尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年02月28日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて、自ら殊勝な《百遍頂礼證知》及び《象鼻財神》法会を司られ、並びに貴重な仏法開示を授けて下さった。

百遍頂礼證知
先ずは《百遍頂礼證知》を唱えよう。仏法の本当の意義を分からせるよう、皆を従えてこの経文(きょうもん)を唱えることにする。テキストの後半にも説き及んだが、このテキストはチベットへの仏法伝来より前、つまり凡そ隋や唐の時代に既に存在しているというものだ。

リンポチェは出家弟子に参列者全員を率いテキストを唱えるよう命じた。続いて開示なされた:テキストの前半では、仏菩薩と阿羅漢の名号が綴られ、後半では唱えたあらゆる文字は、我々の仏道修行でのポイントになり、健康祈願、親子円満、事業向上などのご祈願は書かれていない。

テキストの中には、「願我能不應煩惱心思散亂而希求法無我。(願わくは、私は煩悩・乱れる思いに応じず、法無我を希求するものです。)」とある。悩みを作らない、悩みに堕ちないよう、出家弟子を呵責した所以が正にこれだ。何故なら在世の間に煩悩が絶えないなら、事切れる際にも法無我が得られないからだ。「法無我」とは、自然な法界の中で我の存在に執着せず、一切衆生は皆平等であり、区別はないが、ただ累世で蓄積した業力によって一人の我に生まれ変わるだけなのだ。我の本質は清浄でわざとがましいのではないが、とかく我々はよく自分自身に多くの悩みを作らせがちだ。仏法の修習、持呪、仏への礼拝、座禅などを通じて、煩悩の減少、停止、断絶に繋がる。それを遂行すると確信があるまでは、上師からのご加護を篤く信じるべきだ。でなければ、その次にある句の「願得無量菩提心般面對死亡(願わくは、無量菩提心を得たように、死亡と向き合うものです。)」は成し遂げられない。

2007年の6月初め、ラプキ雪山での閉関修行にて私は心肺停止したにもかかわらず、煩悩も、散乱も、恐怖も覚えずに、ただアキ護法に祈り求めた:「私が留まっても衆生に役に立たなければ、私を連れて行きますように。もしまだ衆生に役に立てば、私を留めますように。」これぞ、菩提心を以て死亡と向き合う事だ。そなたらみたいに死亡を怯えながら、「死に際はどうなるかな。死んだらどこへ行くかな。し残したことがたくさんあるから、まだ死なせないようにと仏菩薩に祈る」と考えているのではない。

皆はひたすら自らを修めている故、菩提心どころか善の心すら持っていない。極楽浄土への往生は、ご想像のように阿弥陀仏浄土に行けば快適な日々を過ごせることではなく、菩提心で行くことだ。ある人たちは、早く死ねるようにと願うが、私と仏菩薩はそなたを早く死なせることができない。何故なら、そなたの債務は返し切っていないからだ。自分自身の因果業力から逃げられるよう、早く死んで阿弥陀仏の身許へ享受しに行きたいと思うなら、その実、そこは享受するところではない。仮に、在世の時に、阿弥陀仏浄土で仏果円満に修行する準備がなければ、往生しても行かれそうもないし、たとえ11万遍の阿弥陀仏を称名してあげても行かれないのだ。仏道修行をして、健康になり心も安らげば、相応するそのものだと思われるが、いったい相応とは何だろうか。

「願得無量菩提心般面對死亡(願わくは、無量菩提心を得たように、死亡と向き合うものです。)」を敢えて言う人はいないし、それを見たことさえもないだろう。出家して30年の弟子が、「以前見たことがありません。今になってはじめて見ました」と答えた。多くの人が求めているにもかかわらず、浄土へは行けない理由は何だろうか。それは、「極楽浄土」の「極楽」を、大いに快楽だと勘違いしているからだ。実は、ここでの楽は俗世間における欲望への楽を満たすものではなく、身口意による楽を指すのではない。ここでの「楽」は、生死、苦痛での輪廻を繰り返さない、永久の楽である。死にたくないようなら、どうやって菩提心のように死亡と向き合うことが得られようか。

そなたらをこの状況に置き換えるのなら、どうにか自分を生き続けらせるよう求めるに違いないし、自分が閉関修行したのはまだ済度を待つ衆生が多くいるからだと言うだろう。だが、そなたらは菩薩と仏の神通を授かったのか。アキ護法は法王から授けられたので、私は当たり前のように法王を信じている。私は常日頃から絶えず閉関修行をし続けてきたから、いざ死亡がやってくると、菩提心が自ずと現われ、自分のために求めようとしない。仏菩薩と上師のことを信心すれば、我々は未来を心配しない。菩提心があれば、仏菩薩と上師は自ずと手配して下さる故、アキ護法は私を暫く留めるようになった。これも、世間では私以上に苦しんでいる人が多く居るという意味だ。

仏典は全部読み終わったら良いのではなく、自分自身がそれを実践したかを見極めることだ。出家して数十年の弟子も、この話に気づいたことがない。何故ならこれは仏菩薩が直接に伝えたテキストで、人からの口伝を経由するものではないからだ。仏を学ぶのは多くの名相を学ぶことではないとの一句からポイントがよくわかる。そなたら皆は死をそれほど怯えるのは、自ら菩提心まで修習していないと知り、死亡はどういうことかと分からないから恐れる。これは当たり前だが、その反面、いったん菩提心が身に付けば間違いなく恐れなくなる。菩提心はどう修めれば得られるのか。取りも直さず、話を聞くことだ。だが、そなたらはまるで話を聞かない競争をしているみたいなのだ。

昨日ある弟子がテキストを求めに来た際に私に呵責された。彼はかつて衆生利益したいと言ってテキストを求めたことがある。自分自身の問題でさえ解決できない状態で、菩提心がなければどうやって衆生利益しようか。昨日彼等が再び求めに来たが、私は依然として授けなかった。その代わりに、直接彼等にこう言った。多く唱えれば唱えるほど子供が健康になるというお考えから見れば、上師を信心していないことになると分かったと。今どきの仏を学ぶ者らは、殆ど同じ問題を抱えるように見受けられ、何れも菩提心でではなく、自我の観念で仏を学んでいる。

今さっき壇上に来て自身の経験を語った弟子(衆生済度事跡第1080号)は、懺悔心を持たない。彼女は、過ちを認めれば仏を学び続ける機会があるやら、自分自身がよくなるやらと思いつつ、出家弟子やら理事やらと面談した際も、話をよく偽って彼等を騙し取った。彼女が基金会へ電話して資金の使い道を聞いたことこそ上師を信じていないのだ。経緯を全部分かってはじめて親友らへ募金する勇気がある。この間、私は帰依弟子ではない人を少し助けて順調に問題が解決されたら、彼は建設中の寺院予定地に行ったことがないにもかかわらず、寺院建設に1,200万元を寄附した。私はちょっとした問題を解決して、助かったと彼が自ら感じただけで1,200万元を寄附した。その反面、皆の生死大事まで解決しているのに、そなたらはどういった心構えでリンポチェと接しているのか。

寶吉祥仏寺の建設に護持した信者らを寺院への参観を誘うのは、一つは工事の進捗を、もう一つは実際に資金はどこに用いられたか、自分の目で確認していただくことによって、寺院を建設するに当たって費やした苦労や、どれだけ法律に則ったなども、分かるようになるからだ。寄付者数が48,000人余りのうち、8,000人強ぐらいしか参観に行かないことから、そなたは信用を失ったことが分かった。そなたらからの募金に対し、その場しのぎで1,000元、2,000元、10,000元、20,000元程度で応じるなんて、そなたらは信用が破産したに等しい。今さっき私が言及した人が、寺院に行ったことがないにもかかわらず1,200万元を寄附したのに対し、そなたのお知り合いは寺院予定地への参観すら行く気がない。そなたから電話をかけて誘ったが、忙しいと答えられたらが最後、恥ずかしく再度誘おうとしない様だったら、いくら多く修法してあげても仕方がないではないか。

次に、修めるのは象鼻財神であり、永噶仁波切(ユンガ・リンポチェ)自ら伝授されたのである。私は、法を求めに3回もチベットへ赴いた。場所はチベットの辺境だったが、供養の金額はさておき、旅費だけで随分かかった。そなたらは福報が充分あってこの法が聞けたが、それに対して上師のやりたいことに尽力し支持したか。ミラレパ尊者曰く:「歴代の大修行者、大成就者は既にあらゆる法を円満に修め得られた。彼等は四苦八苦していたから、そなたら後から従う者はひたすら話を聞くと良い。」ミラレパの話はさておき、業障が深い私も修めるには粒々辛苦した。12回もインドへ閉関修行に赴き、それぞれ毎回凡そ1か月半はかかった。インドへ行くのも楽ちんではなく、ニューデリーに着いてから更にインド北部へ行かなければならない。真に衆生の為に法を学びに行き、法を学んではじめて衆生利益に取り掛かったのだ。菩提心を持ってなければ、衆生のこうした様子を見ていては本当にやり続けられない。

「願得無量菩提心般面對死亡(願わくは、無量菩提心を得たように、死亡と向き合うものです。)」。諸仏菩薩と上師から絶えずご指導とご加持いただいてはじめて菩提心が得られる。菩提心は修め得られるものであり、最初は世俗菩提心で、戒律や五戒十善を守る事、そして慈悲心を培う事を通じ、世俗菩提心を自由自在に発揮できるようになり、次第に勝義菩提心を開発し、やがて菩薩の位を証して衆生利益することができるようになる。これはわざとがましいのではなく、いったん衆生が祈り求めると、そして衆生とご縁があれば、勝義菩提心が自ずと出動する。そなたらは、基本的な不共四加行すら遂行できないくせに、衆生利益し得るのか。

本日このテキストを唱えさせることで、ご自身が道を逸れたか、仏道修行をし間違えたか、願を発し間違えたか、言い間違えたかと、見極めて欲しい。この一生は絶えず自らに煩悩を作り続ければ、どうして往生した一刹那に思いが散乱しないよう保てるか。諸仏菩薩と上師からのご加持がなければ、そなたらは「願我能不應煩惱心思散亂而希求法無我。(願わくは、私は煩悩・乱れる思いに応じず、法無我を希求するものです。)」については、とても遂行できない。何故なら、そなたらは煩悩の中を生きているからだ。この二句は、これまでの締め括りとなり、人であればいつか死ぬから、我々が現在仏道修行で為したことは、すべて死亡の一刹那に備えるものだ。

以前も例えて言ったように、ある国へ移民して生活するために、先ず当地の言語やら、習慣やら、気候やら、国柄やらを満遍なく調査して、予め理解しておかなければならない。よって、我々は死後の浄土往生に備えて、今のうち準備しておくべきではないか。テキストを入手して、ひたすら真言を唱えたら行かれると思ってはならない。いや、行かれない。

「凡我已做、或叫他做、見做隨喜,即如微塵,盡皆無餘發露懺悔,清淨已。不隱瞞,應了知。(総じて、己が為し、人を為させと命じ、為されたのを見て随喜する事、たとえ微塵如くも、すべて余り無く発露懺悔し清浄させようとし、隠し立てせず、了知すべきものです。)」総じて、自らした事や、人をさせた事や、人がしたのを見て自分が喜ぶ事など、たとえ微塵(みじん)のように小さくても発露懺悔するべきであって、そう遂行しなければ、どうやったら清浄な仏法と相応しようか。相応しない原因は、そなたは懺悔していない事にある。隠し立てせず、ご自身の心では、し損なったことをはっきりと知っているはずだ。寶吉祥の弟子は皆《仏子行三十七頌》(三十七の菩薩の実践)を知っている。この三十七頌によれば、自分自身がし損なったかどうかが分かる。もし分からないと言うならば、帰依弟子ではないという意味だ。どうしてそなたらを追い払ったり、咎めたりするのか。そなたらからの懺悔は皆口ばかりででたらめを言っているのでしかないのだ。《仏子行三十七頌》は仏弟子としての根本条件であるが、そなたらはよりによって留意しない。中のどの頌でも、仏法をどう生活の中に活かすか教えている。だが、そなたらは毎日読み過ごしているが、自分が実践したかどうかを確実にチェックせず、呪文ではないから重要視されないだろうが、《仏子行三十七頌》の実践ができない以上、いくら持呪しても役に立たない。

発露懺悔とは公の場で懺悔するものであり、誰も知らないようにこっそりと心で懺悔して仏菩薩なら私の話が聞こえると口説くものではない。法身菩薩はそなたらを対象にせずに、その化身や護法眷属、或いは仏法を護持する善の鬼神が聞こえるかもしれない。それらは大神通を持たないため、そなたが言い出さない限り、彼等は知り得ないのだ。

法身菩薩は法身を証した菩薩を助ける存在であって、そなたらの凡夫を助けるものではない。観世音菩薩に祈り求めれば、観世音菩薩がやってくると思ってはならない。それは十六地の大菩薩で、仏から転じて菩薩になったのである。十六地の菩薩は凡夫と関わりがない理由に、彼等は動じないことがある。そなたのしたことが彼等と相応するのなら別論だが。例えば、私が閉関修行の際、死にかけた時に言った話が菩提心だからこそ、相応そのものだ。そなたらは菩提心を持たず、凡夫の心で求めるなら、どう相応しようか。そのため、テキストでは言い出すよう教えている。菩薩は聞こえていないながらも、善の鬼神、護法が聞こえれば、少なくともちょっとそなたを守ったりして、仏道修行に充分な時間があるようにさせてくれる。

微塵について懺悔したことがあろうか。すべて忘れただろう。業力の重い弟子らには、五、六年も過ぎてはじめて「以前は何か殺したのをふと思い浮かべた」と言うのもいる。忘れるのは、取り付きから真心を込めて懺悔せず、懺悔できるように福報がないからだ。また、多くの人にとって犯しやすいのは、人がしたのを見て随喜することだ。例えば、ある人が魚が釣れたところを、傍から楽しそうに見ることも懺悔すべきことの範囲内だ。だが、我々はそれらを忘れ、自分に間違いがなく、人がしたのだと主張している。ここでは我々に真の懺悔について教えている。「不掩蓋、不做、不應修者。(隠し立てしないもの、為さないもの、修めるべからずもの。)」とは、仏法と無関係な事は、もう修しない、もう為さないことだ。仕事もしない、嫁入りもしない、子供も儲けない意味ではなく、我々に輪廻を繰り返させるようなことをすべきではない意味だ。

こう懺悔することを、テキストでは「一切罪淨已,一切福德皆圓滿。(一切の罪は清浄になり、一切の福徳がみな円満に収めます。)」と書かれたが、ここでは罪の果報が滅びるのではなく、罪の悪因が清浄になるという意味なのだ。果報は発生するが、そなたが真に懺悔した故、一切の罪の本質が清浄に転じるようになり、いつか果報が現われた時でも転重軽受してはじめて、一切の福徳が起こり、円満に修められるのだ。懺悔しなければ、何もかも修め得られない。咎められてはまた間違いを犯しまた懺悔すれば、全てはゼロからやり直すしかない。

まだ実践していない、信じない、工夫を凝らしていない、着実に行っていないところがたくさんあると、ご自身で分かるべきだ。このテキストについて説くなら、一か月かかっても足りないぐらいだ。何故かと言えば、すべてがそなたらが抱えている問題について講じられ、そなたらは誰も実践していないからだ。もちろん私自身も含め、非常に円満にしていないところもある。このお経に書かれた顕教に当たる基礎部分を実践せずに、密を学びたい者なら待つがよい。不共四加行を求めに来た多くの弟子に、私は伝授しないのは何故か。実践できる者が居ようか。

「常時無間斷供養(常時、絶え間なく供養します)」とは、財産を傾けて全部供養するのではない。ご用があったら供養はするが、日頃は姿も見られないようなものではない。両親が病気になったやら、厄介事があったやらで、両親の代わりに供養に来るのをやっと思い出すのは、取りも直さず売買だ。そうだったら、10万、100万元程度での供養は足りているか。安心を買うだけだ。多くの弟子はそうだ。私から法王への供養は正に絶え間なくしている。その時も、まだこの句を拝読していなかった。たとえ絶え間なく供養していても、食事に事欠くようにもならないし、住むところを失うこともないから、このお経は本当に絶妙だ!

このお経は、財団法人仏教澈贊法王基金会創立の催しにて、唱えられたのだ。当時、基金会の創立に、私は法王に3,000万元の供養を捧げた。法王が基金会創立の催しでこのお経を授けられたので、3,000万元の供養で、このテキストを求めてそなたらに教えるのに等しい。仏法は望めば、貰えるものではない。私がこれだけ多く伝法したにも関わらず、条件付きで供養を要求したことはない。すべてがそなたらの心が合っているかどうかによる。心が違えば、たとえ3億元の供養があっても授けない。

仏法とはご想像のように跪いて叩頭すれば手に入る物ではなく、金で引き換えるものでもなく、何よりも因縁を重んじるものである。言い換えれば、もし私は法王に基金会の創立や催し物の企画をしてあげなければ、この法は授けられなかっただろう。金銭で引き換えるのではなく、弟子としてはひたすら上師に供養するべきであって、上師としては別に報いられる物を持たず、仏法で応えられる。マルパ尊者が三回にも亘り、ヤクいっぱいに黄金を乗せてチベットからインドへ徒歩して法を乞うに赴いたお蔭で、後世の人が仏法を学べるようになった。むかしの道は今ほど歩きやすいものではないだろう。古代の大修行者は法を乞うために、正に苦労を厭わなかった。

2007年私のラプキ雪山での閉関修行は喜金剛を修めたのであって、今後寶吉祥仏寺の最上層にあたる密殿も喜金剛を修めるのである。ミラレパ尊者は勝楽金剛を修めて成就を得られた故、後世の人は何れも勝楽金剛を修めている。喜金剛の法脈は、教派で数百年の伝承の中で一時途切れたことはあるが、法王はこれらのテキストを整えている。私が在家衆である故、法王は喜金剛を私に伝えたわけだ。今の段階では、喜金剛関連のテキストは引き続き整えているところだ。

勝楽金剛と喜金剛は肝心要の所が空性を修めることにあり、空性は単に口ばかり、仏典を読むなり、座禅をすれば修め得られるものではなく、必ず上師と本尊から絶えずご加持いただかなければ空性が修め得られない。理論から体得するほか、実質的に物質から空性を証する必要がある。チベットでは、複数の行者が虹化(こうか)、空性を証したと多く記載されているが、それは自分自身の生身にあるあらゆる物質を虚空のように変え、光となることなのだ。何れもそなたらが体得できない話だ。

象鼻財神
この象鼻財神テキストは永噶仁波切(ユンガ・リンポチェ)が自ら伝えられたものであって、他の場所では持たないらしい。象鼻財神の頂戴は白マハーカーラ、白マハーカーラの頂戴は不動明王、不動明王の頂戴は観世音菩薩である故、観世音菩薩法門を修め、成就してはじめて、マハーカーラが修められ、更に象鼻財神を修めれば効果が出るのだ。

黒水財神はより厳しく、象鼻財神はより相談に乗りやすい。テキストでは、当時彼は王子だったが、求められた用件が義挙、悪事を問わず、求めに対しもれなく応じたから、かえって自分自身に悪い業力が積まれたと記載される。マハーカーラは、彼の頭を斬った代わりに象の頭を取り付けさせ、彼をマハーカーラ側近の護法にさせ、今後は仏法でしか衆生救済できないと戒められたという。象鼻財神を修めるには大金がかかるように、本日の修法で用いられた黒沈香は50万元もする。

リンポチェは、修法をし出し、慈悲深く大衆を象鼻財神に祈り求めさせるようにされた。円満に終了後、先ずは象鼻財神についてご紹介を、更に弟子を率いアキ護法儀軌と廻向儀軌を修持なされた。引き続きこう開示なされた:

アキ護法を毎日ご自宅で修めているが、その中の内容に留意した人は幾人居るか。求幸運文は唱えれば幸運になるのではない。テキストでは、三界(さんがい)一切衆生に対し無二無別で対応するとあるが、そなたに対するのではない。三界とは、欲界天(よっかいてん)、色界天(しきかいてん)、無色界天(むしきかいてん)である。欲界天は六道一切衆生を含む。

「您護持佛陀一切的教授。(仏陀の一切の教授を護持なさいます)」。護法は、喧嘩で勝つやら願望が叶うように助けるのではなく、仏陀の一切の教法を護持するのである。そなたが仏陀の一切の教法を護持しない以上、アキ護法もそなたを相手にしない。毎日唱えれば守られると思ってはならない。そなたらは護持していないから、求め得られないのだ。護法が効かないのではなく、上師が効かないのでもなく、上師の教法をご自身の身口意と生活の中に活かしていないからだ。

もし、上師の教法をご自身の身口意と日常生活に活かしたら、相応するであろう。何故まだ交通事故に遭うのか。何故まだ癌に罹るのか。それは、そなたらは仏陀の教法を護持することを実践していないからだ。だが、リンポチェはそなたらのためにこれほど多く修法したお蔭で、そなたらが交通事故に遭って死亡することもなければ、知らないうちに流行病に罹って死亡することもない。そなたがここを離れるに限っては、別論だが。私の福報の下でそなたらを被祐するが、アキ護法がそなたを守るとは限らない。

誰一人も信じていないからこそ、出家弟子らが大姉(だいし)というおかしな事態への発生に至った。呼ばれた人が自ら大姉と思いつつ、大姉と呼んだ二人の出家弟子がこうしたら一つの派閥になる意味だと思っている。妄語の戒めを破っても知らないでいる。残りの3人の出家弟子は小さな事柄で言い争ったりする。誰一人も修めていないし、実践していない。

「您依佛理滿足衆生之願。(仏の理に依り、衆生の願いを満足させてくださいます)」貪らないよう仏は教えているが、そなたらは毎日貪るようアキ護法に求めている。怒りを起さないよう仏は教えているが、そなたは終日怒りを起し、あれやこれやと敵対したい。因果を信じるよう仏は教えているが、そなたは因果を信じず愚かだ。絶対にそなたの願いを満たすことはないだろう。そなたらは話を聞かず、都合のいいようなことだけしか聞かなく、自分を満足させるような話しか聞かないなどは、すべて仏理ではない。帰依した際に、「帰依法離欲尊」と言い、欲望から離れて尊さを得ること。かえって、そなたらは仏門に帰依したら、欲望が一層重くなっている。

「您成就一切事業,願一切吉祥如意。(一切の事業を成就なさい、一切が吉祥・如意でありますように)」これは仏法事業を指すのだ。教派での大修行者も「リンポチェがする事業なら、間違いなく達成できる」と仰せになった。何故だろうか。アキ護法が助けて下さるほか、前に説き及んだことをすべて実践したからだ。

今さっき自分自身の経験を語った弟子は、自分のために着眼し、自分が良い生活を送れるように願い、隅から隅まで自分のことしか言っていなかった。生生世世上師に仕えるやら、上師に供養するやらはいっさい言わなかった。一つも言わなかった。如法ではない。上辺から見れば、仏法の名相を多く取り扱ったようだが、その実、真に懺悔していない。アキ護法のテキストが再び手に入ったからこそ懺悔した意味であろうと勝手に思っている。出家弟子や理事などとの面談の際、話をうまく言い、彼等を振り回していた。私は忿怒尊を修める者で、これら面談に行った出家弟子は慈悲を修めている。

あの日、寄付金の使い道を聞きに、今さっき経験を語った弟子が基金会に何回電話したかについて、リンポチェは史という弟子に尋ねた。史という弟子は「一回でしたが、当日七、八十名余りの弟子から電話がかかってきたから、基金会のボランティアにとって大変困ったことでした。」と答えた。なぜ彼女は使い道を聞きに、基金会に電話したのか。これこそ上師を信じていないのだ。「リンポチェは会社を経営しているから、お金を振り向けないか。そうだったら、どう親友らに言い伏せるか。」と思われた。いいか。そうだったら、17年間も大法会を執り行った分で充分儲かるものだ。だが、私はそうしないで、法律を守りながら物事を進めている。史という弟子は資格をもつ経理士で、間違ったことをすれば、刑務所に入るのだ。基金会の董事長も同様で、私は刑務所に入るのを恐れている。

あの日電話して使い道を調べた七十名余りの弟子の行動は、すべて上師を信じていないからだ。信じないなら、ここに留まらず、離れるが良い。この七十名余りの弟子に徹底的に懺悔して欲しい。彼女一人だけ罰され、他のみなは無事だと思ってはならない。私からは懲らしめないが、因果からは懲らしめてくる。

従って、今はあまり弟子を取りたくない。もううんざり。敢えて落胆しているとは言わないが、もともと燃え盛っていた心が、次第に色が薄まっている。そなたらのために、こんなにも多くのことをしたのに、そなたらはどう報いるのか。お金をではなく、そなたらの心構えと立ち居振る舞いを指すのだ。こんなにまともに伝授しているのに、そなたらは実践するどころか、絶えず私の何かをえぐり続けたい。良いよ!えぐらせる!私が離れるまでそうさせよう。私は死なないと思ってはならない。人であれば、誰でも死ぬ。これほど多く教えたから、そなたらは進んで実践するものだ。凡夫の生活や思想を貫くことではない。法会に参列することを部活のように思ってはならない。こんなのは良くない。

仏寺建設の護持に、銀行窓口でのお振り込みが億劫だ、ATMでの振り込みができるのに禁止されていると思う弟子もいる。これらの弟子は私を信じていないのだ。資金洗浄の防止のため、銀行窓口での振込みにしろと言っているのだ。その上、我々の名義を偽って募金活動することも未然に防ぐことができる。例えば、4万元を募金したとして、実際は3万元しか基金会に振り込まなかった場合、窓口でのお振込みだと遡れるが、ATMは振込名義人もなく調べようがない。

「願以此功德、遠離一切障礙。(願わくは、此の功徳を以て、一切の障碍から遠ざかりますように)」これは修行する際の妨げのことだ。妨げは自ら作ったもので、自分が自分に厄介を掛け、障碍を見つけてくるのだ。

「成就智慧仏母時。(智慧仏母を成就した時)」これはそなたがアキ護法になるのではなく、そなたの智慧がアキ護法の成就と同じく、輪廻の苦しみを受けなくて済むということだ。唱えさえすれば輪廻は繰り返さないと思っているのか。どうして智慧仏母に成就するというのか。前の幸運文ではっきり講じられた「仏陀の教えを護持する」ことだ。これ等七十余り人は仏陀の教えを護持しない、上師を信じていないのだ。テキストでは、幸運文から最後までのあらゆる内容は一体となり、特定の部分を唱えれば該当部分が得られるわけではない。

仏を学ぶのは、そなたの考え方で学ぶのではなく、アキ護法すら仏陀の教えを護持する。アキ護法は、密宗で言えば成仏、顕教では度母と言い、位が非常に高いのだ。彼女でさえこれがために修行するのに、そなたらはこんなことで修行しているか。そなたらは自分自身のことで修行し、ひねもすご自身のお考えがある。私は在家衆の身でありながら、ひたすら閉関修行に行けた。まさか閉関修行は楽ちんなことだと思われるのか。ドアを閉めると、一か月の間、出られない、人と会えない、喋られない、他に何も用事がない。今回の疫病のお蔭で、一部の人は14日の閉関(隔離)せざるを得ない。今は21日に変わったが。そなたらのいつもの落ち着かない心もちょっと静かにさせている。これだけ多く仏法を授けたのであり、着実に実践することを願っている。本日は、象鼻財神を修めたが、そなたらの金欠を心配して象鼻財神に助けを求めたのだ。もし(お金が)あれば、どうか多く布施・供養するよう。でなければ、修法しても意味がないのだ。

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2021 年 06 月 22 日 更新