尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年12月01日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは点灯供仏の上、法座に上られ、26人の信衆のために荘厳なる皈依儀式を執り行われた。その後、参会者を率いて観音法門を修め、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

今日は経典を開示する前に、皈依法会を執り行う。これから皈依者の名前を読み上げる。名簿に名前がある者でなければ上ってきて皈依することはできない。そなた達これら信衆には、ほんとうに敬服する。先週日曜日、今週日曜日に皈依を執り行うと言うと、たくさんの人が電話で皈依を申し込んできた。そなた達はそんなにも忙しいのか?土曜日に皈依を求めに来ることはできないのか?電話で申し込んで来るとは!

皈依を求めるのに、電話で行なったことなど、私は一度もない。すべて自ら赴いて求めた。そなた達はどんな資格があって電話で皈依を求めることができるのか?こんなにも仏法を見下しているのか?電話して来た者は山のようにたくさんの理由を並べたてる。先週日曜日、私はほとんど皈依をとり行わないと言ったばかりだ。そなた達がリンポチェを選ぶのではなく、私がそなた達を選ぶのだ。選んで追い出す!何を選ぶのか?金があるかないか、医者であるかないかで選ぶのではなく、高い官位があるかどうかで選ぶのでもない。恭敬に皈依しようとする心があるかないかで選ぶのだ。

私は今では公に宣言している。今後電話で皈依を申し込んでくるような事があるなら、出て行ってもらう。台湾はそれほど大きいか?土曜日にリンポチェに会いに来て皈依を求めさせるのさえできないほど大きいのか?私のこの道場は、他の道場とは違う。私は弟子に困っていない。諸仏菩薩が私に代わり見つけて来てくださるからだ。先ほどはっきり聞いただろう。寺に供養しない、あの弟子が法会前に語った時に言ったのを。彼女がちょっと言っただけで、たくさんの人が私の名前を挙げたと。私は宣伝していない。すべて菩薩が見つけて来てくださるのだ。

なぜ見つけて来てくださるのか?それは私の業障が重いため、業障が重い人を済度させるのだ。私はもう72歲だ。私の業障が重くないなら、今でも出てくる必要があるだろうか?つまり皈依したければできる、と思ってはならない。電話でハラハラと泣き、申し訳ありません、機会を逃しました、などと言わないことだ。一ヶ月には四回土曜日がある。私は一週間不在のこともあるが、二度の土曜日はいるはずだ。一年12ヶ月では24度の機会がある。それでも求めに来る時間はないのか?それなら、それは皈依したくない、リンポチェがどのように皈依を執り行うのか見物したい、機会があるかどうか分からないが、とにかく急いで申し込もう、と思っているだけだ。だが結果として機会はないのだ。

今後このような電話があり、名簿に登録する弟子が教えにくるようなことがあれば、その者には出て行ってもらう。今公に宣言する。寶吉祥道場には電話で皈依を申し込むような、この種の法門はない。他人が代わりに皈依を申し込むということもない。皈依についてさえ、こんなにも適当なのだ。以後言いつけに従い、積極的に学仏するなどとても信じられるものではない!そなた達はこのように適当だ。他の道場では電話で皈依を申し込めるのに、と思っている。実際に行く必要がなく、名前を登録すれば皈依できるところまである。それは結縁皈依だ。そなたと縁を結ぶのだ。次の一世でまた考えよう、と言うのだ。だが次の一世がいつなのかは分からない。

皈依の縁起は非常に重要だ。縁起が恭敬でないなら、その後も絕対に不恭敬だ。リンポチェは無慈悲だと言う人がいるかもしれない。皈依を求めても応じてくれない。私はそなたに応じなければならないか?寶吉祥道場は菩薩道を修行し、衆生に生死解脱を教える道場だ。当然経典が仰せになる一切に従い行わなければならない。私が何かを発明するのではない。そなた達は現在、仏法をここまで見下している。電話で皈依を申し込んでくるとは。いいだろう!そなた達が今後、電話で皈依を申し込んで来るなら、私は料金を示そう。払う気があるか?当然払う気などあるまい!私は金は要らないのだから、当然そなた達より乱暴だ。なぜなら経典に基づき講じるからだ。

皈依とはどう言う意味だろうか?それは、黒業を白業に転じるのだ。そなた達が生生世世に為したことは、すべては黒業だ。すべてはそなたを三悪道に堕とす機会がある業だ。当然、自分はミラレパのように殺人などと言うそんなに深刻な業を犯していないと言う人もあろう。だが、それはこの一世で殺していないと言うことだ。過去世はどうだ?そなたが過去世で殺生したことがないとしても、この一生はどうだ?動物は殺すべきか?そなた達のうちの何人が胎内から菜食か?数人の皈依弟子の子供は胎内から菜食だが、それ以外はみな胎内菜食ではない。それには私も含まれる。

皈依とは黒を白に転じるのだ。仏法と上師の教導を通して、そなたの黒い業を白の方へと転じるのだ。白業では仏法、生死解脱を学習し、三悪道へ堕ちない機会がある。皈依の「依」とは「依靠(寄りかかる)」だ。「依頼(頼る)」ではない。仏菩薩と上師の救いに寄りかからなければ、私達には機会はない。そなた達は電話で皈依を申し込んでくる!現在では大学入学にもコンピューターを使用し、コンピューター上で申請者の様子を見る。名前を打ち込めば、授業に登録できるのか?申請者の様子を実際に見なければ、金を払ったとしても、登録させてやることはない!そなた達は仏菩薩をここまで蔑んでいる。電話で皈依を申し込むだと?登録名簿を管理する弟子は、洪と言う姓の信衆と謝と言う姓の弟子の娘について、私に膨大な説明を聞かせるのだ!つまり、この弟子はリンポチェに十数年、二十年従っているが、リンポチェが何を教えているか知らないと言うことだ!私は人情を教えているか?

考えてみよ。海外の大学に入学を申請したなら、コンピューターで教師と顔を合わせて話をしなければならないのではないか?なぜ皈依は電話でいいのだ?登録名簿を管理する弟子が、これら信衆を知っているからか?皈依する前に先に叱責されている。よって、すでに皈依を申し込んだ者もよく考えるが良い。皈依後には叱責され続けるのだ。

今日私達は仏法僧に皈依する。「仏法僧」と言うこの三文字について説明するには、『大蔵経』を一冊用いて説明しなければならない。そんなに簡単に仏陀、仏法、上師に皈依できるものではないのだ。「僧」と言うこの字は、経典内の含義によれば、出家衆を指しているのではなく、四衆(優婆塞、優婆夷、比丘、比丘尼)の解脱法門を共同に学習し、修行することを指している。仏法に記載がないなら、今日私達は手本とする経典がなく、仏法修行の根拠がなく、仏法と言うものを知ることはできない。

修行人が仏法修行の経験を弟子に教導しないなら、そなた達も仏法を修習することはできない。密法について言えば、皈依上師は最も重要だ。なぜなら上師は経験を有する修行者だからだ。いわゆる経験を有する修行者とは、修行者自身の経験を指すのではなく、その上師と経典が説く一切の方法に基づき、自分の修行の経験体得を加えて、経典が説く境界を会得した後、さらに経験を教導するのだ。

経験とはその人の方法を言うのではない。学問を始め字を書くことを学び始めたばかりの頃、教師は一筆、二筆、どのように書くか教えてくれ、私達は教師が言う通りに書く。書いたことがないなら、どのように書くかは分からない。書いた後でなければ、どのように書けばきれいに書けるかは分からない。これこそ経験だ。いかにして書くかは、そなたが発明するのではない。近頃たくさんの人に見られる最大の悪い癖は、まさに皈依前はほんとうのようで、皈依後もほんとうのようであることだ。皈依前はほんとうのようだ、とは自分が良くなったら、幸せな日々が暮らせると思うことだ。皈依後にほんとうのようだとは、一年目は真面目に精進し恭敬で、三年後には自分は上師だと思うことだ。このようなやり方なら、皈依しない方が良い。学仏は生生世世に関わる事だ。少しの名相を理解すれば、弟子を取って仏法を弘揚できると思ってはならない。

三寶に皈依すると知っている。だが誰が伝法するかは非常に重要だ。この数週間、出家菩薩の修行内容、方法、動作、心持ちを如何にして見るかを『寶積経』に教わってきた。表面上は釈迦牟尼仏が長者に語って聞かせているが、実は長者に、これら出家衆を見究めるよう教えているのだ。長者にこれら出家衆がこうできなければ功徳がないと教えているのだ。彼らに功徳があるなら、彼に供養すれば、彼の功徳大海といっしょになれる。こうでなければ仏が仰せの意味ではない。

仏は私達が愚昧だとご存知だ。人と事とを色眼鏡で見る。そのため根拠の内容についてお教えくださるのだ。根拠の内容とは、経典を見ればすぐに分かると言うものでは絶対にない。修めたことがないなら、絕対に分からない。かなり以前、出家皈依弟子すべてを私は厳格に管理し、どこへ行くかさえ報告させていた。今は寺に暮らしているのではないので、彼らは夜あちらこちらへ出歩いている。私はまだこの部分は管理していない。寺に暮らすようになれば、経典ははっきりと講じている。上師の同意がないなら、外泊禁止だ。

チベットでは、上師の同意がなければ、すべての比丘尼は寺を離れることはできない。上師の同意を得ずに出かけたなら、帰って来なくともよい。それは戒を犯したからだ。男性信衆も同じだ。『寶積経』は、これら出家人を如何にして検視するかを私達に教えるのではない。そなた達にはその資格はない。そなた達が誤解し、口業を犯し、真の出家人でない人を助けて人に害を与えるのを恐れるのだ。ある出家弟子は以前、偽の経を唱えながら、自分でも気づいていなかった。なぜ気づかなかったのか?それは出家について、師父に従うことをはっきり理解していなかったからだ。そればかりか、自分は仏法に関することを行なっていると思っていたのだ。自分がかつて学んだことは正しいと思っている出家弟子もいる。もしそうなら、『寶積経』中での仏の仰せが誤りなのか?

三寶への皈依と人への皈依の相互関係がこれではっきりしただろう。チベット仏教では皈依の前に伝承についてはっきり講じる。伝承を講じられないなら、絕対に問題がある。皈依を申し込んだ信衆、今日皈依するのはチベット仏教直貢噶舉教派だ。チベット仏教に皈依するとは、密法を学ぶ、と言うことではない。現在たくさんの人がチベット出家人に従えば、密法を学べると思っているが、それは誤りだ。チベットの古い規則に基づけば、今になってもこうだ。十年の顕教基礎がないなら密法は伝えられない。いくらかの真言を念じ、動作を行なっても、密法を学べたと言うことではない。密法とは、そなた達のようなこんな器のものが学べるものではない。密法は非常に勇猛精進な法門なので、臆病な人は学ぶことはできない。

そなた達は直貢噶舉に皈依する。だが門をくぐればすぐに密法を授けると言うのではない。密法は用で、顕教は理だ。道理と理論がなければ密法を用いて自利利他することはできない。よって上師の責任とは、仏法の理論を理解させることだ。根器が十分でないなら、密法を学んで用い、自利利他する資格を有することはできない。直貢噶舉の法脈はすでに八百年余りも続いている。どこまでも遡れば、インドまで遡れる。ティローパ、ナローパからマルパへ至った時、チベットへ伝わったのだ。マルパは三度インドへ行かれた。毎回、黄金が詰まった袋を背負って法を求め、戻ってきてから非常に多くの法本と経典を翻訳した。そのため、マルパを大訳師ともお呼びする。

マルパは続いてミラレパにお伝えになり、次はガムポパだ。つまりミラレパの前の上師はすべては在家であられる。ティローパもナローパもマルパもすべて在家であられた。ミラレパは一生妻を娶らなかったが、在家相を現し、ガムポパになって初めて出家相を現すようになった。ガムポパは結婚し子供ももうけておられる。だが流行り病で、妻と子供を亡くした。妻は臨終の際にガムポパに出家するよう言い残したのだ。

そのためガムポパは出家なさり、その後、噶舉派の修行方法は広く伝えられた。ガムポパの後はパクモドゥパだ。パクモドゥパの後は四大八小に分かれた。いわゆる四大八小とは、四つの噶舉が大きく、八つの噶舉が小さいと言うのではなく、世代の序列だ。皈依が先か後かと言うことで、教派の大小を分けるのではなく、すべて噶舉派だ。パクモドゥパから私達の祖師ジッテン・サムゴンに伝えられた。経典の記載に基づけば、ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の転世であられる。そのため、一般の凡夫ではない。龍樹菩薩の前世は維摩詰居士だ。

維摩詰居士は釈迦牟尼仏と同時に出現された。そのためこの辺りの歷史は釈迦牟尼仏の時代まで遡ることができる。ジッテン・サムゴンが直貢噶舉の法脈を弘揚され始め、現在までにすでに第三十七代だ。私自身の根本上師は尊勝なる直貢チェ・ツァンであられる。私はチベット密教を学ぶ前は顕教に皈依したことがある。現在私は直貢噶舉八百年余りの歷史で唯一の在家の漢民族であり、この一生で証果したリンポチェだ。これまではいなかった。未来にいるかどうかは分からないが。つまり法王が私をリンポチェとして認証くださったのだ。私が過去世にリンポチェだったからと言うのではなく、私の供養が非常に多いからと言うのでもない。私のすべての修行証果をご覧になって、リンポチェの称号をお与えくださったのだ。私はこの一生で修められたのだ。八百年余りで唯一の漢民族在家リンポチェだ。

他のいわゆる漢人、転世リンポチェについては私は詳しくない。だが法王から伝承いただいた中では私は唯一の者だ。現時点でも二人目はいない。チベットにおいては、リンポチェとは人世間の貴重な宝という意味だ。一人のリンポチェとして、学び修めた次第は、当然一般信衆とは完全に異なる。リンポチェになるのは、すごく良いことだろうか?良いことはない。日々の暮らしは少しも過ごし易くならない。毎日24時間ひたすら尽くさなければならない。そなた達にはこの資格はない。

皈依する上師と三寶についてはっきり分かっただろう。皈依の重点は、仏法、三寶の教導を通して、遅かれ早かれいつか開悟、覚悟し、輪迴の苦痛と過患を知り、一生で残りの時間を利用してしっかり修行することだ。在家で皈依した後は、現在の生活を変えるのではなく、これまでの人、事、物に対する種々の誤った見方を改めるのだ。いわゆる「誤った」とは、書物で言う正誤の観念ではない。学仏する以前に学んだ一切の世間法のすべては、自分自身を保護する。そのため、人は自分が正しい、間違っていないと言いがちだ。なぜ他人が自分について言うのかを理解しようとしない。こう言ったことがない者は手を挙げよ(誰も手を挙げない)。

誰もがみな他人が言うことは過ちで、自分が正しいと思っている。自分が言ったのはそう言う意味ではないと言うのもそうだ。人を怒らせたくないために、黙っていればいい、と思っている人もいる。仏法の考え方は、他人を怒らせよと言うのではなく、他人の機嫌を損ねよ、と言っているのではない。一つ一つの事をはっきり認識するのだ。どのような事を行えば輪迴するのか、どのような事を行えば衆生を輪迴から解脱させられるのか、自分自身を輪迴から解脱させられるのか。仏法はこれらを教えてくれる。そのため、この衝突は、時にはそなた達にとっては非常に大きいのだ。

そなた達はどうと言うことはない、やってから考えよう、後で仏菩薩に懺悔すれば良い、と思っている時がある。行えば、その果報は必ず出現する。懺悔したとしても役には立たない。リセットできるだけだ。皈依すれば、仏弟子として依循すべき戒律がある。戒を受けても、日々の暮らしが不快になったりはしない。私は世界中あちらこちらへ飛び回り、会社を経営している。仏教徒だからと言って、会社を経営したり友達づきあいしたりしてはいけない、と言うことはない。つまり皈依とは、それまでの暮らし方を完全に改めると言うことではなく、内心の思惟方式を改め、白と黒をはっきり認識するのだ。白(善業)と黒(悪業)は正誤ではない。善業を行なったとしても、念頭が悪なら、やはり悪業だ。悪業を行なったとしても、念頭が善なら、それは白業だ。

釈迦牟尼仏はある一世で500人の阿羅漢を救うため船主を殺したことがある。観念によれば、殺人は過ちだ。だが、釈迦牟尼仏は船主に、この500人の阿羅漢を殺させなかったのだ。この500人の阿羅漢を救い、船主を地獄へ堕とさなかった。そのためその行為は黒だが業は白なのだ。この塩梅は現在のそなた達には無理だ。つまり何事かについて疑問があれば上師に請示しなければならない。いわゆる請示とは、毎日どこへ行ったらいいのか、仕事はどの方面かと尋ねることではない。これらは私事だ。

受けた戒と行為とが衝突すると感じた時こそ、心が不定な時だ。私達にとっては、命を失っても守戒しなければならない。だが、そなた達にとっては、命を失うなどと言わなくとも、金を失うだけでも守戒しないだろう。妻、夫、仕事を失うなら守戒しない。守戒は難しいだろうか?少しも難しくない。私は数十年守っている。なぜ私は誘惑に負けて破戒しないのか?簡単だ。因果をはっきり知り、因果を受け入れているからだ。そなた達は受け入れない。読経すれば自分が犯した悪を相殺でき、礼仏すればそれで大丈夫だと思っているからだ。

経典では「礼仏一拝,罪滅河沙」と説くが、これは「恭敬な懺悔心で礼仏一拝すれば仔細な罪は停止される」と言うことだ。だが大きな悪業は自分自身で転じなければならない。「罪滅河沙」とはどう言うことだろうか?そなた達は父母、上師を睨み返すことがある。リンポチェに叱責され、怒り、不機嫌になるなど、これらもすべてそうだ。

私は言ったことがある。私の門下に皈依しながら私に叱責されたくないと思うなら、皈依しないでもらいたい。私でも法王に叱責されるのだ。そなた達は何を以って叱責されないと言うのか?ほんとうにお姫様や王子様なのか?近頃はお姫様、王子様でもやはり罵倒される。そのため罵られるのを嫌ったり、自分は善人だと思うなら、この後の皈依には参加しないことだ。

私に皈依しても、いいことなど聞けない。一年念じれば、観音菩薩のようになって来た、などと、私は絶対にそなた達を扱わない。どこが観音菩薩に似るのか?頭髮であろうと、その資格はない。そなた達はしょっちゅう人に心地よい言葉を吹き込まれている。大功徳主となり、座る姿がますます荘厳になっているなどと言われている。金があれば荘厳なのか?金があっても荘厳とは限らない。荘厳とは金銭から来る戒律ではないからだ。金は金臭い。つまりよく考えてから、皈依を受けるように。衝動的に皈依を受けてはならない。

皈依した後、来なくても良いかと聞く人がいるだろう?もちろん良い!皈依を退きたいと言いに来たとしても、誰からも罰せられない。諸仏菩薩、護法も罰しない。本来の業力を改めて過ごすだけだ。『地蔵経』でははっきり説く。善知識(上師と諸仏菩薩)には、学仏の障礙を遮る能力があるが、それを消してしまうのではない。前方に障害物があるのに気づいていないなら、足を高く挙げよと注意を促す。だが、それを消してしまうのではない。後悔して引き返すなら、障害物は目に入らず、つまづいてしまう。

つまり私はそなたのすべての悪業を消してやるのではない。もしそうなら、私は堂々と法王にお伝え申し上げるだろう。これまでひたすら法王に供養して来たのだから、どうか法王、私に幸せな日々を過ごさせてくださいと。皈依とは、仏法を聞き仏法を学習すると自分自身で決心を下せば、上師は一切の良くない事を遮ってくれるということだ。だが自分で仏法学習に精進しなければ、業を転動することはできない。少しでも後悔すれば、もうダメだ。ハンサムな男性がそこにいるが、肉食しているなら近づいてはならない。知っていたなら皈依しなかったのになどと言う。皈依の後に肉食する男性と結婚した弟子がいた。その後どうなったか?悲惨なことになったとまでは言えないが、少なくともとても幸せだとは言えない。

別の宗教では、同じ宗教を信仰する人でなければ結婚してはならないと言う。なぜそなた達学仏する者は、必ず外道と結婚しなければならないのか?自分は相手に影響を与えられると思っている。結婚したのに、影響を与えることなどできるだろうか?同衾前でさえ言うことを聞かないのに、同衾した後に言うことを聞くだろうか?そなた達はほんとうに天真爛漫だ。考えが甘い!自分の欲望以外のなにものでもなく、好きだから好きなだけなのに、相手を済度させるなどどあれこれ並べ立てる。何の根拠があるのだ?自分自身を済度させることさえできないのに、他人を済度させるだと?そのため、女性信衆はよく考えてから皈依を受けるように。

女性信衆には、皈依には必ず夫の同意を得るよう要求している。夫もすでに同意しているのに、その後、料理を作るのに、やはり菜食でない料理を作ろうというなら、やはり皈依してはならない。もうすぐ旧正月だ。夫の実家が正月料理で菜食でない料理を作るよう要求し、その時になって喧嘩になる。夫の実家は盲信しているとそなたを罵る。その時になって私を恨むでないぞ!自分自身は食べないのに、菜食でない料理を作れるだろうか?そなた達は必ず、姑が機嫌を損ねるので、どうしようもない、と必ず言いに来るだろう。

新しく皈依する者は知らないだろうから、ちょっと言っておこう。以前私が菜食を始めたばかりの頃、一年間菜食した後に皈依した。私は突然肉食できなくなった。食べればほんとうに吐いてしまう。家族は不機嫌になり、男が菜食するなど男らしくないという。私は吐いて彼女に見せていた。そなた達はできるか?できないだろう。申し訳ないと思うのだ。男性信衆の中には女性に交際を求めるのに、交際できてから言えばいい、いつか菜食を勧めればいいと思っている。この種の心持ちでいるなら、皈依しない方が良い。

さらに重要な事がある。皈依の後は私の道場で乱れた男女交際をしてはならない。一切の男女交際が禁止だというのではない。一定の対象に固定して交際せよ、いいか?つい先ごろ一人の男弟子が離れていった。皆知っておろう。これはラダックで起きたことだ。この男弟子は以前から道場内で幾人もの女性信衆と交際していたのだ。私は全く知らなかった。

結婚している者は、決して道場で交際相手を見つけてはならない。離婚したなら別だが。婚姻関係にありながら、他人と付き合う。これは邪淫戒を犯すことだ。実際に交際していないとしても、たまに視線を交わすだけでも、経典中では、これは他人の夫を心淫している、として邪淫を犯すとされている。つまりよく考えてから皈依するように。その時になって、リンポチェは何も言わなかったなどと言ってはならない。私はすべてはっきり言っている。別の法師のように、言いにくい、などとは言わない。私はあらゆることをそなた達に言う。

皈依の後には、ある事を明確にしなければならない。道場で兄弟子から金を借りてはならない。ほんとうに暮らせないなら、理事会に報告せよ。理事会は私に言う。ほんとうに業障が現前したなら、リンポチェが乗り越えられるように救ってやろう。だがこの一生で何もしなくとも暮らしていけるように支持するのではない。

なぜ金銭のやり取りを禁じるのか?金銭のやり取りがあれば、道場では遅かれ早かれ何かが起きる。内部で紛争が絶えなくなる。他人に金を貸した者でさえ、私は追い出す。おかしいではないか。他人に貸す金があるのに、供養する金はない。金を貸せば友人になれ、いつか良いことがあるかもしれない。末法時代には非常に多くの奇妙な思想がある。

皈依の後、道場はそなた達が用いるのだ。皈依弟子は每月道場を護持しなければならない。寶吉祥道場にはある特色がある。多くの金を残してはならない。必要なだけあればそれで良い。金があれば面倒があり、金がないなら面倒もない。十数万元を道場に供養すると発心したなどと言わないでもらいたい。絕対に許さない。私は必ず戻す。かつて試した人がいる。金が多過ぎて、自分が死んだら、この事に誰が責任を負うかが分からない、と言う。これは良くない。道場の支出はそなた達が責任を負う。いくらかは重要ではない。憐れを感じさせるまで行う必要もない。道場では每月の収支を公開している。極めて明確だ。私は道場からは一銭も受け取っていない。新しく皈依する弟子は知らないかもしれない。この道場は買ったばかりの頃は非常に安かった。市価より安かった。私は一坪当たり少なくとも10万元を上乗せすることができた。それは私がその価格の提示を受けたからだ。私は上乗せしなかったし、私の名前も書いていない。そなた達に対して申し訳が立つ。そなた達は、今になって道場を私の名義に変えても、まだ間に合う、と言う。だが私はその手には乗らない。

寶吉祥道場は皆に仏法を教え、仏法により広大な衆生に利益する。名堂などと言うものはない。点光明灯、功徳主、何かの記念日などもない。清潔極まりない。経典内で教える点光明灯は、このような方法を用いたものではない。また、いくら供養すれば何々を与え、またはステージ上で拍手を贈るなどとも書いてない。

学仏には金が要るなどと、二度と再び私の耳に入れないでもらいたい。自分が使用する場所に金を払うのは当たり前のことだ。一時間の授業にいくら要る、リンポチェに会うのにいくら要る、などとも一切言っていない。このようなことは全くない。そなた達が供養しようがしまいが、私には関係はない。そなた達次第だ。自分で決めれば良い。金がないなら、自分を私に知ってもらえないと言うのではなく、そなたが上師に近寄らないのだ。上師はそなたにほんとうに印象がない。近頃は弟子が多いので、誰かに会っても「誰だ?会ったことがないようだ」と言うだろう。よく考えてから皈依せよ。はっきりしないなら、登壇しないように。名前を呼ぶので、呼ばれた者だけが登壇せよ。呼ばれない者は登壇を許さない。

仏教の皈依儀式は非常に簡単だが非常に荘重だ。一人の守戒如法の上師でなければ、そなた達の皈依を受け付けてはならない。皈依の後は利益が非常に多い。主に八種に帰納される。皈依後はできない事がある。先に皆に説明した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは26人の信衆のための皈依儀式を開始され開示くださった:先ほど唱えた経文の意味は、一切の仏法教法の所在である上師宝に私達は敬礼すると言うことだ。上師は「衆生安楽一切殊勝縁起」を成辦することができる。皈依は生死解脱を追求するため皈依戒を受けた者は「当思悪趣輪迴猶如火坑」。皈依の重点は、三悪道輪迴について思い至った時、火坑のように恐ろしいと言うことだ。皈依戒を備える上師は高座に座り、三宝前で上師に供養を恭敬に献上し尊貴に合掌する。

皈依では必ず在家五戒を守らなければならない。すべての仏法の一切の戒律は五戒から始まる。

この後はみな順番に登壇するように。私はそなた達の頭頂から一摘みの頭髮を切り取る。顕教にはこの種の儀軌はないが、チベットではあるのだ。一摘みの頭髮を切り取るのは、皈依することで煩悩を断ち切ると言うことで、また未来世に出家する因縁が与えられる。

頭髮を切った後に皈依証を授ける。皈依証の中央は祖師ジッテン・サムゴンの法写真だ。片側は私の根本上師チェ・ツァン法王の法写真で、もう一方は私の法写真だ。祖師ジッテン・サムゴンの上の符号は私達直貢噶舉のLogoだ。もう片面は釈迦牟尼仏だ。この一世の仏法は釈迦牟尼仏伝がお伝えくださったので、私達は釈迦牟尼仏に皈依申し上げる。皈依証の上には皈依師の法号がある。そなた達の法号は私が改める。日付も私が記入する。書いた人が、その人を追い出す。

皈依文の書き出しは「上師に皈依する」だ。上師がいないなら、自分一人では仏法を学習することはできない。後ろに続く数語「諸悪莫作」とは、一切で仏法を中心として、ほんの少しの悪さえ行ってはならないと言うことだ。「衆善奉行」とは、すべての仏がお教えくださる一切善の方法を、私達は行わなければならないということだ。「自浄其意」とは、先ほどの二点を行えたなら、そなたの意は非常に自然に清浄となるということだ。「是諸仏教」とは、これこそが諸仏が私達にお教えくださる一切の最も重要なところだ。どれだけの経、どれだけの咒を念じるかではなく、「自浄其意」なのだ。誰もが皈依証を持つことができる。この皈依証はそなたのこの一生に従う。だが死しては、棺に入れて焼いてはならない。亡くなる時には、皈依証は次の世代に伝えることができる。神主牌より役に立つ。

金剛薩埵の持咒の声の中、リンポチェは26人の信衆のために皈依剪髮の儀軌を執り行われた。

リンポチェは継続して『寶積経』を開示された。

経典︰「断於一切妄想分別。是正思惟隨所解法而為演説。」

この二文は、自分で説法したいと考えている人にとっては非常に重要だ。何を妄想と言うのか?念頭が衆生利益、空性、慈悲、仏陀、上師から離れた一切の教法は、すべて妄想だ。例えばたくさん読経すれば、観音菩薩の加持が得られ、智慧が開け、衆生を済度させられると考える。または、自分でこのように真言を念じ、念法が違えば、非常に速く衆生を済度させられると考える。これを妄想と言う。妄想とは、経典で講じるのではなく、上師が教えるのではないなら、すべては妄想だ。仏はここで叱責なさる。妄想とは、何か訳がわからない事を考えるのではない。一人の出家衆においては、経典の仰せ、上師の教えを離れるなら、すべての念頭は妄想だと言うのだ。これら在家の者もそうだ。以前ある弟子は看護師としてしっかり働いていたが、分娩室に人手が足りなくなり、分娩室に移ることになった。その際この弟子は「リンポチェ、分娩室で人手を求めていますが、私は移っても良いですか?給料が数千元高くなります」と聞きに来た。私は構う気にもなれなかった。分娩室では何をするのか?堕胎だ!この弟子は数千元のために聞きに来た。因果を信じていないのだ。これこそ妄想だ。

上師の教え、経典の仰せを聞き入れないなら、すべては妄想の範囲だ。妄想があるなら、自然に分別心が起きる。何を分別心というのか?我慢だ。何を我慢というのか?自分の修行は他人より良い、読経が他人より良い、この音を用いれば他人より良い、と考えることだ。仏が、私達に何をお教えくださるのかを忘れたのか?仏は私達に我慢であってはならないとお教えくださる。ほんの少しであっても有ってはならない。ほんの少しであっても我慢がある人は、すぐにすべての功徳がなくなってしまう。これは非常に微細なのだ。出家であろうと在家であろうと、なぜ毎日静かに自分が行った事を思惟しなければならないのか。それは、そなた達の妄念は毎日動いており、一秒一秒動いているからだ。皈依後は戒律に頼ることができる。自分の身、口、意で妄念が起きたか、言い誤っていないか、行いで誤っていないかが分かる。頼るべき戒律がないなら、自分の心と思想を放縦し続け、これは必要なのだ、自分で行ったのだ等と考える。

仏法で最も重要な効果は、仏法を用いて自分自身を検視することだ。他人を検視するのではない。他人の行為を、改めたり、改めるよう諌めたりすることはできない。前の方で仏も仰せだ。先ず供養しなければ、摂受することはできない。「摂」とはどういう意味だろうか?磁石が吸い付いて来るようなものだ。仏法は何を用いて摂受するのか?慈悲だ。何を慈悲というのか?何も要らない人こそが、慈悲がある人だ。なぜそなた達これら出家している者達は、弟子を取る資格がないのか?それは慈悲がないからだ。慈悲心がなくて、どうして摂受できるだろうか?そなた達これらの者達はどうやってここに来たのか?ほんとうに私がすごいのか?私は少しの慈悲心を修め、少しの空性を証したので、磁石のようにそなた達を摂受したのだ。諸仏菩薩も私の磁力を強めてくださり、そなた達を摂受させ言いつけに従わせてくださる。「受」とはなんだ?接受だ。接受とはなんだ?仏法を受け入れるのだ。摂受できないとはどういう意味だ?慈悲があると感じられないなら、摂受できない。なぜ仏は縁がない人は済度できないと仰せなのか?それはその人が慈悲の力を感じられず、自分にとって利益になる力しか感じられず、上師が語る一言一言すべては、自分が好むものでなければならないと思っているからだ。それなら絕対に摂受できない。

なぜそなた達の皈依の際に、私は開宗明義まですべて言うのか。必ず叱られる。間違いなく叱られる。なぜか?叱らずに、どうしてしっかり教えられるだろうか?みな思い返してみよ。子供の頃、叱られたことがない者などいるだろうか?家の人が叱らないとしても、学校ではやはり叱られる。小さい頃叱られたことがないとしても、社会に出れば叱られる。なぜ現在社会にはこんなにも多くの紛争があるのか?それはみな他人に叱られようとしないからだ。なぜ毎日こんなにも多くの死亡事件があるのか?毎日自動車事故で死ぬ人がいる。このパーセンテージは非常に恐ろしい。台湾は二千三百万人余りしか人口がない。日本へ行っても、自動車事故で人が亡くなるニュースを毎日聞くということはない。台湾ではみな争う。一秒、二秒のために争い、命さえ失っている。みな毎日争っている。台湾社会は現在非常に暴力的だ。自分自身、家族、この社会を救うのは、仏法の慈悲だ。

つまり妄念が起きると、他人との争いが始まり、分別心が始まる。何が分別心か?自分がすべて正しいと考えるのが、分別心だ。自分はすべて間違いがないと考えるのが、分別心だ。自分はこういう意味ではないと主張するのも分別心だ。それならどういう意味だ?なぜそういう意味ではないのか?それは、自分が損失、攻擊、誤解を受けたと思うからだ。釈迦牟尼仏でさえ他人に誤解され批判されている。そなた達のような雑魚が、他人に批判されないことがあろうか?上師はそなたを批判する役割を演じる。批判しないなら、高慢で傲慢な心が消えることはない。そなたの我執観念は非常に重いからだ。我執観念が非常に重い人は、絕対に徐々に過ちを犯す。しかも、挽回不能な悪い事をしでかす。それは我執が重く、自分が傷ついたり損したりするのを受け入れられないからだ。私はしばしば言う。みな何でも食べるくせに、損失だけは食べない。少し損しても、何も損害を被ることにはならない。上師は損失を受け入れられるように、そなたを訓練するのだ。

皈依して長くなる弟子は思い返してみよ。以前は損失を受け入れられなかったが、今は受け入れられ、職場でも何も問題がないと感じられるのではないか?昇進できるかどうかは福報次第だ。だが少なくとも人との縁は良くなったはずだ。なぜ家庭内でも、そなたがゆっくりと変わっていると父母が感じるのか?それはそなたが損失を受け入れ始めたからだ。以前は父母が一言言えば、すぐに不機嫌になった。つまり上師はそなた達のこの種の念頭を専門に対処するのだ。これこそそなた達の妄念だ。妄念がない人は、自然に分別心がなく、自分が正しく相手が間違っている、などと分別しない。もしひたすら分別するなら、喧嘩になってしまう。

なぜ毎日死亡事故が発生するのか?オートバイで飛ばす人は、自分が正しいと思っているからだ。正しければ、ぶつかってしまう。非常に多くの弟子が自動車事故を起こしているが、死んでいない。なぜ自動車事故を起こすのか?それは生生世世の殺業をまだはっきり認識しておらず、皈依は幸せな日々を過ごすためだと思い、徹底的な懺悔心を持っていないからだ。皈依し幸せな日々を過ごしていると思うなら、物事は始まる。だが皈依したので、横死することはない。密宗にはこの種の能力があり弟子を保護できる。寶吉祥道場は1997年に開かれたが、横死した弟子は一人もいない。非常に多くの自動車事故が起きた。なぜか?それは懺悔心がなく、供養心がなく、上師の講話に対して、聞きたければ聞き、聞きたくなければ聞かないと言う態度だからだ。

仏法の薰陶を離れることもすべて妄念だ。日々の暮らしを送るなと言うのではない。夜どんな料理を作って夫に食べさせようか、と考える必要はない、と言うのではない。誤解してはならない。これは妄念ではない。妄念とは、今日何かを行おうと考え、こうすることが自分にとって良いのか悪いのか、とひたすら推敲することだ。これこそ妄念だ。物事を行う際に戒により推敲するなら、自分にとって良いことをするなら、破戒する可能性があり、行ってはならないと分かるだろう。学仏人とはどう言う意味だろうか?じっくり思惟するのだ。現在多くの事を考えると言うのではなく、一つ一つの事、一つ一つの念頭について、仏法と戒律を用いて検視する必要があるのだ。こうすれば、再び悪業を為す機会は減少し続け、無くなってしまう。他人に良くなったと言われる必要もなく、人との縁がゆっくりと良くなる。それは一つ一つの事で先に検視するからだ。

こうすれば速度は非常にゆっくりになるのか?そうはならない。そなたが慣れれば、そうならない。最初は辛いかもしれない。だがゆっくりと感じる。以前は他人が何か言えば怒っていたが、現在では同じ人が同じことを言っても、怒ることはない。これはどう言う意味だろうか?それはそなたの妄念がなくなったと言うことだ。自分が攻擊されていると思わず、他人が自分をいじめていると感じないので、幸せが自然に起きるのだ。幸せは欲望ではない。煩悩が少ない人が幸せだと定義される。なぜ煩悩があるのか?何もかも欲しいと思い、何もかもに不満で、与えられればもっとたくさんと思い、誰かが自分によくしてくれないかと毎日期待している。これこそ煩悩だ。妄念だ。在家衆がしばしば犯す病だ。だが出家人も現在でもこの種の病を犯す。

仏が仰せの出家衆の定義によれば、何が妄念だ?あらゆる念頭が修行と無関係なら、すべては妄念だ。何が修行か?自分自身の輪迴を改める行為だ。妄念が生まれれば、必ず分別心がある。分別心があるなら、空性の慈悲心を為すことは絶対にできない。慈悲には分別がない。自分に良くしてくれる人には良くし、自分に良くしてくれない人には良くしないということはない。大功徳主には良くし、功徳主でないなら良くしない。これこそ分別心だ。なぜ寶吉祥道場では大功徳主の席がないのか?分別心を持たないよう私が自分を訓練しなければならないからだ。大功徳主の席があれば、当然私はその人を多めに見るだろう。なぜリンポチェはひたすら自分を見ているのかと、その人が考え、訳も分からずあれこれ考えるのを恐れるのだ。

大法会に大功徳主の席があるのを見たことがあるか?ないだろう。あるのは貴賓席だけだ。なぜ貴賓がいるのか?彼らは弟子でなく一般信衆だが、道場のために尽くしてくれたので、少し良い席を用意し、少しの尊重を示すのだ。だが絕対に大功徳主ではない。寶吉祥道場は、金銭を見て物事を行う道場ではなく、官位があるかないかにも関心がない。私には高い官位の弟子が非常に多い。だが特別な席はない。

妄想はほんとうに修行に対する影響は非常に大きい。特に以後出家衆は閉関の際に、自分自身の妄想についてより理解しなければならない。輪迴に対して処理できない一切の方法を離れるなら、それは妄想だと言うことができる。

「是正思惟隨所解法而為演説」とは、そなたが妄想を断ち、分別心を起こさないなら、正しい思惟方式が起き、そうでなければ正法を説明し、衆生のために演説することはできないと言うことだ。経典中のこの言葉は叱責だ。妄想が山のようにたくさんあり、分別心が山のようにたくさんあるのに、仏法を説こうと言うのか?この言葉は、正思惟方式がない人は、この正思惟に従い正法を説明することはできないとも言う。つまり、私は現在仏法を開示している。私に分別心があり妄想があるなら、私は仏が仰せの思惟方向を理解できず、非常に自然に何かを言い間違えると言うことだ。正思惟がなければ、非常に自然に仏が仰せの意義に従い仏法を説くことはできない。簡単に言えば、修行経験がないなら、法座に上り説法するのは非常に危険だと言うことだ。危険とは、他人を誤った方向へ導くと言うことだ。

経典︰「是名正語。」

このように仏法を演説することが正語だ。よく聞くように。正語とは、毎日口癖のように阿弥陀仏と言うことではない。先に行わなければならない:一切の妄想、分別心を断ち、正確に思惟しなければならない。何を正確思惟と言うのか?仏がお教えくださる一切の慈悲、一切の生死解脱の方法により、自分の人生を思惟し、自分の身、口、意を思惟し、この種の思惟に従わなければ、仏法を解開することはできない。「解」とは解怨、解結してやることではない。仏陀が仰せの仏法の真の内容含義を理解することだ。妄想が山のようにたくさんで、毎日あれもこれもを恐れ、雇用主が何かをやるよう命じても、やったことがないと言うなら、どうして給料をもらうのだ?学仏しながら、分かりませんと言い、こうすることが誤りかどうか分からない、と言うようなものだ。それなら正思惟はない。何を正思惟がないと言うのか?もともとそなたこそが過ちなのだ!そなたに過ちがないなら、成仏するだろう!それでも分かりませんと言うとは。自分は現在皈依して学仏しているので良い人だ、ただ他人より良くなりたいと思うだけだ、と考えている!それなら不正確な思惟だ。

皈依により、そなたは軌道を有し、方向を有し、頼れるものを有し、自分をどのように調整し、自分自身を改めるかが分かる。皈依したのですぐに良くなり、幸せな日々を過ごせ、運が良くなり、皆自分に対してよくしてくれる、と言うのではない。仏法はスイッチ一つで変えられるのではなく。仏法はゆっくりと累積するのだ。なぜこうなのか?今日そなたの根器が良いなら、とっくに素晴らしく修行できているはずだからだ。自分に根器がないなら、当然ゆっくりと累積する。貯金する際にも、一ヶ月の收入に限りがある中で、どうやって貯金するのだ?少しずつ貯めるのだ!基本的な生活は毎日送るが、その中から少し取り出すことはできる!

在家衆として学仏するなら、勤めに絶対に影響を及ぼさず、夫婦の道に影響を及ぼさず、子供との情愛に影響を及ぼさない。だがその中からゆっくりと貯める。例えば、以前子供をバカヤロウと罵っていたが、今はそう言うことはない。それなら貯められた。以前夫を良く叱っていたが今は叱らない。それなら少しは貯められた。何を貯めるのだ?福報だ。福報がなければ、智慧を開くことはできない。一言一言が自分自身の福報に影響を及ぼす。一つ一つの動作、一つ一つの思想がそなたの福報を変える。これはゆっくりだ。すぐにできると言うのではない。

皈依後にはすぐに白馬の王子さまが出現するなどと思ってはならない。そう思っているなら、誤りだ。皈依後にすぐに白馬の王子が出現したなら、それはそなたにとって良くない。白馬の王子は外国の童話だ。外国人は皆肉食する。菜食する外国人など聞いたことがないだろう。現在はいる。かつては絕対にいなかった。白馬の王子が出現するとは、どう言う意味だろうか?肉食する人と結婚すると言うことだ。それで良いのか?考えてみよ。非常に好みの人が突然出現したなら、慎重になるよう私は諌める。これは、仏法から離れさせようと障礙に来たのかもしれない。結婚してとても喜ぶかもしれないが、後々はひどく憎むことになる。

「是名正語」とは、仏法を説く時、自分に修行果位がないなら、一切の妄想分別を断つことはできず、説く仏法はすべて正語でなく、経典内の名相に基づき説くことができたとしても、レコーダーで幾らかの文字を流して他人に聞かせたに等しく、内部の含義を説くことはできない。それはなお妄想分別があるからだ。なぜ法会の前には毎回先ず六字大明咒を持誦するのか?それは、そなた達の少しの妄想を断ち、分別心を少し減らし、リンポチェが二時間話すのに集中できるようにしているのだ。

なぜ道場へ来ると幾らか定まるのか?道場へ来れば仏菩薩が定めてくださるのではなく、リンポチェの持咒に少しの成就があるため、そなた達の分別と妄想を断つことができ、定まり、こんなにも長く聞いていることができるのだ。そなた達の習慣からすれば、こんなにも大人しくこんなにも長く聞いているなどあり得るだろうか?それはここで言うことに基づくのだ。私の持咒に成就がないなら、そなた達の妄想を断ち、分別心を断つことはできない。妄想、分別心がないなら、静に入り、定に入ることができる。山のようにたくさんの妄想があるなら、どうして静まることができようか?静まれないなら、自然に分別する。妄想を少し断つことができるなら、分別心も少しは減り、自然に心は清浄となる。心が清浄でなければ、定まって聞き入れることはできない。そうでないなら聞き続けることなどできるだろうか?

リンポチェが行うあらゆる事はすべてそなた達のためだ。そうでなければ、私は何もすることがないはずだ!そなた達と六字大明咒を念じるのは、そなた達の妄想があまりにも多いと知っているからだ。道場に入ってくるまでは、山のようにたくさんの念頭をあれこれ考えている。入ってくれば、なぜ突然定まるのか?それは上師に成就があるからだ。そなたを助ける能力があるのだ。脅迫や誘惑に頼っているのではない。持咒は有用か?当然有用だ!真言は清浄だからだ。清浄な真言はそなた達の心が本来の清浄を取り戻す手助けができ、そうでなければ聞き続けることはできない。正語とは、自分自身の妄想分別をすでに断ち、正確な思惟で仏法を説くことと定義される。

経典︰「除盡業満。是名正業。」

修行を通して、一切の善悪業を円満に取り除いてしまう。それを正業と言う。「正業」を、五戒、出家戒に背かないことと説明する人もいる。ここで仏は明確に仰せだ。善業、悪業を完済していないなら、成仏は不可能だ。そなた達は必ず問うだろう。善業まで完済しなければならないのか?当然返さなければならない。どうやって返すのか?行善、修善する時、見返りが欲しいと少しでも思うならだ。例えば、私が助けたことを知っているだろうか?と考え、例えば、私が道場で非常に多くの事をしているのを、リンポチェは知っているだろうか?と考える。これこそ漏れがある善業だ。漏れがある善業には善の果報がある。果報が出現しさえすれば、成仏、生死解脱の妨げとなる。「行善莫為人知」と言うことだ。古人はこのように私達に教える。いわゆる陰徳とは、相手に知らせた原因が、相手も自分といっしょに学仏することを願ってのものでない限り、行っても知らせる必要はない。私は非常に多くの事を行なっているが、相手は私が行なっていることを知らない。だが私の心が相手に対して善なら、私は善事を行うことになる。なぜなら私は何も見返りを求めないからだ。

私は先週言った。寄付して柱や瓦に名を残すのは、見返りを求めることだ。見返りがあればどうなのだ?本来の寄付の福報が無くなってしまう。他人が毎日そなたの名前を読む。この柱は誰々のだ。他人が一度読めば、そなたの福は少し減る。たくさんの人がこの観念を理解していない。自分の名前が柱に書かれて毎日見る。「見て。これは私の柱だ」と言う。だからどうなのだ?以後そなたが死ねば、遺灰を柱の下に埋めるのか?そんなことなどあり得ない。以後通る人が「誰々が寄付した柱だ」と言う度に、そなたの福報は使われてしまう。修行人にとって、福報をこのように使うのは良くない。この種の福報は修行の助けに使えないからだ。福報を世間の事に使っている。これこそいわゆる名聞だ。福があって初めて名を上げることができる。福がなければ名を上げることはできず、名を上げようと思っても、どうしようもない。

この観念はつまり行善有善の業だ。だが行善しても一切の見返りを求めないなら、この善の業は修行に影響せず、この善の業は修行を助けてくれる。これは非常に細微だ。私はしばしば言う。私は教派のためにこんなにも多くの事を行なっているが、すべて忘れたと。なぜ忘れたのか?執著しないからだ。やればいいのだ。だが、金額がいくらだったか全く覚えていないし、記録もしていない。このようなら行善の善業は完全で、しかも円満だ。円満とは何だ?私はこの善業を自分の修行の助けに転じる。この善業を、世間法でより良くする助けにするのではない。例えば寺を建てる。土地を見つけ、設計してくれる建築師が見つかった。これこそ福報だ。福報がなければ、どうして見つけられるだろうか?この種の福報すべては衆生のためだ、そのため、仏法において自然に出現したのだ。普段の生活において出現する福報は余りだ。余った福報なのだ。私はこの種の世間福報を探す必要はなく、自然にある。特別に探す必要はなく、特別に言う必要もない。

どのように業を取り除き、どのように浄化するのかをはっきり認識しなければならない。毎日懺悔せよと言うのではない。皈依したばかりの頃「諸悪莫作、衆善奉行」と言った。これこそ悪業を断つだ。ほんの少しの悪であっても行わない。考えることさえしない。そうでなければ、悪業が増長を続けることはない。以前に為した悪業の果報は、絕対にこの一生で完済しなければならない。諸善奉行、あらゆる善を行わなければならない。待っていてはならない。すぐ行うのだ。「奉」とは何だ?聞いたらすぐ行うのだ。私のあれら弟子のようであってはならない。私が寺を建てると言うのに、のんびり待っている。これこそ「不奉行」だ。なぜ「不奉行」なのか?山のようにたくさんの奇妙な考えを持っている。「諸悪莫作、衆善奉行」と言うように、正業を修めことは、非常に必要なのだ。

仏弟子として、一切の身、口、意のすべてを善の方向へと向けなければならない。良いことが得られるかどうかは、重点ではない。そなたは仏弟子なので、そなたの行為、思想、言語は自然に、皈依していない人とは違う。悪業を為すことを停止したので、善の方向へとひたすら向かうのだ。これは仏弟子としての本能、重要な条件だ。幸せな日々を過ごしたいので、言いつけに従い行善すると言うのではなく、幸せな日々を過ごしたいので、守戒すると言うのではない。皈依すれば、皈依弟子だ。皈依弟子なら当然皈依弟子の条件がある。以前のように日々を過ごしても良いのか?朝起きたら気分が良くないので、人を罵り始め、家を出たら人がぶつかってきたので、気に入らずやり返そうとする。これでは仏弟子ではない。仏は、この二言を非常に簡単に仰せだ。だが行うのは大変だ。そうではない:殺生ではない仕事が正業だ。他所ではたくさんの人が皆このように言う。出家弟子は「確かにそうです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰仏はこのように仰せでない。仏は「除盡業満」と仰せだ。非常に難しい。だが必ず行わなければならない。そうでなければ正業ではない。世間で行う一切の事は業の力を生み出し、そなたを輪迴させ、輪迴を断たせ、そなたを成仏させる。すべてはこの種の力だ。人世間で行う事をいかにすれば正業に転じられるのか?それこそ「諸悪莫作、衆善奉行」だ。この二言でなければ「除盡業満」できず、正業と呼ぶことはできない。『寶積経』はほんとうに非常に説明しにくい。そなた達は出家してこんなにも長くなるのに、そなた達の業がどこにあるのか、私は分からない。釈迦牟尼仏はあまりにも慈悲深くていらっしゃる。仰せの仏法は説明が容易でない。

経典︰「断除結習。是名正命。」

仏はまた叱責されている。仏は、善悪と結びつく一切の習慣を断たなければならないと仰せだ。これはそなたの生活習慣を言うのではない。そなたの業報が出現すると、そなたは一種の習慣的行為を生じる。例えば、過去世に非常に多くの供養を修めた人、その人の一切善が結びつくと、一種の金持ちの行為が生じる。金持ちには二種の行為がある。一種は眼に余るほどのケチ、一種は眼に余るほどの傲慢だ。政府の高官もそうだ。『寶積経』では、仏法を用いて政府高官に傲慢であってはならないと教えよと言う。なぜなら政府高官が傲慢なら三悪道に堕ちるからだ。政府高官は民に尽くすのだ。民に尽くせば非常に大きな福報を累積できる。官位を用いて民を苛み、汚職するなど、言うまでもないことだ。

この二言の意味は、私達は仏法を用いなければ、そなた達が正しいと考える結果を断つことはできないということだ。「良い夫に嫁いだ、良い妻を娶った、親孝行な子供を持てた」これはすべてそなたの過去業により生まれた結果だ。だがそなたがこの種の結果に執着し、この種の結果を除去しないなら、そなたの習慣を変えることなど不可能だ。そなたのこの一生は夫、妻、子供のために忙しい。この一生でそなたは仕事のために絶えず忙しい。ある執著心のために絶えず忙しい。この二言は、何を用いて断ち除くのか?十善法、『仏子行三十七頌』だ。そうでなければ、私達の生生世世の善悪業が結びついた習慣を断つことはできない。例えば今日そなたは金持ちだが傲慢であってはならない。そなたは高い官位があるが、傲慢であってはならない。大きな会社のオーナーだ、昇進して総経理になったが、傲慢であってはならない。何を傲慢であることがあろうか?これはただ福報善業の結果に過ぎない。この種の結果は私達の我慢の習慣を引き起こす。例えば、ある分野で他人よりうまくできている人がいるとする。その人は非常に傲慢で、自分は専門家だと思っている。これこそ一種の習慣だ。

「断除結習。是名正命。」とは、この一生で私達は出家相を現している。何を傲慢であることがあろうか、と言うことだ。なぜか?これは過去世でそなたが発した願だ。過去世で修めた一種の果報に過ぎない。出家人が非常に傲慢なら、この種の習慣、果報を断つことはできない。断つことができないなら、そなたの生活は正命とは言えない。何が正命か?私達は現在命があり地球上で生きている。栄華富貴、家庭倫理道徳、健康のためではない。すべてこれらのためではない。これら全部すべては私達の業報福報だ。すべては過去世で為した結果なのだ。

何を正命と言うのか?私達に今なお生命があるのは、仏法を学習し、三悪道に堕ちないようにするためだ。先ほど皈依の際に、三悪道に堕ちる、火坑のような輪迴苦海に堕ちることを思惟させたが、この種の思惟がなければ、正しい生命を用いて日々を過ごすことはできない。学仏への皈依が、幸せな日々を過ごすためなら、これは正命ではなく邪命だ。皈依しても、何かが起きれば自然に離れていく。もう一度強調する。商売したり、結婚したり、子供をもうけたりすることを許さないのではない。ただすでに皈依したのだから、自分の生命をどこに用いるか理解しなければならないと言う意味だ。仏法、仏の教え、上師の教えに用い、自分はそれに頼る。こうして新しい生命を作り出すのだ。この新しい生命は、栄華や富貴、多くの子孫に恵まれる生命ではない。この生命は、輪迴を断ち、成仏できる生命だ。こうして世俗の非常に多くの考え方を停止させられるのだ。

受け入れない、行なってはならないと言うのではない。だが私達は絶え間ない追求を停止できる。ある種の欲望、考え方を絶えず追求するなら、仏弟子ではない。そなたが持つべき考え方は「あればうれしい。なくてもうれしい」だ。因果を信じ、業力を信じているので、煩悩は減少する。人はなぜ煩悩が絶えず起きるのか?それはひたすら欲しいものを求めているからだ。求めても得られなければ滅茶苦茶に考え出し、さらには破壊し、一切の方法を用いて奪取しようとし、煩悩が起き問題が起き、一切の苦痛もいっしょにやって来る。毎日菜食し念仏すれば、それが正命だと言うのではない。私達の生命をどこに用いるかを理解するのだ。私達は現在は縁に従い日々を過ごしている。生生世世に作り出した縁と新しく作った縁に従い、毎日を過ごしている。現在の能力では成し遂げられない事をひたすら勝ち取ろうとしているのではない。

勝ち取るには根拠が必要だ。欲しければもらえると言うわけではない。そなた達に何かを勝ち取ることを要求しないと言うわけでもない。だが重点は「勝ち取るのは衆生のためか、自分自身のためか?」と言うことだ。

例えば、寺を建てるのに、私は政府の同意を勝ち取った。もちろん法に基づいてだ。法に基づき勝ち取るのだ。例えば、政府がグズグズしているなら、私は積極的に勝ち取らなければならない。衆生のためであり、私自身のためではないからだ。この種の勝ち取りならOKだ。例えばタクシーでそなた達を山の上へ寺の見学に行かせる。これも衆生のためで、私のためではない。誤解してはならない。あらゆることに構わないのが、修行人だと言うのではない。私達が勝ち取るのは一個の主体「衆生に利益できるかどうか」のためだ。

「私はいかにして人を管理するかを学んだことがない」「私はこれを学んだことがない」と言う人がしばしばいる。これも勝ち取るのではない。やるべきことをすでに伝えられているなら、行わなければならない。これを勝ち取ると言う。太平に幸せな日々を過ごすためではない。現在地球には神仙のような日常はない。神仙のような日常を過ごしたいと思うか?天界へ行っても、玉皇大帝に管理されるのだ。仏果を証し業力に牽引されないなら、自由自在でいられるが。天界に居て神仙になったとしても、業力があるなら、業力に管理されるのだ。

たくさんの人が世間で何の心配もない、自分が好む生活を送りたいと思っている。自分はこの一生でどんな善事を行なったか思い返してみよ。前世ではない。何の心配もないとはどう言う意味だろうか?他人を何の心配もない状態にしなければ、自分のこの一生で何の心配もないと言うことにはならない。行うべきでない事をかつてたくさんしながら、何の心配もなく、静かで、太平で、誰からも煩わされない日々を過ごしたいと言うのか?もしこれができるなら、私も法王もとっくに定年退職している。私達二人は毎日衆生に煩わされている。衆生は私達を見るとすべて要求だ—これもあれも要求する。なぜ私達はこのようにして行かなければならないのか?その人に金があるとかないとかではなく、衆生が苦しんでいるからだ。そのため私達は必ず助けなければならないのだ。彼らの願望を満たしてやるのではない。

そのため正命、正業、正語の『寶積経』での説明は、完全に別のレベルだ。『寶積経』は菩薩道修行を教えるからだ。菩薩道を修めるなら、レベルは違う。一般経典が説明する正命、正業、正語とは違うレベルだ。どんなに考えても、何を正語と言うのか考え付きもしないだろう。一切の妄想、分別心を断つのだ。仰せの仏法だけが正語だ。出家弟子は聞いたことがないか?なぜ聞いたことがないのか?「聞いたことがありません。大手印まで修めていないからです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示された「大手印でもこれについて言わない。私を騙すな」『寶積経』は在家者と出家者に菩薩道の修行を教える。菩薩なら、思惟の方法、人生未来の定義は、一切凡夫とは異なる。そなた達は「私達は菩薩になりたくありません」と必ず言うだろう。これはそなた達がなりたいとかなりたくないとか言う問題ではない。問題は、私は菩薩道を教え、仏は私達に菩薩道をお教えくださり、私は仏の仰せに従いそなた達を教えると言うことだ。そなたが菩薩になれるかどうかは、そなた次第だ。だがそなたの思惟、行為は、一人の菩薩のようでなければならない。そうでなければ、この道場に留まることはできない。

菩薩道を伝えるのでなく、別のものを伝えるなら、私はとても楽だ。例えば拝仏、読経、供養、点灯について説くなら。ここではこれは教えない。『寶積経』を教える。私は学仏の最初から菩薩道を学んでいる。ここに飛び込んでくるとは、そなた達は運が悪いのだろう。運が良ければ別のところへ行っただろうに。そこではそなた達を天上に祭り上げてくれる。ここではそなた達を祭り上げたりしない。それは仏が私を祭り上げたりしないからだ。当然私もそなたを祭り上げたりしない。私は現在法座に上り説法しているが、仏はまだ私を祭り上げてはくださらない。私にはまだ資格がないからだ。

ここで講じるのは、一切の菩薩の身口意の事だ。できるかどうかは重要ではない。重要なのは、そなたが受け入れるかどうかだ。受け入れないなら、自然に成し遂げられない。たくさんの人が「私は学仏するのだから、加護されなければならない」と考えている。だが奇妙なことに、私はそなたを大功徳主とはしていない。なぜそなたを加護しなければならないのか?そなたが大功徳主なら、寶吉祥道場全体、私を含めて、そなたに頼って日々を過ごすことができる。それなら私は当然そなたを加護し、毎日そなたのために念じる。できるか?できないだろう。何を根拠にだ?リンポチェには分別心はない。そなたが金持ちなら私は尊重し、金がなくとも私はさらに尊重する。そなた達は私に分別心を持てと迫るのか?私が分別心を有するなどあり得ない。有するなら、平等な慈悲力などなく、どうやって済度するのか?私が済度する時、どの衆生にも私は会ったことがなく、私に供養したことがない者さえいる。それでも私は彼らを済度させる。

今日自分は学仏するのだ、そなたの上師はどんな法を伝えるのかとはっきり弁えなければならない。菩薩道を伝えるが、菩薩の行為、思想、言語を、そなた達は現時点では絕対に行う能力はない。だがこの法門を受け入れなければならない。これ以上リンポチェを批判してはならない。なぜなら菩薩は変人でなければなれないからだ。普通の人は菩薩になれない。なぜ変人でなければ菩薩になれないのか?私は何から何まで不要な人間だ。試してみよ。時には、私はそなたに合わすのではなく、そなたに現在なお少しの善根があるのを見て、機会を与えているに過ぎない。そなた達に合わせているのではない。そなたはなお幾らかの善根がある。一粒の塵のように、こんなにも小さく少なくても、私はそなたに機会を与える。機会を与えるとは、そなたは言いつけに従わなければならないと言うことだ。そなたにおべっかを使って、そなたに幸せな日々を過ごさせ、そなたに心地よいことを言うのではない。そなたには絕対に行う能力はない。

今日『寶積経』の開示は、菩薩道を学ぶことの何が正命、正業、正語であるか、を私達にはっきり理解させる。八正道が明確にならなければ菩薩道を修めることはできない。金剛頌を持するため持咒の音声が異なるなど、滅茶苦茶なことを言わないことだ。先ほど私は金剛頌を用いた。そなた達は聞き分けられたか?出家弟子は「慈悲心がなければ、金剛頌を持誦することは不可能です」とお答え申し上げた。もう一人の出家弟子は「心が定まらなければ、妄想はとても多いです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰もうすぐ年の瀬だ。そなた達は私を一年供養したので、そなた達に少しの教導を与えよう。金剛頌とは、そなた達が想像しているように心には妄念がない等ではない。人間の身体があるなら、私たちには絕対に妄念、念頭、思想がある。呼吸している限り思想があるからだ。呼吸する時、気は身体の中で動く。気が動けば意識も動く。私達の心は定まることに慣れていない。心は意識に引きずられる。金剛頌について、そなた達は慈悲といっても良い、妄念でも良い。最も重要なのは、これはすべて密法だと言うことだ。瑜伽部まで修めていない人は、金剛頌まで念じる資格はない。金剛頌で最も重要なのは、どこに用いるかだ?息を止めることができる。そなた達は気づかなかったかもしれない。数珠は27個ある。そなた達は27回念じたところで一息吐くなど可能か?無理だろう。これはどう言うことだろうか?私は一息で27遍念じられる。27遍内で私は一つの念頭も起こさない。そうでなければ金剛頌とは言えない。念頭が起きれば、凡夫の念頭が起きれば菩薩の念頭ではない。

菩薩は不動念であられる。だが菩薩はなぜ感応できるのか?それは衆生が恭敬に祈請し懺悔心があるため、諸仏菩薩が相応くださるからだ。これがなければ、相応してはくださらない。なぜなら菩薩は不動念であられるからだ。仏の果位なら完全に不動だ。少しの動さえない。仏は寂静なのだ。そのため私達は先に金剛頌から始め、自分自身の呼吸を減らし、念頭を減らすように修練するのだ。こうすれば、心は素早く清浄に入れ、清浄に入れば、仏菩薩の清浄な真言と結びつく。そうでなければ、衆生に利益することはできない。この一年余り、私の持咒の際には、みなしばしば香りを嗅いだだろう。これは経典が講じるのだ。成就がなければ香りはない。それは香を焚いた香りではない。

経典は先ず何が正語、正見、正命、正業であるかを私達に教える。これは顕教だ。理論を理解しなければ、どのように用いるかの根拠を知ることはできない。つまり根拠は仏が仰せの理論なのだ。金剛頌は、私のすごさを顕彰するためではなく、正命、正語、正業の理念、と言うこの道具を用いて衆生に利益するためなのだ。無上瑜伽部の程度まで修めれば、真言さえもすべては無常だ。真言はすべて永遠に不変だなどと思ってはならない。『金剛経』でも講じている。何かの法を得ることはない。学仏では非常に多くの法を学ばなければならない、非常に多くの法を学ばなければ成功できない、と思っている人が多いが、そうではない。仏は私達に方法をお教えくださるのだ。

今川を渡ろうとしており、船が必要だとする。対岸に着いたら、この船はなお必要だろうか?仏法とはこう言う観念なのだ。上師は漕ぎ手だ。仏法は船だ。彼岸に着けば、上師はいなくなってしまい、船も不要だ。だが彼岸に到達するまでは、この道具は必要だ。だがこの道具に執着するのではない。陸戦隊ならゴムボートを担いで路上を移動するが、それ以外に、船を担いで路上を走っている人を見たことがあるか?ドラゴンボートを漕ぐ場合でも、ほんの短い距離を走るだけだ。これは、船は、私達に川を渡らせるための道具に過ぎないと言うことだ。渡ってしまえば、この道具は不要なのだ。

こんなにも多くの仏法を開示したが、そなた達が成仏し、修められたと言うことではない。これは基礎理念だ。この理念に基づき修行しなければ道を誤る。この理念がないなら、自分で自分の念頭を作り出す。それが妄念だ。完全に経典に基づき少しも離れない。離れれば過ちで、輪迴三悪道に堕ちる。今日は如何にして金剛頌まで修めるかについて少し述べた。不共四加行を修め終えていないなら不可能だ。不共四加行を修め終えていたとしても、瑜伽部まで修めていないなら、やはり不可能だ。金剛頌は絕対に上師が必要だ。だが普通の弟子があるのではない。

仏弟子の一般の持咒は、自分自身の心を静める訓練のためだ。自分は仏弟子であると気づかせ、諸仏菩薩の慈悲を学ばなければならないと自分に言い聞かせ、諸仏菩薩の歩みに従い、自分自身の未来の人生を変えなければならない。そのため私達は持咒するのだ。真言は本尊と結びついているため、生生世世に修めた善業、善根とその仏法事業、慈悲願力は内部にある。短い数個の音だなどと軽んじてはならない。破解すれば非常に多くの音が内部にあるのだ。濃縮されているだけだ。毎日この真言を持することで、上師と本尊の加持を得ることができる他に、自分自身は仏弟子であると告誡することができる。真言を持し誰かに迴向し、その人を従わせようと言うのではない。これは他人を咒するのだ。無慈悲で不清浄な心だ。

この真言を持すれば、どうなれるとは、どの法本でも全く説かない。だが衆生が彼仏土に生まれられるよう願う、と言う。当然法本の中には身体的な健康につついて説くものもある。だがこれは修行人の慈悲で、そなた達のために念じるだけだ。絕対にこの目的のためではない。顕教の理念についてはっきり理解しなければ、修仏で道を誤らないことはない。そうでなければ非常に危険だ。持咒で狂ってしまう人もいる。精神的な病を発症する人もいる。あまりにもたくさん見てきた。基礎的観念がないため、欲張るからだ。欲張れば、その言葉が六字大明咒、阿弥陀仏であっても、やはり病に陥る。なぜか?真言は慈悲の代表だ。慈悲の心もなく念じれば、その心咒ではなく、別のものに変わってしまう。そなたの心がそれを変えてしまうからだ。

以後持咒する際にはみなしっかり理解するように。現在の短い人生の小さな物事のためにひたすら念じるのでは絶対にない。念じる時に、変化したと感じることも当然あるだろう。だがそれは、念じた時に善の心が磁場を少し変えたに過ぎない。真言の重要な方向がここだと示していると言うことではない。なぜ私が持咒すると、その人の病が少し軽くなるのか?それは衆生の苦のため、その人を摂受するため、その人が未来で学仏できるようにするためだからだ。このように用いるからこそなのだ。そうでなければ用いることはない。

たくさんの人がやって来て、仕事がうまく行っていない、と言う。だが私は自分のためにさえ財神法を修めないのに、その人のために修めるのか?門でさえもない。ビジネスがうまく行っていないのには、必ずその原因がある。私は原因を分析して、聞かせてやることはできる。だがそれは私が助けてやると言うことではない。自分自身のためにさえ財神法を修めないのだ。財神法で私は成就を得ている。それなのになぜ修めないのか?私の運命の中に自然にあるからだ。運命の中にないのに求めて用いれば、別のもので返さなければならない。私はそれは嫌だ。私は年に一度だけ財神を修める。旧暦正月の法会で修める。そなた達は私を供養したことがあるので、供養を続ける金銭があるようにするため、財神法を修めるのだ。道場の金銭を増やすためではない。

現在寺には金が要るが、私は財神法を修めない。毎日修めることができるが、そうしない。縁に従うのだ。このようにしなければ、正業、正命ではない。密宗には非常に多くの法があり、毎日修めることができると思ってはならない。そうではないのだ。修法には必ず特定の観念が必要だ。私はこの人を救う。この人は教派、仏法に対して、以後救いになると言うなら、私はその人を救い、障礙を越えさせてやる。誰であっても救うと言うのではない。たくさんの金持ちに会ったことがあるが、私は彼らをまったく相手にしなかった。金があるのは、そなたの福報なのだ!

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


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2019 年 12 月 29 日 更新