尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示– 2021年2月7日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて、親しく殊勝な施身法法会を司られ、並びに貴重な仏法開示を賜った。

本日、八大成就法の一つである施身法を修めよう。これは秘密な法で、広く伝え難く、成就まで修めるのも容易なことではない。この法を修めると、行者と亡者の両方に利益を齎す上、専らこの法を修める者なら、間違いなく生死解脱を遂行する。亡者が生前に仏を学ばず、戒律も守らないが、五無間罪も犯さなければ、そして亡者を代表して施身法に参列した眷属も、三宝及び上師に対する信心が充分であれば、きっと亡者を三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)に堕ちさせないよう、人道を得生すると助けてくれる。また、亡者を代表し求めに来た眷属が、その場でこの世を通し、不殺生の上、帰依し仏を学ぶことと誓えば、亡者は天界に生まれるとされる。天界の欲界天・色界天或いは無色界天に至っては、亡者を代表し求めに来た眷属の誓い及びこの世で仏法上務めてきたことに関係する。さらに、亡者が生前に菜食を貫き、帰依して仏を学び、戒律を守ったが、自らこの世で解脱を遂行することができなければ、代わりに誰かが此を求めに来てくれれば、亡者は西方極楽世界に生まれるとされる。これらはすべて《地蔵経》で説かれたものである。

地蔵菩薩はバラモン女であったある世で、母親がどの道に往生したかを知りたがっていた。母親が生前に肉好きでよく三宝を蔑ろにしていたことから、きっと地獄に堕ちただろうと自ら悟って、地蔵菩薩は自分自身の豪邸を売却してすべて仏に供養し、血を流して気絶するまでひたすら仏を礼拝した末、仏はその母親がどの道に生まれたか伝えたという。地蔵菩薩がそれを知ってから、生生世世修行し衆生利益を誓って菩薩になるよう弘願を発した故、その世の母親は未来仏になると仏から授記されたという。

これ等はすべて仏典の内容である。この段落から見れば、如何なる亡者を代表する亡者の眷属も、《地蔵経》に従って取り掛かれば、きっと亡者が大きく助かるに違いないと分かる。《地蔵経》では、亡者の眷属が亡者を代表して「広作仏事」するとあるが、ここでの「広」とは、多くの寺院を走り回るのではなく、仏の説かれたような衆生利益のことならすべてするという意味である。《地蔵経》でもはっきりと講じられているが、眷属が亡者の代わりに広く仏事を為すと、亡者が七分の一の功徳を、眷属が七分の六の功徳を得るとある。

多くの人は、法会に参列して済度させればいい、まだ他にそんなに多くのことをする必要があるかと思うだろう。だが、あらゆる関係のある眷属の良し悪しはそなたに影響を及ぼすことを忘れないように。例えば、そなたのご両親とは遺伝子が一緒であることから、向こうが良ければ自分も良くなる故、仏がこうしろと教えて下さる。例えば、そなたが亡者の伴侶(夫や妻)であれば、亡者のために広く仏事を為せば、そなた自分自身のこの世そして未来世にも、大いに助けられ利益されるに違いない。

施身法を修める前には、リンポチェは二名の弟子が近頃犯した間違いについてご指摘され、仏法に於けるご指導を与えられた。

先ずは、弟子らにこの日曜日は施身法を修める予定だと知らせよと、林という弟子に私は言ったが、彼はその上に「発心して供養してください」との呼びかけを加えた。一部の弟子はこのメッセージを見て、リンポチェが彼に言うように命じられたのだろうと、呟いた。ご周知のように、1997年発足以来、私は巧みに名目を立てて供養をもらうことはいっさいないが、供養するかどうかはご自身次第だ。供養があれば嬉しいが、供養がなければいっそう嬉しくなる。そなたらからの借りがないからだ。《宝積経》にも記載してあるし、灌頂の際にも言ったが、供養しろと人を威嚇したり強要したりしてはいけない。私の感覚では、林という弟子は私の弟子を威嚇しているのだ。まさか、供養がなければ、私は修法しないということはなかろう。こんなことになって凄く遺憾に思ったから、私は己の志を明かし私自身を懲らしめるよう、今日は供養を受け取らずに法を修めよう。彼を弟子入りさせ、伝言を頼んだことに過ちがあった。今後そなたらが過ちを犯す度、私は自分自身を懲らしめよう。だんだんと私は消えていき、今からでも人を追い払い始めている。林という弟子は懺悔しに来てはならない。今後は誰も彼を叱らないから、社長たる暮らしをゆっくり楽しんでもらう。彼は依然、世間法を修めている。世間人としての視野から見ている故、世間人のし得ることをしたことから、彼は自ら間違いがないと思い込んでいる。

これまで私が寄附した金額は、記録があった限りでは、既に1,700万米ドルを超えた。毎年執り行われてきた「阿弥陀仏無遮大済度法会」は今年で十七年目になったが、大法会ごとの済度リストは三十数万件にも及んでいるが、いずれも費用の徴収をしていない。本気で取り組もうとすれば、本日の済度リストだけで十四万件以上はあるから、林という弟子に呼び掛けてもらう必要があろうか。この弟子は会社で社長を務めていて命令を出すことに長けている。何故こういう風になったのだろうか。施身法のテキストの中でも「権魔」に言及したが、私が仏を学ぶことに影響を及ぼさないよう、権魔に侵害されないことを願うとある。誰もが権勢を好み、権力は金銭を伴うと思われている。まさに鶏の羽を令状のように振り回し、自宅であろうと、社内であろうと、団体の中であろうと、権力を争わない時はない。奉仕する際ですら権力を争っている。数十年以来、私はマスコミからのインタビューを拒んできたのは、まさに権魔を敬遠したいからだ。正真正銘で、功徳まで修め得られたら、求めずに自ずと弟子が現われ、たとえ(弟子を)追い払っても逃げてくれない。功徳を修め得られると、福徳も自ずと来てくれるから、供養を貪ることはないだろう。

上辺からこの弟子が為した振る舞いは私のためのように見えるが、実は上師の顔に泥を塗っている。これは破戒より深刻なことだ。この弟子はどうかしたか分からないが、急にリンポチェによくしようと対応してくれた。さようならば、彼は先立ってやらないのは何故か。本日は、ネズミ年の最後の施身法法会に当たって、私から皆に供養するから、法会終了後は誰も賽銭箱に供養を入れてはいけない。供養がなければ、功徳が得られないのではないか。今日はそなたらに起因したのではなく、私が供養の必要がないと言ったのだ。仏寺への護持ぶりから、皆は出し渋ったりして金銭を随分重要視していることが分かった。新年も近づき、ご自宅でも割とお金を使うところが多くなっているからだ。

供養を受け取らなければ、修法は適当に進めるのではないか。いや。それは修法を始めると、いずれも空性の中で進めるものだからだ。この法を修めるには、ひとまず大手印離戯瑜伽の境界を証しなければならない。いわゆる大手印離戯瑜伽は、分別心を持たず俗世間での様々な是非から離れ、空性まで証したという。俗世間での物事は私にとって遊びのように虚無で、実在せず執着しないことだ。何故、彼がこれほど執着しているのか。彼は社長との肩書きで、慳貪さが日増しに重くなり、自然とこちらにまで薫染するようになったから、たぶん私もお金を欲しがっているだろうと思われた。だが、私が寺院の護持に寄付した金額が既に九千万元を超え、数百万という株も寺院に寄付し、勿論それに伴う年間数十万元もの利子にも未練がない。弥が上に家屋を売り始めている。言っては実行に移す。いっけん在家衆のように見えるものの、私は出家衆よりもはっきり知っているから、そなたらの考え方を私のに当て嵌めてはならない。

次に、リンポチェは法律に詳しい弟子にこう聞いた。協会の公式サイトに送ったきたメールなら、その内容を言い出しても問題ないかと。弟子は、問題はない、公式サイトに送信した以上、公開していることと同様だと答えた。リンポチェが続いて開示なされた。このメールはある出家弟子が送ってきたのだが、そのあらすじは、彼女のもともと所属している寺院は大掃除するにあたって、敷地が広く人員が少ないため、その彼女が長寿仏真言の持呪に来れば、往復して半日掃除作業ができなくなる上、台湾新幹線も自由席を取り消した故、土日だけしか指定席が取れない。さらに、彼女の所属している寺院にも影響しないようにということで、毎日のように持呪に来ることができなくなるとのことだ。

私が見れば、いずれも口実に過ぎない。長寿仏の真言を唱えに来れば、在家の弟子にとっては善縁を結ばせる機会となる。長寿仏真言の持呪に来た何方も、この世で非業の死に遭われることはないと断言できる上、生生世世の間に長寿仏はご加護くださるし、乃至そなたの眷属までも被祐される。(参列者全員はリンポチェを感謝するようお礼を言った)。出家弟子にとっては、この一生は修行するためなので、色身(しきしん)は修行に用いるもので世俗的な御用はない。上師たる私は、如何なる方便法門を使って福徳因縁を累積させることに努めている。衆生を助けるように、持呪、読経、礼拝などをするのは、もともと出家衆としてすべきことだ。出家衆は日頃、特別な用事がない上、上師が行えと言い付けたものだけれども、やりたくないなら取り付きから言えばいいのに、取り掛かって途中になって口実でも見つけて辞めるようにことはするべきではない。

私だけを対象に言うならまだいいが、他の人にも罪を擦り付けるようになると、他の人はまだ空性の慈悲心を修め得られていないこともあるのだ。来たくないなら来なくていい。幸いなことに、この間内政部から書類が来て、我が道場の感染拡大防止対策がよくできていることと、今後もお手本として頑張って欲しいと表彰された。多くの弟子も中部や南部から同じように往復しているのに、彼等はこう書いていない。そのメールには「リンポチェも仰せになったように、修行は力を尽くせばいいが、ご自身が想像したように必ずある目標に達さなければならないのではない」と書いてある。これはまさに、自分の都合のいいように一部を取り出して引用している様だ。彼女は帰依してこの方、ちっとも改めていない。釈迦牟尼仏も仰せになったように、機根によって違う修行方法を講じるとある。あくまでも、私がそれを言った際は在家衆のことを指していた。在家衆は出家衆と違って、お仕事、ご家庭、そしてご自身を養わなければならない故、力を尽くしてやりながらも、仕事を放り投げることはできないのに対し、出家衆は色身と命を用いて修行するものだ。

それだけではなく、メールでは他の出家衆を批判するような内容が綴られていた。人の修行が良くないと思うなら、私や協会の理事に伝えてくれればいいのに、こう公に言ってこの道場を取り壊す気か。だから、彼女自身の仏寺を懸念させないように、私は彼女を弟子入りにする資格がない。文字にすれば口業の枠外になると思ってはならない。とかく口業の範疇に入り、とんでもない事になるから、口任せに口業を作らないようにして欲しい。

仏を学ぶことは屈託もないはずだが、彼女が苦痛そうに二か所を行き来し、ここに来ては法を学び、仏寺に戻っては住む場所がある。実は住む場所がなければ私に言うと良いが、従来のところに未練があれば戻ると良い!(メールの)内容を見る限り煩悩だらけで、少しも出家衆のように見えない。この出家衆はもう離れると良いし、テキストをすべて戻してくれよう。もし、テキストを複写すると盗法を犯すことになり、それを伴った結果がどれほど深刻かは、かつて仏教学院に通った彼女なら知っているはずだ。

これ等は、私に報告するなり理事会に言うなりすれば良いのに、わざわざサイトに書き込む必要はない。道場には千人強と大勢がいるから、こう公に人を批判することは許さない。仏を学ぶのは難しいことではないが、専ら問題は人にあり、人はとかく自分自身の思想、習慣、性格を仏法に溶け込ませがちだ。仏道修行、成仏にしては、人の為した事、思想などは全て正確ではないとされ、人の良し悪しについてではなく、為された物事が生死解脱と関連性がないことを指すのだ。自ら仏を学ぶと思ったからには、世俗人の枠に堕ちないよう、あらゆる思考、振る舞いに関する準備を整えるものだ。

林という弟子は帰依して長く経っているし、私が彼の母親を如何に助けたかは、彼自身もはっきり知っているはずだ。仮に仏法を用い供養と引き換えるようなら、私の能力ではいくら徴収しても皆は応じてくれるが、私はそうはしていない。さらに私に帰依していない人からの供養も、受け取らないでいる。ご存じのように、1997年以来、私は始終変わっていない。去年も不況だったから、「阿弥陀仏無遮大済度法会」の経費の一部分をも私から出し、そなたらからの出費を不要にした。供養を捧げてくれるかどうかは関係なく、私は一貫して空性の慈悲心を以て広大なる衆生を利益する。

リンポチェは修法を始め、受苦の身にある亡者を済度することに取り掛かった。リンポチェは大手印禅定の中で、殊勝な施身法を修持し、自身の一切の血肉、骨を惜しまずに諸仏菩薩に供養しつつ、一切六道衆生に布施することを、勝義菩提心を以て観想する。並びに六字大明呪を長く持誦され、慈悲なる法音が十方(じっぽう)に満たされる。衆生を輪廻苦海から救出するようなリンポチェの懇切な大悲心を参列者皆は感じ取り、思わず涙をこぼした。

円満に終了した後、リンポチェは参列者全員を率いアキ護法と廻向儀軌を修められた。リンポチェは自ら大衆を従えチベット語と中国語で《求生極楽浄土祈請文》を持誦され、参列者は上師の無尽な慈悲心と、衆生が離苦得楽(りくとくらく)を願う懇切さを受け止め、つい泣いてしまった。

リンポチェは引き続きこう開示なされた:旧正月の一日は朝9時から共修法会を執り行うに当たり、先ずは《三十五仏懺法》を修めよう。《三十五仏懺法》は《宝積経》から釈迦牟尼仏が自ら口伝されたもので、菩薩道を修める人はこの懺法(せんぼう)を行うべきだ。《宝積経》が我々に菩薩道の修め方を教える経典である故、《三十五仏懺法》による加持力が甚だ大きい。累世で身口意で犯した悪業は、懺法を行うことによって清められ、修行への妨げを無くし、更に自身が如何なる過ちも犯さないようにするのだ。

来る一年に、皆の仏を学ぶことへの妨げが少しでも減るようにと願って、皆で《三十五仏懺法》を修めよう。業障は善業と悪業に分れ、善業でも悪業でも重すぎると修め難い。懺法を行い終わってから、仏を学ぶ上何一つ過ちを犯さなければ、修行への障碍が日に日になくなっていく。だが、決定業(けつじょうごう)なら報いるに決まっており、懺法を行ったから報いないことはない。また転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)になることは多く有り得るが、すべて滅びることはない。もし、全てが滅びるのであれば、《宝積経》ではとっくに《三十五仏懺法》を行い終わると悪果が発生しないと書いてあったはずだ。懺法を行うと、良くない事は発生せず、たちどころに良い事が発生する意味ではない。仮に、懺法を行い終わると因果が報われないと思うなら、仏典に「拜懺滅因果(懺法を行って因果が滅する)」と書かれていたはずだが、そうは書かれているか。いや、「拜懺消業障(懺法を行って業障が滅する)」としか書かれていない。何の業を消すか。修行を妨げるような業障を消滅させるのだ。

だから、懺法を行えば来る年が良い年になることと勘違いしてはならない。懺法を行ってから間違った事をこれ以上為さなければ、自ずとうまくなっていく。それに対し、懺法を行い終えてからも、身口意による起心動念がまだ業に繋がれば、いくら拝んだとしても、人天福報しか得られず修行の功徳が得られない。毎回法を修めるに先立って七支供養を唱えているが、懺悔も供養の一種類と数えられる故、そなたが因果、因縁そして上師と仏が説かれた事を信じて進んで懺悔するこそ、本物の供養だ。悪果(あっか)を憂えるからと言って、懺法を行ったら悪果が現われない考えで懺法を行うのではない。こういうのは供養と言えず、人天福報しか得られない程度のものだ。

昨日、ある出家衆は会見を求めに来たが、如何すれば健康になれるかと指示を請うた。我々の生身は業報(ごうほう)の身である故、受胎された一刹那から往生するまでの間は、善業であろうと悪業であろうと、生身を以て業を返済するものである。進んで生身で返済しようとしなければ、空性を証した場合に限って、生身と多くの物事に変化が起こり得るのだ。元より、色身は善よりも悪のほうを多く持っているが、空性を証すれば、悪の遺伝子が善、良いほうに転じる故、健康状態が自然と好転するわけだ。だが、空性を証するまでは必ず医者に診てもらうべきだ。

「この生身は虚仮を借りて本物を修めるのだから、医者に診てもらうのは金銭と時間の無駄だ。健康になるよう観世音菩薩はご加護頂く」という見解を持つ人もいる。しかしながら、《大蔵経》の続タントラに、観世音菩薩が如何にして人の病を治したかについて説かれ、治療の処方が多く書き出されていた。現在もそれらの処方に則って探している人もいるが、ただ記載された薬の名前が現在では見つからない状態だ。祖師ジッテン・サムゴンのある著作に病気の治療方法が書かれているが、唯一の条件としてはご自身が上師に対し絶対な恭敬を持つことだ。少しでも疑いがあれば、如何にこの法を修めようが効果が出ないということだ。私はこの著作の中国語版を持っていて、数多くの病気が治せる。何故、その著作を皆に見せないのか。それは、そなたらは上師に対し100%の恭敬心を持たず、いずれも口ばかりで心を伴わないからだ。上師を敬ってはじめての供養なのだから、供養があって初めて福報が上がり、病気は好転するのだ。病気の好転は、そなたの業と福報にも関連を持つのだ。

福報が足りれば単に医者に頼っても病気は治るが、福報が足らなければ医者ばかりを頼りにしてはならない。ある出世法を体得するには、あるいは日常生活での目安としてある出世法をどう手心を加えられるかには、多くの場合は修行の経験が必要とする。修行の経験を持たず、当てもなく無鉄砲にやるなり似て非なる道理を聞くなりなどするのは、まさに仏典に書いてある通り、ある盲人が盲人同士を連れて象を手に触れるようなもので、一人は太ももを、もう一人はしっぽを、残りの一人は象の鼻を触ったように、言い出した事はそれぞれ違うのだ。チベット仏教で何故上師が重要なのか。それは上師は経験を持った行者だからだ。経験ありとは、ひたすら閉関修行を行うのではなく、仏道修行して仏法を身上に活用し仏法の真実義を実証するのだ。

私自身も数年前に大出血を経験した。救急しに病院に運ばれずに済んだが、何故なら私は仏法を活かして如何に自分を助けるかを知っているからだ。当時、20日もの施身法を修めて健康状態を回復させた。くれぐれも私の真似をしように、ひょっとしたら遺体を解剖させられる結末にもなろう。ご存じのように、病院で往生する者でなければ、いずれも遺体は解剖されるのだ。

私が大出血した際の様子について語ってみよう。西洋医学の医者弟子が当時の様子について次のように述べた。「あの時、リンポチェはずいぶん血を失われ、唇の色が紙のように真っ白だった。話された際もぐったりしていたが、リンポチェはいつも背筋をしゃんと伸ばしていたものだ。我々はリンポチェに点滴を打とうとしたが、針さえ血管に入らない状態だった。血管が沈んでいて、ぺちゃんこになって、僅かしか血が残っていないから打てようがなかった」と。リンポチェから一般人だったら回復するにはどれぐらいかかるかと聞いたところを、輸血なしで少なくとも半年はかかると答えた。続いて、リンポチェは漢方医の弟子にその時大出血した際の状況を聞いてみた。漢方医の弟子がこう述べた。「その時、リンポチェの脈状はおよそ三分の一弱に落ちていた。血管がまさにネギの管のように、血が不足していて中が空っぽだった。一般の人だったら、この状況だと少なくとも一年ないし二年の養生期間がなければ回復する見通しがない」と。

つい、リンポチェがその場にも居たもう1人の蔡という医者弟子に話を聞こうとしたが、彼女は針灸の研修のため、法会への参列はしなかったと分かった。リンポチェはすかさず針灸専門の漢方医弟子の妻を呵責し、夫への伝言を頼んだ。「これ以上、蔡という医者弟子を日曜日に針灸の研修に呼んだら、蔡弟子にしても来ないでもらいたい。この針灸専門の漢方医弟子も明日から会見を求めに来るな。私が針灸の弟子を紹介してあげようと、蔡という弟子に針灸を学ばせたが、あまりにも金銭が好きすぎてよくも日曜日という日を選んで研修を行い、蔡という弟子を法会に参列させなかった。妻が夫を代表して法会に参列すれば、夫や子供らが守られる気か。医術がいいからと言って医王のつもりか。私にとって仏法こそ医王で、あの大出血から私の命を守ったのは仏法だ!」と。

施身法に参列できることは宿世の因縁福報によるものであり、まぐれさいわいでもなく、私がしなければならないことでもない。参列するどころか、施身法との三つの字を耳にする事さえ容易なことではない。あたかも先ほど聞き及んだ弟子らは参列する資格さえないのだ。彼等は私の凄さを知りながら、私より彼ら自身がもっと凄いと自惚れている。この法を修得するのはさほど簡単ではなく、複数の条件が付くものだ。上師たる私は教えたり従えたりするが、そなたらは話を聞いて実践すべきだ。私はもう74歳で、因果以外は何も恐れない。そなたらに金が有ろうと権力があろうと、いずれも私にとっては一緒だ。私の心の中には、上師のことと救済を待つ衆生のことだけしかない。私は金は要らないし命を捨ててもいいから、どれだけ大きな権勢であっても、私の仏道修行と弘法が動揺することはない。そなたらは表では仏を学んでいるように見えるが、本当は守り助けられることばかり求め、家族や子供らが守られたらと願っている。いくら問いただしても変わることはなく、そなたらは私の前では何れも透明で見破られている。

人生の意味は何だと、聞きに来る人が多い。まさに「生老病死」だ。権勢があろうと、裕福であろうと、医術が如何に良かろうと、何れも「生老病死」から逃げられないのだ。こう言った以上、なぜ仏を学ぶというのか。仏道修行によって後世は生老病死を無くすことができるからだ。皆さんもここ数年寶吉祥道場で見てきたと思うが、一部の弟子らが上師と諸仏菩薩に信心したから、往生前には苦痛を覚えなかったり、ないし自らの死を予知したりした。何故なら彼等は生身の病苦に執着せず、全部解き放してはじめて浄土往生が遂行できるようになったからだ。仏を学べば、有名になるやら、健康が良くなるやら、弟子入りするやら、悟りを開くやらと、狙うのではない。

ステップバイステップで実践すれば、きっといつか遂行するに違いない。もし私が転生によったリンポチェなら、そなたらからはリンポチェみたいにはでき兼ねると言うかもしれないが、私のこの一生は、そなたらと同様に信者からの修行だったのだ。もちろん累世での修行とも関わっており、現世になって善の因縁が備わるようになり、これで自利利他する機会が与えられたのだ。そなたらはそうではなくても、揺るぎない信心があれば、上師と仏法を頼りにすれば、そなたが往生する際には必ず済度されるように助けられる。多くの人はリンポチェが居なくなったら誰が自分を助けようかと不安がっているが、これでは上師と諸仏菩薩の願力が助けてくれると信じないのと同様だ。

皆さんを率い、チベット語と中国語の両方で《求生極楽浄土祈請文》を唱えたのは何故だろうか。中には、浄土往生への妨げを取り払うよう上師と仏菩薩に祈り願うと書いてあるからだ。上師と諸仏菩薩に充分な信心があれば、たとえこの一生は円満に修めなくとも、救済される機会はまだある。皆が施身法法会に長年参列してきたにも関わらず、皆に依然多くの問題が見られる原因は、そなたらにある。同じ法に同じ修め方、同じ唱え方のくせに、私にならすぐさま効果が見られるが、そなたらにはそうならないのは何故か。明らかにそなたらの信心、業力、功徳と福報に関わっているのだ。

これほど多く説き聞かせたのは、ネズミ年最終の法会で仏道修行の方向を教えたいからだ。私みたいに、生涯をかけて修行に励んできたにも関わらず、それでもいろいろな事態にたくさん遭ったりしているのに、況してそなたらのこと。だが、すべて解決し得る出来事だ。諸仏菩薩は、私が四苦八苦してひたすら衆生済度に努めることを知り、ご加護頂いているからだ。菩薩道を修めると決心すれば、諸仏菩薩も必ず護持くださるに違いない。菩薩道を修めるのは、毎日どれほど唱えたか拝んだかではなく、心構えが肝心だ。常に自らの身口意を放縦しないよう心掛けよう。またうっかりすると口業を作り得ることもある。本日、林という弟子と出家弟子は何れも口業を作ったことについて、皆に慎重に注意を払って欲しい。自らを放縦するのはあっという間のことだが、それを取り戻すには相当な気力を費やさなければならないのだ。


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2021 年 03 月 31 日 更新