尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年11月17日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

今日は先週の開示を補充する:「住阿練児処與法相応」

末法時代に静寂な修行環境を見つけるのは容易でない。山の洞穴の中でない限りは、あったとしても、鳥がさえずり、虫が鳴き、風が木々の梢を吹き抜ける音が聞こえるだろう。だが山の洞穴では、心が静寂に入る時、空気中の分子、原子が摩擦することで生じる音が聞こえる。実はいわゆる静寂において最も重要なのは自分自身の心を訓練することなのだ。

「與法相応」とは、どれだけ念じ、どれだけ拝み、どれだけ禅定し、どれだけ経典を見れば法と相応できる、ということではない。仏が教導くださる一切の方法を行い、しかも何も加えず、何も減じないということだ。上師が教えないことは行なってはならない。このような人でなければ法と相応できない。上師が教えないのに、自分の方法を用いて行えば、法と相応することは絕対に不可能だ。

相応とは仏がお教えくださる修行方法だ。その通りに行えば、必ずいつか経典が講じるようになる。ある果位まで修行すれば、ゆっくりと相応する。当然一日二日のことではない。リンポチェがある事が出来るのを目にし、自分も早く出来るようになりたい、と思う弟子がいる。それは誤りだ。それは私が教えていないのに行うなら、法と不相応だからだ。「なぜ教えないのですか?どんな法だろうとすべて伝える道場が多いのに」と聞いてくる人がいる。

経典の開示に基づけば、学仏人の根器が正しくなく、心が正しくないなら、伝法すべきではなく、教えるべきではない。「それでは信衆が少なくなるばかりではないですか?」という人もいる。よく聞くように。信衆と弟子は異なる。現在寺に寄付しているのが信衆だ。信衆に対しては、この一生で因縁を作り、未来世のある一生で仏法修行を決心できるようにしてやっているのだ。弟子は違う。少しでも正しくないなら、上師は教授しないこともできる。皈依時にすでに言っている。上師の言う事を聞かず行わないなら、法と不相応だ。私には伝法しない絕対的な権利がある。

皈依して3年経てば必ず不共四加行を学ぶことができるなどと思わないことだ。なぜ上師相応法を、私は今もずっと伝えないのか?先週言ったので、再度は言わない。そなた達はみな自分の考え方で日々を暮らす習慣になっている。かつて学生だった時のことを思い出してみよ。教師が教えたことを、その通りに行わないで、試験に合格するだろうか?なぜ学仏に自分の考え方が必要なのか?学仏には天才児はいない。必ず次第に従い順序立って修めなければならないのだ。尊貴なる、例えば転世の法王でも、この一生ではやはり努力して修行なされている。法王は5歲から修行されておられるのだ。非常に多くの人がみな自分は学仏していると考えている。金剛頌について言ったことがあるが、ある弟子は、金剛頌とは唇を動かさず唱えれば、金剛頌だと思っていた。もしそうなら腹話術を学べばいいではないか!

リンポチェは、そなたに金剛頌を伝えたか?と一人の出家弟子に訊ねられた。唇を動かさなければ金剛頌というなら、マジシャンを連れてきて腹話術を教えれば良い!そなた達はみなあまりにも仏法を軽視している。自分はできると思っている!

リンポチェはもう一人の出家弟子に「私は試験をしない。ただそなたと討論するだけだ。そなたは出家して数十年になる。私が先ほど念じたように六字大明咒を念じることができるか?」と訊ねられた。弟子は「できません。心があまりにも乱れているからです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった。学仏で上師が教える方法に従い次第に修行せず、一足飛びに進もうと思う。これは不可能だ。歷史上、一足飛びに進めた者は何人もいない。『阿弥陀経』は「若一念二念三念四念」と講じる。これこそ金剛頌だ。試してみよ。一つの念頭内に南無阿弥陀仏の6文字しかない。口で念じるのではなく、念頭の中でだ。そなたにはできない。それは先ほどの出家弟子が言ったように心があまりにも乱れているからだ。なぜ心が乱れているのか?それは業気が非常に重いからだ。体内の気には善悪業がある。善業であろうと悪業であろうと、気はすべて我々の意識を動かす。よってそなたには一心不乱は不可能だ。一念二念三念の一個の念頭内には南無阿弥陀仏の6文字だけだ。どうやって訓練するのか?金剛頌を用いて訓練するのだ。金剛頌を学ぶには、密法を学ばなければならない。

密法は四部に分かれる。すでに五、六十歲、六、七十歲の人には学ぶ資格はない。それならどうするのか?密宗では「そなたの上師を信じよ」という。それは上師は修め、成就を得ているからだ。上師に頼るなら、往生の際に救いを得られる。先ほど出てきて語った弟子のように、彼女の祖母は私に会ったことがなかったのに、なぜ私は祖母にポワ法を修めることができたのか?彼女の家は大変に裕福だが、私は非常に多くのことで彼女の家を救ったことがある。だが彼女らは家を供養したことはない。供養されたとしても、私は受け取らない。それは私は修行で成就を得ているため、人ではないからだ。一般人の考えで私を見る必要はない。私は人の相をして見せているだけだ。そなたの考え方で上師を見るなら、そなたの日々は真に非常に辛いものだ。

最近あるすでに離れた弟子が、彼は大学時代に皈依し、不共四加行を非常に長い年月伝えたが、2014年に試したところ、11万遍大礼拝を終わっていなかったため法本とベストを回収し、弟子であることを禁じた。私は彼を待っていたが、最近になってようやくやって来た。それは母親が訳も分からず倒れ入院したからだ。2014年から2019年まで、5年間も来なかった。何事かが起きたので、金を取らない、このリンポチェを思い出したのだ。たった一人のための修法で、三、五十万元で、誰が構ってくれようか?これら出家人はこんな話をいくらでも知っている。

彼が会いに来たその日、私は「以前はリンポチェの噂話を聞くのが好きだったな。他人のリンポチェ批判を聞くのが好きだったな。しかも信じていただろう。だから修める必要はないと思ったのだ。だが、問題が起きたので私に会いに来た。私を批判していたあの者たちはみなもういない。どうだ?」と言った。彼は「そうです」と答えたが、私はやはり救ってやった。母に代わって大礼拝を行うよう教えた。表面的には彼が拝んでいるが、実際には私が加持している。大礼拝を終えた後、母は訳も分からず目を覚ました。母親がなぜ倒れ、なぜ目を覚ましたのか医者も分からなかった。昨日供養に来たが、私は受け取らなかった。それは彼は私の弟子ではないからだ。よって、リンポチェは商売をしていると誰かがまた批判したなら、そなた達にとっていい点はない。なぜ私は彼を助けたのか?それは親孝行だからだ。道理に従えば、上師を批判して再来しても、この縁はない。

また別の離れていった弟子は、彼の弟は暴力による借金取りを生業にしていたが、脳卒中で寝たきりになったので、会いに来た。土曜日二回大礼拝を行うように言ったところ、弟が随分良くなったので、彼は法会への参加を求めたが、私は許さなかった。私は「弟が自ら、自分は間違っていたと言わない限りダメだ」と言ったが、この土曜日、弟は来なかった。誤りを認めないのだ。そのため私は救えないと言った。そなた達はひたすら仏法を粗末に扱っている。自分が仏法を求めているなら、与えられなければならないと思っている。なぜ脳卒中で寝たきりになったのか?それは一日中人を殴り、他人に怪我を負わせていたからだ。兄にもこの金を分けていた。そのため兄は皈依していたのに、訳も分からず離れて行ったのだ。これこそ「與法不相応」だ。念じ、拝めば修行人だと誤解している人が非常に多い。

経典︰「與法相応。於一切物無有諍想」

この言葉は在家にも出家にも有用だ。他人との喧嘩を考えることさえ許されない。他人にはっきりと言うことなど以ての外だ。六波羅蜜では忍を修める。六波羅蜜さえ修めないのに、何を以って菩薩道を修めるのだ。釈迦牟尼仏は、考えることさえ許されないと仰せだ。ある二人の出家弟子ははっきりと口に出して口喧嘩している!誰が勝ったのだ?

そなた達は現在市内の私の家に住んでいる。だがこの家は一歩足を踏み入れれば非常に静かだ。周囲はうるさくないのだ。この家に住んでいるのは全て出家人だ。阿練児処とどこが違うのか?そなた達に住む場所を与え、そなた達がしっかり修行できるようにしているのに、なお喧嘩し、事後に懺悔する。そのためそなた達はまた退歩するのだ。念じ方が自分達とは違うと思っている者がいる。自分はそこで暮らすのは不適合だと思っている。上師はそなた達にどうやって念じるのかを教えない。そなた達はどうやって念じるのか。よって法と不相応なのだ。

経典︰「不調不寂。不堅不相応。亦住是中。」

そなた達は仏法を用いて自分自身の心を調伏せず、仏法を用いて自分の心を静寂にしない。そなた達は読経、持咒、拝仏時に自分は修行していると思っているが、離れればこれらはすぐに変わる。ちょっと言っただけで、すぐに跳び上がる。金について言えば大騒ぎだ。ある弟子は皈依して何年にもなるが、昨日罰として供養を禁じた。それは、金がないとひたすら言うからだ。金がないなら供養など不要だ。もう一度言う。供養しなくとも良い!自分たちは何々があるからすごい、などと思わないことだ。

ここで釈迦牟尼仏は叱責しておられる。仏法を用いて自分の心を調伏し静寂を得ないなら「不堅不相応」だ。学仏の心が堅固でなく、自然に仏法と不相応だということだ。心中では訳も分からない事を常に考えている。どれだけ拝んでも聞いても、どれだけ説いても、仏法とは不相応だ。そなた達にも理解できる言い方をしよう。「仏菩薩と上師が与えた加持は全て無くなってしまう」それはそなたが自分の方法、考え方を用いるからだ。学仏修行の心が堅固でなく、少しの境界が現前すると、先ずは腹を満たし、次に仏祖のことを考えるなら、すぐに不相応となる。私が叱っているのではない。経典が叱っているのだ。

『寶積経』を開示しない所が非常に多い。それは一言一言が全て叱責だからだ。少しでも講じれば信衆も弟子も全て逃げ出してしまう。この一年『寶積経』を開示して来たが、良い話を聞かせたことは一度もない。修行すれば、必ず阿弥陀仏のお側へ行けると言ったことはない。行わないなら不可能だ、言いつけに従わないなら不可能だとひたすら教えている。はっきり言っている。それなのにまだ寝ぼけている。まだ自分の考え方を抱いている。能力があるなら、釈迦牟尼仏をお呼びすれば良い。だが釈迦牟尼仏は構ってなどくださらない。それはそなたが仏弟子の資格さえないからだ。構ってくださるはずがあろうか?

拝仏したので仏と必ず有縁だなどと思ってはならない。そのため経典でも出家者を叱っているのだ。そなた達、この女性出家衆は、何を修行しているのか?毎週仏法を講じても理解できない。不相応なのだ。

経典:「所謂麞鹿獼猴。鳥獣師子虎狼。」

鹿はいつも走り回り、猿はいつも跳び回り、鳥はいつも飛び回り、獅子は凶暴でやかましく吼え怒号を響かせる。畜生道にいるのに、まだ気づかず、出家していると思っているのか?釈迦牟尼仏は叱責されている。そなた達の考え方には諍がある。不調不寂だ。つまり畜生道だ。鹿でないなら猿だ。猿でないなら鳥だ、獅子だ、虎だ、狼だ!仏法を用いて他人を叱ってはならない、となぜ以前言ったのか?そなた達は何を以って仏法を用いて他人を批判するのか?自分だってできていないのに、仏を用いて他人を批判し教訓を垂れるのか?『寶積経』はますます素晴らしくなり、私は叱れば叱るほど楽しくなる。それは証明できるからだ。私が叱っているのではなく、仏が叱っているのだ。

経典:「賊旃陀羅。是等無有沙門功徳。」

そなた達は賊と同じだ。なぜ釈迦牟尼仏はそなた達を賊だと罵られるのか?それは前の方で言ったように、そなた達は乞士だからだ。沙門の功徳を行わないなら、奪って来て、盗んで来て、騙して来ているからだ。そのため、そなた達は賊だと仰せなのだ。これは私が言っているのではない。『寶積経』が言うのだ。在家弟子もそうだ。よって学仏したいなら、自ら慎重にしなければならない。法と相応できず、自分の心を不調で、自分を静寂にできないなら、沙門功徳はない。

経典:「是故我応具阿練児行沙門義利。」

静寂な修行方式により出家人が為すべき義務を具備しなければならない。衆生利益の義務を負わなければならないと言うことだ。それはそなたが乞士だからだ。乞士ならば、なぜ自利だけで利他しないのか?一日中自分の修行がうまくいくように、修行で結果を出したい、金剛頌を念じたいとだけ考えているのか?弟子を取りたいと考えているのか?

経典:「謂繫念不乱。」

なぜ心が乱れるのか?沙門の義と利を行い、念頭をその上に固定すれば乱れることはない。自分の修行で結果を出したい、弟子を取りたい、衆生を済度させたいと考えさえすれば、心は乱れる。こんなにも長い間叱っている。衆生を済度せよとは、仏はまったく仰せでない。出家の功徳さえ全くないのに、修行で結果を出し、何を以って衆生を済度させるのか?功徳がなければ衆生を済度させることはできない。なぜ心が乱れるのか?かつての師父は『寶積経』を教えていない。ここでははっきり説いている。心を調伏し静寂にし、念頭をその上に固定しなければ乱れる。簡単に言えば、非現実的に理想が高すぎてはいけないということだ。私はしばしば少しバカになれと言っている。学仏人が自分が頭がいいと思うなら、永遠に学べない!世間的にはどんなに素晴らしくても、大学教授であろうと、博士であろうと、それは過去世の福報だ。修行とは関係がない。

修行するなら、仏の仰せを聞き、仏の仰せに従い行い、自己主張してはならない。そうでなければ修めることはできない。よって出家弟子が法門を求めているのに対して、ここでは教えるのだ。以前なぜ誰も言わなかったのか?それは出家すれば福報があると教えて来たからだ。福報はどうやって来るのか?それは出家したからか?だが仏は叱っておられる。できていないなら、鹿、猿、鳥、獅子と同じだ。できて初めて出家なのだ。なぜ修めても修めても、がっかりなのか?それは自分は修行し結果を出したいと考えるからだ!自分は修行で結果を出したいと考えるのは、我慢心の始まりだ。

私は、修められた、修行で結果を出せていると言ったことは一度もない。ただ自分は経典中での仏の仰せができているか、法王の仰せと相応できているか、と見るだけだ。相応できていても、私が言いつけに従っていると言うだけだ。そなた達は相応できていない。理由は非常に簡単だ—言いつけに従わない。自分のことを考え、自分のことを行う。「法座で何を言っているんだ。全然わからない!」と思っている。なぜ分からないのか?それは自分の欲望で聞いているからだ。理解できなくて当然だ。

経典:「得陀羅尼。修大慈大悲。五通自在。満六波羅蜜。」

「得陀羅尼」とは、咒語を得ることではない。一切の陀羅尼と咒語は全て一切の諸仏菩薩の慈悲、事業と願力だ。よって我々は一切の陀羅尼を持誦する時、我々に加持し、我々の心は、仏菩薩と同じ清浄な本性を回復するのだ。清浄な本性が顕露しさえすれば、真に陀羅尼を得ることができる。清浄な本性が顕露しないなら、得られるのは他人を呪う咒語だ。私はしばしば言う。持咒を夫に迴向し夫の聞き分けをよくし、子供に迴向し成績をよくしようと言うのはすべて、彼らを呪っているのだ。陀羅尼ではない。本来その子の福報は成績が悪い。だが身体が健康だと言う福報がある。身体が健康だと言う福報を転じて成績を良くしようとするなら、子供は早死にしてしまう。

このようにするのを好む人が非常に多い。大悲咒を念じて誰かに迴向し、さらに項目までも指定し、自分が思った通りになるよう観音菩薩に訴える。それは自分が観音菩薩の咒を念じるからだ。すべての諸仏菩薩の咒語は、我々の欲望を処理するのではない。だが咒語をたくさん念じれば、物事は自然に良くなると言う人もいる。当然良くなる。それはそなたの心が清浄になり、色々な事の干渉を受けなくなり、煩悩がなくなるからだ。これにより過ちを犯すことがなくなり、以前の債務をひたすら返済し、完済すれば何事もなくなってしまう。大悲咒を49遍持し、大悲水を飲めば、健康になれるなどと思ってはならない。そなたを健康にするのは修行のためだ。貯金に努力し家を買うためなどのためではない。経典ではこのように言っていない。

なぜ陀羅尼を得るのか?それは大慈大悲を修めるからだ。陀羅尼を得るのは、神通を得るからではない。これにより自身の修行を速くするのでもない。一切の陀羅尼は諸仏菩薩の大慈悲心がその中にあるからだ。清浄な心で持咒できなければ、大慈悲心を得ることはできない。大慈大悲、五通自在を得れば、神通は開かれる。求める必要はない。なぜ私は衆生の事が分かるのか?それはこのような方法で修めるからだ。

密宗には特別に神通を修める法門がある。だが特別に修める必要があるか?不要だ。陀羅尼を得て、大慈大悲を修めれば五通自在となる。なぜ六神通を修めると言わないのか?それは成仏していないからだ。仏だけが六神通を得られる。他の菩薩は、法身大菩薩でない限り六神通はない。菩薩果位まで証したとしても、十地菩薩に至るまでは、やはり五神通なのだ。五神通を有すれば、すでに十分にすごいことだ。だがすぐに五神通を得られるということではない。密宗には非常に多くの神通がある。ジッテン・サムゴンは飛ぶことができ、それは神足通だ。これらはすべて記載されている。

仏の仰せに従わず、心が乱れれば陀羅尼を得ることはできない。陀羅尼が得られないなら、大慈大悲を修められず、五通もない。なぜ五通が必要なのか?五通があれば、多くの人がそなたを信じ、弟子を多く取ることができ、自分の未来をはっきり見ることができるからではない。これらはすべて過ちだ。五通を得るのは衆生に利益するためだ。宿命通を有すれば、衆生が過去に為した因が分かる。そうでなければ、どの方法を用いて対治し救うかは分からない。

誰かが会いに来た時、母のために何ができるか、と聞いて来る人がいる。私はそれを聞くと、いちばんうれしい。母のために拝仏するように言う。先週中国の弟子が一人の女性を連れて会いに来た。彼女の母はガンの末期だ。加持が終わると、女性は、自分は母のために何ができるか、と訊ねた。私はそれを聞きとてもうれしく、拝仏するように言った。毎日2000回だ。彼女は「行います」と答えた。私は先ず200回拝むように言った。200回拝んだところで彼女の両足は震えていた。だが彼女が200回の拝仏を終えた翌日、母は苦痛もなくこの世を去ったのだ。よって私がそなたに拝仏せよと言うのは、一つには良くなり、一つには世を去るのだ。しっかり弁えなければならない。相対的にさまざまなことを省いてやっているのだ。

先ほど、2014年に法本を回収した弟子について言った。彼は昨日来た時にもやはり供養を渋っていた。そのため私は受け取らなかった。集中治療室に入院しており、さらに世話人を雇っているなら、一ヶ月の入院費用は少なくない。健康保険があったとしても、やはりカバーしきれない費用があり、非常に高くなる。私は彼が供養を渋っているのが分かったので、受け取らなかった。借りを作り、彼に嗔恨心を起こさせないためだ。だがこの者は、医療費は進んで払う。そなた達は皆こうだ。医療費は進んで支払う。供養は渋々だ。

今日は金について言うのではない。ある重点について言うのだ。仏法を用いて自分自身の心を調整し、自分自身が静寂を得て、すべての念頭をこれまで聞いた仏法に繋ぎ、縛り付け、自分の考え方を持たず、これにより自分の心を調伏する。自分自身の心を調伏できれば、乱れなくなる。そうでなければ、陀羅尼の真の重点—大慈大悲を得ることはできない。こうしなければ慈悲心を修めることはできず、そうでなければ神通自在を得ることはできない。自在とはなんだ?生死自在だ。五通を得た人は、自分自身の生死について自在だ。生死自在とは非常に心地よく死ねる、と言うことではない。死に対して恐怖がなく、さらに去るべきに去ることができ、戻って来るべきに戻って来られ、戻って来たくなければ戻って来ることはないということだ。私は現在これを修めている。

私は少しの神通を得ている。自分は生死自在だと感じている。2007年の閉関時に呼吸と心拍が止まったが、慌てず恐怖もなく、去りがたく感じることもなかった。ただ自在だけだった。そなた達のように、夫に伝えていないことがある、再婚してもいいと伝えていない、などと考えることはない。これこそは不自在だ。どうやって自分自身を自在にするのか?それこそ神通だ。神通がないなら、どうしたらいいのか?上師に神通があれば、亡者が死の際にどんな念頭があるのかが分かる。私の弟子は、先ほど言ったが、私は彼らに助念の際にどんな状況があると伝える。私に神通がないなら知ることはできない。4000km余り、こんなにも遠く離れているのだ。飛行機に乗ったって数時間かかる。だが神通があれば一秒もかからずに、すぐに分かる。

神通がないなら、どうやって亡者を助けるのか?亡者を助けるとは、私のすごさを示すのではなく、その問題を解決し、いわゆる行善の人が悪を為さないようにしてやるのだ。出家弟子はこの理念を今はっきりできただろう。なぜそなた達は修められないのか?それは誰も言わないからだ。リンポチェは出家弟子に意見を発表するよう指示された。出家弟子は「リンポチェの仰せは正しいです。心は悪を捨て善を行い、定から空性のなかに入らなければ、リンポチェのように衆生を広く済度させることはできません」とお答え申し上げた。

釈迦牟尼仏はすでに我々に修行の次第をお教えくださっている。だがこの次第の過程においては、当然上師による監督、助けが必要だ。自分だけではできないのだ。二人の出家弟子が叱られたように、彼らは自分はすでに修めたと考えているが、やはり叱責された。叱責しないなら、彼らは騒ぎ続け、『寶積経』の仰せにすべて背いてしまい、仏法は彼らと不相応となる。

「満六波羅蜜」いわゆる満とは、修行が満つるのではなく、円満のことだ。生活内とは波羅蜜だ。リンポチェは出家弟子に指示され六波羅蜜を念じさせた。「布施、持戒、忍辱、精進、禅定と智慧」と答えた。

いわゆる円満六波羅蜜とは、在家であろうと出家であろうと、生死を解脱するまでは、生活のすべてで、六波羅蜜を自分の思想と行動の準則としなければならないということだ。

昨日ある弟子一家に供養を禁じた。すでにマンダを献上まで伝法していたが、法本はやはり回収した。それは彼が布施を渋ったからだ。一日中、自分は金がないと言っている。今日の経典中でも叱っている。よって、リンポチェがそなた達を懲らしめるのには、すべて根拠があるのだ。そなたを好きか嫌いか、そなたが行った事が私を不快にしたとかではなく、経典内から出ているのだ。経典で講じないなら、私は言えないし行えない。経典を講じる前に私が先に行うだけなのだ。今日は講じた。振り返って見よ。私に罰せられたすべての弟子はすべて、この範囲内だ。円満六波羅蜜がなかったのだ。

円満六波羅蜜が全くないとはどういうことだろうか?自分が修めている時は六波羅蜜を修めていると考える。今日生活と関係があり損をしたなら、上師などどうでも良い、やはり自分の暮らしが重要だ。だから修めない。我々は在家の道場だ。だがある特色がある。出家の弟子がいる。男衆もおり、女衆もいる。経典の仰せをすべて行う円満な道場だ。在家衆が六波羅蜜を修めず、不忍なら、どうしようもない。

なぜ『寶積経』は眷属と金銭財産に対する見方をひたすら教えるのか?これも六波羅蜜だ。昨日一人の弟子が叱責された。この弟子は私の会社に勤めている。彼に払っている給料は、一般の人より少なくなく、反対に多い。それなのに彼は絶えず過ちを犯し、滅茶苦茶だ。給料に見合った働きをしなければならないと、私は言ったことがある。私の会社の、弟子でない社員は、ビクビクしている。それは自分が受け取っている給料に見合った働きをしなければならないからだ。私のあれら、いわゆる弟子は滅茶苦茶で私を苛んでいる。外から来てもらっている社員の方が返って忠誠心がある。彼らはミスをしないように慎重だ。それは給料が受け取れなくなることを恐れているからだ。だが、あれらいわゆる皈依弟子は恐れない。大したことがなければ懺悔すれば、雇い続けてくれると思っている。私の会社にかつて勤めたことがあるあれら弟子もこうだった。

私は彼らを怨まない。それは私の悪業のためにこれら悪弟子を雇うことになったからだ。なぜ弟子は私の会社で働くのか?それは彼らは、リンポチェの会社で働けば非常に良いと思っているからだ。リンポチェは慈悲深く、間違えれば教えてくれ、しかも毎週日曜日には必ず法会に参加できる。私はここで講じる。

経典:「不捨一切智心。」

この言葉は非常に説明しにくい。一切の智慧がある心を惜しむ。あらゆる念頭が自分自身にとって有利で、得になるなら、智慧ではなく、凡夫俗子輪迴の心だということだ。念頭が起きれば、それはすべて衆生利益、供養三寶を考える。それなら不捨一切智心だ。それは智慧を開いたので、少し多くの金を稼げ、他人と比較的うまくやって行け、他人と喧嘩せず、夫に愛され、姑に好かれ、というのではない。これらとは完全に関係がない。これは人が行う事だ。そなたは人だ。なぜ一日中人と争うのか?

智慧とはどういう意味だろうか?空性だ。空性を用いて智慧を説明するのでは、やはり不十分だ。よって仏は般若を仰せだ。般若は空性と智慧を含む。ここでは特別に不捨一切智心という。学び、行いの一切すべてが、智慧の心、つまり衆生利益の心に基づき発動され、利己的な見方がなく、自分の感覚でなんらかの事を行うということがないということだ。不捨とは、智慧の心を用いて事を行う機会があるなら、すぐに行い、放っておくことがないということだ。それは一切の功徳は智慧から発動されるからだ。人の欲望を用いて発動するなら福徳であり、功徳ではない。

仏はここで特別に仰せだ。前の方で修めたもので、最も重要なのは、後の方のこの言葉—不捨一切智心だ。上師が教え、講じ、開示する仏法は、智慧の心を開くということだ。この言葉は受け入れられない、その言葉に従わない、リンポチェの行いの助けに応じない、と考えるなら、この智心はない。智慧の心がないなら、自然に過ちを犯す。どんな過ちを犯すのか?法を犯したり、殺人を犯したりするのではなく、輪迴させる機会となる事だ。

経典:「修行方便。」

修行方便とは、適当または容易ということではない。一切の智慧の心に基づき修行しなければ方便を得られないということだ。方便とはどういうことだろうか?我々は種々の原因、因縁で修行するが、仏法根本の道理を離れない。例えば、私のこれら出家弟子は、寺が完成するまでは、私の家で暮らすしかない。これは方便法だが、究竟の法ではない。いわゆる方便とは、現在それを解決することができないため、先ずは都合をつけるのだ。その因縁と業力に基づき、先ずはちょっと助けてやる、ということだ。

私が衆生にポワ法を修め、彼らを阿弥陀仏のお側へ送るのも方便法だ。それはそこへ行っても必ず修めなければならないからだ。修めないなら成仏は不可能だ。私が送れば、すぐに成仏できるというのではない。私は送る。彼は蓮花の中に生まれる。日中花は開く。仏菩薩にとって夜花は閉じるが、彼は修めなければならない。ポワ法とは方便法だ。学仏、成仏する機会を与えるのだ。幸せな日々を送らせてやるのではない。

阿弥陀仏のお側へ行っても修めないなら、そこでは鳥が鳴き、木々の音がし、非常に多くの音が響き、彼を起こしてしまう、と経典ではいう。生前金銀宝石が好きだったなら、黄金で地面を敷き樹上に宝石を掛けて見せる。これも方便法だ。慣れ親しんだ過去世の暮らしを送らせるのだ。もし非常に美しい宮殿で突然暮らすことになれば、驚いて死んでしまうだろう。『阿弥陀経』で講じる阿弥陀仏の宮殿は、人類が想像できるものではない。天界の宮殿よりさらに美しい。それは阿弥陀仏の福報が集まっているからだ。仏が求めたのではなく、自然に生まれたのだ。

修行方便とは、そなたが考える方法ではなく、修行の面で、そなたが現在の生活条件に基づき便利に行える種々の法門だ。例えば、いま家を離れ山の洞穴に籠もることなど不可能だ。よって持咒を教える。現在もし誰かが離婚するように言っても、すぐに裁判になり、邪教だと言われるだろう。よって離婚してはならないと教えるのだ。『寶積経』は獄卒と思えという。これこそ方便法だ。だが、相手が獄卒で自分は囚人だというほどバカであってはならない。経典がお教えくださるのは方便法だ。だが究竟の方法ではない。だが方便法がないなら、究竟(成仏)を得ることはできない。

一足飛びに究竟だなどとはあり得ない。それは業力が身に纏い付いているからだ。出家には出家の業力があり、在家には在家の業力がある。すべて我々に纏い付いている。我々は種々の方便法を用いて、糾纏をゆっくりと解いて行くのだ。糾纏を解いて行くとは、煩悩を減らし停止させると、求めなくとも、清浄な本性が自然に流露してくるということだ。開悟を求める必要もない。糾纏が少なくなれば顕露する。再び糾纏を戻してはならない。すでに結婚したのならそれで良い。結婚したことを悔やんではならない。もっと早く知っていれば、コンピュータの中で白馬の王子を作り出したのに、と思うか?

方便法とは、学仏するなら家も子供も要らない、仕事もビジネスも要らない、すべて捨てて修行せよ、というのではない。それは現在のライフスタイルと環境のすべてを捨て去るのは不可能だからだ。だがそれらを利用して修行することはできる。これこそ方便法だ。

経典:「常以法施攝取衆生教化衆生。」

法施とは、阿弥陀仏を念じ経典を見るよう教えることではなく、衆生に苦があり難があり私に会いに来れば、私は必ず問題の一部を解決してやるように、内部には布施の一切(財施、無畏施、法施)を含むのだ。当然最も良いのは法施だ。昨日一人の母親が娘を連れて会いに来た。母は法会への参加を求めた。私はなぜかと訊ねた。母親は、暮らしを変えるためだと答えた。私は良いだろうと言った。母親は、十数年前に来たことがあり、今また来たと言った。私はそれを聞き、この母親は、私に面倒をかけに来たのだと分かり、どんな事だと聞いた。

母親は、娘が言うことを聞かないと言う。実は娘はよく言うことを聞くのだ。ただ化粧をするだけだ。私は、娘は何年生だと聞くと、高校二年生だと答えた。私は「母は、そなたが化粧をする、と言っている」と言うと、娘は「しません。口紅が少し赤いだけです。アイラインも引かないし、つけまつげもしません」と答えた。このような母はどうしたらいいのか?私でもいくらか調停できるだけだ。これこそ法施摂受だ。言い終わった後、私は、これで法会に参加する必要はないな、と言った。彼女達は笑って楽しそうに帰って行き、本当に法会に参加しなかった。明確にすれば法も法会による摂受も不要なのだ。

よって他人に読経するように言えば、言うことを聞くと思ってはならない。現在の煩悩を解決してやれば、その人は仏菩薩は慈悲深く上師は慈悲深いと思う。それならこれも摂受だ。この言葉を言いさえすれば、未来世で機会がある。法会に参加するよう無理強いすれば、この母はいかにして処理するかを知ることができない。この母親は、娘の化粧のことにさえこんなにも執著しているのだ。どんなことを処理できるだろうか?私のように、こんなにも開けた父親なら、どうと言うこともないと思う。付けまつ毛もつけず、口紅を赤く塗っているだけなのだ。母親は気に入らない。こんなに赤くする必要はないだろうと思う。だがそれが今の流行なのだ!

上師であることの方法は一つだけではない。常に読経するよう言っても、読経が続かない人も本当にいる。いつも法会に来ると言うが、法会に来る必要がない人も本当にいる。上師は別の方法を用いて解決してやる。問題が解決されたなら、いつか考えがはっきりすれば再来すればよい。再び来る時には、欲望のためではない。

「常以法施攝取衆生教化衆生。」これこそリンポチェが行わなければならない事だ。摂とは、すぐに皈依を求めるのではない。諸仏菩薩の功徳大海に摂させてやることだ。その人の智慧がいつか突然開け、修行したくなった時、すでにこの種子を蒔いてやっているのだ。善の種子を他人に蒔いてやる、先ずは読経するように勧めるとたくさんの人が言う。だが相手が読経しないなら、返って相手を害することになる。簡単に話を戻して言えば、そなた達これら出家弟子は、五通がないなら、度衆を学んではならない。それは相手が何を望んでいるのか、そなたには分からないからだ。

昨日、あの者はどれだけ恭敬だったことか。私の面前に跪きハラハラと涙を流し法会への参加を求めた。そなた達なら「良いだろう!明日法会がある。来れば良い!六字大明咒を唱えれば、娘は言うことを聞くようになる」と言うだろう。私に神通がないなら、そなた達と同じように言う。別の方法を用いて、問題を解決してやれば、自然に三寶を賛嘆するようになり福報がある。福報があるなら、いつか絕対に学仏に来る。私にではなく、他の人に従うかもしれない。だが少なくとも私はこのドアを開いてやった。私は摂受を入れてやったのだ。神通がないなら、どうやって処理してやるのか?

数週間前に、ある背の高い者が、しばしば皈依を求めて来たが、私は応じず、出家弟子にちょっと話し相手になるように言った。出家弟子は非常に多くの事を遮ってくれた。それは私が話したなら、他人は、リンポチェは無慈悲だと言うからだ。出家弟子は見た目が厳しいので、他人は直接言うことを憚るだろう。これも摂受の方法の一つだ。少なくともこれにより彼は自分が間違っていたと知り、以後も「私は法を学びたいので教えてほしい。教えないのは無慈悲だ」と考えることはない。これは謗仏だ。根器が正しくないなら、本当に教えないのだ。

仏が講じる事はすべて、前の方で講じたことに基づく。前の方ではっきり明確に仰せだ。心が乱れているなら、自然に陀羅尼を得られない。陀羅尼を得られないなら、自然に大慈大悲を修めることはできない。大慈大悲を修められないなら、五通は開かれない。五通が開かれないなら、当然六波羅蜜を円満にできない。六波羅蜜を円満にできないなら、一切の智心を絕対に捨ててしまう。非常にはっきりと言っている。よって自分は修めていると思ってはならない。そなた達は修めていない。『寶積経』の仰せに基づけば、そなた達は何を修めているのか?人天福報を修め、次の一世で再来して人となる。よって仏はひたすら叱責されるのだ。止まることはない。

いわゆる教化衆生とは、その地方の風土民情に基づき教えると言うことだ。チベットでは現在煙供が流行している。経典内には煙供はない。だが蓮師がチベットに入られ、これら衆生を済度するため、煙供を残されたのだ。だがその内の祈禱文は変えられ、供養の対象も変えられ、仏法を用いて供する。煙供は本来はチベット原始宗教ボン教の修行方式だった。道理に照らせば、蓮師は用いてはならないと禁止することもできた。だが蓮師はそうなさらなかった。これを残された。だが念じる祈禱文は異なる。

教化衆生とはいつまでも変わらないのではない。例えば、中国仏法はインドとは異なる。それは中国人の思想が異なるからだ。チベットのある地方でも異なる。いわゆる異なるのはすべて方便法だ。仏法が異なるのではない。経典はここで教化衆生と説く。それが理解する方法と事情に基づき、仏法を基礎として、善悪に対するその種の分別心を教導し溶かすのだ。衆生は彼此を分けない。

経典:「不捨攝法。修行六念。」

上師が行う一切はすべて仏法内で衆生を摂受するためだ。前の方で講じたように、諸仏菩薩の功徳大海内でだ。六念処とはなんだ?出家弟子が「念仏、念法、念僧、念施、念戒、念天です」とお答え申し上げた。リンポチェは開示くださった。最後の一個が念天だ。経典内では本来我々は人天道に生まれられないと言う。それは人天道はやはり輪迴するからだ。だが非常に多くの天界の衆生が仏法を護持し、仏法学習の因縁を人類に持たせてくれている。

顕教を学んだ者はみな韋馱菩薩を知っているだろう。韋馱菩薩は天帝だ。天の王だが、仏法護持を発願なさった。いわゆる念天だ。天が地球を保護してくれないなら、我々人類はとっくにいなくなっている。いわゆる念とは、一日中その法号を念じるのではなく、感謝の心で仏法僧天等一切を心に刻むのだ。よって、天は不公平だ、天は自分に借りがある、天はこんなにも残忍だ、などと決して言ってはならない。それは、これこそ天を罵っているのと同じであり、因果を信じていないということだからだ。業力を信じていないということだ。あらゆることを天のせいにする。『華厳経』ではある一段で特別に説いている。みなしっかり心に刻んでおくように。釈迦牟尼仏は「動機関に長けている人は天に懲らしめられる」と開示くださる。機関とは心に計謀が非常に多く、心の中で一日中自分が得をすることばかり考え、自分が利益を得ることばかり考え、他人が死のうが生きようがお構いなしだ。このような人は天に懲らしめられる。

別の経典では講じない。『華厳経』だけだ。計謀を好み、自分自身の利益を貪る者は、在世の際にどれだけ羽振りがよかろうと、死ねば何事かがある。そなた達も聞いたことがあろう。台湾には非常に多くの例がある。屍体を十数年も放って置かれたものもいる。

仏菩薩と護法はそなた達を罰しないが、天はそなた達を懲らしめる。『華厳経』では特別にこれを言う。釈迦牟尼仏ははっきり明確に仰せだ。そなた達が過ちを犯せば、諸仏菩薩、上師、護法はそなた達を罰しない(世間護法は罰を与える)が、絕対に天に懲らしめられる。それはそなた達これらの人が仏法を破壊しないように、天は仏法を護持しているからだ。よってそなた達を懲らしめるのだ。

どうやって懲らしめるのか?軽いなら、破産させる。いくらか面倒で、深刻なら、早めにこの世を去らせる。なぜ毎日訳も分からず人が死ぬのか。それはこれら事情と関係がある。『華厳経』のこの段を、私は非常にはっきり明確に覚えている。よって一日中謀を巡らしていては行けない。あれこれ考え、どうにかして自分が得になるように考え、なんでも欲しいが、損することだけはしない。これはそなた達の習慣だ。損をしようとしない人は、絕対に謀略を巡らす。他人に損失を与え自己も損失を被る。考えてみよ。この手のことをどれだけ行った?よく考えてみるがいい。行ったことがある者は、以後二度と再び行ってはならない。この一生でいくらか損したとしても、損すればいいのだ。返済と考えれば良い。家族にいじめられるなら、いじめられれば良い!

我々が今日経典がお教えくださる一切に基づき、自分自身の心を調整しようとするなら、心は静寂を得る。それならどこになお苦があるのか、どこになお精神を病んだ人がいるのか?人はなぜ精神を病むのか?求めても叶えられず、ありとあらゆるものを求め、得られなければ毎日考える。仏ははっきり仰せだ。一切の病は心から始まる。心に病がないなら、身体に何か異常があっても、生命を維持できる。心に病があるなら、毎日念咒拝仏読経しても役には立たない。この段はみなにとって非常に重要だ。

経典︰「勤進修聞。」

自分は六念を修行し、非常に真面目に修行に精進している。「聞」とは仏法を聞くのだ。非常に多くの人が、日曜日一回ぐらい聞かなくてもどうと言うことはない、と思っている。「HPを見たって同じじゃないか」と思っている。だが私の表情や感覚はHPでは得られない。生で聴くのと、文字を通したのでは差があるのだ。忙しいので来られないと言う者は、勤進修聞ではない。

経典︰「繫念修集正相応行。」

すべての念頭は何を修めるのか?一切の正確な相を集中し行うべき行為を行う。正確の相とはなんだ?修めれば、すぐに菩薩の相、仏の相が現れると言うのではなく、正確に相応する一切の行為を得られるのだ。前の方で言ったように、我々の念頭はこれら場所にあるべきなのだ。毎日仕事をしなければならず、勤めに出なければならず、家庭内の事を処理しなければならないとしても、これはそなたの業力だ。修行ではない。念頭を前の方での仏のお教えに繋ぐなら、心は調整され乱れず、陀羅尼大慈大悲を得られる。一切の修行の行為に正確に相応する。何が正確なのか?我々の現在の修行は、短い数十年の暮らしのためでも、健康のためでも、幸運のためでも、死を迎える時よく死ぬためでもない。すべて違う。この一生で輪迴を解脱する機会を得るためだ。こうでなければ正確な相応法ではない。相応し私が開悟し、相応し現在観世音菩薩を目にでき、あれもこれもと⋯⋯言うのではない。全部誤りだ。

仏が講じる正と邪は良い悪いではない。正とは良い人で、邪とは悪い人だなどと思ってはならない。非常に多くの邪師の福報は非常に大きいのだ。仏が仰せの正と邪は、輪迴の継続は邪で、輪迴しなければ正だ。これは仏のお教えだ。仏は、我々が行う事に期待しておられる。我々の誰でもが大金持ちになることを期待しておられるのではない。福報を修められるなら、次の一世では金持ちになれる。これは当たり前だ。大富貴を得れば、広大な衆生により多く利益できるからだ。仏は「在家可以聚財,出家不能聚財。」と仰せだが、聚財(財を集める)間に、布施供養を行わなければならない。どんなにたくさんの財を集めたところで、死の際には持って行けないのだ。

経典︰「不証果智。」

私はしばしば言う。自分は何を証でき、どんな果報が得られ、どんな智慧が開ける、などと願ってはならない。この言葉は叱っている。果報とは求めるものではないのだ。植えつけた因によって、それに見合った果が得られる。自然に発生するもので、求める必要はない。開悟できるかどうかも自然発生だ。求める必要はない。どんな法門を特別に修めれば開悟できると言うものではない。これは非常に自然なのだ。そなたと法が相応すれば自然にそうなるのだ。法王が、私は自然に修行で結果を出した、と仰せのように、「ポン」と一瞬で修行で結果を出したのではない。清浄な法性、本性を用いて修法し学仏し、非常に自然に証したのであり、求める必要はなく、わざわざ思ったのでもないと言うことだ。一日中法王に「私に何々の法を伝え、私を早く成仏させてください。早く開悟させてください」とお願いしたのでもない。ミラレパ尊者は自分が殺人の悪業を犯したのを知り、マルパ尊者に求めたが、「成仏の方法をお教えください」と一言だけ仰せになった。だが「この一世で必ず成仏させてください」とは仰せでない。そなた達、これら出家人は何を以ってこの一生で必ず開悟できると言うのか?一日中念頭内で他人とあれこれ争い、あれこれ言っている。ここのすべてに背いている。

「不証果智」とは、証果は不要で、開智慧も不要だと言うのではない。念頭をここに置いてはならないと言うことだ。現在出家衆はみなこの病に侵されている。「私は証果が欲しい、智慧を開きたい」在家衆もいっしょにこの病に侵されている。何を相応というのか?仏菩薩と上師のほんの少しでもできれば相応だ。私は以前言ったことがある。ある一人の大成就者が「今年は去年より慈悲が多くなったか、過ちが少なくなったか、自分を見るのだ」と仰せになった。これこそ相応だ。そなたはすぐになんでも良くなることを望む。これこそ不相応だ。

この段でははっきり明確に言っている。学仏人の修行の過程と心構えは、必ずこうでなければならない。二つめのやり方はないのだ。仏ははっきり明確に仰せだ。順序に従い一歩一歩行うのだ。そなた達は「早く証悟したい。すぐに修行で結果を出したい」と毎日願っている。何をしたいのだ?度衆したいのか?だが神通がなく慈悲心がなくて、どうやって度衆するのだ。「私は衆生を率い、衆生に利益したい」という人もいる。だが仏が講じる方法に従って修めていないのに、どうして可能なのか?不可能だし、滅茶苦茶だ。邪見だ。

「不証果智」とは、証は不要だということではない。求めず、この事について考えず、自然に得られるということだ。私は学仏を開始した頃、いつかリンポチェになれるなどと考えたこともなかった。これこそは証せず、思わないと言うことだ。なぜ思わないのか?私は因果をはっきり弁えているので、行うだけで良いのだ。いつかあるかもしれないが、私も分からない。ないかもしれないが、それも分からない。それは仏だけが、このような神通能力をお持ちで、そなたの生生世世の善悪業をご存知で、そなたの善根がどうなのかをご存知だからだ。過去世で私は善根が良かったので、法王に御目に掛かる機会を得て、直接弟子にしていただけたのだ。求める必要などない。そなた達は私に皈依を求め、どんなに求めても応じられるとは限らない。それは根器がないからだ。

こんなにも多くの弟子を受け入れてどうするのか?私は言った。罰としてこんなにも供養を禁じている私のような上師はいない。別の罰を与えることもできる。罰として供養を禁じるなど、台湾中を探しても聞いたことはあるまい。こんなにもバカな人はいない。私と言うこの人間は、金に仇があるのだ。そなたたちは、リンポチェは商売をしている、などと今後陰口を叩いてはならない。私は在家者だ。ビジネスしてもいいのだ。私は稼いだ金で多くの事を行なっている。そなた達も知っているだろう。行善不欲人知(善行は他人に知らせずこそ善行なり)だ。私が金に執着するなら、罰として供養を禁じたりしない。どこにそんなバカな人間がいるのだ?現在どれだけの人が供養を禁じられているのか?弟子は「113人が供養を禁じられています」と報告申し上げた。

私は言ったことがある。一人の人間が一ヶ月5千元供養すれば、少なくとも60万元だ。ちょっと多めに供養する人がいれば、100万元になるかもしれない。どうだ?私はどれだけバカだろうか?この場にいる人の中で、一部の人はこの数字の金額を供養したことはあるが、他は全くない。そなた達に金について言うのではなく、教えるのだ。私はひたすら演技してそなた達に見せているのだ。私は金に仇がある。そなた達はこの部分で私に言いがかりをつける。家を供養され、私は返した。どれだけの家を返したか忘れてしまったほどだ。すべて受け取っていれば、現在少なくとも一億元の資産があるだろう。

現在土曜日そなた達は苗栗へ寺の建設現場を見学に行く。大型バスの料金は私が払っている。「なぜ寺を直接供養しないのか?」と思う人もいる。それは衆生の心は種々の方法で摂受する必要があるからだ。私は先に自分自身を犠牲にする。彼らは、実はこんなにも良いのだと目にする。そうでなければ、後悔しないでこの事を行うことはできない。付き合いでこの事を行う人もいる。だが見せれば、後悔せずに、賛嘆し、福報が起き出す。私は一週間に使う金は、10万元に満たない。みなを喜ばせ、三寶を尊重させるのだ。どうして喜んでしないことがあろうか?これも方便法の一つだ。

よって私に金について言うな。一週間に私は少なくとも3万元から4万元使う。一ヶ月に12万元だ。何に使うのか?寄付が多くなったと言うこともない。以前と同じぐらいだ!(担当の弟子が「同じぐらいです」とお答え申し上げた)なぜ増えていない?それは台湾では、寺に寄付する機会が非常に多いからだ。そのため、みな慣れているのだ。突然少し異なることをして、これは違うぞと感じさせ、護持を続ける機会を持たせる。私は遠くを見ている。近くは見ていない。そなた達は一日中細かいことにこだわっている。なんなのだ?

私の金の内訳をそなた達に示そう。私がどうやって金を使っているのか。そなた達はどうやって金を節約しているのか。適当に算盤を弾いても、一ヶ月に百万元余り入ってくるのが少なくなる。そなた達は百万元を供養したか?していない。していないなら、私につまらないことを言うな。供養する機会があるなら供養し、布施する機会があるなら布施する。金がないとひたすら言わないことだ。金がないと言えば、金がなくなってしまう。食べるに困るほど貧乏した経験が私にないなら、今日そなた達を批判する資格はない。私は食べるに困るほど貧乏だった。子供は証言できる。古くから皈依している弟子も証言できるだろう。私は突然金持ちになったのではなく、詐欺で金を作ったのでもないし、そなた達の供養に頼っているわけでもない。それは修行で結果を出したので、自然に非常に多くのものが集まってきて、福報が起きたのだ。リンポチェが見本をそなた達に見せているのだ。それなのに、そなた達はまだ恐れている。それはどう言うことだ?修めていない!あれもこれも心配している。よって今日仏はひたすらここを叱責なさるのだ。

経典:「守護正法信於業報。」

守護正法とはなんだろうか?出家であろうと在家であろうと、我々が行う一切の行為は全て仏がお教えくださる方法から離れてはならず、自分自身の考え方を加えてはならず、仏法を神明として拝んではならないということだ。「あなたを拝むのだから、与えてくれなければならない。私が求めるのだから、与えてくれなければならない。あなたの会社へ来たのだから、私は心ゆくまで満足したい。私が何を欲しいか、あなたは私の言うことを聞かなければならない」これこそ正法ではない。正法とはなんだ?どうやって輪迴を離脱するかを教え、以後再び輪迴しないよう教えるのだ。

守護とはどんな意味だろうか?皈依して弟子になったのに、出家相を現しているのに、まだ正法を守護せず、まだ滅茶苦茶を言って修めているのか?これは仏が叱っておられるのだ。誰も正法を守護しないなら、仏法はなくなってしまう。なぜ直貢噶舉の多くの大リンポチェはみな「リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は古チベットの教法だ」と仰せなのか?古チベットの教法とは何を教えるのか?守護正法だ。それは『寶積経』で言うからだ。名聞利養(世間の名声を得たいという欲望と財産を蓄えたいという欲望)のために信衆に阿諛奉承(身分や権勢のあるものに媚び諂う)してはならない。阿諛奉承とはなんだろうか?そなた達が欲しがるものは全て与える。名聞利養があればそれで良い。私には名聞利養があるか?私は有名でもなく、金に聡くもない。誰かを助ければ、少なくとも一、二百万元は節約してやっている。あの者の妻は、心臓に病があったが、今は良くなっている。あの者は最初から金のことをいい、自分はとても貧乏だと言っていた。金がないなら供養しなくとも良い。使える金を残してやった。

昨日ある弟子が来て、供養を再開させて欲しいと求めた。八年間供養していないと言うのだ。「それは良い。金が貯まっただろう。求める必要はない」と私は言った。彼の恒心にも感服した。八年間も供養せず、こんなにも快適に暮らせているとは。リンポチェに供養しないなら、必ず何かが起きて間に合わなくなるとついに分かったのだろう。正法を守護しないなら、どうなるのか?他人が滅茶苦茶言うのを聞き、母親が倒れたあの弟子のように、他人の言うことを聞き、仏法を聞かずに精進しなかった。数年も無駄にしたのだ。

「守護正法信於業報」とは、自分の身の上に起こったことは、自分自身の業、果報で、上師とは関係がないと絶対に信じなければならないと言うことだ。上師を怒らせたので、上師に罰せられたなどと思ってはならない。これはただ自分の本来の業力が戻っただけなのだ。『地蔵経』ははっきり明確に説いている。すべての成就者と菩薩はそなたの業力を遮り、跳び越えさせて修行させる能力がある。だが消滅させてくれるとは仰せでない。そなたの業力を消滅させ、そなたの果報を消滅させるとは経典は言わない。遮ると言うのだ。跳び越えさせてくれるのだ。跳び越えるなら、もちろん跳んで戻って行けるだろう!どうやって跳んで戻って行くのか?上師に対して不恭敬で上師を疑うなら、障礙を遮るこの能力はすぐに消失し、すぐに取り消されてしまう。それはそなたが不信なので、この加持力がすぐに消失し、本業に戻り、そなたが本来あるべき業力が全て来るからだ。このような業力はそなたのだ。誰かが突然そなたに与えたのではない。三寶に不恭敬なので、地獄へ堕ちるのではない。三寶とは関係がない!そなた本来の業力なのだ。だがそなたが三寶に恭敬なら、三寶の慈悲力と摂受力は業力を遮ってくれ、修行する機会を得る時間がもらえる。

2007年私には死の業力があったが、私が三寶に対して恭敬で、衆生に対して恭敬だったので、それが遮られ、私は今でも生きている。そなた達は何を以って三寶に遮ってもらうのか?そなた達は自分は三寶に対して恭敬だと言うが、上師に対してさえ不恭敬なのに、三寶に対して恭敬でいられるだろうか?誰がそなたに仏法を教えているのか?私だ!釈迦牟尼仏が出て来て教えてくださるのか?アキ護法が出て来て教えてくださるのか?先生に対してさえ不恭敬なのに、諸仏菩薩に対して恭敬でいられるだろうか?諸仏菩薩はお話しにならないので、恭敬でいられる。話しをする者には、そなた達は不恭敬だ。なんとも奇怪な論理ではないか!そなた達の思想は実に無茶苦茶だ。そのため仏はひたすら叱責なさるのだ。後の方にも山のようにある。

経典:「是名正見」

自分の業力を信じ、衆生の業力を信じ、一切の自分の果報と衆生の果報を信じたとしても、そなたは正法を守護しなければならない。こうでなければ正見—正確な見解ではない。いわゆる正確な見解とは、名相を用いて解釈するのではなく、いくつかの名相を覚えるのでもない。先ほどの「六念」を私は覚えていなかった。それは私は出家者ではないからだ。出家者なら必ず覚えていなければならない。私は在家だ。私は覚えていない。だが私はそれを用いるところは知っている。私の正見は、その重要性を知っているからだ。いわゆる正見とは正法を守護し、業力果報を深く信じることだ。そうでなければ正知正見ではない。自分は経典の説明で非常に優れていると言ったり、一つ一つの名詞を言うことができれば、それを正見だと言うのではない。そうではない。名相を理解しているだけだ。だが真意は理解できていない。

簡単に言えば、修行の経験を通さないなら、『寶積経』を開示する資格はない。そのような経験をしなければ理解できないのだ。私はこのようにして修行で結果を出したからだ。仏の仰せを聞き、上師の仰せを聞き、自分自身の心を調整し心を不乱としなければ、咒語の功徳を得て、大慈大悲を修めることはできない。つまりこのようなのだ。そのため、私は非常にスムーズに講じることができる。この段階を経ていないなら、話をすることはできず、名相を用いて名相を説明し、名詞を用いて名詞を説明することになる。たくさんの名詞を聞いた挙句に、最後にはすべてが名詞だと言うことになる。知識は豊富になるだろう。だが修行はできていない。仏法とは絕対に一般世間の学問ではない。名詞を用いて別の名詞を証明するのではない。最も重要なのは、修行の過程で仏法を離れるか離れないかだ。

「守護正法信於業報」でなければ正見ではない。はっきり認識するように。そうでなければ、修行で誤り、それなのに気づかず、修行していると思い込み、自分は仏法を護持していると思ってしまう。守護正法とは、前の方で講じたあれらだ。念頭を仏が講じる一切の方法に繋がなければならない。別の念頭があってはならない。そなたが行う事は世間の事だ。出世の事と混同してはならない。我々は出世の思想を用いて入世の方法に向かい合う。出世の念頭と思想を持たずに世間の法に向かい合うなら、一日中過ちを犯す。なぜ過ちを犯すのか?非常に簡単だ。自分のことを考えるからだ。

私の会社で滅茶苦茶な仕事をすると、先ほど弟子を叱ったが、なぜ滅茶苦茶な仕事をするのか?「リンポチェは慈悲深い。間違っても許してくれるだろう」と思っているからだ。この弟子は、自分の過ちを分かっていない。私の会社の非常に多くの社員は、この弟子のために後始末をしてやっているのだ。会社はたくさんの時間と経費を浪費していると言うことだ。因果論からすれば、この弟子は、自分の問題を解決してくれたこれらすべての人に借りができたと言うことだ。次の一世で返さなくともいいのか?絕対に返さなければならない。どうやって返すのか?畜生になって返すのだ。他人に借りがあれば、その人のために仕事をすればいい、などと思わないことだ。みな給料をもらっている。他の人は会社の決まりに従って仕事をしているのに、この弟子は仕事をするのに会社の決まりに従わない。過ちが深刻なら、会社は倒産してしまうかもしれない。そうなればたくさんの人が仕事を失うのだ。

なぜ在家の者をひたすら諌めるのか。働いて雇用主から給料をもらう。この雇い主が法を守り、因果に背くことをしていないなら、会社の決まりに従い事を行わなければならない。何かあれば教えを請う。自分勝手にやってから後で言う、と言うのはあってはならない。経典の仰せと同じだ。自分勝手に自分の考え方を用いて修行してはならない。仏の教えに従い行い、そなたの方法を用いて修行してはならない。この方法に従い一歩ずつ行わなければ機会はない。そうでないなら、不可能だ。浄土宗では三福を修める。それはすべてこの範囲だ。すべては釈迦牟尼仏が講じる仏法なのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


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2019 年 12 月 29 日 更新