尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年3月15日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

『寶積経』は釈迦牟尼仏が自ら宣説くださった経だ。仏は舍衛城でこの経を開示された。『寶積経』は主に釈迦牟尼仏が、菩薩道を修める在家、出家衆の心持ち、思想、行為はどうあるべきかを教導、説明くださるものだ。言い換えれば、自分は菩薩道を修めている、自分は出家だと考えるなら、そなたの行為、思想は『寶積経』で講じるものと同じだろうか?と言うことだ。異なるなら、すべては誤りだ。一切の言い訳をしてはならない。それはこの経は釈迦牟尼仏が宣説くださったからだ。私が言うのではない。言い換えれば、仏は『寶積経』を通して菩薩道修行であるべき行為、思想を宣説くださった他、伝法上師にこの種の条件があるかを検視され、それと相対して自分自身に菩薩道を学ぶ資格条件があるかどうかをも検視しているということだ。ないなら、大人しく言うことを聞き、功を上げたがり、どの法を学んだのだから伝えてもらわなければならないなどと思わないことだ。

経典︰「集於十二頭陀功徳。住阿練児処。」

この言葉は出家人に対していうのだ。在家人が十二頭陀まで修めるのは不可能だからだ。リンポチェは出家衆に指示し、十二頭陀の名相を調べさせた。出家弟子は「(一)阿蘭若処住(人里離れた所を生活の場とする)(二)常乞食(常に托鉢乞食によってのみ生活する)(三)次第乞食(托鉢する家は選り好みせず順に巡る)(四)日中一食(一日一食)(五)節量食(一鉢以上食べない )、つまり腹一杯食べてはならない。(六)中後不得飮漿(午後には食べない)(七)糞掃衣(糞掃衣以外着ない)(八)但三衣(大衣、上衣、中衣以外を所有しない)(九)塚間住(墓地で暮らす)(十)樹下止(木の下で暮らす)(十一)露地住(屋根や壁のない露地で暮らす)(十二)常坐不臥(横にならない)です」と報告申し上げた。

リンポチェは開示を継続された:十二頭陀中には、在家衆が修められないものがたくさんあるが、出家衆は必ず十二頭陀を修めなければならない。これは規定の修行過程だ。出家衆でないなら、これらを研究する必要はない。だがこうだと知っておかなければならない。いつか出家したなら、仏が仰せの十二頭陀の功徳はどうやって来るのか?それは先ほど講じた十二個だ。この十二個を成し遂げれば、出家衆には比丘、比丘尼の功徳が自然に現れる。何を自然に現れるというのか?求める必要はないということだ。成し遂げたので、すべての戒律を全て成し遂げたのだ。例えば菩提心戒を受け、この戒を守ろうとするなら、自然に菩提心は生起する。求める必要はない。できていないなら、生起することはない。簡単に言えば、釈迦牟尼仏がお教えくださる方法を行うなら、果報は必ず出現し、求める必要はない。この程度まで行うなら、果報もその程度だという意味だ。全く行わないなら、どうして得られるだろうか?絕対に得られない。

簡単に言えば、この一生で菩薩道を修める決心を下さないなら、何を以って阿弥陀仏のおそばへ行き菩薩の候補となれるのだ?あちらへ行って修める、という人がたくさんいる。だが、この一生でさえまったく修めていない。何を修めるのだ?こうすると決心を下さなければならない。阿弥陀仏のおそばへ行けば苦しみがない、死に臨み苦痛を味わいたくないと誰もが願っている。だがそなたに傷つけられた生生世世の衆生はどうだ?そなたは自分自身のことだけを考えている。自分は菩薩道を修めたいと思っているのか?そうではない。なぜ『阿弥陀経』は「この五濁悪世で、この信じ難い法を説く」と仰せなのか、それこそこういうことだ。不信だ。「私は与えられなければならない。求めれば与えなければならない」この条件をクリアしていないのに、私はどうやって与えるのだ?与えることはできない。

なぜ寶吉祥道場では、菩薩道を修めなければならないと特別に強調するのか?それはこの一生で我々が菩薩になることなど不可能だからだ。菩薩になれないなら、必ず阿弥陀仏のおそばへ行き、菩薩候補とならなければならない。そのため、この一生では必ず菩薩道を行い、菩薩道を学び、利己的であってはならないのだ。そうでないならどんな理由で、阿弥陀仏のおそばへ行き菩薩候補となれるのか?前の方でまったく念じていなかったのに、何を以ってあちらへ行けば博士課程で学べるのか?「年をとったので無理だ」などと言っては行けない。どんなに老いようと、まだ話しができるなら、六字大明咒を念じることはできないだろうか?「毎日大変で疲れている。リンポチェが加持くださればそれで良い」という人もいる。私がたっぷり食べても、そなたが食べていないなら走れるだろうか?

ここで仏は出家衆に、十二頭陀の決まりを守らなければならない、と特別に仰せだ。できていないなら、まったく十二頭陀の功徳ではない。それならなんだ?凡夫身(輪迴する出家人)だ。出家したのだから、そなたにはそなたの修行法門がある。以前言った。在家と出家の修行過程は少し異なる。例えば、十二頭陀を在家は修められない。中に「穿糞衣」とある。つまり拾ってきた衣服を繕って身につけるのだ。我々にできるだろうか?このようにしたなら、頭がおかしくなったと人に言われ、二日目には、来なくて良い、と雇い主に言われ、夫には、臭くてたまらない、と言われるだろう。なぜ出家の修行は我々より速いのか?それは彼らの欲望が我々より少ないはずだからだ。だがそなた達、これら出家衆の欲望は私より多い:開悟を求め、うまく念じられることを求め、健康を求める。これは欲望ではないのか?。

経典︰「諦方便故。住阿練児処。」

「四聖諦法」つまり「苦集滅道」とは、釈迦牟尼仏が開悟なさったばかりの時に伝えられた法だ。その時には6人の部下が従って苦行を修めていた。だが釈迦牟尼仏は苦行では成仏できないと考えたため、苦行をやめ、禅定修行に変えて開悟なさった。だが釈迦牟尼仏に成仏が出現した時、従っていたこの6人は非常に不満で「なぜ苦行しないのか?」と言ったので、釈迦牟尼仏は先ず彼らに「四聖諦法(苦集道滅)」を伝え、この6人に「なぜ苦があるのか?苦はどうやって来るのか?」を教えた。「集」とは苦の力を集めて修行するということではなく、一切の身口意の力を集めて、苦が来る根源に向き合い対治するということだ。この決定を下さなければ、苦を消滅させてしまうことはできない。消滅とはどういう意味だろうか?苦の因に拘らない。そうでなければ苦を滅することはできない。滅したなら、阿羅漢となる道が出現する。

小乗は「四聖諦法」、「十二因縁法」を主とする。だが学仏人なら、「四聖諦法」と「十二因縁法」をいくらかは理解しておかなければならない。菩薩道を修めるのであっても、金剛乗であっても、小乗を修める者を軽く見てはならない。それは小乗を修める者の決心は我々より重いからだ。彼らは一切を放棄しなければならないのだ。そなた達は今でも非常に多くを捨てられていない、放棄できていない。つまり彼らの決心は我々より重いのだ。彼らが「四聖諦法」、「十二因縁法」、『阿含経』を修めるからと言って、彼らを軽く見てはならない。これは彼らの縁、彼らの根器だからだ。だが彼らの決心は我々より良い。彼らは世間の事情をすでに放棄しているからだ。

出家衆が四聖諦法を修めるなら、阿練児処に住めば便利だ、という意味だ。それは彼らを誘惑するものが、そんなに多くないからだ。信衆が必要だと自分で感じた時、つまり誰かが誘惑に来た時、どこかに連れて行かれそうな時、間違った方向に連れて行かれた時。ある出家弟子は頭がいい。前回彼がアメリカへ行くと言った時、私は行かない方が良いと言い、彼は行かなかった。そうでないなら、誰が正しく誰が誤りなのかを評価するために、みな一日中会いに来ていただろう。こちらが正しい、と言っても破戒だし、あちらが正しいと言っても破戒だ。そのため私は行かないように勧め、彼は言うことを聞いた。行ったなら、少なくとも金は増えただろう。なぜなら彼らは必ず供養するからだ。だがこの弟子はそれを放棄した。つまり四聖諦法を修めたのだ。だがなぜ四聖諦法を修めるなら阿練児処に住めば便利なのか?それはたくさんの外からの干渉がないからだ。

経典︰「善知陰故。住阿練児処。」

静寂な場所に住むなら、心も静寂になり、そうでなければ眼耳鼻舌身意(声色香味触法)をはっきりと理解することはできない。普段我々の心は非常に乱れ非常に忙しく、非常に多くの思想があり、五蘊が起きても、しっかり把握することはできない。蘊とは悪いことではなく、マイナスのものだ。何がマイナスなのか?我々はひたすら声色香味触を追い求めている。それは我々がこの五蘊を追い求めているからだ。我々の人生は、自分自身の意識に引きずられている。簡単に言えば、好きなら好きだし、嫌いなら嫌いだ、と言うことだ。なぜ好きなのか嫌いなのか、誰も深く考えない。今日阿練児処に住んでいるなら、「なぜこれを追い求めるのか?どんな原動力があるのか?」とはっきり見極めることができる。実は眼耳鼻舌身なのだ。眼耳鼻舌身はどうやって来るのか?禅定内でひたすら見れば、その理由を見極めることができる。

なぜ今日はっきり言わないのか?はっきり言ったところで、そなた達にはどうしようもないからだ。仏は、有情衆生には八種の苦があると仰せだ。その内の一つが五蘊盛苦だ。何が盛苦なのか?我々は声色香味触を追求する。絶えずこの五つを追求する。そのため自分自身で、自分自身に非常に多くの苦を作りだしながら、気付かずにいる。「追い求めてなんかいません!」と言うだろう。追い求めている!色とは男女関係のことではない。そなたが目にする一切の現象だ。我々は感覚を追い求める。この触とは「触る」の他に、心の感触も含む。我々は、他人に批判されるのを嫌がり、人に褒められるのを好む。これも触だ。「触」が深刻な人は、非常に容易に驕り高ぶる。驕り高ぶれば、平等な慈悲心は出現しない。平等な慈悲心が出現しないなら、分別があり、分別があれば菩薩道修行では絕対にない。

なぜ仏は五蘊盛苦を八苦のなかに組み入れられたのか?それは人のすべての苦は声色香味触から出て来ているからだ。なぜ欲望があってはならない、と教えるのではないのか。それは生存の欲望はあって当然だからだ。腹が空けば食べ、寒くなれば衣服を着る。これも欲望だ。眠くなる、結婚したい。これも欲望だ。これは人類有情衆に必ず起きる事だ。避けることはできない。避けることはできないなら、我々は一種の縁に従うと言う心持ちでなければならない。縁に従うとはどう言うことだろうか?自分の能力、相応の能力に従い、この事柄を処理する。能力を超えたり、「これから大儲けして家を買おう。何歳までには必ず一定の資産を貯めよう」などと妄想したりしてはならない。福報があるなら頑張らなくとも、人が与えてくれる。福報がないのに、頑張って手に入れれば、訳も分からず使い切ってしまう。

仏は「財と富は五賊共管」と仰せだ。一つは子女だ。子女は賊だろうか?そうだ。私は心から共感する。二つ目は政府だ。政府は増税し、新たな健康保険料を徴収し、金がなくなってしまう。そのためどれだけ貯めても仕方がないのだ。インフレになってもなくなってしまう。政府が政令の幾らかを変えても、我々の金はなくなってしまう。五賊共管とは、つまりこう言う意味なのだ。

「善知陰故」。広大な群衆の中、複雑な社会の中にいると、自己の生存のため、自分自身の日々の暮らしのため、五蘊盛苦と言うこの事を忘れてしまう。しっかり見極めず、当たり前だ、必要だ、と思っている。それは生存のためだからだ。だがしばしば「生存」と言うこの二文字のため、自分を傷つけ他人を傷つけながら、気付かずにいる。

なぜ私はこんなに苦労して仏寺を建立しようとしているのか?それは閉関を経験しないなら、自分自身の内心世界をしっかり見極めることは本当にできないからだ。私に叱責される以外に、そなた達は心を静めて自分自身を見つめることがない。だが閉関すれば、外在の欲望に惑わされることなく、一部屋に閉じ込め、毎日窓を見ることしかできないなら、徐々に自分自身を見つめられるようになる。自分自身を知るようになると、二つの極端な例がある。一つは知れば知るほど怒る。他人が自分に害を及ぼしていると考えるからだ。もう一つの極端は、自分で自分に害を及ぼしていたのだ、と見極められるものだ。

なぜ私の閉関房は多くないのか?それは人を選ぶからだ。他人が自分に害を及ぼしているといつでも考えているなら、閉関してはならない。上師が自分に害を及ぼしていると考えるなら、そういう人も閉関してはならない。そういう人が閉関すれば、内部でひたすら考え、発狂してしまう。

静寂な場所でなければ我々は善でいられない。いわゆる善とは十善法を用いてこの五蘊を見るのだ。この五蘊が生じる縁故はどうなのか?この五蘊を捨て去ってしまうのではない。この五蘊がないなら、人であることはできず、有情衆であることはできないからだ。そなたには五蘊が必要なのだ。だが我々は、五蘊が生じる動力はどんなところにあるのかを知らなければならない。例えば声色香味触だ。満足するまで、ひたすら要求すれば、苦が始まる。あるだけで良いとしなければならない。福報が十分なら、声色香味触は全て与えられ、まったく求める必要はない。福報が不十分なら、手に入れたとしても、よくないことが起きる。

我々は、自己の身口意がどれだけの悪を犯しているかを、普段まったく理解していないのに、「私は間違っていない。どこが間違いなのだ?」と自分は何も間違っていないと思っている。静かになって、リンポチェに叱られれば、心が静まり「そうです」と言う。なぜ私はよく人を叱るのか?仏は叱責しなければならないと仰せだ。その道理はここなのだ。因縁福報もなく閉関するなら、先ずは叱ってからだし、先ずは打ち据えてからだ。ある弟子は打たれても内傷を負わなかった。だが非常に多くの事を、私は彼のために解決してやった。どんな事だったかは、伝えていない。

経典︰「等法界故。住阿練児処。」

この言葉は非常に説明しにくい。閉関でこの法界を待つのではない。実は閉関の際、法界では一切全てが平等であると我々は知っている。それは一切すべては因縁から起き、誰がいい人で誰が悪い人で、誰がどうだ、と言うのではないと言うことをはっきり知っているからだ。そうではない。彼らの本質は平等だ。なぜなら仏性は平等だからだ。一切の有情衆生は成仏の条件を備え、すべて平等だ。なぜできる人がおり、できない人もいるのか?それは、他の業力因縁果報と直接的な関係がある。閉関する際に、我々はこの法界を待つのではなく、法界の一切の現象はすべて平等だと知らなければならないのだ。何を平等というのか?滅するべきは滅し、生じる時は生じる。生じれば我々にとって良くないというのではなく、これが滅すれば我々にとって良い、とも限らない。

今回の疫病の流行もそうだ。これによりみなの衛生条件が良くなり、病気にかかりにくくなる。私の数軒のレストランは清潔なので、最近では以前よりいくらか繁盛している。これは非常に良いことだ。

「等法界故」静寂にならなければ、一切の現象の発生と消滅はすべて平等であり、すべて因縁法で、わざわざ良くするのではないのだ、と明確にできないからだ。いわゆる努力して何かを行う。つまりこの事を行なっている時、絶えず善の因縁を生じている。だが因縁を生じる過程においては、必ずいくらか障礙がある。この種の障礙をも、我々は平等に扱わなければならない。この障礙がなければ、自分自身の欠点がどこであるのかを知ることはできず、障礙が生じなければ、どんなところが自分自身でもはっきりしないのかが分からず、自分自身になおどんな不足があるのかが分からない、という意味だ。

法界で生じる一切の現象は、我々の心に好悪の別があるためだ。我々が菩薩道を修めるなら、虚空で発生するあらゆる現象に対して、平等心で向き合わなければならない。平等心とは、一切すべては因縁法、生滅法で、すべては因縁因果で、ひたすら変化すると言うことだ。そのためしばしばみなに言う。菩薩は誰がいい人で誰が悪い人だと区別したりなさらないし、悪人に構わないと言うこともない。金持ちだから助け、貧乏なら助けない、と言うこともない。すべては平等なのだ。それは因縁から行うからだ。そのため平等を実践しなければならない。縁がないなら、菩薩が助けようとなさってもどうしようもない。縁があるなら自然に助けられる。

法界は平等だと明確にしなければならない。五智中の一智は「平等性智」だ。平等性智はどうやって修めるのか?それは、四無量心の後の方のあの一文「愛憎住平等捨」だ。我々は常にこの言葉を覚えておかなければならない。自分の好き嫌いを、平等に捨て去ることができるなら、この平等性智は出現する。平等性智があって修める法はつまり平等だ。衆生はみな平等でなければ、衆生に利益することはできない。平等性智まで修めないなら、衆生を済度させる資格はない。

平等性智がないなら、地獄道の衆生を目にして恐れる。恐ろしい見た目をしているからだ。阿修羅道の衆生を目にして恐れる。非常に驕り高ぶっているからだ。天道の衆生を目にし強く羨み、手助けしようと思う。天道の衆生はたくさんのものをくれるからだ。畜生道の衆生を目にし、憐憫心がないなら、殺して食べようと考える。そのため平等性智は五智中で非常に重要なのだ。菩薩道を修めるものが、分別心を平等性智に転換できないなら、絕対に行えない。しかも一日や二日でできるものではない。乞食を見つけてきて助ければ、平等性智だと言うのではない。これは随順因縁ではない。この生で乞食を助ける資格もないのに、乞食を探してくるなら、これこそわざとらしい。随順因縁とは、因縁が来れば仏法に基づき利益を与えるが、出現しないなら、それは過去世で衆生と結縁していなかったと言うことで、そのためこの一生でしっかり修めなければならないのだ。

衆生を済度させるたくとも、縁がないなら済度させることはできない。私は奇妙なことをしばしば目にするが、それは私が過去世であまりにも多くのことに関わり過ぎたと言うことだ。この一生ですべて飛び出してきた。だがそのおかげで、菩薩道を学ぶ力を養うこともできた。『寶積経』は「菩薩無所畏懼」とひたすら開示している。それは菩薩は自分自身の名と利のためではなく、必ず一切の能力を尽くして衆生のあらゆる事を助けてくださるからだ。

「等法界故」この言葉は法界を待つのではなく、平等法界のことだ。法界には非常に多くの現象変化があるのを目にする。だが自性中ではみな平等だ。仏の智慧により見るなら、一切すべては平等だ。縁生縁滅に過ぎない。この一生で子供があるかどうかもすべて平等だ。因縁法なのだ。この一生で良い子を授かったなら、おめでとう。過去に修めていたのだ。この一生で良い子を授からなかった。だが上師に対して非常に恭敬で、仏法を受け入れているなら、子供は胎内で改まる。子供が生まれるまで待つ必要はない。これは我々中国人が言う胎教だ。

胎教はどうやって来るのか?子供が胎内に宿ったその剎那に、父母の心がどうであるかだ。そのため昨日加持を求めてきたあの夫婦に、私はまったく構わなかった。それは彼らが私に対して不恭敬だったからだ。私に対して不恭敬なら、三宝に対しても自然に不恭敬になる。この子供が以後、父母を敬うようになると思うか?妊娠するとみな加持を求めて来る。そんなに怖いなら、妊娠しなければいいではないか!まだ生まれて来ないのに、先に自分に言う。運が悪い、妊娠した、悪い事が起きるに違いない。それは経典が説く一切の仏法を信じていないと言うことだ。

上師に加持を求めるのは、すべての妊婦がみな仏法の保護が得られるよう願うのであって、そなたのそのOne and only single baby(そなたの唯一子供)のためではない。自分自身のOne and only single babyのためだけなら、全世界の人はどうなるのだ?妊婦に加持する度に、一切の妊娠中の母親と子供が順調であることを願うと私は言う。私はある一人だけについては言わない。なぜか?それはすべての妊婦が順調なら、それに従いそなたも順調になるからだ。自分がよくなるように求める。それなら他人はどうだ?私はひたすらみなに教えている。この国、この社会が悪ければ、そなた自身の暮らしも非常に辛くなる、と。今この病が出現したことで、みないくらか不便になっているようなものだ。なぜひたすら家族や友人に菜食するよう勧めるよう、みなに言うのか、今分かったのではないか?現在非常に多くの文献で「菜食者はこの病に罹患する機会を減らせる」と言っている。以前はそうしていなかった。事が起きてから後悔する。そのため利己的に加持を求めに来た人は得られない。全世界で妊婦は一人だけでなく、ネコであろうと犬であろうと妊娠すれば、すべては妊婦だ。我々菩薩道を行う者は「今日私は妊娠した。一切の衆生妊娠を代表し、衆生にこの種の苦がないよう求めよう」と思う。この種の求めは、リンポチェはすぐに応じる。供養しなくとも、私は加持する。それなのに誰も聞き入れない。なお利己的に自分自身が良くなるよう求める。他人は不運で当たり前なのか?このようではいけない!

「等法界故」と言うこの言葉は非常に重要だ。実は我々は法界中にいる。法界とは、仏法の境界ではない。すべての大宇宙で発生した一切の現象を法界と呼ぶのだ。ただ法界は、非常に多くのレベルに分けられる。六道中で輪迴していようと成仏していようと、我々はすべて法界において活動している。そのため菩薩道を学ぶ者は、一切の法界の現象を目にしても、すべて平等心で、すべて因縁なのだと知っている。善の因縁に喜ぶ必要はない。悪の因縁に苦痛を感じる必要はない。近頃この病が出現したせいで、みな外出できないが、これによって非常に多くの金銭を節約できている。そのため悪因縁ではないのだ。衛生条件が良くなったので、悪因縁ではない。因縁というこの事は非常に複雑だ。確実な正誤、善悪はない。一切はすべてひたすら変化しているのだ。我々学仏人は心が純善でありさえすれば、悪業が成熟し、共業が成熟しても、巻き込まれてしまう機会は非常に少ない。心が純善でなく、上師に対して嗔恨心を起こしているなら危険だ。

リンポチェは苦労してこんなにも長い間、弘法してきた。財を求めず、名を求めず、衆生の苦が減ることだけを求めてきた。そなた達は私の弟子だ。私が保護しないなら、誰がそなた達を保護するのだ?私がそなた達を保護しているので、そなた達は家族を保護でき、家族は別の人を保護できる。こうしてどんどん広がっていくのだ。他人に食事に誘われた時に「みないっしょに菜食するようご馳走します」と相手に言うよう、なぜ勧めるのか?これも行善だ。なぜ菜食でないレストランへ行き、必ず二品の菜食料理を注文しなければならないのか?そなた達は口に出せず、相手を怒らせてしまうのではないかと恐れ、商売に影響するのではないかと恐れ、保険契約を逃してしまうのではないかと恐れる。縁があるなら、何を食べようと、相手はそなたの言うことを聞くものだ。縁がないなら、天上から来たようなご馳走を出しても食べようとしないだろう。少しの小善を行うよう他人に影響を及ぼせる機会をうまく活用しなければならない。一食の菜食も小善だ。少なくとも相手は一食肉を食べなかったのだ。借りがいくらか減ったのではないか?また、一食肉を食べなかったことで、この地球の環境にも影響を及ぼした。みな行う能力があるのに、なぜ行わないのか?誰でも安穏な日々を送りたい。だが社会が平安でないなら、どうやって平和に暮らすのか?

誰もが大法会、施身法を待ち、その時でなければ家族や友人を誘わない。だが実は普段も非常に多くの善事を行うことができる。知らない内に行なっているのだ。アメリカは非常に多くの若い男女を派遣して、家庭を一軒一軒回らせ宣教している。彼らは、問題が起こることも面目を失うことも恐れていない。それはこの宗教が必要だと認定しているからだ。反対に我々学仏人は、自分が学仏人だと人に知られることをなぜ恐れるのか?怖いなら、いっそのこと学ばなければ良い。菜食について言えば、彼氏に振られるのではないかと恐れている。振られたなら、新しく見つければ良い。全世界では70億の人口を抱え、半分は男性だ。新しく見つけられないなどあり得ない。恐れるのは、そなたが貪欲だと言うことだ。

我々は仏法が説く一切を行う。自分自身を保護できる他、真に衆生に利益できる。経典で説くことさえ行わないなら、学仏し衆生に利益するなどと言ってはならない。仏法は知るは易しく行うは難しい。なぜ難しいのか?それは我々には五蘊盛苦があり、毎日好きなものを追求しているからだ。このようでは善を行うことはできない。私が教えるように、食事に誘われた時、相手に「私は菜食です。ご馳走します。いいですか?」と言う。この言葉を口に出すことはできないのか?相手を怒らせてしまうのではないかと恐れ口に出せないのか?今後会ってくれないのではないかと恐れるのか?冤親債主に会ってどうするのだ?友達がなくなってしまうのではないかと恐れるのか?私はそなた達に敬服する。仏菩薩が自分から離れて行かれるのは怖くないのか?みなといっしょに食べてもどうと言うことはない、などと思わないことだ。そなたは私ではない。私は人と食事する時は、ひたすら仏法について語る。彼らは私に口答えできないのだ。私がリンポチェだと知っているからだ。私はひたすら食べひたすら念じる。彼らは反駁できない。だがそなた達は無理だ。そなた達が人に、屍体を食べていると言えば、必ず喧嘩になる。屍体を食べているとは私ももちろん言わない。ただ例を挙げて、これを食べればどうなる、と言うだけだ。相手は聞いている内に恐ろしくなるようだ。こうはできないなら、相手を引っ掛けて来れば良い。他人に引っ掛けて連れて行かれてはならない。そなた達には、他人に行善を勧めるよう支持する仏法の根基がない。だが、少なくとも相手を引っ掛けて来て行善を助けることはできる。なぜ行わないのか?なぜ一日中怒らせるのを恐れているのか?悪業を犯すのは恐れないのか?

例えば、そなたが人と食事する。相手は魚を焼いて出して来て「焼き加減はどうですか?」と聞く。そなたは「とてもいいです。火が通っているようですよ。美味しいです!」と答える。これこそ随悪だ。たくさんの人が言ったことがあるだろう。非常に親しい人が「以前は魚を焼くのがとてもうまかったですね。これでいいかどうか見てください」と言う。そなたは「駄目ですね」と答える。これも随悪だ。また人が「以前は魚を選ぶのがうまかったですね。私に選んでください!」と言うかもしれない。自分がどれほどすごいかを見せつけるために、活魚を選んで人に殺させる人もいる。これはすべて随悪だ。そなた達は現在は定力が不十分で、福報は不足し、業障はこんなにも重い。行悪に加わる環境を減らすことしかできない。一切の人付き合いを断てと言うのではない。だが本当に減らさなければならない。他人を菜食に呼んでも来ないなら、縁がないと言うことだ。食事がだめなら、コーヒーを飲むのだっていいではないか。これこそ修行だ。レストランを開いても儲からない。少しの小善を行う場所をそなた達に与えるだけだ。小善は行わず、小悪はどうと言うことはない、と思ってはならない。経典で説くことには留意しなければならない。それは自分自身が絶えず行善すれば、他人に行善の機会を与えられるからだ。そなたの心がひたすら悪から善に転じ、仏が説く純善でなければ聞き入れることはない。なぜ仏法を説いても、そなた達は理解できないのか?それはやはり悪だからだ。心が悪なので、善が入っていけない。そのため理解できないのだ。

みなに言う。私はすでに二年間『寶積経』を開示している。時間があれば見返すように。どうせこの頃はテレビも大しておもしろい番組がなく、どれもこれも肺炎について報道している。みないっそのこと経典を見て、繰り返し見るが良い。見たことがあるから、などと考えてはならない。できているのか?できていないなら、知らないと言うことだ!良いか?(みな声を揃えて、わかりましたと言う)アキはお聞きになったぞ!私には関係がない事だ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率い、アキ護法と迴向儀軌を修持くださった。

法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


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2020 年 04 月 19 日 更新