆生が出始めてから、仏は在世しているということだ。異なった惑星や銀河系などには、仏様が多数おられる。仏は衆生利益という願力から離れず、衆生が輪廻苦海にいる限り、仏は現われる。多くの仏様を紹介された所以は、末法時代の衆生に誦経を通じてこれ等の仏様と縁を結ばせ、ご加持いただくことにある。このことは釈迦牟尼仏自身も仏であることを示している。仏だけしか過去・未来の一切が見られないものだ。阿羅漢の中で最も上位なのも、五百世の過去・未来しか見られないが、釈迦牟尼仏にはこうした制限がない。如何なるこの宇宙に発生した因縁をも、仏様は知っている。

如何なる仏菩薩の名号も、そなたが唱えたり拝んだりすることがあれば、縁は存在する。いつか、この仏が入定して、そなたはまだ彼を騙し取っているのを見かけたら、きっと護法を遣わしてそなたを律するに違いない。そなたが話を聞かず、惜しいと思うからだ。優曇花みたいな得難い事に出くわしたのに、大事にせず、まだでたらめを言っている。警戒心を起させるためだ。これ等の弟子が病気になったのもこの意味だ。自分に間違いがあると思わせるためなのだ。

この間、亡くなった弟子が、死んでから自分に間違いがあると分かった。でも、死んではじめて自分に間違いがあると思って欲しくない。何故なら、その時、リンポチェがまだ居るとは限らない上、リンポチェからそなたに寿命を一日多くさせる因縁があるとは限らない。自分に間違いがあるとわからせ、信心、懺悔心を起させてはじめて、リンポチェはそなたを救えるのだ。仮に、このご縁が無ければ、そなたは落ちて輪廻する。何故、在世の時、ひねもすそなたらを罵っているのか。罵らなければ、そなたは信じない。輪廻は簡単なものだ。仏道修行していれば、輪廻しないと思ってはならない。

昨日、ある信者が「自分は癌を患ったが、家族から仏道修行も菜食もしているのに、何故癌になったのかと聞かれています。」これは仏への誹謗だと、私は取っ付きから怒鳴った。この一生で、菩提心を起さない限り、自分自身の業力を解決し得ない。あたかも私が顕教を学んだ際に、終日多くお勤めしていたが、自身の業力を転じることができなかったようにだ。それは、ただひたすら資糧道を行っているだけなのだ。

誦経、礼拝などは修行する事ではなく、資糧道を蓄積するに当たっているだけだ。菩提心を発し、菩提願を行ずることに至ってから、私の業力が転じ始めたのだ。そなたらは菩提心を起さず、慈悲心すらない。そなたらの上師への接し方から見れば、ちっとも慈悲心がないと分かっている。菩提心が無ければ、業力を転じさせられない。仏曰く菩提心妙宝のように、この宝だけしか我々の業力を転じさせられない。悪から善に転じる。上師の言ったことをうわの空で聞くなんて、慈悲心、菩提心があるわけないだろう。慈悲心、菩提心が無ければ、何もかもそなたらと無関係だ。

顕教を学んだ際、私はしっかりと基礎を修めていた。だが、自分自身の問題を転じられなくて、衆生を助けられないと思っていた。何故かと言えば、菩提心を発していないからだ。『宝積経』では菩提心をどう発するのかについて説いている。そなたは自分にはあると言うだろうが、毎日唱えていても、上師が率い上師が教えなければ、菩提心の発し方は分からないだろう。密宗では、簡単に、上師の話を聞くということに絞る。聞いているうち、つい聞き入れるようになる。上師が講じたことを、自分の事を罵ったり、ほのめかしたりしていると思えば、もうほかに打つ手がない。

私は「ますます観世音菩薩に似てきたね。いい子供さんね、リンポチェから加持しよう…」という風に言って供養を受け取る方法もあるが、私は因果を恐れる。仮に、私が仏法でそなた等をなだめたり、具体的な修行方法を教えなければ、私の間違いになる。正直な話を言ったら、そなたらはなかなか受け止められない。何故なら、皆は驕り高ぶっているからだ。

経典:「阿難あなん、 かのぶつほうのなかにひとりの比丘びくあり、づけて法処ほうしょといふ。殊勝しゅしょう行願ぎょうがんおよび念慧力ねんえりきあり、増上ぞうじょうなるその心堅固不動こころけんごふどうなり。福智殊勝ふくちしゅしょうにして、人相端厳にんそうたんごんなり。」

ここでは法処比丘は人相端厳と言った。行者としては鼻や口などが歪んだり、おっかない顔つきをしたりすることはない。たとえ端厳なほどでなくても、その相は少なくとも醜いものはない。だが、仏典によれば、わざとこうした相を現し、分別心のある衆生を度しようとする場合もある。戒律を守った行者は、殊勝な行願(ぎょうがん)があれば、その念頭は絶えず向上するばかりだ。その修行する心は揺るぎなく、何に遭っても元に戻ることはない。

私が目の具合が良くなくても、ちゃんと法座に上がって仏法を開示するようにだ。親族が危篤に陥っても法座に上がったようにだ。少しもその気配を感じさせなかっただろう。何故なら、私の心は揺るぎないからだ。衆生と説法を約束した以上、私個人の事は取るに足らないことになるからだ。

法処比丘にはどういった異なったところがあるのか。彼が為された一切の行為、発された一切の願が殊勝であり、全てが成仏して衆生利益するがためだ。彼の心は堅固たる、動じないものだ。金剛乗は正にその意味だ。彼の心は堅固であって、その修行する心は、外観、内面の全てに影響されず、勇ましく前へ邁進していくことだ。その福と智慧が特別である。法処比丘は人であり、人相を現している。

経典:「阿難あなん、 かの法処比丘世間自在王如来ほうしょびくせけんじざいおうにょらいのみもとに往詣おうげいして、 ひとへにみぎかたかたぬぎ、 仏足ぶっそく頂礼ちょうらいして、 ぶつかひて合掌がっしょうし、 」

一生で成仏するには、必ず仏の在世が必要だ。仏の在世が無くとも、仏の法運で修行されてはじめて可能性がある。仏の法運が終わると、修行することは不可能だ。我々は業障が深く、釈迦牟尼仏の法運での末法時代に生まれた故、様々な障りに遭っているようにだ。多くの場合は、自分から自分へ障碍を与えている。末法時代が終わると、仏法がなくなり、大修行者が特に居ない。やっとのことで56億万年後になって、弥勒菩薩が地球にいらっしゃってはじめてまた仏法が有るようになる。この56億万年はそなたを充分多く輪廻させるのに足りる。そなたが今生で出家相を現し、弥勒菩薩の兜率天の内院に生まれるようと大願力を発し、後世は弥勒菩薩とお供して降りられる場合を除く。もし、そなたは今生出家せず、或いは出家しながら比丘、比丘尼戒を守らなければ、弥勒菩薩の身許へは行かれない。

『宝積経』では、弥勒菩薩は釈迦牟尼仏にこう指示を請うた。「菩薩はどんな発願をすれば、阿弥陀仏浄土に生まれることを得られるのでしょうか。」在家相を現す者も、出家相でありながら清浄な比丘、比丘尼戒を修めていない者も、弥勒菩薩の所へ行かれない。行かれるのは、阿弥陀仏浄土である。在世の時、菩薩道を修めていれば、たとえこの一生は阿弥陀仏を称名しなくとも、功徳を浄土に廻向するよう発願しさえすれば、この世が終わると、依然行かれるものだ。阿弥陀仏浄土に行くには、阿弥陀仏の称名が必要と言っていない。薬師仏を称名して、あらゆる功徳を浄土に廻向すると発願すれば、阿弥陀仏よりご来迎下さる。

経典:「じゅをもつてさんじていはく、如来にょらい無量無辺光むりょうむへんこう げてひかりのよくたとふべきなし 一切いっさい日月にちがつ摩尼宝まにほうも ぶつ光威こういにみな映蔽ようへいせらる」

古代の人は話を簡潔に言うから、現代人の我々のように形容詞を使いまくることはない。

仏の放った光は無量無辺であり、それを遮るものは何一つもない。仏の光が現われると、日、月の光を遮るが、我々が生きている間はそれを見られない。例えば、私が行法した際の写真には、こうした光がいくつか見られる。それは、太陽と月の光を遮られるものである。多くの人達はそれを見たことがある。こうした光は私が放ったのではなく、本尊の光で、仏の光である。

経典:「世尊せそんよくいち音声おんじょうべたまへば 有情うじょうおのおのるいしたがひてす」

釈迦牟尼仏からの説法には、英語や、オランダ語や、チベット語など異なった言語を必要としない。仏は単一の音さえ使えば、六道衆生に伝えられるものだ。持呪語は母音、子音、そして本尊の音に分かれる。呪文には、本尊の心法、慈悲、事業、智慧、福報が含まれている故、この音を文字で解説することはできない。長期にわたってそれを唱えれば、自ずと意味が分かってくる。阿弥陀仏も呪文の一つであって、別のことに心を持たず、ひたすら阿弥陀仏を称名すれば、自ずと仏様が伝えたいことが分かってくる。わざわざ答えを探さなくてもいい。仏の智慧は人類の文字で解説するものではない。無理やり呪文を人類の言語にさせようとすれば、それは間違いだ。

六字大明呪は僅か六文字で簡単そうに見えるが、仏典には「仏の智慧で六字大明呪を解説するには、一小劫という長い時間でも足りないぐらいだ」とある。よって、私はどうやって簡単に紹介すれば六字大明呪が分かるというのか。誰かが大悲呪を翻訳するのを試したいと思うことのように、これもやるべきではないことだ。本尊が書かれた呪文はその智慧にあたるものだから、人の脳ではその智慧が分かることはあろうか。本尊が何を説かれたかを知りたい事こそ、傲慢だ。内容が知りたいのなら、本尊並みに修めれば分かるものだ。人間の言葉で解説しようというのなら、いったい中国語に文字が幾つあるのだろうか。(中国語学科で教授を務めている弟子が、中国語の文字は二万字強あるうち、日常生活で使われるのが僅か三千字ぐらいですと答えた。)

そのため、二万字以上あっても仏の智慧を解説することができない。ひたすら素直に持呪すれば、きっといつか悟りを開くから、誰が唱えたかなと探ったりする必要がない。仏典では、人類も中陰の身であると言う。生死輪廻の中にさえ居れば、みな中陰の身だ。生きている人も中陰の身であれば、死んだ霊も中陰の身だ。そなたらが生きている霊だから、仏の語られた事が分かることはあろうか。時間の無駄だ。廣欽老和尚が仰せになった「誠心誠意念仏せよ」のように、ひたすら持呪し、何も考えず、きっといつか自然に悟りを開くようになるのだ。

経典:「またよくいち妙色身みょうしきしんげんじて あまねく衆生しゅじょうをしてるいしたがひてせしむ」

我々が現在見ている釈迦牟尼仏のお姿は、遼の時代のと違う。更に過去に遡ると、インドで出現した釈迦牟尼仏のご様子もこうではない。どれが仏なのだろうか。その実、全部が釈迦牟尼仏のお姿である。仏が一種の色身(しきしん)を現し、我々に見せているのだ。如何なる類が違う者も、見ればそれは釈迦牟尼仏だと分かる。そなたらは、口癖に「これが家の観世音菩薩だ」とよく言う。だが、誰がそんなことを決めたのか。

音一つだけで、六道衆生はすべて聞き取れる。色身一つだけで、六道衆生はすべてそれは釈迦牟尼仏だと分かる。だから、これ以上仏を誹謗してはならない。釈迦牟尼仏がそのお姿を出されるようになったのが、自分が拝んだお蔭だと思ってはならない。釈迦牟尼仏は衆生の心によって、違う色身を現すものである。そなたが聞けば、自ずとその意味が聞き取れる。六字大明呪は観世音菩薩が唱える音で、現段階、凡夫地に居る我々は、その六字の真実の意味を分かるわけがない。進んで唱えれば、きっといつかこの六字の妙用が無限であると分かる。

経典:「かいじょうしんおよび多聞たもんは」
仏であられても、戒定慧が存在している。多聞とは様々な仏法を聞いたことがあるというのではなく、仏が現われて仏法を説き広める場合があれば、我々はその機会を諦めてはならないということだ。仏典に基づき仏法を広めた出家衆や行者が居れば、そなたには聞く機会があるので、よく聞くべきだ。聞くからと言って、悟りを開くやら、飲み込めるやらとは限らない。聴と聞とは異なり、聴とは我々の意識、我々の耳による音に過ぎない。私の言うことをうわの空で聞く弟子らがいるが、それは彼らは聴くのであって、聞くのではない。聞とは耳根(じこん)で受け止め、耳根で受け止めてはじめてそなたの第八意識田に入るものだ。聞を使えば、自ずと第八意識田で種を撒くようになる。

多聞の前提は戒定慧である。戒律を守らなければ、定力を伴わないのは当たり前だ。定力が無ければ、そなたの智慧と、仏菩薩、上師からご加護になった智慧もない。智慧が無ければ、進歩を遂げない上、多聞もしない。

経典:「一切いっさい有情うじょうにともにひとしきものなし こころながるる覚慧かくえ大海だいかいのごとく」

一切の有情衆生は無差別に仏と同様清浄なる本性を具備しておる。一切の有情衆生の心は川のように常に流れているが、もし心の流れが覚悟し智慧的なものならば、それは大海のようだ。心は僅かな人生での要求に陥らず、取るに足らない修行の枠にもとらわれない。発心とは、心の流れを稼働させ、稼働させてはじめて覚悟を得て、智慧が大海のようになることだ。本来であれば、如何なる衆生も大海の如く智慧を具備しているが、そなたらにはこうした感覚を持たないのは分別心を持っているからだ。ご自身の心が安逸な生活したいということに留め、リンポチェが自分の望んだようにしてくれると要求している。つまり、そなたの心の流れは諸仏菩薩の智慧による心の流れと違うのだ。流れていかないと、六道輪廻の中へ流れ込むようになる。

密宗では心続を重視し、行法する度に、必ず自分の心を本尊の心続に結ばせるから、つまり心の流れということである。本尊の心は、すべて衆生利益のためだ。何一つ自分のために求めていない。

経典:「よく甚深じんじんほう了知りょうちす」

もし、心の流れは覚悟してあり、智慧が大海の如くという程度に入れば、間違いなく深甚の法、成仏の法、生死解脱の法が分かるのだ。戒定慧を無くしては、この先はそなたと無関係だ。修め得られないと言う人が居るが、先ずは自分自身に戒定慧を問おう。在家五戒はちゃんと守れたか。出家の比丘、比丘尼の二百強の戒律は実践できたか。成し遂げてはじめて定が生じるものだ。心が煩雑でなく、でたらめな事がない。称名すらできないうち参話頭をしてしまったり、参話頭を称名の場合にしたりすると、めちゃくちゃになる。

厳しく戒律を守れば、心の妄念、雑念がだんだんと減っていく。のちに、定という境地を生じ、それではじめて我々の智慧を開かせ、上師、諸仏菩薩から我々の智慧へのご加護をいただけるのだ。話を聞かないとか、戒を伴わないとか、さらに一歩一歩着実に実践しなければ、有り得ない。私が修法して効果を出せられるのは、正に戒定慧を持っているお蔭だからで、それは必ず実践すべきものだ。

2007年、法王は私を標高4500メートルのラプキ雪山へ三か月に及び閉関させた。行く前までどういう場所なのか知らなかったし、行ってきて今に至ってもどういう場所だったかすら分からない。寒いという印象しかない。もし戒定慧を持たなければ、私は行かなかっただろう。たとえ行っても、心が煩わしくて、三か月に及ぶ関を閉じられなく、修め切れなかっただろう。

試しに考えてみよう。にぎやかな都会で生活していた人が、急に、人家が無く、動物がいない、鳥の鳴き声しか聞こえない所に行った。一つの部屋に閉じこもり、24時間とも外を見てはならない、喋ってはならない、電話してはならない、何もかもしてはならない、本も仏典も読んではならない。ひたすら一件の事しか許されない。もし、戒定慧を持たなければ、続かなかっただろう。多くの者は「リンポチェは、どうやってできましたか。」と問いてきているが、その答えは戒定慧だ。戒定慧があれば、自ずと進歩し、多聞になるから、求めずに自然に得られるのだ。

戒定慧、聞思修は仏道修行の根本になる。在家の者は在家五戒を守り、菩薩戒を授かった者は更に守るべきだ。

経典:「惑尽わくつ過亡とがもうじてくべし」

全てのさ迷いが尽きた。過亡とは、仏が亡くなられるということではなく、既に過ぎ去ったということだ。何故なら、修行が最後に来たら無修道となる故、一切が過ぎ去り、消滅されるものだから、供養を受けることができるということだ。小乗では、煩悩を断ち切るには、四聖諦法、十二因縁法を修める必要がある。大乗仏法では、菩薩道を修めたり、菩提心を発したり、菩提願を行じたりする。先ず世俗菩提心を発し、のち勝義菩提心を証し、空性を証して体得してはじめて、「惑尽き過亡じて供を受くべし」ということになる。

簡単に言えば、煩悩が尽きず、煩悩が存在している限り、供養を受ける資格を持っていない。古人の言によれば、地獄の門前に僧道が多い。弟子からのではなければ、私は供養を受け入れない。そなたらは供養を受けたら返す必要がないと思うだろう。何れも返すものだ。『宝積経』で書かれたように、私は名と利からの惑わせが尽きたということだ。私は取っ付きから範囲を作っておいた、「弟子からのではなければ、私は供養を受けない」と。供養させないと懲らしめられた弟子からのも、私は受けない。ということは、私は金銭財物への煩悩が尽きたから、供養を受けられるということだ。

供養は、好き勝手に受け取るものではない。必ず返す能力を持たなければならない。この間亡くなった弟子のことを例に取り上げれば、私は彼を数時間目覚めさせておいたが、私が言った11時になったところを、死んでしまったのだ。その後のことは私が全責任を負う。何故なら、私は供養を受け取ったことがある上、私の弟子だからだ。たとえ、彼は上師を尊重しなくとも、彼はずっと弟子という身分を諦めることがなく、私の弟子をし続けていたからだ。私の弟子だからこそ、生死という難に遭遇した際に、私は救わなければならない。その命を救うのではなく、彼を三悪道に陥らせず、阿弥陀仏の身許へ行かせることこそ、私の責任だ。

リンポチェが怖いからと言って離れるようなら、どうぞ離れてください。こうしたら、私は少し責任が減り、少し煩悩が減るからだ。弟子に厄介事があれば、私は手を差し伸べる。お金が無ければ、私は先ずお金をあげるようにしている。『宝積経』を拝読しているうちに、自分の修行方向が正確かどうか少しずつ分かるようになる。正確でなければ、今のうち調整すればいい。まだ間に合う。まだ死んでいなければ、必ず時間があるから。10年かかることとは限らず、場合によっては一日にして解決し得るものだ。この弟子のようにだ。3時間があれば解決できたものだ。上師の重要さを分からせ、真心で上師を信じ、尊重すべきだ。彼が生きていた際は知らなくて、リンポチェがただの人だと思っていたのだ。

阿難の上師に対する心は完全に清浄である故、自然に生身でない釈迦牟尼仏が見えた。見えたのが一尊の仏である。そなたらは私を生身のある人に見えている。もちろん私には肉があり、捻られたら痛みを感じ、切られると血も流れるが、私の心性はそうではない。何故なら、私は改めたからだ。この段落は、うわべから比丘が仏を褒め称えているように見えるが、それと同時に、我々に仏として備えるべき条件を教えて下さっている。今はできないものの、それを学ぶべきだ。仏を学ぶとは、仏ができる条件を学ぶことだ!そなたらは実践しているのか。仏ですら戒定慧を必要とするが、そなたらは。油断してはならない!誰もが懺悔に行けばいい、大したことではないように思っている。だが、懺悔しすぎると、懺悔する力はなくなり、現われようとしないのだ。し損なってもいいが、改めるべきだ。思い切って改め、何の余地も残らないようにすることだ。進んで改めてはじめて未来があり、良い機会が期待できる。もし改めようとせず、自分が正しく過ちがないように思ってばかりいれば、こうなのだからしょうがないと思うならば、それでは、もうほかに打つ手がない。仮に、私が小さい頃からリンポチェだと認められたら、俗世間での苦しさを知らないかもしれない。私は小さい頃から苦しい生活を送っており、裕福な生活を味わったことがない。祖父の世代では、かなりの大金持ちだったが、政治問題によって、我々が香港にいた時は非常に貧乏だった。よって、小さい頃から苦しい生活を送っている故、そなたらの苦がどこにあるかよく知っている。こんな苦しさを私が経験した以上、そなたらはこの苦をクリアできない理由があろうか。それは簡単だ。そなたらは仏法を信じず、自分の業力を信じず、何もかもすぐさまよくなるよう望んでいる。それは不可能だ。必ずステップバイステップで、福報を蓄積して、智慧を開いてはじめて機会が訪れるのだ。突貫工事をしたいのならば、離れると良い。仙人が助け合うなんて、それはおとぎ話だ。仏菩薩は我々を一回だけ、それも一時的に救うことができるものの、永遠に救うことはない。自分が努力しなければ、どう救えようか。皆が弁えたら、二の舞を踏むことがなくなるだろう。

経典:「かくのごとき聖徳しょうとくはこれ世尊せそんのみなり」

こうした条件は仏だけしか持たない。我々は仏の身口意を学んでいるからといって、仏に成れるとは限らない。この一生で成仏することがないことから、我々は自分自身のちょっとした成就で傲慢になってはならない。ちょっとでも傲慢があれば、仏教用語の「我慢」そのものになるから、『宝積経』で説かれた、菩薩にはちょっとでも「我慢」があれば、全ての功徳は消えてしまうようなことになるのだ。「我慢」とは、自分がよく修めたと勝手に思い込み、人を見くびることだ。自分が唱えては感応があり、他の人が唱えては感応がないと思うことこそ、「我慢」だ。「我慢」が現われると、修めた功徳が無くなって福報に変わるのだ。福報は後世でしか使えないものだから、今生では使えそうなものではない。

経典:「ぶつ殊勝しゅしょう大威光だいいこうありて」

比丘には大神通があり、その一切が清浄になった故、仏がどう修め得られたか見た。そのため、その説かれた話は単に仏を讃歎するだけではなく、同時にその修行がどの境地にたどり着いたか示している。その話は常に肝心かなめなポイントを引き出している。我々なら言い出せないものであって、比丘だけしか言い出されないものだ。何故なら、彼は成仏する寸前なため、成仏する条件を知り、讃歎の在り方を知っているからだ。

簡単に言えば、後世の人々である我々に、自分自身がこうなのか見極めさせることだ。仮にそうではなかったら、決して傲慢になってならない。自分が実践できるまで、実践できたと名乗ってはならない。でなければ、破戒になる。

仏は殊勝な大威光を持たれる。威光は威風凛々としてそなたを怖がらせるものではない。仮に、我々が本尊上師に対し絶対的に信心を持てば、仏菩薩、本尊上師の光は、そなたを累世の怨敵や業力から守ってくださる。だが、決して、白馬の王子に嫁ぐやら、大学の学費が免除されるやらではなく、修行する過程で妨げられないように守られることだ。

例えば、閉関の際に灑淨という振りかけ清めを施す他、自分を保護するよう護輪を修める必要がある。ある果位を証するまでは、怨敵はそなたに機会を無くさせるよう障る。何故なら、誰一人も徹底的に心の底から問題を掘り出して懺悔する人が居ないからだ。いつも殺生した事だけしか思い出していない。だが、心の中にある貪瞋痴をしっかりと掘り出したか。誰かを恨んだことを言い出したことがあるのか。ない。私は一度も聞いたことがない。だから、これらの怨敵は今祟ってきている。

昨日、ある弟子はその眷属の代わりに大礼拝(五体投地)をするよう願い出に来た。彼の願い出に同意はしたが、彼は供養を忘れて去った。何故、こうなるのだろうか。その理由には二通りある。まずは、彼自身が金銭財物を重視している。次は、彼は供養を一種の条件交渉だと思い、目的が達成した時点で、供養を忘れてしまうのだ。

私はどう供養しているのか。法王が伝法する前から、私は供養を既に捧げておる。そなたらはどう供養するのか。言い終わったのに、供養を持ったままで躊躇っている。だから、そなたらは供養していない。それは単に一つの行為に過ぎない。菩薩と比べるどころか、私にすら比べられない。だから、私がそなたらの上師をする機会がある。

経典:「あまねく十方無量じっぽうむりょうせつらしたまへり」

仏光、大威徳光は決してある場所だけしか照らさないだけではなく、十方で東西南北上下の隅々まで照らす。我々が知らないのは凡夫地に居るからだ。そうでなければ、人類はそんなに気楽に過ごせるはずがあるものか。何か一匹の虫に噛まれると死んでしまう。人類が最も脆弱だ。人類が偉そうに、多くの衆生を傷つけたり、環境を多く破壊したりするが、人類は脆弱だ。ちょっとした毒虫にでも噛まれると、死んでしまうものだ。

どうしてだろうか。仏光がそなたを照らす中で、そなたには業障がさほど重くなく、まだ大悪人ではないからといって、機会をあげて守ってくださっているということだ。仏菩薩に保護された側は、それを知らないでいるし、まったく保護されていないと思われるだろう。仏が、自分の欲しいのを送ってくれないと思うならば、そなたの間違いだ。「普く」とは分別心がないということだ。

経典:「われいまもろもろの功徳くどく称讃しょうさんす 冀希こいねがはくは福慧如来ふくえにょらいひとしくして」

比丘は仏の一切の功徳を褒め称え、自分も福徳・智慧が仏と同様になるよう願っている。この人は心が充分に広い。何故なら、仏の大智慧と福報がなければ、広大なる六道衆生を利益することができないことを、彼は明白に分かっているからだ。

人が発した心が何だったか。人が敢えて発した!彼は自分が成し遂げられると知って敢えて言ったのだ。これらの出家衆は、決して法処比丘の真似で、自分の福徳・智慧が如来に等しくすることを言ってはならない。そなたらにしては、福徳・智慧が出家衆に等しくするぐらいで充分だ。私の見方では、法処比丘が説かれた話、為された動きから見れば、それは既に一般凡夫ではないということだ。

経典:「よく一切いっさいのもろもろの世間せけんの 生老病死しょうろうびょうしともろもろの苦悩くのうとをすくはん」

何故これが要るかと言えば、諸世間(即ち全宇宙)における生老病死と衆苦悩を救うが為だ。そなたを不生・不老・不病・不死にさせるのではなく、再び生老病死を繰り返さないよう助けるが為だ。つまり輪廻解脱することだ。輪廻を解脱してはじめて、不生・不老・不病・不死になれる。だから、世間での小さな病は、癌であろうと、治らない病であろうと、輪廻苦海と比べたら、天と地との差だ。とるに足るものか。そなたがした悪業による病気に過ぎない。比丘が生老病死の衆苦悩を救えるのを見たら、ひたすら助けるよう求めてはならない。生死解脱から救うと、既に仰せになった。生老病死をではない。最も抜本的な救済は、輪廻しないことだ。
凡夫の身を現す度に、輪廻を一回する。生老病死を伴うことは避けては通れず、解決し得ないことだ。釈迦牟尼仏が仏であられても生老病死がある。それは、釈迦牟尼仏が慈悲深くも示現してくださったことである。ここでは、仏様に、自分が病気になること、年を取ること、死ぬことから免れるよう祈り求められると誤解しないでもらいたい。ここでは、生老病死の苦を指すのだ。この生にして、死あり。この死にして、生あり。生死がない以上、自然と病や老いは伴わない。

ある弟子らは私に済度されたら、様子が若く見えたのは何故だろうか。つまり老けていないのだ。仏典によれば、天界の人は平均年齢は二十歳前後だというから、民間で大髭を伸ばした格好のイメージなのは、本当ではないのだ。阿弥陀仏の身許に生まれると、16歳だ。若返りしたいなら阿弥陀仏の身許がおすすめ。化粧品もケアも要らずに、16歳に若返る。皮膚が破れそうに細かく、弾力がある。これらはすべて仏典に書いてある。

仏典には天界について説いており、そこは空色だ。だから、私に済度された亡者を夢見て、そしてその色が空色で、二十歳前後に見えるなら、それは天界に居る。阿弥陀仏の身許に行っていれば、夢には来ない。何故なら、蓮華の中に籠っていて出られないからだ。だが、行かれる前に、ちょっと見せてくれるかもしれない。

経典:「ねがはくはまさに三摩地さんまじ安住あんじゅうして」

この比丘が発した願は我々のと違う。三摩地に安住することは禅定の中に、別に何もなく、涅槃とは一歩の差にすぎない。涅槃が禅定だと多くの人に思われがちだが、禅定は涅槃とは違うものだ。禅定はまだ意識による作用であり、自分が禅定、入定していると思っている。これこそ意識だ。しかし、涅槃は定という意識ですら存在しない故、自然と本来ならではの寂静(じゃくじょう)へと回復することだ。

経典:「かいのもろもろの法門ほうもん演説えんぜつすべし」

仏法を演説する際は必ず定の中にいることだ。立証できるように、膨大な資料を抱え、とある仏典に書いてあると説明するのではなく、定の中で仏法を説くことだ。より簡単に言えば、自性の中で言い出され、自性が流露した仏法であり、又聞いてきたやら、見てきたやらではなく、自然に修行の経験から、清浄なる本性から流露して、言い出した「施・戒のもろもろの法門」のことだ。何故、終日私に怒られてばかりいるか。ようやく分かったか。

振り返ってごらん。リンポチェが1997年から仏法を広め始めて以来、何を語っても持戒と布施のみだ。何故だろうか。福を修めるのだ!福が無ければ、修めたくても修められず、様々な妨げが出てくる。ここまで言って、明白に分かっただろう。いったいこれを修めたか、これを聞き入れたか、これを実践できたか。「施・戒のもろもろの法門を演説する」ことは、一切の布施の方法、戒律を守る法門を説き広めることだ。金運成就や健康成就などを教えるものではない。

経典:「忍辱にんにく精勤しょうごんおよびじょう演説えんぜつすべし ねがはくはまさに成仏じょうぶつして群生ぐんじょうすくふべし」

忍辱(にんにく)とは人に苛められ、罵られても忍耐することだと大勢の人に認識されているが、その実、忍辱の中で最も難しい時はそなたが好調な時だ。ちょっと礼拝でもしているうち、自分が好調に変わりつつあると思えば、忍辱しなくなるのだ。好調だと思った時は、決して精進せず勤勉しないで、留まり、傲慢の心が現われるようになる。忍辱が、そなたが敵対された場合の事に当てはまると、まだ耐えられるが、良くなったことを耐えるようになると、本当に耐えられない。

巷では流行っているが、ある女性らは、その夫が二人の記念日や、誕生日や祝日になる度にプレゼントをしてくれて、夫が良くなったと思うのは、自分が修め得られた結果だと判断している。それではお終いだ。やっと得たちょっとした福報をここに使ってしまったということだ。何故なら、そなたはこうしたことの出現を促し、こうなったら自分がよく修めている証だと思ったら、そなたの間違いだ。仏道修行して周りの環境がよくなりつつあるのは、単に福報が現われただけなのだ。この福の使い道を知るべきだ。更に修め、更に衆生利益をするもので、自分だけ福を楽しめるのではない。

私は生涯福を楽しめないのだ。去年からコロナウイルスの感染が拡大して以来、私は台北に閉じこもり、遊びに行っていない。何故なら、自分は福がない人だと知っているから、福を他所へ使ってしまわないようにしている。修行の福がちょっと出ると、まるで太陽の日射しが出始めた時のようにだ。まさに正午の日射しのように思ってはならず、本当は僅かな光に過ぎない。それは、闇の中にずっといたそなたが、突然に光が見えたからだ。自分が修め得られたと思った反面、より慎重に扱い、これまで以上に忍耐し、気ままにすることはできない。こうした人をさんざん見てきたが、外の人であろうと、弟子であろうと、帰依して何年か経ったら自分が偉いものだと思っている。

忍辱(にんにく)という法門は重要である。一切の福報はここから生じるものだから、慎重に扱うべきだ!少しでも多めに儲けていることは、修め得られた証ではない。ただ、そなたにあるべきだったのが戻ってきているだけなのだ。そなたには修めている故、障礙が取り払われ、ただ戻っているだけなのだから、もっと布施、供養するべきだ。私がお金が欲しいわけではないが、先述した「施・戒のもろもろの法門」のようにだ。言い換えれば、六波羅蜜だ。そなたらは六波羅蜜を修めているのか。いわゆる六度万行(ろくどまんぎょう)とは、万は一つの数字のようだが、一万回すればそこまでにしようということではなく、し続けることだ!自分はちゃんと実践できたか。自ら約束した事すら気にせず、年末で一括で出そうというつもりだったら、六波羅蜜を修めていないことだ。こうしていれば、成仏して群生を済度することが無理なのだ。

そのため、戒定慧、聞思修、六波羅蜜こそ、成仏する根本的な条件になる。仮に、六波羅蜜を無くして成仏するつもりであれば、潜り抜ける門すらない(全くその気配すらない)。六波羅蜜を無くして生死解脱するには、門どころか、穴ですらない。自分には布施、誦経、礼拝した事があるから、修行していると思ってはならない!この条件に基づけば、(修行してい)ないのだ。仏典曰く、成仏して群生を済度することだが、この条件に基づけば、自分がよくなるのではなく、成仏して一切の衆生を救済するが為に成仏したいのだ。

人の願に対し、そなたが持っている願は何だ。専ら息子が話を聞くやら、娘が話を聞くやら、息子の嫁が菜食するやらしかない。仏が発された願を拝見すれば、そなた等は懺悔するべきだ。法会にでも参列すれば生活が弥が上にも良くなると思ってはならない。法会に参列して、私の説法を聞けば生活が楽ちんではないと思う所以は、我々の生活方式に衝突が多くあるからだ。手加減を上手くしなかったら、下手すると「学べば学ぶほど神経質だ。気が狂ったように学んでいるのだ」と怒られるからだ。これは屡々見かけられることだ。

何故、人に怒られるのだろうか。それは、前世、そなたは人を叱り、妨げたことがあるので、この世で仏道修行していると、人から妨げられるのだ。『宝積経』では、家の人を牢役人のように思うことだと書かれている。牢役人とは、牢屋でそなたを監視する人等だ。落ち着いて考えてみよう。一日24時間中、ずっと家の人に監視されているではないか。「何時に出かけるのか。何時に帰って来るのか。どこへ行くのか。まだ帰ってないのか。外がそんなに面白いか。」なんて、牢に入ったのと同じではないか。

仏は我々に、家庭はご想像の程には幸せな所ではない。あるのは、怨敵ばかりだ。全員が一か所に集まり、相互にあげたりくれたりして、厄介事だらけだ。もし、彼らを牢役人と思えば、更に牢役人にやさしくしてあげたくなるだろう。何故なら、牢役人の言う通りにしないと、そなたを散歩に出かけさせなかったり、売店ですら行かせないだろう。だから、そなたはもっとよく修めるべきだ。彼に親切にしてあげると、牢役人が犯人たるそなたがまあまあ良いから、お散歩の時間を少し多めにくれるだろう。

仏法を前にして、自分が恐喝されているように思ってはならない。立場を変えて考えれば、家族は牢役人だ。現在、法律で定められているが、仮にそなたには子供がいるとして、子供一人を家に残し、自分だけ外へ出かけられようか。敢えてして、何か事故があったら、今後、そなたはもうその町にいられないだろう。これでは牢役人ではないか。結婚したら更にそうだ。結婚しないよう勧めるのではなく、そなたらの縁で結婚するものならば結婚するといい!子供をもうける者なら、もうけていい!すべてが縁だと分かるべきであり、幸せが訪れたなんてないのであり、全て縁なのだ。

縁が現われた以上、しっかりとこの縁を受け止めるといい。この縁を受け止めてから、また仏弟子としてするべきことを実践し続けることだ。ひたすら彼に親切にしてあげ、親切にされなくても感謝、お誕生日が忘れられても感謝する。何故なら、誕生日祝いする度、そなたの福報が少し減るものだからだ。誕生日祝いをしてもいいが、大げさにせず、ケーキ一個でも買って食べるぐらいはOKなのだ。

仏法は生きていて、一本調子なものではない。仏教以外の「外道」では、「それはやったらダメ。やったらが最後、どうのこうのになる」とよく言う。しかし、仏教は活用するものだ!上師があれもこれもダメと禁止するものではない。そなたは内心でこうしようと知るべきだ。たとえその人が全く牢役人のようだと知りながらも、言い出さないのだ。決して、ご主人に向かって「あなたは牢役人だ。私の監獄管理人だ。今はあなたに牢屋に入れられたから、途方もない」と言ってはならない。こう言っては、仏への誹謗を引き起こしやすいからだ。

今生ここまで来ては、債務の返済か、債務の取り立てか、恩返しするか、仇討ちするか、と内心で知っている。この四つの事をこの一生涯で返し切ることを望むから、子供の事に執着しすぎると、この一生では返し切らないだろう。例えば、ある弟子らを済度した際に、弟子がその子供や妻、夫に会いたいと私は知りながら、私はその家族に言わないようにしている。何故なら、家族は「去らないで!」と言うから、亡者の胸を更に痛くさせるからだ。

修行者でなければ、こうした考え方が現われがちなのは自然なことだ。その会いたさには強さの差があり、強烈な人も居れば、軽いのも居る。十人十色だから、日頃からの訓練に頼るものなのだ。訓練とは、夫や子供などが要らないのではない。常日頃から、仏道修行している以上、自分の身にあったすべての事は縁であり、縁生縁滅で過ぎていくことが分かるよう、訓練すること。

あらゆる事物に対する見方としては、行ったり来たりで、永久不滅な物がないことだ。永久不滅がない以上、得たら嬉しくてたまらない必要がないし、失っても苦痛でたまらない必要もない。そなたの伴侶が生きていられるかは別として、遅かれ早かれ生きられないからだ。「先に死なないで、私を先に死なせて」なんて言わない。これは更なるエゴイストだ。他の人に苦しませながら、自分を苦しみたくないから、他の人より自分を先に死なせ、他の人に後片付けさせるから、なんと残酷な人だ。

もし、縁、福報を信じていれば、こんな事を言わないだろう。先方に先に死なないでもらい、死ぬなら、自分が先にしたいなんて、ぱっと聞いたら恋愛のすばらしさを謳歌しているようだが、明らかに人に後片付けを任せることだ。自分だけが楽だ。仏道修行する者は自然の流れに従うべきだ。戒律を守ることは自分のことであり、自分が戒律を守るからと言って人を困らせるべきではない。先方が聞き入れないことも、執行しないこともその縁だ。まるで私がそなたらを十数、二十年諭し続けているのに、そなたらは聞かないでいる。況やご家族においてをやだ。

身を以て範を示し自ら改めれば、きっといつか気付かれ、自然にそなたに従い、改めるようになる。いつかそなたには福報が起きたら、人からは自然に気付かれるものだから、求める必要がない。私の子供は言う通りに従わないが、私は子供に従わせるようアキ護法に求めなどしていない。私がアキ護法を修めるのが得意で、アキ護法もよくし損なった弟子を抓み出させてくださっているが、私は求めない。何故なら、私の縁、私の業だからだ。こうした事が発生した代わりに、他に発生するべきだった事が無くなる可能性もある。他の事が発生しない代わりに、体力がしっかりあって、ここでずっと仏法を広め続けられるのだろう。

何から何でも幸せで正常な家庭生活を望むのであれば、私は仏法を広める資格がないだろう。もちろん、現在仏法を広めていないそなた等は、正常な家庭生活を追求してもいいが、その分、失う物もある。だから、追わなくてもある者は有る。聞くことすら要らない。わざと誰かにすがりつく必要もなく、いつもの通りに生活をし続け、幸せだったら幸せでいい、不幸だったらご自身のことだ。結婚する前にちゃんと弁えられず、結婚してからはその相手の欠点にばかり着眼すれば、長所を見失い、喧嘩にたどり着くことに間違いない。誰にでも短所と長所がある。

経典:「ために無上むじょう大菩提だいぼだいもとめ 十方じっぽうのもろもろの妙覚みょうがく供養くようし」

大なる菩提心、菩提願、菩提行こそ、成仏への方法である。

その供養は、自分の安逸な暮らしが為ではないし、自分の健康やら何やらの理由ではない。無上菩提心が修められる為だ。何故なら、菩提心を無くして、衆生済度、衆生利益及び成仏することはないからだ。よって、その供養は、自分が修行上で何かメリットがある為ではなく、依然衆生の為だ。供養とは、仏、上師或いは誰かと、品物を取り替えるのではなく、全ては自身の修行の為だ。菩薩道を修行するには、最も大事なのが菩提心だ。

菩提心文を唱える際に、「まだ生起していない菩提心を、生起させるようご加持を」と言う。菩提心というのは、生まれつきのものではなく、考え出せばあるのではなく、膨大な経文を唱えればあるのではなく、更に造作にすればあるものでもない。仏菩薩と上師からのご加持があっての菩提心だ。そなたにもこうする意欲があるところを、この菩提心を生起させるのだ。もし慈悲心でさえ修習しないのなら、菩提心も備わらないだろう。いくら毎日のように風を扇いであげようと、無いものは無い。菩提心を生起したらどうなるのか。元々思い煩った事は大したことではなくなり、苦痛と思った事は人生そのものだと思うようになり、ついにクリアできる。

何故、菩提心妙宝というのか。何故、金剛乗では上師を重視しているのか。それは、上師は我々に菩提心を生起させられるからだ。仮に、上師を見くびり、尊重しない、さらに上師への誹謗をするのならば、生生世世で菩提心は起きることはない。菩提心を生起しなければ、そなたの業力を転じることがない。そなたの業力が転じられないなら、そなたは生生世世で輪廻を繰り返すのだ。

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2021 年 08 月 08 日 更新