尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2020年2月16日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

経典:「是住阿練児処。不住我我所。」

釈迦牟尼仏はここで特別に「我所」と仰せだ。唯識宗に触れたことがないなら、この文を説明するのは非常に難しい。釈迦牟尼仏は仰せだ。人の眼耳鼻舌身意は六種の意識であり、この六種の意識は作用、起動を生じ、末那識に入る。末那識とは我々が思い、話し、行う作用だ。末那識が作用を起こせば、身口意が動き、我々の阿賴耶識に保存される。阿賴耶識は生生世世に存在している。違いは、因縁がこの意識を持ち出して来るか、ひたすら存在しているかだ。我々がデータをコンピューターに保存しても、キーを押さなければ、このデータが出て来ることはないようなものだ。

この人に会ったことがあるようだ、ここへ行ったことがあるようだと言う人がいる。これはすべて阿賴耶識の作用だ。自分は仏菩薩と縁が深いと言う人がいる。これも阿賴耶識の作用だ。阿賴耶識は変えられないのではない。この一世で学仏しさえすれば、阿賴耶識中の多くの種子は調整され得る。阿賴耶識の作用は、この一生の因縁が具備すれば、阿賴耶識中の種子は芽吹き、開花し、結実するのだ。

仏は心理学を説かない。人の意識内には五十三個の「心所」があるとだけ仰せだ。この五十三個の心所は六道衆生(人類だけではない)の一切の七情六欲を含み、累世で阿賴耶識中に絶えず保存されている。阿賴耶識中も五十三種に類別されているようなものだ。この一世で特別に欲深く、嫉妒心が強いなどの人がいる。これらはすべて心所に保存されているのだ。どれかの心所の作用が多過ぎれば、この一生でこのように出現する。心所があったとしても、開発しないなら、このエネルギーは出現しない。

「所」と「能」は二つの別々の事だ。データベースがあっても、データベースを開かないなら、データベースのデータにエネルギーは出現しない。現在の科学者が、一切の思想はすべて脳の作用だ、と言うのとは異なる。

リンポチェは脳を専門に研究する葉という姓の弟子を指名し、その脳に対する専門的な研究について、「脳にはいくつの神経作用があるか?」とお訊ねになった。葉という姓の弟子は「研究によれば、十二対の脳神経があり、現在最多では二十一種に分けられます。リンポチェが開示された五十三種までに細分することはまだできません」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示を続けられた:つまりやはり仏陀がすごいと言うことだ。実際に脳の神経は「能」の作用であり、「所」の作用ではないのだ。現代科学にはボトルネックがある。かつて、豚の脳と人の脳を取り出して電気を通し脳の神経を刺激したが、作用を起こすことはできなかった。

リンポチェは「この種の事を行なったことがあるのではないか?」と葉という姓の弟子にお訊ねになった。葉という姓の弟子は「現代科学では、我々の眼耳鼻舌身意が刺激を受けた後、脳のどの部分を刺激するかまでしか研究できていません」とお答え申し上げた。

リンポチェは葉という姓の弟子に「脳だけを取り出して通電させれば、脳単独で作用するか?」とお尋ねになった。葉という姓の弟子は「脳だけなら、作用はありません」とお答え申し上げた。リンポチェは「どのように説明するのか?」とお尋ねになった。葉という姓の弟子は「説明できません」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示を続けられた:つまり脳は一個の機械に過ぎないと言うことだ。オンにする作用がないなら、作用を生じることはない。仏ははっきりと仰せだ。身口意。我々が講じるのは身だ。身体ではない。脳だ。我々の思想と行う一切すべては脳が作用を生じている。そのため「身」を用いるのだ。意は心にある。意が不動なら、身体は動かない。意が不動なら、口が話すことはない。つまり、よく考えずに適当に口に出しただけで悪気はない、と言うようなことはないのだ。

うっかり言っただけで悪気はない、と言うなら、そなたはロボットなのか?最近ではコンピューターでさえ話せるし、流暢に対話ができる。何かを訊ねれば、ロジックで推論し答えてくれる。つまり、心の中で念頭を起こさないなら、その言葉が出て来ることは絕対にない。そんな意味ではない、と言う人が大勢いる。それならどんな意味なのだ?それとも故意にそう言ったのでないなら、まさか目的があったのか?そのように言うのは、まさに仏法を理解しておらず、責任逃れをしているのだ。心も念頭も不動なら、絕対にその言葉は出てこない。心中に悪念を潜めていないなら、この言葉は出てこない。

慈悲を円満まで修められたなら、口を開いても絕対に悪口はない。私が台湾に来たばかりの頃、その頃はまだ中国語が話せなかったので、先ず三文字の罵詈雑言を学んだ。だが後に、自分がそれを言わなくなっているのに突然気づいた。修行を始めたからだ。心の中の善念が悪念より多くなったのだ。そのため自然に悪い言葉が口から出なくなったのだ。今になってもなお他人を罵ったり、雑言を口に出したりするのは絕対に修められていない。自分の心はやはり善だなどと言わないことだ。釈迦牟尼仏か大菩薩の果位まで修め、何か一言言っただけで相手がすぐに素直に言うことを聞くようでないなら、そう言う資格はない。

経典で講じる「我所」とは、五十三個の心所の中で最も重要なものだ。つまり我の存在に執著するのだ。この我が存在する「所」は、我々が六道で輪迴しているなら、「我所」は生生世世に存在している。我々がこの我に執著しているので、「我所」は我の「能」を容易に開発するのだ。つまり利己的で言いつけに従わない。私は女性弟子に、仏を信じている者と交際するのが一番だと勧めている。仏を信じていない者と交際すれば遅かれ早かれ何事かが起きる。だが誰も言うことを聞かない。リンポチェには関係ないと考えている。もちろん私には関係ない事だ。経典では外道と交際してはいけないと説いていないと言うだろう。もちろん説いていない!だが、仏法により推論すれば、そなたは学仏菜食し、向こうは学仏も菜食もせず肉を食べる。うまくいくだろうか?

つまり、これも我所だ。「我」に対する執著だ。自分が相手によって変えられることはなく、自分が相手を変えると考えている。自分に悪い影響のある事物人にできるだけ近づかない方が良いと儒家思想では言う。このようなタイプの人に近づけば、相手から影響を受けるだけで、相手に影響を及ぼすことはない。心の中で受け入れており、心の中でこの種の事情を排除しているので、自然にこのような友達と交わるのだ。さらに簡単に言うなら、選ばない、いるだけでいい、魚がなくともエビがあればそれで良い。

密法では、忿怒の本尊を目にすることがある。首には多くの人頭を掛けておられるため、密宗は恐ろしいと思っている人が非常に多い。人を殺して頭を首にかけていると思っているのだ。この種の言い方は謗仏だ。実はこれら人頭はいわゆる五十三個の心所なのだ。顕教を学ぶには、五十三個の心所を一つ一つ降服させ、それを不動としなければならない。だからこそ『華厳経』で言う「善財童子五十三参」があるのだ。「五十三参」とは、どのような法門を用いて五十三個の心所を対治するかを菩薩がお伝えくださるのだ。

「善財童子五十三参」とは、そなた達のような様子ではない。すでに菩提心まで証し、菩薩道を修めたので、これら大善知識に参できるのだ。「五十三参」中には大嗔(嗔念を用いて修行する菩薩)、大貪(貪念を用いて修行する菩薩)がおられる。密宗法門のいくつかはこのようなのだ。華厳を華厳密と言う人もいる。それはこの道理による。

仏法をはっきり知らなければ、謗仏することはなく、自分の考え方で仏法を見ることはない。大勢の人が『華厳経』を念じたことがあり聞いたこともある。だが、なぜ「善財童子」が「五十三参」が必要なのかを理解している人はいない。修行者が、この五十三個の心所の我々に対する影響を理解していないなら、菩薩果位まで証することはできない。そのため『地蔵経』中で地蔵菩薩は、いかにして菩薩道を修めるかをお教えではなく、菩薩道を修めることを発願するようとだけお教えになり、我々凡夫はどのように修めるかだけをお教えになり、五戒十善をはっきりと説かれるのだ。

『地蔵経』中では、五戒十善を修める善男子が毎日一万遍の地蔵菩薩聖号を三年間唱えれば、とはっきりと言う。この場にいる各位に訊ねよう。毎日一万遍の六字大明咒を三年間続けて唱えている者はいるか?(誰も挙手しない)三年間地蔵菩薩聖号を唱えれば何が得られるのか?『地蔵経』では明確に言う。鬼神がこの家庭を保護しにやって来て、不祥な事(水害、火災、殺人事件)が入宅しないようにしてくれる。三年間毎日一万遍念じていても、こうであるに過ぎないのだ。そなた達のような調子で念じていて、菩薩が会いに来てくださると思っているのか?菩薩は会いに来てくださらない!鬼神が来てくださるだけだ。この人は善だと考え、保護に来てくださり、学仏を続ける機会をくださるのだ。

自分は皈依して十年になり読経拝仏しているから、などと思わないことだ。『地蔵経』が説くところをできているかのか?できていないなら、何に頼るのだ?上師に頼るのだ。上師にはどんな作用があるのか?ある日私は一人の弟子に言った。他のことを言っても皆理解できないだろうが、簡単に言えば理解できるだろう。発電所の電気は、直接そなた達の家まで送られるか?

工学に詳しい一人の弟子が「発電所の圧電は345KVです。家庭に送電するには電圧が高過ぎ、直接送電すれば爆発してしまいます。変圧器を通さなければならなりません」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示を続けられた:上師は正に変圧器で、発電所は仏菩薩に当たる。そなた達には仏菩薩のエネルギーを受け取る福報がない。そなた達の身体にそのまま送れば、そなた達はすぐに爆発してしまう。求仏するよう教えるのではないか?と奇妙に思うだろう。『地蔵経』、『普門品』でこのように説いているか、しっかり見てみよ。『普門品』は、観音菩薩をいかにして供養するか、観音菩薩が我々に何をしてくださるのか、いかにして観音菩薩に求めるのかだけを教えている。

仏の福報は円満で欠陥がない。我々は欠陥でいっぱいだ。まったく欠陥がないものを渡されて、受け取れるだろうか?福報がなければ受け止めきれないのだ。なぜ上師が出現するのか?上師は変圧器なのだ。上師は菩薩果位まで修めているので、仏の電流を受け取ることができ、電圧を調整して、そなた達が適応可能なエネルギーにして、そなた達に送ってくれるのだ。

灌頂、持咒を授けると、なぜ毎回とても暑いと感じるのか?それは電気が通って行くからで、人が多いので暑いと言うのではない。今は暑くない。それは、今は灌頂していないからだ。灌頂すると電気が通って行く。なぜ暑くならない人もいるのか?それは言うことを聞かないからだ。スイッチをオンにしていないのだ。スイッチをオンにしないなら、電気は絕対に通って行かない。上師を批判して道場を出て行く人がいるが、それではこの電気は絕対に通って行かない。

道場を離れても学仏を続けることはできるかと多くの人がひたすら訊ねる。もちろんできる。だが絶対に相応しない。これは仏菩薩が贔屓目で見ているからではない。『地蔵経』でさえも、毎日一万遍地蔵菩薩聖号を三年続けて唱えれば、地蔵菩薩が姿を現してくださるとは言わないのだ。鬼神を遣わして、その家庭を保護し、修行を続けられるようにしてくださるに過ぎない。極めて明確だ。だが我々人類は奇妙だ。自分は修められると思っている。確かに修められる。だが辟支仏、声聞縁覚まで行う資格はあるのか?誰もこの条件を満たしていない。それなら何を以てできると言うのか?それなら言うことを聞くことだ。

この変圧器は大きなエネルギーを調整し、そなた達に伝送してくれ、そうして初めてそなた達に利益となる!なぜ、リンポチェは非常に多くの法を修める度に、毎回必ずいくらか不快になるのか?それは、この変圧器があまりにも多くのエネルギーを受け止め、あまりにも多くを発するため、調整する必要があるからだ。このような苦しいだけの雑事は誰もやりたがらない。なんの良いことがあるのか?みな恩知らずだ。三宝恩を知らない人も仏法を学ぶことはできない。自分自身で修めたと思っている人も仏法を学ぶことはできない。

後の方では釈迦牟尼仏が叱責し続けられる。実は『寶積経』中の叱責は、修め間違えたり、思い違ったり、道を誤ったりしないようお教えくださっているのだ。「不住我我所」については、いくらでも言うことができ、仏法の精華もその中に含まれる。我々にとって最も困難なのは自分の存在だ。自分が学んでいる、自分が念じている、自分が修めたのでどうだ、発願したいなどと考える。すべて自分だ!発願するな、と言うのではない。誤解しないで欲しい。諸仏菩薩と上師が発した願を学習し、彼らの歩みに従い歩き、行うのだ。発明家になってはならない。そなた達はそのような根器ではない。

「不住我我所」と言うこの一文は非常に重要だ。我々は静寂な場所で閉関する。自分が開悟するため、成就を得るため等ではない。これらはすべて「住我我所」だ。そなたはやはり自分自身に止まっているに過ぎない。『地蔵経』はこんなにも簡単にそなた達に伝える。三年間毎日一万遍念じれば鬼神が保護に来てくださる。三年の間、毎日斉戒沐浴、焚香し、非常に恭敬に地蔵菩薩聖号を一万遍唱え、三年唱えなければ鬼神が保護に来てくださることはない。どんな理由で、一日に三千遍六字大明咒を唱えれば、自分は観音菩薩に変われると考えているのか?どんな理由でいくつかの懺を拝めば開悟すると言うのか?どんな理由でいくらかの仏法を聞けばすぐに仏法が理解でき、伝法人を批判できると言うのか?すべて誤りだ。

「不住我我所」と言うこの一文について、真剣に講じるなら、一年掛かっても語り終えられない。語ることがあまりにも多く、この言葉の正しさを、あまりにも多くの科学が証明できるからだ。先ほど、脳を取り出して電気を通しても作用を起こさないと言ったが、科学は、脳は我々の身体を支配していると考えている。脳が我々の身体を支配しているなら、脳を取り出し身体がない時に、脳はなぜ作用を起こさないのか?現代科学は脳細胞を非常に長く生かしておくことができる。だがどうしても作用を起こせない。科学者には盲点がある。研究で明らかにできないのだ。仏だけが明らかにできる。脳は人体の臓器の一つに過ぎないのだ。臓器は我々の意識に支配されている。

脳に病を抱えている人は、意識内に因果不信と言う状況を抱えている。そのため脳に問題が生じるのだ。脳に問題が意識が混濁し判別できなくなり、物事を判別することもできなくなる。これこそ因果不信が原因だ。ちょっとした小さな悪事を為したってどうと言うことはない、と考えている人が非常に多い。だが皈依の際には「諸悪莫作,衆善奉行,自浄其意,是諸仏教」とはっきり伝えてある。諸悪とは、すべての悪だ。悪には大も小もない。そなた達が区別しているのだ。心の中でリンポチェを一言罵っても、どうと言うことはないだろうと思っている。私はどうと言うことはない。だが、そなたにはどうと言うことはある。

ある弟子が先ごろ私の法本を変えた。先週土曜日、母親がこの弟子を連れて懺悔に来た。私はこの弟子が本当に懺悔したと思ったが、懺悔を終えた後に会社でまた事件が起こった。この弟子は昨年会社で、ある過ちを犯し危険を引き起こすところだった。だが、彼は今まで隠しており、偽の懺悔をした後に明らかになったのだ。心から真に懺悔すれば福報が起きるが、偽の懺悔なら化けの皮が剝がれる。私はしばしば言う。そなた達は過ちを認めに来たのだ。懺悔に来たのではない。心からの真の懺悔をしていない。Aの事を誤ったので謝りに来ただけだ。Aについては以後気をつけるが、B、Cの事はこれまで通り行う。

何を身口意懺悔と言うのか?誤ちをすべて懺悔するのだ。道場での誤ちは懺悔しなければならないが、世間法は懺悔しなくとも良く、帰宅して夫を罵っても懺悔しなくても良いと思っている人が非常に多い。だからアキ護法はすごいのだ。この弟子の誤ちを暴いた。相手は昨年11月から今まで我慢して言わなかったが、この弟子が偽の懺悔をしたことで暴かれた。面白くないか?この弟子が懺悔に来なかったのなら、この事は伏せられたままだったかもしれない。だが上師を欺いたので、先週土曜日、母親に連れられ懺悔に来たが、私は無視していた。また欺きに来た、と思ったからだ。案の定また私の言う通りになった。

頼むから嘘をつかないで欲しい。懺悔に来なくとも良い。懺悔は私に謝るのではない。仏菩薩に対して「過ちを犯しました。仏菩薩さまお許しください。私にチャンスをください!」と謝罪する。そうではないのだ。懺悔とは、自分自身が行なった一切を認め、きちんと向き合って責任を取るのであって、逃避するのではなく、仏法を自分の盾とするのではない。他人の生命を危険に陥れながら、済度させれば、それで良いと思っている人がいるようだが、それは誤りだ。やはり問題がある。

私はこんなにもたくさんの大修行者の故事について語ってきた。だが誰も聞き入れない。私自身の事をさえ語ってきたが、それさえも聞き入れない。かつて言ったことがある。毎回「阿弥陀仏無遮大超度法会」を終えると、私の身体は訳も分からず傷つき流血している。道理に照らせば、大法会を行えば福報があるはずなのに、なぜ傷つき流血するのか?だが私は、訳も分からずいつの間にか怪我している。なぜか?それは私が一つの借りを返したからだ。大法会を修め終えれば、本来は腕を骨折するところだが骨折せず、その代わりに流血して借りを返したのだ。だがこれでも何もないと言うことではない。

何回か法会に参加すれば、すべての事がすっかり解決すると思っているのか?そんなことはない。真心から懺悔すれば、真に災難があった時に救われるに過ぎない。だがそれは災難がないと言うことではない。今回この肺炎が流行っているが、昨年私はすでに発生を予言していた。それは人心が貪欲だからだ!みな揃って貪欲だ!ある女性の皈依弟子は、私の会社でアルバイトをしている。この弟子の隣の席は正社員だが弟子ではないため菜食していない。私の会社では毎日ベジタリアンの昼食を提供しているが、この社員はこの皈依弟子に料理を取ってやった。皈依弟子と社員とは仲が良いので、弟子はそれをそのまま食べた。その結果、二人ともその日の夜に急性胃腸炎を発症したのだ。皈依していない者がすでに皈依している者に与えたためだ。皈依していない者は、この前の晚に弁当を食べたが、弁当には海鮮が入っていた。しばらくは海鮮を食べず、肉も少なくするよう、私はすべての社員にとっくに通知を出していた。だが誰も信じていなかった。これら信衆を含めてだ。今は非常時だ。ちょっと少なめに食べても死にはしない。

肉を食べなければ栄養が足りないと心配している人がいる。だが、私はそなた達を20年近くも叱っているが、まだ叱る体力気力がある。私はまったく肉を食べていない。栄養はどこから来るのか?つまりこれは盲信に過ぎないのだ。科学を盲信している。この皈依弟子も言うことを聞かない。私はひたすら教えてきた。他の人と交際するなと言うのではない。だが自分自身を守ることを知らなければならないのだ。現在この時期にまだ同じ箸で料理をやりとりし、あっちを食べたりこっちを食べたりしていたから、夜腹を下したのだ。海鮮を食べないよう諭しても誰も聞かない。その結果すぐに腹を下した。適当に言っているだけだと思って、聞き入れない人が多い。

二月九日、十日二日間の「パルナシャバリ」持咒に参加した弟子について、私は言うことができる:この一生でこの病に罹ることはないだろう。念じに来なかった弟子もやはりチャンスがある。私はわざわざ自由に申し込みできるように開放したのだ。ところが半分の人が来ない。子供、高齢者が来ないから、と言うのが理由だ。私の持咒を聞いたことがある人は、このところの流行り病には関係がないだろう。だがそなたにないと言うことではない!言うことを聞かず冷水を飲むなら、この弟子のように他人の箸で渡された料理を食べたなら、不注意ならそうだ。火鍋を食べる時に、同じ鍋を仕切って、こちら側は菜食で反対側は通常食とする人もいる。まさかスープは流れて行かないのか?全くもって阿Qだ!こう言う中途半端な学仏人が台湾には非常に多い。仏教徒という美名で呼ぶがそうでもない。私の弟子さえすべてそうなのだから、他のところはもっとだろう。問題は私見から出ているのだ。私の見解、私の考え方だ。

一人の修行人がひたすら自分の「我所」に留まるなら、出て来ることはできない。修行人と言わずとも、一般人でもそうだ。少しの小さな事で、非常に恐れている。それは自分が傷害を受けるのではないかと恐れているのだ。だが実はそなたが他人を傷害した後、傷害の果報が戻ってくるのは当たり前なのだ。受け入れれば恐ることはない。私はガンになった時も恐れなかった。それはなぜなら自分は若い時に海鮮を好んで食べていたので、この種の果報を返済として受け入れたからだ。治療せず、仏菩薩にも求めず、因果を信じ、仏法を信じた。実はこれこそ仏菩薩に求めることなのだ。そなた達は本当に仏を信じない。

経典:「長者当知。無涅槃想。是住阿練児処。」

この言葉は非常に重要だ。釈迦牟尼仏は再び長者にお伝えになった。この一生で涅槃に入るまで閉関すれば仏果に成ると考えている人が非常に多い。この言葉が言うのは、閉関すれば仏果まで証できると思わないことだ、と言うことだ。菩薩でもないのに、何を以って涅槃に入るのか?山のような凡夫の思想がなお存在しているのに、何を以って涅槃に入るのか?このような考えで閉関するなら心魔が来る。そなた自身の心魔だ。

私はある時、閉関禅定の最中に突然、真の「定」を理解した。それは非常に微細な一種の心念の感覚だ。言葉で言い表せるものではない。禅宗で「不立文字」と言うようなものだ。「不立文字」とは書かない、教えない、と言うのではない。文字ではこの境界を説明できないと言う意味だ。修行経験のある上師に付いて学仏していないなら、非常に危険だ。それはその人は語れる経験がないからだ。ここで釈迦牟尼仏は、涅槃の境界へ到達することに執着すべきではないと仰せだ。その道理は何だ?成仏には三大阿僧祇劫を経なければならない。そなたは、何を根拠に、この一世で静寂な場所で一、二ヶ月閉関すれば涅槃に到達できるのかか?このような考え方があるなら死んでしまう。それはそなたが死を望んでいるからだ。

涅槃の定義は、この肉体が死ぬと言うことではない。肉体が死ぬのは、この家が使えなくなるので家を変える、と言うことに過ぎない。涅槃は、不生不滅の境界と定義される。この一生ではこのような境界に達することはできない。そのため我々は阿弥陀仏浄土への往生を発願するのだ。あちらへ行き再び輪迴せず退転しないことを発願する。阿弥陀仏と観世音菩薩が修行にお導きくださるので、我々は初めて証道成仏でき、三大阿僧祇劫の時間を経る必要はない。

閉関する機会があるなら、「仏は涅槃まで修めなければならないと仰せだ」と考えてはならない。そなたは仏ではないのだ!このように修めれば、どんどん消極的になってしまい、死にたいと思ってもいいくらいだ。学仏でこのような考えを持っている人が最近、非常に多い。「この世間はあまりにも苦しい。早く私を連れて行ってください!」と。連れて行ってもらえば福を享受できると思っているのか?そんなことはない!阿弥陀仏のお側へ行っても福を享受するのではない。輪迴しないだけだ。あちらへ行けば、ベッドに寝転んで大の字で寝ていられ、好きな時に起きればいいと思っているのか?そんなことはない!『阿弥陀経』をしっかり見てみよ。仏を修めよと一秒毎に物や音声が伝えてくるのだ。水流の音も修仏せよと言ってくる。鳥の鳴き声も修仏せよと言ってくる。風が木々の葉を揺らす音も修仏せよと言ってくる。楽に楽しく自由自在に暮らせると思っているのか?そんなことはまったくない!

阿弥陀仏のお側は私より厳しい。一羽の鳥であってもすべては菩薩の化身だ。『阿弥陀経』は言う。一本の樹木であっても菩薩の化身なのだ。そなたが香りを嗅いだ、良い香りの花も菩薩の化身だ。絕対に見逃しはしない。阿弥陀仏のお側へ行けば、見逃してくれるだろうか?我々の地球はあまりにも自由だ。来たいなら来て、来たくないなら来ない。聞きたいなら聞き、聞きたくないなら聞かない。自分の言い方で語り聞かせる。この二文は我々に気づかせてくれる。修行を誤ってはならないと。

閉関はなんのためだ?前の方で仏が仰せのように:恐怖はどうやって来るのかを我々に理解させるのだ。それによって、その後どうすれば恐怖することがないのかを知ることができる。「八正道」とはどんな意味かを思惟させてくれる。功徳を欲張ったり、涅槃や不生不滅の最高境界を欲張ったりするのではない。この一生でそなた達が修めることがどうしてできようか?顕教から言えば、起きるはずがない。密法では即身成仏と言うが、この肉体が仏に変わるのではなく、心が仏と無二無別の心に転成するのだ。だが次第を踏んだ修行を経過する必要がある。一歩登天ではなく、5年や10年仏号を念じれば成仏できると言うのでもなく、仏在心頭坐でもない。これらはすべて掛け声だ。上師でさえも信じていないのに、どうして仏を信じるのか?

「無涅槃想。是住阿練児処」この涅槃の観念がなくて、初めて静寂な場所に止まることができる。この言葉は非常に興味深い。普段我々は修行する。静寂な場所に止まる機会はないが、自分ができない事を贅沢に望まないなら、静寂なところで修行しているのと同じだ、と言うのだ。この一生で成し遂げるのは不可能だ、と明らかに分かっているのに、一日中こうしたいと考えている。例えば、会いに来て「学仏したいです。衆生を済度させたいです」と跪いて言う人がいる。自分さえできないのに、メチャクチャなことを言っている。これはこの言葉と同じ意味だ。問題の根本はどこであるかも分かっていないのに、口を開けば衆生を済度させると言う。これが大乗仏法だと思っているのだ。大乗仏法はこうは言わない。菩薩道学習、菩薩道修行を発願すると言う。菩薩道を学ばずに自分自身をいかにして済度し衆生を済度させるのか?誰もがみな「道聴塗説(
道でたまたま聞き知ったことを別な場所で得意そうに人に話す)」だ。本当のことのように話す。

経典:「況煩悩想」

自分は涅槃まで証すると贅沢に求めない。この種の考え方さえ捨て去るなら、何を悩むことがあろうか?一切の起こった欲望はすべて煩悩、一切の仏法から離れた考え方をすべて煩悩と呼ぶ。いわゆる仏法を日常の暮らしに用いるとは、仏法を用いて暮らしを楽にすることではなく、仏法を用いてそなたの性格が良くなったと人に感じさせることでもない。これらは仏法が不要だ。孔子の書を少しでも読めば性格は良くなる。これらは品行だ。

自分自身の身分と地位を理解すれば、自然に性格は良くなる。学仏すれば性格が良くなるとの考え方があるなら、それも煩悩だ。それは「なぜ私は学んでも性格が変わらないのか?仏菩薩は私を加持くださらない!」と考えるからだ。貪嗔痴慢疑を下ろしていないのに、どうして変わるだろうか?我念がこんなに重い人がどうして変えられるだろうか?我見がこんなに重い人がどうして変えられるだろうか?変えられず、やはり煩悩が山のようにある。釈迦牟尼仏はここで非常に明確に仰せだ。「涅槃の観念を我々は捨て去らなければならない。あれら煩悩の観念はなおのことではないか?」

人が煩悩を起こすのは正常なことだ。なぜならまだ空性まで証していないのだから。自分は学仏人だと思うなら、煩悩が起きるやいなや、煩悩が来たとすぐに分かるはずなので、それを追い続けないことだ。先ほど法会前に「リンポチェからオーケストラの設立を準備するよう指示されたことで煩悩が起き、眠れなくなったが、リンポチェが加持くださると思うと、煩悩は直ちに停止し眠ることができた」と弟子が語ったようなものだ。煩悩はすべて自分自身で作り出すのだ。他人から与えられるものではない。心の病も考え出したものだ。自分には煩悩があり、これが良くない、あれも良くない、これが私を邪魔する、あれが私を懲らしめる、とひたすら思っているからだ。

我々は皈依時に「皈依法離欲尊」と言った。「欲」とは煩悩、要求だ。我々は皈依時に知ったのだ。仏法は我々の清浄な本性を回復させ、一切の欲望と煩悩から離れさせてくれる。そうでなければ尊貴を得ることはできない。この種の尊貴とは他人から尊重されると言う意味ではない。未来に尊き法身を得ることができると言うことだ。学仏して煩悩が多くなったなら、何のために学ぶのだ?「リンポチェは私に良くしてくれない、リンポチェは私に気を配ってくれない、リンポチェは私を誤解している、リンポチェは私についてあれこれ言う」とまだ考えている。すべての衆生は貪嗔痴慢疑と言う同じ悪い癖を持っている。誰だと言わないが、みな揃って持っている!この問題は自分自身の煩悩がひたすら絶えずあることから出ている。これこそ我の観念だ。自分は非常に重要で、この団体において自分は重要だと人に注目してもらいたいと願っている。それなら煩悩は起きるに決まっている。

経典:「長者。謂阿練児処者。不依著於一切諸法。不住諸法。於諸法無礙」

この言葉は『金剛経』で言うのと同じで、最後には仏法をさえ捨てなければならない。法でないものはなおさらだ。ここでの法の定義は:我々が学仏修行して学んだ仏法だ。法は一種の道具に過ぎない。我々の煩悩を減らし、我々の煩悩を断ち、利己的な考えを減らすのに使うのだ。この種の事がゆっくり成功していると感じたなら、仏法がなければ思惟できないと思う必要はなくなる。だが、そなた達は今この境界まで至っていない。

「パルナシャバリ」持咒のこの件では、私も一生懸命に修法し、法王に請示する必要はない。なぜ法王に請示しなければならないのか?それは法王は私の上師であられるからだ。仏法上の事では私は上師を尊重しなければならない。そなた達はそうではない。家で『薬師経』を念じ衆生に迴向するようすべての信衆を動かすと言う人もいるが、これは上師を尊重していない。

経典のこの言葉には特色がある。それは我々は仏法に頼り成仏するのであって、仏法がなければ開悟できないと執着するのではないと言うことだ。仏法の教導は、仏が我々に、仏の修行の経験に基づき、凡夫から仏へと自分自身をいかにして変えるかをお教えくださるに過ぎない。それは、我々は学仏しなければならないと言うことだ。仏が我々にお教えくださるのは一つの過程に過ぎないのだ。結果は自分次第だ。そなたの発心が楽な暮らしを送るため、心を落ち着かせるため、健康になるためだけなら、それは仏法に依存し、仏法に執着している。いかなる空性の慈悲心も修めることは絶対にできない。さらには修行閉関し開悟を願うのも仏法ではない。一種の貪念に過ぎない。この種の貪念により、空性の慈悲が修められなくなる。空性の慈悲がないなら、一切の仏の願力は行えない。

仏と我々の最大の違いは、仏はご自分ができるとはっきり認識してから、初めて発願されたと言うことだ。阿弥陀仏が発された四十八願は阿弥陀仏が数世の間修められた後に、ご自分が仏果を証する前に発願されたのだ。仏は法身菩薩となられて初めてこの四十八願を発願された。つまり必ず成し遂げられると言うことだ。自分が発した願を成し遂げられないなら、頼むから発願しないでもらいたい。仏菩薩を怒らせ、護法を怒らせるのではなく、自分自身の修行の障害となるのだ。なぜそなた達に、仏菩薩、上師の願力を学んで行うように言うかといえば、それは彼らはすでに成し遂げられておられるからだ。仏菩薩、上師は成し遂げているのだから、そなた達も成し遂げられる可能性がある。それほど円満にまでできないとしても、少なくとも近くことはできるので、自分自身の願を発明するものではない。以前ある出家衆は50個の願を発すると言っていたが、そのようなことをするものではない。凡夫身であるのに、何を以って成仏の願を発するのか?会いに来た時に「自分は仏法を学び、以後度衆し、衆生に利益したい」と言う人もいる。自分自身の生死大事をさえ解決できていないのに、何を以って度衆するのか?これこそ傲慢この上ない。

「不依著於一切諸法。不住諸法。於諸法無礙」私は「パルナシャバリ」を修めるが、修め終えれば忘れてしまう。この本尊、咒語を忘れてしまうのではなく、この事を忘れてしまうのだ。この事の因縁が出現し、私は行なった。どれだけの人に良いか、良くなった人がいるか、とあれこれひたすら考える必要はない。多くの人がみな考えている。毎日大悲咒を念じているが、母の身体は良くなっただろうか?と。それならそれは観音菩薩を信じていないと言うことだ。なぜか?自分が大悲咒を念じているのなら、観音菩薩がどのようにそなたの母を助けてくださるかなど、そなたの知ったことではないからだ!そなたはすでに菩薩に助けを求めたので、今は菩薩を欺き、自分の考えを必ず実現しようとしている。こうして煩悩が起きる。煩悩が起きれば仏法はすぐに停止してしまう。たくさんの人がみなこのようだ。何回か求め得られないと、効き目がないと考え、謗仏する。

ここで仏は、法にこだわってはいけない、と特別にお教えくださる。我々の修行は一つの過程であり、菩薩道修行における、いわゆる資糧道では、閉関も資糧道であり、福慧資糧を累積するが、これは結果ではなく、我々が追求する目的でもない、ということだ。だがもし福を修めず慧も修めないなら、開悟する資格はない。つまり菩薩道を修めるとは、見道であって、この道理が見えるのではなく、空性が見えなければ見道ということはできない。見道の後でなければ、修道を開始することはできない。何を修めるのか?菩薩となる道、仏となる道だ。空性まで見えないなら、修道は絶対に不可能だ。そなた達、現在は資糧道に過ぎない。加行道であろうと、そなた達には資格がない。加行道には顕教の加行道、密宗の加行道がある。

そなた達が、自分はすごいと考えることを仏は心配しておられる。これも一種の貪念であり、一種の執著であり、一種の我の念頭の存在だ。仏法は一種の方便法に過ぎず、一種の因縁法でもある。例えば、この病がないなら、この因もない。この因がないなら、私は念頭を動かしこの種の苦を目にすることもなく、この縁もない。それなら空性ではないか?私は故意にこの病を作り出したのか?そうではない。それは因縁から発生したのだ。それなら、なぜこんなに時間が経ってから、ようやく思いついたのか?それは福徳因縁がなければ、私も突然に思いつかないからだ。時間が至らなければ思いつくことはない。仮に今日私が修法後に、「パルナシャバリ、あなたはなさりましたか?なぜ今もなお人は病にかかるのですか?」と毎日ひたすら思っていたなら、これこそ法への執著だ。法を修め終えても、なお人が病にかかるなら、それはその人の因縁が成熟したからだ。法を修め終えも、病にかかるべきでないなら病にかかることはなく、さらにこの病はゆっくりと減少する。死ぬできでないから死ぬことはない。それは傷害された衆生の嗔恨心が減少し、さらには無くなってしまったからだ。そのため、この病が好転したのだ。

この言葉は我々に特別に伝えてくれる。一切諸法に不依著で諸法に不住なら諸法無礙だ。つまりどんな方法を用いても衆生に利益することができ、念頭を起こすだけで、衆生に利益することができると言うことだ。例えば、私は閉関せずにパルナシャバリを修めたことがあるが、私の持咒は同じように有用だ。それは慈悲心があるからだ。あらゆる諸仏菩薩の本質は慈悲だ。慈悲心を修めることができたなら、あらゆる仏法はすべて慈悲だ。特別にどんな法門が必要だとは言わない。そのためここで仏は閉関者の心構えについて特別にお話しくださるのだ。

経典:「不依色声香味触住。」

閉関したことで、心を病む人が非常に多い。どうしてなのか?それは、いずれかの本尊が現れるのを喜び、なにかの音声が聞こえるのを喜び、何かの香りを嗅ぐのを喜び、何かの感覚を感じるのを喜ぶからだ。例えば『地蔵経』を念じている時に背後が異常に涼しいのを感じる人がある。実は明らかに背中にかいた汗が風で吹かれただけなのに、鬼が取り憑きに来たと考える。これは不可能だ。三年間毎日一万遍念じることがなければ、鬼がどうして会いに来るだろうか?会いに来るのさえ面倒で来てくれない。台湾では非常に多くの人が、このように奇妙でおかしなことに、経典に基づかず仏法を講じる。どうだ?滑稽ではないか?『地蔵経』を念じると背中に寒気がし、『普門品』に変えて『普門品』を念じると、今度は腹が冷えるので、恐ろしくて念じられないと言う人がいる。死を恐れるなら、なんのために念じるのだ?

経典:「住一切法平等無垢。」

我々は閉関する際に、どのような香色相味触住に触れようとも、この法は仏法の観念を指すのではなく、一切は現象であり、平等に見なければならず、分別心があってはならない。この言葉は非常に重要だ。分別心があるなら、すぐに心魔が生じる。ミラレパ尊者は山の洞穴で閉関なさったが、ある時の閉関時に、面前に石を目にし、これは魔ではないか?とひたすら考えた。ひたすら考え、ひたすら考え、閉関が終わろうとする時、この石はほんとうに魔に変わり姿を現した。「お前はどのような魔か?」と訊ねると、魔は「そなたが考え出したのだ」と答えた。

つまり閉関時には、鬼を恐れれば鬼が現れる。閉関時に、自身の冤親債主がやって来ないよう、冤親債主のために念じようと考えるなら、彼らは必ずやって来る。それはそなたが彼らを呼び出したからだ。実はいわゆる冤親債主はすべて家庭内の人なのだ。『寶積経』では言う。生生世世にそなたを傷害する衆生の多くは、すでに投胎している。だがすべてこの宇宙におり、虚空のどこかにおり、まだ出会っていないだけだ。だが我々はやはり迴向しなければならない。覚えておくように。善の念頭は虚空に永遠に存在し、悪い念頭も永遠に存在し、滅することはないのだ。

経典:「平等無垢。」

私が閉関する部屋は木の板で作られている。板と板の間には隙間があり、夜は冷たい風がひたすら吹き込んでくるし、虫も入ってくる。ではどうしたらいいのか?平等無垢だ。入ってきて眠りたいなら、そうさせる。一晩眠れば、翌朝出ていくだろう。蜘蛛なら、ビニール袋を持ってきて全部を集め、翌朝放してやれば良い。平等心がないなら、閉関を続けることはできない。垢とは何と定義されるのか?自分が好き、自分が嫌いと感じる。これこそ垢だ。閉関する人が、閉関する場所を、自分が好きか嫌いかと強くこだわるなら、例えば、どんな敷物で寝なければ腰が痛くなる、法座をどれだけ高くしなければうまくいかない、と考える。これらはすべて執著だ。

閉関とは最もシンプルな生活だ。眠る敷物があり、物を置く場所があれば、すでに阿弥陀仏だ。そんなに多くの要求はない。私が以前ラプチ雪山で閉関した時に机などあるはずがあろうか?自分で持って行ったものを敷き、そして修めた。壇城を設置しなければならないと考える人もいるが、我々は八供杯を置くだけで壇城だとする。壇城はどこにでもあるのだ。もちろん条件が整っているなら、壇城は荘厳でなければならない。だが条件が揃っていないなら、閉関時には、どのような程度まで行わなければならないなどと追及しない。「菩薩を設え、菩薩は何個設えなければならない」として、そうでなければ、いわゆる荘厳な閉関ではない、と言うこともない。閉関時には法写真さえないこともある。それでもそのまま閉関するのだ。

経典:「住善調心。」

心が善調にあるなら、一切の善法を用いて自分の心を調整する。我々の心は非常に容易に動く。生生世世に阿賴耶識内には非常に多くの悪の念頭がある。そのため我々が静まると、悪の念頭が出現する。どこからか音がすると言う人もいるが、実はそれは自分が自分と話しているのだ。神経質になってはならない。それはそなたの過去世の念頭とこの一生で累積した念頭なのだ。どのようにして対治するのか?それは学んだ仏法と一切の善法で対治するのだ。なぜ上師に対して不恭敬なのか?それは本来、生生世世に人に対して恭敬であったことがないからだ。そのためこのせいで仏法を用いて調整しなければならない。なぜなら閉関の過程では、この種の状況が出現するからだ。普段は心が静まらず、自分自身に多くの齷齪があるのに目を向けず、心が静まって初めて目にし、自分自身こんなに齷齪していたのかと驚く。実は自分はこんなにむさ苦しかったのか、毎日入浴さえしていなかったと驚く。つまり仏は経典中でひたすら我々にお伝えくださる。閉関はどのような心構えで行うべきかをお教えくださるのだ。

経典:「棄一切畏住於無畏。」

棄とは一切の畏懼を捨て去るのだ。どのような畏懼であるかは、前の方でお教えくださっている。これら畏懼はどのように来るのか?これも我から来るのだ。私が初めてインドで閉関した時、最初の夜、私は山のようなインドの鬼が部屋の外に立っているのを目にした。そなた達ならどうするか?ひたすら六字大明咒を念じるだろう。私は念じなかった。普通通りに寝た。明日念じる功徳をすべて与えるので、今夜は眠らせて欲しいと頼んだのだ。その後これら鬼は消えてしまい、その後も姿を現さなかった。これこそ与えることが必要で、追い出すのではないと言うことだ。そなた達はみな追い出そうとする。そのためいつも他人に追い出されている。忿怒尊を修めさえすれば、あれら鬼は自分を恐れると思っているのか?彼らが恐れることはない。

初めて閉関した際、このような事が起きた。大量のインドの鬼だ。実はそこはかつて英国軍隊の軍病院だったことを後に知った。ハンセン病患者を専門に収容していた病院だったのだ。それで、あの日は、異常な姿の大勢の鬼が関房の外に立っているのを目にしたのだ。彼らは入って来られなかったが、皆きちんと並んで立っていた。軍隊に所属していた者たちだったので、きちんと立っていたのだ。私は彼らを追い出さず、明日一日修める功徳はすべて与えるので、眠らせて欲しいと頼んだ。こうすれば、私は一日分の功徳を失う。だが彼らは再び来なかった。そなた達なら「観音菩薩、お護りください。私は閉関しており、現在修行しています。彼らを立ち去らせてください」とだけ言うだろう。そなた達はすべてこうだ。慈悲心がない。観音菩薩はそなたのために鬼を立ち去らせてなどくださらない。なぜなら鬼はそなたと縁があるからこそ来たからだ。縁がなければ、来てどうするのだ?そなたのこの徳性を見れば来ないはずだが、そなた達はどうしても恐怖を持つ。

経典:「住脱一切結流大河。」

我々の心は一切輪迴を解脱する大河に止まらなければならない。結流とは、一切の思うこと行うことだ。そなたを輪迴させる結と流を、この輪迴大河内に至らせなければならない。と言う意味だ。閉関の第一の宗旨は、再び輪迴しない、生死解脱だ。第一の宗旨は、涅槃が欲しい、開悟したいではないのだ。もう一度こう言うなら、私は金剛杵を投げ付ける。滅茶苦茶なことを言ってはならない。釈迦牟尼仏の仰せを聞かず、閉関は開悟のためだと言う他の人の話を聞く。私はこんなにも多くの経典を恭読したが、釈迦牟尼仏がこのように仰せなのを見たことはない。まさか釈迦牟尼仏が間違いなのか。あれらいわゆる大師級の人が正しいのか?正しい、それは誤りだ。それはその人が仏ではないからだ。仏はこのように仰せではない。我々は仏の仰せに従い修行しなければならない。仏の仰せに背いてはならない。

経典:「住於聖種。」

閉関は生死解脱のためだと我々は知っている。輪迴させる一切の動力を作り出してはならない。そのため我々は「住於聖種」なのだ。生死解脱ができる人でなければ聖人とは呼ばれない。経典で言う凡夫と聖人との間にはどんな違いがあるのか?我々が言う聖人は良い人だ。道徳に背くことをせず、人助けをする人が、いわゆる聖人だ。しかし、経典で言うのはこう言う意味ではない。聖人とは生死を解脱した人だ。凡夫は六道内にいるなら、天界だとしても、帝釈天や多聞天だとしても、すべてはやはり凡夫だ。それはやはり輪迴する必要があるからだ。仙女になれば輪迴する必要はないなどと思わないことだ。やはり輪迴する。そのためやはり凡夫なのだ。

いわゆる聖種とは、生死解脱のために修行すると決心した人を言う。この種の聖人の種子でなければ、種えられることはなく、そうでなければいつか聖人になることはない。それは生死解脱できるなら、いつか必ず衆生の生死解脱を手伝うことができ、そうでなければ真の聖人ではないからだ。人世間の小さな苦痛は小事だ。生生世世の輪迴こそ大事だ。仏法を誤解してはならない。仏は経典中ではっきりと仰せだ。輪迴の大河に再び陥ってはならない。そうでなければ聖種はなく、成菩薩、成仏と言えるまでは、開悟できると言うことはできない。この点をさえ弁えられないのに、なお閉関するとは!何を閉関するのだ?もしそうなら、ドアを閉じて毎日楽な暮らしを送れば良い。こんなにも多くを求めてなんなのだ?

経典:「住於少欲。」

閉関時には欲望が多くてはならない。我々が閉関する時には、どんな欲望であろうと持つことは許されない。毎日腹を満たせればそれで良いのだ。2007年ラプチ雪山で閉関した際には、三ヶ月間白湯で煮ただけの麺を食べていた。運が良い時には野菜が二本入っており、運が悪ければお湯が少なめだ。そこは標高が四千五百メートル余りで、乾燥もしているので、法王のおられるところから私の方へ歩いてくるまでの五分間で水が吸い込まれてしまうからだ。数日食べた後に、翌日はお湯を少し多くしてくれるよう侍者にメモを渡した。侍者が法王に見せたところ、法王は「スープを多めに」と仰せになったが、その結果スープが多くなりすぎ、それも良くなかった。こうして三ヶ月を乗り切った。美味しいとも美味しくないとも言わないが、腹を満たすことはできた。

以前ミラレパもそこで閉関なさったが、毎日緑色の植物を食べておられたので、身体が緑色に変わった。そのためある狩人がミラレパを目にした時、鬼を見たと思ったと言うことだ。閉関の際には、生活の基本条件があればそれで良い。他の欲望はすべて減らさなければならない。それはあらゆる思想、欲望を含む。この種の閉関を行う時には、夜寝ていて、正しくない考え方を夢で見ても、すぐに起きて懺悔しなければならない。そなた達のように、閉関を終えたら、この成績を他人に見せたい、と言うのではないのだ。成し遂げられるか?と自分で自分に問わなければならない。

経典:「住於知足易満易養。」

そなたの心は「住於知足」でなければならない。掛けられる布団があればそれで知足で、何かを要求してはならないのだ。閉関時に私は寝袋で寝ていたが、寝袋は前が広く後ろが狭い。私は背が高い方なので、夜中まで寝ると辛くなる。足を曲げられないからだ。だが知足しなければならない。それは寝袋で寝られるからだ。寝袋さえない人もいるのだ。「易満」とは、非常に容易に満足できることで、白湯で煮た麵を食べるだけで十分に満足する。二日目に野菜が入っているなら、今日は栄養がある。そのため三ヶ月間白湯で煮た麵を食べたが、栄養失調にはならず、かなり痩せただけだった。だがこれは極めて普通だ。三ヶ月で痩せるのは極めて普通だ。

「易養」とはどんな意味だろうか?水を飲み白湯で煮た麵を食べても三ヶ月生きられるのだ。死ねない。我々はヘリコプターで行くので、たくさんの食物を持っていくことはできないし、あれこれ準備することもできない。そなた達、あれら出家人が閉関するように、関房でたらふく食べるようなことはない。それなら閉関する必要があろうか?「咳が出ると困るのでこれを準備し、口が苦いと困るのでこれを準備し、体力が落ちると困るのでこれを準備する」。それなら閉関しないほうがよっぽど良い。「易養」とは、閉関は楽を享受するのではなく、食事はできないが、閉関を続ける体力を維持するために物を食べるのだ、とそなた達に知らしめるのだ。栄養があるかどうか、美味しいかどうかなどと心配してはならない。私は辛いものを食べないので、白湯で煮た麵だけを食べたのだ。

苦労したことがない人は学仏したことがない人だ。楽な暮らしを常に求めている人も学仏人ではない。快適に暮らしたい、何も起きないでもらいたいと常に考えている人も学仏人ではない。毎日平安でトラブルが起きないようにと願っている人も学仏人ではない。毎日楽しく過ごしたいと願っている人も学仏人ではない。これはすべて外道だ。学仏人は一切すべては因縁だと知っている。良くてもよく、悪くてもよい。いずれにしろ一日だ。

経典:「住充満智。」

私の心は一切仏の智慧で満たされている。仏の智慧とはなんだ?現在何かを求めるのではない。釈迦牟尼仏は『大般若経』を用いて智慧を十数年も説かれた。そのため人が考える方が賢いと言うことではない。「リンポチェ、私は智慧を求めます」と人はしばしば言う。求めてどうするのだ?「同僚との関係をよくします」と言う。これは智慧とは関係がない。これはそなたの人としての処し方に関係がある。非常に多くの人が智慧を誤解している。智慧とは実は修行に用いるもので、衆生を救うために用いるもので、自分に利益するものではないのだ。智慧があれば頭がいい、試験でトップが取れると言うのではない。智慧があれば、仕事で昇格し給料が上がると言うものではない。智慧があれば、妻や夫と喧嘩しない、と言うものではない。すべて違う。智慧とは衆生に利益し、いつか成仏できるよう自分自身に利益するために用いるものなのだ。

経典:「住如聞修行。」

我々の心は如聞修行になければならない。「如」とは如来のことではない。自分の耳で上師の教えを聞かなければならないと言うことだ。そなた達に仏がお教えに来てくださるなどあり得ず、もちろん上師の教えを聞くのだ。「人がこう言っていた、ああ言っていた」と道聴塗説(
道でたまたま聞き知ったことを別の場所で得意そうに人に話す)するのではなく、上師になってくれるよう頼みにいくのだ!「あちらではこうは言っていない」と言うなら、ここを出てあちらへ行けば良い!「あちらではこうしない」と言うなら、行けばいいではないか!聞いた後は仏法を用いて、輪迴に至る一切の行為を如実に改める。

経典:「住於解脱。観空無相無作門故。」

我々が修行する一切すべては生死解脱のためだ。「観空」とは、注意深く空性を見ると言うことではなく、一切法、一切事情、一切相はすべて空性だと理解しなければならないと言うことだ。自性はなく、因縁により生じ、因縁により滅し、そのため無相だと言う意味だ。「無相」とは定義の相がないと言うことだ。

「無作門故」とは、今日の因果はこのようなので以後も変化しない、と考えてはならないと言う意味だ。「一門深入」と多くの人が言う。修める門によって門が決まる。これも間違っている。我々の修行は生死解脱のためだ。どの法門も我々の生死解脱を助けてくれる。「浄土を修めるには阿弥陀仏しか念じられない。そうしなければ浄土へ行くことはできない」と言う人もいる。『寶積経』内のある一段では「菩薩、どんな心を発すれば阿弥陀仏国土に定生できるのですか?と彌勒菩薩は釈迦牟尼仏に請示した」と非常にはっきりと説く。ある一段では「この菩薩が一生修めた一切善業を阿弥陀仏国土に迴向し、定往生を発願する」とある。毎日阿弥陀仏を念じろとは言わず、しかも請示した菩薩は彌勒菩薩だ。おもしろくないか?彌勒菩薩を修める人の中には、阿弥陀仏を念じるな、と言う人がおり、阿弥陀仏を修める人の中には、彌勒菩薩を念じるな、と言う人がいる。これは間違っている。それはすべては通じるからだ。「無作門故」とは、一つの門を作り出してはならない、一切法はすべて通じ、一切仏菩薩はすべて通じると言うことだ。それは慈悲は同じだからだ。慈悲心を分けたりせず、大慈大悲、中慈中悲、小慈小悲だけがあり、分別はない。我々が分けているのだ。

利便のために、彌勒菩薩、観音菩薩、地蔵菩薩があるのだ。もしかしたら縁故の関係で、そなたは地蔵菩薩または観音菩薩と縁があるかもしれない。そのため菩薩の名号をそなた達に唱えさせるのだ。実はどの仏菩薩の法門を修めても、生死を解脱することはできる。釈迦牟尼仏は、末法時代の人が仏法を誹謗しないよう、彌勒菩薩は、どのような願を発すれば阿弥陀仏国土に定生できるかと菩薩に請示なさったのだ。私の記憶では、十の願の内の一個は非常に明確で「菩薩がいかなる法門を修めようと、いかなる善業であろうと、すべて阿弥陀仏浄土に迴向し、定往生を発願する」であり、しかも阿弥陀仏報身がお迎えに来てくださる。

はっきりしたか?今後は二度と誹謗してはならない。自分は禅を修めている、浄土を修めている、密を修めているなどと言うこの種のことを言ってはならない。仏はこのように仰せでない。何に止まるべきかをお教えくださるだけだ。阿弥陀仏を念じれば他の法門を念じることはできないと仰せではない。もちろんそなた達の根器からすれば、あれこれ念じることはできない。それは不可能だ。ただ心の中で、はっきりさせなければならない。諸仏菩薩はすべて衆生の生死解脱を手伝ってくださり、あらゆる仏菩薩の法門はすべて我々の業障を減らし、我々の輪迴の因縁を減らし、この一生で生死を解脱する機会を作ってくださるのだ。そのため惑わされてはならない。禅を修めるものは浄土を見下し、浄土を修めるものも禅を修めるものを見下し、天台宗を修めるものは華厳宗を見下す等と言うことはあってはならない。

出家して多年になる弟子に「天台宗を修めているものは今も台湾にいるか?」とリンポチェはお尋ねになった。出家弟子は「現在天台を修めている人は少ないです」とお答え申し上げた。リンポチェは「その解は?」とお尋ねになった。出家弟子は「それは、天台宗は言語文字の上で修行するからです」とお答え申し上げた。リンポチェは「文人でなければ天台を修められないと言う意味か?」とお尋ねになった。出家弟子は「そうです。名相が非常に多いからです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示を続けられた:実はどの宗派を修めるかは、すべて因縁と関係があるのであって、どの宗派が良い、と言うのではない。これとは関係はない。仏には八万四千の法門がある。衆生の煩悩一つ一つに対応して生まれた方便法だ。そのためどの法門と縁があるかは、どの煩悩が重いかを示している。他人が修めている法門を軽蔑してはならない。仏法に近づこうとしてさえいれば、正道を修めており、それぞれにそれぞれの縁があるということなのだ。そのため大法会が終了すると、毎回私は、私に皈依しないでもらいたい、別のところに皈依するように、みんな揃って私のここに来ないでもらいたいと言うのだ。

経典︰「住解脱知見。断繫縛故。」

修行時には心で別のことを考えてはならない。我々の思想方式は「住解脱知見」だと仏はひたすらお教えくださる。明確に認識しなければならない。今日我々が静寂な場所で修行しているのは、解脱、一切仏が仰せの知見に、心を止まらせるためで、何らかの、いわゆるそなたの知見を発明するためではないのだと。

「断繫縛故」とは自身の一切を含む、そなたを縛り付け、輪迴解脱ができなくしてしまうものを断ち切ってしまわなければならない。例えば、閉関の際に、ドアには鍵を掛けなければならない、それはこれのためだ。携帯電話を使ってはならない、髪を切ってはならない、髭を剃ってはならない、それもこれを断ち切るためだ。入浴してはならない、それは断つためだ。こうして慈悲心を養うのだ。

経典︰「住於辺際。順因縁故。」

この言葉は、修めたことがないなら、本当に解釈できない。それは仏が仰せの中道は両側に落ちないからだ。有に執着せず、無にも執着せず、中間にも落ちない。どうしたらいいのか?辺際に止まるのだ。我々の心は有と空に執着しないと言うことだ。衆生と自分自身の因縁に従い事を行うのだ。衆生の因縁に従うとはどう言うことだろうか?例えば、学仏の因縁がない人に学仏するようひたすら迫っても役には立たない。反感を抱かれるだけだ。例えば、現在の因縁福報が不十分な人に、どうしても聞き入れさせようとしても仕方がない。そのため我々は衆生の因縁と自分自身の因縁に従わなければならないのだ。自分の因縁が具備していないのに、どうしてもある事を行おうとするなら、この修行は誤りだ。例えば、「どれだけ念じ、どれだけ拝む」と発願する人がいるが、これは自分の時間と体力を見極めなければならない。このことを行える空間と地点があるのかには、非常に多くの原因がある。

経典︰「住所住已弁。」

我々の心が有にもなく、無にもなく、中間にもなく、辺際にある。辺際とは、この三個の辺が因縁に従い動くと言うことで、「修法すれば、功徳がある」と言うことではない。それなら誤りだ。「修法の結果、空性があるようになった」と言うのも誤りだ。それは頑空と言う。自分に空性があるまでどうしても続ける、それも誤りだ。因縁に従うのだ。因縁が至れば、自然に何が空性であるか自然に悟る。私は以前しばしば言った。私は関房内で椅子の足を蹴ってしまい、音が聞こえた瞬間に空性を悟った。どうやって来たのか?境界はどう言うものなのか?求めたのでも考え出したのでも、念じたのでも、加持を賜ったのでもない。因縁に従ったのだ。因縁が至ったので、自然に生まれたのだ。法王は、私は自然に修められたとしばしば仰せだが、それはこの道理なのだ。私は必ず何かを成し遂げなければならないと強く求めることはない。一度も考えたこともない。学仏は生死解脱のためで、衆生の生死解脱のためだと知り、ひたすら修め、ひたすら修めているだけだ。他に何か発生するかなど考えず問わないが、反対に自然に生じる。

住所(そなたが住んでいる所)住已弁。前の方のすべての考え方を決定したなら、そなたの心は変化せず、心は非常に自然にこの点の上に止まり、別のことを再び考えることはない。自分の絶えまない訓練、聞き入れること、を必ず経なければならない。前の方で言った聞思修のように、自ら聞いた後には思惟しなければならない。自分自身の身口意が、上師及び仏の開示に背いていないか?背いているなら誤りだ。絕対にそなたの我見は出現しない。「そう言う意味ではない、そう言う考え方ではない、今は行うことができない」と言うのでも、どうと言うことはない。因縁に従い行うのだ。いつまでに必ず成し遂げなければならないとは仰せでない。理由を探して、リンポチェの歩みにはついていけないと言う人もいる。もちろんついて来られないだろう。私は歩くのが速い。どうしてついて来られるだろうか?大切なのは、自分が学仏するのは何のためなのか?と言うことだ。生死解脱のためだ。生死解脱に関して強い決心があるなら、仏法はそなたの身に作用を及ぼし、そうして初めて作用が起こる。そうでないなら作用は起きない。

前の方で仏が仰せのように、どこに止まり、どこに止まらない(「住」とは居住のことではなく、その点にとどまること)なら、そなたの心がその場所に止まっている時、そなたの「住」は一般的に正しく誤ることはない。これこそ顕教の基礎が正しいのだ。私はしばしば言う。顕教の基礎をしっかり積まなければならない。それはこういう意味なのだ。顕教の基礎をしっかり積まないなら、役に立たないのだ。

リンポチェは、法会の最中に居眠りしていた信衆にその場を離れるよう指示された。

リンポチェは開示くださった:私が言うことが、彼が欲するものではないため、彼は分からないのだ。分からなくともどうと言うことはない。誠意を持って聞けば良いので、居眠りするのではない。それなら家で寝た方が良い。なぜあの者は眠くなったのか?それは、あの者が今日仏法を聞きに来たのは、加護を得るためで、あれこれたっぷり話されても理解できず、行うこともできないと思ったからだ。先ほど前の方で言ったのは、できなくともどうと言うことはないと言うことだ。ただ聞き入れなければならない。居眠りするのは因果を信じないからだ。多くの人の居眠りの理由は、とても疲れていただ。だが、そなた達は私より疲れているか?私は法王の法会中に居眠りしたことは一度もない。とても疲れ、夜よく眠れず、やる事が非常に多い時に試みたことはある。だがどうしてか居眠り出来なかった。説法人を尊重するなら、自然に居眠りすることはない。相手が自分に利益くださろうとしていると分かっているなら、居眠りすることはない。相手が自分に必ずいいものをくれようとしていると分かっているなら、現時点では知らないとしても、居眠りするだろうか?居眠りするのは、仏法を尊重せず、三宝を軽視しているのだ。「聞きたいのではないし、聞いても理解できないし、何を言っているか分からない」と思っている。

法王がチベット語で開示なされば、私も理解できない。そのため「リンポチェの広東語訛りの中国語が私には理解できない」と言うのは理由にならない。実はそなた達が話す台湾中国語も、私には理解できないことがあるのだ。だがこれは理由ではない。そなたにこの心がなく、仏法を学ぶのが何のためであるかを知らないのだ。生死解脱のために、そなた達に勧める。聞き入れず、自分はまだまだ死なないと思っているなら、何のために聞きに来たのだ?これこそ無常を信じていないのだ。リンポチェは常に演技してそなた達に見せている。末法時代にリンポチェになるものではない。リンポチェはとても大変なのだ。

経典︰「究竟浄故。」

釈迦牟尼仏は仰せになった。前の方でお教えくださったように、心をどこに止まらせ、どこに止まらせないなら、意識は自然に清浄となり、閉関は非常に順調となる。釈迦牟尼仏の仰せを聞かず、自分の考え方で仏法を聞き閉関するなら、心は不清浄だ。不清浄なら居眠りする。これは非常に簡単な道理だ。なぜ居眠りするのか?それは心が清浄でなく、心が別のところに止まっているからだ。仏がお教えくださるのに聞き入れず、これもあれもと考えていれば、自然に眠ってしまう。

また仏はお教えくださる。このようにすればどんな良いことがあるのか?清浄だ。心が清浄なら、清浄な仏法が修められ、そうでなければ利益を得ることはできない。心が清浄でないなら、どんな仏法を修めても利益を得ることはできない。リンポチェが言うことを信じなければならない。私は経験を有する修行人だ。私の心が不清浄なら、どうして衆生を済度させられるだろうか?どうして法座に着く資格があるだろうか?どうして三ヶ月閉関して死ぬことがなかったのか?それは清浄法を修めたからだ。清浄法とはどうやって来るのか?誤った場所に注意してはならない。このようにすれば心は自然に清浄となる。仏法は清浄であり、何も求めないものだと皆分かっているだろう。慈悲の力が我々を教導し、我々に与えられるのだ。我々の心が清浄でないなら、受け取ることはできない。心が清浄でないなら、受け取れないのだ。受け取れないなら、どれほど念じてもどれほど拝んでもどれほど求めても役には立たない。

経典︰「長者。猶如空処薬木叢林不怖不畏。」

ここの「空」とは空と有ではない。人が住んでいない場所だ。この地方には草木が密生している。だが恐れることはない。閉関の場所はこの種の場所だ。心が仏の仰せに止まっているなら、この種の場所で閉関しても恐れることはない。

経典︰「如是長者。出家菩薩住阿練児処。応自生心猶如草木牆壁等想。」

出家菩薩が閉関しているなら、心の中では「我々の心は草のように、こんなにも乱れている。草が壁を伝って成長しているようだ」と言う思いを起こす。故意に考えるよう言うのではなく、一切の煩悩は、乱れた草が壁を伝って伸びているようなもので、根は非常に浅く、ちょっと引っ張ればすぐに抜けてしまうと言うことを理解しなければならないのだ。一本の樹木が壁に取り付いていたとしても、出て来る根はやはり非常に浅い。本来煩悩の根も非常に浅いのだ。だがなぜそなたは根を深く堅固にしてしまうのか?それはひたすら考え、ひたすら考え、ひたすら考え、ひたすら加え、加え、加えているからだ。

仏はお教えくださる。煩悩が起きた時、理解しなければならない。煩悩とは、雑草が壁に生えているようなもので、引っこ抜けば無くなってしまうのだ。何を用いて抜くのか?仏法だ。何を用いて抜くのか?諸仏菩薩と上師の教導だ。引っこ抜けば無くなってしまう。だが、煩悩を抜くのに、「私はこうした。リンポチェが加持くださったので、私は恐れなくなったのだ」と言うことはできない。自分自身がひたすら恐れているなら、私がどうして加持できるだろうか?どんなに加持しても、そなたはやはり恐れる。恐れはどうやって来るのか?仏は、煩悩から来ると仰せだ。本来この根は非常に浅い。聖種の根とは異なる。我々が蒔いた聖種の根は非常に深い。煩悩の根は非常に浅いのだ。

考えてみよ︰煩悩はどうやって来るのか?この事を考えたくないなら、煩悩はあるだろうか?法会前に語った弟子が「リンポチェが加持くださると考えれば、すぐに眠れた」と言ったようなものだ。根は非常に浅いのではないか?あの弟子は自分自身で抜いてしまったのだ。リンポチェを信じたので、抜くことができた。リンポチェを信じないなら、抜くことはできない。煩悩はひたすら存在し、どんどん多くなる。閉関しても「外で何が起きているだろう?外に出たらどうなるだろう?」とひたすら考える。これが煩悩だ。在家衆は閉関しても「夫はどうだろう、妻はどうだろう、子供はどうだろう、会社はどうだろう、社長は怒っていないだろうか、戻っても首にされるのではないか?」とこの種の事をあれこれ考える人がいる。女性は、閉関すれば、出てきたら彼氏が心変わりしているのではないか?と考える。心変わりしているだろう。これこそ自分自身で考え出しているのだ。

経典︰「猶如幻想。是中誰畏誰怖。」

誰がそなたを恐れさせるのか?誰がそなたに恐怖を抱かせるのか?自分自身だ。これは仏が仰せなのだ。私は早くに言った。一切すべては、そなたの幻想から出て来ているのだ。「私は人付き合いが苦手だ」と言うのは、誰が思うのだ?そなたが思うのだ。すべて自分自身で思っているものなのだ。ここに入って来たら、誰かに叩かれるのか?「私はあの人たちが怖い」とは、何を恐れているのか?これも自分で考え出したのだ。一切の心の問題はすべて自分自身で考え出したものなのだ。そのためここでは「幻想」と言おう。「夫が私を欺いている」と言うのも、自分の幻想が作り出したものだ。元々は小さな、ほんの少しのことだったのに、ひたすら考えひたすら考え、このエネルギーがひたすら集まる。「よかろう!さあ一度大きいのを見せよう」それはそなたが考え出したのだ。

前の方で言ったように、ミラレパ尊者は閉関時に、考えた末に魔を現した。一切すべては我々の意識心が為すものなのだ。閉関の際に恐怖を抱いているなら、誰が与えたのか?と問うが良い。自分自身だ。「息子がどうなるか心配だ」と言うのも、誰が考えているのか?そなたが考えているのだ。息子を妊娠した時に因果を信じず、肉食していた。これこそ因果だ。なお何を考えるのだ?事実、非常に多くの世間法はすべて自分自身が考え出したものなのだと我々は仏法内から理解できる。「私はすごいのだ、とリンポチェに知ってもらいたい」このようでは、そなたは事を誤る。世界中で私よりすごい人は法王だ。私は驕っているのではない。誤解しないでもらいたい。驕っているなら、リンポチェであることはできない。例を挙げているだけだ。

経典︰「是以応以無畏観身。此身非我非我所。」

ここは叱責だ。畏懼(恐怖)を抱かずに、自分の身体に向き合わなければならない。身体はそなたのものではない。内部に住んでいるのではない。身体の時間が至れば使えなくなってしまうのだ。前の方で言ったように、家を換えるに過ぎない。何を恐れるのだ?この点をさえ見通せず、なお恐れているなら、頼むから、学仏しないでもらいたい。なぜ仏は我々にこれらを勧めるのか?それはいつか必ず我々は事切れるからだ。事切れた時に身体がなくなった、次の一世でもこの身体があるだろうか?と考える。このように考えれば、苦痛がやって来る。それは、畜生道に堕ちると言うことだ。そなたの身体は必ずいつか使えなくなる。私もそうだ。

ここで仏ははっきり仰せだ。なぜ我々はいつでもこんなに恐れているのか?身体が傷つくのを恐れ、身体がなくなるのを恐れ、あれもこれも恐れている。これらはすべて自分で考え出したものなのだ。仏は我々にお教えくださる:この身体はそなたのものなのか?そうではない。身体はどうやって来るのか?累世で為した一切の善悪業が、この一生で結びついて一個の身体が生まれ、そなた達に与えられるのだ。この身体は、そなた達の父母と関係がある。父母が非常に多くの善業を為したなら、そなたの身体は状態が良い。父母が非常に多くの悪業を為したなら、そなたの身体は良くない。今で言うところの遺伝子だ。仏の仰せによれば業力だ。

この言葉の意味は︰誰がそなたに害を及ぼすのか?と今自分自身に問わなければならない。誰がそなたを懲らしめるのか?自分自身だ。大胆になれ、天も地も恐れるな、と言うのではない。物事はすでに発生し、それはすべて過去世に為したことなので、それ以上考えたところで役には立たないと言うことだ。受け入れなければならない。受け入れれば、無くなってしまい、新しいものが始まる。受け入れようとせず、いつでも私に加持を求めている。私は加持しない。それはそなたが仏がお教えの仏法を受け入れないからだ。私は何度も言って来た。皮膚ガンになった時、心配したことがないし、泣いたこともない。苦痛もなく恐れもなかった。死を恐れることも、痛みを恐れることもなかった。この段で仏法が説くようにだ。その時はまだこの段を見たことがなかった。なぜ私が自分の事を言っても、一人として聞き入れないのか?私は人で、そなた達も人だ。なぜ私は恐れなかったのか?過去世の善根に、この一世で仏法を学んだことが加わり、身体に起きる事はすべて自分自身で為した悪によるので、受け入れればそれで良いと分かっていたからだろう。そなたは受け入れないので、苦痛が来る。苦痛が来れば、煩悩を抱き、一日中非常に多くの時間を費やし、あれこれ試している。

この一段は我々に、出家であろうと在家であろうと、閉関しても閉関しなくても、「今日ある何らかの恐怖を感じる事は、すべて自分自身が考え出したのだ」と非常にはっきりと伝えている。仏は「いったい誰が誰を恐れるのか?」とお訊ねだ。あいつが来て懲らしめるのではないかと恐れているが、それは自分自身で考え出したのだ。物事に対応しなくともいいのではないか?そう言う事ではない。一切の法律的な常識に基づき物事に対応するのであって、この事を恐れるあまり、逆効果を生じるのではないのだ。

閉関の際には自分の身体は自分のものではないと認識し、自分が永久に止まる場所ではないと認識しなければならない。

経典︰「無衆生。無寿命。無人。無丈夫。無少年。所言畏者。空名無実。」

これこそ『金剛経』で説く破四相だ:衆生相がなく、寿命(時間)がない。無人(誰もいないと言う事ではなく、六道内の人が特別だと区別しない)。無丈夫。無少年。老いもなく、若いもない。そなたはこれらを心配している。すべては空名(偽の名前ではない)に過ぎず、実在ではない。この種の事情に対する修行人の見方は因縁法だ。実在しない、とは発生しない、または存在しないと言うことではない。観念は因縁があり生じると言うことだ。因縁がなければ、この種の事は生じず、ある名前を与え、この種の事を呼ぶ際の便宜を図っているだけで、この種の事情が我々を害すると言うことではない。ただの因縁なのだ。我々一生の人の因縁はこのように来たのだ。歩き通せば、さようならだ。阿弥陀仏のお側へ戻るのだ。「怖い怖い怖い」とひたすら言うのではない。怖がれば、行くことはできない。

ここでは言う。若かろうと老いていようと、どうであろうと良い。これら名前はすべて偽物だ。実在しない。人類がこの相を分別する便のために、名前を与えただけなのだ。だが表面の相はひたすら変化し、一定ではない。ひたすら存在し変化したことがない、と言うのではない。幼い頃から現在まで、相はひたすら変化している。なぜ変化するのか?それは因縁が変化しているからだ。因縁はどうして変化するのか?幼い頃に福報を使い切ってしまう。成長した後の福報は、また別の段階が出現する。そなたの様子、思想、周辺の環境もそれに従い変化する。別のものに変化して、そなた達に見せるのだ。これはすべてそなたの因縁法だ。誰が害するとか、誰が悪く当たると言うのではない。

来週日曜日、施身法法会を行い。

法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »


2020 年 04 月 19 日 更新