尊いリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示-2021年1月24日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて帰依儀式を執り行われ、開示なされた:

定時に供養するものである。

リンポチェは参列者全員を率い《瑪尼迴向速證大楽文》を修められ、並びにこう開示なされた:

観世音菩薩はとても重要な本尊であり、慈悲の代表である。仏を学ぶには慈悲を修めるのが必須で、慈悲、空性の慈悲を修得していなければ、いくら多く学んだとしても無駄だ。以前は、慈悲について開示したことがあるが、今は、再び簡単にではあるが触れよう。「慈」とは自分自身のベストを人の良くないのと交換するもので、「悲」とは受苦の衆生を彼岸まで度させるものである。故に、義挙する、善を行う、奉仕する、人を仏道へと導くのは、すべて慈悲ではない。読経や、真言などを持するのも、慈悲ではない。さらに、微笑みを見せたり、顔を立てるような言葉を言ったりするのも、慈悲ではない。慈悲を身に着けるには、修行が欠かせない。最初は地盤が固まるように五戒十善から修め、次第に諸仏菩薩の慈悲が分かってくるとされる。

本日は、二通りのテキストを修める予定である。一つは、観世音菩薩簡軌であり、その実、中には密法での所作タントラが既に含まれる。密法では、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラと、無上瑜伽タントラに分かれる。一般的には、無上瑜伽タントラは授けないようにしている。所作タントラでは本尊が為される一切の仏法事業を修習する事であって、行タントラでは思考、立ち居振る舞いが本尊と無二無別になる事を指すのである。一つ目のテキストは所作タントラの簡軌で、生起次第(しょうきしだい)と円満次第が包括される。帰依していない者や、灌頂が授からない者は、たとえテキストを入手されたとしても、どう唱えようと、修得できない。

もう一つは、開祖が慈悲深く伝えた《瑪尼迴向速證大楽文》である。ここからも、仏を学ぶ際は、必ず廻向が必要だと分かった。だが、廻向はご自身の家族や上司などを対象にするのではない。菩薩道を修めるには、止まらずに与える事であって、自分自身のために修めることはない。上師に廻向すれば、怒られることが少し減るだろうと思うな。かえって厳しく咎めて叱られるぞ。

毎日修めたすべてを廻向するものである。『宝積経』には、釈迦牟尼仏が廻向について説かれたことがある。あらゆる善法(衆生利益のできる仏法による如何なる方法も善法という)を修めて、それらをすべて西方極楽世界に廻向できれば、かならず阿弥陀仏の仏国土に往生されるに違いない。昼夜六時に、ひたすら阿弥陀仏を唱えてはじめて行かれるとは限らず、『宝積経』では、菩薩が十種類の心を発すとし、その中の一つが、あらゆる善の功徳を西方極楽世界に廻向することに当たる。絶え間なく実践し続け、そして往生を発願すれば、きっと、どの法門を修める者も、事切れる際に、阿弥陀仏浄土へと来迎されるに違いない。

簡単に言えば、毎日の点灯や、焼香や、真言の唱えなど、全部廻向するものであり、自分自身のためや、家族に振り向けようとはしない。今さっき皆さんもよく見たと思うが、テキストの中では、最後の廻向ではちょっと触れた以外、その間では一句たりとも自分自身のためについて説かれていない。

これは、外では非常に珍しく、直貢噶舉独特のテキストである。中で講じられたすべては、十方法界における一切の苦海輪廻の衆生のため、西方極楽世界へ来迎されるよう、観世音菩薩に祈願する事ずくめである。そなたが密法を習得するまで、顕教を学ぶまで、このテキストは物凄く役に立ち、どの念頭でも衆生のためだという心を持つよう訓練をしてくれている。本日は、観想の教授はせず、唱えるだけしていたが、私は観想し続けていた。上師が観想の仕方を授けない以上、ご自身自ら観じたものはすべて間違いだ。

このテキストの中で、最初の段落は、観世音菩薩は三世諸仏の化身であると説かれる。第二段落は、釈迦牟尼仏と一切の直貢噶舉上師に供養し、六字大明呪の精要が生起するよう祈り求めることである。唱える際に、いくらピッチが合っても、空性の慈悲心、仏菩薩の心を以て持呪せずに、人の心ばかり、学問への研究の心持でいれば、六字大明呪の精要は生起しない。そなたの念頭に、この句はピッチが合ったかな、とちょっと思うと、仏菩薩の衆生救済に一途の心ではなくなる。凡夫で持呪すれば、その功徳と加持力は起きない。称名用のテープレコーダーも仏の名号を唱える機能も付くが、そなたらは機器のテープレコーダーよりましだ。生身のテープレコーダーでは、中止したり、時間を選んだりして唱えられるのだ。上師、諸仏菩薩のご加護によらなければ、真言の精要はとても起こり得ないが、依然唱える必要がある。ひねもす、この口で人を罵るよりも、善である真言を唱えるものだ。

真言の精要が生起するように、上師と仏菩薩にご加護を祈り求めている。我々から聞けば、単に音のようなものだが、衆生から見れば、それは六道衆生を度する六色を放った光である。我々では、音を光に変えはできず、仏菩薩に頼るしかない。上師は閉関を円満にした故、持呪の精要が起きている。一段落目から三段落目までのポイントは傲慢しないことにあり、ご自身の持呪は衆生救済に当たっていると思うな。唱えれば衆生救済になるやら、功徳があるやらのだったら、とっくにテキストにも書いてあるが、テキストにはそう書かれていない。そなたが(テキストを)覗いて怒られた所以は、ご自身が唱えていると思い込んでいたからだ。

仏法僧に帰依した以上、仏と上師の言われた通りに実践すべきであって、ご自身の方法を持ってはならない。でなければ、有為法(ういほう)になり、つまり有漏は業力が伴うのだ。これまでの幾つかの段落ではっきりと講じてきたが、上師と仏菩薩によってご加護頂き、はじめてこの真言を唱えれば本尊観世音菩薩と相応されるようになり、観世音菩薩の真言におけるエネルギーが降りてこられ、更にそなたが祈願した衆生等を助けられるのである。テキストでは、ご自身のことにいっさい触れずに、専らそなたと関連を持つ、持たない衆生について書かれている。

累世で貸し借りのある衆生等が六道輪廻を離れない限り、そなたも絶対に浄土に行かれないのである。彼らに廻向すれば十分だと思ってはならず、彼らが離れない限り、その業力はそなたを引っ張っている。100歩歩けるところを、引っ張られたことから、50歩を歩く時点で力が抜けてしまったりする。一見、テキストは衆生のためのように見えるが、実は自分自身のためにもなる。どの世を問わず、大小も問わず、誰一人でもそなたと関連を持った衆生がまだ輪廻していれば、そなたも輪廻する可能性がある。唱えさえすれば、彼も行かれるだろうか。 そうとは限らず、またその因縁にもよるのだ。だが、少なくともそなたの発心は自分自身のためではなく、これこそ菩薩心と言う。自分の悟りを開くことや、果位を証することなどのための発心なら、菩薩ではなく阿羅漢になる。何故、三人の女性出家弟子を咎めて叱ったのか。 それは、彼女等は阿羅漢を修めているからだ。これら出家衆はもっぱら自ら自分自身のために実践し、いずれも阿羅漢を修めている。しかし、数百年前に戒められたように、今後阿羅漢は存在しない、と。阿羅漢は修め得られない上、また菩薩道も修めていなければ、どういうつもりなのか。

このテキストは、菩薩道を修める心、慳貪しない、与えるのみでコミッション(見返り)を期待しないこと、を訓練するのに重点を置く。大灌頂に至るなら話は別だが、なぜならそれはそなたに既に福報があるからだ。現在、凡夫の身であるそなたらに対して、テキストでは見返りがあると語られていない。後半は廻向について講じられ、「以我所修此功徳。祈願速證観世音。」とあるように、修めた功徳を以って、観世音菩薩の化身になることを祈願するのである。快適な日々を過ごすためではなく、観世音菩薩を代表して一切の衆生が仏国土に行くように手伝うことに当たるから、粒々辛苦するのである。そなたらみたいに楽ではない。

先ほどテキストが取り戻された人以外、既に帰依した者は、皆このテキストを貰うと良い。テキストを貰ってはいけない弟子は、求めに来るものだ。テキストを貰ってから、毎日唱えようが、どう唱えようが、そなた次第だ。このテキストのポイントは、「与えに与え、与え、与え、与え」で、「くれ、くれ、くれ、くれ、くれ」ではない。進んで与えようとしないなら菩薩道と乖離するし、取り返したいとばかり考えるのも菩薩道と無関係だ。ご健康になり、多く持呪されるように加持を与えるのは、願いが叶うようにそなたを長生きさせるのではなく、手術がうまくいくように加護をするのも、私の凄さを見せつけたいからではなく、阿弥陀仏浄土へ往生する機会を持たせたいからである。老人ボケになったら唱えようがあるか。今は、たとえ視力がさほど良くなくとも、耳が聞こえ、口が唱えれられるうち、多く唱えるものだ。末法時代では、テレビを見ていても唱えられ、まさに私は目で何を見ていようと、心の中では唱えられるまで訓練できている。

このテキストでは一切衆生のことを包括し、西方極楽世界浄土へ往生するよう導いてくださるように観世音菩薩に祈願する。「観世音菩薩がそんなに凄ければ、まだ求める必要があろうか。」と思われるだろうが、本当は縁を持たないと衆生を度しようがないのだ。本日、我々は衆生と観世音菩薩の間に介する媒介である故、我々はこの願をおこすのだ。願というのは、何か成し遂げるのではなく、衆生救済ができるかどうかだ。我々が発願したから、観世音菩薩が空性の慈悲心を起し、それら衆生を助けられるように我々を加持してくださった。衆生の代わりに誰かが求めに行かなければ、諸仏菩薩は動じないのだ。

衆生の代わりに求めることは、家にいる人でも衆生の一人だから、わざわざ指名する必要があろうか。家にいる者なら、誰も多く借りているし、冤親債主がないわけはないではないか。それら冤親債主が度されない限り、ひねもす他の家の人によくしてあげることばかり口にしていては、嘘つきだ。そなたと恩や怨を持つ人こそ、お宅に現れるのだ。借りか貸しかのどちらかだ。子供がお宅に生まれたのも、単に縁を結ぶもので、言うことを聞かなければさっさと離れしまう。そなたらは私の子供の追い払ったりしない。誰も私ほど為せないのだ。

このテキストは、菩薩は何だ、と教えてくださった。つまり、「与える」のである。自身は何かが得られる、何になると期待せず、与えるのを恐れない、与えるこそ持つ、捨あっての得、捨せずには得られないのだ。仏法の観念としては、犠牲しなさいやら、所持の一切を放棄せよやらではなく、そなたの心構えと思想は人と異なるものだ。ご自身が生活できないほど、金全部を人に分け与えるのではなく、修行で修得したものを出すのだ。こんな与え方だと、そなた現在の生活にダメージを与えず、しかも知らないうち、無限に拡大していって止められるものではない。法王も仰せになったことがあるが、私が仏法で何をしようときっと上手くいく、と。何故だろうか。それは福報が充分あるからだし、私は絶えず与えているからだ。我々は仕事をしないのではなく、ただ日常生活での些細な事にとらわれ、それによって仏法を放棄することがないのだ。

リンポチェは参列者全員を従え、アキ護法と廻向儀軌を修められた。


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2021 年 03 月 20 日 更新