尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示-2020年11月15日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは燈を点して仏に捧げ、法座に上がられると、阿弥陀仏の真言を唱えられた後、『仏説阿弥陀経』を御解釈くださった。

経典:「舎利弗。衆生聞者。応当発願願生彼国。所以者何。得与如是諸上善人俱会一処。舎利弗。不可以少善根福徳因縁得生彼国。」(舎利弗よ、衆生聞かば、応当に願を発して、彼の国に生まれんと願うべし。所以は何。是の如きの諸の上善人と俱に、一処に会することを得ればなり。舎利弗よ、少なる善根・福徳の因縁を以て、彼の国に生まるるを得べからず。)

釈迦牟尼仏もはっきり仰せになったが、西方極楽浄土に往生するにはいくつかの条件がある、と。第一に、発願すること。発願は口だけで唱えたりするのではない。ちょっと考えてみるだけでは、行かれない。既にはっきりと解釈したことがあるが、阿弥陀仏浄土に行って修行するものであって、安逸な日々や、この一生の苦難と苦痛を避けるように、阿弥陀仏の仏国土(ぶっこくど)に生まれ、楽しむものではない。いわゆる離苦得楽(りくとくらく)とは、俗世間の楽ではなく、俗世間の七情六欲(しちじょうろくよく)、意識での楽ではなく、永久不生不滅という法喜の楽である。故に、例えば、この世で癌に罹り、これ以上苦しまないように、阿弥陀仏のご来迎を願うということで、発願往生とは言えず、苦痛から逃げるのに過ぎない。

浄土を修める多くの人は、業を帯びて彼国に往生すると言っているが、ここで言う業は善業であり、悪業ではない。そなたがこの世で為した一切の悪業を、死ぬまでに完済していなければ、悪業から善業に転じていなければ、そなたでも行けようがないという事だ。十方国土の中で、阿弥陀仏の仏国土だけ業を帯びての往生ができるが、そのほかの仏土へなら、善業でさえ持っていけないのだ。持っていけないとは?起心動念で為した一切によって業力を生じ、それが善、悪業を問わず、輪廻が始まるからだ。だが、この一生で空性を証し、如何なる事に執着しないようにしてもらうのは、ほぼ不可能な話だ。

そのため、阿弥陀仏が四十八願を立てられた。たとえ、そなたがこの一生で空性まで証せず、徹底的に我執(がしゅう)を破られなくとも、善事を行っての修行がお好きであれば、それなりに修行させるが、この種の修行は菩提心に変えられるものではなく、ご自身の将来のためであり、これを正に善行という。

菩薩道を修めるのは、自分自身の後世を考慮せず、単なる生生世世絶えず衆生利益しようと願うだけだ。「発願、願生彼国」とは、この一生でそなたは仏を学び、帰依し、戒律を守り、仏法による薫陶を受けご自身の貪瞋痴慢疑の毒を変えていることを指し、菩薩道という道に向かって努力しているからこそ、「発願、願生彼国」との種の願に、力が現われるのだ。

言っただけでそうだと見なされるものではなく、また発願文を毎日唱えればきっと行けるものでもない。そなたの俗世間の出来事があまりにも入り込みすぎている。まさに地蔵菩薩曰く「起心動念はすべて業であり罪である。」のように。ここで言う罪は、牢屋に入れるような罪を下すものではないが、実際には牢屋に入れるようなものだ。起心動念が自分自身のためであれば、善、悪業を問わず、輪廻という罪が生じる。起心動念がご自身の利益であれば、いずれ借り、貸しになるから、後世になればまたやってくるのだ。

彼の国に生まれたいという願を発するのが第一条件だ。この願を発した理由をはっきり分かるべきだし、実践したかどうかもはっきり分かるべきだ。願を発した事がない人はいないと思うが、例えば、何方も、子どもの頃に書いた「私の希望」という作文があるが、実践した人はいようか?子どもの頃の希望に達成した人はいようか?何故誰も達成しなかったか?もちろん僅か少数の人は達成しているが、ほんの少数だ。達成できなかった理由は、環境のほかに、こまめにやったかどうかもある。例えば、何かしたいと発願(ほつがん)すれば、最初は俗世間の勉強から始まるではないか?子どもはとても小さい時から勉強始めている。現在は、子供によって2歳から幼児保育に預けられ、それに幼稚園、小学校、中学校、高校に大学で、最低でも16年はかかる。さて、帰依後は毎日、祈願文でも唱えれば、わずか五、六年して阿弥陀仏の身許に行けると思えるのは、何故か?何もせずに行けようか?

自分が帰依して十数年もたったのに、何故行かれないのか?と言うだろうが、あたかも昨日会見を求めに来た弟子三人みたいに、もう私は叱るのが億劫だから、一人の出家弟子に彼らを叱れと命じた。彼らはそれぞれ、帰依して15年、12年、5年だったが、15年後にしてはじめて不共四加行を求めたのは、どういうことだ?もともと修めるつもりがなかったのだろう。

以前、私が顕教を学んだ際に、帰依してすぐ師僧(しそう)に自分の宿題は何だと聞かなかったものだ。だが、そなたらが帰依すると、「宿題は何でしょうか?朝のお勤めに何ができますか?夜のお勤めに何ができますか?」とばかり聞いている。当時、私は一切聞かなかったが、ただ顕教の師僧に「私は仏典を読みたいです。」と願い出ただけだ。すると、師僧から『華厳経』を読めと命じられた。出家衆であっても、『華厳経』丸ごと読んだとは限らないほど、大きな仏典だ。これこそ、自分が累世での宿願によって、この一生は自ずと仏法に対する期待が違ってくる。そして、私が法王に帰依しておよそ一、二年ぐらい経つと、不共四加行を行うと知っていたし、次第に法を得るようになった。これは、生生世世で立てた願に関わるに違いない。

そなたらの立てた願は執行力がない。ちょっと考えたり、口にしたり、祈願文を数回暗誦したりすれば行けるかと思われるが、それは先ずあり得ない事だ。世間法で言えば、大学卒業まで少なくとも16年はかかるが、それにしても必ず卒業できると保証はしない。それならば、ご自身が仏門に帰依してから、毎日千、二千遍の六字大明呪を唱えれば、きっと阿弥陀仏国土に生まれるとは、何の理由に基づいたか?これまでの生活様式や思考モードのままでは、阿弥陀仏浄土に往生できる事というのは、何の理由に基づいたであろうか?

帰依してから、ご自身の思考モードや生活面に関わる全て、様々な事物などに調整が必要であって、日々ご自身の貪瞋痴に心がけ、一刻たりとも自分を許さないべきだ。だが、そなたらは日々、自分自身を許し、人を許さない、人からの些かな事でも大げさにして人を許さないでいる。自分に発生した如何なる事に、弁解する理由が必ずあるようならば、この種の人は決して阿弥陀仏の身許にたどり着かない。

釈迦牟尼仏が曰く「五濁悪世に於いて、この難信の法を説く」、いったい、どこが難しいのか?そなたらがこういうふうに修めるとは信じ難いからだ。故に、そなたが本気で発願し、実践に着手し、如何にすればこの願力を成し遂げるかについて究めたい場合、きっとそれに向けてたくさんの物事をしなければならない。口ばかりで、毎日千、二千遍唱えれば、そして菜食にすれば行けるほどのものではあるまい。仏典の後半に、釈迦牟尼仏が特別に言及されたのは、不可少善根福徳因縁(少なる善根・福徳の因縁を以て、彼の国に生まるるを得べからず)だ。不可少ぞ!

私はこの一生で、衆生のために善の種子を播き、その発芽、開花、結実を助けるなり、善根の植え付けを手伝うなりするが、意地でも多くの弟子はそれを受け入れずに、仏を学ぶのを己の事だと思い込んでいる。それなのに、経典に不可少善根因縁とある。では、そなたらは他に何ができようか?上師がそなたらを従えてやり続ける他ならない。顕教を学んだ際に、師僧は私を従えて布施、供養をしてきたが、法王に帰依して以来、法王は絶えず、私に実践できるように、善根、因縁を作ってくださっている。そなたらは依然聞こうとしないでいる。

私が転生のリンポチェだったら、小さい時から出家していて、金銭面での感覚や概念がないかもしれないが、私は在家での修行者で、食事、家賃、光熱費に事欠くほど貧乏だった時期もあったので、お金がないときの厳しさが分かっている。だが、たとえこれほど窮屈であっても、私は絶えず、一刻たりとも止まらずに、善根を植え続けている。しかも、それまで以上にやっている。そなたらはどう?お金がない者ならないとはっきり言うし、お金がある者でもないと言い張る。確かにお金は大事だが、銀行に貯金したままでもそなたの命が買えるほどの大事さはない。お金は銀行に留めてもそなたの健康が買えるほどの大事さでもない。銀行に留めても子供が親孝行するほどの大事さでもない。必ずお金を使い切れと私は言っていないし、仏もそう仰せになっていない。ただ、自分自身に私は貧乏だと四六時中に言ってはならないと伝えたいのだ。

私は生まれてから貧しくなったことがなければ、貧乏がどんなものかと分からないだろう。生まれてから、今でも裕福でいれば、あんな窮屈した暮らしが分からなかったはずだが、私はそれを経験した。しかも、一日二日、一か月二か月の物でもなかった。今の時代は、失業したら労働部(厚生労働省に相当)に失業補助の申請ができるが、昔の時代だったら、そんなものなんかなくて、仕事を失ったら自腹を切るしかなかった。今はだいぶ制度が整ったから、首をされると直ちに労働部に失業補助を、喪中でも葬儀費用を申請する事ができたりする。昔の時代では、あり得ないではないか?そして、学費に事欠くやら、甲級貧戸(生活保護の世帯)やら、政府に支援を申し込む事もできる。以前は、この種の補助は一切なかった。

しかし、私は仏前の燈、お香、お茶、お花を欠かさなかった。そなたらは?プーアル茶を買ってはしまう。いつかの値上がりを期待するだろうが、ゆっくり待て!ちょこっとずつ飲めば、いつか値上がりと思ってはならない。アキ護法の大好物のプーアル茶なくせに、飲ませないでいる。あたかも法会前、ご自身の経験を語った弟子(詳しくは衆生済度事跡1068号を参照)のように、お母さんが飴を欲しがっていたのに、その娘さんが知らないでいた。そのお母さんは機嫌を損なわないわけないではないか?もちろん、癇癪を起すだろう。だから老人ボケのふりをしてみせたのだ。そなたらは本当に、おかしげな思いばかりだ。

この種の善根は一日にして蓄積できるものではない。ロジック的な事について話そう。そなたは物心がついてから仏門に帰依するまで、善事は幾つ為したかご自身の指で数えてみよ。幾つもない。どれも自分自身の事ばかり構っていて、自分さえ問題が生じない、法に触れない、事故が発生しない限り、他人の事は一切構わない、何が起きようと構わない。だから、仏を学んで帰依するまでは善の種子を植えた事がない。ちっとも善根がない。ただ、単なる過去世で善根を残しただけで、この世で何故か私に出会えただけだった。私は、その善根の育成を手伝ってあげている。多かれ少なかれ成長させたらと願っている。

言い換えれば、仏を学ぶまでは、人を妬むなり、人の陰口を言うなり、貪念を起こし人の物を取るなり、殺生するなりと、どれだけ起心動念(きしんどうねん)したか?数えきれないほどある!私自身でさえ、数えきれないほどあるから、毎日千、二千遍唱え、アキ護法を修めれば、必ず阿弥陀仏の身許に行けると思えるのは、何に基づいであろうか?

釈迦牟尼仏は「不可少善根」と仰せになったのは、特別にこの事を強調したいからだ。仮に、因縁があって出家されていても、そなたには善根が充分あると限らない。必ず、絶え間なく、止めずに行う必要があるし、ちょっと躊躇うと、待つと、よそ見をすると、この善の種子は働かなくなる。やり直す機会があっても、そなたの願いを叶えたとしても、そなたの善根はあくまでも弱く存在している。全てはそなたが為したのだ。そなたらは本当に奇妙極まりない。上師が為した事はすべてそなたの善根に役立つが、そなたらはいっこうに危害を加えてこないかと心配し、承諾を控えたりしている。達成する能力がないではないか、承諾したあと、達成できなければどうしようかと。

どうなることもない。詐欺との判決は下さない。だが、我々は承諾した以上、努力する方向が明確になる。上師としてもご自身の能力以上にやってほしい事は要求しないし、全てはそなたらの意向次第なのだ。「不可少善根」に心がけるべきだ。上師が与えられるのはチャンスだけだが、そなたが実践しなければどうしようもない。福は、即ち供養布施の事だ。ただ、福だけあって功徳が伴わないなら無理だ。もし、そなたは修めないなら、これらの福は人天福に過ぎなく、人天福はこの一生は使えないもので、後世になってはじめて使えるものだ。もし、福、徳が具備するまで修め得られたら、この福はこの世で使えるし、使い切る事はない。

私はひたすら言っているが、出世法が軌道に乗れば、世間法はもう問題ない。何方もご存じのように、仏法の福が修め得られれば、世間の福は一粒の胡麻みたいに、取るに足らないほど微小だ。仮にそなたはこの世で権威や勢力や地位を持っていても、あくまでも弾指の間でなくなる事だが、出世法の福まで修め得られれば、世間法のあらゆる事は次第に減少、転じ始めるのだ。

私自身は皮膚がんを患ったことがあるが、状況が転じられた所以は、私は福が上がるほど修め、絶え間なく、止めずに、後悔せずにやっているからだ。福を修め得たら、病がなくなったのだ。福は自ずと悪を覆っているから、悪の力が浮上できない。帰依して15年の弟子が癌に罹った理由は?元々、彼が帰依した際にすでにこの病気が存在していたが、ここ十数年以来、彼は福を修めないでいるし、法会だけ参列してはいい加減に供養したりして、自らすべき事は全部したと思い込んでいる。

講座のコマ数、そして一コマにつきの費用を提示する形でも、恐らくお気に入るだろうが、受講は学費を支払えば講座が買えるというものではあっても、仏法は費用を払えば入手できるものではない。

教えに従わず、上師が教えた福を修める方法に則らないなら、福がなかなか上がらない。将来、諸仏菩薩と上師による助けが得られる福報に過ぎない。ご自身の福の足りなさに、累世で為した悪業により、この一生で転じられないのだ。法会に参列すれば、密宗を修めるリンポチェはそなたの業を転じられると思うか。いや、釈迦牟尼仏ははっきりと仰せになったが、たとえ仏であられても衆生の業力が変えられない、と。というのは、仏でさえ衆生の果報を変える事ができないから、自ら話に従ってご自身を改める他ならない!

そなたの信心を強めるよう、上師が加持はできるが、実践ならそなたに任せるほかにない。例えば、先生が十数名の受講生に向かって講義した場合、教えた内容は同じだったが、仮に30名のうち2名だけが、帰宅後に宿題をしたとすれば、この2名だけ成績がよくなるのは当たり前だ。今、そなたらはそうだ。帰宅後に宿題をしないで、何か問題が発生してはじめて泣きに来る上、自慢そうに自分が修めていないせいだと言い張る。まったく修めていないようなこんなに気にしない人なら、どう修めようか?しかも、堂々とどこに間違いがあるか分からないと言っている。そなたにはどこも間違いがなく、ただ教えに従わないだけだ。

徳は戒律、禅定、智慧である。福があって徳が伴わないなら、人は愚かになりがちだ。一方、徳があって福が伴わないなら、人は傲慢になりがちだ。よって、福徳は同時に修めるもので、分けられない。リンポチェの事を例に取り上げると、リンポチェは絶えず寄付して善事を行っているが、きちんと受ける側を見極める必要がある。可哀そうかどうかを見るのではなく、必要があるかどうかによって、寄付を判断するのだ。

因縁の因と縁は違うものだ。我々は浄土往生の因を植え付けるべきだ。そして因を植えてから数多くの助縁を止めずにしてはじめて、その結実が阿弥陀仏浄土に生まれるのだ。因を植えないほか、縁も行わないでいれば、行けようがあるか?故に、毎年控えた阿弥陀仏大済度法会は、衆生にこの因を植え付けるためにあるのだ。私に帰依しないで、如何なるところに行ってもいいから、よく修めてほしいと、いつも参列者に言っている。これこそ縁だ。こうした因を植え付けなければ、助縁が現れないし、さらに阿弥陀仏を唱えたがる事もない。

上師たる仕事は、あらゆる弟子や衆生などに対して、浄土往生できるように、因が生じ、しきりに修行する助縁を持つことを手助けすることだ。続いて、因縁不可少について言う。最初は善根を持つことからだが、福と徳を修める要領を得るだけではなく、この因を植え付けてくれるような、この助縁の増やし方を教えてくれるような人がいて、始めてそなたが行けるようになる。発願はこの法門を修める力の糸口に過ぎず、発願したから必ず行かれるとは限らないが、発願しない限り、この法門は現れなどはしない。

そなたらが中学校、高校に通っているとしよう。とある大学に受かりますようにと発願をしたら、真剣に宿題をしたり、並み以上の成績を取らなければならない。それでは、浄土に行くには、そこいらに横になってゴロゴロすれば行かれると思うのか?浄土へ行きたいのに、ひねもすお香を焚くのもおっくうだし、良質なお香を買わない上、良質なお茶で護法に供養しなくては、行けようか? 何れも行けないのだ。仏菩薩はお金を拘泥するのではなく、真剣に向き合って欲しいのだ。例えば、そなたがある会社で働き、この会社がとてもお気に入りで、いつか社長になるまで働こうとのお考えだとする。平社員の勤務から始まったが、真面目に働かず、一日中間違いを犯すままでは、そなたは昇進されようか?そうだったら、仏を学んでは、どうして一日中間違いをしておられようか?

つまり明らかに筋が通らないのだ。屁理屈ばかり捏ねて仏を学んでいるではないか。世間法で例えると、学校にしろ職場にしろ、努力しない限り目標達成が不可能だ。社長まで昇進するどころか、何もしたくないと怠けていて終日間違いばかりしたままでは、昇給できようか? もちろん無理だ。それでは、慈悲深い阿弥陀仏の事なら、そなたが行きたがりさえすれば、行かせると思われるか? このような言い方は、でたらめだ。

でたらめを言えば行けようなら、とっくに釈迦牟尼仏はこの句の開示に換えて、でたらめを言っても行けるよと言ってくださっていた。釈迦牟尼仏は我々を騙さない。この句は正に『阿弥陀経』のポイント中のポイントだ。この句の通りに実践できなければ行けようがないのだ。猫や犬を浄土へ済度させると耳にすることがあるが、如何にすれば行けようか?猫や犬は発願できるか?一匹の魚でも発願ができるか? できるわけなかろう。猫や犬は善根の植え付けができようか?そなたらがこうしていては、阿弥陀仏を弄ぶのと同じではないか?

釈迦牟尼仏は『阿弥陀経』にはっきりと講じられたが、信じない人が依然居て自身の考え方で浄土宗を修めようとしている。これは間違いだ。第一条件に発願する事で、第二条件に不可少善根福徳因縁得生彼国(少なる善根・福徳の因縁を以て、彼の国に生まるるを得べからず)だ。彼の国に生まれるのは得られるが、仏が来迎に来てくださると言及していない。多くの人は、自分自身が多くのことを行ったと思い込んでいるが、その実、仏はチャンスはあるとしか言わない。まるで、査証はもらったものの、現地に赴いたら入国審査で引っかかる事もある。どの国でもそなたの入国許可に査証の発行はできるが、いざ入国審査で入国を拒否される場合もあり、たとえ査証は発行されても、必ず入国できるとは限らない。なぜなら、その後にまた条件が付いているからだ。

故に「不可少善根福徳因縁」があって始めて阿弥陀仏浄土への査証申請に符合するが、必ず行けるとは限らない。どなたも『阿弥陀経』を唱える際は、いつも早くて何度か木魚を叩けば行けるかと思われる。まさか、毎朝のお勤めに木魚を叩けば行けると思うのか。だが、この句で検証して全部実践したか?古代の翻訳を分からないだろうが、古代の人は簡潔で意を尽くすよう話し方をしているが、私のようにうるさく言うのではない。彼の国に生まれる機会を得るには、はっきりとこの条件が必須だと提示されたが、これを以て阿弥陀仏がご来迎に来てくださるとは言っていない。

ここで言及した発願と不可少善根福徳因縁は、必須で必ず実践する事で、加減する余地がない。

経典:「舎利弗。若有善男子善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏与諸聖衆。現在其前。」(舎利弗よ、若し善男子・善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持して、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱ならば、其の人命終わる時に臨んで、阿弥陀仏は諸の聖衆とともに、現に其の前に在らん。)

「若有善男子善女人」が次の条件である。善とは良い人となるなり、お金でも寄与するなり、善事をたくさんするなりの意味ではない。仏典には、釈迦牟尼仏が如何なる法門を説けば、必ず善男子善女人に言及するが、最も根本的な善は十善法(不殺生、不偸盗、不両舌、不悪口、不綺語、不妄語、不邪淫、不慳貪、不瞋恚、信因果)を修める事だ。

自ら聞けよ。十善法のうち、幾つ実践したか?そなたらが帰依このかた、一個だけしか実践していなく、不殺生以外どれも実践していない。道場で奉仕している弟子に、態度が悪いとクレーム出しなどされると、私は彼をすぐ辞めさせるようにするのは何故か? まずは、慳貪だ。自身が当番で統括する立場にいるから、話を聞くように人を命令できると思い込んでいることだ。次は、悪口だ。自分自身に権力を持っているから、勝手に人の批判などしているにも関わらず、自ら心地よく感じているのだ。衆生に奉仕する際は、必ず謙遜さを保つのだ。リンポチェが大法会を修め終わって、三回お辞儀したのは、衆生に感謝するためだ。

そなたらは?もし実践していなければ、善男子善女人と言えるか?善男子善女人でなければ、善念(ぜんねん)などを起して阿弥陀仏の名号を聴聞することはないし、たとえ不意に聞こえたとしても、そなたも信じないだろう。そなたが阿弥陀仏を信じないという意味ではなく、こうするだけで往生できると信じないのを指す。そなたは、ご自身の考え方しか信じない、坊間で流伝した理不尽な言い方ばかり信じている。

経典には名号を執持(しつじ)することは触れたが、釈迦牟尼仏は念誦(ねんじゅ)するとは説かれてなかった。執持は異なる二つの事であり、密法によって解釈すれば、これぞ生起次第(しょうきしだい)だ。執とは執着ではなく、そなたを衆生利益する能力を持たせるように、阿弥陀仏がそなたを手助けるのをはっきりと観想するが、この手助けは今すぐさま見えたり、感じ取ったりできるものではないことだ。持とは阿弥陀仏の立てられた四十八願を信じることだ。たとえ現在実践できなくても、せめてその足跡に従って修行し、そなた自身のやり方に従うのではない。

もし、名号を執持するのではなく、単に唇を動かしたりするぐらいなら、百年唱えても役に立たない。簡単に言えば、何故仏寺の建設を進めたのか?大仏寺のほか、千手観音菩薩を安置される小仏寺があって、そして閉関センターがある。閉関する前に法を修めなければならなく、真言の執持について授けてはじめて閉関修行に移すのだ。しきりに阿弥陀仏を唱えれば行かれるのではない。もし、そうであれば、釈迦牟尼仏はとっくに阿弥陀仏を唱えるだけで行けると言っていたはずだが、仏が仰せになったのは名号を執持する事だ。

多くの人は、名号を執持するのは行うことに執着するものと捉え、ひたすらその名号を唱えれば行けるかと思うが、実はそうではないのだ。釈迦牟尼仏はこの辺で既に密法を言い出したが、阿弥陀仏にばかり頼って、如何にして「若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏与諸聖衆。現在其前。」ができようか?

密法の生起円満次第を通して阿弥陀仏法門を修めれば、そなたは仏の観想に馴染んでいるから、事切れそうになる際に、仏の観想に既に慣れていることによって心が乱れず、おのずから流露するという意味だ。若一日から七日までとは、八斎戒(はっさいかい)の事で、もし一日では無理だったら、七日まではある。だが、この七日間は数十名、数百名が広々とした場所に引き籠って外に出ないことが八斎戒と言えるのではなく、個別の部屋においてなのだ。

むかし釈迦牟尼仏が法を説かれた舎衛城(しゃえいじょう)の一か所を私は訪れたが、そこいらにある僧衆(そうしゅ)らの住む部屋はいずれも小さい上、御堂も持たないし、グランドでの閉関修行も行われないで、小さな部屋の中に閉関される。そこの部屋は今後私が建てる関房よりもずっと小さい。このように閉関修行するからこそ効果が出る。八斎戒で閉関修行しない限り、毎日唱えても役に立たない。

仏がここで説かれた一日とは、24時間ひたすら実践する事だ。即ち、24時間ずっとそのモードを保てば、八斎戒の閉関修行と言う。30、40人もの人が一斉に、ホールの中でではなく、一人一人個々の関房の中にだ。決して大きなホールで皆で一緒にするわけではない。我々の閉関は丸々24時間唱えており、手洗いや入浴の際にも心の中は真言ずくめなわけだが、そなたらの24時間なら、まず就寝、食事、歯磨きや洗面の時間を引いて残りわずか五、六時間だけしか修めていないから、持呪する時間が本当に少ないのだ。この段落では、我々の意識、口、身口意が出鱈目を言わないように、阿弥陀仏の称名を習慣づける事だけだ。「其人臨命終時。阿弥陀仏与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。」ほど修めるには、閉関修行する他ならない。閉関修行の経験がなければ、行けようがない。これは阿弥陀仏の仰せだ。閉関との二字は言及されなかったが、当時、仏は親近を対象に説法されたから、彼等なら一日中、釈迦牟尼仏の周りに居た。仏の開示を聞いたとたん、自ら関房での修行を知ったのだ。

以前、私が生死関の閉関修行した頃、手洗いに行った時にも、心の中では絶えず本尊の名号を唱えていたものだ。そなたらでは、一日2,000、3,000、10,000遍の六字大明呪を唱えれば、行けると思うか?唱えるべき理由は、心をより少しでも清らかにしたり福報などを少しでも植えたりするためだし、人を罵るよりも良いし、そしていつか閉関修行に行く福報が具備できるのを待っているのだ。台湾では合法的で適切な閉関地を探すのはなかなか難しいから、リンポチェが仏寺を建てるのは本当に苦労している。場所によっては、地目がダメだったり、仏寺があまりにも有名で観光客が多く集まる立地でも不適切だったり、また遠すぎる場合もある。か弱いそなたらが行かれないのもある。しかも、そなたらが閉関の際に病気になったらのことを負いかねるから、とにかく色々なことがあって今にたどり着いた。これこそが『阿弥陀経』で説かれたことだ。今さら、仏寺建設の寄付に遅れた人等は、自分がとんでもない間違いを犯したか分かっただろう。

私にとって、閉関できない場所はない。私は心が環境に影響されないほど修めており、そなたらはまだ左右されたりする。そなたらは自宅で閉関修行できるのか? 不可能だ。仮に、リンポチェが死んだら、またその時にそなたらは修め得られていないなら、どうすれば良いか? 浮浪者の鬼衆になるのだ。生前に、仏を学んだことがあって福報持ち故に、すぐに三悪道に落ちないし、輪廻転生(りんねてんしょう)の時間にもなってないから、あてもなくうろうろと歩き回って、神像を見かけると憑依したら、やがて、一般でいわゆる王爺(わんや、中華圏民間信仰の一つの王爺信仰)になる。むかし、そなたらもよく拝みに行っていたが、それが福報持ちの鬼衆だ。今でも多くの王爺は鬼衆の憑依だった。彼等には福報が有る故、信者からの供養を受けられるのだ。

そなたらにしては、現在毎日の持呪は準備のつもりで、まだ発願の段階に過ぎない。たとえ毎日行きたいと宣言しても、如何にして行かれるのか? 依然に行けていない。いつか私が死んだら、きっとこの世でそなたらを助けられる人は幾人もないと断言できる。法王の侍者として仕えるのは、きっと桑滇喇嘛にとって人生最大の福報だろう。本当にそうだったと後から証明できた。さもなければ、彼が往生した際に、私が率いた中で、千人強の弟子と共に彼のために六字大明呪を500万遍唱え廻向したのはなかっただろう。私自身の経験の中で、ポワ法で梵穴にあんなに大きな穴が開けられたのは初めてだった。彼は寿命が短かったに代わって、大なる福報があった。もし、彼が長寿だったら、彼を済度できるほど私は長生きする事はなかろうし、そなたらも亡者のために六字大明呪を唱えようと進んで提案するほどの慈悲心も持っていないからだ。それにしても、もし私が率いることがなければ、そなたらのみの持呪加持祈祷も役に立たないだろう。彼は、寿命が短かったものの、代わりにこの大なる福報をもらっていた。

そなたらは釈迦牟尼仏の教えに従わず、ご自身の方法に頼っては修め得ない。釈迦牟尼仏の説かれたこの段落は、主に法門の修め方、その妥協性の無さ、自分自身が既にたくさん唱えたと思ってはならないについて説かれている。そなたは善根・福徳・功徳を具備したか?不共四加行を飛ばしては、密法が学べると思うか。不共四加行はそなたを「不可少福徳因縁」にさせるのだ。不共四加行を修め終えたら、必ず密法が授かるとは限らず、また暫く様子を見てみるのだ。

経典:「是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏極楽国土。」(是の人の[命]終わる時、心、顛倒せず。即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。)

「心不顛倒」。そなたが死に際に、阿弥陀仏は何故まだ来てくれないの?と急に思い浮かんだら、顛倒だ。前述したことを全部成し遂げて、そしてそなたに安心感があれば、きっと阿弥陀仏は来迎に来てくださるに違いない。もう一通りの場合は、突然に他の事が思い浮かぶことだ。例えば、あれやこれやとまだ言い残しがあったり、私の数珠は今後誰々が使っても良いと考えたりするのがそうだ。たった一つでも思いついただけで、行かれなくなる。ポワ法は阿弥陀仏が伝えた密法だ。亡者のためにポワ法を修める際は、まず上師は自分自身の能力を使って亡者を包んだ上、彼をあれやこれやといっさい思い出させないようにし、彼に法を修めさせたのち、彼を押し出していくのだ。ポワ法を修められた後の亡者は、その遺体に微笑んでいる表情が現れるのは、その亡者は良いことがあると知っているからだ。

「心不顛倒」とは、この方法に従えばきっと存在すると信じ、阿弥陀仏の四十八願は我々を騙さない、上師が授けてくれたことは全て正確だと確信する事だ。私は、仏典の教え、自分自身の経験、そして法王に教わった内容に則った上、授けているからだ。顛倒は信じないことが重要な点だ。急に変な思いが浮かんだりする事は、どういう事だ? そなたの冤親債主が影響しているからだ。こんな事があるのは、そなたの悪業はまだ返し切っていない、そなたの十善法はまだよく修めていない、まだ懺悔を徹底していない、未だに自らよく修めたと思い込んでいる、こうして癖だらけ身に付いているから、道理で累世の冤親債主はそなたを去らせないのだ。

「即得往生。阿弥陀仏極楽国土。」とは、そなたはたちどころに行かれる。事切れたらすぐ行ける。生身を離れるような中陰の辛さを経験することはない。

経典:「舎利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。」(舎利弗よ。我、是の利を見る。故に此の言を説く。『若し衆生有りて、是の説を聞かば、応当に彼の国土に生まれんと願を発すべし』と。)

釈迦牟尼仏は自分自身のご智慧を以て、この法門だと多くの衆生が利益されると見極められているから、「こうすれば実現できる」と前向きに承諾してくださっている。釈迦牟尼仏は妄語を言わないから、該当の法門がないのに、有ると言い張ることはない。それに反して、該当の法門があるのに、無いと言い張るのも妄語を言うわけだ。釈迦牟尼仏は、この法門に向けて実践すれば、きっと利益されると仰せになった。ここで、私は釈迦牟尼仏を代表して「話を聞くべきだ」と皆に伝えたい。何故、私は衆生を済度させ、ポワ法を修められるのか?釈迦牟尼仏の仰せになった事を確信し、その教えに従い、法王に教わった通りに人や物事と接すれば、きっと実践できると思う。仮に、今、私は修め得られるための方法を持たないならば、とても人を済度される能力を持てないのだ。鬼衆らにそれなりの鬼通を持ち、そなたの出鱈目を言う素振りを見て、自分自身の生死解脱ですら解決できていないのに、人を済度されるというのか?と思われる。その上、阿弥陀仏もちゃんと見ているから、人のために読経するぐらいですらお金を徴収するならば、如何にして済度されるのか?

何故、大法会の参列にお金の徴収をしないのかと言えば、利生するためなら、自分自身の名と利に拘らないだろう?そなたらならば、衆生にも、上師に対しても細かく計算している。何方も自ら良い人と自惚れ、まさか引き篭って毎日唱えれば成仏できると思えるなら、『阿弥陀経』で説かれた内容は全て嘘になるのではないか?衆生に善の因縁を持たせるように助けないなら、如何にして行かれるような善の因縁が持てるのだろうか?衆生に「不可少福徳因縁」を助ければ、そなたの累世の冤親債主も利益される故に、そなたの死に際に心が不顛倒になる。冤親債主が共に行かれるわけではない。即ち、そなたの食べたその魚はそなたと共に浄土に赴かないのだ。上師は、まさにこれがために、ひたすらそなたらを従えて実践しているから、ちゃんと話を聞き自身を改めて欲しい。

私が会った亡者の中で、そなたらの想いも寄らないような懸念を持つのが有りすぎるほど居る。亡者によっては、その家族が傍でお墓についての話し合いをしていて癇癪を起した場合もあれば、看護師がテーブルを引きずって音を立てた事や、医者がその足を動かしたり、うまく足を据えなくて痛くなったら怒ったりする場合もある。さらに、遺産の分け方についての相談をして怒るのもある。これらは何方にも発生し得る事だ。

経典:「舎利弗。如我今者。讃歎阿弥陀仏不可思議功徳之利。東方亦有阿閦鞞仏。須弥相仏。大須弥仏。須弥光仏。妙音仏。如是等恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。遍覆三千大千世界。説誠実言。」
(舎利弗よ、我、今、阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎する如く、東方にも、亦、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有りて、各其の国に於いて、広長の舌相を出し、遍く三千大千世界を覆いて、誠実の言を説きたもう。)

恒河は即ちインドのガンジス川のことだ。恒河沙数(ごうがしゃすう)の諸仏は、ガンジス川の両岸や川底などの沙のように多い仏のことだ。広長舌相(こうちょうぜっそう)は仏の相の一つであり、仏は舌が顔全体を覆い、その舌は巻くと額に届くとされるが、人は、通常ならせいぜい鼻先にしか届かない。何故仏にこうした相があるかと言えば、仏の説かれた一切は衆生利益のためだからだ。それに対して、そなたらが口を開くと悪で、人の機嫌を損なう事ばかりだ。仏の舌は説法して遍く三千大千世界を覆われるが、仏が神通を現すのではなく、仏の教えはうそではなく真実であるから、実践し得ない事はない。実践できないのは、そなたの信心の足りなさ、怠け、戒律を守らない、話を聞かない事に起因するのだ。

仏はその神通によって見通したことは、そなたらが進んで話を聞き、実践し、改めれば、阿弥陀仏の四十八願は実践できるものだ、と。

昨日、ある帰依して十数年の弟子は自身が癌を患ったことを告げに来た。自慢そうに自身が修めなかったと述べた。明らかに修めていないのだ。彼は供養すると名乗ってきたが、真に発心はしていなかった。お金の話ではなく、お金がない場合、供養(金)は要らないが、供養するからには、心をして供養しなければならない。私が退いた供養金が既に数千万元という金額に達したが、流石に僅かなお金に気にすることないだろう。いちばん肝心なのは心だ。福報を持たなければ、自ずと耳を封じてリンポチェの話に聞く耳がない。これは頻繁に皆に発生している事だが、いったん福報が尽きれば、それでは、仏の福、仏の方法を聞き入れようがなくならないか?帰宅後に、よく反省して今後どう改めようかと思案して欲しい。以前、私が『阿弥陀経』を唱えた際にも、皆さんと同様に、お経を唱えた後、私はこう思った。仏は必ず実践できると保証したが、何故私は未だに実践できないか、と。それは、法門に則らず、教わった通りに実践しなかったからだ。

経典:「汝等衆生。当信是称讃不可思議功徳。一切諸仏所護念経。」(汝等衆生よ。当に是の不可思議の功徳を称讃し一切の諸仏の護念する所の経を信ずべし)

一切の諸仏はこのお経を保護するに努める。唱えるというのは口で唱えるではなく、そなたの念頭がこの仏典にあるのだ。如何なるものも、阿弥陀仏の称名をする限り、たとえ他の法門を修めたとしても、法に則って実践すれば、諸仏、本尊は気持ちを寄せてそなたの往生を助けてくださる。もちろん上師もそうする。毎月のように執り行う施身法は、そなたらが行かれるように努めることの表れだ。

経典:「舎利弗。南方世界有日月燈仏。名聞光仏。大焔肩仏。須弥燈仏。無量精進仏。如是等恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。遍覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃不可思議功徳。一切諸仏所護念経。
舎利弗。西方世界有無量寿仏。無量相仏。無量幢仏。大光仏。大明仏。宝相仏。淨光仏。如是等恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。遍覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃不可思議功徳。一切諸仏所護念経。
舎利弗。北方世界有焔肩仏。最勝音仏。難沮仏。日生仏。網明仏。如是等恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。遍覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃不可思議功徳。一切諸仏所護念経。
舎利弗。下方世界有師子仏。名聞仏。名光仏。達摩仏。法幢仏。持法仏。如是等恒河沙数諸仏。各於其国。出広長舌相。遍覆三千大千世界。説誠実言。汝等衆生。当信是称讃不可思議功徳。一切諸仏所護念経。」
経典:(舎利弗よ、南方世界に、日月燈仏、名聞光仏、大焔肩仏、須弥燈仏、無量精進仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有りて、各其の国に於いて、広長の舌相を出し、遍く三千大千世界を覆いて、誠実の言を説きたもう。
舎利弗よ、西方世界に、無量寿仏、無量相仏、無量幢仏、大光仏、大明仏、宝相仏、淨光仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有りて、各其の国に於いて、広長の舌相を出し、遍く三千大千世界を覆いて、誠実の言を説きたもう。
舎利弗よ、北方世界に、焔肩仏、最勝音仏、難沮仏、日生仏、網明仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有りて、各其の国に於いて、広長の舌相を出し、遍く三千大千世界を覆いて、誠実の言を説きたもう。
舎利弗よ、下方世界に、師子仏、名聞仏、名光仏、達摩仏、法幢仏、持法仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有りて、各其の国に於いて、広長の舌相を出し、遍く三千大千世界を覆いて、誠実の言を説きたもう。)

東西南北が揃い、十方諸仏は共に誠実の言を説かれる。同時に、阿弥陀仏の功徳、衆生救済の慈悲心をも賛美される。

ここで紹介した諸仏の名号については、人であれば、きっとある世、ある仏に仕えて学び、修行した事があって始めてこの世で地球に来て仏を学ぶ因縁があるのだ。故に、仏の名号の称名によって、仏を学んだ善根をrecall(記憶を呼び戻す事)するのを働きかけ、この世で仏を学ぶ因縁を助けてくれるから、ひたすら唱えたり、仏の称名をしたりするのはきっと効果が出るのだ。そなたが何回輪廻したかは知れるものではないが、どの世にも一尊の仏が在世されるとするから、たとえこの仏を信仰しなくとも、そなたの居る世界で、そなたはきっとこの仏と因縁を持っている。あたかも、我々がいる娑婆世界・地球は釈迦牟尼仏の仏土であるため、たとえそなたがこの一生で釈迦牟尼仏を聞いた事がなくとも、現在、そなたがここに居るから、きっとある世は釈迦牟尼仏に繋がったご縁があるのだ。我々が仏の称名をする限り、善根・因縁が現われるようになる。

経典:「舎利弗。於汝意云何。何故名為一切諸仏所護念経。舎利弗。若有善男子善女人。聞是経受持者。及聞諸仏名者。是諸善男子善女人。皆為一切諸仏之所護念。」(舎利弗よ。汝の意に於いて云何。何が故に名付けて、一切の諸仏の護念する所の経と為すや。舎利弗よ。若しは善男子・善女人が有りて、是の経を聞き、受持し、及び諸仏の名を聞かば、是の諸の善男子・善女人は、皆、一切の諸仏と共に護念する所と為り。)

「持」とは、毎日、木魚など叩いたりするのではなく、(仏典の)中の方法で実践し、発願し、不可少福徳因縁し、閉関修行し、心不顛倒して始めて受持することだ。朝晩のお勤めに『阿弥陀経』を唱えるのではない。受持できる者は幾人もいないが、殆どが唱えるほうが多い。台湾では、『阿弥陀経』を唱えた事のある人は数えきれないほどいるが、問題は行けるような人は何人居ようか? 幾人もない。受持していなかったからだ。もし、仏が唱えさえすれば効果が出るという事を示すのであれば、わざわざ受持という事を言及せず、毎日、十遍でも唱えれば行けるなどと言っていたはずだ。もし、そなたは仏典の開示通りに受持して修行できれば、一切の諸仏が共に護念する所と為るのだ。

十方世界に於ける、一切の仏はそなたを保護し、思いを掛けてくれる。なんて良いことか。仏がどころか、上師ですらそなたの事が思い浮かばない。昨日、ある帰依して五年間の弟子が会見に来たが、その弟子のことを、私は知らなく、ちっとも見覚えがなかったと言った。この顔を見た事がないのではなく、上師の教えに沿って実践していないから、会った事がないと言った。しかも、毎回の法会は、千人以上の参列者がいてだれもがマスクをしているから、本当に見分けが付かない。仏がそなたを思ってくれて、なんてすばらしい事か。それならば、そなたの癌はまだ痛むのか?癌を患った人が私に加持されると、痛まなくなるのは何故なのか? 私の加持によって、彼を阿弥陀仏浄土に行く機会をもたらし、消業(しょうごう)されるから、冤親債主が苛めを止め、仏が保護してくださるようになったからだ。ここでいう受持は、(仏典の)中の方法を把持して実践すべきであり、受け入れないままで唱えてばかりいては、どうにもならない。唱えさえすれば、将来は行けると多くの場所で講じられるが、本当にそうだったら、前述の若一日、二日はとっくに言及されていなかったはずだ。釈迦牟尼仏は決して冗語はない、無駄な話を口にしないから、どの一字でも修行に当たるものだ。それをしっかりと受け止めて、聞き入れよう。一旦ご自身の考えが混ざれば、すぐ行けなくなるのだ。

経典:「皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提。」(皆、阿耨多羅三藐三菩提に於いて退転せざるを得ん。)

進んでこの仏典を受持すれば、すぐさま菩提心を起し、菩提願を行うに進み、しかも、在世の時に空性の智慧を得て不退転になる。私はあえて自らが証したと言わないが、不退転の事は確かで、すればするほど強さが出ている。今年の大法会の費用まで、私が資金を出した。何故ならそなたらが退転したからではと考えると、私はそなたらがゆっくりとお金を出すのを見ていられなくて、いっそのことで私がお金を出した。私は仏門に帰依した当初はお金を持ちながらも、のちにお金がなくなったにも関わらず、依然楽しく仏を学んでいる。食事に事欠いた時でも、一刻たりとも学ぶのを止めたことがない。そなたらみたいに、お金がなければ、ないと訴え、お金があっても、ないと言い張るような事はない。そなたらは、すればするほど少なくなる、仏を学べば学ぶほど辛くなる、最後は放り投げる。上師はそなたらに善根を植え付けられる機会を与えたのに、危害を加えるかとばかり思われた。

仏のお教えに従って実践すれば、そなたはこの一生は不退転である上、世俗菩提心ではなく、そなたには勝義菩提心が起きる。仏と上師からの護念なくしては、勝義菩提心は有り得ない。如何にすれば、上師と仏が覚えてくれるかに至っては、前述の通りに実践すべきだ。

閉関修行の条件が具備するまでは、決して福徳因縁を欠かしてはいけない。これらを成し遂げたら、自ずと閉関衆生の条件が揃うようになる。もし、私のあらゆる弟子がその通りに実践すれば、寶吉祥仏寺の閉関センターは、きっと人で溢れるに違いない。リンポチェの願力は、衆生が成仏しない限り、自分は成仏しないから、数多くの未来仏を育成していく事だ。

経典:「是故舎利弗。汝等皆当信受我語。及諸仏所説。」(是の故に、舎利弗よ、汝等、皆、当に我が語及び諸仏の説く所を信受すべし。)

舎利弗を代表にして、あらゆる人は、私の語った話を信じ、受け止めるべきだと仰せになった。故に、ご自身の方法を用いて阿弥陀仏を修めると、それを受け止めないし信じない事になる。また、上師は、釈迦牟尼仏を代表して広め、言い聞かせたが、そなたらは信じない、受け止めない、聞き入れないままでは、どう行けようというのか?

経典:「舎利弗。若有人已発願。今発願。当発願。欲生阿弥陀仏国者。是諸人等。皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提。於彼国土。若已生。若今生。若当生。是故舎利弗。諸善男子善女人。若有信者。応当発願生彼国土。」(舎利弗よ。若しは人有りて已に願を発し、今願を発し、当に願を発し、阿弥陀仏国に生まれんと欲せば、是の諸の人等、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざるを得ん。彼の国に於いて、若しは已に生まれ、若しは今生まれ、若しは当に生まれん。是の故に、舎利弗よ。諸の善男子・善女人、若し信有らば、応当に彼の国土に生まれんと願を発すべし。)

そなたはこの一生で、阿耨多羅三藐三菩提を修め得られないながらも、既に浄土に往生できた場合、諸仏は必ず不退転を得させるよう助けてくださる。「若当生」とは行くべき人の場合も、得られる事だ。この一生で、進んで実践すれば、そなたも阿耨多羅三藐三菩提の不退転が得られる。そなたが既に浄土に生まれた場合、たとえ生前に成し遂げられなくても、諸仏の護念によって得られるようになる。今行く場合でも、たとえ生前に成し遂げられなくても、浄土ででも得られる。まだ行っていない場合では、釈迦牟尼仏の教えに従って此の仏典を受持すれば、そなたも得られる。故に、在世の場合でも得られるのだ。

経典:「舎利弗。如我今者。称讃諸仏不可思議功徳。彼諸仏等。亦称讃我不可思議功徳。而作是言。釈迦牟尼仏能為甚難希有之事。」(舎利弗よ。我、今、諸仏の不可思議の功徳を称讃する如く、彼の諸仏等も、亦、我が不可思議の功徳を称讃して、是の言を作す。『釈迦牟尼仏は、能く、甚難・希有の事を為し、)

釈迦牟尼仏は一切諸仏の不可思議功徳を称讃されたが、あらゆる仏も釈迦牟尼仏の功徳が不可思議だと称讃し返した。仮に、釈迦牟尼仏がこの法門を紹介しなかったら、人類はそれを知りもしないから、釈迦牟尼仏の功徳は真に不可思議である。釈迦牟尼仏は慈悲深く、娑婆世界の人等は地球で仏果まで証し得ない、この一生で法身菩薩まで成し遂げられないと知った上、阿弥陀経を紹介された。何故、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介されたかについては、それなりの因縁があるのだ。過去、彼等は共に修行され、同時に成し遂げられたが、為さった事が異なった故、片方は自分自身の浄土を作られ、一方は釈迦牟尼仏は娑婆世界で成仏したとされる。これは、二人の因が違ったためである。

経典:「能於娑婆国土五濁悪世。劫濁。見濁。煩悩濁。衆生濁。命濁中。得阿耨多羅三藐三菩提。」(能く、娑婆国土の、五濁悪世の劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得)

阿弥陀仏の身許に行くのが「甚だ難し」と言うが、どこが難しいのか? その難しさは、この一生涯で絶え間なく不可少福徳因縁に修行できるかにある。何方も堅固で恒久な心を持たず、自らに何かあったら怠惰になるなり、前言をひるがえすなりで、まるでことわざに言う「仏よりも、お腹の世話を先にする」、「病気になったから、病気の世話を先にしよう」のようだ。だが、その病気は福報を使い尽くしたから現われたとわからないでいる。何故なら、十数年の間、話を聞かず、教わった通りに実践せず、ご自身の考えを持ってそれなりの生活をしていたからだ。無事な生活を頂きますようにと、上師、仏菩薩のご加護を求めていただけだからこそ、難しい。周知のように、私は衆生の為にポワ法を修め済度させる事ができるが、依然、多くの人はこれが希有だ、しょっちゅう耳にしない事ではない、容易に成し遂げられる事ではない、人が自ら進んでする事ではない、と信じない。

五濁(ごじょく)とは、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁である。「煩悩濁」はご存知だから、触れないでおこう。「劫濁」は八の大劫と十六の小劫がある。例えば、医者を診間違えて死に至ったり、交通事故で死亡したりする場合がある。劫とは、劫難の事で、戦争死、飢饉死などが挙げられる。劫濁とは、その部分自身が多くの悪業を為したため、この種の劫が生まれる。悪業の多い部分にいる衆生に、聞け、信じてくれと言うのが難しい。彼等は命を構うだけで精一杯だから、修める余裕があるか?手術の事で頭いっぱいで、信じる余裕があるか?

「見濁」とは、自我の見解である。自分自身の考え方や方法を用い、上師の話を聞かない。地球の衆生は見濁が重く、ちょっと経典を読んだだけで、自らよく修めていると自惚れるが、(経典の)中の真意を分からない。

「衆生濁」は、眷属或いは以前魚・肉類を食べた衆生からの妨げである。近頃、冷凍の海鮮や肉類から新型コロナウイルスが発見されたとの報道を見たが、これは動物の鬼衆であり、ウイルスが付着したのではない。殺された動物がその体に執心すれば、ずっとその遺体付近をうろつき、ウイルスの形へ変化するのだ。仏教では、死後は荼毘に付すとされるが、これは衆生が身体への執着を破るためだ。一部の魂は、お墓付近でその死体を守り、たとえ死体が腐って水となったとしても、虫に食われても守っている。だから、墓地には殊更幽霊が多く、いざお墓が弄られると、魂は癇癪を起こされる。集団墓地にも幽霊が多い理由に、彼等は理不尽に亡くなられたからだ。そなたらは、物心が付いてから帰依するまで、振り返ってみれば、良い事や善事を何件した?よく考えよ、どれぐらい善根を積んだか? 殆ど皆無だろう!物心が付いてから帰依するまでは、自分自身が無事であれば良いと望んできただろう。もっと考えてみよ、物心が付いてから帰依するまで、どれほど世間で取り沙汰したか、どれほど衆生の肉を食べたか、どれほど衆生を傷づけたか? 多かろう!これで、簡単に仏を拝んだり、お経を唱えたりなどすれば解決し得る? 教わった通りに実践しなければならないのだ。人の事はさておき、私自身ですら真面目に、絶え間なく努めているのだ。

「命濁」とは、そなたの命が濁った事である。例えば、従事する職業やら、飲食業を営んで殺生するやら、養殖業やら、乃至、法に触れて税金の不正申告を手伝うやらの事である。何故、こんな愚かな事をしたか? これぞ、命濁だ。帰依し、仏を学び、菜食すれば、帳消しになると思うな。どれほど、違法の事をしてきたか、振り返って考えてみよう。

私の経営する、傘下の数軒のレストランも、数年連続で衛生分級評核優(良)級(衛生ランク付け・優良級)に認証されているが、いずれも衛生管轄部署が無作為抽出で査察に立ち入り、二、三百という項目に合格したのだ。しかも、美容サロンも、衛生自主管理分級評核優等商家(衛生自主管理ランク付け・優等店)を連続で獲得し、美容師の道具まで全面査定された。何故、成し遂げられたか? 私は赤字になるまで商売しているのだ。コストを構わずに、商売したから、成し遂げられた。そなたらは如何? 値段が高いと文句を言い、お金がないと言い張り、いつも同じおかずで食べ飽きたとしか言えず、何回か行けば飽きてしまうから、便利だと思って自宅付近で食べたりして、まったく衛生上の問題を気にしない。

いい物を与えると、悪い物だとばかり思われるのは、そなたの命が濁っているという意味だ。昨日、ある帰依して7年間経った弟子が、病気になった子供を連れてきたが、私は彼に「きっと、リンポチェが創業した東洋医学診療所の場所、日本食品小売店の食材がどれほど良いか、分からないだろう。これまでの長い期間、子供に、栄養のある食品を食べさせた事ないね。お金が無ければ言ってくれ、リンポチェがあげるから」と言った。

私は御馳走をしてもお祝い金やプレゼントをもらわない。お金があるからではなく、家族に善縁を結びたいからだ。終日、間違いを犯すのは命濁だ。こうばかりするのは、累世の貪瞋痴によって自ずと命濁になる。明らかに清算できるものの、突如、そっちのけにした。また、身ぎれいになったのに、一握りの砂を持ち込んだ。この砂はどこから来たか? そなたの思想だ。良い事が悪い事になり、悪い事がさらに悪くなる。我々が存在する世界が、まさに五濁悪世だ。だが、釈迦牟尼仏の教えを聞けば、たとえ五濁悪世に居て、得難い希有な事であっても、我々は依然阿耨多羅三藐三菩提を得られる。浄土では、衆生には五濁がない。他の世界では、善が多く悪が少ない。地球だけ悪が多く善が少ないから、ここで修行すると、多くの苦痛を経験中の衆生を助けられる事から、ことさら役に立つわけだ。いわゆる容易とは、弾指の間にできるものではなく、他の世界より容易に阿耨多羅三藐三菩提を得られるのだ。

これを得て何の特典があるのか? 何のメリットもない。儲からないし、優しいパートナーも得られない、親孝行する子供も授からない。メリットは、我々が空性を証したら、世間における名と利、一切の謗り等の傷害に執着しないし、それによる苦痛も生じない。そなたに苦痛が生じない限り、衆生を従えて、衆生が苦痛を生じないように導けるのだ。もし、阿耨多羅三藐三菩提を得ていなければ、法座に座っての説法ができない。上師たる人や、法座での説法する人を羨まないで、名と利に執着しないで、単なる衆生のために説法するしかない。

経典:「舍利弗。当知我於五濁悪世。行此難事。得阿耨多羅三藐三菩提。為一切世間。説此難信之法。是為甚難。」(舎利弗よ。当に知るべし。我、五濁悪世に於いて、此の難事を行じ、阿耨多羅三藐三菩提を得、一切の世間の為に、此の難信の法を説く。是れ甚だ難しと為す。)

「為諸衆生。説是一切世間難信之法。」(諸の衆生の為に、一切の世間、是の難信の法を説く。)そなたが阿耨多羅三藐三菩提を得て初めて、衆生の為に世間で最も信じ難い法を広められるのだ。これこそ、その法だ。決心がない所に、信じ難いの決め手であり、こうするだけでいいと信じないのだ。故に、釈迦牟尼仏は五濁悪世に於いて格別に注意すべきなのは見濁だ、と。密宗では、ひたすらに上師の言う事を信じることを強調している。例えば、上師が黒を指して白だと言ったら、それは間違いなく白なのだ。ミラレパ尊者がマルパ尊者に師事して仏を学んだ際みたいに、師マルパは、何一つも授けないうち、家を建てろと命じられる。しかも、その家を丸くするか、四角くするか、三角するかに触れないで、建てろを命じる。建てては取り壊し、取り壊しては立て直す。ミラレパ尊者は一途に上師の言い付けに従って実践し続け、見濁を持たなくなったし、ご自身の考え方をさほど持たなくなったが、そなたらは如何?

多くの弟子が不共四加行を願い出ても、私は授けないのは何故か? 願い出た10人中に9人は、自分が修めてから何の感覚が得られるか、と問いているからだ。実は、何も感じ取れないのだ。(出家衆の弟子が、確かに彼らは何の感覚があるかに拘っていた。リンポチェのおっしゃる通りで、実は何も感じ取れなく、上師と相応ができるか否かが肝心だと答えた。)

教えた通りに実践しない限り、阿耨多羅三藐三菩提を得られなく、法座に上がって説法する事ができない。如何にすれば、上師が得られたかどうか見極められるか?その上師が名と利で駆使されるかによるのだ。速成クラスは有るか?仏法には速成クラスなんか無いが、仏の説かれた速成クラスは、前述した一日二日三日の話だが、いずれも条件付きで、不可少善根福徳因縁なのだ。前半を遣り遂げたら、後半はついてくる。速成クラスの場合なら、いったん事切れたら、そなたの心、念頭に顛倒がなければ、行けるようになる。早いではないか?だが、前半の基礎はちゃんと固めないといけないのだ。基礎がしっかりしない限り、行かれない。私みたいな、ポワ法を成就した上師に出会えたら、また話は別で、行かれるように助けてくれる。そうでなければ、条件に満たさなければ行かれないのだ。

是れ甚だ難しと為す。難しいと知りながらも、一人でも多く度せば一人多く度され、衆生が成仏しない限り、私も成仏しない。人によっては、私は文字通りに仏典を説けば良いと思うだろうが、釈迦牟尼仏は絶えず我々に注意を呼びかけ、五濁悪世に於いては、この実践し難い事を遣り遂げないと、阿耨多羅三藐三菩提を得られない、と。何故、難しいというのか?上師たる者は、絶えず弟子らに善根の植え付け、善縁の結びつけ、の機会を与えるに努めるが、そなたらの善根がしっかりと固めると願うばかりだ。そなたらは、よりにもよってご自身の方法で実践し、あれやこれやと恐れたり、待ったりする。とりあえず先伸ばそうやら、暫く様子を見ようやらでは、善根の植え付けは、待ってくれないもので、すれ違ったら戻ってこない。たとえ、再度、チャンスを与えたとしても、既に善縁を結びつけるための機会を多く失っていた。今さら、聞けば聞くほど心細くなっただろう!仏寺建設への寄付が遅れた弟子ら、そして、パルナシャバリ持呪に参加しなかった弟子らは、後悔してももう役に立たない。

難しくとも、実践するべきだ。衆生を捨棄しないのは、しつこくそなたにくっつくのではないが、菩薩の心は一人でも多く度せば一人多く度されることだからだ。施身法のテキストに、「過去で度されなかった衆生があれば、どうか、彼等が度されるように、この世で私にご縁と能力を具備する事を願う」とある。そなたは、自ら進んで実践し、自分自身への見返りを求めずに努力すれば、きっと阿耨多羅三藐三菩提を得られるに違いない。

総じて釈迦牟尼仏は三点について説かれた:第一に、この仏典を堅く信じ受持すれば、諸仏は護念してくださる。第二に、此の五濁悪世に於いては、仏の説かれた希有な事を信じ、それを実践する。第三に、衆生を利益されるなら、そなたご自身も利益される。

経典:「仏説此經已。舍利弗。及諸比丘。一切世間天人阿修羅等。聞仏所説。歓喜信受。作礼而去。」(仏、此の経を説き已るに、舎利弗、及び諸の比丘、一切世間の天・人・阿修羅等は、仏の説く所を聞き、歓喜し、信受して、礼を作して去れり。)

この経典を見聞きしてから、法喜の心が起き、それを信じ、受け止めて頂礼した。信受というのは修めようとする事で、修めようとしないなら法喜が起こらない。彼等は、この仏典を見聞きして、必ず阿弥陀仏浄土に行ける、阿耨多羅三藐三菩提を得られる、衆生救済ができる、菩薩道が行える事が分かった。戒疤(かいは)という焼印を焼き付けただけで菩薩道を修めていると思う勿れ。必ず、阿耨多羅三藐三菩提心まで得なければならない。また一連の閉関修行を通さずとも得られないものである。また、衆生は十人十色で、異なった法門での救済が必要である。例えば、数週間前に、ある女性の信者が会見に来たが、彼女は父親を亡くしたのに、遺産相続争いを助けてくれと求めた。もし、私は阿耨多羅三藐三菩提心まで修め得られなかったら、きっと彼女を可哀そうにと思って、言われた通りに助けていたに違いない。これぞ、悪を為す事だ。

本日、『阿弥陀経』の開示を通じ、修行には定まった方法があると分かって欲しい。方法はご自身で発明するものではなく、そなたが望んだようなものでもない、全て仏典に裏付けがあるからだ。仏典に書かれていない事をすれば、邪見・邪説になる。上師たる仕事は、この正確な方法を、自分自身の修行経験を通じて、そなたらを従えて実践するのだ。そなたらが進んで実践するか、前進するかに至っては、そなたらの決定に任せるから、私と無関係だ。何故、一部の弟子は懲らしめられたか?それは、これだけ長時間、機会を与えたにも関わらず、そなたがじっと実践していない、改めようとしないと見えたからだ。それなら、これ以上催促しないで、そなたに楽しい人生をさせよう。

仏寺や閉関センターを建てる所以、ようやく分かってくれたか。これらの道具なくしては、そなたの称名ばかり頼っていては、一心不乱にまで唱えるのは不可能だし、阿弥陀仏のご来迎が得られるわけにもいかない。

修福(しゅふく)は、即ち布施・供養である。但し、絶え間なく与えれば良いわけではなく、同時に、持戒、禅定、智慧という功徳をも修めるべきである。福だけ持って徳がなければ愚痴になり、徳だけ持って福がなければ傲慢になる。仮に、福ばかり修め、徳を修めなければ、それによって蓄積した人天福報は、この世で使えない上、ご自身の業を転じられないから、すべて後世に繰り越して使うとされる。また、これらの福を、将来往生する際に使われ、上師と仏菩薩による救済が得られるかもしれない。福徳だけ持って智慧がなければ愚痴になるし、智慧だけ持って福徳がなければ傲慢になる。故に、福慧双修(ふくえそうじゅ)が要るのだ。福徳と智慧を兼ね備えてはじめて、阿耨多羅三藐三菩提心が修められ、空性が修得し、さらに利益衆生ができるようになる。

リンポチェは参列者全員を従えて、アキ護法と廻向を修められた後、法座から降りられ、衆等は恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを見送った。


« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »


2021 年 02 月 16 日 更新