尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年04月18日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参列者全員を六字大明呪を持するよう率いられ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を解説された。

経典:「なん非難ひなんへんにおいてよく諸辺しょへんさとらしめ。」

先週開示したこの文について、補充説明しよう。一般的には、「難において」は困難や災難を指す。宇宙での災難は何れも因縁法であって自性を伴わない。災難は因縁によって生じるし、また生じたその一刹那から消滅し始める。最も困難なのは、輪廻苦海の中を浮いたり沈んだりして、終息が見込まれないのだ。仏の称名や、仏への礼拝などしてさえすれば、輪廻に堕ちないだろうと思ってはならない。ちょっとでも煩悩を持てば、輪廻を繰り返すのだ。輪廻のモチベーションは、そなたの念頭であり、つまり一種の「難」である。

そなたに知見が存在すれば、仏法における正知正見を生活での目標にすることができなくなる。そなたの知見は輪廻の難を乗り越えられそうもない。『地蔵経』では、諸仏菩薩はそなたに仏を学ぶ障碍を乗り越えさせるよう手助けするとある。乗り越えるよう手助けするのであって、それを消滅させるのではない。何故、消滅させてくれないのか。それは、そなたの生生世世での所知障(しょちしょう)と煩悩によるものだ。仏菩薩は仏法でそなたが乗り越えるよう手助けすることはできるが、この先も続けていくかどうかはそなた次第だ。

自分が正しい、他人が正しくないと、一方的に思うのなら、冷静に客観的に他人の知見を理解することができなく、衝突が生じる。仏法以外の如何なる学問、科学や機器も、輪廻の苦を解決し得ない。ヒンズー教では輪廻を知りながら、輪廻がどうやって起きるか分からず、輪廻の苦を解決できない。道教では輪廻について語られていないが、どうやったら自分自身を永劫に太虚の中に居られるかしか言っていない。また、ある宗教は天国に戻ると言うが、仏法からみれば、天界に至っても輪廻を繰り返すのだ。

輪廻があると信じない人が多く居れば、この一生しか気にしないものも居る。または、今生が良ければ、後世も良かろうと思うものも居る。こうした考え方も間違っている。そなたの念頭に間違いが有れば、後世に影響を及ぼす。後世でペットになった者の殆どが、今生で称名したり、仏に頂礼したり、懺悔したりしているし、更に阿弥陀仏のそこいらへ行くよう発願したのもいる。畜生道に生まれ変わった所以に、間違った知見や執着があるのだ。貪瞋痴の「痴」とは、即ち因果を信じないことだ。

人殺しをしては悪果を受けるようなものは、最も皮相で浅薄な因果ではあるが、そなたの知見こそ深刻な因果を招くのだ。仮に、そなたの知見が因果を信じないものとし、とある方法を使って、果報を変えさせたり、消滅させたりすることができると思えば、因果を信じない。仏道修行するのは、かつて植え付けた悪因を消滅させて、悪果を現わせないが為ではない。帰依した際にも言ったように、帰依したら悪果は軽くなり、乃至滅びることも有り得ると。それは、善果が多きすぎ、たとえ悪果が現われても感じ取れないぐらい大きいからだ。まるで蚊に刺されたようにだ。だが、獅子に一口噛まれると、相当な被害は受けるだろう。

多く唱え、多く仏を学び、多く懺法をすれば、後世は必ず阿弥陀仏浄土、人道や天道に生まれ変わるのではない。実は、最も大事な原動力はそなたが事切れる前のその念頭にあるのだ。ひたすら仏を称名せよ、心続に仏号以外何もないよう、上師の言うことを聞けと言うのは、往生する前の一息の為だ!その念頭が仏号、上師を覚えることに慣れていて、他に何も思い立たなければこそ、西方極楽世界に往生できるのだ。もし、現われた念頭が上師、仏菩薩、呪文と関わりが無ければ、そなたの念頭によった力は輪廻させるよう導くのだ。

密宗ではナーローの六法を修め、この六つの法はそなたを輪廻に堕ちさせないよう助けてくれる。ナーローの六法を修め得るには、多くの時間、体力、精神を費やすものであり、毎日3,000遍の六字大明呪を唱えれば、阿弥陀仏の身許へ行けようなものではない。

菩薩は衆生を度すよう、ひたすら六道輪廻を繰り返しているが、輪廻による苦痛を感じない。それは、業に乗って来るのではなく、乗願再来だからだ。菩薩は、慈悲心を以て輪廻し、執着、貪欲、瞋恚(しんに)、痴心(ちしん)を以てではない。菩薩道を行っていない六道衆生にとっては、自身の輪廻が難であり、必ず輪廻の苦痛を経なければならない。菩薩は乗願再来であり、出生された経過もきっと一般人と違うのだ。釈迦牟尼仏は産道を通過して生まれたのではない。つまり、難・非難の辺に於くことで、必ず生まれる過程は経るが、方法が異なる。

釈迦牟尼仏はある世は地獄に居られ、その受けた難は体の筋をロープとして重い車を引っ張るものだ。彼以外、多くの衆生も同じような苦を受けていた。彼は牢役人に他の人を休ませ、私一人で引っ張ると言った。この念頭が現われるや否や、彼は地獄を離れ天界に昇った。我々は業力が重すぎ、知見が重すぎる故、六道を輪廻する。だが、ちょっとした慈悲心、菩提心を覚えていても、非難の所に於いている意味である。それは、そなたが衆生を済度しているからだ。

テレビで見たのだが、ある犬が主人とお供して伝統市場に行った報道があった。魚が地面に落ちたのを見かけると、犬は自分の鼻を使って水を魚のほうにやった。この犬は魚には水が要ることを知っていることを示している。この犬は菩薩道を行っている。動物すら霊性を持ち、菩薩道を行っている。もし、人間たる我々が進んで菩薩道を行わなければ、畜生よりも劣る。以前、私は日本の道場で、雀に餌を与えるつもりで米を階段に撒いたりした。ある時、3、4羽の小さめの雀が米を銜えて、体型と年がより大きめの、その親らしき雀に食べさせたのを見た。だから、人間として親孝行しなければ、畜生より劣るのだ。

衆生の肉を食べれば慈悲の種を断ち切る。仏を学ぶことは理性であって、迷信ではない。何故なら、仏法は宇宙観で、一切の衆生は皆平等である。六道衆生の中にも菩薩が居られる。ただ、我々はどなたが菩薩か見分ける事ができないだけだ。その者の行為が衆生済度すれば菩薩である。何故、殺生せずに菜食をするのか。それは、どの魚が菩薩か分からず、菩薩道を行っている彼を殺せば、そなたは慈悲を断ち切るのだ。この前も言ったように、苗栗の寺院に小さな池があり、中は泥だらけだった。中に何が居るか見ても分からなかったが、当時私が日本に居ながら、金色の鯉がいると観じた。鳥が飛び降りて水の中の小魚を食べようとすれば、金色の鯉が水を飛び出して鳥を追い払っている。鳥に小魚を食べさせないようにしている。これも、菩薩道を行っていることだ。菩薩道を行うとは、衆生を保護し、衆生のニーズを察知して助けることだ。

よく諸辺を了らしめ。菩薩は輪廻苦海の中に居ながら、難の「辺」を受けていない。辺とは境界を指すのではない。菩薩は、輪廻を引き起こした原因が分かり、如何にすれば衆生を輪廻の苦海から離れさせることができるか知る。この辺を離れればこそ菩薩と言え、でなければ菩薩には数えられない。

『宝積経』は説き広めにくいお経だ。専ら菩薩道について説いているからで、説き及んだ境地は凡夫にとって分かりづらいものだ。私は1981年に台湾に来てから、誰かが『宝積経』を解説しているというのは殆ど聞いたことがない。出家して30年の弟子すら聞いたことがない。それは、『宝積経』を説き続ければ、自分らができないと思って、弟子が逃げてしまうからだ。祖師ジッテン・サムゴンのあらゆる著作は『宝積経』によるものだ。菩薩道を学び、行うなら、『宝積経』を拝読せずには殆ど習得できない。もちろん、別のお経もダメなわけではないが、ただ『宝積経』は菩薩道のポイントを引き出している。

菩薩道を修めるには上師が必要であり、その上師が菩薩道を修めていなければ、そなたらをこの道、この方向に導くようにすることができない。上師に菩薩道の修行を経た経験が無ければ、多くの事を解説できないのだ。

経典:「実際じっさい敷演ふえんして」

リンポチェは世間法を分からなくて、自分自身はある分野の専門家だとそなたらは思っているだろう。実は、専門家とはとある一つの事に深く通じ、一般人より専門用語を分かっているに過ぎない。本当の専門家は仏法である。寺院を建てている過程で、建設業者、工事監督にふとした間違いが有ったら、改善措置や説明をするよう私はリクエストしている。理由は私も寄附していながらも、それは衆生からのお金だからだ。もし、私は管理せず追究しなければ、そなたらもわからないだろう。だが、私は気を緩めない。私は専ら事柄に着眼している。罪を憎んで人を憎まずということだ。

ある人たちから何故リンポチェは会社を経営しているのかと問われた。私は、在家の行者である上、『宝積経』では在家の修行者は商売できると説いている故、これ以上私が商売していることについて非難することはあってはならない。そなたらは近視眼的で風の便りを好んでいる。ご友人に『宝積経』では在家の菩薩は商売できると書いてあるとはっきり言えないのは何故だろうか。

そなたらはお金を出し渋るし、物事の執行もする必要がないから、何人かを使い走りにしているほかは、いつも私があれこれ頭を悩ませている。真剣に寺院のことを気に掛けた人は居ようか。そなたらのために、お金がかからないように努めてきていて、例えば去年16回もの灌頂法会などでそなたらからのマンタ供養を受けなかったり、今年も更に多く節約してあげたりしている。私は菩薩道を行い、そなたらにお金がない事を知っているのに対し、そなたらは当たり前のように考えている。弟子として慚愧するべきだ。

法王の台湾での住居は私が供養を捧げており、上師が安住できるようにと考えているからだ。そなたらなら出し渋るだろう。ここが菩薩道を修めているかどうかの違いだ。ここ数十年の間、私が絶えず広大なる衆生を利益し続けている故、この度寺院の建設が順調に進んでいるのだ。そなたらは、仏像の鋳造が簡単だと思うだろう。台湾にも仏像を鋳造している所はたくさんあるが、チベット仏教の仏像は鋳造していない。また、台湾には鎏金の技術がなく、中国大陸にはあるのだ。今回は計18体の仏像があり、一つずつ手作りの銅鋳物で、高さが9メーターに達しているのもある。それに、法座五つのうち、四つが銅で鋳造され、屋上に置かれる勝利幢や鹿などを入れてこの値段になるのは、高くはない。私が以前四川に行ったことが無ければ、こんな良い価格ではできなかっただろうし、この工場はこの仕事に積極的である。なぜならば、彼らチベット族はこの仕事をよく理解し、特に在家のリンポチェは数少ないことをわかっている。だから私に尊敬の念を表しているのだ。菩薩の仏法に関する如何なることは、因縁・因果の法則に則っており、私利私欲のためにやっているのではない。仏像工場を私が見つけたことのように。だが、今私は現地に赴くことができず、堪布に代わりによく見てから、契約を結んでもらった。衆生のお金を勝手に使っていないことは明らかだろう。

経典:「差別しゃべつよくり、 ぶつ弁才べんざい普賢ふげんぎょうじゅうし、 よく衆生しゅじょう語言ごごん分別ふんべつして、 」

差別よく知り。仏の弁才を得て普賢の行に住し。この段落は前回も解説した。「よく衆生の語言を分別して」の部分では、語言とは必ず口から言い出したものとは限らず、その考え方を知ることだ。私が済度を行法する際に、亡者が病院にいるやら、家にいるやら、面識のないものも居るやらだが、私がその場にいないにもかかわらず、亡者の考え方がわかる。私はその考え方を言い出す場合もあれば、言わない場合もある。例えば、だいぶ前にある弟子を済度したが、彼には上師に供養したい物があると知りながらも、私はその旨をその家族に伝えなかった。何故なら、その家族には供養心が不足しているから、ちょっとお願いがあっただけで品物を要求されたなんて言わせないよう、私は黙っておいた。でなければ、仏や上師への誹謗になってしまう。もちろん、私は「気を付けろ!くれなければ、彼に祟られるよ!」と言えるが、私は貪らない。私は亡者に「気にしないで。私に供養しなくても、上師は変わらずそなたに良くしてあげている」と伝えた。

そなたは衆生の伝えたい事がわかるが、その言語を知っているのではない。例えば、ヨーロッパや日本に行った場合、彼等は現地の言語を操っているので、その言葉を私は聞き取れないが、伝えたかったことがちゃんと伝わったし、私もすぐ助けるよう答えられた。そなたが空性の慈悲心を持てば、多かれ少なかれ衆生の苦難を感じ取れ、役に立つ答えを与えられる。昨日、ある信者が亡霊に遇ったと言った。でっち上げだと私は返した。霊に憑かれたら、道場に入られようか。彼のお仕事は高利貸しで、良くないほうの仕事だ。人を脅したり驚かしたりして借金を取り立てているから、果報として自分も恐れることだ。仏典によれば、高利貸しをすると地獄に堕ちるとある。お金を貸すなら、合理的に利息を徴収すると良い。例えば、銀行の金利、一般的な金利、さらに無金利の場合もある。

私が屡々言うように、貸したお金は取り戻せると思ってはならない。取り戻せると思うのなら、貸さない。そなたが供養してから何も見返しを望まないようにだ。見返しを望むなら供養しない。何故なら、何も見返しはないからだ。仏法は実体を持たず、見えるものでもないし触れるものでもない。供養してから後悔した人も居るが、それは何も得ていないと思っているからだ。

経典:「世間せけん一切いっさいほう超過ちょうかして」

この一節はお見事だ。菩薩のなさる一切の行為は、そなたらが世間で知っている一切の方法、道理を超越するものだ。超越と言えるのは、そなたらで見たことが無いからだ。そなたらは専ら人生経験に頼って暮らしている。菩薩が用いられる方法は衆生を済度させる為であり、もちろん世間での方法ではない。そなたをなだめたり、騙したり、そなたのご機嫌を取るよう譲歩したり、弟子になるよう頼んだりすることはない。そなたの考え方はご自身で決めよう。上師として言えるのは、話を聞かないなら、弟子になる資格がない事だ。

上師のする事は、筋が通っていても道理、理不尽でも道理だ。軍隊に入った事のある人であれば、きっとこの話を耳にした事がある。それなのに、そなたらはよりにもよってご自身の考え方で仏を学んでいる。そなたらなら、上師が話をすると、自分が受け入れられたら道理がある、自分が受け入れられなかったら理不尽、人情に疎いと思っている。この一節では、仏菩薩のする事は世間法を上回ると言ったにもかかわらず、まだ私が世間法で助ける事と望まれると言えようか。私は営業マンの出身で、自己アピールが得意で、もちろん機嫌を良く取らせることもできるが、私はそうはしない。そなたが願い出た全ての事を私が承諾するのを望んでいれば、私はそなたの上師をする資格を持たない。

仏法はご想像のようなものではなく、これ以上世間法で仏法を判断してはならない。世間で、どれだけ学歴が高かろうと、博士であろうと、身分が高かろうと、どれもそなたを輪廻解脱させられない。博士も一種の事物しか分からず、道場でもう一人の博士が居たところで、どうなるとは私は思わない。それは世間法に過ぎない。

菩薩としてなさる事は、生活に必要な以外は、衆生を輪廻解脱させようと努めている。そなたらにとっては、人情に疎いと言うだろう。リンポチェには愛というものがないと言われるが、もちろん私は愛を持たず、私が持っているのは慈悲である。世間法で行者を判断するのは、そなたの間違いだ。

経典:「よく一切いっさい出世間しゅっせけんほうり、 」

菩薩道を修める上師としては、そなたらを輪廻から解脱させる方法を知っているに違いない。善く知る事とは、施した一切は後遺症無く、そなたに輪廻の根っこから抜かさせることだ。それは世間法ではなく、世間法ばかり望むなら仏道修行は勧められない。今、世間で生きているのは、累世で蓄積した福報と業力に左右され、より順調に生きていると思えるのは、仏道修行を始めてから、善を行い悪を辞めた故、悪果の成熟がより少なくなった為である。

在家衆として、結婚やら、出産やら、海外への留学やらはすべて世間法だ。因縁が足りなければ無理をすることはない。昨日、親子二人が会見を求めに来たところ、その娘さんはアメリカへ留学に行くことになるから、オンライン法会を願い出た。私は承諾しなかった。何故なら、彼等は守られるように求めているからだ。学業が仏道修行より大事だと思うなら、もうそこまでである、供養も要らない。今は約200名ぐらいの弟子が供養を許されていない。私はそなたらが海外へ留学することを止めてはいない。

経典:「資具自在波羅蜜多しぐじざいはらみったて、 」

仮に、菩薩道を行するに必要な事を全部成し遂げられたら、資糧が得られる。自在波羅蜜多とはあらゆる智慧、成就が自在に現われる事だ。わざと考えなくてもいいのだ。まさに法王が仰せになったように:私のこの弟子は修行が自然に得られたのだ。まさにその通り、進んで実践すれば、自ずと得られ、何かをわざわざする必要がない。

経典:「有情うじょう荷担かたん不請ふしょうともとなる。」

一般的には出家僧は如来衣を荷担すると言うが、ここでの荷担とは一切の有情が為した様々な事物を担うことである。この弟子が渡米したいが、これで彼女を追放することにも及ばないから、余儀なく私のことを気に入らない業を受け止めるしかない意味だ。

菩薩道を行して衆生を度する以上、衆生による様々な業力や悪念を受け止めるべきである。施身法の行法時も、入ってきた衆生は悪念を持たないものはいない。悪念が無ければ、私を食うことはなかろう。そなたらのように、しつこく私に依存してばかりいるが、菩薩道を行する私は受け止めて担ぎ、そなたらに布施するべきだ。

不請の友となる。私はそなたを誘わないが、友達として見なしている。仮に、この一生でそなたらを生死から解脱させられたら、未来の菩薩、未来の仏としてのそなたらは、私の友だちになる。この一生で私の弟子をしている以上、生生世世で私の弟子をすると宣言する必要はない。一生で充分だ。もう懲り懲りだ。そなたらが慈悲心、菩提心という功徳大海の中を絶えず修行することができれば、私から友たちとして誘うのと同様だ。

修行の伴侶とは夫婦のことではなく、修行する友人のことを指すのだ。諸仏菩薩は互いに友人関係で、友人である以上、誘わずして自ずと訪れる。ある時、修法をしたら、とある菩薩が誘わずして自ずと訪れるように、衆生によって因縁が違う故、彼等はとある菩薩とご縁があったら、その菩薩は自ら私を成就させようと訪れ、友だちとして助け合うのだ。

表向きは、私が皆を度しているように見えるが、のちには皆は友だちになる。だから、そなたらの業力を暫くの間私が担いでおき、そなたらをよく修行させようとする。『地蔵経』で説かれたように、そなたらへの妨げを一時抑え付けておき、先にそなたらに跨がせよう。もし、仏菩薩にはこうした能力を持たなければ、菩薩道を行する心構えがなければ、どうやってそなたらの業力が抑えられようか。それを抑え付けるのは、よく修めるようにそなたらを決心させたいからである。安逸な生活をさせる為ではない。
経典:「よく一切いっさい如来にょらい法蔵ほうぞうたもち、 」

一切の衆生は如来法蔵を具備している。如来蔵は仏性、自性とも言う。そなたは仏と同じような清浄なる仏性、本性を持っているが、ただそなたが知らないだけだ。それは如来法蔵をどう保つか教えてくれるし、そなたには仏や菩薩になる条件を具備しないと思っていない。

これ以上、リンポチェほどにできないと言わないでほしい。この一生では勿論できないが、そなたは私と同じように同じ如来蔵を具備しており、大小の差異はない。その差異は福報、因縁と業力にあるのだ。上師たる私は、そなたに本来備えている如来蔵をどう保つか授け、貪瞋痴慢疑がそなたの清浄なる如来法蔵を遮る垢にならないように努める。

経典:「安住あんじゅうして一切いっさい仏種ぶっしゅだんぜず、 

そなたの心は安住すべきだ。如何なる成仏する種を断ち切ってはならない。そなたが帰依したその一秒から「諸の悪を為すべからず、衆善を奉行すべき」であり、成仏の種はこの一節から育て始めるのだ。

化学はある物質を分析し合成した結果、また別の種の物にする。これは人体にダメージを与える可能性がある。現在では、多くの者が化学物質で金儲けしている。小銭で買える食べ物の殆どに化学添加物が入っている。例えば、単価の安いお醤油などは、化学物質によって作られたものだ。古き良き時代では、化学で合成した物がないにもかかわらず、皆は無事に生きていた。科学分野では、宇宙で発生した如何なる事物の変化について、過程や結果を化学変化へと帰納する。仏法では、これらの変化は何れも因縁法であり、因縁の中で分子、原子の変化によって別の物が現われるようになる。例えば、ビニール袋は化学で製造されたが、石油を精製するには様々な化学物質を加えなければならない。表面上では、多くの人を助けているように見えるが、実際はどれだけの人間に危害を加えているのだろうか。

近頃、台湾は干ばつで雨が降らないが、それは炭素を燃やすことによって生じた微粒子のせいで、水分子が結晶できず、雨が降らなくなるのだ。仏法で言えば、龍族にダメージを与え、龍族が訪れず、雨を齎せなくなるからだ。我々は龍族と密接な関係を持っている。あらゆる台風や洪水なども龍がもたらしてくれるものなので、密宗では龍への供養として修法を行っているのだ。

心性(しんしょう)全てが如来蔵だと我々が弁えてから、我々の情緒、意識は常に安住しなければならない。仏種(ぶっしゅ)を断ち切らないこと。断ち切るのは簡単で、一回だけでも話を聞かなければ断ち切られるのだ。

経典:「有情うじょう哀愍あいみんしてよく法眼ほうげんひらかしめ」

法眼を開くには、単に禅定や称名に頼るものではなく、大慈大悲の心を起し、衆生の輪廻への苦をしっかりと実感できれば、法眼は開くとされる。2007年に、法王が私をネパールにあるラプキ雪山へ連れられ、私は三か月にも及ぶ喜金剛の閉関修行をして、法眼を開いた。自分の目で衆生輪廻の苦を見て、丸一日泣き続けていた。もし、そなたは衆生を哀れまず、果報が得られるやら、悟りを開くやら、弟子を受け入れるやらで修行すれば、そなたの法眼は開くことはない。

行者には五つの眼がある:肉眼、天眼、法眼、智慧眼、仏眼。我々には仏眼がない。法眼と智慧眼を開くには、修行に頼るしかない。開かなければ、衆生の苦を知ることはできず、それに対し知ってからは世間法でではなく、出世法で衆生を救済することとなる。

私は閉関を出てから法王に報告を申し上げた。法王は、ミラレッパが衆生の六道輪廻を思うだけで涙が止まらないと仰せになった。あなたはまだまだ取るに足らないという意味だ。そなたらなら、自分の事だけしか涙を流さず、別の人が苦しんでいるところを見て、同情心から涙は流すが、それはただ情緒によった涙で、法眼からのではない。

天眼と法眼とはちょっと異なり、天眼には距離的な制限が有りながら、法眼は法界を普く見渡すことができる。夢で見えるものではなく、目をつぶって持呪して見えるものでもない。それは自然に心で見えるもので、法眼とは想像では見い出せそうにないものだ。

2007年、法王がラプキ雪山聖地で閉関させた初めての在家弟子が私だった。今まで、法王は私以外の人を連れてそこで閉関修行をしていない。喜金剛は空性を修めるもので、自ずと早めに自分の本性、如来蔵を開くようになる。如来蔵が開ければ、何眼でも開くようになる。如来蔵のエネルギーは人類で測定し得るものではない。

リンポチェが凄いと言う人も居るが、私はちっとも凄くはない。ただ、法に従い修め、話を聞いたにすぎない。本日、この仏典をすらすらと自然に解説できたのは、私は全部経験したからだ。そうでなければ、単に名相(めいしょう)上の解釈に留め、聞いてもちんぷんかんぷんになるだろう。

出家して30年余りの弟子が感想を申し上げた。「かつては字面通りの解釈しかできなくて、一切の諸仏と衆生の心性(しんしょう)は不生・不滅・不来・不去ということは知っていましたが、何れも名相上での理解に留まっていました。リンポチェが本日説かれたように、明白で深く理解できるような事は聞いたことがありませんでした。自ら修行で体得し、修め証してはじめて分かり得ることだと分かりました。」

経典:「もろもろの悪趣あくしゅ善趣ぜんしゅもんひらく。

法眼が開いてはじめて、諸の悪趣を閉じ善趣の門を開くことができる、すなわちそなたらが三悪道に堕ちる門を閉め、三善道への門を開けることを助けてくれるのだ。済度を求めに来た人を大礼拝(五体投地)させるのと同じように、彼等のために諸の悪趣を閉じ善趣の門を開くことだ。それは懲らしめるわけではない。法眼があるからこそ、衆生の心が分かる。それで、どう助ければよいか分かるようになる。もちろん、求められると私はすぐ応える場合もあるが、それはケースバイケース(場合場合に応じて処理すること)だ。人によって因縁が違うものであって、時には在世の親族が代りに大礼拝(五体投地)をしてあげてはじめて済度される場合もあり、単に傍で阿弥陀仏の称名をすれば亡者が浄土に行かれるのでもないし、臨終誦経の団体を雇えれば済度されるものでもない。

法眼が開いていれば、行法(ぎょうほう)の際に亡者の考え方を知り、それではじめて三悪道への道を閉め三善道へ導かれるのだ。かなり前に、私は自宅に居ながら病院にいた亡者のために法を修めた折、誰かが彼の足を動かしてその機嫌を悪くさせたことを知った。すかさず私はその挙動を止めた。何故なら、事切れる際に最後の一つの念頭が大事で、どこへ赴くかに関わってくるからだ。瞋恚を起せば、堕ちるようになる。日ごろから、人を恨んだり、上師を非難したりする人ならば、間違いなく三悪道の門を開き、三善門を閉めるに違いない。だから、帰依した際にも言ったように、上師に対し怒ってはならないのだ。

経典:「あまねく有情うじょうかんずるによく父母兄弟ぶもきょうだいおもいをなす。 また衆生しゅじょうかんずることおのがおもふがごとし。」

菩薩が衆生を済度している際に、自分自身が衆生済度していると思わず、衆生は必ず自分自身と関連があると思う。たとえ今生関係がなくとも、過去世で父母兄弟だった可能性がある。彼は力の限り助け、たとえ供養をもらわなくても構わない。衆生から求めるご縁があれば、その因縁が成熟すれば間違いなく助けるのだ。彼の心では、衆生は彼にとって過去に於いて兄弟、父母、恋人、家族、怨敵(おんてき)だったかもしれないから、この一生は度する。ただ、そなたらの予想から外れた、別の方法で助けているに過ぎない。

この菩薩がそなたらの上師かもしれない。だからそなたらのお金を大事に使っている。道場の敷地を買った場合も多くのお金を節約してあげたし、去年の修法でマンタ供養を受け取らなかったこともそなたらのお金をずいぶん浮かせただろう。今は寺院で仏像の鋳造を行っているが、それについてもそなたらの為にお金をかなり節約した。私は皆を父母兄弟のように思ってしているにも関わらず、皆は私をバカのように振り回す。リンポチェが私に関する各々の事をしてくれなければ、菩薩道を修めていないのだと思っている。

地蔵菩薩は、地獄が尽きない限り成仏しないと仰せになった。それは身を以て衆生の受けている苦を実感しているからだ。私が閉関修行した際に、衆生の輪廻による苦を見ていられず泣いてしまったのも、身を以て実感していたからだ。私も輪廻の苦を受けたことがある。こうした泣きは心配でも恐怖でもなく、哀れみだ。これ等、輪廻する衆生は過去世で私と関連があったかもしれなく、私には彼等を度する能力がなくて、私は懺悔を申し上げる。あたかも観世音菩薩が二粒の涙を零したことのように、それは懺悔ではなく悔しみなのだ。まだ、こんなにも度されていない衆生が居るのだ。地獄は尽きるわけがないではないか。こんなにも多くの衆生が悪を為し続けている。そなたらがある事件について懺悔したいと言うが、何れもでたらめだ。その実、自分が苦労せず、安逸な生活を暮らしたいが為だ。

『宝積経』を聞けば聞くほど恐ろしくなるだろう。聞かなければ、自分がした事がどれだけ悪いか分からないだろう。そなたらがここに来た以上、私は真実の事を言い聞かせる。これでそなたに借りは作っていないのだ。

経典:「一切いっさい讃歎功徳波羅蜜多さんだんくどくはらみった証得しょうとくして、」

彼がこうやって一切の菩薩の功徳・果位を証するようになった故、一切の讃歎功徳波羅密多を得た。

経典:「よく如来にょらい一切いっさい功徳くどく了知りょうち讃歎さんだんし、 およびのもろもろの功徳くどくほう称讃しょうさんす。」

彼はどうやって如来の一切の功徳を褒め称えるかよく知っている。帰依した際に、上師の功徳を褒め称えと言った。菩薩はどうして如来の功徳を褒め称えるのだろうか。地蔵菩薩は『地蔵経』で「私がこれだけの衆生を助けられるのは、諸仏菩薩にご加護されているからだ」と説かれた。地蔵菩薩は「法身菩薩だから、自然に衆生を度することができる」とは言っていない。そなたらのように、「私が唱えたりなどすれば、息子の嫁を菜食するように度せる」なんて思っていない。これが褒め称えではない。行法中、テキストでは、絶えず本尊の功徳を褒め称え、供養し、本尊のご加護によって私が衆生を利益することができると書かれている。そなたが思うように、唱えれていれば、観世音菩薩と同じように大慈大悲に衆生を度せるようなことはない。

釈迦牟尼仏は、阿弥陀仏の四十八願を説かれるに先立ち、これらの内容を解説する。それは四十八願と関連があるからだ。この土台があれば、顕教における基礎を持つようになり、菩薩道を修める準備に入る。これで、四十八願はそなたと関連性があるようになる。阿弥陀仏を称名すれば、四十八願を発した阿弥陀仏なら私を連れて行くと思ってはならない。そうだったら、釈迦牟尼仏はとっくに四十八願を必死に暗記しさえすれば行かれると言っているはずだ。そこに着けば、登録してある菩薩である故、在世の時に菩薩としての観念を用意せず、専ら自分の安逸した生活しか頭にないなら、往生されてからそこへは行かれないのではないか。たとえそなたを送っても、そなたも浄土に入りきれず、蓮華の中に生まれず、浄土の外にある疑城(ぎじょう)という場所に生まれ、五百世の間は仏に遇わないのだ。

疑とは自分ができるかどうかを疑うことだ。多くの弟子は自分ができるかなと疑っているが、今生でできなくとも、歩み方を知らなければならない。上師がどう対処してくれるかと知り、そなたが持つ念頭をしっかりと掴まなければならない。顕教の基礎を持ち、仏のお教えを明白に分かってはじめて、この四十八願はそなたとの連結が存在するようになる。

お経を拝読する事や、解説する事は字面通りではなく、その内面を読むのだ。仏にとっては、仏法以外の話は全部妄語だ。だから、仏がこれらを言ったのは、必ず後から説明する四十八願と関連性を持つ。そなたが阿弥陀仏がご来迎下さいますよう祈る傍ら、在世の間は、菩薩をせず、菩薩道を行するのを決定せず、更に化学を研究して人に危害を加えるなら、迎えてくれるわけがないだろう。そなたはまた人にダメージを与えない化学を研究すると言うかもしれないが、金儲けできなくなってしまうだろう。

私は葉という弟子に動物実験をしないようにと言ったことがある。途中で困難に遭遇し、実験経費がだいぶ減ったにもかかわらず、彼女は動物実験をしないと決心した。葉という弟子によれば、「実験室は、臨床実験を受けるように直し、約一年半ぐらいの時間がかかって転換できた」という。多くの者は、似て非なる理由などを使って、リンポチェを説得しようとする。また、葉という弟子も「これらの動物は実験で使わなくてもいつか死ぬし、こうして動物らに貢献があったら、また実験後に元に戻すように治療する」などとも言えただろうが、私はこうやるのは間違いだ、動物実験は動物を苦しめると言い出したのである。葉という弟子は話を聞く。彼女が立派だと褒めるつもりはないが、私が言ってから彼女は話を聞くよう決心し、一年余り大変な思いをさせたが、今、新しい道のりを歩き出した。

『宝積経』によれば、自分に器があるかどうか見分けられる。菩薩道を成就まで学べというのではなく、我々今は顕教、理論の部分について説く部分に当たっているから、それをしっかりと受け入れ、少しも抵抗を生じてはならないのだ。ちょっとでも仏典に書いてある内容に抵抗があれば、そなたは菩薩道を学ぶ資格を失い、菩薩になれないのだ。毎日、阿弥陀仏を十万遍称名しても行かれない。それは、菩薩になる土台をしっかりと作っていないからだ。私は釈迦牟尼仏に、人を諭すよう一段落の仏典をめくらせようと祈り求めたら、この段落が現われたのだ。そなたらは皆賢すぎる人で、犠牲や貢献、要らないなどの事を体得できず、何れも自分自身の為に努力し、上師も仏菩薩もそなたらに譲るように要求している。

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2021 年 06 月 22 日 更新