尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示– 2021年3月14日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参列者全員を率い四臂観音修誦簡軌を修められ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を説かれた。

先週の開示で六種震動(ろくしゅしんどう)に説き及んだが、通常は修法・持呪する時に、六種類の大地震動が起こるとされる。仏典では「華蔵荘厳世界海。以仏神力、其他一切六種十八相震動:所謂動、徧動、普徧動。起、徧起、普徧起。涌、徧涌、普徧涌。震、徧震、普徧震。吼、徧吼、普徧吼。擊、徧擊、普徧擊。」とある。ここでの大地震動とは地震ではなく、修法する際に仏菩薩、地神(ちじん)と地母(ちぼ)がご来臨なさったことによって、宇宙のエネルギーに変化が生じたことだ。これについて二通りの解釈があるが、一つは行者の功徳力と慈悲力を褒め称えることであり、もう一つは、長い歴史の中、一部の場所は多かれ少なかれ清浄でなくなる故、修法を通じて磁場が変わり、良くないところが良くなったりすることによって、動いた感じが生ずるのだ。言い換えれば、エネルギーが変動し始めるのだ。

「賢護等十六丈夫(また賢護等の十六丈夫衆と倶なりき。)」即ち仏教で周知される十六の在家菩薩のことである。「所謂善思惟菩薩、慧辯才菩薩、観無住菩薩、神通華菩薩、光英菩薩、寶幢菩薩、智上菩薩、寂根菩薩、信慧菩薩、願慧菩薩、香象菩薩、寶英菩薩、中住菩薩、制行菩薩、解脱菩薩、而為上首。(所謂、善思惟菩薩、慧弁才菩薩、観無住菩薩、神通華菩薩、光英菩薩、宝幢菩薩、智上菩薩、寂根菩薩、信慧菩薩、願慧菩薩、香象菩薩、宝英菩薩、中住菩薩、制行菩薩、解脱菩薩,等にして、しかも上首たり。)」在家菩薩も証果するまで修めれば、上首(じょうしゅ)に据えられる。

仏典での「丈夫」とは、勇ましく修行し進歩を遂げ続け、正道修行で勇猛に邁進して後退しないような人を指す。登地菩薩から八地菩薩にかけては、菩提心を退くことはある。つまり、仏法を修習して衆生を救済しようとする心が退転するということだ。そなたらにしては、退転という言葉を使う資格はなく、懈怠としか言えない。欲求を満たさなければ、仏道修行を放り投げる。大丈夫との呼称は、菩薩道の修行で既に登地し、勇猛精進する行者に使われるものだ。

「勇」は世間での様々な障碍・苦痛を怯えず、ひたすら正道で修行し、八風に吹かれてもびくともしない。修行する中で、好むや好まないことに出くわす時もあるが、これは魔が懲らしめてくるのではなく、ご自身の累世の業力を早めに起こさせるものだ。修行が快適な生活のためなら、仏を学ばないよう勧める。勇とは何だろうか。あたかも兵士が戦場に向かうような気構えで、前から刀剣や槍がやってきても怯えず、勇ましく前に進むのだ。ただし、これは死を恐れずに戦えとの意味ではなく、生活の中で現われた一切の障碍・円満でない出来事に恐れないで欲しいという意味だ。誰もが仏を学べば学ぶほど明るく心満たされ、人に好まれ、金運に恵まれることを望むが、これらは皆間違いだ。この種の欲望や快楽の感覚を求めれば、魔を学ぶことそのものだ。

前も皆さんに教えた「縁に従って過ごし、境遇に従って安住する」のように、良いご縁であろうと、良くないご縁であろうと、すべて自分自身が累世で為してきたものだから、いつか去っていく。良いものであれ、悪いものであれ、我々は仏法の中に安住すべし、欲望に安住するものではない。八風に吹かれてもびくともしない。ある人たちは仏をちょっと学んだだけなのに、すぐ疎遠になる。「リンポチェが教えた仏法は、私が学びたいものではない」とまで言う人もいる。私が教えた仏法は仏典、テキストを引用したもので、欲望の追求や、好ましい相手との結婚成就や、商売繁盛の術を教えていない。

欲を以て引き付けるとは、そなたらの仏を学ぶ縁に従い、そして因果に背かない範囲でそなたを満足して、そなたに三宝に対して信心を起させようとすることだ。最近あった事例で、ある自動車の営業マンが水頭症を患ったが、かつて彼は私に素晴らしいサービスを提供したことがある故、その両親が求めに来たところを、彼は21日後集中治療室から出られると私は断言した。私は彼を加持した上、二晩修法してあげた。彼は給料と手数料をもらっていると思われるだろうが、それは会社からで、私からあげたのではない。仏を学ぶ人の思惟は、一般の人のと違って、人からの恩ばかりを覚え、仇は覚えないのだ。昨日彼が来た時、私は彼に「私が救えるのは一度だけだ」と告げた。この場に居る皆さんと同じように、一度しか救えないのだ。

「水頭症」とは何だろうか。謝という医者弟子は次のように答えた。脳は脳脊髄液を産生し、普通なら脳脊髄液は吸収されるが、脳卒中や頭部に負傷をした人たちに限っては、脳脊髄液が脳部に停滞することによって脳部にダメージをもたらし、正常に機能できる部分を少なくさせたり、ないし癲癇発作、知能低下、脳卒中に至ることもあり、酷い場合では植物人間、認知症、寿命の短縮にもなり得る。

私に帰依すれば、私が全てを解決してあげると思ってはならない。私は法王に帰依しているが、まさかすべてを法王に解決を任せるということがあろうか。もし彼が解決してくれなければ、私は法王を離れようか。率直に言えば、多くの場合は、私は上師に対する十分なる信心を持っているお蔭で、如何なる物事に立ち向かっても勇猛精進し退転せず、上師はきっとご加護して下さると信じているからだ。欲望で仏を学ぼうというのなら、外道へ行くが良い。外道ならそなたの欲望を満たすことができる。

自分は既に充分に良い、子供も話を聞くし、伴侶も順風満帆だと思う頃、そなたはご自身の福報を消耗していることになる。良い事やら、悪い事やらが発生してくるのは、すべてご自身の福報になる。我々は毎日のように、福報を消耗しているが、仏法の修習を通じ、自分自身の欲望を減少・抑制してはじめて、絶えず福報を蓄積し続けることができる。福報が充分な時になれば、たとえ累世の業力が現われても、転重軽受し悪業に歯止めをかけるだろう。例えば、去年、私は既に目に問題があるとわかっていたが、命にまで関わることはない。

釈迦牟尼仏は過去世で既に菩薩の位まで修めたにもかかわらず、何故この一生はまだ六年間の苦行を経験しなければならないのか。彼が王子だった二十年余りは、過去で修めた福報を使い尽くしたから、成仏するための福報を修め戻す必要があった。成仏も福報を必要とするものだ。彼は結婚され子も儲けられ、世間にある事物を享受された。これらの享受はすべて過去世で修められたものだ。かつて彼は兜率天での出家衆であられたが、業力によるであろうと、願力によるであろうと、六道に入られれば、輪廻という苦しみに遭う機会がある。彼はこの一生は裕福な家柄に生まれたことを通じて、現世で修行すれば後世はきっと裕福な家に生まれることと分かる。屠畜業に従事する家庭には生まれない。ある人たちは今儲かっているからしばらく気を緩めようと思われるが、実は福報を消耗するに当たっている。福報は仏菩薩が分け与えるものではなく、ご自身で修めて得られるものだ。

人であれば欲望があるが、人と畜生との違いは、畜生は自分自身に欲望があると知らないことにあり、単なるいわゆる本能に過ぎないとされる。本能こそが累世で齎した習性ではあるが、人は思惟でき、たとえ仏道修行していなくとも自分自身の欲望を知る。動物が飢餓状態の場合は、欲望が重くて命を落としても構わないほどだが、人は欲望を抑制することができ、これを食べたら死ぬと言われると、通常の場合では進んで食べることはない。

法会前に経験を語った弟子の話(詳しくは衆生済度事跡1082号を参照)によれば、自分が苦しいと思い込んでいるようだが、それは彼女は快適な生活が求めたいという欲望があるからだ。息子が起業するお金がないやらで、どうにかして金を工面してあげようとすることなどは、母親として息子を満足させるような必ずすべきことだと考える。上師たる私は、彼女の欲望を満たすように「息子さんは進歩しているよ。彼はとてもいいから、私は助けてあげよう」と言えないことを、彼女に気付かせたり、呵責したりするしかない。私は仏を学んでから、自らの欲望を減少・抑制乃至消滅しているが、そなたらは欲望を増やす一方だ。欲望を追求するなら仏を学ぶ人ではなく勇猛ではないから、聖賢の書を紐解いた学者に勝らない。何故なら彼等は書籍によって得た体得があり、欲望を少なくすることを分かるからだ。仏菩薩は我々を助けるが、欲望減少への努力は我々自分次第だ。

出家弟子なら誰もがこの仏典を唱えたことがあるが、彼等にとって単に唱えるだけで、ちっとも痕跡が残らない。彼等には、この種の疑情(ぎじょう)が生じない理由に、実際に修行した経験を持たず、謙虚の心が起こらないことがある。今さっき紹介した菩薩らの名称についても、彼等にとって名相の一つでしかないのだ。

この仏典は阿弥陀仏について教えられているが、何故釈迦牟尼仏は冒頭に自分自身を紹介されているのか。それは仏だけしか仏の登場を紹介できず、菩薩や凡夫は仏の登場を紹介し得ないからだ。釈迦牟尼仏は数多くの菩薩を紹介し、そして釈迦牟尼仏の後にお出になるのが弥勒菩薩だと言及した。地球では、釈迦牟尼仏は五尊目の仏で、それより前の四尊については紹介されていない。そのため、釈迦牟尼仏は自分がどうやって来たか、どう修めたかを紹介して、後世仏道修行する人にその過程を知らせようとする。釈迦牟尼仏は産道からではなく母親の右脇から生まれたことや、生まれるや否や七歩歩いたことや、生まれた後は裕福な生活を送ったこと、更に修行して成仏になった因縁についても全て綴られている。

前半の部分で大阿羅漢や大菩薩の名号を紹介されているが、これらの大修行者でさえ仏の説法を聞きに来るにもかかわらず、そなたら凡夫は聞かないでいられる理由があろうか。釈迦牟尼仏が仏法を講じる際、様々な比喩を使いこなし、とても生き生きしている。《無量寿経》は釈迦牟尼仏だけしか説きようがない。

経典:「もろもろの菩薩衆右ぼさつしゅみぎめぐりて称揚しょうようせり。」

釈迦牟尼仏が河川を渡ろうとした時に、菩薩がお迎えに来られ、右に繞って称讃された。まさに、2007年に私がラプキ雪山で閉関修行した際、二日目にアキ護法の身の周りにある麒麟に乗られた護法が閉関房の周辺を巡回していたのを見かけたのと同様だ。

経典:「菩薩ぼさつそのとき、 くさけてみずから菩提樹ぼだいじゅしたき、 結加趺坐けっかふざす。」

その時、釈迦牟尼仏はまだ悟りを開かず、仏ではなかった故、仏ではなく菩薩と自称された。この言葉から、仏は戒律を守り、如法であることが分かった。受草とは多くの菩薩が神通力で草を送ってきたことで、釈迦牟尼仏は自らそれをマットのように敷かれた。釈迦牟尼仏が戒律を守ることから、この時まだ皆と同様で菩薩であった故、自ら敷かれたのだ。また、一番適切な厚さは自分だけにしか分からないのだ。

この部分の話では、仏を学ぶ人は謙虚、謙遜でいるべきだと教えられ、法身菩薩まで修めての乗願再来した仏ですら、慎ましやかに言動し個々の要素にも細心の注意を払われる。凡夫であるそなたらを、この一生を以て輪廻解脱を遂げられるように教えれば、もう相済まないところがない。私が六字大明呪を唱える際、数珠一回りしても四回呼吸しかしない。それは、定の中で唱えているからだ。そなたらはこれさえできないのに、メニューの注文かのように、私に願い出られようか。

経典:「また魔衆合囲ましゅごういしてまさに危害きがいくわへんとするをて、 菩薩定慧ぼさつじょうえちからをもつて魔怨まおん降伏ごうぶくし、 無上覚むじょうかくじょうじたまふ。」

成仏するには、そなたと縁のある衆生に助けられる必要がある。仏ですら菩薩に助けられるが、何の理由を以ってそなたが自宅で気ままに唱えれば効果が出てくると言えようか。《地蔵経》曰く、毎日、如法に地蔵菩薩の名号を一万遍唱え、三年間続ければ、付近の鬼神がご自宅を好ましくない事から守るようにしてくださる。如法とは仏間をきれいに保ち、斎戒沐浴(さいかいもくよく)することだ。心がまだ清浄でなく欲望ばかりでいては、たとえ一万遍があっても必ず恭敬心を以って唱えたことにはならない。何の理由で、リンポチェから真言を授かってご自身が家で唱えれば、物事が好転するのか、子供の健康状態がよくなるのか。ただそなたが唱え続けているから、菩薩がそなたを助けるように身の周りにいる護法を遣わしただけなのだ。

危害とは、これらの魔衆は仏がもうじき成仏するのを知って危害を加えようとすることを指すのだ。成仏できないよう、彼の心を落ち着かせないようにする。ここでの魔怨(まおん)は、一旦釈迦牟尼仏が成仏を遂げられたら、魔だった魔衆は釈迦牟尼仏に度されるようになるから、当然のように魔は恨みを生じ釈迦牟尼仏の成仏を望まない。まるで以前私が屏東に行って牡丹社事件の亡霊を済度し切ったことのように、鬼王にとって遣わす兵が居なくなったことから、鬼王の機嫌を悪くさせるのだ。

釈迦牟尼仏が入定された際に、これらの大菩薩は彼を保護し、入定の智慧力で魔怨を降伏した。密法で言えば、息懐増誅という四つの法が同時に修め得られてはじめて魔怨を排除し、仏に妨げないようにできる。ここではどの菩薩がと具体的な名号について言及していないが、前の経文では複数の菩薩の名号が書かれたことに対して何故ここでは書かれないのだろうか。それは密法に関わることだから、この仏典は密法を修めるための仏典ではない故、それについては言及していない。また、密法のテキストは、公の場ではなく、一対一で伝授するものだ。本気で《無量寿経》四十八願を説こうとすれば、一年かかっても足りないぐらいだ。釈迦牟尼仏は末法時代で仏道修行する人に、驕り高ぶってはならない、やたらと戒律を破ってはならない、戒律を一つでも破ったら全ての仏法を失う、と明確に言い付けられた。続いて、菩薩が「定慧」を使われると講じたが、入定あっての清浄なる智慧と本性。釈迦牟尼仏の成仏を成就させたい、助けたいという思いを起すだけで、釈迦牟尼仏の功徳大海に入ったことにより、これら菩薩の成仏への時間が短縮するようになる。

我々は自分で修める必要があるが、ただ自分で修めたらすぐ成仏できると思ってはならない。釈迦牟尼仏は累世で修行を重ね、何世出家したか数えられないほか、地球に来てはまた菩薩に保護されたり、助けられたりしているのに、そなたの自力に頼ることは有り得ようか。アキ護法儀軌を伝授したのは、自分の家を不祥の事から守るためだ。例えば、何故か火事になるやら、通りかかったいたずら霊がお宅では焼香しているところを見かけて寄ってみるとか、これらの事はいずれも有り得るのだ。

アキ護法のテキストでは、護法は正法(しょうぼう)の護持に従事する故、そなたの欲望を満たすようリンポチェに要求するのであれば、護法はそなたを護持しない。例えばある弟子が欲望で仏を学びに来たら、その自宅の仏間が何故か燃えるようになったが、妙なことに他のところに延焼することはないことのようにだ。仏を学ぶとは、仏の思想、行為を学ぶことだ。王子だった仏はありとあらゆるものを持っていたが、宮殿を離れて生老病死を見かけると、すぐ快適な暮らしが目的ではないと分かり、ただ六人の侍従を連れて宮殿を去られた。そなたらは惜しむが、少なくとも欲望の減少に取り掛かるべきだ。

そなたの福報は仏菩薩がくれたものだと思ってはならない。伴侶が言いなりになるやら、生活が快適だと思う時は、福報が使い果たされた時だ。そのことを常に自分自身に言い聞かせるべきだ。上師から教わった方法をすべて実行するものであり、そうしてはじめて未来の福報を蓄積し続けられる。自力に頼れば修められると思い考えるのなら、三大阿僧祇劫が経っても成仏を遂げられない。仏を学ぶポイントとしては、輪廻解脱することだ。輪廻から解脱したいならよく話を聞け。法会を参列して真言も唱えたら、それでよしと区切って、一方では気ままにお好きな生活を送り続けるのではない。結婚をしない、旅行をしないと言うのではなく、ご自分の欲望をよくコントロールしてご自身の心を放逸しないことだ。

「無上覚を成じたまふ。」菩薩が魔怨を降伏して、仏が成仏された。

経典:「梵王勧請ぼんのうかんじょうするに法輪ほうりんてんず。 勇猛無畏ゆうみょうむいにして、」

釈迦牟尼仏が成仏してから、梵王(ぼんおう/天界の大梵天)が最初に転法輪(てんぼうりん)を求めに来たとされ、なお、大梵天はヒンズー教では最上天に当たる。

祈請(きせい)という縁を介さずして、仏は伝法されることはない。故に、法会が始まる前に必ず祈請文を唱えなければならない。法王から私に法を授けるのに先立ち、私は必ず祈請する。多くの人が、私のほうへ、ポワ法を一日も早く伝えてもらうよう伝法を求めに来ているが、ただ、人が違ったら伝法しない、時間が違ったら伝法しない、間違って求めても伝法しない、更に、求めないなら間違いなく伝法しないとする。誰でもご自身の欲望で、自己満足するように求めている。今に至るまで、法王はまだ私に伝法しているが、そなたらは何の理由で帰依して十年、二十年すれば全ての法が授けられるというのか。必ず自分から持ち掛けて祈り求めるべきだ。この法話を通じて、必ず自分から持ち掛けて祈り求めることが分かるのだ。

経典:「仏音ぶっとんをもつて震吼しんくす。 法鼓ほうくち、 法螺ほうらき、」

仏の伝法が始まると、この音を伴う。本物の鼓が叩かれているわけではく、それは天龍八部、ダーカ、ダーキニーが空中から施されたものである。

経典:「大法幢だいほうどうて、 正法しょうぼうともしびともして、 正法しょうぼうおよびもろもろの禅定ぜんじょう摂受しょうじゅし、」

大法幢を建てるとは、仏法が本格的に伝承が始まることを、正法の炬を然すとは、正法が燃焼し始まることを指す。禅は数種類に分けられ、初禅、第二禅、第三禅があり、阿羅漢を修める場合は四果のみになる。大手印を修める場合なら、修行次第が四つあるが、その四つの次第はそれからまたそれぞれ三種類に分けられ、計12種類ある。

経典:「大法雨だいほううあめふらして含生がんしょう沢潤たくにんし、」

大法雨の雨をふらすには、解釈が二通りある。一つは本当に雨が降るのと、もう一つは目に見えない雨が降るのだ。降り注いだところは雨のように見えるが、地面に落ちるや否や吸収されてしまう。昔、私がチベットや青海などに行った時の話だが、快晴の空に一抹の雲が現われ、雪が降っているように見えたが、体に着くや否や消えてしまったものだ。これぞ、法雨を降らすことだ。此の人が正法を修めていなければ、こうした現象が現われることはない。含生を沢潤する。一切の六道衆生は法雨によって潤われるものだ。仏法に潤われるまでは、仏から見て衆生はみな枯れていて、ちっとも仏法を理解していない。よって、仏が仏法を開示する前に、法雨を降らすのだ。

経典:「大法雷だいほうらいふるひて一切いっさい開悟かいごせしめ、もろもろの仏刹土ぶっせつどにあまねく大光だいこうらすに、 」

誅法を修めると、雷鳴がとどろき、地の震動を感じたりする時もあるが、これは仏が雷鳴の音を以てあらゆるものを開悟させるのである。人の心は本来なら清浄ではあるが、累世で為してきたことによって遮られた故、口で説き伏せるだけではなかなか聞き入れてくれない時が多い。雷鳴で少し驚かせたら、驚いた瞬間に、清浄な光が顕露してくる。たとえ顕露したのが短くても、清浄な本性がちょっと顕露したところを、ちょうど仏法の説き広めもされていれば、その一刹那に仏法による潤いとご加護が授かれるとされる。

よって、誅法を修める法会で、雷鳴が聞こえたり、地の震動を感じたりするのは、決して迷信ではなく、すべて仏典にそれが書いてある。密宗がとりわけ凄いわけではないが、ただ実践を遂げたら自ずと現われるものである。仏の境界を遂げたのではなく、少なくとも正法に一致するよう遂げたら、この種の現象が現われる。必ず毎回現れるものでもなく、法会の参列者が誠心誠意かどうかにもよるが、仮に参列者が篤く信仰心がなければ、たとえ仏が現前されても何も変わることはない。

この段落は、大梵天が法を請うようになってはじめて仏が示されたことであり、つまり、法を請うことを無くしては、仏もこの種の兆しを示されないのである。この種の兆しは相応した証であり、「お求めの事に対し、そなたの発した願に則って応える」とする。修法人に兆しが現われるのは、迷信やその凄さを示唆したいのではなく、それは単に彼が正法で衆生救済することから、諸仏菩薩、本尊が行者と衆生との心が相応したことによるのだ。名利がためでなければ相応し、相応すれば兆しが現われる。

何故兆しが現われるのだろうか。人としては感じることに慣れているから、感じが無ければ効いていないと思われるようになる。また、こうした言い方は、仏が伝法輪の時から既に定着しているから、決して迷信ではないのだ。科学面で言えば、仏法がある場所の磁場とエネルギーを震え動かせることは、今さっき私が言ったように清浄でなくなった場所を、仏菩薩が威徳力を以て清めようとする故、エネルギーに変化が生じるわけである。

エネルギーに変化が生じると、きっと幾つか兆しが現われる。電子工学に詳しい方々がご存知の通り、エネルギーの変化に伴って、現象や音などが発生するのと同様だ。だから、決して迷信に縋ってはならない。その迷信から、人が蔭で、雷鳴を轟かせたり菩薩を揺れさせたりするように偽ることも有り得る。私が仏を学ぶ前のある日に、友人から聞いたが、ある場所は霊験あらたかで、もし修行に優れた人が菩薩の聖像の前に立つと、菩薩が揺れると聞いて、私は訪れた。観音菩薩の前に立つと本当に揺れたが、何歩か引いたら揺れが直ちに停止した。私は側面から暫く観察したところ、ある範囲内に立つと揺れ、範囲外になると止まるようになると分かった。何が仕掛けられたかについては、分からない。

それはこの前私が日本で出くわした出来事と全く違う。まず、これは私個人のではなく、日本のお寺で1000年も安置され祀られた、木彫りの仏像であった。この観音菩薩の仏像が前後に揺れたが、電気を通したような震え動きではなかった。あの時、お供だった弟子らも、お寺の住持もそれを見かけた(詳しくは城崎温泉寺弘法紀行を参照)。この現象は仏典では説き及ばれ、《優婆塞戒経》では、修行・持呪がある境界に至ると、真言で仏像に供養すれば、仏像は揺れ、地も震え、優れた匂いが漂うという現象が現われるとある。これは修行での境界の表しだ。何故、良い匂いが漂うのか。それは空気を清めたから、いくら外の大気が汚染されても、ここに入って真言を唱えれば空気が澄むようになるため、そなたらがここに入ったら、自ずと呼吸が順調になるし、体調も良くなるのだ。

経典:「世界せかいのなかのみな震動しんどうす。 魔宮まきゅう摧毀ざいきして波旬はじゅん驚怖きょうふせしむ。」

釈迦牟尼仏、阿弥陀仏の国土だけではなく、一切の仏国土、ありとあらゆる仏の国土に、仏光が普く照らす。世界の中は単なる地球だけではなく、宇宙の中で生きとし生けるものが住むところの地すべてが揺れ動くことだ。仏法と一切諸仏菩薩の光が大地を普く照らし、あらゆる世界の地が震動し、魔宮ですら崩壊され魔王を驚愕させる。

経典:「煩悩ぼんのうしろやぶりもろもろの見網けんもうこぼち、 黒法こくほう遠離おんりしもろもろの白法びゃくほうしょうぜしむ。」

あらゆる煩悩の城を破り、知見の網も破らせる。墮諸見網とは何だろう。一先ず、所知障(しょちしょう)を破ることである。所知障が破れたら、煩悩障(ぼんのうしょう)は比較的破れやすくなる。何故かと言えば、ご自身自ら何の煩悩があるかに気づくからだ。しかしながら、所知障は非常に破り難いもので、いったんご自身の見解が成り立つと、自分が何が正しいかを知っていると頑固に押し通すようになる故、こうした知見を破るのが難問になる。最近ではある弟子がそうだ。こんな自分で何が悪いなんて思う。自分に間違いがないと思う人ほど、自身の知見の網が大きく自分を覆っているのだ。

自分自身に知見があることを、どうやったら分かるのか。自分が正しいと思った途端、すかさず《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》に照らし合わせて、自分が正しいと立証できる箇所があるかどうかを確かめよう。もし、《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》はそなたの身口意と全く違うなら、そなたはご自身の知見、かつ我見に陥ったことと分かるだろう。長く修める人ほど、自分が正しいと思いがち。空性を証せず、我見が重いから、とりわけ魔に好かれる。我見があれば、空性の菩提心を起すのが不可能である故、つい煩悩を起し、次第に輪廻に陥ると、魔を喜ばせる。

寶吉祥は、ひたすら《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》を伝授しているが、それは我見(あらゆる一切の見解)に対応するためである。科学分野で説かれた事は100%正確とは限らないが、多くの人はそれが正しいと思っている。見解を生じた故、物事に対し自分自身の見解を以て推論しやすくなる。例えば人の猿からの進化という説だが、多くの人は信じているにもかかわらず、仏法ではそれは有り得ない話だ。もし、人が猿からの進化であれば、何故まだ猿が存在しているのか。現代科学も矛盾している。人と猿の遺伝子が100%同様ではないが、少しだけ違うとしたら、どうして人は猿に変身しないのか。遺伝子が変異するとしたら、遺伝子が僅か0.1%違っては、猿の後世はなぜ人間に変身しないのか。矛盾極まりない。これが見解なのだ。推論では、猿が北アフリカから歩き出して、ある場所を通過したところ、人類に変身したとされている。聞けば聞くほど突飛に感じる。何故なら、仏典ではそう書かれていないからだ。仏典では、六道衆生は業力によって生まれ、この世が人ではあるが、後世は人になるとは限らないとある。この一生で為されたことが畜生っぽく、因果を信じなければ、後世は畜生になるとする。

この一生、事を処するに当たって慳貪を貫き、供養・布施を出し惜しむと、後世は餓鬼道に堕ちることになる。全ては自分自身が為したことに起因するのであって、何かからの変身ではないこと。これが、知見そのものだ。分かりやすく、こう言い換えよう。簡単に言えば、ある事柄について、そなたはもともと同意ではなかったが、誰かが説得するよう言い続けると、そなたの知見もその流れに従い、ついにその言い方に賛成するようになる。例えば、ある主義について、この主義がいいやら、あの主義が悪いやらと、そなたが主張している。だが、先方はあの主義なら彼にとっては良いが、そなたが受け入れないだけだと思うのも、いわゆる知見だ。

いったんこの種の見解が起きれば、なかなか抜け出せない。まるで中華圏では男尊女卑という概念を持ち、地域によっては、こうした考え方がまだ深く根ざしている。息子なら財産の相続ができ、娘なら分与ができないかもしれない。私の弟子の多くは、こんなことに遭っている。これが知見だ。お金は嫁いだ人にではなく、家に留まった人のみ分け与える。知見が起きると、なかなか変えられない。それ故、帰依した仏道修行に励む人として、《仏子行三十七頌(三十七の菩薩の実践)》が身口意にとって非常に重要だと弁えるべきだ。

「遠離黒法生諸白法。(黒法を遠離し、諸の白法を生ず。)」そなたを輪廻に落ちさせる如何なる事や話した事を黒法という。それに対し、衆生利益や自分自身を輪廻から解脱させる一切の事を白法という。仏の現われがあっての、遠離黒法生諸白法とのお教えだ。白法はわけもわからず手に入った物ではなく、必ず予め黒法を遠ざけておかなければならない。つまり、帰依した際に言った「諸悪莫作、衆善奉行」のように、ちょっとした悪があれば、善は現われない。ひたすら観世音菩薩を称名すれば、菩薩に守られると思ってはならない。悪があるから、守られない。

「諸悪莫作、衆善奉行」が大事だ。諸悪莫作とは、念頭だけ起こしてもできず、衆善奉行とは、一切善の方法を実践すべきだ、たとえ成し遂げられなくても信じるべきだと教えている。好き勝手なことをしてはならない。「とりあえず、やろう。のちに、リンポチェに懺悔すればいい」なんて思うと、もう手遅れだ。昨日、ある弟子が会見を求めに上がったが、その息子は健康状態が善くないと、なんだかんだ言った。弟子が供養を捧げようと手を伸ばしたところを、リンポチェの身の周りの侍者もそれを受け取ろうとしたが、彼が侍者が寄ってきたのを見た瞬間、手をそっぽに避けた。何故かと言えば、まだ言い残しがあって供養しないのだ。こんな動きは正しいと思うか。

だから、昨日私はこう言った、「そなたは仏道修行のために帰依したのではなく、私に方法があると知って帰依したのだ。そなたは供養する心すら持っていない」。だが、彼は彼の話を最後まで聞くよう私にさせてから、はじめて供養するのだ。

昨日、もう1人が「リンポチェ、私は大法会に四、五回参列しました。」と言った。私はそれはいいことだと答え、「善哉善哉!」と言うところだった。続いて彼が「リンポチェ、私は歯のインプラント治療中につき、歯が痛くて食欲を失って瘦せました。私が痩せないように、リンポチェに求めたいのですが。」こんなちんぷんかんぷんな口の聞き方でやってきたのだった。インプラントで痛かったら歯医者に聞け。食欲がなければ漢方医に聞け。更に食べられないなら西洋医に聞くと良い!こんなことで私に聞くなんて、全く手に負えない。それどころか、私を脅かした。大法会に参列したことがあるから、助けなくてはならないと。

昨日、後もう1人もそうだった。その妻が心臓大動脈解離を患った。彼に「そなたは信じていないではないか」と私が言ったところを、彼が「私は大法会に参列したことがあります」と答えた。何故、信じていないといえるのか。彼は様々なところを走り回って、数多くの医者に駆け込み、途方に暮れた結果、私のことを思い出した。私は「そなたの奥さんに福報があれば、取り付きから私のほうに来ているはずだったが、今になってやっと私のことを思い出すことはあるか。そなたにとって、私は膨大な薬の中の一つに過ぎなく、効くか効かないか試すだけなのだ。」と言った。だが、私は彼を少し加持した。理由は「彼は何回か大法会に参列したことがある」ということだ。

私は今、ある深刻なことに気づいたが、多くの弟子や信者が、私の主催した大法会に参列すると、私は必ず彼等のために出来事を取り計らわなければならないように思っていることだ。まるで私が彼等に借りがあるようにだ。そなたらが私の大法会に参列しても、私は一銭たりともお金を徴収しないうえ、皆のために修法をしてあげている。これで、まだ皆さんに借りがあるというのだろうか。況して私はお金を出している!これらの信者は何れもそなたに誘われてきたし、彼等だけではなく、こう言った人がまだ多くいる。

大法会に参列して私と知り合うようになると、私が彼等に借りを作ったと感じてしまい、彼等の事なら、私は必ず対処してあげなければならないと思われる。このようでは、私は疲れる。大法会ごとにはっきりと言うように、私は皆さんを阿弥陀仏と縁が結ばれるよう助けることに当たるが、今後修めるかどうかはご自身次第だし、その上、皆さんにおかれても外には道場がこれだけあるのだから、どうぞ行きなさいと申し上げている。

用事があるのに、指示を求めさせないと言っているのではなく、ただこれを一種の売買のように見なさないよう、まるで私が彼等に借りがあるように感じたり、助けなければならないと思わないようにして欲しい。彼等はてっきり自分の法会への参列という事実に照らして、彼等の参列あっての法会だからと考え、私が彼等に借りがあるように感じる。

必ず正信(しょうしん)する人を誘えと言っているのではないが、少なくとも彼等を分からせるよう少し話したりする必要がある。リンポチェは必ずそなたからの願い出を受け付けるが、こう苛めてもいいのではない。もし、これを口にしなければ、一般信者に対して私は助けるが、ただ「大法会に来たことがあるから、助けなければならない」という態度は取らないこと。ご縁が無ければ、信心が無ければ、どう助けようというのか。

これが諸見網である。彼らは、私は行者として慈悲でいられ、何もかも解決してあげられると思っているが、これが知見だ。一つ分かって欲しいことがある:リンポチェは命がけで皆を助けられ、何かがあったらきっと解決してあげられるが、それに対して、そなたらは必ずリンポチェが仏道修行しているから苛めやすいと思わないこと。こうした観念を持ってはならない。他人に対してこんな仕打ちはしないものの、何故私に対するならできるのか。私が慈悲だからなのか。

私の慈悲はそなたらに対するだけではない。先週、ある女性弟子が往生され、その娘は香港から電話がかかってきたところを、すかさず私は彼女を加持した。癌を患ったら、死ぬ前は苦しいに違いない。事切れるまで痛みが伴う。だが、彼女が私の帰依弟子であるし、その娘が自ら電話をかけてきたのだから、一切の苦痛を免れるよう、リンポチェが加持したら、弟子が穏やかな最期を迎えた。彼女は介護員に、リンポチェが助けに来る、迎えに来てくれると言った。彼女は修めていず、ひたすら信じるだけだが、死に際には苦しまなかった。癌は苦しい病気だ。如何なる癌患者も、死ぬ前は苦しい。最後の一息まで痛まない可能性はない。多くの癌患者を診た謝という医者弟子から、ちょっと説明してもらおう。

謝という西洋医弟子がこう述べた:正直に言って、癌は医療行為の範疇でまだ理解し兼ねる病気で、とある現象としか言えないぐらいだ。癌が増殖分化する過程で、骨、脳部、肺や腸など、至るところに転移するほか、転移する途中で神経系に障ったら、折れることや圧迫することになり得るし、或いは放心状態になる。また、肺にたどり着くと肺水腫になり、呼吸もできない状態だ。こんな痛みはとても堪らないものだ。痛みが起きて、痛み止めにモルヒネを投与する際も、それなりの体積があって体への圧迫による苦しさは、あらゆる薬品も解決し得ないものだ。現段階では、患者が気絶になるまで、強力な癌剤を投与しても、患者は依然藻掻き続け、そのこわばった表情は、まともに見ていられなく、切ないものだ。

続きにリンポチェが開示された:何故こうなるのか。それは、この亡者に死に際の煩悩心を重くさせ、心を散乱させるためだ。心が乱れると、上師や仏菩薩のこと、そして自分が唱えた真言を忘れるようになる。その苦しさから解放するよう、リンポチェが加持したのは何故なのか。彼女を悩ませない、心が乱れないよう、そしてリンポチェを忘れないようにしてはじめて苦痛から解放することができると同時に、瑞相(ずいそう)もすぐさまに現れる。

だから、誰も私を苛めないように。私を苛めても、私は苛め返すことはないが、アキ護法はそなたを見つめ始める。私たち皆は在家衆で、どうして目上の人を苛めようというのか。言い換えれば、私が約束したのに、すっぽかしてしまったら、そなたは少なくとも不満は抱えるだろう。また、そなたは「今日は無理になったが、明日にしよう!」と言うだろうが、結局翌日は電話は一本も掛かってこない。どうなるのか。信用を失ったに違いないだろう。

そなたらもご自分の子供が信用を失うことを望まないだろう。もちろん、今後私もこの人を信用しない。何故なら、口任せに言うからだ。彼には一つの知見を持っていて、それは商売するには、不満を我慢して事を丸く収めるべきだということだ。本当はそうではない。金持ちは神様ではない。リンポチェがどこへ消費に行っても慎ましやかでいる。人がサービスしてくれているからだ。そなたの良さを覚えさせるものだ。全ての人が私のように、仇を覚えず恩を覚えるタイプではない。一般の人は仇ばかり覚え恩を覚えない。

社会でちょっと名声やお金や地位があったりするから、跋扈になったり信用を守らなかったりすると思ってはならない。そなたのことを恐れるのではなく、ひょっとしたら今後ご自身にとって不利になるだろう。そなたらが跋扈にならないよう、威張らないよう、私は店を経営している。金持ちだったら偉いのか。人が商売するには、コストはかからないのか。サービスが提供できるように、人員を訓練しないのか。もし、我々は消費に行く福報があったら、人に給料が得られるようにさせられると、これも供養と布施ではなかろうか。却って、ご自身に福報が得られるのだ。

仏を学ぶと、一般人との生活、思惟モードと多少違うところがある。仏を学ぶ者は全てを惜しまないことを知っている。惜しまないとは、金銭を湯水のように使えというのではなく、サービスを提供してくれるあらゆる人に感謝の心を持つべきことだ。人は給料が支給される以上、サービスを提供すべきだと思ってはならない。その給料はまずそなたからのではないことと分かるべきであって、またそのオーナーが赤字を背負えるかどうかは知れることではない。例えば、私の経営している傘下の旅行会社は、去年は疫病で一銭も取引していないものの、私は社員への給料をちっとも減らさず、以前の収入でこれらの社員を養っている。

仏を学ぶ者としては、考え方を狭くして自分のことしか考えないようではいけない。まるで釈迦牟尼仏が既に成仏され、煩悩がないのに、梵王が求めに来たらすぐにも伝法輪を再開するように、自分をわざわざ苦労させる気か。何故なら、釈迦牟尼仏は出すだけしかなく、もらうことはないからだ。たとえ現在我々は仏の境界を成し遂げられなくとも、少なくとも仏の方法を修習すべきである。ご自身の能力範囲内でできるだけする。一句の良い話も布施、供養に当たる。終日、鬱憤でいっぱいで、偉そうに見せかける感じで暮らさない。そうなったら、社会、国家はお終いだ。

経典:「ぶつにおいてじきほどこすをよくけよくし、 衆生しゅじょう調ととのへんがために妙理みょうり宣揚せんようす。」

仏の衆生に対する施食(せじき)とは、我々の目に見える物質的な食べ物ではなく、仏法を以っての施食を指す。衆生に仏法を味わせることを通じて飽満(ほうまん)な状態にする。飽満は満腹とは違って、彼等には元々仏法がなかったことを指すのだ。例えば、私が施身法を修める際、来てもらった衆生にとってはそれが食べ物だが、本当は食べ物ではなく仏法であった。衆生から見れば食べ物ばかりで、満腹すれば聞き入れ、こうしてはじめて済度を受け入れるようになる。仮に、布施した食べ物が衆生にとって食べ心地が良くないものだと思われ、それを進んで食べない限り、済度はされない。

仏の空性慈悲による如何なる動きも、衆生に煩悩や知見を断ち切らせるためである故、仏陀は様々な方法を採る。仏が施食するのは、仏が衆生にご馳走を作るためではなく、神通を通じて餓鬼道、畜生道で食べられる食べ物を布施することである。布施してからやっと、受け入れられるし、消化できるのである。

「能く受け入れ、能く消化して、衆生を調えんが為に」がポイントである。衆生が受け止められようか、飲み込めようか。例えば、大量な供え物を用意したとしても、霊は匂いは匂えるが、決して食べられたり、飲み込めたりすることはない。何故なら、呪文でのご加持を無くしては食べられよう、飲み込めようがないからだ。まるで施身法で私自身の体を衆生に食べさせることのように、もし修行を通さなければ、彼等はそれを食べられようも飲み込めようもない。どう飲み込むのか。つまり、衆生が食べた食べ物の中身はすべて仏法であって、それが彼等の欲望の中に入ると、欲望を全部消し去り、欲望がない限り仏法が聞こえるようになる。もし、私が施身法を知らず、修行の経験も持たなければ、この一句はとても解釈しようがない。

衆生を調えんとすというのは、衆生が話を聞かず、執念深い心を調伏してはじめて仏法を受け入れるようになることだ。妙理を宣揚すというのは、衆生がそれを食べたら瞋恚の心が消し止められ、跡形もなくなると、清浄な本性が自ずと現われるようになり、それではじめて仏法が聞き取れるようになる。そして仏法を通して済度されるようになる。もし、六字大明呪を唱えた際、自分自身の息子だけしか念頭にないならば、それではその冤親債主はどうするのか。冤親債主に廻向できると思うのか。冤親債主はそれは受け入れられない!何故なら、瞋恚の心、怨念、貪りと、身の程を知らずという心を用いて唱えているからだ。

何故、施身法を修める人がこんなにも少ないのか。それは、いったん布施したら、衆生がそれを飲み込めないなり、受け止められないなり、済度されないなり、喜んで離れようとしないなりとなると、きっと至るところが霊でいっぱいになるようになる。私は1997年から施身法を修め始め、2005年に道場を創立してこの方、月に一回の頻度で施身法を修め、毎回無数の霊が入ってくる。仮に、彼等を済度し切らず、一人でも残っていれば、きっとそなたらも堪らないだろう。そなたらが連れてきたのは、すべてそなたらに傷づけられ、憎みがましい衆生ばかりでいる。この一句を聞いただけで、この場に居る何方も、やり遂げられないことだろう。

私が成し遂げられたのには、他に法門がなく、ひたすら話を聞き、信じて実践してきたことがある。言い伝えでは、ポワ法を修めると寿命が短くなるというが、長寿であれ、短寿であれ、少なくとも私は74歳まで生きている。よって、仏典で説かれたことは間違いなく成し遂げられ、絶対に真理である。成し遂げられないのは、ご自身が自ら進んで実践しないからだ。これ以上「これが私の学びたい法ではない」と捏ねない。リンポチェが教えたすべては仏典によるものであって、自分で発明したものではない。仏典では立証ができれば、これ以上「リンポチェが教えた仏法は私が望むような物ではない」と言えない。もちろん、それはそなたが望むようなものではない。何故なら、そなたの考え方や知見を満足させようと考えないから、もちろんそなたが望むようにならない。

仏典を説くというのは、単に文字を以って解釈することではなく、ご自身に修行経験を持たずにしては、その句は解釈し得ないのだ。私の場合は、毎月のように施身法を修めていることを通じて、自分自身にある考え方に則らず、仏陀のお教えになった正法で、物事を進めれば、自ずと衆生が受け止めるようになると、はっきりと分かったのだ。また、ひたすら施身法を修め続けるにもかかわらず、済度を受けに来る亡者が絶えないのは何故か。それは、諸仏菩薩が探し集めてくださる流れの中で、私がこの道場でこの法を以って衆生利益することを成就させるようになることだ。これも、あらゆる菩薩が釈迦牟尼仏の成仏を成就させるのと同じ道理である。寶吉祥というこの道場がよく修められるかどうかは敢えて言わないが、少なくとも正法という方向に進んでいると言えよう。そのうえ、そなたらの為にも多くの事を為している。

この先、《無量寿経》では、菩薩はどう修行するかについて教えられ、次回、続いて開示しよう。

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2021 年 06 月 14 日 更新