尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年05月02日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参列者全員を率い六字大明呪を唱えられ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を解説された。

経典:「 よく如来にょらい一切いっさい功徳くどく了知りょうち讃歎さんだんし、 およびのもろもろの功徳くどくほう称讃しょうさんす。」

『地蔵経』では、地蔵菩薩は常に、諸仏菩薩からのご加護があってはじめて自分が広大なる衆生を利益する能力があることを讃歎している。『普門品』では、観世音菩薩がもう一方の菩薩から供養された宝石を仏と仏塔へ供養し、仏の功徳を讃歎する。

讃歎することこそ、随喜することだ。上師、仏菩薩が行われた善法を見かけて褒め称えれば、随喜そのものだ。あらゆる功徳の中で、随喜功徳が最も大きいのである。随喜とは、いくら供養するかと聞かれて、随喜と答える場合ではなく、それは適当だ。随喜は修行法門であり、人の善行を見かけると、讃歎し歓喜心を起すことだ。随喜すれば、悪念を減少する訓練になる。人の善行を見て、嫉妬、競争の心を起すと、随喜ではない。随喜功徳を持たなければ、如何なる法門を行おうと、役に立たない。

および余のもろもろの功徳の法を称讃す。如何なる事物、言語、方法も、衆生を生死解脱させる機会を持たせれば、功徳がある。あらゆる世間法には善の果しかなく、功徳がない。義挙する人や人助けする人などを見かけると、この人は善を行っていると言っても良いが、これはただ世間の善に過ぎず、仏法の善ではない。奉仕するやら、義挙するやら、義援金を出すやら、誦経やら、カーニバルを催すやら、チャリティーイベントやらは、福報しかなく功徳がない。功徳は戒定慧によったり、五戒十善によったりするものである。菩薩戒を授かった人は菩薩戒を守り、金剛乗を学ぶ者は密乗の戒を守るべきであり、こうして花開いた智慧と一切の仏法事業が衆生利益することができれば、功徳を為すことと言えるだろう。

梁の武帝はかつて達磨祖師に「私は仏法でこんなにもしたが、功徳はあるか。」と聞いた事がある。達磨祖師は無いと答えた結果、この二字のために九年の壁観となった。達磨祖師は有ると答えたら、宮殿或いはお城などは梁の武帝から賜れるだろうが、達磨祖師は戒律を守る人で、媚び諂うことはない。多くの者は、自分には功徳があると思いながら、梁の武帝と比べるとそれは天と地の差だ。梁の武帝は仏法のために様々な事をなさった。全国の出家者及び仏道修行する者は菜食するよう義務付けられる命令を出し、盛んに仏寺や仏塔などを建てられたのに、依然に功徳を持っていない。

『梁皇寶懺』は言わずと知れた話だが、梁の武帝のお妃が生前に嫉妬深くて、死後蟒蛇になり、夢告げに苦しんでいると梁の武帝に伝えた話がある。それがきっかけで、梁の武帝は当時の国師であった寶誌公に『梁皇寶懺』を書くよう頼み、戒律を守った比丘を率い千仏懺法(せんぼう)を行ってもらったお蔭で、そのお妃が天界に生まれるようになった。すぐ阿弥陀仏の所に行くのではない。顕教で言えば、寶誌公は観世音菩薩の化身で、よく修行されている。だが、梁の武帝のお妃は天界にまでしか行かなかったのは、その生前に阿弥陀仏の所へ往生するよう発願しなかったせいだ。たとえ、ポワ法を身に付けても、発願しなければ、法の如く修行しなければ、行かれそうもない。

功徳の法。盲目的にある人を功徳無量だと称讃しないことだ。「この人はよく善事を行い、奉仕し、人柄がいい、喜んで人助けをするね」と褒めると良い。だが、功徳はない。功徳は修めて得るものであって、単に供養、布施に頼れば得られるものではない。法王は、計算してくださったことがあるが、私が直貢噶舉法脈への寄附は1600万ドル以上はあるが、これだけ供養してもまだ功徳がない。もし多く供養すれば上師になれるなら、このリンポチェは偽物のリンポチェだ。供養は、私に仏法を修習させる因縁を持つ為である故、そなたらはちっとも私を供養していない。

今年の「阿弥陀仏無遮大済度法会」は私が出資して挙行する予定だが、ある弟子らから「リンポチェは相当な金額を出すから、リンポチェに供養しに行こう」と呼びかけている。昨日、道場に来て供養したそれらは本気で供養したのではなく、皆で顔を合わせただけで、新しく発売する商品があるように、皆が供養を進めている。それでは、日頃は供養しなくてもいいのか。供養するなら、供養すれば良いのに、何かしらの名目を作る必要があろうか。

供養は、我々に功徳を修める因縁・福報を持たせるものであり、もし供養すらできなければ、功徳を修めようがないとされる。多くの亡者は生前に私に会ったことがないが、私は一律にその眷属にこの一生で菜食を貫くよう要求している。何故なら、その眷属に功徳に近づくような方法を修めさせて初めて、亡者を済度させることができるからだ。単に誦経すればいいのではなく、亡者に福報すら持たせなくて、どう済度させられようか。もし、こうだけすれば済度できるのなら、地蔵菩薩はとっくに「地獄が尽きない限り、成仏しない」と誓っていないだろう。どうして地蔵菩薩は地獄の衆生を済度し切らないで、中国語すら上手く喋れないリンポチェの出現を待っているのだろうか。このことから、福報・因縁が無ければ、たとえ地蔵菩薩が毎日地獄に据えていても、それら地蔵菩薩とご縁のない衆生は、きっと恐れて近づくことができないだろうと分かった。

多くの者は私を見て怯えるが、何か用事がないかと尋ねると、何もないと答えている。用事が無ければ、仏に決まっているだろう。弟子の多くは、私を恐れて日頃は滅多に見ることはない。何故、私を恐れるのか。それは福報が無いからだ。

功徳がどうやってくるのか、行者、諸仏菩薩が為された事は功徳なのか、それとも人天福報なのかを弁えるべきである。この話は重要であり、多くの者が数十年を修めていても人天福報と功徳の違いを分かっていない。梁の武帝はこれだけ多くのことをしてきたにも関わらず、功徳を持たず、福報しかない。そなたらが布施・供養をしたのは資糧道の範疇に過ぎず、資糧道が円満になれば、はじめて加行道になるものだ。リンポチェがしたように、法王に法を求め、法王が授けられたら、修めることに励むのだ。加行道を修め切ったら見道に入り、真に仏性、空性に遇うようになる。見道の後に修道となるが、これではじめて修め始めることになる。自ら修めていると思ってはならず、そなたらはまだ資糧道で努力しているところだ。

どうして見道の後からでないと修められないのか。空性に遇わず、空性を証せず、仏法を理解しなければ、仏の説かれた菩薩乗はそなたと関連性がないのだ。菩薩乗における中心思想は空性である。仏が涅槃されてから、多くの人たちが「空」か「有」かについて論争している。実は、『宝積経』で説かれているし、『大般若経』でも説かれている。仏性を証悟するには、空性を理解すべきであり、空性を証悟しなければ、為された一切は功徳を持たないのだ。何故なら、それは有漏(うろ)だからだ。

空性を証悟した人はどうなるのか。まるで私が衆生を助けるや否や忘れてしまうように、非常に特殊な出来事以外は覚えていない。先方から何か見返しがあったかを覚えているのではなく、困難な一仕事を片付けたことを覚えているのだ。誰かを助けたことによって、何か見返りがあることに執着しない。信者の多くが何かを求めに来たにも関わらず、私は一銭たりとも徴収しない。もちろん、何かしてもらえるように見返りを要求した事もない。こうして事をしてはじめて功徳があるのだ。でなければ、何れも福報となる。

大法王であろうと、大和尚であろうと、仏法を商業行為とすれば、功徳がないのだ。ここ十七年、大法会の挙行を慎重に扱っている。何故なら、功徳のニーズが無ければ、広大なる衆生を利益することができないからだ。私はお金が要らない。お金が要るのなら、外の相場では済度リスト一件につき少なくとも1500元は徴収する。だから、帰依弟子の皆は、これ以上、心の中でリンポチェに供養していると思ってはならない。その実、供養はしていない。十数名から二十名が心を込めて私に接している以外、ほかの人はやっていないのだ。

もし、我々は功徳の法を褒め称えなければ、自分が事をし間違えても気づかず、功徳を福報と混同して論じるだろう。もし、釈迦牟尼仏は福報を称讃すべきだと思われれば、とっくに言っているはずだ。だが、ここでは特別に功徳の法という風に説き及んでいる。衆生を利益させられない、衆生に生死・輪廻を解脱させられないようなら、どんな相が現われようが、功徳がなく、世間法となる。

どうして寶吉祥道場は取り分け厳しいのか。それは生死解脱するには単に誦経に頼ればいいものではないからだ。『大蔵経』を丸ごと唱え切っても福報はあるが、それを以て生死解脱させることはできない。

読経も仏の話し方を弁えるべきだ。仏は全て空性の中を説法し、自然に流露するものである。こうして話せば、そなたらは信じるだろうと狙っているのではない。仏は真実の現象を我々に伝え、我々はその説かれた事に従って実践し、これ以上自分自身の考え方を使わない。どうして地蔵菩薩は「凡夫は、起心動念の全てが業であり、罪である」と仰せになったのか。それは、凡夫の念頭は仏法と無関係だからだ。凡夫が念頭を動かすと善念ではなく悪念になる。善悪業がある限り、輪廻する罪がある。これは人殺しや詐欺による罪ではなく、仏法で定義された罪とは、そなたが為した如何なる事も、自分、眷属そして他の衆生に輪廻苦海に堕ちる機会を持たせると、罪になるのだ。正真正銘の功徳を知らないのなら、自分が道を逸れても、自分が事をし損なっても気づかないだろう。

私は、言ったら自分の得にならないような話をしている。外では、「小さなのを出すのに換えて、大きなのが戻ってくる」ような言い方が流行っているが、仏典ではそう説かれていない。仏典ではひたすら功徳を修めろと教えている。功徳を修めるには、供養がその基礎であり縁起である。供養することは、結論として功徳になるとは限らない。リンポチェは数十年法を広めてくるが、一度も供養する事は何かに換えられると言ったことはない。それは、仏典ではそう説かれていず、何か供養すれば何かが得られることはないからだ。

私が法王に供養しても、一度も大リンポチェをさせてくださいと要求した事はない。ただひたすら法を求め、ひたすら修行し閉関することによって、衆生利益を遂げようとしている。私の仏典への意義についての理解は、自分自身の修行経験、上師に教わったことを通してはじめて、仏典で説かれたものが我々の修行への道だということを体得したことだ。選んだりせず、改めたりもしない。もし改めるのなら、仏教徒ではなくなる。仏は無駄話はしない。仏は実語者、真語者であり、仏の説かれた事は、紛れもなくそなたを生死解脱させる真理である。

如何なる法門を修めようと廻向するものであり、これも功徳の一部になる。もし、如何なる法門を修めても衆生に廻向せず、専ら自分の眷属に、息子の嫁が見倣って菜食できますようにと廻向するのであれば、それは功徳がなく、福報すらないものだ。『宝積経』では、如何なる法門を修めようと、修め得られた一切の善根を浄土に廻向することができれば、そして再び発願し、たとえ阿弥陀仏を修めていなくても、きっと浄土に行かれるに違いない。浄土に廻向し、阿弥陀仏に廻向していれば、毎日のようにお金をそこへ投資しているように、時間になれば行ってしまうのだ。そなたらは、何れも投資せず、廻向せず、テキストを唱え切ったら閉じて別の事をし始めている。

行法ごとに三つの手順:前行(ぜんぎょう)、正行(しょうぎょう)、廻向(えこう)に分けられるが、何れも重要だ。前行はそなたの動機、発心であって、何故今この事をすると決めたかだ。正行は本格的にこの法を修め始めることだ。続いて廻向があるが、どれか一つでも欠けてはならない。自分には使うに足らないと考え、とりあえず廻向の分を飛ばそうと思ってはならない。そうなら、三つのうち、一つが欠けているからだ。

経典:「かくのごときの菩薩摩訶薩衆ぼさつまかさつしゅ、 無量無辺むりょうむへんなり。 みなきたりて集会しゅうえす。」

こう為された大菩薩は無量無辺で、数え切れないほど有られる。これらの大菩薩は常日頃から仏の功徳を褒め称え続けている。菩薩道で遂げるべき方法を絶えずし続けている。彼等は皆この集会に集まる。

経典:「その時尊者阿難坐ときそんじゃあなんざよりち、 衣服えぶく整理しょうりし、 ひとへにみぎかたかたぬぎ、 みぎひざけ、 合掌がっしょうしてぶつかひてまうしてまうさく、」

仏典では、偏に右の肩を出して右の膝を地に着けた上で、法を請うのはなんでだろうか。左肩ではなく、右肩を出す理由は?これは気脈明点と関連性があり、専らそなたらが考えるようにインドでは夏が暑くてこうしたデザインが生まれたのではないし、実は、北インドは寒いのだ。服は何れも左肩を覆い右肩を出しており、そなたが左利きだから左肩を出すことはない。皆が帰依した際にも、帰依の儀軌に沿って右足で跪いただろう。

顕教では、左側は母親を、右側は父親を表している。また左側は慈悲であり、右側は事業(仏法事業)である。我々が法を請う理由としては、仏の為された仏法事業を身に付けるためである。

人類の体では右と左はそれぞれどういった系統になっているのだろうか。西洋医の弟子によれば、西洋医学では左か右かでの働きについて説いていないそうだ。左にも右にも静脈と動脈があり、動脈では気体とその他の栄養素を体の各組織へ送る働きを、静脈では各組織からの廃棄物と酸欠した物を集め心臓や肺へ送る働きをする。漢方医の弟子によれば、左は血を、右は気を制御するそうだ。

リンポチェはこう開示された:気脈明点で言えば、静脈はそなたの累世と今生での業力によって発生した毒素を体外へと排出し、動脈は外から受けた新鮮な酸素、栄養のある食べ物などを含めた栄養をエネルギーにして各臓器へと送る働きをする。漢方医による左は血を、右は気を制御するという言い方とは、右側は一切を働かせる能力を持ち、即ち一切を受け入れる能力となる。釈迦牟尼仏は二千年も前に人体の構造について詳しく解説していた。西洋医学の解剖学よりも明白だ。左に静脈が多く、右に動脈が多いことについて、医者弟子に研究しろと言い付けた。

慈悲の根っこという基礎を通じ、仏法による指導を受け入れ、我々の心を潤してはじめて、自分を、衆生を助けることができる。

右の膝を地に着けることは密法と関連性があるが、そなたらは密法を習っていない故、言えない。釈迦牟尼仏の仏法開示には、必ずある基づく根拠がある。

仏陀は日頃から吉祥臥という横臥(おうが)をし、右に向いて横になっている。仮に、左に横向きという風に改めると、仏の定められた規則を破っているのだ。仏は何一つ余計な動きはしない。小乗仏法では、よく寝釈迦像が見られるが、仏が涅槃する際も吉祥臥を取っている。吉祥臥は右への横向きの寝姿で、右手の手のひらを耳の裏側に当て(耳に当てず)、左の膝を曲げ、右足を伸ばすとされるが、相当寝にくい姿勢なのだ。

これらの動きは、我々の修行と往生に関わりがある。緑度母の仏像も右足が伸ばしているようにだ。この時、二人の弟子が頭を壇城の右前に奉られている緑度母の仏像に向いたから、リンポチェは彼等を面詰した。道場で緑度母の真言を唱えている際に、いつでも緑度母の仏像を見ることができるのに、今こうした開示を耳にした途端、わざわざ頭を向いたなんて、この二名の弟子は上師を信じない事を表している。この二名の弟子は密法を学んではいけない、もし伝法されていれば即刻テキストを回収せよと命じた。

座より起ち衣服を整理する。これは人として重要な礼儀作法であり、上師や目上の人にお目にかかる際に、襟を正すべきだ。会見を求めに来た際に、だらしない恰好などするのは、良くないことだ。

経典:「大徳世尊だいとくせそん、 身色しんじき諸根しょこんことごとくみな清浄しょうじょうなり。」

阿難尊者は大阿羅漢であり、神通を持ち見えるものである。彼の目にした仏は一般凡夫の生身ではなく、身色諸根が悉く清浄な姿だ。我々が見た釈迦牟尼仏は、上辺からは眼耳鼻舌身意があるように見えるが、その諸根は我々のとは違うものだ。仏の六根は清浄であり、何れも衆生に修行をさせる為の存在である。または、自分自分の生身を生きさせる為に使っており、諸根が欲望を追求する為に起こした作用は混ざらない。

経典:「威光赫奕いこうかくやくたること融金聚ゆこんじゅのごとく」

仏の放った光は輝くものであり、金色の光に取り囲まれている。金を貼り付けた仏ではなく、黄金色に溶け込んでいて、光り輝くものである。仏の光は六道にある光ではなく、金色の光だ。

仏典によれば、怨敵はそなたが生前にお好きだった様々な人の姿に変化し、そなたを三悪道へ連れて行こうとする。修行してあった者らは、更に仏菩薩の姿にまで変化して見せることもある。だが、彼等は決して金色の光を持たない。それは、何かしらの主であろうと、せいぜい白い光、青い光や緑の光しかなく、そうなら偽り者だ。

しっかりと覚えて欲しい。今後、私が居なくなったら、そなたらが死んで中陰の身になれば、如何なる仏菩薩或いは上師、本尊も、金色の光を放った様子を見れば、それは本物だと認識すべきだ。そなたらはその強烈な光を見て、恐れるだろう。だから、生前に多く仏法に触れることを勧めるのだ。何故なら、仏法に触れ合って、充分に上師に叱られれば、そなたが死んだ際に、遇っても怯えることはないからだ。

仏典の記載によれば、中陰の身になれば、仏菩薩の光を見かけると退くそうだ。私が見た仏の光は光り輝く金色の光であって、人を恐れおののかせるのだ。当時、私が顕教に帰依したばかりで、まだ修め始めていなかった頃、ある日夢を見たが、夢の中で、仏が輝いた金色の光を放ったのを見て、私は本当に一歩退いた。よって、中陰の身になって、そなたが怯えるような光を見かけると、それこそ仏菩薩の光だ。怯えない光を見れば、それは六道の光だ。絶対に忘れないように覚えて欲しい。生前にリンポチェの怖い様子を覚えている人であれば、決して三悪道に堕ちることはない。これが肝心かなめで、必ず覚えてほしい。。

魔王によって、釈迦牟尼仏の姿に変化して見せる場合もある。だが、彼等はたとえ輝いた光があったとしても、金色の光が出るほど修めることができない。諸仏菩薩と上師が放った光は紛れもなく金色なものだ。仮に、私の姿が現われて、其の背後にあったのが白い光だったら、彼に付いていかないことだ。(参列者全員は、共に声を出してリンポチェにお礼を申し上げた)そなたらは、私に感謝するのではなく、阿難尊者に感謝すべきだ。彼が言い出されたお蔭で、私が皆に説き聞かせることができたのだ。

経典:「また明鏡みょうきょう光暉こうき凝照ぎょうしょうするがごとし。」

釈迦牟尼仏がよく映る鏡に見える喩えではなく、一部の人からリンポチェのことが透けて見えそうな、透けて見えないようなと言ったように、鏡と同様に光を集束させるようなことは、仏にしかないものであり、普通の神様にはない。一般の神様でオーラが強いほうだと、煙が現われてある形を見せるとされるが、光は感じられない。

経典:「 むかしよりこのかた、 はじめよりいまだかつてたてまつらず。よろこ瞻仰せんごうすることをて、 希有けうしんしょうず。」

昔から今に至るまで見たことがない。見た事のない事を見たからこそ、法喜充満し、仰ぎ見て希有の心を起す。この世界にはないもので、仏にしかないものである。仏の光を見られるのは、難しい事である故、いくら拝めば、いくら供養すれば見られるというものではなく、心が清浄でなければ、仏の光は見られないのだ。

経典:「世尊せそん、 いま大寂定だいじゃくじょうり、 如来にょらいぎょうぎょうじ、 みなことごとく円満えんまんし」

阿難尊者が釈迦牟尼仏のご登場を紹介したのは、彼は仏の弟子だからである。

仏は話されてはいるが、定の中でしている。まさに上記で解説したように、それは自性から顕露(けんろ)されたものである。言語が通じなければ衆生は分からない。衆生は大神通を持たず、衆生の意を分かりようがない。釈迦牟尼仏が説法する際、表面上言葉を操っているように見えるが、実は自性によるのだ。衆生の言葉に応じて、それで聞き取れる言葉を生ずるが、必ずインド語だとは限らない。天界の神々は、インド語が分かるはずがないだろう。それだけでなく、釈迦牟尼仏はインド生まれではなく、ネパール生まれなのだ。かつて、操られていた方言を聞き取れた人が居るはずがないだろう。釈迦牟尼仏はインド中を仏法を広めていくことに努めたが、妨げられなかったのは、自性が現われているためで、その間に使った言葉はすべて衆生の聞き取れるような言葉だったのだ。

釈迦牟尼仏は大寂静(じゃくじょう)に居られるため、その心は動じていない。仏法を説かれていながらも、自性より流露され、意識の中では動じていない。湧き水のように、自然と水源から流れ出、わざわざ掘らなくてもあるものである。もし、仏が定の中で仏法を広めなければ、こうした仏法は仏が考え出したものとなる。そなたらの多くは、よく仏法を考えたりするが、仏法は考え出すものではない。思うこととは、そなたの経験、学んだもの、分かったものを以て比較し、思い出した結果をまさに仏法だと言うのだが、実際はそうではないのだ。

例えば、私が説法する際も、仏法を多く学んだというのではなく、自性から生じたものだ。もし、説法する者本人の自性が流露されていなければ、その仏法も文字通りの解説としか言えない。例えば、前にある「融金聚のごとく」ということだが、もし私は見たことが無ければ、解説し得ないだろう。実際に見て、自性の中から生じていれば、こうなのだと分かってはじめて、本日で開示した仏典について、解説し得るようになったのだ。

皆が帰依した際に、上師の功徳を褒め称え、上師と争うべからずと教えた理由は、ここにあるのだ。そなたが上師に癇癪を起こしたり、口争いをすれば、たとえ彼が金色の光を放って見せたとしても、そなたはそれを黒色だと思うと同時に、恐れを感じるのだ。何故なら、そなたは日頃から上師と喧嘩したり、争ったりし、上師が間違っていると思い込んだら、もう他に打つ手がない。全て日頃からの訓練によるものだ。是非を問うのは、世間での欲望に基づいて比較するものではなく、仏法に基づいて功徳を修めているかどうかによるのだ。功徳を修めていれば、是と非はないのだ。もし、上師に是と非があると思うのなら、そなたにはまだ欲望、貪瞋痴があることを表し、それで上師に非が有ると思えるのだ。現代人は仏法に対しては、功徳からではなく福報から説明している。福報から説明する場合、上師がそなたの思ったようなことができなければ、福報がないと認識し問題が生じてくる。

経典:「よく大丈夫だいじょうぶぎょう建立こんりゅうし、」

大寂定の行に入っているため、如来が為される一切の行為は悉く円満となり、従って大丈夫の行為を建てられるのである。仏菩薩の為される行為は、一般人や六道衆生ができそうなことではなく、すべて大丈夫の行為である。怯えず恐れずに、衆生利益するよう邁進していく。

経典:「らい現在げんざい諸仏しょぶつ思惟しゆいしたまふ。」

思惟とは、仏の是と非を考えさせるのではなく、現在の仏と過去の仏が為される事が同様で、すべて衆生に輪廻から離させるよう、成仏させるよう努めていることだ。現在と過去の仏が為される事は同様で、もし同様でないなら、仏ではなくなる。そなたの思想、行為が仏菩薩と上師から教わったのと同様でないなら、そなたの間違いだ。

自分の今している事が、過去、現在の仏がしているのと同じなのかを、釈迦牟尼仏は謙遜しながら自分自身をチェックしている。同じなのであれば、皆は同様に仏である。同じなので無ければ、釈迦牟尼仏は自分が出来ていない箇所を見直す。まるで仏弟子、出家衆であるそなたは、仏弟子、出家衆としてすべきことを見直すのであり、自分に何ができるのかと考えるのではないようにだ。末法時代に生まれては、前に既に多くの行者、諸仏菩薩がその修行経験や過程を見せてくれている。我々は、彼等がした事を私はできているかと、思惟すべきだ。出来ていなければ、他人に自分が何らかの人物だと宣言せず、素直に毎日のように六字大明呪を唱えよう。自分が帰依して10年経ったから、きっと誰かを変えることができるだろうと思ってはならない。それは不可能だ。

経典:「世尊せそん、 なんがゆゑぞこのねんじゅうしたまふやと。」

阿難尊者は仏が考えている事を知りながら、もう一度訪ねた:「仏よ、どうしてこうした念頭が有られるのでしょうか。」

経典:「その時仏ときぶつ、 阿難あなんげたまはく、 なんぢいまいかんがよくこのるや。 諸天しょてんありてきたりてなんぢにぐるとせんや、 われをるをもつてみづからるにいたれりとやと。阿難仏あなんぶつにまうしてまうさく、 世尊せそん、 われ如来にょらい光瑞こうずい希有けうなるをたてまつるがゆゑにこのねんおこせり。 天等てんとうによるにあらずと。」

ここからも、釈迦牟尼仏と阿難尊者との関係を伺えよう。こんな弟子に相応しい上師が居られる。弟子の器が充分に良くなければ、上師に遇ってもなんだか分からない。上師自身の修行が足りなければ、良い弟子を見たとしても、如何したらいいか分からない。良い弟子を持たないとしても、良くない弟子が居れば、それを良くないほうから良く成らせるよう、この上師は助ける能力を持たなければならない。そなたらが毎日怒られるように、私は全ての弟子が仏道修行において良い方向に向かって発展して欲しいと願っているからだ。だから、ひたすらそなたらの粗探しばかりしているものだ。そなたらの問題は、即ち衆生が持っている問題だ。

仏は先に聞いた。「それは誰が教えてくれたのだろうか。天人が教えたのか。それとも私を見たら、分かるようになったのか。」

阿難尊者は天人が言ったのではないと答えたのち、如来の光瑞の希有を見させてもらったと言った。仏の光は遍く照らすと誰でも聞いたことがあるはずだが、仏の光が遍く照らすのに、そなたらが知らないのは何故だろうか。それは、そなたらの心が汚くて、問題ばかり抱えているから、仏の光の殊勝さを知らないのだ。阿難尊者はその上師を尊重し、その上師から光瑞を放ったのを見て、彼の心は歓喜を起し、清浄な本性が開くと分かるようになったのだ。仏はわざと彼に聞いてみたのだ。

私が何者か皆は知っているか。そなたらから見れば、私は凡夫の生身を持ちながら商売もしている、皆と変わるところはないように見えるだろう。そなたらが身に付けていない仏法を多く身に付けているだけだろう。これが一般人の見方だ。阿難尊者のように真心を込めて上師を尊重する弟子であれば、上師に遇うと凡夫ではなく再来人だと感じられる。なぜ彼がわかるかは、その心がより清浄だからだ。

この話を通じて、釈迦牟尼仏も他の人に対し、阿難尊者は清浄になった、と伝えており、上師が修めた果位がどの程度か知り得るだろう。阿難尊者は仏陀の侍者であられ、仏陀が涅槃された後、五百羅漢が一か所に集まり、仏陀が説かれた仏法を書き込んだ。だが、当初は、彼等は阿難の事を見くびり、阿難を参加させようとしなかった。

この部分も、仏は予め阿難の為に書き記したところだ。のち、五百羅漢は阿難には上記の事柄があったと思い出し、あえて彼を入れさせたが、依然難題を吹っかけて困らせた。ドアを開けず、阿難自身で何とかして入らせることとした。阿難は神通を顕わし、光となり鍵の穴から入った。彼等は阿難の事を見くびり、阿難がずっと釈迦牟尼仏に仕え、修行や閉関などの時間がなかろうと思っていた。だが、阿難は清浄なる心で釈迦牟尼仏に供養しているから、その清浄なる本性が次第に開いてくる。彼は釈迦牟尼仏に完全に尊重し、受け止めている。一回も福報や地位を求めず、黙々と実践している故、仏の光が見えたのだ。

幾年も前のことだが、私は友達にお供して、ある場所へ仏陀舎利を仰ぎ見に行った。その時、私は既に法王に帰依しておるが、まだ修め始めていなかった。仏舎利から、絶えず光り輝いたルビーみたいな光を放ったのを私は見たが、隣に立った友人らに見たかと尋ねたら、見なかったと言った。その時、私は何も言わないようにしていた。ひけらかしていると思わせてしまったら、人に仏を誹謗させるようになるからだ。当時、私は恭しい心で、舎利子を見に行った。舎利子を見たら、福報、功徳や加持があるのではないかという心構えではなく、ただ仏に遇いに行くという心持ちで行ったから、仏舎利の光が見えたのだ。

これも、阿難が天人とコミュニケーションが取れるまで修めたのを、仏が知っていることを表している。天には五神通がある。そなたらは誰とコミュニケーションが取れているかと振り返って考えてみよう。そなたらはご自身の貪瞋痴とコミュニケーションしているのだ。天人はきれい好きで、綺麗でなければ近づかない。壇城が不潔な人も居るが、仏菩薩どころか、護法のお連れの小さな護法ですら来ない。ぴかぴかに掃除するとは言わないが、少なくとも整然とした壇城が良い。

経典:「ぶつ、 阿難あなんげたまはく、 善哉善哉ぜんざいぜんざい、 なんぢいまこころよへり。 よく微妙みみょう弁才べんざい観察かんざつして、 よく如来にょらいにかくのごときのへり。」

この因が有るから、仏は彼に果を与えられた。この弟子が上師の功徳を褒め称える故、弟子に何を聞かれようと、仏は一律に答えられる。その質問は、いつ健康になれるやら、いつ留学に行ったら良いかやらではない。

仏法を請うのであれば、心が清浄にならない限り、聞けないものだ。私の前に跪くと、ご用は何かと私から聞くと、何もないと答えられる場合がよくある。その心が清浄ではないから、自然と聞けなくなるのだ。どうして清浄ではないのか。リンポチェが何でも教えてくれたらベストだと思われているからだろう。明日の出勤は、バスで行くか、タクシーで行くかすら聞きたいぐらいなのだ。

阿難尊者には清浄な念頭があって仏の功徳を讃歎できると、仏は知っている。阿難尊者は、仏の功徳を観察することができる。微妙な弁才とは、弁論が得意なわけではなく、一般凡夫では言えない話が言えることだ。例えば、少し前に、阿難尊者は直接に「如来の光瑞の希有を見させてもらった」という事を言ったが、そなたらなら気まずくて言えず、恥ずかしがるだろう。何故なら、彼は清浄な心で見たからだ。そなたらは見ることはなく、考え出して言っているだけなのだ。

微細な観察力を持たなければ、良い仏法問題を提起することはできない。彼は、仏の内包、意義まで聞き出すのは、決して一般凡夫にとって聞けそうな質問ではない。毎週土曜日に信者からの謁見を受けているが、死んでから人はどこへ向かうのかと聞く人はいない。その質問の殆どが、子供の事やら、健康問題やら、家屋やらで、どれも仏道修行する人ではない。跪いたら、仏道修行していると思ってはならない。ただ、仏に頂礼しない人よりましなだけなのだ。

昨日、ある帰依して18年の弟子が会見を求めに来た。18年前に、その弟子の命は私に救われたが、今は病気が再発して、家族全員で手術が上手くいきますようにと加持を求めに来た。以前も言っただろう。一回しか救えない事を。救ってから、ご自身で精進しなければ、この病気は再発するだろう。(参列者全員は共に答えた:言っています。)私も言ったように、善知識は障碍を乗り越えさせるよう助けてくださる。当初、この弟子の命を救い、18年もの仏道修行の時間を与え、ひとまず障碍を乗り越えさせるよう助け、そしてご自身で精進し修行してご自身の業を転じられることを願っていた。このような方法でやっと病気を根絶やしにすることができるのだ。結局、彼女は仏法において精進せず、健康になったと思い込んだから、子供の世話に追われて一般人の生活を送っている。彼女は上師の言うことを聞き入れず、ここ18年間は表だけの仏道修行者に過ぎず、快適な暮らしだけしか頭にない。

子供を世話することは、世俗人の角度から見れば厳しく非難されるすべきではない事だが、この病気を患ったのは福報が無いためだから、福報が無い以上、もっと修行に励むべきだっただろう。これだけ仏法を教え、『宝積経』も教えられているのだから、仏道修行する者は、家の眷属を牢役人として思うべきだ、借金の取り立てとして思うべきだ。彼女は今や修めていず、福報を蓄積せずだから、私はどうやって手術が上手くいくよう加持できるというのか。リンポチェが西洋医の弟子に、手術は上手くいくと保証できるか尋ねた。(手術は必ずうまくいくと保証できず、せいぜい手術の成功率やら、合併症と後遺症を前もって断るしかできませんと答えた。)

この時、リンポチェはもう一人蔡という西洋医の弟子に尋ねたところを、あいにく彼女は本日、地域外の研修に参加しているから、法会に来なかった。リンポチェは更に「地域外はどこだ」と聞いたら、その連絡係としての朱という弟子は良く分からないと答えた。リンポチェは朱という弟子を呵責し、連絡係を辞めろと言った。同時に、朱という弟子は健康状態が良くないのに、どうして健康の良くない人に連絡係をさせたのか。(リンポチェは朱という弟子に、そなたを助けた際、お金を取ったかと聞いた。朱という弟子は取りませんでしたと答えた。)(詳しくは衆生済度事跡第45号を参照)続いて、リンポチェは指示を下した。蔡という西洋医弟子に、暇があるようになったら、また来よう!もう来る必要なんかない。忙しすぎるから、求める必要もない、自分で決めればいいと。

何故か分からないが、これらの弟子は終日私を強いている。手術が上手くいくなんて、医者ですら保証できないのに、何故私を強いたのか。18年前に手伝った際に、お礼すら言わず、今や厄介事が出来たら、また求めに来ている。彼女の夫が道場の為にちょっと努力したことに免じて、今回は大頂礼(五体投地)をさせよう。出来ばえは彼等次第だ。もう他に打つ手がない。何故なら、ここ18年の間、これだけ多く教えたのに、まったく実践していない。うわべだけの仏弟子で、内心ではちっとも信じない。だから、末法時代で上師をすることは大変な事で、上師をする事は本当に勧められない。

経典:「なんぢ一切いっさい如来にょらいおう正等覚しょうとうがくつひに大悲だいひ安住あんじゅうして群生ぐんじょう利益りやくせんがために、 優曇花うどんげ希有けうなるがごとく、 大士だいじとして世間せけん出見しゅっけんしたまへるがゆゑにこのへり。」

この二句を現代語に言い換えれば、釈迦牟尼仏は阿難尊者に、そなたは一切の如来・応・正等覚であり、つまり一切の諸仏菩薩は正等正覚を成り、開悟された者、仏を証された者である事であると問われた。釈迦牟尼仏の心は大悲に安住した心で、悲とは衆生を彼岸へ送らせるよう助けることだ。慈あり悲なしではダメ、悲あり慈なしでもダメだ。慈悲はそれぞれ別の事で、二件を組み合わせれば慈悲となるのだ。人にやさしくするやら、人の機嫌を取るように話すやら、人を罵らないやらは慈悲ではなく、慈とは自分が持っている良いものを衆生の持っている良くないものと交換することだ。悲とは衆生を輪廻苦海から解脱させ、彼岸へ送らせるよう助けることだ。だから、釈迦牟尼仏の心はいつでも大悲の中に安住していらっしゃる。つまり、衆生を生死輪廻から解脱させ、仏土へ行かせるよう助けることだ。一切の身口意はこれが為に、他に何の目的もなく、自分の名誉、名声の為に、働いてはいない。

優曇花は希有な花で、世間ではその開花をなかなか見られないだろう。大士はここでは観世音菩薩大士を指すのではなく、釈迦牟尼仏が仏果を証し、まるで希有な花が咲いたように、菩薩の行為を行いこの世間(地球のみならず、六道を含める)に現れていることと解説するべきだろう。

経典:「またもろもろの衆生しゅじょう哀愍あいみん利楽りらくせんがためのゆゑに、 よく如来にょらいにかくのごときのへり。」

阿難尊者がこのいくつかの言葉を提起したのは自分の利点のためではなく、衆生を哀れみ、衆生に利益と安楽を与えるが為だということだ。衆生には仏法がなければ、何一つも利益がいただけないと知っている。衆生には仏法の聴聞、確保が無ければ、一切の快楽を持たないと知っている故、衆生を哀れんでいる。これは、三悪道に堕ちることや、事故に遭われることなどを指すのではなく、衆生がまだ輪廻苦海の中にいることを指すのだ。

もし、衆生には、仏法による助けを頂いていないなら、仏法を修行していないなら、利楽(りらく)の二字を持っていない。一切の利楽は、世間での根拠(例えば、今の健康状態が良いのはきっと仏からのご加護に違いないやら、子供が上手く大学に受かったのは仏菩薩からのご加護を頂いているからやら)に基づくのではなく、利楽は衆生を輪廻苦海から離れさせるよう利楽することだ。衆生に発生した一切の事物は、自身の業力と果報によるものであり、すべて自分が為したことだ。だが、そなたらが思った利楽のどれも、決してそなたらを生死輪廻から解脱させることはない。仏と上師だけそれをさせられるのだ。そのため、衆生は利楽を授かっていない故、阿難尊者は進んでその意味は何でしょうと問題を提起したのだ。

経典:「阿難あなん、 如来にょらいおう正等覚しょうとうがく、 よく無量むりょう知見ちけん開示かいじす。」

如来は正等覚を証され、徹底的に覚悟し開悟を証された仏陀な故、無量の知見を開示することができる。無量の知見はどうやって生まれたのか。それは、衆生はみな八万四千種の煩悩を持ち、その八万四千種の煩悩はそなたの知見があっての煩悩だ。そのため、仏はあらゆる衆生の知見によって仏の知見を開示する。仏の知見は自分自身の経験談に基づいて言い出すものではなく、全てが衆生を輪廻苦海からどう解脱させるかによるものだ。だから、無量に開示できるのだ。何故なら、衆生は無量に有り、仏の知見も無量に有るのだ。

いわゆる衆生は、簡単にわかる六道ではなく、仏にお見えの衆生は、胎生、卵生、濕生、化生を含め、仏陀は全て度される。細菌も衆生の一員であり、我々の腸内に生きている益生菌とその他菌の群生を、仏典では虫と呼んでいるのである。我々は生まれた瞬間から、体の皮膚など、至る所に細菌がいる。それが故に、仏はそなたが慈悲まで修め得られたら、お腹にある虫すら度を得られると仰せになっている。

経典:「なにをもつてのゆゑに。 如来にょらい知見障礙ちけんしょうげあることなければなり。」

先ほど解説した、如来の知見には障碍が生じないように、即ち我々の知見には障碍が生じるということだ。例えば、自分が専門家だと思えば、そなたの知見はこの分野では私は専門家だというふうになる。つまり、この分野を離れれば障碍が生じてくる。仏の知見には障碍が生じず、六道でのあらゆる衆生の因縁・業果(ごうか)を知っていらっしゃる。例えば、目犍連尊者が川辺で餓鬼道の衆生を見て、すぐ彼等がどういった因によって餓鬼道の身を得られたと言い出したようにだ。(リンポチェは出家弟子らに、この経典を拝読したことがあるかと尋ねたところ、読まれた人は皆無だった。)

如来の知見には障碍が生じず、如来の知識・見解は世間的なものではなく、出世法である故、障碍を持たない。それに対し、我々の知見は世間法であり、如何なる衆生の業力・福報・因縁に基づき、知識・見解がある時点に来ていると、ボトルネックがあるように突破できようがなくなり、障碍が生じるようになるのだ。医者や科学者をする者なら分かると思うが、ある程度に来れば突破のできないボトルネックがある。推論ができない場合も、知見に障碍が生じることだ。

自らどれだけ凄い専門家だと思うのであろうと、障碍はある。仏の知見だけ障碍がない。何故なら、仏の知見は自分自身のためではなく、全て衆生のためだ。私が今修行できている段階で言えば、仏からご加護を頂くのは、衆生が輪廻した業や因を知って更に助けようとする為なのだ。彼等がかつて何をしたかを知りたいのではない。例えば、私はよく彼等に過去はどんなお仕事をしたかと聞くように、その仕事からこの病を患った理由が分かるのだ。これこそ知見に障碍を持たないことだ。私は彼等の為で、自分の為ではないからだ。上師を尊重する衆生が跪くや否や、私は知っている。上師を尊重しない者だったら、私は知らないのだ。

経典:「阿難あなん、 如来にょらいおう正等覚世しょうとうがくよじゅうせんことを欲楽よくぎょうせば、」

如来がこの世間において、欲望に満ち溢れたまま、楽しく留まったのではなく、仏が悟りを開いた正等正覚に基づくものである。この正等正覚の力が仏を支え、これほど煩悩の重い世間によく留まられた。例えば、釈迦牟尼仏が地球に生まれる前に、菩薩らが釈迦牟尼仏が来るかどうかについて会議を行った所以も、娑婆世界の衆生が度し難いからだ。そこいらでは、善より悪のほうが多いから、行かれると苦労するだろうからだ。それなのに、釈迦牟尼仏はそうではなく、私は欲楽(よくらく)での在世であり、苦痛がする場所ほど、私は赴くと仰せになった。その意味は、まさに地蔵菩薩が地獄にいるようにだ。

地蔵菩薩は地獄に居ながら苦痛を持たない。まるで、菩薩が世間で衆生を救済するように、輪廻のさ中でも苦痛がない。何故なら、欲楽であり、衆生を救済する為に赴くからだ。そのため、輪廻する六道の中を歩いていても苦しみがなく、苦がどこにあるか体得しない。苦は有りながら、心の中にはない。釈迦牟尼仏は一方の仏であられるが、喜んで地球に住めるのは正に正等覚の力を頼りにし、地球に来て仏法が流伝するよう、留まるように努め、衆生に永久の楽を得させるよう願っているからである。

経典:「よくねんのあひだにおいて、 じゅうすること無量無数百千億那由他劫むりょうむしゅひゃくせんおくなゆたこうにして」

仏には食事する一刹那に数え切れない時間がある。劫(こう)とは、大劫、中劫、小劫のことで、時間のことを指している。仏が衆生を度する際、空間的、時間的な制限がないことを表している。

経典:「もしはまたかみのごときの数量しゅりょう増過ぞうかせん。 しかれども如来にょらいしんおよび諸根増減しょこんぞうげんあることなし。」

仏はこれだけ長い間、この世間に居続けているにも関わらず、如来の体と六根は少しも減らずに、従来のままでいる。現在、釈迦牟尼仏が世間で涅槃されたことのように、生身は存在してしないが、法身はちっとも増減されていない。生身がない故、六根から一根に変わったりせず、六根から八根に変わることもない。従来と同様のままだ。凡夫から見れば、その生身は存在していないが、その法身、報身と化身はいつでも存在していて、この世間を離れることがなく、その法運が終わってはじめて、法身、報身及び化身が離れるようになる。離れることは存在しないという意味ではなく、ただ別の世界で引き続き衆生利益するだけなのである。

正に、法王が私に賜れた長寿文の中ではっきりと書いてあるように、縁がある場所へならどこでも私は赴くことになるが、私の身が幾つか多くなるという意味ではなく、依然にこの法身のままで、法身は増えたり減ったりすることはない。如何なる衆生も法身を持ち、ただ生身の業力が重すぎて、我々の法身を遮り、衆生利益するような力を現すことができなくなっただけなのだ。

ここでは、釈迦牟尼仏の在世は時間、空間及び形がないという意味である。あたかも、『金剛経』で説かれた破四相のように、我相、人相、壽者相及び衆生相を破ることだ。『宝積経』の中にも、この四相を破るには慈悲喜捨が必要だと説かれている。この仏典以外、説かれたのがないから、『金剛経』を拝読された多くの人々は数十年の間唱え続けても、どうやったら四相を破れるのか分からない。

密法のテキストでは、前半から四無量心・慈悲喜捨を唱えるとする。慈悲喜捨を進んで修めれば、先ほど仏が説かれた時間、空間の観念は全て存在しない。人類が定めた時間によって、変化することはない。まさに『心経』で説かれた一切が空性であり増減されないように、仏の仏法は時空によって減少したり増加したりしないということである。証悟され仏に成れば、その功徳は無量無辺で、虚空と同じように果てしない。

「心は太虚を包む」という一節があるが、2007年、私が閉関修行から出た後、これについて私は法王と探った。もし、心が太虚を包むのであれば、心に果てがあるという意味になるだろう。例えば、お皿を包む場合、包む道具としては端があってはじめて包める。ということは、虚空がどれだけ広かろうと、心はそれを包むことができることとなれば、虚空に限りがあり、心に限りがあることになってしまうだろう。

仏法では虚空は無限大と言い、無辺無尽である。科学でも宇宙は絶えず拡張し続けていると証明している。だから、その時、私は思い切って少し放胆に、この話は「心は太虚を容れる」とするべきだろうと、法王に申し上げた。虚空の大きさだけ、心が広い、果てしないという意味だ。だから、この一節では、はっきりと説かれたように、仏はどうして変わらないのか。それは、その心に変わりがなく、増減なしで、果てがなく、不来不去だからだ。ここでは、既に『心経』まで説き及んでいる。『心経』で説かれた心の空性については、仏は既にここで説き出されている。

度量が狭く、ひねもす自身・子どもの事やら、家の事やらを考え続けると、心が狭くなる。度量が広いほど、福が広いと言われるが、その観念に類似している。元々、我々の心は一切を容れることができているのに、よりによって心を仕切り、自分の思った広さにしている。もし、この大きさしかないと思うなら、この大きさしかなくなる。それで、仏法による無辺無尽の方式を受け入れることができずに、自分を小さな空間に閉じ籠るようにしてしまう。自分自身を縛ってしまうから、悟りを開くことと縁がなくなるだろう。

経典:「なにをもつてのゆゑに。 如来三昧にょらいさんまい自在じざい彼岸ひがんいたり、 一切いっさいほうにおいて最勝自在さいしょうじざいなればなり。」

どうして仏は諸根の増減がないような体ができるのか。それは、如来は三昧を得ているからだ。三昧とは戒定慧のことで、仏は戒定慧を円満に修得されている。自在とは、居心地の良い場合の自在ではなく、生死自在、去住(こじゅう)自由のことである。中国人の解釈によれば、自在とは気持ちよくプレッシャーを感じない様だが、ここでの自在とは、妨げたり、止めたりされて苦痛を生じさせる物事は何一つもない様を指し、自在であり、自然に生じるとも言えよう。何故なら、仏は三昧自在を得られ、仏果を証しているため、輪廻苦海の対岸に居られるからだ。

彼岸は対岸だ。我々は船に乗って、輪廻苦海の対岸に行くものだ。対岸が仏の浄土であり、輪廻しない所だ。この海や河を渡るには船が必要で、泳いで渡ることはできない。海の波が激しくて、一つの波にでも打たれると、そなたは戻ってしまうだろう。だから、船に乗らなければならない。仏法を一艘の法船(ほうせん)と例えれば、上師が船頭になる故、上師が極めて重要である。そなたらを彼岸へ送ったら、今度はそなたらは自ら岸に上がる必要がある。五祖が六祖を乗せて河を渡ろうとした際、六祖は櫂を操ろうとしたが、五祖は六祖に「迷う時、師が度させ、悟った時、自ら度す」と言った。

皆は今迷っているから、私はそなた等を度させる。そなたが悟りを開いて仏土にたどり着いたら、自ら度する他にない。だから、この船頭の機嫌を悪くさせないよう気を付けろ。でなければ、他所へ漕いでしまう場合もあるだろう。リンポチェは船長を務めている弟子に、船が予定より五度外れたら、船はどこへ行くのだろうかと尋ねたところ、どこなのか分からなくなってしまうと答えた。

いいか。資格のない船頭だったら、悲惨な事態を引き起こすだろう。どこへ連れて行くか分からないからだ。船頭をいい加減な扱いで済ませるようなら、どこへ行くか分からなくなる。しばしば言うように、帰依した時、上師に癇癪を起こさせないよう教えている。上師の機嫌を悪くさせると、上師が頭を他所に向いてしまったら、方向がずれてしまい、どこへ行っているか分からなくなるからだ。

ここでははっきりと講じられている。仏が自分を度すことができる所以は、全て悟りを開き、正等正覚を証しているからだ。そなたらができるまでは、必ず仏法という船を頼りにしなければならない。上師という船頭を頼りにして渡らなければならない。自力に頼って修め得られることはない。出家して十数年経っているからといって、閉関修行を終わらせれば、もう行けるのだという風に思ってはならない。このようなのをよく見かけている。十数年閉関して出られたら、大きな仏教寺院を建てて、その後の話は聞いていない。仏典によれば、我々は必ずステップバイステップで実践しなければならないのだ。

自在とは、世間でいう快適さの自在ではなく、輪廻苦海を離れ、生死自在の事を指す。現在、教えた一切、そなたを助けた一切は、すべてこれが為なのだ。

経典:「このゆゑに阿難あなん、 あきらかにきよくこれを思念しねんせよ。」

それが故に、仏は阿難によく聞けと言った。聞いてから自分の行為は仏が説かれたのと一致するか思惟するものであり、もし一致していなければ改めよう。念とは念頭のことであり、仏弟子と名乗った以上、念頭は仏に関わるものだ。その他の念頭は、世間の事物で、行ったり来たりしていれば、実質が伴わない。如何に努力しようと、子供をどこかへ勉強しに行かせようと、いずれも一時的なものに過ぎない。多くの者は、後世が良くなるよう望んでいる。私自分も含め、どの親でもこう考えているが、それでも子供自身の福報と業力にもよるというものだ。

もし、子供に福報と業力がなければ、たとえ最も良い学校へ送らせて、そしてちゃんと卒業できたとしても、福報が足りない場合、そなたのやり方によって、彼の寿命を短くさせたり、更に命を失わせることにもなり得るだろう。何故なら、そなたはその福報を使い切らせ、子供を自然に自在にステップバイステップにやらせないからだ。如何なる両親も、子供を一番いい学校へ送らせると、仕事が順風満帆だと、信じ込んでいる。だが、そなたらの上師は高校卒業で、大学すら行かなかったのに、どうしてそなたら全員が大人しくじっと座ったままで私に叱られるのか。そなたらの多くは、教授だったり、博士だったり、医者だったりする。医者だけ叱ってはならないが、何か指摘すれば、私は彼を罵っていると言う。だが、私は罵っていず、彼のためをもってなのだ。

この点から皆さんははっきりと分かるはずだが、仏の説かれた話、教えて下さった事を、我々は善思念之(善く考えこれを念じる)するべきだ。もっぱら自分のことを非難の的にしていると思ってはならない。私がそなたらの事を諭すと、リンポチェが叱っているとか、仄めかしているとかと思うだろう。私は仄めかしなどしていない。そなたの為になると思ってあえて指摘しているのだ。そなたは明らかに私の為を考えていず、私を批判していると思われるだろうが、釈迦牟尼仏ですら批判されたことがあるから、誰もが批判されるのだ。私もよく批判されている。私が批判されれば、私に業障を消させてくれるし、どこかに不備があるかをチェックすることにもなる。

善思念之(善く考えこれを念じる)とは、自分自身の考え方で考えるのではなく、善の方向に、仏の仰せになった話は仏自身にメリットがなく、この話は「きっと私のためだ」と思えば、善が出るようになる。その仰せになった話に目的、要求があるようだったら、もちろんその話は悪になってしまう。これはごく自然に発生するようなことだ。もし、そなたは怒られてもそなたのためになると思えば、自ずとそなたを罵っているふうに思わない。以前も言ったように、法王がどう私を律したか、法王の私への律し方はそなたらが堪られないのだ。だが、法王が私を律していると言わず、法王が私に業障を消させ、福報を蓄積させているのだ。

リンポチェは私を叱ったと、よく聞く。私が屡々言うように、私に叱られるのが怖い人ほど、悪念を持つことも、仏典からの出典である。もし、そなたの上師に対する印象と感想は、上師が仏法を教え、生死解脱をさせるよう手伝いすることであれば、全てが良いもので溢れ、悪念の余地があるのだろうか。もし、そなたがまだ上師に対して悪念を持っていれば、それも分かりやすく、つまりそなたがまだ生死解脱したくなく、まだ決定を下せず、気分がころころ変わっているから、自然と悪の力が現われてしまうのだ。もし、そなたが生死解脱の為にこの世で仏道修行するという決定を下していれば、他の世間法は全て行ったり来たりで、私の福報が良ければ自然とよくなるし、福報が良くなければ自然と良くならないから、これらは重要ではないのだ。重要なのは、私は生死解脱の方法が修得できるかどうかだ。もしできれば、私のためになる。

マルパ尊者がどうミラレパを律したか。ティロパがどうナロパを律したか。飛び降りろと命じて、飛び降りたのだ。今や飛び降りろと言うどころか、諭すことすらできない。だが、古代では、こうして修行者を律していた。まるで法王が私を律したようにだ。それなのに、そなたらはよりによって律させず、人から耳障りのいい話をしてほしく、そなたを宝石のように捧げて欲しいと思っているのだ。

心の中では、そなたらを宝石のように扱っているが、宝石のように両手で捧げられない。何故、宝石のように扱うのか。それは一切の衆生は未来仏であり、そなたを未来仏にさせるよう手伝いするから、宝石のように扱ってはいるが、両手では捧げられない。そなたらは磨かれる前の原石と喩えられ、磨き上げる過程は苦痛でたまらない。おそらく原石研磨工場に行ったことがないだろう。翡翠を磨き上げる際に鋭い音が出るが、私はまだそれをやっていないのに、皆は既に浮かばない顔をしているのか。

磨き上げの工程は、苦痛なはずだろう。数十年生きてきて、突然ある上師が現われて磨いてあげるという。磨き上げなければ、そなたらの宝石としての輝きはどうして生まれるのだろうか。たとえ、心の中ではそなたらを宝石のように扱っているとしても、現時点ではまだそうではないから、仏法を以て絶えずそなたを磨き上げるしかない。仏法の観念としては、媚び諂うことはないし、ゴマすりもしないから、たとえそなたらが山となった金や銀をくれても、私は媚び諂わない。況して、そなたらはそうしていない!今は、私が山となった金や銀を与えている。つまり、今年の大法会に、そなたらがお金を出さないことこそ、山となった金や銀になるのではないか。

だから、これ以上「リンポチェが法会の挙行に相当なお金がかかるだろうから、リンポチェに供養しに行こう」と言ってはならない。大法会が無ければ、供養の必要が無かろうか。それだったら、取り引きになる。供養なら供養すればいいのに、わざわざある名目を立ててするのはなんでだろう。本日は、「善思念之(善く考えこれを念じる)」を解き及んだが、ご帰宅後に善の念頭でよく考えろ。しっかりとそれを念頭に置き、捨てないで欲しい。本日、講じたのは全て生死解脱、仏の本質への認識に関わりがある。決して油断せず、そして私が適当に説いていると思ってはならない。私は一度も適当に言ったことがなく、すべて『宝積経』に基づき、説法に力を尽くしている。

« 昔の法会開示法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2021 年 06 月 29 日 更新