尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年03月28日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参列者全員を率い四臂観音修誦簡軌を修められ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を説かれた。

経典:「ぶつにおいてじきほどこすをよくけよくし、 衆生しゅじょう調ととのへんがために妙理みょうり宣揚せんようす。」

仏が食を施してはじめて衆生の貪瞋痴慢疑が降伏(ごうぶく)され、妙法を聞き取ることができるようになる。「妙」とは絶妙、奇妙ではなく、釈迦牟尼仏が伝授された法が我々を生死から解脱させる法である故、妙法という。宗師(しゅうし)であれ、菩薩であれ、すべては上師と仏によるご指導の下で、自分自身の修行経験に沿って、仏を代表して妙法を説き広めている。

経典:「あるいは微笑みしょうあらはして百千ひゃくせんひかりはなち、」

通常、仏は笑わない。仏が微笑んだとなれば、きっと衆生の修行に関わりがある。仏が微笑んだのは、進んで仏法を修める人を見たからだ。金剛薩埵(こんごうさった)の仏像も、微笑んでいる。それは、金剛薩埵の法門を修めようと決心した人を見て、これで累世の業障を清められ、仏法や菩薩道を学び、更に成仏するようになるから、微笑んだのだ。仏も同様である。

金剛薩埵の法門を修めるに当たり、身口意を徹底的に懺悔する必要がある。自分自身が仏を学ぶ際の障りを消去するが為だからこそ、正真正銘の懺悔となるのだ。懺悔は、この先の快適な暮らしと引き換るためではなく、または、名声を得るが為ではない。「私は多くの衆生を殺して、癌を患った。懺悔したら、衆生は許してくれるから、癌が良くなる」なんて、まったく懺悔ではなく、取引や交換になる。どうして懺悔してから、少し良くなったように感じるのか。そなたが如法に懺悔した場合、悪を為す身口意が停止し、福報が上がるようになり、当たり前のように、悪の業力を少し抑え付けられ、乃至それが動じないようにもなり得る。真に懺悔の心を起し、自ら二度と悪を行わなければ、自ずと新たに発生する悪因がなく、それによる新しい悪果もないということだ。

多くの者は自分自身のために懺悔している。「自分が悟りを開けないことを懺悔したり、自分は業障が重いやら、懺悔し終わったら私を開悟させようと願ったりする。」何れも自分のためだから、まだ懺悔していないことを意味する。悟りを開けないのは、累世の貪瞋痴によるもので、その流れでこの一生も愚かなものだ。愚かとはばかなことではない。賢ければ賢いほど、悟りを開かない。愚かな人は、自分自身の累世で身口意から起こした貪瞋痴の悪業によって、自分をこの一生で悟りを開かせてもらえないのを理解していない。真に懺悔しなければ、仏は微笑まない。仏が微笑んだのは、衆生がまともに自身の問題の所在を知って、上師や仏のお教えに則って、ステップバイステップで修めて行こうと決心したのを見られたからだ。

仏が微笑を現わし百千の光を放って一切六道衆生を加持する所以は、そなたの修行によって、仏の慈悲なる心と、そなたの小さな、慈悲な心が相応するからだ。相応したら、仏の心が六道における衆生を加持されるようになる。仏が加持する際の功徳に、そなたも加わっている。何故なら、そなたも衆生の一人だからだ。そなたの決断をした懺悔心、毅然とした態度で修行して輪廻苦海から離れる心、衆生救済の心が仏と相応するからだ。何故、仏が存在しているのか。衆生が苦海を輪廻しているからだ。仏はとある衆生が輪廻から解脱するのを決心したことを感応すれば、喜ばれる。

ひねもす懺悔するなり、ひねもす間違っても改めないなりするのではない。何故《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》があんなに重要なのか。それは、どの箇条も、そなたに改めよと促しているからだ。仮に、そなたがそれは成し遂げられないと主張するなら、仏菩薩と上師の心は絶対そなたと相応し得ない。そなたと相応しない以上、ご自身の小さくて取るに取らない、微塵(みじん)のような善心に頼っての修行しかできない。こうした微塵程度の力では、きっと修め得られないと断言できる。しかし、衆生は何れも自分自身に頼れば修行できると思い込んでいる。「毎日、観世音菩薩に祈り求めれば、きっと観世音菩薩は私の修行を助けてくださるに違いない」ということなんて、有り得ない。必ずステップバイステップで、次第に則って心から改めることだ。もし、心が改められなかったら、上師の心と相応し合えない。上師が何を言おうと、そなたにとっては、聞き入れないやら、聞いてもちんぷんかんぷんだというふうになる。私の広東訛りの中国語のせいではなく、たとえ私が標準な台湾訛りの中国語を操っても、そなたも依然分からないでいる。何故なら、そなたの心は上師のと完全に違うから、自然と相応しないようになる。

ある人たちは、「リンポチェが講じられた仏法は、私は成し遂げられない。私が学びたいものではない」と思っている。仏道修行は、大学に通うように、講義を選択したりするものではない。八万四千種類の法門を締め括ると、一種類の法門に絞られる。それは、生死解脱、成仏の法門である。八万四千種類の法門は、如何なる衆生のそれぞれの煩悩に対して講じられたものであって、仮に、衆生がこの方法だと私は成し遂げられない、聞いても分からないと思うのは、まさに図星が刺されており、これがそなたの煩悩の所在なのだ。リンポチェがわざと粗探しをしてくるやら、リンポチェが極端に自分を非難の的にしてくるやら、という人も、実はそなたの煩悩に当たっているのだ。こんなにも悩みの重い人は懺悔を理解できず、俗塵に囚われる。たとえ毎日称名しても、六字大明呪を唱えても、俗塵に囚われるに他ならない。仏はこの種の衆生に向かって微笑まないから、道理でご加持がいただけず、福徳因縁が上がらないわけだ。ひねもす六字大明呪を唱え、座禅し、大礼拝(五体投地)をすれば、浄土に行けると思ってはならない。そう簡単ではない。

経典:「潅頂かんじょうきざはしのぼりて菩提ぼだいさずく。」

菩薩や仏に成るには、それなりの段階があり、つまり、灌頂を授けることである。灌頂とは、この本尊やこの法を修められるよう授権する意味である。仏典には、顕教と密教との区別が書かれていない。何故なら、仏が仏法を説かれた際に顕密の区別をせず、ただ衆生の機根によって仏法を説き広めるに過ぎなかったからである。

唐の時代以降、密法は中国本土で姿を消した。チベット密教も漢民族に伝えていない。仏典で説かれた灌頂は、皆さんにとって単なる一個の名詞に過ぎないかもしれないが、実はそれは密法である。密法を学ぶには、灌頂を授けなくては、一人の輪廻する衆生から、輪廻解脱の機会を得て、更に菩薩になるようにと、ご自身の位を上げることはできない。灌頂が授かったことがないやら、灌頂が授かったが伝授はされないやらも、不可能だ。そして、灌頂を授ける上師自身も、戒律を守り、如法に修行すべきである。出家者はそれなりの戒律があり、もし破戒になったら、授かった灌頂もダメになる。在家の上師は戒律を守るか、伝承を尊敬するか。もしあれば、この種の灌頂こそ本格的な授権灌頂という。そうでなければ、結縁灌頂に過ぎず、形式的に灌頂は授けるが、灌頂による力が注がれていない。それは、本尊と相応していないからだ。

かつて「六字大明呪は特許があろうか。」と聞いた人がいる。もちろんある。仮に六字大明呪を耳にしたことがあったとしても、灌頂が授からない限り、唱えても効かない。何故なら、格上げなしに凡夫の段階で修めているからだ。いったん灌頂を受けたが、上師が教えた仏法を聞かず、受け入れず、実践せずにいたら、これもランクは上がらない。多くの弟子は叱られ、懲らしめられたが、何れもいったん灌頂を受けたら、上師が講じた全てのことは、そなたにとって正しかろうが、正しくなかろうが、すべて仏法である。また、もしそなたは「講じていることは私と無関係だ、仏法ではない、私の生活が干渉された」と思ったら、この灌頂はそなたに対して無効になるのだ。

二週間前に、親として男尊女卑をしてはいけないと開示した。昨日ある弟子が夫の済度を求めに来たが、その娘二人は帰依していて、息子は帰依していない。昨日、私が「息子さんは菜食主義者になったか。」と尋ねた。通常、私がこう聞き出すと、まだ始まっていないとの意味だ。彼女はこう答えた:今から始めます。彼女の答えから私は分かるようになる。私はこう言った「そなたの夫は、この息子をいちばん心配しているのに、そなたは全部の財産を息子に分け与えようとするが、娘らには与えない。そなたが済度を求める場合、大頂礼300回を拝むべきだ。」

この母親が財産を全部息子に分け与えるのは、今後息子は養ってくれるだろうし、娘は嫁ぐから他所の人間になると思うからだ。家族が亡くなってから、実家は財産の相続をさせないという女性弟子が幾人いたが、私はいつも受け入れようと勧めている。でなければ、裁判になるやら、たとえ裁判にまでならなくとも、恨みの心が起きてしまうからだ。如何に小さな事でも恨みは起こり得る。この弟子は、灌頂を受けたとしても、ランクは上がらない。話を聞かないからだ。そなたらは都合のいいように、好ましい話を選んで聞くが、私が言った話がご自身と縁遠いと思ったら、空嘯く。

また、ある親子二人が、ハーモニカコンクールのため、法会への参列を欠席した。コンテストが終わったら、法会への参列を願い出に来て、しかも得意げに優勝をもらったと言った。彼等は事前に断ったら無事になるだろうと思いつつ、その時はその母親が既にコンテストへの参加を決意したから、私が何を言おうと何も変わらない状況だった。でなければ、彼等は心の中で愚痴を言ったりして謗仏するだろう。だから、いっその事で、彼を謗仏させないようにする。今回、この親子が来たので、私は「台湾で、ハーモニカを吹くことで生計を立てる人を見かけたことがあるのか。」と初めて言った。

子供たちは趣味を持ってはいけないというのではない。ただ、既に仏を学ぶのは子供にとってメリットがあると知りながら、コンテストとの理由で法会への参列を欠席した。子供の母親も、法会はコンテストが終わってから参列したいと願い出に来ればいいと思うが、これは仏法に対して恭しくないことである。子供がまだ小さいうちに、帰依に連れてきたから、リンポチェに守られて健やかに成長することばかり願っている。ハーモニカ部活に参加させるお金があるのに、仏寺へ供養するお金がない。衆生を屈託なく、健やかに成長させることを、リンポチェは一度も後悔したことがない。ただ、恵みを受ける側は恩を覚えるべきであって、ひたすら仏菩薩と上師を利用してばかりいるのは良くない。つまり、そなたは永遠に慈悲心、菩提心を持たないから、どうして阿弥陀仏の身許へ行けようというのか。《阿弥陀経》曰く:「不可少福德因緣的善男子善女人。(福徳・因縁を欠かせない善男子・善女人)」。よって、私はこの女性弟子の供養を受け取らない。何故なら、今後、彼女は息子の課外活動を支えられるように、大金を貯める必要があるからだ。

以上の二例から、いったい本気でリンポチェの言うことを聞く人は何人いるのかと、窺えるだろう。

どうして灌頂、格上げが必要なのか。灌頂を受けてランクが上昇すると、人と差が生じるからなわけではない。それは、菩薩道を学ぶための資格、条件、能力が付くよう、さらに発菩提心(ほつぼだいしん)に繋がっていく為だ。多くの者は、唱えさえすれば菩提心は現われると思うが、実はそうではない。灌頂や段位上昇、上師から本尊の修め方を教わるなどを経験し、つまり生起次第、円満次第のことを必要とし、さらに、上師から密法における所作タントラ、行タントラの法門を授けられ、絶えず本尊の法門を修行し、本尊のご加持の下で、はじめて菩提心を起すようになる流れだ。

何故、菩提心が起されないのだろうか。それは、灌頂を受けたことがないから、又は灌頂を授かったとしても、上師の言うことに対し疑ったり、自分自身を頼ればなんとか修め戻せるだろうとの考えからだ。仮に、上師が灌頂を授けたとして、灌頂された本尊の呪文を充分に唱えなければ、相応はしないし、この灌頂は無効に等しい。この一句は肝心かなめで、仏が密法修行の定義を《無量寿経》に隠している。仏は密法なんか言っていないと主張する人もいるものの、ここを見れば、仏は密法を伝えられたことが分かる。密宗だけ灌頂があり、顕教にはないからだ。

毎回、灌頂を授ける際に、私ははっきりと断っているが、もしそなたが六つのことをしたら、加持が得られないと。これは仏が説かれた内容なのに、多くの者は聞き入れない。私はこれまで《無量寿経》を紐解いたことがなく、《阿弥陀経》だけしか唱えたことがなかった。どうか、もう一歩、弟子に役立てる仏典を説き聞かせられますようにと私は釈迦牟尼仏に求めたところ、この篇をめくられた。

昇灌頂階、受菩提記。誰が授記するのだろうか。仏と本尊が授記されるのである。そなたがこの法門を修めれば、きっと発菩提心ができ、更に勝義菩提心が現われる。成仏するには、次第に則るものである。灌頂を授からなければ、段位が上昇することはない。上師によるご指導がなければ、授記がされず、菩提心があるようにはならない。菩提心がなければ、銅や泥で作った菩薩に過ぎない。菩薩は、即ち菩提心である。出家弟子は数十年修めても菩提心がどうやって修め得られるかすら分からない。分け与えれば、有するものではないからだ。菩提心は妙寶であり、〈発菩提心文〉では、「まだ生起していないものは、生起できますように。既に生起したものは、保ちますように」とある。それを生起させるよう手伝うのは誰なのか。上師だ。なのに、話を聞かない!

そなたが菩提心を生起した時、多くの出来事は自ずと黒業(こくごう)から白業(びゃくごう)に転じる。それなのに、皆はよりにもよって信じないで、ご自身の方法を用いようとする。「仏法は仏法で、我が家は我が家で、日常生活と仏法は関係がない」と思い込んでいる。それは、そなたが仏法と無関係と決めつけたことだ。仏法は被祐を求めるのではなく、仏の願は生きとし生けるものが成仏することである。

経典:「あるいは仏道ぶつどうじょうじて涅槃ねはんることをあらはす。 無量むりょう有情うじょうをしてみな漏尽ろじんしめ、」

そなたが段位上昇し、灌頂を授かり、菩薩が授記すると、成仏への道を歩くことになる。甚だしきに至っては、無余涅槃(むよねはん)にすら入る。この種の修行方式を通じ、ご自身が菩提心を得て成仏するほか、無余涅槃に入ると、無数の有情衆生のあらゆる輪廻を漏尽(無く)させることすら手助けし得る。

もし、仏がそなたらに人天福報を得てもらいたいのなら、ここではとっくに言及されているはずだった。言い換えれば、阿弥陀仏浄土は福を享受するところではない。仏の願望は衆生が成仏するである以上、病苦が要らないやら、受苦をしたくない人やらを阿弥陀仏浄土へ送ることはあろうか。もちろん、不可能だ。この段階から、阿弥陀仏の願はそなたを福を享受しに行かせるものではないと推論できる。そなたが、この世で輪廻解脱することを決心しなければ、たとえポワ法まで修習しても浄土に行かれない。高いところでも天道にしか辿り着けない。何故かと言えば、そなたは衆生利益のためではなく、ひたすら享受のためなのだ。ポワ法まで学べばきっと浄土に行けるとは思ってはならない。それはそなたの決心と、在世する間の上師に対する信心、そしてご自身の慈悲と菩提心がちゃんと育ったかに関わっている。

毎回修法が終わって、廻向する際に、「為利衆生願成仏。(衆生を利益するが為、成仏することと願う)」といつも言う。だが、成仏することは一切の苦を断ち切ることだとは説き及ばれていない。仏ですらこの話を敢えて言わないのに、私が何を根拠にして弟子にこう言えようか。衆生が求めに来て、私がその願いを満たせないくせに、供養を受け取ったら、私はまた来るようになるのではないか。今、私が教えているのは正信(しょうしん)の仏法であるが、そなたが聞かないのであれば、たとえ私はそなたからの供養を受け取っても、そなたが進んで聞き入れず実践もしないのであれば、私はそなたに借りを作っていないことになるだろう。

この世で家内で発生したことですら、そなたを決心させられないのなら、そなたはどう行けようか。私が人情に疎いのではなく、私も在家衆であるが、既に決心をしたからこそ、衆生救済し得るのだ。めくらせたこの段落は、そなたらが聞いたこともない仏法ではあるが、実はずっと仏典の中に存在している。そなたらが聞いたことがないのは、そなたらが聞けそうな因縁・福報がないからだ。そなたらが決心して覚悟しなければ、どう聞いても、開悟の仕方、神通や衆生済度の話しか聞けず、成仏への位はどうやって出てくるのかは聞けない。仮に、成仏する方法が実在するものではなかったら、仏はどうやって現われたのだろうか。

経典:「菩薩ぼさつ無辺むへん善根ぜんごん成熟じょうじゅくす。」

たとえ、すぐ成仏するのを望まなく、衆生済度をし続けたいのであっても、成熟(じょうじゅく)(即ち法身菩薩)した無辺菩提が必要とされる。菩薩道を成熟した菩薩は心が無辺無尽、果てしない、使っても尽きない、ひたすら使ってもまだまだある。菩薩の初地(しょじ)から八地までは、衆生利益する菩提心が退転する可能性がある。凡夫の場合では、懈怠という言葉しか使えず、菩薩に対してだけ、退転というのが使えよう。

地蔵王菩薩が説かれた「地獄が尽きない限り、成仏しない」との話は、疑いなく無辺の菩提心を有しなければ、成し遂げられないことである。成熟とは、果実が熟して落ちるのではなく、如何なる衆生利益の法も成熟され、自由自在に発揮できることであって、自分自身の名利のために仏法を説き広めるのではない。もし、私がこれらの内容を素早く誤魔化して、直接に四十八願について説くのであれば、そなたらにとって好ましい内容になるだろう。何故かと言えば、これらの願を耳にすれば、「私は阿弥陀仏の身許へ行ける」と勘違いしてしまうからだ。だけど、私はよりによって、ここを説くことにした。何故なら、これが阿弥陀仏浄土に行くには、心の中で一番重要な基礎となり、この基礎がない限り行けないのである。ひたすら唱えたら、阿弥陀仏がご来迎くださると思ってはならない。

釈迦牟尼仏は、ここで我々に、まだ世間にいて凡夫をする間に、いったいこれらの事を実践するよう決心するかどうかについて教えて下さる。実践しなければ、後に言う四十八願はそなたと関係がない。阿弥陀仏の四十八願は、阿弥陀仏が衆生を成就させる役目であって、それに応じて該当する衆生は少なくとも少しは善根を持たなければならない。善根すらなければ、どう成就させようか。だから、自分は予め自分の善根を成就すべきで、先立って自己を訓練するべきである。

経典:「かくのごとくもろもろの仏刹ぶっせつのなかにみなよく示見じけんすること、 」

ここでは、仏道修行には次第があり、階位があると、釈迦牟尼仏は仰せになった。一歩一歩、地道に積み重ねていくものだ。そなたが菩薩道を成熟した時、如何なる仏刹(仏土)の間にも、そなたの姿は現す。

経典:「たとへば幻師げんしのよく幻術げんじゅつり、 すなはちよく男女等なんにょとうそう示見じけんするも、」

菩薩はそなたに見させたのは、菩薩自身にとっては、とかくの化身や分身ではない。手品師が手品を演じる際と同じように、そなたが菩薩に会いたいというなら見させる。まるで多くの者が私を必要とする際に私が見えるのと同じようにだ。私はわざと見させるように変化するのではなく、ただ上師の心では絶えず広大なる衆生を利益したいと願っているからだ。私もかつて言ったように、「如何なる衆生も、私に救済して欲しい場合、私の名号を唱えれば、伝わる」と。この願を発したから、護法も菩薩も、私にこの願いを満たさせるように、手伝ってくださる。

この話の意味は、菩薩の法身や報身が現われるのではなく、それは単に菩薩の願力によって示現され、そなたらに見させるに過ぎないということである。まるで手品師が手品を演じて見せるのと同じようにだ。菩薩の心の中では、自分自身が現われて見させることによって、自ら修行が良いやら、すごいやらと思わず、それは、因縁性空という概念で、衆生から求めが有れば、見えるが、衆生から求めがなければ、現われないのである。

「男女等の相。」菩薩は衆生の願力に応じて男相や女相に化現して衆生を済度するから、この相も空性である。衆生の心に応じて現われた男相や女相だから、菩薩の希望で男や女になるのではない。《普門品》にも説かれたように、衆生には男相で度するなら男相で現われて度し、衆生には女相で度するなら女相で現われて度するとある。

経典:「かのそうのなかにおいて、 じつにかくのごときをべきことなきがごとし。」

この相は實相を持たないものであって、菩薩は縁起性空の修行方式を用いられる。因縁を生じることによって縁起し、続いて因縁が消滅する。この縁は本質が空性であり、空性とは皆無ではなく、変化、固定でないと定義される。男性か、女性かの現われは、決まりはなく、まるで観世音菩薩が三十二の応身で衆生を済度するように、男相だったり、女相だったりである。アキ護法が女相を現わしたように、菩薩再来する場合は、業力によって男女相を現わすのではなく、衆生の業や縁によって男女相を現わすのである。この縁が尽きると、男女相は存在しない。

経典:「かくのごとくもろもろの菩薩等ぼさつとう、 よく無辺むへん幻術げんじゅつ功徳くどくまなぶがゆゑに、 よく変化へんげ示見じけん相応そうおうして、 よく変化へんげどう了知りょうちするがゆゑに、」

菩薩の心が動じないものであり、菩提心が一致するものであると、菩薩は示現する。例えば、釈迦牟尼仏が菩薩道を修めた時、ある一世は猿だったが、鹿の王、孔雀、熊だった時もある。衆生の必要によって、違う姿を現している。四攝法(ししょうぼう)中の「同事(どうじ)」はつまり同類のことだ。鬼道の衆生を度するには、鬼の姿を現す。我々が現在人道にいる故、人を度するには、鬼や阿修羅の姿を現して説法してはならない。人の姿を現すに決まっている。我々が今見た菩薩の姿は我々が思ったのであって、六道の中では必ずそうなるに限らないし、すべて衆生の因縁によって変わるものである。

菩薩が善く変化の道を了知する所以は、変化の道理と原因をよく知り、自分自身がより多くの信者や弟子からひれ伏すが為ではなく、因縁の存在に因んで衆生を済度しに来るとはっきり知っているからだ。

経典:「もろもろの仏土ぶつどしめ大慈悲だいじひあらはして、 一切群生いっさいぐんじょうをあまねくみな饒益にょうやくす。」

一切の仏土で菩薩に会える。「一切群生」とは、六道衆生はもれなく仏法によって利益されることだ。我々はランクアップして菩提心を起し、成仏するまでひたすら修行することもできれば、ひたすら菩薩道を行うと発願することもできるが、衆生が多すぎるため、多くの菩薩に助けてもらう必要がある。

経典:「菩薩ぼさつ願行がんぎょう、 成就じょうじゅすることかぎりなし。無量むりょう義門ぎもん、」

法門は無量にある。衆生の業や煩悩、様々な状況によって無量の、生死意義から解脱する法門が生まれる。「彊りなし」は辺境がないことで、「無量」は数字では計り知れないものである。ある人たちは、「リンポチェが昨日こう言ったのに、なんで今日は違うことになったのか。」と言うが、それはそなたの心が変わることにつれて、そなたを助ける方法も変わるわけだ。仮にリンポチェが言ったことがこれだと思ったなら、そなたは間違っている。それはそなたがひたすら変わっているからだ。小さい頃から今まで、心が何回変わったのか。自分ですら覚えていないだろう。

義門の「義」は意味という意味ではなく、「了義(りょうぎ)」を指すことだ。「不了義(ふりょうぎ)」は我々に生死を解脱させるよう助けられなく、「了義」は生死解脱を助けてくれる。菩薩は仏を代表して仏法了義を衆生に説き聞かせる上、衆生の分かるような言葉で言い出している。衆生が了義(生死解脱の)を決定すれば、自ずと聞いて分かるようになる。仮に衆生が生死解脱するのを決心せず、多くの物事を心配していれば、了義はそなたと無関係だ。まだお家の事を憂えるなら、そなたはこの一生で生死解脱することは有り得ない。たとえ、私がそなたを済度させても、せいぜい三悪道を離れるぐらいで、生まれ変わってもまた修めに来るし、浄土にまで到達することはない。

この世で為された思想、立ち振る舞いは、そなたの後世を決める。誰が決めるのか。そなた次第だ。仏菩薩ができるのは、勧めることしかない。菩薩は経験があって、そなたを教える能力をもち、了義が修得し得るよう、助けて下さる。了義を受け入れなければ、即ちそなたは不了義だ。「法に依りて、人に依らざるべし。義に依りて、語に依らざるべし。了義に依りて、不了義に依らざるべし。」説法が上手いやら、法王とかリンポチェとかで階位が高いやらにあるのではなく、その説かれた仏法は我々を生死解脱に導くかどうかにある。その通りだったら、了義である。能弁家やら、ひねもす仏法名相を口にするやら、学問があると思われるやら、仏の真実義をひたすら弁論するやらではなく、その説かれた内容、示現された事、教えられた事が生死解脱という道へと導くかどうかにある。もし、そうであれば、了義である。

もし、そなたがまだ性懲りもなく、リンポチェが説いた内容を聞いても理解できないと思えば、不了義という道を歩いている意味であって、まだ気がかりが多くある。在家衆の仏道修行が出家衆のより難しい理由に、家庭があるというものがある。だが、家庭とはこの一生の因縁となり、この因縁は永遠に続かなくてもいい。仮に、そなたが家庭内の如何なる思いやりや、良い事などに執着すれば、この一生では了義が習得できなく、生死解脱が有り得ない。

子供や家庭を捨てろというのではなく、家庭を持ったほうが、かえって自分自身に生死解脱の心を持つかどうかが反省でき、よく見極められる。とある家族のことが心から離れないなら、この一生は決して生死解脱し得ない。ある人たちは、人からちょっとした礼儀に外れ、不敬な仕打ちを受けると、心の中から不快を感じるのも、気がかりと言い、生死解脱させないことにもなる。または、人から自分の事で取り沙汰されたのを聞くと、不平を感じて凹むような人も、生死解脱し得ない。

何故、《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》がそんなに重要なのか。それは、中では自分自身の身口意に心がけるべきだと絶えず教えてくださっているからだ。仮に、《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》のどの箇条に対しても留意しなければ、また自分が成し遂げていない箇条を反省しなければ、さらに注意しなければ、そなたはこの一生で生死解脱することが有り得ない。よければ、天道に生まれ変わるが、ひょっとすると、人道に生まれ変わる。また、ある人は、人に生まれ変わるのも良いやら、天界に生まれ変わっても福を享受できて良いではないかと言うかもしれないが、仏は我々が人道や天道に生まれるのを勧められず、我々が仏や菩薩に成って衆生利益するのを勧められる。もし、そなたらはこの方向に沿うよう決心を下さず、人・天道の方法で仏を学べば、仏法はそなたと相応しない。

ある人たちは、私は成し遂げられないと言うが、仏はここではっきりと仰せになったが、この一生で成し遂げろと言っていない。それが故に、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介され、来世は阿弥陀仏の身許で修め得させようとする。四十八願まで説けば、そなたが何故行けるか分かるようになる。ご自身の階位はご自身の心次第である。上師たる私は、勧めたり、教えたり、助けたりだけしかできず、完全に聞き入れるかどうかはご自身次第だ。今に至っても自分のことをケチだと思い、一句たりとも聞き入れないなら、改めると良い。衆生は皆平等であり、尊卑の別はない。そなたが尊さを得たのは、きっとある人たちがそなたを支持したり、成就させたりするに違いない。尊さを得ないのは、間違いなく過去世は修行しなかったことから、この世で福報を持たず、人に尊重されないのである。すべて業であり、果である。よくご自身の問題を見極めなければならないし、油断してもならない。

ちょっと考えたり、罵ったりしても差支えがないだろうと思ってはならない。そなたが往生した時に、いったん、こんなことが現われると、ふと思いつくからだ。何故なら、心が純善に転じず、悪がまだ存在しているからだ。そなたが往生した際に、悪の力が善の力より大きかったら、それが現われる。かつてある人がどうのこうの思い出せば、そなたは下へ落ちてしまう。たとえ、傍で誰かが念仏してくれても、依然として落ち、全てがそなたの悪念によるものだ。常に自分自身を訓練し、改めようとひたすら自分に言うべきだ。人に改めてもらうのではない。何故なら、我々は人に改めてもらう能力や権力がなく、勧告するしかできない。自分が仏門に帰依し仏道修行していると思うなら、自ら改めるべきだ。自分が改められない以上、何の理由で、そなたが気に入る様、人に改めてもらおうか。

経典:「通達つうだつすること平等びょうどうなり。 一切いっさい善法ぜんぽう、 具足ぐそく修成しゅじょうす。」

一切の法は平等であり、通達(つうだつ/隅々まで通じること)するものである。リンポチェとしては、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ、無上瑜伽タントラができるが、我々が修める際に次第に則って分けて進むが、四種の法とも修め成就させると、通じ合うようになる。すべてが、衆生に生死解脱させたり、そしていつか成仏するが為である。一切の法は平等であり、大小の区分けがなく、すべてが衆生の善根・因縁によるものだ。この一生で即身成仏の法を身に着ける衆生もいるが、これがそなたが指した大法である。一部の衆生は基礎が充分固まらず、この種の大法は修得し得ないが、その基礎に合わせるような法を修めるしかない。だが、成仏はできようか。成仏はできるが、より多く時間がかかり、この一生で遂げられることはない。たとえこの一生で成仏ができなくとも、生死から解脱することができ、阿弥陀仏の身許で未来仏まで修められる。

通達(つうだつ)平等という観念は大小の区分けはない。衆生によって機根が違う。例えば、業障の重い私は、衆生を救済するよう多くの法を修めなければならない。そなたらの福報が大きいなら、自分自身を生死解脱させれば充分だから、法を貪らず、あれやこれやとせがむのではない。必要がない。

上師はそなたらの機根に従い伝法するが、持っているだけやたらに教えるのではない。仮に、私が授けたとして、そなたらが修めなければ、上師に申し訳ないだけではなく、この法の将来にも良くない。何故なら、この法を重要視せず、だんだんとこの法が衰えていき、いつか存在しなくなってしまうからだ。

喜金剛の話を例に取り上げると、喜金剛はかつてマルパ尊者より伝え出されたものだが、ミラレパ尊者が勝楽金剛を修めるにつれて、多くの人々は喜金剛を修めない傾向になった。法王がそれを整えてから、私に伝えるようになり、しかも私一人のリンポチェだけを聖地へ閉関修行しに連れて行ったのち、暫くすると、多くの人々が喜金剛を学ぶようになった。必ず修得しえようか。それは誰でも計り知れない事だ。仮に、喜金剛を本当に身に着けようとすれば、時間が充分に有ろうか。聖地で閉関修行するのか。何故なら、テキストでは明記されているように、法によっては聖地で閉関修行しなければならないとされる。

私が閉関修行しに行ったネパールのラプキ雪山は、如何なる教派もそこを勝楽金剛の壇城の一つだと見なしている故、聖地と呼ばれる。同時に、ミラレパ尊者が生前、長年にわたって閉関修行を行われた場所でもあり、ずっと留まっておられた故、聖地と言う。聖地ではなければ、これだけ大きな法を閉関修行するのはできないことはないが、ただとりわけ苦労するだろう。だから、2007年に、法王が初めて漢民族のリンポチェとしての私を連れてそこで閉関修行してこのかた、再び誰かを連れて行くことはなかった。今後誰かを連れて行くかどうかは分からない。

「一切の善法、具足し修成す。」衆生を生死解脱させる一切の方法は、すべて具足し、成就を得るよう修め得られる。ここではっきりと説かれたように、リンポチェの教えた法が聞いても分からないと言うそなたは、もうお終いだ。何故なら、私が説き聞かせたのはすべて善法であり、進んで聞けば間違いなく成就を得るよう修められるからだ。私が言い出した方法は紛れもなく仏典によるもので、私が発明したのではないから、正にこの句で言うように、法を選んではならないということだ。

何故、不共四加行を修めるのか。不共四加行なくしては格上げできない故、たとえ私が灌頂を授けても、格上げしない限り、菩薩道は修め得られない。だが、不共四加行を学ぶだとなると、自ら功力(くりき)が良いやら、福報が足りるやら、人と違うやらと思うようになるだろう。器ではないと私が思うと、伝えない。多くの者は、自ら持っていると主張するが、私の前に跪くと、持っていないと私は感知し、法を貪っているに過ぎないのである。

この句が明確に言っているのは、如何なる法は平等であり、如何なる善法はひたすら修めれば成就されることだ。例えば、六字大明呪を一生涯唱えれば、そして上師から灌頂を授け、そなたがひたすらテキストに沿って修めていれば、成就される。仮に、上師がそなたに伝えなくとも、悔しむ心を起してはならない。ある弟子らはこうした考え方を持っている。

リンポチェはすべての人を平等に扱っている。リンポチェにご用が有れば、私は現われる。叱ることは叱るが、助けてあげる。懲らしめはしながらも、何と言っても私の弟子だから、私は情に脆くなる。まさに、「大切な人として重宝する」というほど、これは変えられないことだ。強情な人は離れたが、私は留めようがない。

年を取っても仏法が習得できないのは、可哀そうなことだ。これらを言ったのは、リンポチェが平等だと認識させる為だ。一座の面々は、自営業や、医者や、役人などがいるが、私は特別に誰かを優遇することはない。道場の事で手伝って欲しいことがあれば、まず助けてくれるかどうかを打診してみるが、もしご都合が良くなければ、助けなくても全然問題がない。

一昨年、高級官僚を務めた弟子が居たが、その後、彼は仏法を尊重しなくなった。彼が大法会にボランティアをしに来させるよう願い出たが、私は人手が充分あるからごめんと答えた。何故なら、彼が来れば、多くの官僚も出席すると知っているからだ。もし、この手を使うなら、とっくにやらしているのに、今に至ってはじめて使うわけないだろう。

ある弟子は、十数年前から、ポワ法の伝授を求めてきているが、私は伝えないのではなく、彼にはそれなりの機根を持たず、たとえ伝えても修め得られなく、彼に危害を加える始末になるのみだ。だが、リンポチェは絶えず彼にチャンスを与え、彼自身に決定を下させる。最後は、体力がないという決定になった。私が彼に、地道に素直で六字大明呪を唱えるよう、「大丈夫だから、リンポチェはそなたを諦めない。リンポチェを信じ、リンポチェを覚えていれば、往生される時に間違いなく救われる」と教えた。本日、私は法座でこの話を繰り返す。

もし、生死解脱する事を決心しなければ、たとえポワ法が授かっていても、せいぜい天界ぐらいに生まれ変わる。たとえ、亡くなってから大勢が唱えてあげようと、天界以上に上がることはないだろう。巷では、速成クラスの事を耳にしているが、あり得る事だろうか。ポワ法を学ぶのは、単に修法時の「ペッペッペッ」という音の真似ではないのだから、そう簡単なわけがあるものか。仏を学ぶにはステップバイステップが肝心で、上師の話を聞いて着実に実践すると良い。速成クラスなんかない。テキストにもそう書かれていない。誰か敢えてそういう人が居れば、私はその勇気に敬服するしかない。

多くの者が不共四加行を求めに来たが、何故私は授けないのか。それは、ブッフェに行ったかのように、法を選んだりするからで、どれも法を貪っている。法を授けるかどうかは、私は判断できる。そなたらが私の前に跪くと、まるで透明のように見破られるから、私はそなたの心が間違っていないかと弁え、器であれば授ける。何故、不共四加行を学ぶのか。それは、これが一つの段階で、この段階を通過してはじめて菩薩道が修習できるからだ。

授からなかったから、恨みを起したりしてはならない。そして、多く供養した人こそ、授かれるとも思ってはならない。仏には八万四千種類の法門を持ち、それは衆生によって因縁や業力が違うから、修習する法門も違うようになる。授からなかったら、仏が学べないとか、そなたのことを相手にしないとか、ではない。

釈迦牟尼仏は特別に開示されたが、後世仏を学ぶ如何なる者も、菩薩道を修めて菩薩の果位(かい)を証していれば、一切の了義の法を授けると、大小の区分けがなく、全て平等に通達するとされる。例えば、八大菩薩が修める法門はそれぞれ違うが、そうすると、八大菩薩の法門を全て修得しなければならないのだろうか。釈迦牟尼仏はそう仰せにならない。ひたすら一つの菩薩の法門に専念すればできるのだ。何故なら、それは全てが通じ合うからだ。例えば、台湾で弥勒菩薩を修めている多くの者は、「弥勒菩薩を修めるなら、浄土宗の話を触れてはいけない」と言うが、それは正に仏典を読まないことだ。仏典には、弥勒菩薩が釈迦牟尼仏に指示を請うたことがあるが、「菩薩はどんな心を発すれば阿弥陀仏の身許へ行けるか。」とある。

これは、どういう意味なのか。通達(つうだつ)だ。衆生の業や願に従いながら、諸大菩薩は助ける。最後に、十方の菩薩に、浄土往生するよう助けていただく為に、浄土祈願文を唱える所以は、一切の法門は通達し、すべて衆生を生死解脱させるための了義法であることを証明することにある。よって、ポイントは好き勝手に選ぶのを辞め、該当の縁がなければ法が修得できない。リンポチェに縋り付けば、伝法されると思ってはならない。不共四加行を上師相応法の真言まで修め切れば、上師と相応すると思ってはならない。その先はまだまだある!私はまだ行っていないだけ!閉関センターがまだ出来ていないから、そなたらはそんなに時間があるわけないだろう。

自宅に居ながら、すべての法門が身に着けられると思うだろう。私は皆さんと違って、事業や家庭を捨てて仏を学びに来ている。私は子供を台湾に残したまま、三か月強の閉関に赴くことができた。そなたらはどう。そこは、電話が禁止されているが、そなたらは耐えられるのか。できないのなら、どう学ぼうか。学ばなくてもいいが、釈迦牟尼仏は皆を励ますよう、一切の善法は通達し、ある菩薩がある法門に専修するやら、これと言った法を修めなければ成就できないやらのことはないと、仰せになった。

上師が手配するもので、ご自身があれやこれやと選ぶのではない。あたかも以前法王は私に喜金剛を授けなかったが、次第に私が器だと見えるようになってはじめて授けるようになった時のようにだ。しかも、私の死まで懸念し、ひたすら関房の傍らで見守ってくださった。衆生の心が分かったりすることをご存じで、私が閉関修行している時、心が変わらないかと言い切れないからだ。仮に、私が変わったら死ぬようになる。これで菩提心が修得できたかどうか分かる。菩提心を修得すれば、クリアする。そなたらのように、自分の嫁が生臭い物を食べてもいいから、私が代わりに唱えれば戻ってくるだろうと思ってはいけない。

皆はしっかり覚えよ。通達(つうだつ)すること平等なり、一切の善法、具足し修成す。よって、人の修める法門を批判してはならず、自分の唱え方は人と異なっていて、自ら自分自身の唱え方が正しい、人のが間違っていると思ってはならない。つまりこの話自体が間違っている。もし、釈迦牟尼仏が話したことでさえ間違いがあれば、そなたは仏を学ぶべきではない。弁えられれば、皆は今後、悪を為したとしても気づかないことがないだろう。

経典:「もろもろの仏刹ぶっせつのなかに平等びょうどう趣入しゅにゅうす。 つねに諸仏しょぶつ勧進加威かんじんかいせられ、」

その意味は、どの国土も平等に心の趣いているままに入ることであって、六道衆生の中で、度するだけどの道にも入り、平等心である。仏様は、猿の毛が長くて蒸し暑いとか、孔雀の羽毛が綺麗だから皆に好かれるとかに拘ることなく、単に因縁に従うに過ぎない。まさに、法王が私のために書いてくださった長寿文「因縁があるだけ、私は赴く」のように、平等心そのものだ。

いわゆる平等は、特定の人たちを対象に度するとは限らないとすることだ。かつてのある公案(こうあん)に、二人の出家衆が食を乞い受けに出かけた際、一人はもっぱら裕福な金持ちを、もう一人はもっぱら手元不如意な貧乏人を訪ねている。お金持ちを対象にしたのは、裕福な人たちと縁を結んで、裕福な人たちが進んで仏道修行を進めば、更なる広大な衆生を利益することができると言う理由だったそうだ。もう一人、貧乏人を対象にしたのは、貧乏な人が仏道修行して、裕福になって衆生利益することができるようになるという理由だったそうだ。釈迦牟尼仏は、この二名の出家衆ともやり方が衆生平等という修め方ではないと開示なされた故、リンポチェはその平等心を学んでいる。

我が道場では、貴賤貧富が揃っており、リンポチェはお仕事が下賤だからそなたを無視することはないし、手元不如意だから相手にしないこともない。また、お金持ちだから特別扱いしたり、違う表情で接したりすることもなく、逆にとりわけ厳しく律するかもしれない。これ等は、すべて仏典に教われた方法で、即ち平等に趣入することである。

どの国土に生まれ変わろうと、六道のどこかに現れようと、もっぱら天界に赴き天帝や天衆を度するが為ではない。縁がなければ、仏は行かれない。縁があってはじめて行かれようがあるが、また実際に行ってから、自分が何者かに化するのではなく、平等心を持って衆生を救済しよう。

つねに諸仏に勧進加威せられ。即ち、一切の諸仏は菩薩道を修める者らを勧め、善導することだ。加威の威は威風ではなく、威徳力であり、つまり仏法の威力である。仏法は理不尽なやり方で法を広めるのではなく、外道のように話を聞かなければ殺されたり、地獄に堕ちたりするのではない。仏の威徳はここに非ず、衆生に示現することにある:「釈迦牟尼仏が成仏できるなら、衆生は皆成仏できる」こそ、仏法の威力である。

何故、釈迦牟尼仏は成仏できるのか。彼はできたからだ。何故、我々は成仏できないのか。我々はできていないからだ。何故、できないのか。それは、息子のハーモニカの稽古が仏を学ぶことより大事だったら、できようか。初めの時は、仏を学ぶと、息子を成長させ、親孝行させ、真面目に勉強させるとのお考えで、仏を学ぶほうが大事だと思ったが、果ては子供が大きくなるにつれて、子供自身の考え方があるようになり、親は今度、息子の考え方を満たすよう仏菩薩に求めるようになった。そうなら、ここで説いた仏法とは無関係になり、関係が無い以上、できないのが当然だ。

経典:「一切いっさい如来にょらい識知印可しきちいんかせられて、」

一切の仏は、菩薩の為された事を弁えられ、更にそれを許可される。あらゆる菩薩は衆生済度に赴くことは、必ず仏からの許可を得ているに違いない。まさに、私が道場を設立する前は、必ず法王の同意を得るように、法王だけしか私に資格があるかどうかを知らない。施身法の際も、開示したように、私がこの法を修めるよう、本尊、上師から許可を祈り求めてから、法が修められる。印可(いんか)とは、仏がそなたにこの法を修める資格があるかどうか、衆生利益できるかどうかと判断することだ。できないのなら、修めさせない。自分勝手で決めつけるのではなく、必ず仏による印可が必要である。

経典:「菩薩ぼさつおしへんがために阿闍梨あじゃりとなる。」

菩薩にもっと指導できるよう、教授菩薩をすると良い。菩薩にも菩薩の教授がおられる。

経典:「つねに相応そうおうせる無辺むへん諸行しょぎょうならひて、 一切法界いっさいほっかい所行しょぎょう通達つうだつし、」

常に習うとは、永久に学習することだ。広大なる衆生を利益するためのあらゆる行為は、果てしなく、停止することはない。

一切法界に通達することについては、三つの段階に分けて説くが、第一段階は発願の時であり、そなたが徹底的に願力を実行する際、この力が一切の法界に遍く通じるようになる。次は、発願してから、ある本尊の法門で修行を確実に進めるなら、この修行による功徳力は法界に遍満するようになる。最後は、そなたが菩薩、仏に成った時に、動じず、考えず、念じずとも、功徳が法界中に通達することである。

だから、先ずは自分自身に問うてみる:これだけ発願したが、着実に実行しているのがあるか。もしないならば、願による力が出ていないから、そなたは法界の中では一粒の小さな埃に留まる。願の力が現われると、諸仏菩薩はそなたの願いを満たす。その願は、菩提心願、慈悲眼、修行の願である。守られるよう、家族を帰依に導くことが願ではなく、貪欲だ。衆生利益できるよう、修行するために発した願こそ願であり、この枠を外れるものはすべて願ではない。

経典:「よく有情うじょうおよび了知りょうちす。」

ここで言うことは、一般の菩薩はやり遂げられなく、法身菩薩だけしかできない。善は明白であり、善の明白は白法(びゃくほう)を以って了知することで、悪法をではない。一切の白法を以って、生死解脱の法門、そして仏ごとの願力を了知する。土は仏土を指す。釈迦牟尼仏は既にこの一句を実践できた故、仏は六道衆生の一切の因果、業力を知ると同時に、仏土の成り立ちもはっきり知る。よって、紹介し得るのだ。これは、一般凡夫や、数十年仏を礼拝した人が、知れるようなことではない。

それが故に、我々は専一に生死解脱の法門を修め、複雑な事などを考えて心が煩雑にならないように。何の疑いなくこの世で生死解脱の法を修めるよう決心すれば、きっといつか達成できる。しかも、そなたが決心したら、自ずから多くの悪業を止め、更にしないようになる。何故なら、そなたは生死解脱するには、再び新しい業を造ってはならないとはっきり知っているからだ。例えば、人のことを取り沙汰するやら、批判するやらも業になる。

我々は罪を憎んで人を憎まず、誰もが過ちを犯す時がある。もし、ある特定の事件で、自分だけ被害を蒙ったなら、それを受け止めようと勧める。これだけ多く考えたり、多く言ったりしては、ご自身の不利になる他ない。言葉は一番怖いものであって、衆生を成就させる事もあれば、衆生を傷つけることもある。同時に、自分自身も傷つく。

いつか死ぬと認識しているやら、既に解き放したやら、思い詰めることはないやら、何もかも要らないやらと、とうとうと言う人もいるが、すべて口ばかりに過ぎない。もし、人にちょっと言われるぐらいでも飲み込めないなら、何もかも要らないと言えようか。もし、自ら仏道修行し、生死解脱の道を歩んでいると思えば、ご自身の起心動念が果たして白法か黒法か見極めようと、常に自分を戒めなければならない。

誰もが、私自身を含め、過ちを犯したことがある。他人の過ちは自分に対して鏡のような存在であるし、自身で犯した過ちは改めなければならない。自分を許さない限り、仏法で絶えず進歩が遂げられる。これが重要なポイントだ。

経典:「またつねに発趣ほっしゅしてもろもろの如来にょらいし、 種々しゅじゅあらはすことなほ影像ようぞうのごとし。」

菩薩は永久に六道で衆生を済度するよう、常に六道を出入りする所以、苦が生じない。菩薩がどの道に生まれようと、常に一切の仏を供養するからだ。供養とは、物質に限らず、菩薩道で行う全ての行為、仏の教えに従えば、仏への供養になる。

目に見えたあらゆる衆生の身は、影像に過ぎず、永久不変ではない。これも、仏典でひたすら衆生に傷づけないよう勧告する理由であって、今は豚、羊、鶏のように見えるが、実は、その姿は虚仮(こけ)で、清浄な本性は同様だ。我々が衆生を傷つけたら、表から見れば殺生だが、実際は未来仏を殺したことになる。一切衆生の清浄な本性は消えないが、傷つけられた衆生に恨みの心を起させると、成仏への道程がかなり遠くなる故、間接的にもうじき成仏する衆生を滅ぼすのと同様だ。違う相が現われたから、衆生を卑しめるのではなく、人に対しても、皮膚の色や民族によって相手を見下げてはならない。これは仏法に背くのだ。

経典:「よく因陀羅網いんだらもうまなび、 よく魔網まもうやぶり」

仏理への理解だけに頼って魔網を破るのは不可能だ。必ず諸仏菩薩からのご加護に頼らなければならない。即ち、諸仏菩薩の真言を持すれば、魔網を破ることができ、長期にわたって諸仏菩薩の真言を念じたという網に守られるからだ。我々に貪・瞋・痴・慢・疑を起させ、生死解脱をやり遂げさせないのは、すべて魔である。盲従して迷信しないように、と呼びかける眷属も魔だ。陀羅尼は清浄であり、本尊の願力、功徳、事業、福報に当たるのである。上師からの口伝を授かってから、固く信じ、何も見返りや感応や感覚を求めず、永久的に唱えれば、きっと魔網を破ることができる。自ずと破れ、求める必要がない。持呪にはそれなりの方法があり、上師からの口伝、生起次第、円満次第を経てから、法のごとく誦持(じゅじ)すれば、間違いなく魔網を破られる。

最近、これだけ多くの人が観音法門を求めに来たが、私が授けないのは何故だろうか。観音菩薩が慈悲深いから、六字大明呪を唱えれば、無難でいられるよう加被(かび)されると思っているのだろう。その実、無難を求めるのなら、毎日五百の大礼拝(五体投地)でも良い。陀羅尼でいちばん肝心なのは、無難を祈るのではなく、魔網を破ることだ。魔網を破ってはじめて、そなたが生死解脱を遂げるのだ。健康、孫、生臭いものを食べている嫁のために唱える真言は、魔術になる。如何なる本尊の真言も、衆生がこの一生で生死解脱することを願っている。呪文は、誰でも唱えられるが、効果が出るかどうかはご自身の心、願力、そして煩悩があるかどうかに関わる。

弁えると、「陀羅尼は誰かとの敵対に使う道具ではなく、現在の果報を変えるためでもない」と分かる。もし、こうした考え方があれば、たとえ不意にそなたがテキストを手に入れたとして、この一生は成就できないと保証できる。そなたはテキストに書かれたのと背くからだ。テキストでは、はっきりとこの法を修めるのは自分自身のためではなく、衆生が自分と同じように成仏できる為だと書かれている。ひねもす自分自身のために求めては、そなたに傷づけられた冤親債主は如何にすればいいか。

冤親債主を済度さえさせられればいいと思う人もいるが、済度とは、冤親債主との恨みがましさと瞋恚の心を一時停止させる働きだけで、悪の根っこはまだ存在している。そなたが懺悔心、生死解脱の心を起さない限り、冤親債主とそなたとの間は根絶やしすることができない。かつて懺法(せんぼう)を行ったり、済度させたりしたことがあれば充分ではなく、後の部分はご自身に頼らなければならない。まるで医者が病気を治してあげたとして、それからの養生はご自身次第のようだ。済度、修法、懺悔の後、そなたが話を聞きよく修めなければ、恨みの根っこがまだ根絶やしにされていない。根っこさえあれば、ある日に心に悪念が起き、悪を行い続ければ、悪の根っこを灌漑するのと同様で、再び芽生えたり、花が咲いたりして悪の果実が実るようになる。

祖師ジッテン・サムゴン曰く:「上師はそなたのために多くの事柄を解決したり、病気を治したりするとされるが、その後、ご自身が精進しなければ、それらのことがまた戻ってくるようになる。」それは、悪を根絶やしにしなかったからだ。「上師と仏菩薩がそんなに慈悲であれば、また、私も自分の悪根がどれだけ悪いか分からないから、なんでいっその事、全部抜いてくれないのか。」と言うだろうが、全部抜くのは不可能だ。それはご自身が植え付けたからだ。例えば、ある人からのひと言、一つの表情がそなたの機嫌を損なったのも、ご自身が植え付けたものだ。ご自身が植えた悪根だから、どう対峙するか分かるべきだ。つまり、その反対をする。人が喜ばせることを言うと、気を付けろ。人が機嫌を悪くさせるような事を言うと、喜んでやろ。何故かと言えば、先方がそなたの業を消しているからだ。また、もしそなたがそれに反しているなら、悪根が更に深まっていくことを示している。

『地蔵経』には、「起心動念は、みな業であり、罪である」とある。そなたが起こした念頭がすべて自分を助けようとし、例えば、とある人を気に入らないことすら、その範疇に入る。もちろん全部の人を好きにならせたり、愛させたりするのではなく、何一つも罣礙(けいげ)が生じない為だ。仮に、この心を起すと、悪の根っこを長く伸ばさせるようにする。そして、ある日、そなたが悪の動きをすると、その根っこに水を持たせるようにして、ゆっくりと芽生えさせていくのだ。

去年、癌を患って亡くなった弟子がいる。帰依して以来十数年、その心にまだ恨みを持っている。弟子自身もそれを認めた。だが、彼は仏を学んでいたから、花や葉っぱが生えそうになったところをちょっと摘まんであげるようと、私は助けたが、悪の根っこはまだ残っていた。毎日のように、恨み続けると、悪根が日に日に強まり、固まっていき、更に芽が生えたり、花が咲いたりするようになる。彼は帰依していたから、上師はそれを小さく実らせるよう予め助け、癌による痛みを低減させ、死に際は痛みを感じさせなかったが、果は依然に実る。あらゆる事は自ら行うのであるから、他人を嫌ったり、恨んだりしてはならない。向き合って、改めるべきだ。人生は短く数十年しかなく、煙が吹かれたようにあっという間に過ぎてしまう。だから、執着せず、根に持たないように。それは健康に良くない上、今後の修行にも良くない。

経典:「もろもろの見網けんもうこぼちて、 有情網うじょうもうるも、」

たくさん呪文を唱えるにつれて、ご自身の我見(がけん)を壊すことができる。有情(うじょう)の網に入る。我々は一切の有情衆生を済度し切るのではないか。何故また有情の網に入るのか。この一句は、そなたが「我」との知見を破ってはじめて、一切の有情衆生の悩みはどこからかと見抜くことができる。昨日、私はその弟子がすべての金を息子に分け与えるのを見極めた。私も在家衆で、在家衆の考え方をよく分かっている上、毎日のように持呪をしているから、そなたらの心を、はっきりと見抜いている。

諸の見網を壊ち、私の我見が減少すると、かえってそなたらの有情衆生の網に入るようになり、そなたらが何をやっているとか、問題がどこにあるとかが分かる。そなたらが気に入らないようなことが指摘された時に、私は既にそなたらの問題を知っていることを表す。なのに、そなたらは一向に受け止めず、私が仏法を説くのではなく、家庭生活や恋愛感情などの話に触れていると思い込んでいる。

ある弟子らは、交際相手ができた。私はそれを止めようとはしないが、ただできれば一緒に仏を学べる相手を探すのが良いと勧める。話を聞かない者は、道場を離れたり、離婚したりするのも居る。私は、有り得そうな結果を見抜き、取り付きから教えたが、聞こうとしないなら私はどうでもいい。私も事前に言っているから、文句も言われない。

経典:「よく煩悩ぼんのう眷属けんぞくおよび魔侶まりょ魔人まにんえて、」

そなたもひたすら持呪すれば、煩悩と眷属を乗り越えられる。眷属こそ我々最大の煩悩だ。私は在家衆で、眷属を持ちながら、煩悩が微塵もない。私は絶えず、仏菩薩と縁を結んだ快適な生活を送っている。他の人に置き換えれば、さんざん文句を言うだろう。そなたらが私に帰依して、私の眷属にもなる。そなたが、急に離れようと思い立つと離れれば、来世またそなたを助けるご縁があるかどうかは知れない。

ある人たちは魔人で、仏法を信じないよう唆す。「信仰ぐらいならいいけど、あまり盲従し迷信しすぎないように」。私はそなたらを盲従し迷信させるよう教えたことがあろうか。(参列者全員はありませんと答えた)私は、ひたすら正確な道理を諭すだけだ。今になってやっと持呪させられた理由が分かっただろう。仏は、これだけ利益があると仰せになったのに、そなたらはよりによって空嘯くし、その場しのぎで毎日唱えている。その場しのぎではなく、それはご自身の事で、乃至、全ての厄介事も持呪することを通じて破ることができる。求めずにひたすら唱えれば、やり遂げられるが、そなたは実践し切っていない。一日24時間のうち、そなたを落ち着かせて座って持呪する時間はどれぐらいあろうか。

昨日、ある若手の弟子がテキストを求めに来て、願い出がずらりとリストされていたが、仏を学ぶことをまるでメニューを見ながら注文するかのように取り扱っている。これだけあげると、どう修めようというのか。毎日、くじ引きのように、当たったテキストを唱えるつもりか。若者の心は常に変わったりする。何れも法を貪るのだ。人が持っている物を、自分もせがむ。果ては、『仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)』を授けた。その中のどれか一箇条を達成できれば、充分に見事だ。貪らないように。

出家弟子は何遍も『無量寿経』を唱えたが、誰かがこうして開示したのを聞いたことがない。魔軍をどう破ろうか。単に座禅を頼りにすればいいわけではない。『楞伽経』、『楞厳経』には「魔来魔斬、仏来仏斬」とあるにも拘わらず、何故、やり遂げられないのか。禅宗は、ひたすらそこいらに座っているだけではなく、その中には様々な法門が包括され、表に公表していないだけだ。六祖慧能(えのう)は五祖の心法を引き継いだことによって六祖になる。六祖は心法を後世に授けたか。いや、授けなかった。どう魔軍を破ろうというのか。

仏典を聞くことが重要であり、それを通じ多くの疑惑を解くことができる。ひたすら仏に礼拝し、朝から晩まで拝めれば魔軍を破るのもできるが、ただそなたが堪り兼ねて死亡することがある。故に、釈迦牟尼仏は持呪という法門を開いて下さった。持呪しても死ぬ。仏は我々に如何なる法門も修められると教えている。機根が良ければ、先ほどの方法で修められるが、機根が不足していれば、地道に持呪すべきだ。これ以上、あれやこれやと貪らず、持呪でさえそれなりの方法があるのだ。

天台宗では五十三の心所(しんじょ)を破る必要があり、一個ずつ破っていき、綺麗になってはじめて悟りを開くことができる。その論は、心がどう動くかによって、考え方がどう変わるかについて、細かく書かれている。昔の人は、することが少ないから、一日中この論を読むことができたが、現在の人はすることが多くて時間がない。よって、今は天台宗を修める人が日に日に減少するのに対し、浄土を修める人の方が比較的多くあり、それは持呪することだ。阿弥陀仏こそ呪文だ。持呪することによって、これだけ利益をもたらすのは、仏様が仰せになったことで、私が言ったのではない。依然ご自身の考え方を以ってするのならば、修め得られないのだ。我々は、仏法を相場らしくすることができず、必ず仏典の書かれた通りに則って実行しなければならない。

「普門品」では、ある法門がある:瞋恚の心が起きれば、常に観世音菩薩を唱え、敬うべきである。もちろん、我々も六字大明呪を唱えても良い。人と接する中で、先方の言葉や動きによって、そなたの気に障ったら、対面して直接に言ってもいいが、仮に直接に言わず裏で何かをするのなら、瞋恚の心を起すのだ。よくご自身を戒めよう。そなたが考え始めたり、ちょっと不機嫌を感じたり、気に入らない感じが出たりする場合は、瞋恚の範疇に入っているから、この心が起きるとすぐ六字大明呪を唱えるべきだ。常に唱えるとは、永久に観音菩薩の慈悲を覚えることだ。我々は慈悲を学び、瞋恚を学ぶのではない。そなたが進んで、六字大明呪を唱えるようになれば、瞋恚の心が自ずと消滅し、瞋恚の心が滅びると自ずと悪業は起きない。もし、大声の出せるような適切な場所がなければ、心の中で黙って唱えればいい。四臂観音或いはリンポチェを観想しながら、ひたすら黙って唱えれば、こうした不機嫌、気に入らない念頭が消えてしまう。仏典で開示された法門は何れも効き目があり、ただ誰も気づかず、ご自身の方法で修行すればよい。

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2021 年 06 月 14 日 更新