尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示– 2021年2月12日

旧正月の一日午前九時に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは灯を点して仏に捧げられた後、法座に上がられ、自ら《三十五仏懺法》を司られ、黒水財神法を修持なされた。寶吉祥出家弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩にマンタ供養を献上して法を乞うたのち、リンポチェから貴重な仏法開示を賜った:

三十五仏懺法

多くの人は、旧正月の元日にはお寺に参詣するという習わしに従うが、日頃は行っていない。年に一度しか参詣しなくて、年間を通して恵まれようか。旧正月の元日に、我々の道場では先ずは《三十五仏懺法》を行うが、それは顕教での《千仏懺法》を行うことに当たる。仏典曰く、一仏(いちぶつ)は一切諸仏を代表するとし、あらゆる仏の本質、功徳、慈悲そして事業が同様だという意味だ。ただどの仏も、それぞれに独特な願力を持つ故、衆生の発した願がこの仏にご縁があれば、自ずと該当する法門を修めるように進むのだ。

衆生は直ちに成仏せず、必ず次第に則っての修行を必要とするものだ。よってまず菩薩と触れ合うことが多い。菩薩の行為、思想、動き、功徳を修得した上、やがて仏部(ぶつぶ)にたどり着けるのだ。《宝積経》には、釈迦牟尼仏が自ら口伝された《三十五仏懺法》が記載されている。《三十五仏懺法》は菩薩道を教えてくれる経典であり、《三十五仏懺法》は菩薩道を学ぶに行うべき懺法である故、とりわけ加持力が大きい。

菩薩道を修める者は懺悔を行うべきか。私にとって成仏しない限り、懺悔はするべきことだ。人であれば、起心動念がすべて業であり罪である。また、物事を考えるだけですぐ業に繋がるだろうかと、心に念頭を起しただけで業や罪になるかと言われるかもしれないが、ここでの罪は俗世間でいう罪を指すのではない。仏法という観点から言えば、ある思考、或いは、ある行為が自分の生死解脱を助けられない、自分を三悪道に堕ちさせるなら、罪の範疇に入る。三悪道に堕ちるのが難しいと思ったら間違いだ。それは簡単すぎることだ。地獄に堕ちるのが難しいようなら、菩薩の存在を必要としないし、さらに、地蔵菩薩のご誓言に「地獄が空にならない限り、自ら成仏しないと誓う」ということから、地獄は先ず空っぽになることが不可能だと分かる。

仏法では外道での見解とは違って、地獄は自ら引き寄せるものだと見なされ、仏がわざわざ間違った事をした人を懲らしめるように設けられたものではない。取りも直さず、衆生自らが為した業に感化された生活環境だ。生前に為された事が地獄での生活に似ていれば、自ずとそちらに向くようにされ、それと同じように、畜生に似ていれば畜生道へ、餓鬼道に似ていれば餓鬼道へと。法会前の弟子が語った経験(詳しくは衆生済度事跡第1076号を参照)では、その母親は既に自分自身の葬儀に使うよう、金銭を残した代わりに、自分自身を苦しめられた。残したお金は単なる安心を得るためだ。こうした人が、仮に仏法によって救済されなかったら、きっと餓鬼道に堕ちるに他ならない。

《地蔵経》に説かれたように、地獄は老若男女を問わず、人種や民族の区別もない、中国人のみに限られたことではなく、外国人も行くチャンスのあるところだ。平等と来たら、地獄が最も平等だ。起心動念が悪であれば、身分や地位などを問わず、すぐにも堕ちるようになる。

修行する中、人と接する中、再び軽率さによって間違った事をして三悪道に堕ちることがないように、仏法には懺悔法門があるのだ。仏法だけしか懺悔がなく、外道では神に手助け、思いやり、赦しばかりを求めている。多くの人がかつて求めたのは、例えば「食べていけるようにレストランを経営するが、金運成就したら殺生を辞める」、「今は官僚を務めているから、やむを得ない所が多く、今回だけ無事にパスできるようになれば、今後は二度としない」というようなことだが、仏法ではこう言わない。仏法での懺悔は、真に仏法の教えを通して、自分が何を間違えたかを見極め、永遠と二の舞を踏まないこととする。間違った事を為した自分に、羞恥心を起こすべきだ。多くの人は過ちを起こすと言い訳ばかりを言うが、簡単に言えば、先ずは人に罪を擦り付けることだ。「彼に危害を加えられたせいだ。私はそうは思っていなかった。彼に唆されたからだ。会社がそうしろと無理やりさせた。政府の法令によってこうさせられた。」などは、懺悔しないのと同じだ。過去世に、これほど重い悪業を積まなければ、現世には、悪を為す因縁が自ずと減少ないし皆無になることもある。

私の場合は、母方の祖母は孫息子を厨房に入らせないことから、鶏を殺したことも、魚を裁いたことも、肉を切ったこともない。若かったころ、私は見習いとして、あるホテルで働いた経験があるが、およそ三か月、厨房での勤務だったが、一回たりとも肉を切ったことがなかった。この事実こそ善縁が充分ある証拠だし、過去世に殺すという習性が身に付くことがなかったのが分かる。何故、そなたはこの一生、肉を切ったり殺生するのか。それは、殺業(せつごう)が重いからだ。

懺悔のポイントは、懺法を行い終わるとすぐ何事も良くなることではない。仏門での懺悔は、自ら過ちを知り、悪を為すのを止めてはじめて、善の因縁を蓄積する能力があるようになる。(悪を為すこと)を止めると、すぐ菩薩からの赦しが得られ、金運に恵まれ、健康になるのではない。我々は、仏菩薩や上師にではなく、冤親債主を対象にご寛恕を請うのだ。まともに仏道修行を進めれば、冤親債主も自ずと寛恕してくれるに違いない。

《妙法蓮華経》には、「礼仏一拝、已成仏道。」とあるが、ここでは、既に成仏したという意味ではなく、成仏するよう修行を進めることから、悪を為す機会が減り、二度としないように自ら戒めることだ。仏典曰く「礼仏一拝、罪滅河沙。」、また帰依文では「諸悪莫作、衆善奉行。」と説かれた。多くの人は小さな所から悪を為し始めているが、例えば、自分自身の知名度のためやら、そして良い人と思われるように、政府や部署の金を周りの友人に多めに振り向けたりするなども、罪になる。他人のことをうまく利用して自分を有名にさせるのも罪だ。大きな罪は小さな罪が重なった結果だ。あたかも川の砂のように、積もれば大きな罪となる。何方も小さな罪に心を留めず、ひとこと人を罵ったり、ちょっとでも人に不都合さを感じさせたり、人の富を狙ったり、約束を破ったり、周囲を留意しなかったりなどすると、どうという事はないと思われるだろうが、どれも罪だ。

礼仏一拝(らいぶついっぱい)すれば、あまりにも礼仏による福報が多すぎることから、それら些細な罪は抑えられるようになる。もちろん決定業(けつじょうごう)であれば、一拝にして無くなることはない。礼仏する際、身体健康やら、事業発展やら、金運円満などを祈願するのではなく、懺悔するものだ。懺悔を行ったら福報が伴ってくるから、自ずとこの一生は次第に好転していく。だが、効果覿面ではなく、100回拝んで、癌細胞に消えてしまうなどのように、容易なるものだろうか。そなたは竜からの一つの命を借りていた状態から、100回拝むのとすぐ引き換えられるものだろうか。よって、懺悔することは実に重要だ。

懺悔する際は、心の奥から、これ以上自分に口実を言わせなく、自分が間違えたことを全部認め、既に人を傷づけたことを、まとまって懺悔するのだ。懺悔は数種類に分かられ、一つは内心によった正真正銘の懺悔であり、この場合だと毛が逆立ちし、全身が感電されたようになり、思わず悲しんでしまう様子だ。そなたらが泣き沈むようなものではなく、それは単なる癇癪で、濡れ衣を着せられる思いに過ぎず、「私は懺法を行って、仏菩薩にご加護を受け、私の受けていた不当な対応や苦しみを知っていただくから、泣き出せば済むだろう」と思いきや、済まないのだ。何故なら、そなたは仏菩薩を利用して癇癪を起こしたからだ。癇癪を起すことと、本心からの懺悔とでは、その法性による顕れは異なる。懺悔の場合、いきなり号泣し出すもので、その号泣は自分自身が被害を受けて悲しんでいることによるものではない。

私が初めてインドでの閉関修行を行っている期間中、閉関を開始して二週間のこと、法王から関を出て法王に会えと命じられた。法王の顔を見るや否や、私は跪いて泣いた。自分自身の二週間にわたる閉関修行が大変だからではなく、上師の慈悲を感じ取ったからだ。懺悔が大事なだけに、法王から私に大手印の口訣(くけつ)を伝授しようとする際に、私は自ら法王に、過去世の悪業がまだ清められていないことを懸念し、伝授される前に10万遍の百字明呪を先に唱えさせるようお願い申し上げた。百字明呪には100文字があるから、延べ1,000万字を唱えることになる。約二週間を掛けて唱え終わってから、関を出て法を授けるようにした。そなたらみたいに、法をどう求めても得られないのと打って変わって、私の場合は、法王が授けるよう自ら仰せになったのだ。もし私の業力がまだ清浄になっていなければ、たとえ授かったとしても修め得られないから、何を懺悔すべきかについてご自身で考えてごらん。

本気でひたすら懺悔すれば、人によっては目から血が出る場合もある。故意に針などで刺したり、涙が出るように目を力強く絞ったりするのでもない。これほど(懺悔が)できる人はごくまれだ。できなくても構わないが、「自分に間違いがある」と、常に自分自身に伝えなければならない。もし、現世で何一つ間違ったこともしなければ、調子が悪くなったりすることなどはないだろう。衆生の肉を食べていなければ、これほどたくさんの出来事は有り得るものだろうか。

過去世のことはさておき、現世に限っては一口でも肉を食べたことがあれば、懺悔するものだ。一口だけで、そんな深刻になろうかと思うかもしれないが、一口は命一つに等しい。ちょうどその一口の肉に、動物の霊が宿っていたら事だ。動物によっては死んでも自分の体に執心がある場合もあるから、ひたすらその上に附着するようになる。母親のお腹にいた頃から菜食主義者を除き、この場に居る人は誰でも肉を食べたことがあるし、特にひき肉を食べた衆生らにとりわけ恨めしい。餃子やハンバーガーなどを美味しく食べるなんて、まったく自分自身に間違いがあると思わない。他の人もそうしていると言うかもしれないが、確かにそうだ、だからそれが多くの人が地獄に堕ちている所以だ。私から見れば、亡者10人中の9人は地獄に堕ちているのだ。畜生道や餓鬼道に堕ちるのもいる。誰かが調子が良くないから、今日は法会に行かないようにした。いいよ、それなら私も面倒事が少し減る。この人が諸仏菩薩にご縁がない意味でもあるのだ。我々は病気にも関わらず励んでいる理由に、仏法だけしか我々を救済することができなく、世間にあるどの一つの事も我々への救済をし得ない。聞けば聞くほど、自分自身のことを恐ろしく思うだろう。

この後は、反省の時間を与えよう。振り返って考えれば、物心が付いてからどれほどの肉を食べたか。これまで何匹のえび、どれぐらいの海鮮を食べてきたか。これだけで充分懺悔するべきだ。喋れるようになってから、同級生、先生、ご両親や同僚に嘘をついたことのない人は居ようか。会社や政府を騙したことがない人は居ようか。私自身も含め、誰でもしたことがあるから、これらすべてを懺悔するべきだ。

《三十五仏懺法》の特徴としては、菩薩道を修めるそなたには必ず懺悔が要るというところにある。たとえ、この一生は菩薩道を修めるつもりがなくとも、この因と縁を植え付けさせた故、仏を頂礼する限り、きっといつかのある世になれば、そなたもまともに修行するようになるに違いない。たとえこの世でよく修めなくても、この懺法を行ったことから、そなたも事を取り計らうにはいい加減にして度を過ぎないように心がけるだろう。そのため、本来ならば早く現れるはずの悪業が遅く現れるようになる。つまりそなたにより多くの時間、機会を与えてくれるのだ。

密宗での懺悔には四つの力を必要とする。一つは懺悔力、対峙力、帰依力、発願力である。

対峙力とは、例えば自分の傲慢を知っていれば謙虚にするなり、自分がお喋りだと知っていれば黙るなりすることだ。「愛してる」なんて言わないことだ。何故なら、きっとそなたは相手の思ったような愛し方に達成することはないからだ。愛とは無限に要求する欲望だ。《地蔵経》で説かれた「情欲を重んじれば、死後は地獄に堕ちる」のように、愛もその一つに数えられる。我々は愛さない代わりに、慈悲を学び、善を行うものだ。これもそなたらから言うと、一種類の愛になるだろう。殺生好きな人であれば、肉料理を止めて、善行を多くし更に放生すると良かろう。有名になりたがっていれば控えめに言動したりするなり、目立ちたがるところから、そなたを地獄に堕ちる機会を有させるから、より目立たないようにすると良い。学問があれば自ずと名声を轟かすが、学問がないくせに出しゃばると、結局自分がひどい目に遭うことになる。

帰依力とは、三宝本尊に帰依することである。

発願力とは、発願によって自己にこれ以上悪を為させないことである。私から金剛薩埵に向けた願力は、「身口意を以て永遠に悪を為さず、虚空が尽き果てるまで、私の誓言は尽きない」のようなものだ。宇宙虚空には尽きることはあるが、私が発した誓言には尽きることはない。これは、かなり牢固たる心を持たなければならないものだから、揺るぎない人でなければ、私の発した願力を真似すると、ご自身に危害を加えるしかない。私は命知らずで仏道修行に励んでいるからだ。

この四つの力が現われるのに伴って、そなたの懺悔の力も現れるようになる。懺悔をし終えると、そなたらが良くないと思う出来事が次から次へと発生し得るかもしれない。そなたが修行できるように、これらの良くない出来事を早めに起こさせるためだ。仏を学べば、これから良くないことが発生しないように思うと、きっとその往生する前の最後の一年間は四苦八苦するに違いない。返済は避けて通れないことだから、返さないわけにはいかないと思う。数十年生きてきては、何を求めるのか。穏やかな最期を迎えることを求めるのだ。死ぬ直前に、苦痛を感じない、思い煩わない。医者の診断にミスがあるかないかを心配するのではなく、自分が浄土往生ができるかどうかに気を配るのだ。仏曰く仏は衆生の果報を改められないように、仏でさえ改めようがなければ、況しては私がだ。但し、そなたが懺悔を行ったら、果報が軽く済むようになるが、決定業は間違いなく発生する。

懺悔という法門がすごく重要であるため、どの法門も、懺悔法門から進めば、成就するに違いない。自己満足することは、懺悔しない端緒になる。あたかも三人の出家弟子が、仏法をままごと遊びみたいに見なし、出家者としての威儀をまさに市場に居るような気楽さで取り扱ったようにだ。何故かと言えば、懺悔しなくなり、徳を具備した上師に仕えて自己満足しているからだ。ところが徳を具備した上師に仕えるからこそ、より一層懺悔するものだ。上師が徳を具備していて、厳しくて気を緩めることはなく、そなたがいったん気を抜いたら、よくない状況が発生し得るからだ。私が厳しく行いたいのではなく、仮に私が緩めると、きっと出家者が押し寄せるだろう。ここでは、住む施設も食事も充実し、仏法も聞けて、ひたすら誦経すればいいからだ。だが、こうすると仏典にも、法王からの教えにも背くから、私はやっていけない。

リンポチェは《三十五仏懺法》を拝み始めよと指示を出された。

黒水財神

リンポチェは、引き続き黒水財神の修法に移られた。修法の進行中にも、黒水財神へ祈願する機会を大衆に慈悲深く賜った。円満に終わった後も、こう開示為された:

チベット仏教では財神部を修めている。人類の命は、目に見えない二大元素から構成され、それぞれ財と壽である。釈迦牟尼仏も仏典の中で、人が何故死ぬことにたどり着くかについて講じられている。人によっては、財は持ちながら、寿命を使い切って死ぬ場合もあるが、それは財有り壽無しのタイプだ。ある人たちは、生きてはいるが、食事のためのお金がなくて飢え死にする場合もあるが、それは壽有り財無しだ。或いは、食事に事欠いた貧しさによって死ぬ場合もあるが、それは財無し壽無しだ。また他にも、財有り壽有りでありながら死ぬ場合もあるが、これが非業の死という。よくニュースで報道されているように、ある凄いお金持ちが、思いがけない出来事で頓死した場合がそうだ。

財、壽とも福報の一環で、何れも過去世で修め得られたものだ。この一生で不殺生(ふせっしょう)を貫くなら、寿命が長いに違いない。生生世世で、布施、供養を惜しまないのであれば、きっとこの一生は富を使い果たすことはなかろう。ほぼ99%の人は過去世で殺生をしたことがあると思う。まずは、過去世に遡らないで、この一生だけでのことを言おう。海鮮レストランへ行って、魚が泳いでいるのを見て興奮して、指さしてこの魚が欲しいと言うなり、人が大きな魚を釣って「凄いね、よく大きい魚が釣れた。」と言うなり、食卓に並べた魚を見て「美味しそう、一口食べさてもらおう。」と言うなりすることは、何れも悪に随う様だ。一口でも肉を食べて、一句でも人を批判すれば、財は少し減るのだ。

仮に、過去世で布施したことがなければ、現世は人身を得られず、餓鬼道に堕ちていたはずだ。たとえ、人身を得たとしても、乞食ぐらいになり、朝食を済ませたら、夕食がどこにあるかすら分からない状態だ。富貴を保ったままで人生を通したいとの考えなら、先ずは不可能だ。この一生で為した悪によって、そなたの財は消耗される。また、過去のどの一生かに供養・布施を惜しんだことが絶対にあり、説き聞かせても進んで聞き入れようとしなくなり、知らんぷりをするなりなどしたことがあるだろう。法会前に弟子が語った話のように、娘が引っ越せるようにお金を貯めた代わりに、布施・供養を惜しんだ。まさかこれほど気前のいい上師に会えたとは思わなかっただろう。金銭に困ったら私に言えよと、前からずっと言ってきたにも関わらず、彼女は財物を手放そうとしなかった結果、自分自身が苦しめられただけだ。多くの人は、自分自身の葬儀費用に充てようと、貯金する考え方を持っているが、むしろ何も考えないように全部放り出せというのでもない。仏はそういうふうに仰せになっていない。仏曰く、よく自分自身のことを管理し、布施・供養する機会がやってくれば、戸惑わず、時を移さず、実行に移すのだ、と。

チベット仏教の財神には、黒、白、赤、黄色、緑があるが、道教での五路財神と異なっている。五路財神とは、東西南北中から財をかき集めてくれる故、そなたからもそれに相応しい見返りを払わなければならないのだ。一旦そなたがこの種の財を使うと、命を失うやら、別の出来事が発生するやらに繋がるかもしれない。いわゆる五鬼運搬は、五路財神という財神から、そなたのほうへ運搬してくれと鬼に命令を下したことであって、鬼は何れもならず者のように、労に報いる謝礼を欲しがっているのだ。

財神は五つの色に分けられ、衆生の様々な業障によって、ある一方の財神から助けを求めよう。黒水財神は忿怒相を現わす。人は何故財を持たないのか。その殆どが、自分自身が為した悪業によって財が遮られたからだ。法を修め終わると、すぐお金持ちになることもないが、そなたが悪を為したから、阻止された本来あるべきだった財を、そなたの冤親債主と相談した上で一時返そうということになるから、これらの財を有させて布施・供養に用いさせるようにするが、そなたが成り上がったり、家のローン返済に使ったりする考えではない。そのような考えだったら、自分で修めればいいが、私は年に一度しか財神法を修めていない。またある人たちは、真に累世で供養を惜しんできたから、現世は窮屈でたまらなくて、財神法を修めて始めてようやく基本的な生活が保つようになる場合もある。そのため、我が道場は今の時点では飢え死になった弟子は一人もいない。

黒水財神はパドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)のテルマであるため、テルトンより発見された法である。自ら兆しが出るよう修めて始めて、人のために黒水財神を修めることができる。つまり、兆しがない限り、人のために修められないのだ。これが黒水財神を少なくとも1,000遍や10,000遍修める意味なのだ。この財神は黒色で、意味としては、あらゆる妨げになった神、鬼、冤親債主や畜生などを暫く離れさせるよう調伏し、そなたにあるべきだった財を回復することだ。だが、財を増やすことはないが、私ほど修行できたならば、財を増やすことはある。何やら順調ではないと思っているなら、それはそなたの福報や財をほとんど使い果たしているから上手くいかない感じがするのであって、それでは、この法を修めれば財を回復させることは有り得る。

金銭という財の他に、法財(ほうざい)というのがある(仏道修行に法財が必要であり、つまり仏法を学ぶ機会があるかどうかということになる)。本日修める黒水財神は、仏典にある護法部に含まれ、世間での神ではなく、八地以上の菩薩であるが、少し人としての習性が残っている故、選びはする。三宝を敬わない信者や弟子に対して、相手にしないようにする。敬うとは話を聞くことだ。清浄なる場所に限って黒水財神が修められる。すなわち、殺生、売春宿、レストランなどの、悪い事業を営んだことのある場所なら修められない。

黒水財神を修めるには、修法人は少なくとも観世音菩薩の閉関修行を修め成就していなければならない。しかも、その本尊は不動仏に関わる必要がある。例えば、喜金剛の頂戴が不動仏である上、黒水財神の頂戴も不動仏であることから、あらゆる法門は繋がり合うことが分かる。どの法門を修めるかは、自分自身の過去世による業力や、現世で発した願に関連がある。黒水財神は不動仏の化現(けげん)である故、不動仏に関わる法門を修めていない場合は、この法はかなり修め難いのだ。此の法を修める際、金運に恵まれるようにではなく、菩提心を発することを基調にすべきだ。いわゆる菩提心とは、貧乏も一種類の苦に数えられるから、この法を修めれば、困窮する衆生にこれ以上困窮を続けさせないし、菩提心を以てこの法を修めれば、自ずと望みのままに一切を成就し、あらゆる違縁(いえん)、障碍を消去でき、受用は増長する。そのため、財神を修めることは金運円満のためではなく、世間法、出世法による障碍も含まれる。この法会に参列したため、そなたは逆縁障碍を多く消去させられるし、たとえ逆縁が発生したとしても解決し得るようになる。

黒水財神を修めると、本来そなたに属する財を戻らせるよう助けてくれる。財を持っているから、伴侶のご機嫌を取ろうとするのではなく、現在はお金を持っているから以前約束した腕時計を買ってあげると、彼女に危害を加えることにしかならない。彼女はもともとこの腕時計をもらうべきではなかったからだ。富は使う物とされ、銀行に貯金したままでもなく、やたらに使うわけでもなく、適切に使うべきだ。私が顕教を学んだ時、顕教の法師は私に供養・布施の法門を授けられた。あらゆる法門の中で、供養・布施という環節が非常に重要だ。供養・布施は惜しまずやるだけではなく、正しく、すぐさまに実行するもので、躊躇ったりしてはならない。何でも躊躇ったりすると、今後は何事も躊躇ったりするしかない。

1997年から仏法を広め始めて以来、往生した弟子の中では、すぐポワ法で済度された人も居れば、それを待ったりしなければならなかった人も居るし、私が既に承諾したにも関わらず得られなかった弟子も居て、更に一か月、二か月後に行われた施身法を待って初めて済度された人も居ると、様々な状況があるのは何故だろうか。これらは全てご自身の日頃からの仕草に関わっている。リンポチェが慈悲ではないのではなく、ご自身によって作られたのだ。もうじき往生するだろうと自ら知り、大した金額ではないが、ひたすら供養を捧げ、リンポチェのことにすごく信心を持った故、往生するや否や、私からポワ法を修めてあげた人もいる。だが、一部の人は得られない。何故なら、お金の有無に関係なく、この一生為した事柄によるものであって、ありとあらゆる範囲について為したことに因果を持つからだ。

旧正月の元日に、業障を清めるよう、皆を率い懺法を行うが、業障を清めることは果報が消えるのではなく、そなたの修行に妨げないようにすることだ。むかし、私が密を学び始めた頃、食事に事欠くほどの困窮だった。昼飯は食べれたが、晩飯はどうするかさえわからないにも関わらず、大礼拝(五体投地)をし続けたものだ。夏場でも、冷房、扇風機を付ける余裕もなく、部屋中が40度を超えるという暑さにも関わらず、私は大礼拝(五体投地)をし続けたものだ。食事をするお金はないものの、仏前のお香、灯り、水と花は欠かさなかった。それらを供えるのは、仏菩薩が食べるためではなく、そなたの心だ。家賃は払えない程貧乏のことがあったが、大家さんに即刻追い払われなかったお蔭で、私と菩薩は道端に泊まらなくて済んだ。業は清浄になるが、それに伴う果報は依然として報いるのだ。その時から財神のテキストを持っているが、自分のために修めはしなかった。何故なら、因果応報を信じ、受け止めて向かい合うべきだからだ。過去世のある世で、慳貪で布施・供養を惜しんだことによって、この果報が現われると知っているからだ。上師が供養・布施の機会を与えた以上、一刻も待たずに実行に移すべきだ。寺院の建設への寄附をよそ見したり、躊躇ったりした者や、人に寄付を勧めるのが恥ずかしいと思う者などは、(状況については)今後ははっきりするだろう。

かつて私が閉関修行した際に、一日半も食事を取らなかったことがある。出家衆がシフト交代の時に、この関房に人がいることを引継がなかったそうだが、過去世で私は供養・布施を惜しんだことに起因したのだ。だが、私の修行を妨げることなく、私は修め続けていた。本来ならば、一年半食事取れないかもしれないが、仏を頂礼したことによって、一日半に短縮して果報が軽くなったのだ。これが、いわゆる転重軽受という。

続いて、リンポチェは参列者全員を率い、アキ護法の儀軌を修められたのち、こう開示なされた:

2021年は取り分け良い年でもないが、去年と比べて少しは良い。だが、やはりあまり良くない年だし、これからの何年間かは継続のままだ。「去年が良くなく、今年も良くないから、多めに貯金しよう。去年は一元貯金して、今年は二元貯金しよう」なんて思ってはならない。慳貪そのものだ。そなたらは飢え死にすることはないし、仕事もある状況で、儲けたお金をすべて銀行に貯金するのではないし、計画性なしに、全部使い切って欲しいものでもない。

現在、流行っているコロナウイルスは、六、七月ごろに突然減少していくだろうが、ご想像のワクチン接種によった効果ではない。ニュースでは、今の段階でワクチンはすべて十か国の手に握られていて、貧しい国々は何れも持っていないと報道している。因果から言えば、貧しい国に生まれたのは過去世で供養・布施を惜しんだことに因んだのだ。裕福な国々が、ワクチンを人に分け与えるのを惜しむことも、慳貪だ。人が苦しんでいる真っ最中に、進んで人に手を伸ばすことを惜しむなら、きっと将来も徐々に貧困になる。もちろん、我々の世代ではそれが見られない。人が苦しんでいるところを、援助するのは、その着眼点に関係なく、大きな功徳に繋がる。この十か国が、ワクチンを人に分け与えないのは、菩提心を持たないからだ。彼らは現在では、過去世で植え付けた福報を楽しめているだけで、自ら凄いと自惚れ、他国で苦難を経験している衆生のことを気にしないところから、自分自身の国にも悪の因縁を植え付けたのだ。

世界中は、さまざまに交じり合っている。何故なら、人の行いによってそれぞれ善悪があるからだ。もしある国で国民の多くが善を蓄積すれば、その国家も次第によくなる。末法時代では、政局が不明な中で、明哲保身に努め、当てもなく衝動的に駆けつけず、現在を保つが一番で、何もかも見極めてから決定を下そう。こうした良くない局面の中では、不変を以て千変万化に応じることだ。

全ての災難は殺生から始まる。私に帰依していない皆さんに、ひとこと勧めよう。旧正月元日だけの精進料理ではなく、日頃も精進料理を貫くのだ、と。私は既に74歳で先が長くないから、私と友達になるのは良い事で、より気楽かもしれないが、将来はどうなるか分からないだろう。ご自身が亡くなったら、リンポチェはきっと法を修めてくれるに違いないと考え、ご自身は何もするつもりはないと思ってはならない。リンポチェは100歳まで生きられない。もし、常日頃からそなたは話を聞くのなら、私は待つ可能性はあるかもしれないが、逆に何もする気がなく、話も聞かなければ、私はどうすればいいか。私はそなたと契約を結んでいない。完全に信という基礎で成り立っている。私のことを信じるのではなく、仏法を信じ、仏の説かれたことを信じるのだ。

今年は穏健さを基調に、余分に考えず、身の程を知って物事を進めよう。例えば、突然、誰かが何らかの特典をくれたり、そなたを有名にさせようという話を持ち掛けたら、遂行できないことなら止めたほうがよく、そんな良い事があるかと色々考えると良かろう。または、突然、社長の役をさせようと言われたら、良い事とは思わないで、社長という肩書きは容易に務まるものかと考えたり、これまでどれほど良い事をしてきたかと問うものだ。有名になるために、やるべきでないことをやってはいけない。もともと誇りを持った人は、謙虚に謙虚に振る舞い、能力の及ばないことをしない。お仕事は努力してすべきだが、命がけでしてくれということではなく、会社が給料をくれた以上、手抜きをしてはいけない。出家弟子も更に手抜きしてはいけない。リンポチェからそなたに法身慧命を授け、ご自身も出家の相を現わし、何事も要らない身である以上、俗世間の事柄はもう追わないと良かろう。

ある人たちはリンポチェが短気だというが、短気だったら閉関修行はし得るか。むかし貧乏だった頃は今よりも自在だった。別に帰依して欲しいのではないが、もう弟子入りをあまり多くしたくないので、去年なんか14名しか弟子を入れなかった。しんどいからだ。今はあまり弟子入りはないし、弟子の淘汰も早い。寶吉祥道場では、将来は極端に分れるだろう。急に弟子が増えるか、或いは急に弟子が減るかだ。

落胆しないように。リンポチェに追いつかないと思う人もいるだろう。そなたらはもちろん追いつけない。我が教派では、私みたいなリンポチェは今私一人しかいない。寶吉祥仏法センターも複数ものリンポチェが現われることはないが、(私に)従って実行しつつ、少なくとも私と接点があるように努力すべきだ。いつ成し遂げるかに重点を置くのではなく、し出すことが肝要だ。突貫工事や一夜漬けになることはないが、落胆しないように。進んで着々と実行すれば、いつか成果が見えるようになる。修行も同様だ。

もし何か未練がましいことがあって、そして意見でも聞いてみたかったら、私は相談に乗るが、死んだら相談に行こうということではない。今の時代では、去年は良くなかったし、今年もさほどいいわけではないから、今のうち自分を良くしたいと思う人が大勢いて、どうにかして人が持っている品物を取ろうと策を弄する。仮に、彼からの借りがあったら、返済すると良いが、もっと用心すれば借りがなくて済むだろう。そなたの番がまだ回ってきていないようなら、分相応に振る舞い、策を弄しないよう心がけよう。策を弄して手に入れた物は決して留まらないからだ。

これからの数年間は変化が激しく、特に今年だ。分相応にすれば、無事に通過する。いわゆる分相応とは、今持っている分だけ努力するが、将来はきっと多くなるに違いないことだ。今持っているのを少ないと嫌気を出すのではない。多く稼げると思って、早くも次の仕事に就くなんて、予めご自身の能力を考慮しなければ、一か月するかしないかのうち、首になるかもしれない。これこそ、分相応ではないことだ。商いの場合も同様で、大きな取引があると聞くや否やで、着手すれば、膨大な債務に追われるしかない。

末法時代では、自らが薄福少徳(はくふくしょうとく)だと信じるべきだ。何故かと言えば、福報が足りていれば、仏が居る時代やら、2000年前に生まれたはずだ。あの時代では、生活環境が今ほど整っていなかったが、人の欲望も少なかった。むかし農家の人は、ひねもす田んぼに行って農事に勤しみ、ちょっとでも出来ばえがあれば大喜びした。突飛な考え方は持っていなかった。以前、私が台湾に来たばかりの時に、バジルが香ばしくちんまりだったが、今のは大きくていい香りはしない上、薬効を失っている。何故なら、人は貪って、大きければ大きいほど売れると思うが、本来ならではの香ばしさを失った。グアバもそうだ。以前のはいい匂いするし甘いし美味しくて、カチカチ硬くもなかった。今のグアバは途轍もない大きさで、歯が弱い人が噛むと歯が折れそうほどの硬さだ。取りも直さず、人が慳貪になり、品物を大きくすればお金になると思いながら、本来あるべき姿を一掃してしまうのだ。科学技術がこんなにも発達した現在では、本当はそうなのか。大いに留意して見届けよう。人として貪らない、何事に対しても貪らない、身の程を知って進めよう。ご自身の努力によった成果であれば、もちろん留めると良いが、ちんぷんかんぷんで人からもらう物だったら、留意すると良かろう。

今日は、法会が午前九時に始まったが、私は朝方五時過ぎに出かけ、六時前に法王の御殿に参上し、新年のご挨拶を致しました。法王は中国人でありつつ、チベット人の新年の過ごし方をなさった。上師がそう言い付けた以上、弟子はそれに則って実行しよう。朝方のその時間帯だと、そなたらの多くは、まだベッドに、左向きか右向きかで寝転んでいただろう。新しい一年は、皆さんにとって、安全で無事に、健康に一年を過ごしますようにお祈りします。


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2021 年 04 月 17 日 更新