尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年03月07日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参列者全員を率い観音法門簡軌を修められ、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を開示された。

リンポチェは弟子に仏経を配るように指示されたが、指示を受けた弟子達が自分が細心の注意を払っているかを見せびらかして、素早く配らなかったので、リンポチェは弟子達が簡単で素早いやり方で配っていないと叱り、配る事をやめさせた。

リンポチェは開示された:多くの者は『阿弥陀経』を読んだが、何故また『宝積経』の「無量寿如來会」を紐解かねば成らないのか?無量寿如來第五会の一、この会は法会を指し、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏が王舍城で法を5回説かれたと紹介された。無量寿仏は阿弥陀仏である。他の仏は阿弥陀仏の様に大きな願いを発さなかったので、釈迦牟尼仏は常に阿弥陀仏を紹介される。あなた方は阿弥陀仏法門は簡単だと思っていて、読めば浄土に行く事が出来、済度されると思っているが、菩薩道を修める角度から見ると、これ等の考えは正しくない。第一会の内容はあなた方に菩薩はどうやって供養し布施するかを説くが、あなた方はことごとくそれが出来ていない!

仏経を説くのは学んだ仏学がどれくらい深いかを説明する為ではなく、私の修行経験を透して、かって釈迦牟尼仏が開示された方法をあなた達に伝え、修行とはあなた達が想像するような、気に入れば多めに読み;気に入らなければ少なめに読むか読まない;気に入れば法会に参列し、気に入らなければ来ない、ではないという事を分からせる為である。もし固い信心が無ければ、仏を学ぶ事だけではなく、あらゆる事もうまく行かない。信心とは自分が出来るか否かを信ずる事ではなく、あなたが三宝と上師が教え導いた事を信ずるかどうか、やれるかどうか、法の如くやれるかどうかであって、それをわかって了解してから始めるのではない。

何日かまえ、法王は口伝でひとつの法を私に与えた。チベット語で四時間も口伝され、私は今でもまだ習っている。儒家思想では「學海無涯」と言い、仏家思想では「仏法無辺」言う。一人でも衆生がまだ輪廻していれば、我々は仏法を学んで彼が輪廻から解脱するのを助ける。仏果を証した後、始めて無修になり、全てを修め終え、修め足りたら、特に修める事はなくなる。

仏経を開示するのは、あなた達に軽く見るような心で仏を学んではいけないし、好きなままにやればいいと思ってもいけない、という事を分からせる為だ。私は何時も強調しているが、私は必ずあるときこの世を離れる、その時が来ればあなた達は私を見つけ出す事ができなくなる。私は命で以って仏を学んでいるが、あなた達は皆リンポチェに頼りきっている。あなた達は私がいる間に仏法に精進し学ぶ努力をせず、ひねもす心のいくままに振舞っている、それでは法会に参列しても無駄だ。法会に参列する事は、ただあなた達に修行する因縁が有るように手助けし、それで続けて仏法を学ぶ福報を得られるようにするだけで、世間の事柄を解決するものではない。

あなたの問題は、あなた自身が世世代代作り出したもので、この一生であなたはそれを受け止め、向き合わなくてはならない。これ等の問題は一朝一夕で解決できるものではなく、長い時間がかかる。忍耐強くない人は仏を学ぶ事ができない。忍耐強く過去に作った一切の業報を自分で受け止めるべきだ。これ等は全て自分で作り出したものだ。

再び懺悔をしに来るな、あなた達は自分がどれだけ悪業をしたか信じないだろう、もし全てがよければ早々と仏になっている、また来る必要など無い!釈迦牟尼仏は49年も法を広め、毎日法を語られた。それは衆生の色々な業力は千緒万端で、たとえ同じ父母で、双子であっても、其の業力は同じく無いからだ。

我々は聴きいれ、上師の教える仏法を受け入れるべきだ。今日は駄目でもそれが出来ないなのではない、必ずいつか出来る、あせらない事だ。どれくらい業を犯したか自分が最も知っている、過去世とは言わず、今世だけでも多いだろう。多くの者が自分は物を盗んだと懺悔しているが、それ等は小さな業だ。多くの者は心の中で誰かを恨んで、他人が悪いと思っているが、それも業だ。多くの者は:「彼にどんな報いが来るか見ておれ」と言うが、これが悪念だ。あなたは他人を罵っている。我々は仏法で他人を非難する資格などない、我々はただ他人に言い聞かせるだけだ。

今日開示するこの仏経は、あなた達に仏経を聴ける事は簡単ではないという事を体得させるためだ。経典には「大唐三藏菩提流志奉 詔譯」と書いてあるが、この経典が皇帝の命を受けて翻訳された事を表している。大唐とは唐朝であり、唐朝の言葉は我々今の言葉と違う。文字は分かっても、その意味が分からない。使う名詞、形容詞は現代と違う。ある者は文字が同じなので、現代の考え方で仏経を解釈するが、そうではない。だから修行経験のある上師が仏経を開示する必要があるのだ。

この経典を開示するのは、阿弥陀仏が成仏されたのは、簡単ではなく、容易でもないし、やり遂げるのは幾人も居ない事をあなた達に知らせる為だ。仏を学ぶとは仏法を学んだ後、自分の名詞を創造する事ではなく、あなたと縁がある仏の願力を学び、どれくらい学べるか努めて学ぶ事だ。阿弥陀仏は四十八の願を発したが、それは法身菩薩を証し、あと少しで仏果を証する時発した願なのである。

阿弥陀仏の願力はとても特別で、発した願は全て六道の一切衆生を済度する。凡夫が発する願は、出家することさえ自分の為だ。かって有る者が願をもう二つ加えて五十大願にすると言った。法身菩薩でもないのに、何を根拠にこの様な願を発する?しかも仏の一つ一つの願には、「もし出来なければ、私は正覚を取らじ」、即ち成仏しないと付け加えておられる。あなた達は出来なければ如何すると言い切れるか?

あなた達が今出来なければ、諸仏菩薩と上師が発した願の通りにやれば好い、新しい願いなど発明するではない。四十八願はすでにあらゆる諸仏菩薩の願を包括している。弥勒菩薩が成仏する前に、地球には別の仏は存在しない。ならば何を以って新しい願を発する?あなた達の願は全て口先だけだ。それはまるで恋人同士がお互いに海が涸れ、石が溶けるまでも愛しますと誓っているようなもので、この様な願は出来っこない。あなた達が仏菩薩に発する願もこの様なもので、誓う先から目の前を過ぎる雲や霞のように実行しない。「私は菜食しますから、病気を治してください。」これは民間信仰の願だ。阿弥陀仏四十八願は一つとして自分の為のは無く、全て衆生の為であり、衆生を助けるものだ。あなた達は余りにも間違っていて、一日中自分は信願行を実行していると思っているが、菩薩果位に達していないのに、何処に願力があるのだ?我々が出来るのはおとなしく話を聴き、言われたとおりに行うだけだ。

前に大修行者ミラレーパが言われた:「歴代の上師が修めるべき法を全て修めた、後の者は言われるままにやれば好い。」何も仕出かさなくて好い。仏法には革命が無い、革新の二字も無い。ある者は仏法は何千年も前のことなので、一部分のやり方は現在に当てはまらない、故に革新すべきだと言う。仏の言葉は円満で智慧に満ちている、あなたが革新すると言うのは、仏は間違っていると言う事だ。仏は間違うか?何千年も前に仏は万事万物の道理を徹底的に話された。我々は只其の通りに行い、変えるべきではない。我々は言い表す言葉を変える事は出来るが、内容を変えてはいけない。変えてしまうと其れはもう仏の話した仏法ではなく、あなたのだ。しかしあなたは仏でも、菩薩でもないので、変えるのはもってのほかだ?

多くの者が自分が出来ないので変えたいと思い、何とか名目を立てて教派を創立する。新しい宗派など出現するはずは無い。いかなる上師も伝承が無ければ其れは偽者だ、いくら自分で悟りを開き修めたと言っても全て偽者だ。もし伝承なくして自分は上師だと言う者が居れば、あなたは早々と離れなさい。

リンポチェは出家弟子に皆を引率して『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を読むように命じた。一段落するとリンポチェは引率をしている出家弟子に其処で止まるよう命じたが、続けて読む弟子もいた。

リンポチェは叱った:まだ読んでいる者は耳を塞いだのか、自分で読経に専念して、引率の出家弟子を構わず、読経が止まっても気がつかない。耳が悪いのか、目が悪いのか、それでどうやって仏を学ぶ?これ等の者は自分で読み、自分で修めれば、それで修め得ると思っている。それは大間違いだ。

大宝積経 卷第十七
大唐三藏 菩提流志 奉詔訳
無量寿如來会 第五之一

経典:「かくのごとくわれきたてまつりき。」

仏が仏法を開示なさる時、弟子は筆記等しなかった。仏が涅槃された後、五百の阿羅漢が禅定の中で仏の開示された内容を書き出した。故に仏経の第一句は全て「かくのごとくわれきたてまつりき。」で、かくの如く我考えたりや、かくの如く我発明したりではない。仏法は一句でもあなた達が考え出したのではない。現在仏が居られないので、当然上師が法を伝える。先日法王が法を私に伝えた、丸々四時間かかった。あの経本は法王しか持っていない、部厚い一冊の経本だ。法王はチベット文で伝法されたが、私はチベット文が解らない、それでも四時間正座した。法王は苦労して四時間も読まれたが、それでも読み終わらなければ成らない。何故?それは上師の口伝を通して、始めて加持され、始めて伝承されるからだ。あらゆる経典は口伝され、上師が一度唱えてから仏経を読む。たとえ出家衆が引率して読んでも、私が開示するとき一句一句唱える、それが口伝だ。

あなた達を引率して唱えるのはあなた達の好奇心を満足させる為だ。あなたを一寸動かして眠気を覚ます、そうでもしなければあなたは聴いても解らないし参与感も無い。ところがあなた達はだんだん興奮して声が大きくなる。大声で読むと解るのか?出来るのか?もし修行経験がある上師が仏法を開示しなければあなたは知る事がないだろう。

「かくのごとくわれきたてまつりき」とは、あなた達が修行する法門は、絶対にあなたが唱えて得たのだとか、修めて得たのだとか、菩薩に会ったとか思ってはいけない。もしあなたの考えに間違いがなければ、仏経には「かくのごとくわれきたてまつりき」の句は無く、「かくの如く我考えたり」とか、「かくの如く我唱えたり」と言うだろう。チベット仏教はとても厳しく、故に一つ一つの動作は全て釈迦牟尼仏が伝えた伝統によって執行されているからだ。よく他人に仏経を読むように勧めるものを見かけるが、信者が最近体の具合が悪いと言って来れば、大丈夫だと言い、帰って観世音菩薩をよく唱え、『薬師経』をよく読み、『地蔵経』をよく読めば、鬼は来ないと言う。だが口伝もせず、解釈もせず、お経を持ち帰って読むだけ、はっきり伝えていないので、肉を食する者も読み、一日中他人を罵っている者も読んでいる。これでは仏を誹謗したのではないか?いい加減に仏経を読むように勧めた者は、自分が悪業を犯した事も知らない。

仏法はいい加減ではない。間違った人には伝えないし、間違った縁にも、間違った場所でも伝えない。経典に曰く、「末法時代には経典でさえなく、残るのは只阿弥陀仏の一言だけだ。」誰もが仏経を見くびり、この文字がわかれば解ると思っている。多くの者が家に多くの仏経を持っているが、本当は見ても分からない。修め得ず、自己の考えで仏経を解釈し、自分が分かったと思う部分や自分に有利な部分だけを取り出して修めていて、その他には関わらない。

すべての仏経は「かくのごとくわれきたてまつりき」から始まり、始めから仏法は必ず聴聞するもので、只聞き流すのではなく、集中して聞かなければならないと告げている。あなた達は入定する資格がないが、もし別の考えが出てきたら、すぐ引き戻すのだ。心して聴き、聴いて分かるのではない。少し前、ある出家弟子が他人の為に23冊の経本を読んだと臆せずに話していた。経典は読むものではなく、受持読誦が其の第一歩だ。受持とはこの伝承を受ける事を指し、仏経にある一切の戒律、言葉をしっかり保つ事だ。読誦とは声を出して読み、心して読むことだ。

「かくのごとくわれきたてまつりき」の句はあなた達を打ちのめした。あなた達はすべてかくの如く我読んだ、かくの如く我了解しただ。大阿羅漢でさえ「かくのごとくわれきたてまつりき」で、自分ははっきりさせるとは言っていなく、只入定して釈迦牟尼仏が話された話を書き留めただけだ。

経典:「ひと時仏ときぶつ王舎城おうしゃじょう耆闍崛山ぎしゃくっせんのうちにじゅうしたまひて、 大比丘衆万二千人だいびくしゅまんにせんにんともなりき。 みなこれもろもろの大声聞だいしょうもんにしてしゅ知識ちしきせらる。」

経典では最初に釈迦牟尼仏が説法をされた由来、参加者を説明している。仏は閉関された場所ではなく、王舍城耆闍崛山中で説法をされた。この段落では仏が仏法を開示された時、12,000名の大比丘が居られた事を指す。大比丘とは一度も比丘の戒律を破った事がなく、よく比丘戒を守り、仏が行く所についていく。仏の傍には最少1,200名の弟子が居り、説法されるときは12,000名が参加した。

これ等大比丘は皆声聞を証している。声聞縁覚はすでに阿羅漢道を修めている。もし声問衆であれば、すでに初地の阿羅漢果を証していて、世俗の出家衆ではなく、修行し、果位がある者だ。

此処で「所知識」を用い、善知識でないのは、これ等12,000名の大比丘はすでに知識を修めている。では何故また仏法を聴聞するのか?それは彼等は阿羅漢道に限られ、大乗仏法ではないからだ。

経典:「その尊者阿若憍陳如そんじゃあにゃきょうちんにょ馬勝めしょう大名だいみょう有賢うけん無垢むく須跋陀羅しゅばつだら善称ぜんしょう円満えんまん憍梵鉢提きょうぼんはだい優楼頻蠡迦葉うるびんらかしょう那提迦葉なだいかしょう伽耶迦葉がやかしょう摩訶迦葉まかかしょう舎利弗しゃりほつ大目揵連だいもくけんれん摩訶迦旃延まかかせんえん摩訶劫賓那まかこうひんな摩訶注那まかしゅな満慈子まんじし阿尼楼駄あにるだ離波多りはた上首王じょうしゅおう住彼岸じゅうひがん摩倶羅まくら難陀なんだ有光うこう善来ぜんらい羅睺羅らごら阿難陀あなんだらといひ、 もつて上首じょうしゅたり。」

上首とは上座に座っていて、比丘、阿羅漢全員の頭を指す。彼が首領と言うのではなく、これ等の人々の果位が他の人より高いので、上座に座っている。

経典:「また菩薩摩訶薩衆ぼさつまかさつしゅあり。いはゆる普賢菩薩ふげんぼさつ文殊師利菩薩もんじゅしりぼさつ弥勒菩薩みろくぼさつおよび賢劫げんごうのなかのもろもろの菩薩摩訶薩衆ぼさつまかさつしゅにして、 前後ぜんご囲繞いにょうせり。また賢護げんごらの十六じゅうろく丈夫衆じょうぶしゅともなりき。」

賢劫の中とは仏がまだ居られた時、すでに菩薩に成られた大菩薩も来られた事を指す。仏の前後を囲む。「また賢護等の十六丈夫衆と倶なりき。」この句は私も分からない。調べてみる。

経典:「いはゆる善思惟義菩薩ぜんしゆいぎぼさつ慧弁才菩薩えべんざいぼさつ観無住菩薩かんむじゅうぼさつ善化神通菩薩ぜんけじんずうぼさつ光幢菩薩こうどうぼさつ智上菩薩ちじょうぼさつ寂根菩薩じゃくこんぼさつ慧願菩薩えがんぼさつ香象菩薩こうぞうぼさつ宝幢菩薩ほうどうぼさつらにして、 もつて上首じょうしゅたり。」

皆で普賢菩薩の修行の道を遵守する。普賢菩薩は頭についた火を消す思いで急ぎ仏を学んで居られるが、あなた達はどうだ?まるで横たわっていて、何もせず、只上師に頼っているだけだ。あなた達が私に頼るのはいいが、死ぬ前には必ず苦痛を経験する。あなた達は精進し、努力したか?昨日ある弟子が往生したが、彼はあなた達と同様に横たわっているが如く、気に入れば1000,2000回唱え、気に入らなければ休み、時たま現れては小さな供養をする。これは普賢菩薩の大願ではない。

普賢菩薩の乗り物は象だが、象は力持ちだ。つまり象のような力を以って仏法を学んで、始めて生死を解脱する機会がある。仏を学ぶには大きな決心が要る。この弟子は癌で出血した為検査したが、医者の診断ではヘモグロビンはまだ足りているので大丈夫だと言う事だった。だが、家に帰りつくと、入り口で転び、再び病院へ戻ったが、大出血を起こし亡くなられた。しかも苦痛を経た後に。これは仏菩薩、護法、上師が効かないのではない。私はとても効く。

ある車のブローカが脳出血を起こしたので、彼の父母が助けを求めに来た。私は持呪加持を終えてから21日後に集中治療室を出ると言ったが、本当に21日後集中治療室を出て一般病棟に移った。この人は私の為に仕事をした事があるので福報がある。あなた達弟子の誰か私の仕事をした者が居るか?ただ気の向くままにちょっとするだけだ。別に気に掛けてはいないが。それはあなた達の事だ。我々が生生世世作った業力は、一寸唱えただけでは解決しない。もしこれで解決出来れば、私は早速手を上げて法王に:「私はもう修行しない。」と言うだろう。一日中法王に頼りっきりだ。毎日法王に謁見し、法王に供養し、法王に加持を求めている。しかし私はこうして居れない。

多くの弟子が父母を私に押し付けてくる、私が「父母を連れて来なさい、でなければ以後済度してやらない。」と言ったからだ。私に会った事があれば、私は彼を済度するであろう、ただ、済度しても高い天界には行けない。あなた達は仏を学ぶ努力をしなければいけない。あなたはテレビを見たり、噂話をしたりする時間は有るのに、一日一時間をさいて仏を学ぶ時間が無いわけがない。ある弟子の父親はすでに百歳だが、彼は昨日父親の健康を求めに来た。すでに百歳だ、健康を求めて如何する?これは孝行ではなく、怠けだ。百歳の介護は難しい、加持された後父親が健康ならば、彼は自分がやりたいことをやれる。

ある女性の信者が来たが、私は彼女の母は堕胎した事があると言った。彼女は頑なにそれは無いと言い張った。私は無ければ私は霊験が無いので帰りなさいと言った。其の後また来て、其の事があったと告げた。この信者は60歳はあると見たが、これ程長くの間、母親が堕胎した事を知らないのは、彼女と母親の距離が遠く、母親の事をよく知らない事をあらわしている。

経典:「みなともに普賢ふげんどう遵修じゅんしゅし、 菩薩ぼさつ一切いっさい行願ぎょうがん満足まんぞくし、 一切いっさい功徳くどくほうのうちに安住あんじゅうし、」

これ等菩薩は、何故法身菩薩に成れたのか?それは彼等が共に普賢菩薩の道を尊崇し、修行されたからだ。仏を学ぶには必死の心を抱かねばならない、これは仏を学べばすぐ死ぬと言う事ではなく、あなたは必ず死ぬ事をはっきり知る事だ。仏を学ぶとはこの事のためであって、世間の事柄、より健康になるため等ではない。

仏経では、彼等が何故大菩薩に成れたのかを説いている。それは共に普賢菩薩の願を遵守されたからで、ただ普賢菩薩がこの願を発され、彼等は一生の身と寿を尽くされ、一切の命と能力を尽くされて修め得たもので、求め得たのでも、拝み得たのでもない。菩薩の間でも互いに学び、彼はすごいから私は相手にしない事等ない。其れは我慢だ。『宝積経』には、「あなたに少しでも我慢があれば、あらゆる功徳を失う。」とある。菩薩に成る前は、衆生が学ぶ対象ではない。普賢菩薩が法身菩薩に成られて発した願を、その他の菩薩は出来なかった、それで皆で彼の願を遵守された。菩薩が身をもって模範を示されたので、衆生もそれに倣う。

あなたが有る法門を修め、精通したとしても、まだあなたより精通した者が居る。故に功徳を随喜して、他人があなたより精通しても嫉妬してはいけない。あなたはあなたで、彼は彼で修めるのではない。あらゆる仏法は相通じる、あなたにはこの因縁が無く、菩提心を発しなかったので修め得ず、他人は修め得たら、あなたは彼から学ぶがいい。彼を上師とするのではなく、彼が出来たところを讃嘆し、彼を見くびるではない。

「菩薩の一切の行願を満足し」。もしあなたに普賢菩薩の大願力が無ければ、菩薩道の一切の行と願いを満足させるのは不可能である。あなた達の願力で出来る筈がない。普賢菩薩の様に、何も求めなく、ただ衆生を利益し、修行をするだけでなければいけない。自分の唱える呪文は他人とは違う等と言っているのは、菩薩道を修めているのではない。釈迦牟尼仏の一言一句はすべて我々に修行しろと教えておられる、『宝積経』が菩薩道を説いているのならば、菩薩道を修める者はそれを聴かなければ成らない。もし、ただ阿羅漢に聞かせるだけなら、これ等大菩薩は来られない。

ある出家弟子が自分は持呪がよく出来ると言っていたが、自性念仏まで出来たか?あなた達は私が口を動かさずに持呪しているのを見たか、しかも文字がはっきりしている。これは腹話ではない、腹話でも口はわずかながら動く、これは自性の表れで、自然に音波に影響して出てくる。特に何もしないし何も考えない、自然に流れ出る。それは水源を掘り当てたようで、水が自然に流れ出し、更に掘る必要が無い。

『阿弥陀経』のうわべは阿弥陀仏を紹介している様で、実は我々を叱っている。法身菩薩に成れるのは皆が共に普賢菩薩の行願、菩薩のすべての行願を遵守してこそ成れる。もしあなたが独善的で、自分は他人と違うのだと思い、自己流で修めれば、菩薩の行と願力は達せない。

私にこれほど多くの出来の悪い弟子が出来たのは、私の業力が深いと言うほかに、私が菩薩道を行っている事を示している。私は他に法座に座って一日中誰かを叱っている者はいないと言い切る、何故なら叱ると皆逃げてしまうからだ。

「一切功徳の法の中に安住し」。この言葉はとても重要だ。功徳を貪ってはいけない。安住とは、我々が菩薩道を行い、菩薩願を発するのは、あなたが発明したのではなく、諸仏菩薩が前に行ったので、我々は共にこの事を行うに過ぎない。故に我々の心は自分で修め得た功徳に安住しているのではなく、法海の中に安住しているのであって、あらゆる諸仏菩薩が為された一切の功徳は、あなたの分も有る。だから何時もあなた達に功徳に随喜するべきで、功徳を貪るではないと言っている。上師に従って行えば、それで功徳はある。何故なら上師の心は諸仏菩薩の功徳海の中に安住し、上師は自ら行ったかどうかなど区別しない。仏菩薩と上師の加持がなくては、何処にこれ程大きな能力があり、これ程多くの事が出来るのだ?故に私の心は諸仏菩薩と上師の功徳海の中に安住し、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳海とは言わない。

何故回向する?それも功徳海の中に安住している為だ。凡夫俗子のエネルギーは非常に小さい。他人のために功徳を唱えて与えれると思ってはいけない。自分でさえ輪廻を解脱する事が出来ないのに、他人に功徳を与える事が如何して出来る?上師の仕事は一切の有情衆を全ての諸仏菩薩と上師の功徳海の中に納め、衆生を功徳海の中に安住させ、彼等が言う事を聴けば、ある日必ず功徳海と一つに結合するであろう。非常に簡単な原理で、それが出来ないのは「貢高我慢」で、独り善がりである。それはさっきみたいに皆が経を読むのを止めたのに、一部分の者がまだ続けているのは、つまり独り善がりである。自分で読むのに専念していると思っている。耳を閉じたのか?これは経を読んでいるのではなく、ただ文字を読んでいるだけだ。功徳海とは関わりが無い。

功徳海の中に安住するとは、奇抜な意見を出して、自分は他の人と違うと思ってはいけないと言う事だ。全ての法本は、必ず諸仏菩薩、上師の加持を話す。例えば我々無上ヨガ部まで修めた者でも、まだ本尊の加持が要る、あなた達は阿弥陀仏に求めなくてもいいと思っているのか?阿弥陀仏の階級はあなた達と余りに離れている、あなた達を助け得るのは只上師のみだ。

少し前皆で長寿仏を唱えたが、全ての者は功徳海の中に居り、特定の者の為に唱えたのではない。私はかって開示したが、長寿仏を唱えた者は、この一生で、非業の死を遂げる事はない。ただあなたが安住でき、自分のだと思わず、特定対象を指定して与えなければだが。七十数名の弟子が財団に電話してきて、自分のした功徳は役に立ったかと訊いた。問題は疑う事で、安住していない。

疑いには多くの種類が有る。例えばある弟子は自分がリンポチェの伝える法は出来ないとして離れるが、これも疑いだ。私は私の法を伝えていない、私は釈迦牟尼の法、直貢噶舉の法を伝える。あなたが其れをしないのは、あなたが仏法を学ぶ心算がないので、自然に出来ないのだ。

出来るか出来ないかは、今日明日に判るのではなく、死亡したその日に始めて判るものだ。所謂死亡して始めて論が決まると言う事だ。『百遍頂禮證知』の中に、重要な二つの言葉が有る。「願わくば我は煩悩によって心思散乱せず、法無我を求め、願わくば無量菩提心を得た如く死亡に相対す。」我々が多くの法を聴き、多くの法を修めるのはこの二言の為である。第一、一切の煩悩を断ち、「我」に執着しなく、第二、死に面した時、菩提心を発して阿弥陀仏の下にいき、リンポチェが助けてくれるのを待つ必要は無い。

往生した時苦痛が無ければ煩悩心は断ち切れている。そんなに長く修める必要はなく、リンポチェを信じさえすれば、あらゆる煩悩は断ち切れる。信ずると言う事はあなたの一切の煩悩を断つ、あなた達のこれほどに多くの煩悩は信じないからだ。この二つの言葉が我々の修行の結論で、在世中にどんどん良い暮らしをする為ではない。そんな事をすれば、在世中に福報を使い果たして、死亡した後が大変だ。

例えば法王の侍従、何も修行をしていないが、彼は良く法王に尽くし、法王に忠実で、一心に法王に仕えている。この心掛けだけで十分だ。業を変える事は出来ないが、往生した後、一千人余りの者が彼の為に六字大明呪を持すると言う福報を得られる、彼の福報はこの二句に由来する:煩悩を断ち、法王に仕え菩提心を発している。アキ護法だけを修め、他の法門を修めていない。彼は私に出会うと、リンポチェに供養しますと言う。彼はお金がないので、私は其の必要は無いと言うが、彼は頑としてリンポチェに供養しますと言う。

仏を学ぶ事はあなた達が考えているように複雑ではない。この二言は始めて学ぶものにはとても重要だ。自分の功徳が見えないと心配する必要はない、子供や嫁にも残したい様だが、彼等が上師と仏菩薩を信じていさえすれば、自然と仏菩薩の功徳大海の中にいる。聴いて分からないのは多くを貪るからだ。

この二言はとても重要だ。「咸く共に普賢の道を遵修し」全ての大菩薩は普賢菩薩の大願を遵守して、始めて菩薩の行願を行う事ができる。「一切功徳の法の中に安住し」、自分がやりたいのを選んだり、功徳の大小を見たりはしない。功徳に大小の区別はなく、全て日にちをかけて積み立てていく。この二句は皆を激励している。仏を学ぼうと思うなら、心の持ち方を変えなければいけない。私利私欲で自分の事しか考えないとか、自分の為に少しお金を残すとか考えてはいけない。ある弟子は少しお金を残して供養したいと考えていたが、本人が亡くなると、先ず親族が半分を分けてしまった。これもリンポチェを信じないからだ。弟子が本当に貧しくお金がないならば、私が面倒を見る、但し今名乗りを上げてもいけない、先ずそれが本当かを調べてからだ。

経典:「諸仏しょぶつほういた彼岸ひがん究竟くきょうし、 一切世界いっさいせかいのなかにおいて等正覚とうしょうがくじょうぜんとがんぜり。」

法は大小を問わず、総じて衆生の業と縁に関わっている。もし衆生を利益するのでなければ、一言の六字大明呪で足りる。今さっきの私の様に唱えれば、あなたが浄土に行くには事足りる。自性念仏は想像で出来たものではなく、自然にあなたの本質仏性から出現したものである。

仏法のみ究竟する事が出来、我々を彼岸に連れて行くことが出来る。一切諸仏が教える方法は、全て我々が生死輪廻を解脱して彼岸に渡るのを助ける。十方世界には多くの世界が有り、必ずしも地球ではない。『阿弥陀経』では、宇宙には億万尊の仏が居られ、億万個の浄土が有ると言う、どの浄土かは決まらない。等正覚を成ずとは成仏を言う。

経典:『またかの兜率陀天とそつだてんうまれんとがんじて、』

釈迦牟尼仏は成仏される前は兜率天に居られた。弥勒菩薩の兜率天は外院と内院に分かれ、外院は在家衆、内院は出家衆、故に弥勒菩薩側に行くのは必ず出家衆。阿弥陀仏側は区別がなく、四衆全て行く事ができる。

経典:『かしこにおいて寿終いのちおわり、くだりて右脇うきょうよりしょうじて七歩しちぶくことをあらはす。』

釈迦牟尼仏の兜率天の齢が終わられた後、地球に誕生された。彼は一般の人間の如く女性の子宮から出てこられたのではなく、母の右側の脇の下から出てこられ、出てすぐ七歩歩かれた。蓮の花をお踏みになり、何故七歩だったのか?顕教と密法共に解釈がある。顕教では釈迦牟尼仏は七道衆生を済度するからと言い、七道とは六道に仙道を加えたもので、ある経典には六道の他にまだ仙道が有ると言う。

密法では人体には七つの脈輪(チャクラ)があり、我々の命を維持し、我々の修行を助ける。もし脈輪の動きが協調すれば、体は健康で長寿、仏を学ぶ事ができる。其の反面、もし欠陥があれば、寿は短く、病がちで、仏を学ぶには阻害がある。

経典:『大光明だいこうみょうはなち、 あまねく仏世界六種ぶつせかいろくしゅ震動しんどうし、』

普く仏世界とは地球だけではなく、あらゆる仏の国土で六種の震動がある。

経典:『すなはちみづからとなへてのたまはく、 われ一切世間いっさいせけんにおいてもつとも尊貴そんきとならんと。』

一切世間とは地球に止まらず、六道衆生が存在する世界を包括する。仏は一切の欲望を離れ正覺を成就されたので、最も尊貴とは仏法の説く尊貴、ただ仏のみ衆生が輪廻から解脱する事を助け得るので、宇宙の中で仏より尊貴なる如何なる人も物もない。

経典:『 しゃくぼん諸天しょてんみなきたりて親奉しんぶす。また書計しょけ暦数りゃくしゅ声明しょうみょう伎巧ぎきょう医方いほう養生ようじょう符印ふいんおよび博戯はくげ習学しゅがくすることをあらはして、 うまきをほしいままにすることひとぎたり。』

釈は仏を信ずる天、梵は外道を信ずる天。諸天すべて来て、自ら供奉する。

各種の天文暦法算術を習う。声明とは発声技術、古代伝法にはよく唱誦方式を使った。もう一つは内明で、内心の世界では既にはっきりしていて、これは一般の凡夫俗子の境界ではない。伎巧とは物事を行う方法を学ぶ。医方は治療を学ぶ。養生、どうやって生活すれば体にいいかを人に教える。
符印は衆生を傷害する色々なものに対治する。仏は出家する前に世間の事柄について他人よりおおくを知っていたし、他人よりよく行った。リンポチェであるからには五明学を知らなければいけない。修行者は大衆を済度するので、各種の知識を知る必要がある。

美を擅(ほしいまま)にすること人に過ぎたり。知っている方法は他人より多く、普通の人より上手に行う。修行が有る境地に至ると、心中の雑念と煩悩は他人より少なく、より正確に物事を見る。私は在家だし、74歳にも成るので、世間の色々な事柄は私を騙す事ができない。私は全て経験したので。私の前で涙を流しても無駄だ、私はあなたの心を見ているので。人はどんなに狡猾でも、皆貪嗔痴慢疑の中にいる。私が一言言えば、それに如何答えるかもう知っている、あなた達は私を騙す事ができない。

私はコンサートの主催に対しては素人だったが、経験がなくても、何故コンサートの楽隊と背景がよく釣り合っていたのか?音楽を学ぶ者はおおむね自分は凄いと思っていて、他に譲らない。彼等が第一回目のドレスリハーサルを行った時、私は現場にいなかったが、彼ら各々の問題点と改めるべき所を指摘した。彼らは其れを聴き、リンポチェが凄い事を知り、その後心して演奏をし、其れを楽しみ、独唱者も心して歌った。

何故それが出来るのか?それは私の智慧が開き、煩悩が少なくなり、物事をよりはっきり見ることが出来るからだ。もし私に時間の余裕があり、心して学ぶ事ができれば、私は科学現象も了解する事が出来るだろう。仏経曰く、「一微塵の世界の中にはまだ一微塵の世界がある。」これは宇宙の自然現象を言っているのだが、今の科学ではまだ解釈するのが難しい。なんとか分子、原子、量子の構造で説明できるくらいだ。人によっては一粒の微塵の中にまだ一つの星体が有るというが、其れではなく、原子、質子などなどの中にはまだ其れと同じ様な物に細かく分ける事が出来、只同じくない因縁は同じくない現象を生み出し、それが「一微塵の世界の中にはまだ一微塵の世界がある」なのだ。

現今量子物理学では、科学者が外国の地下深く長いトンネルを掘り、地下で大型ハドロン衝突型加速器を建設し、素粒子を見つけ出す実験を行い、エネルギーを測り出す事は出来たが、現れた後突然消えてしまって、突破する事が出来ず、其の原因もまだ知らない。何故現れ、何故消えたかも判らない。測り出す事は出来たのだが。これは因縁で、其れの因縁が現れ、また早々と消えたのだ。

経典:「身王宮みおうぐしょしてもろもろの欲境よくきょういとひ、老病死ろうびょうし非常ひじょうさとり、」

釈迦牟尼仏は地球で王子として誕生され、其の父国王は占い師に占わせ、王子は出家すると言う予言を得たので、その後王宮を出ることが許されず、王城を離れる事が出来なかった。ある日、釈迦牟尼仏はこっそり逃げ出し、四つの城門を通り、其処で生老病死を見て、人生に常はなく、生老病死の苦を遍歴する事を悟った。当時、彼はすでに妻子や富があり、欲しい物は何でも手に入れられた。だが彼は其れを嫌い、毅然として全てを捨てて修行に行く事を決められた。「非常」とは無常であり、永劫に変わらない物はない。

経典:「国位こくい捐捨えんしゃしてしろどうまなぶ。 もろもろの纓絡ようらくおよび迦尸迦かしかきて、」

纓絡とは宝石。釈迦牟尼仏は王位を捨て、城を出て道を学び宝石を捨てられた。

経典:「袈裟けさ被服ひぶく六年苦行ろくねんくぎょうして、よく五濁ごじょくせつのなかにおいてこれをなす。 世間せけんじゅんずることを示見じけんするがゆゑに、 尼連河にれんがよくして、 きて道場どうじょうおもむく。 竜王迎りゅうおうむかへてさんじ、 もろもろの菩薩衆右ぼさつしゅみぎめぐりて称揚しょうようせり。 菩薩ぼさつそのときくさけてみづから菩提樹ぼだいじゅしたき、 結加趺坐けっかふざす。」

五濁とは見濁、劫濁、眾生濁、命濁、煩惱濁。釈迦牟尼仏は六年苦行されてもまだ悟りを開けず、故に苦行の地を離れて川を渡ったとき、竜王が迎え出て釈迦牟尼仏を賞賛された。

菩薩が草を仏に供養したので、仏は草を菩提樹の下に敷き、結加趺坐された。ある者は菩提樹の下で一晩座ればそれでいいと思っているが、そうではない。あなたは仏が何の法を修めたか知らない。これは菩薩が転世されたとしても、今生では再び修め、始めからやり直す事を説明している。仏は6年苦行されて、ほとんどの法を学ばれ、あと少しの所だった。あと少しの仏理は、因縁が熟し、菩提樹の下で悟りを開かれるまではっきりしなかった。

結加定印は心を落ち着かせるものである。定印を結ぶ手は何故胸に置かず、口に置かず、腹に置くのか。私は密法を学んではじめてそれが何故かを知った。まだ座禅を教えていないが、あなた達はこの定印が必ず有用である事を知るべきだ。

釈迦牟尼仏は六年苦行され、何も口にしなかったので、やせ細って骨だけになられた。川辺で羊飼いの娘に会い、羊のミルクの供養をお受けになり、自身の体力をお付けになった。何故彼はこの羊のミルクを飲まれたのか?仮を借りて真を修めるとは言え、この時彼はまだ成仏しておらず、まだこの体の助けを借りて修行する必要があり、自分が夜中に法を修めるには体力が要ると知り、この一杯の羊のミルクを飲まれたのだ。

故に若いうちに仏を学ぶべきだ、体力が無ければ修める事ができない。リンポチェは74歳になってもまだ修めている。しかし私はあなた達とは違う、幼い頃から武術を習い、体の基礎が出来ており、条件があなた達より良い。私は母体の中に11ヶ月も居て生まれた、あなた達とは違う。

経典:「また魔衆合囲ましゅごういしてまさに危害きがいくわへんとするをて、 菩薩定慧ぼさつじょうえちからをもつて魔怨まおん降伏ごうぶくし、 無上覚むじょうかくじょうじたまふ。」

始め、魔王は恐ろしい様子を現すが、釈迦牟尼仏はそれに動じなかった。其の後魔女が出て踊り、釈迦牟尼仏を誘惑しようとしたが、仏の体から一尊の菩薩が出て来て魔女を降した。此処で一尊の菩薩に言及したが、何故彼の名前を出さなかったのか?前の方では多くの菩薩の名号を出したが、何故此処はそれが無いのか?これ等の疑問は疑情であって、疑いではない。仏を学ぶには疑情が有ってもよい。即ち何故仏経には解釈が無い処が有るのだという疑惑だ。言及しないには必ず原因が有る。成就を修め得なければ、この一尊の菩薩はあなたに構ってくれない。此処でどの一尊か書かれなかった菩薩は、どの一尊か私は知っている。何故なら私はこの法門を修めたから。但し此れは密法だ。

魔とは何か?魔は悪者ではない。醜くも無い。福報が無ければ魔に成れない。魔と仏の違いは仏は我々に生死を解脱することを教え、魔は我々が生死を解脱する事を望まない。魔は何故仏の邪魔をするのか?それは皆が生死を解脱すれば、魔に民が無くなるからだ。

私はあなた達に座禅を教えていない。巷で30分ほど座っていれば気分がよくなる事が流行っているが、それは禅定ではなく、また静坐でもない。多くの者が禅一とか禅七とか言って其処に何日も座っていれば禅定だと言う。その実、石や樹木も其処の固定している。禅定は多くの段階に分かれ、他の念頭が無いくらいに呪文を念じても、それは一種の禅定である。あなたはよく体を調整し、禅定の目的が何かをはっきりさせて、はじめて学ぶことが出来る。あなたが魔に着かれた如く座禅したと言うな、魔物はあなたなど構わない。あなたにはそんな条件や福報など無い。只迷うが如くやりすぎたとしか言えない。座禅の方法を間違えれば息が続かなくなる、所謂禅病だ。医者ではあなたを助けることは出来ない。只上師のみあなたを助け得る。

このお経はとても素晴らしい、あなた達が仏を学ぶ時の問題点に触れている。今日この仏経をあなた達に解釈するのは、私の修行経験に基づく。リンポチェは出家30余年の一人の弟子に、以前この仏経を読んだ事があるかと訊ねた。出家弟子は「あります。何回も読みました。以前毎年の水陸法会では読みますが、其の中の意味についてはよくわかりません。」と答えた。

リンポチェは続けて開示された:仏経は仏がかって開示された仏法で、仏の修行経験だ。其れを解釈できるのは、私が多くの仏経を読んだのではなく、何十年以来の修行過程は、全て上師と諸仏菩薩の教えに基づき、如実にやったからだ。何週間かまえ、何名かの出家衆が大姉の事を仕出かしたが、それは全て貢高我慢、自分で自分が正しいと思い、自分が修め得たと思っているからだ。仏を学ぶには威張ってはいけない、ある一定の過程が必要で、今すぐ修め得る事ではない。自然と我々はさらに控えめで、謙虚であるべきだ。

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2021 年 06 月 22 日 更新