尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年10月20日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

先週『寶積経』を開示した際に、在家菩薩は、地位が定まっていない比丘は衣服や缽などが必要なので布施しなければならず、しかも摂受が必要で、争わないようこれら出家人を諌めなければならない、と言った。在家人が、出家人が二派に分かれているのを見て、それに倣って二派に分かれているところもある。在家人は當然なんらかの利益のために諌めるのではなく、誰が正しく誰が間違っていると言うのでもなく、完全に釈迦牟尼仏がお教えくださる仏法と戒律に従い諌めるのであって、「こんな様子であってはならない!少し我慢しなさい!あの人はどこでもこうなんだから!」などと言うのでもない。これは争いというので、諌めるというのではない。

衣服、袈裟を出家人に布施することを、福田を植え付けるといい、袈裟を福田衣という人が多い。だが『寶積経』にはこのように書かれていない!いかにして布を福田に変えるのか?剃頭し出家戒を受けさえすれば、着ている服はすぐに福田衣になるのか?『寶積経』の開示に基づけば、出家衆が菩薩道を修めないなら、福田衣を着ていることにはならない。出家衆が、在家衆が佈施したものに対して煩悩、想念、行妄語などを起こすなら、この布がどうして福田衣に変わるだろうか?

1997年まで、私は、誰からのものであっても供養を受ける勇気はなかった。それは修行が良いとか悪いとかではなく、供養してくれた人に返す福報があるかどうかが自分でも不確かだったからだ。自分の福報が十分かどうか?誰かが施してくれたなら、捨てなければならないのだ。そのため出家人はよく考えなければならない。誰かが布施してくれた時、自分はその人のために何を捨てられるか?読経し迴向し、持咒を巻き舌で迴向すれば捨だと言うのではない。そうではない。そなた自身の福が十分でないなら、そなた自身の福報が不十分ならどうするのだ?そのため、いわゆる修行人の中には、後の方になって身體を壊すものもいる。

私は、年はとっているので、いくらか小さな病はあるが、やはり仏法を弘揚することができる。なぜ健康を害する人がいるのか?原因は非常に簡単だ。それは小さな福報を与え切ってしまい、使い切ってしまって、なくなってしまっているからだ。なぜ与え切ってしまえば、なくなってしまうのか?それは菩提心を発して修行していないからだ。菩提心を発して修行している在家衆、出家衆だけが、その福だけは使い切ってしまうことはない。この福を使って何をするのか?修行に用いるのだ。

釈迦牟尼仏は出家衆に特別に仰せになっておられる。衆生が衣服を布施してくれたなら、一切の貪念、煩悩或いは過咎を抱いてはならない。こうでなければ福報を返すことはできない。簡単に言えば、一切の出家の戒律を守らなければならないということだ。出家とは本來、一切の世間事を捨てなければならない。だが、やはり人の身體があるので、衣服を着ないわけにはいかない。そのため在家の布施を受けるのだ。

在家、出家と二つに分けるのではない。それぞれ因縁が異なるだけなのだ。この一生で出家の縁があれば出家する。実は在家、出家は助け合って修行している。出家衆は、在家衆の布施がないなら、十分な資糧がなく、修行は大変に厳しくなる。在家衆は、出家衆が布施させてくれないなら、福田を植え付けることができない。そのためお互いさまなのだ。どちらが偉く、どちらが優れている、ということではない。

自分は布施したので、すばらしいと思っている人が多いが、実は別にすばらしいということはない。反対に、他人の布施を受け、その人に福田を植え付けさせてやったので、すばらしいと思っている人もいる。これら考えはすべて過ちだ。なぜ私は1997年まで衆生の供養を受ける勇気がなかったのか?それは自分自身に福があるかどうかが不確かだったからだ。この種の福は人天福報ではなく、修行者が得られる福報だ。この種の福報がなく他人の供養を受けたなら、小は一本の糸であろうと返さなければならない。出家相を現していれば供養を受けるのは当たり前だ、などと思ってはならない。これこそ修行人でないということだ。

釈迦牟尼仏はどのようにすべきか、特別に出家者にお教えになる。在家衆はこれにより、出家者があれこれと選り好みをしているかどうかをチェックすることができる。布施を受ける時に「師父はこの色はお好きでない。師父はこの材質の布をお好みだ。師父は、あのような服は着ていて心地よいとおっしゃっていた……」などという人がいる。それも、師父が言ったのか、徒弟が言ったのかも分からない。このようにあれこれと選り好みをするなら、福田はない。

出家者がどのような衣服を着るかは、漢伝仏教、チベット仏教ではすでに制度化されている。在家衆が衣服を布施しようとするなら、どのような制度なのかを伝える権利と責任が出家者にはある。どの布がいいなどと選り好みするのではない。福報があるなら、良い布が得られたどころではなく、高級ウールのカシミアであろうと供養してくれる人がいるだろう。だが福報がないなら、カシミアを受け取ったとしても焼けて穴が開いてしまうだろう。そのため、布施を受ける心構えとして、あれこれ選り好みしてはならず、不満足だという一切の念頭を起こしてはならないと釈迦牟尼仏は特別に出家衆に伝えるのだ。

1997年まで供養を受ける勇気は私にはなかった。法王が受け取っても良いと仰せになって初めて、私は供養を受け取れるようになった。私が供養を喜んで受け取るなどと思ってはならない。返すことができないなら、再來しなければならないのだ。みな気が付いているだろう。私を供養する、或いは寺を供養する人の多くに、予想もつかなかったことがしばしば発生している。もちろんすべて良い事だ。

私が最後にチベットで私の皈依師—テンジン・ニンマ・リンポチェにお目にかかった時、リンポチェは突然、侍者にお命じになり、関房內で10分近くも探させ、500人民元を探し出して、私にくださった。私は最初とても受け取れなかったが、リンポチェは「絶対に受け取れ。受け取らないなら絶交する」と仰せになった。だいたいこのような意味だ。そのため私は言いつけに従い受け取った。これは非常に深い含意がある。どこが深いかを、そなた達に説明するのは良くない。そうでなければ、理解できない人の中には「何がすばらしいのか?たったの500人民元じゃないか!」と思う人もいるだろう。よって私は言わない。だが法王と、私の二人の師弟はその深遠な含意を知っている。これは一般の金銭の往来ではないのだ。ご老人がすべての財産を私に譲ってくれた、ということもできる。一人の修行人が財産を譲るとは、どういうことだろうか?表面的には金銭だが、それだけではない非常に大きな意義がある。

経典:「出家之人隨所乞食隨所敷具。」

この言葉が表すことは、今では難しい。なぜなら今では漢伝でもチベット仏教でも、出家者はみな寺で暮らしており、外に出て乞食(こつじき)するものはほとんどいないからだ。釈迦牟尼仏が仰せの「隨所乞食」とは、どこかへ行って、そこで誰かが何かをくれたなら、それを受け入れる、ということだ。そなたは受け入れるのだ。屁理屈をこねて、「見てみろ!出家者は絶対に菜食だなどと誰が言ったのだ?与えればなんでも食べるじゃないか」という人もいる。インドでは昔、肉が食べられる機會は非常に少なかった。現代でも、インドでは菜食人口がやはり非常に多い。特に南インドではほとんどすべて菜食だ。

かつての台湾で農村に暮らしていた人が、毎食肉が食べられていたか?年末年始など特別な時でなければ肉を食べられず、普段肉を食べる機会はなかった。乞食の際に本当に肉が与えられたとしてもいいように、釈迦牟尼仏は一つの戒を開かれた。それは三浄肉と九浄肉だ。三浄肉とは簡単に言えば、自分自身は殺さず、他人に殺すことを命じず、殺されるところを見ない、というものだ。これは出家衆が乞食する時に何が与えられるか分からないためだ。仏の戒は、人から与えられるものを食べよ、というものなので、開かれた戒なのだ。

そなた達が北インドへ行った時のように、ブュッフェで食事する際に、あれこれ選ぶなどということはあり得ない。あの日私が男性出家弟子の頭を叩いた時、自分は出家者だ、誰が叩いたのだ?と訳も分からず言っていたが、なぜ叩かれたのか、今分かったのではないか?リンポチェはどんな理由で叩いたのだ?それはこの一言だ。出家者には、あれこれ食べ物を選り好みする資格はない。あるものを食べるのだ。だがもちろん毒薬や不衛生なものを食べよと言ったりはしない。私自身はブュッフェで食事しない。選ぶのが面倒だからだ。運ばれてきた料理を、食べられるものを食べる。好きではないなら、少なめに食べるだけだ。

いかなる事にも根拠がある。特に出家衆は食べ物を選り好みしてはならない。実は心に栄養がないなら、何を食べても栄養にはならない。これはどういう意味だろうか?それは心の中に福田がないなら、何を食べても福はないということだ。肉を食べたことがある者はみなたくさんの病にかかる。そなた達はみな経験者だ。

字面から解釈すれば、かつての出家者は乞食しなければならなかった。だが今では乞食しない。それなら、廚房で作られて運ばれてきた食物をあれこれ批判することはできない。現在寺ではすべて大廚房で料理している。在家居士が料理していることもある。人が料理してくれている、というのは、布施してくれているということだ。給与を支払ってはいるが、出家者とはこのようであるべきなのだ。これは美味しい、あれは美味しくない、今日もまた同じ料理だ、などなどとあれこれ選り好みしてはならない。在家の者であっても、食べ物の選り好みをあまりしないようにしなければならないのだ。そなた達出家の者ならなおさらではないか?この部分は、表面的には乞食のことを言っているが、実は出家者のことを言っている。食べるものでさえあれこれ選り好みするなら、どのように修めるのか?

私はかつて言ったことがある。眼耳鼻舌身が対応する色聲香味觸中において、「味」は最も修め易いものだ。感覚を制御できる、というのではなく、味覚を制御できるというのだ。好き嫌いを減らし或いは増やす。これはできることだ。これは眼耳鼻舌身では無理だというのではない。これらも可能だ。だが味覚が最も容易だ。よって釈迦牟尼仏はここで特に仰せなのだ。第一に着る衣服は色聲香味觸法の「觸」だ。これは在家に聞かせるのではない。在家の者は衣服を選り好みする権利がある。なぜならそれは自分で稼いだ金で買うからだ。だが出家者にはその権利はない。

経典では福田を植え付けるという。福田はどこから来るのか?布で作られた袈裟の見かけは福田のようだろうか?そうではない。着る人がそうでなければならないのだ。他人が私に供養する際、私はしばしば「ここにはいくら入っているのか?私は千元しか受け取らない。残りは持って帰ってほしい」という。私が「ここにはいくら入っているのか?少な過ぎる。持って帰れ!」というのをそなた達は聞いたことがないだろう。私は供養を差し戻す分際だけがあるのだ。これまでずっと受け取りたくなければ受け取って来なかった。受け取れば、何をしなければならないのか?供養布施しているのだ、立派だ、偉い、などと思わないことだ。その上山のような愚痴を私に聞かせる。

経典でいうこの言葉は、留意するよう出家者に伝える。在家の者も留意しなければならない。妻が毎日同じ料理を作るなら、それもそなたの業だ。仕方がない。もちろんそなた達が妻に「おい、変えてくれないか?」と言うのを止めることはできない。だが怒ってはならない。

「隨所敷具」とは古代の信衆が食べ物を布施した後に、出家衆に敷物或いはイスをすすめ、座って食べられるようにしたと言うことだ。つまり、すすめられた所に座ると言うことで、あれこれと選り好みをしないのだ。

經典:「亦當知足而生歎美。」

布施を受ければ、すぐに知足しなければならず、しかも自分に布施してくれたことについて、この人を褒めなければならない。こうすれば福田があり、この食物は福田を生じ布施した人に与えられる。自分が明らかに食べたくないと思うものを布施されたなら、自分は業障が重いと感じる。それなら福田はない。或いは相手がスツールやプラスチックイスを出してきて座らせてくれたのに、そなたは「背中が痛むと知っているくせに、こんなイスを出してくるなんて」と思っている。こんなようでも福田はない。或いは「こんなに硬いプラスチックイスに座らせるなんて。滑り落ちたらどうするのだ?」と思っている。これこそ不知足ということだ。

寺の金はすべて常住であると、我々ははっきり弁えなければならない。そなたの福報が良いなら、私のように昇座できる。福報が良くないなら、座れるイスが提供されるだけでも、十分福報があると言える。私といっしょにインドへ行ったことがある人は、あちらの出家者が何に座っているか見たことがあるだろう。大法會がある時には絨毯を敷くが、大法會がなければ草地に座る。そなた達のように快適だということがあるだろうか?敷物にシワがある、ハスの花の模様は下じゃなければならない、敷物が柔らかいかどうか、蒸し暑ければあせもができるなどばかり言っている。そなた達は、私は出家したことがあると思うだろう。口をついて出てくる言葉は、そなた達出家者の間で言うことのようだ。これは私が前世で出家者だったということだ。

経典:「不為敷具而起妄語。」

出家衆は今後どこへ行こうと、イスをすすめてもらったなら、必ず賛美しなければならない。もし本当に不快なら、予め言えば良い。それでも不快なら、それでも無理して座ることだ。この間ある出家者が会いにきた。跪いてすぐに、わざとらしい様子をするので、イスをすすめて座らせた。実は彼は跪く必要はない。足が悪いので跪かないと予め言えば良いのだ。私は不機嫌になったりしない。わざとらしい様子をして私に見せ、私に哀れに思わせ、なぜ私の面前に跪かせてしまったのだ?と私に煩悩を起こさせる必要はないのだ。私に会いに非常に多くのお年寄りが来るのを見たことがあるだろう。私はすべてお年寄りに座るように言っている。私はこんな事にうるさく拘る人間ではない。

経典:「不得不念不生憂悩。」

この部分は、先ほど言ったのと同じだ。得られないものに、あれこれ執着してはならない。憂悩の気持ちを起こしてはならない。

経典:「得不染著無染心畜不悋不繫。」

どの敷具に座るべきだなどと染著しない。金剛乗を修める際に、しばしば上師を呵責するようなものだ。法會に参加する際には、自分のイスがどこであるか、高さはどうか、誰の隣りか、人からイスを奪って座り、法座を奪う等。これはあってはならないことだ。私は法會では毎回、法王がお決めくださる所に座る。法王がお決めくださっても、彼らが私を座らせてくれないなら、下の方に行って座る。ある時インドで、手配された場所に、彼らが座らせてくれないことがあった。そのため私は下に座っていたが、その後リンポチェが慌てて下りて来て招くので、私は申し訳なく思い、上の方に座った。

これは、心を不染著にでき、また汚染の心がないなら、吝嗇せず、自分はどのイスに座らなければ自分の身分を示せない、自分が修行者であると示せない、という心持ちを初めて養成(畜とは養のこと)できるということだ。在家衆にも、自分は総経理なので、どんなイスに座らなければならない等、この種の問題がある。これも同じ意味だ。

経典:「知其過咎知出離行隨是知足。」

我々はこのような言葉は過ちだと知らなければならない。なぜ修行するのかを理解しなければならない。それは輪迴世間を出離するためだ。こうすることで我々は自然に知足する。在家衆はなぜこんなにも不満が多いのだ?それは不知足だからだ。上師に対してさえ不満がいっぱいだ。最近ある弟子が離れて行った。それは上師に不満だったからだ。私はしばしば言う。上師は清浄な心でそなた達の皈依を受け入れる。先ほど法會の前に出て来て語ったように、私は彼らに対して要求はない。最初から最後まで供養を受け取ったことがない。それどころか葬式費用を援助した。

ここの意味は、世間出離の心持ちで修行しているのでないなら、釈迦牟尼仏が開示くださる仏法、上師が學んだ法門と自然に矛盾が生じ、自分の意に沿わないところが上師にあると感じるようになり、他人が三寶に対してほんの少しの不恭敬なことを言った時、非常に簡単に聞き入れてしまうようになる。なぜなら不清浄な心を起こしているからだ。私の経験から言うと、顕教を学んでいる時、法師或いは師父に対して何らかの不恭敬或いは不清浄な心を抱いたことは一度もない。私が密法を学ぶのを待って、法王は私を弟子として受け入れてくださった。過去から未來まで、私が不清浄な心を持つなどあり得ない。よって人が三寶に対して不恭敬なことを言うと、私の心は自然に不起念となる。

なぜそなた達は懐疑心を起こすのか?上師は間違っている、誤った考えを持っていると考えるのか?それはそなた達が先に間違っているからだ。法王が何度も仰せになっているように、上師が法座に座っているとは、仏と菩薩が弘法していると言うことなのだ。上師は凡夫だと考えるなら、得られるのは凡夫の加持だ。上師に過ちがあると考えるなら、それは上師の過ちではなく、そなた達の過ちだ。仏法が清浄だとは思わず、自分の人生経験により批判し、自分が聞きたいと思う話、つまり自分の欲望と行動を満足させられる話を聞きたいと思っているからだ。

菩薩の眼中には善悪の別はないと、私はしばしば強調している。因縁因果に応じて衆生に利益するだけで、良い悪いを分けているのではない。よって経典がお教えくださるのはすべて、出家者に良し悪しを分けず、自分自身が何を修めるのか、輪迴世間を出離する行為を修めるのだとはっきりと認識するよう教えるのだ。このように修行すれば、自然に知足する。なぜなら、良いものは持って行けず、悪いものも持って行けないからだ。なぜ不知足なのか?なぜこんなに煩悩が多いのか?なぜこんなに是是非非が多いのか?それは不知足だからだ。知足の人は非常に容易に物事をやり過ごすことができ、非常に容易に煩悩を起こさないでいられる。

しばしばみなに言うが、學仏には非常に強烈な出離心(輪迴世間を出離する心)が必要だ。だが厭離ではない。早く死んで阿弥陀仏のお側へ行きたいと思っている人が多いが、これは厭離、嫌悪という。嫌悪だったらどうなのか?それなら業を完済することはできない。出離とは、この一生はすべて自分が過去に行った善悪業の報いだとはっきり認識し、自分が過去に行った善悪業のために、この一生でこのようだと分かっているなら、學習、仏法、上師の指導と監督を通して、悪の業を二度と再び作らないようにしなければならない。二度と再び悪業を作らないようにしなければ、出離の機会はない。悪念が起きさえすれば、悪業はすぐに生じ、すぐに輪迴に堕ちてしまう!死ななくとも、輪迴はすでに始まっているのだ。

仏法に対して間違った見方をしている人が多い。それは、上師が経典をはっきりと分析しはっきりと説いてくれず、名相を聞いているだけだからだ。名相は修行ではない。仏が説かれた経典は非常に深奥な含意を有する。そなた達が考えているように、文字の上で説明すればそれでいい、というものでは絶対にない。「出家之人隨所乞食隨所敷具」というこの一文のように、経典が講じるのは過去の状況だ。だが現代の出家者の生活はこうではない。それなら遵守しなくとも良いのか?そうではない。その時代はこうだった。現在、この時代もこうなのだ。出家者はやはり信衆の布施に頼って腹を満たしている。父母に養われるように、他人が布施してくれるのに、あれこれ選り好みする資格があるだろうか?特に私といっしょに外出する場合にはすべて、弟子が食事を布施しているのだ。それなのに出家弟子は食卓で楽しそうに笑い、頬杖をつき、あれこれ選り好みしている。これはこの言葉を理解していないということだ。この言葉の意味を理解している出家人はこのような事はしない。理解しているなら、ブュッフェで喜んで他人に先を譲るはずだ。

出家者に対する在家弟子の恭敬を養うため、出家者に先に食べ物を取りに行かせたのに、出家者は自分は大金持ちだとでもいうように、他の人たちを待たせてゆっくり選び、皿いっぱいに食べ物を盛ってから席に戻って食べている。そのため罰を受けたのだ。それはこの言葉から来ている。だがその時、私はまだこの言葉を見たことがなかった。今日そなた達に開解した。これは釈迦牟尼仏が仰せなのだ。あの日は、あの出家弟子の禿頭を叩くよう釈迦牟尼仏がお命じになったのだ。それなのにあの出家弟子は、誰が叩いたのだ、と言っていた。実はリンポチェが叩いたのだとは思ってもみなかっただろう。

在家のものは當然、出家のものと全く同じにする必要はない。だが我々はどんな環境、境遇にも安んじるのだ。他人が用意してくれた物を食べる。美味しければ感謝し、美味しくなくとも感謝しなければならない。菜食であればそれでいいのだ。不注意で、菜食を出さなかったとしても、食事をご馳走しようという、その考えに感謝しなければならない。相手が理解していないなら、自分は菜食だと伝えなければならない。もし相手がよくないことを言うなら、聞いておくだけで良い。それもそなたの業障を消してくれるのだ。私が學仏を始め菜食を始めたばかりの頃、きっとたくさんの悪事を働いたので、菜食しなければならないのだろう、と言う友人もいたが、自分は非常に多くの悪いことをしたと私は認めた。私が非常に多くの悪事を働いたのでなければ、この一生に再来してそなた達に会うことがあっただろうか?来なかっただろう。ただ私はそなた達ほどには悪くない。だがやはりそなた達といっしょにいれば悪だ。共業だからだ。私がすでに菩薩果位まで修めたなら、そなた達に会いに来ただろうか?過去世でそなた達にどんな借りがあるか分からないので、訳も分からずそなた達に呼び戻されたのだ。

自分は悪いと認めたら、それ以上あれこれ言う友達はいなくなった。認められないなら、今肉を食べれば吐いてしまうと言えば良い。私が菜食を始めた時、その頃はまだ皈依していなかったが、以前の家人が「男が菜食するなんて?菜食じゃ體力がもたないでしょ」と言ったので、私は吐いて見せた。そなたらも吐いて彼氏に見せれば良い。男として、そなたが毎日吐くのを見れば、いつの間にか別れることになると私は思う。すでに私に皈依した女性弟子は、肉食する男性と付き合うなら、絕対に私に会いに来てはならない。

自分は相手に影響を及ぼせるなどと思わない方が良い。同衾する前でもそなたの言うことを聞かないなら、同衾した後にそなたの言うことを聞くだろうか?72歲の老人である私の経験からすれば、私は信じない。これこそ出離心がないからだ。どうと言うこともないと考え、とにかく結婚したいと考えている。私はそなた達の結婚を阻止しない。経典もそなた達の結婚を阻止しない。だが、よく選ぶのだ。いいかな?選ばないと言うことはあってはならない。男性弟子も同じだ。地球全体の人口は71億人だ。地球全体とまで言わなくとも、台湾だけでも2300萬人いるのだ。男性が少し少ないとは言っても、選ぶことはできるだろう!菜食する人を選べないなどと、私は信じない。その気がないだけだ。白馬の王子を選ぼうと言うのだ。西洋の白馬の王子は肉食だ。どこに菜食のものがいるだろうか?白馬の王子が好きなら、それは絕対に肉食だ。

経典:「終不自稱毀於他人。」

自分は今日良い布施が得られたが、他の人は良くない布施を得た時、自分はよく修行できており修行で福報が得られたので、今日は良い供養が得られた、あの人は修行ができていないのだ、当たり前だ、と思ってはならない。他人が修行できていないとどうして分かるのだ?釈迦牟尼仏はかつて、服の上の一本の糸をお受け取りになった。釈迦牟尼仏は修行ができていないと言うのか?一本の糸を布施した女性はその後、王妃となったのだ。つまり布施は物ではなく、心なのだ。真心から供養布施しているかどうかだ。布施を受けた人が、福報を返してくれたかどうか。ないなら、金山銀山を供養したとしても、福報はなく、あるなら福報はある。

この言葉は非常にはっきりと説いている。自分の修行がうまく行っているので、これが得られた、他の人は修行がうまく行っていないので得られない、と考えてはならない。これこそ「自稱毀於他人」だ。

経典:「楽斷楽離楽於修習。」

修行者は一切の煩悩を断つことを、最も楽しい事と考えなければならない。當然現代社會では一切の煩悩を断つのは容易ではない。だが煩悩はすべて自分が招いているのだと弁えなければならない。煩悩は届けられるのではなく、自分で招いているのだ。自分が作り出し、自分で考え出しているのだ。いわゆる「楽斷煩悩」とは、過去世で為した悪善業のために、この一生は山あり谷ありとなる。それでもなお新しい煩悩を作るのか?よって楽斷なのだ。

學仏ではなぜ必ず菜食しなければならないのか?それは、これ以上、衆生の命を奪わないためだ。肉を食べ続けるなら、返済し続けなければならない。「早死早投胎」と屁理屈をこねる人が非常に多い。それなら、そう言う人はなぜ先に早死しないのか?死んだら動物のために大悲咒を唱え、往生咒を唱えて、善道に往生させてやれば良いと屁理屈をこねる人もいる。だがそなたに聞こう。自分は阿弥陀仏のお側に往生できるのか?できないなら、何を以って、そなたが読経すれば、その動物は善道に往生できると言うのか?これらはすべて自分自身の口腹の欲のために生まれた邪見だ。いわゆる「酒肉穿腸過」とは、空性を修めるまでは不可能だ。そなた達も「穿腸過」だ。だがガン─大腸ガンになる。

よって我々は煩悩を喜んで断つのだ。自分は學仏していると考える時、煩悩というもの対して、嫌悪、嫌い、不要ではなく、どのように断つかを学ぶのだ。私は施身法を修めるが、法本の名は正に「斷」だ。一切の煩悩を断つのだ。身體さえも捨てられないなら、さらにどんなものが捨てられないのだ?我々にとって最も深刻なことは自分自身の欲望、思想、要求、妄念だ。これらは我々が學仏する際に煩悩を生み出す。例えば、仏菩薩と上師は自分のいうことを聞いてくれない、上師は助けてくれない、上師の言うことは好きじゃない、と考える等だ。

煩悩を喜んで断てれば、こんなにも多くの要求は自然になくなる。「楽於」とは出離の心を非常に楽しく修め、世間の事は全て因縁で、縁に従い過ぎて行くとはっきり認識するということだ。「楽於修習」とは、學仏修行の過程において歓喜の心で学ぶということだ。返済のため、将来の苦痛を避けるためなら、それは「楽於修習」ではない。かつて言ったことがある。菩提心を発すれば、一切のよくない事がすぐに出現するだろう。そなた達は、運が悪い、こうなると知っていたなら、こうしなかったのに、と必ず思うだろう。だが、これはめでたいことなのだ。なぜなら返済しているからだ。これはよくない事ではない。もともと返済しなければならず、しかも本來は地獄で返済しなければならず、本來は死を前にして手術を受けあちこち切られるはずだったのだ。比較的簡単なよくない事が発生したので、これらの重い報いは出現しないからだ。

出離心がなく、仏法を「楽於修習」でない人はすべて、世間の欲望でいっぱいだ。上師が満足させられなければ、離れて行く。私がそなた達の欲望を満たすとするなら、真面目な話として、そなた達は何を差し出すのだ?寺を建立し伝承を残し伝えようとしているのに、700人余りの弟子が擁護しない。なぜこの700人の弟子は擁護しないのか?それは、リンポチェが行おうとする事は自分とは関係のない事だと思っているからだ。自分がしっかり読経し、しっかり拝めばそれで良いと思っている。上師が行おうとしている善事にさえ参加しないで、どうして修行がうまく行くだろうか?いわゆる修行がうまく行くとは、金が儲かる或いは病気にならない、ということではなく、修行の過程で絕対に障礙があるということだ。

経典:「於此楽斷楽離楽修不自稱譽。」

他人の助けを受けた時(在家衆なら誰かが助けてくれた時、出家衆なら誰かが布施してくれた時)、この方法を用いて楽斷しなければならない。つまり先ほど言ったように、あれこれ選り好みしないということだ。これこそ煩悩を断つのだ。「楽離」とは一切の貪念、稱譽、名を離れることで、そうでなければ世間出離し、他人を誹謗しないでいることはできない。「楽修不自稱譽」というこの言葉を、そなた達に説明するのは非常に難しい。「不自稱譽」とは、自分の修行がうまく行っていると思うな、或いは少しの成果があるからと言って、自分の修行がなかなかいいと思うな、ということだ。『寶積経』の前の方でもいう。ここでいう「慢(傲慢の「慢」)とは、少しでも「慢」なら、すべての功徳は消えてしまうということだ。私を信じたほうがいい。私はたくさん見てきた。

以前ある法師がいた。この法師が講演した後に振り返った時のその表情は、正にここでいうものだ。自分は稱譽されたと思っている。そのため、この法師は世を去る時とても苦しんだ。道理によれば、こんなにも多くの信衆が皈依しているのだから、そのようであるはずはないのだ。原因はここだ。そなた達これら出家者は自満してはならない。定果、定位があるまでは、一切許されない。なぜ私は以前、供養を受け取れなかったのか?それはまだ定位していなかったからだ。定位の後にはさらに慎重にならなければならない。さらに用心深く物事を運ばなければならない。なぜなら一つの念頭の変化で、自分のすべての功徳を福報に変えてしまうからだ。福報はこの一生で使えない。次の一世でしか使えない。福報は我々累世の業を転換することはできない。

経典:「長者。是名出家菩薩住四聖種。復次長者。出家菩薩以十功徳持著身衣。何等十。為慚恥故。」

こうでなければ「出家菩薩住四聖種」と、仏は長者にお伝えになった。仏は、出家菩薩は十種の功徳により身に着けているこの衣服を受け取る、と仰せになった。どの十種だろうか?「為慚恥故」だ。なぜこの種の念頭が必要なのか?自分はこじきなので恥ずかしく感じるからか?人の布施を受けることは、恥ずかしいことなのか?人が布施してくれるなら、私は懺悔しなければならない。なぜなら能力がないからか?そのような意味ではない。謙虚でなければならない、ということだ。仏法によれば、十の謙虚が必要だ。なぜなら謙虚でないなら欲望が起き、謙虚でないなら恩知らずとなり、恩知らずなら自然に恩に感謝せず、恩に感謝しないなら自然に恩に報いず、恩に報いないなら、自分の福報を惜しまずに、どうして他人に分け与えることができるだろうか?

在家であれば、水を一杯飲んだとしても知恩でなければならない。なぜ今日こんなに多くの人がただ少しの金を払ったというぐらいで、他人と喧嘩になるのか?それは不知恩だからだ。そなたは少しの金を払った。相手は料理を作って食べさせた。美味しくないなら、もう行かなければいいのではないか?破滅するまでネットで相手を叩く必要はない。店で食事し、店が良くないなら、よくない因果があるのだ。どうしてそなたの手で他人を破滅させる必要があるのか?諌めることはできる。小さな警告でも良い。だがそこまでする必要はない!

今日自分には食事を作る能力がないので、少しの金を払って、他人が作る料理を食べる。レストランをこんなに綺麗にして、気持ちよく座れるようにし、エアコンもつけている。これ以上どうして欲しいのか?飲食業を始めて、損になる商売を初めて知った。良心があっては金儲けはできない。安くて、美味しくて、ものが良くて、衛生的で、インテリアが心地よく、エアコンが十分利いていなければならない!だが金を払うのは惜しむ。どこにそんな事があるのか?私はそなた達とは違う。私は知足だ。そのため每月、赤字でも飲食ビジネスを行っている。そなたが私に損をさせるなら、私は消業障と考え赤字を出し続けるまでだ。

それに私は外で食事するのが好きではない。自分のレストランで食事するのを好む。少なくとも私の何軒かのレストランは政府が授与する衛生條件優良レストランに選ばれている。どんなレストランがあるのか?あるかないか探してみよ?大きなレストランでも全くない!200余りの條件をクリアしなければならないのだ。一つクリアできなくとも授与されることはない!しかも自分で申請するのではない。突然検査しにくるのだ。そなた達は私がどんなに大変か全く分かっていない!きれいに衛生的にしてそなた達に食べさせる。みな食べに行かない。あの、200元で吐くまで食べられる、あれだけだ。どこにこんなに安いのがあるだろうか?今は本当に安いものはない。私は自分が商売をしているから言っているのではない。良心的に飲食業を経営していれば、儲けることは本当にできない。

昨日テレビを見ていた。ある中華菓子の職人が良心的な話をしていた。この職人は、ある種の中華菓子がどうしても作れないという。最後に「食材が良くないので、作れないのだと私は知っている」とついに言った。どうだ、安いものがあるか?安いのを望むなら、自分で作れば良い。だが今では自分で作っても安くはない。多くの醤油が化學的に作られている。摂取すれば腹に良くない。仏を学んだことがないなら、非常に多くの事をどうやってそなた達に説明して聞かせたら良いのかわからないだろう。學仏すれば因果の恐ろしさが分かり、赤字になっても、腹に悪いものを人に食べさせることはできないのだ。

よって「為慚恥故」だ。受けとった者は、謙虚の心を起こさなければならない。相手に敵わない、受け取るべきだ、或いは相手より高いと思うというのではない。謙虚で、ひたすら謙虚でなければならないのだ。謙虚な心があれば、在家であろうと、出家であろうと、煩悩を減らすことができる。嫁は必ず自分に仕えなければならない、或いは子供は必ず親孝行しなければならない、孫は必ず自分に良くしてくれなければならない、などと思ってはならない。そなたが謙虚な心を起こしたなら、前世の冤親債主がそなたをボコボコに殴りたいと思っていたとしても、そなたがひたすら謙虚にしているのを見れば、少しは手加減してくれるかもしれない。本当にそうなのだ。

以前子供が若くて喧嘩した時、私は息子の態度が謙虚なのを見て、しつけで叩くのに手心を加えた。叩くことができなかった。だが息子が偉そうにしていたなら、多めに打ち据えただろう。人の心とはこういうものだ。そなたに傷つけられた衆生の心もこうなのだ。そのため私は施身法を修める時、法本内でははっきり説いている。施身法を修めるのは、布施供養なので、私の身體を全て彼らに食べさせ、彼らの嗔恨の心を減らすのだ。私はひたすら謙虚なので、彼らに求める。こうして彼の怨恨の心が少しは減り、そなた達を傷害する力も減るのだ。なぜそなた達を傷つけようとするのか?それはそなた達が行ったからだ!その肉を齧り、その血を飲んだ。そなたに迫らないで誰に迫るのだ?どうして病に罹らないことがあろうか?

我々は事物人に対して謙虚な心を抱かなければならない。「一に謙虛、二に謙虛、三、四がなくて五に謙虛」とローガンを唱えるだけでなく、真に行わなければならないのだ。これは不当な仕打ちに耐えながら日々を過ごす、ということではなく、或いは一日中召使いのように他人に仕える、ということでもない。そういう考えではなく、心持ちのことなのだ。人が少しでも助けてくれたなら、謙虛で知恩でなければならない。知恩でなければ、報恩することはない。口で感謝するといえば、本当に感謝だなどと思ってはならない、どんな恩なのだ?言い表せないだろう。よってこの言葉は非常に重要だ。在家であろうと出家であろうと、この種の心持ちが必要だ。

経典:「為覆形故。為蚊虻故。為暴風故。」

二つ目は「覆形故」だ。自分自身が着る衣服、袈裟等のための事だ。「為蚊虻故」とは、蚊のような小さな虫のためだ。「為暴風故」とは、暴風が吹いても、ということだ。台風が來る前、私は必ず修法する。修法して台風は消えてしまうか?消えない。消えることなど絕対にない。なぜならこの業はすでに定まっているからだ。被害を少なくできるだけだ。台風には絕対に鬼がおり、衆生がおり、妖がおり、魔がいるため、少なくともそなたを怖がらせる。私が台風の進路を曲げているとはとても言えないが、みな考えてみよ。ここ数年台風はみな曲がるのではないか?私個人の力だとはとても言えないが、絶えず修法しているので、台湾には少しの福報があり、この種の恐怖の心が少しは減ったのだと信じる。この言葉はつまり、我々は修行者、出家者として、懺悔の心を持たなければならないということだ。我々は自分自身の形貌のため、あれら蚊のため、暴風の出現のため、我々は衆生のため祈福しなければならない。よって密法的に言えば、日蝕、月蝕、地震、風害、水害修法は最大の功徳だ。ここから言えば、暴風の時に隠れるのではないのだ。

十數年前SARSが流行した時、みな感染を恐れた。私だけが、この死を恐れない者だけが、弟子を率いて、台北市全体で施身法を修めた。その時官僚が来て、いつ終わるのか、と尋ねた。私は六月中に収まると答えた。なぜ六月中に収まると言えたのか?私はあらゆるところで修法したが、大同區が最多だった。私の考えは非常に簡単だ。「為暴風故、為蚊虻故」だ。つまり今日蚊のために修法しないということはなく、蚊を見下すことはなく、蚊を一つの命だと見なさないということはなく、今日私が危険に直面し、暴風で隠れてしまうということもない、ということだ。よってその年、私はあらゆる場所へ行った。以前謝という姓の弟子が勤めていた病院はSARSに責任を負っていた病院だったが、私はやはり行って修法した。彼は運が良い。死を恐れないリンポチェに巡り会えた。その時、私はまだリンポチェではなかった。私の弟子もリンポチェは死ぬことはないと信じ、私に従い行った。それはこの言葉から来ているのだ。そなた達は行っているか?

暴風が來ると、そなた達は自分が風害を受けたくないと言ってひたすら念仏する。以前民生社區で大規模な浸水被害があった時、私はまだ密法を学んでいなかった。その時マンションの管理人に「車が地下室にある。急いで移動させた方が良い。水がもうすぐ押し寄せてくるだろう」と言われた。私は地下に下りかけて「おかしい。経典には、大悲咒を念じれば水は止まる、とはっきり書いてあるじゃないか」と思った。私は走って戻り読経した。その結果、水は止まったのだ。その時は水門を閉めなかった。レールがコンクリートで覆われてしまっていたため閉められず、浸水し続けたのだ。私は戻って大悲咒を念じた。車は壊れた。ある程度の年齢の者なら覚えているだろう。あの時の浸水は実に深刻だった。水深は二階以上に達した。だが亡くなったのは一人だけだった。それはここなのだ。つまり、今日我々は出家人として、楽な暮らしのためではなく、苦悩から逃げるためではなく、學習のためではなく、何のために出家したのか?それはすべてこれらの事のために出家したのだ。我々、在家のリンポチェも、この種の事のために修行している。

ここで釈迦牟尼仏は、出家衆はこれらの事を行わなければならない、と特別に仰せだが、在家衆もこの種の心持ちを持ち、何かの危機を目にしたなら、線香に火を灯し仏菩薩に供養し、すべての衆生が苦しまないよう庇護くださることを仏菩薩に願わなければならない。定業ができないとしても、そなたはやはり修行者なのだ。「息子はまだ南部にいる。無事に戻ってこられるようにお護りください」というのなら、外道を拝んだ方がいいだろう。「大悲咒をひたすら念じていれば、息子はスムーズに車を運転できる」という人がたくさんいるが、仏がお教えくださる方法が真に正しい方法だと信じていないのだ。誰もがみな利己的だ。地球全体が悪いなら、我々は生きて行けるだろうか?法會に参加するなら必ず菜食しなければならないと、なぜリンポチェはひたすら諌めるのか?菜食できれば殺生が減る。これで地球の面倒は少し減る。そなたにとっては福報であり、衆生にとっても福報だ。仏法は自分自身が行うものだと誰も信じない。法會に参加して聞き、帰宅すればそれでOKだ、加護があると思っている。もしそうなら私は修法しなくとも良いではないか。すでに何度も行っている。もしそうなら、私は毎日法王に電話をかければそれでいいではないか。法王に加持くださるようにお願いすれば、法王は絕対に加持くださる。それでも私は修める必要があるのか?そなた達は幸せな暮らしを送り、私は毎日施身法を修める。そなた達は毎日快適に暮らせるだろう。

経典:「不為軟觸不為好故。」

我々修行人は身色香味觸、というこの種の感覚のために、最も良い事を望んではならない。

経典:「為於沙門表戒相故。」

そなたが行った事は、自分自身が出家者であるためだ、ということだ。「表戒」とは、行って他人に見せなければならないということだ。心戒をよく守れているかどうか他人は分からない。神通がなければ分からないのだ。だが、行い、外相はしっかりしなければならない。食事時に楽しそうに笑い、食物を選り好みしたことで、なぜ出家弟子は私に叱責されたり、頭を叩かれたりしたのか?それは彼らが沙門の表相を示していなかったからだ。言い換えれば、我々在家は在家の表相を示しているか?寶吉祥の管理は非常に厳しいと誰もが言う。それは私の管理が厳しいからだ。これは事実だ。そなた達が外で決まりを守れば、人はみな寶吉祥を賛美する。誰に福報があるのだ?そなた達にだ!寶吉祥とは誰だ?祖師ジッテン・サムゴンだ。我々寶吉祥道場の弟子が外で決まりを守り、仏法に従い、三寶に恭敬であれば、人は賛嘆する。賛嘆した人には福報があり、賛嘆された人にも福報がある。なぜ私は厳しく管理するのか?そなた達を放任し、好きなようにやらせることもできる。その方が私にとっては良い。なぜこんなに苦労して叱責しなければならないのか?それはすべて経典から来ているのだ。

経典は非常に多くの事を教えてくれる。沙門には沙門の表相がある。人はなぜ出家衆に供養布施するのか?それは少なくとも外見では、沙門が行うべき事をしているからだ。見掛け倒しと言うのではないのだ。なぜこの数人の出家人はおかしな動作をして私に見せたのか?食卓で頬杖をつくのは何かいけないのか?食事を終え、食卓で信衆と笑い合っているのは何かいけないのか?食べ物を選り好みするのは何かいけないのか?もちろんいけない!なぜなら釈迦牟尼仏の仰せに完全に符合しないからだ。私はこの一生で比丘戒を受けていないが、私は知っている。そして、なぜ知っているのかは分からない。過去世で私は出家したことがあったのだろう。そうでなければこの一生で、出家弟子が皈依してくることはないはずだ。過去世で私がこれらをわかっていなかったなら、法王は「なぜ出家弟子を受け入れているのか!」と第一に私に仰せのはずだ。よってそなた達にはこれ以上批判する資格はない。法王は、我々寶吉祥道場にお越しになったことがあるか?(參會者は「あります」とお答え申し上げた)。道場の出家衆をご覧になったことがあるか?(參會者は「あります」とお答え申し上げた)。法王は最初ははっきりお分かりでなかったので、彼らを法師とお呼びだった。今ではそう呼ばれることはない。私の弟子だとお分かりになったからだ。私が出家弟子の皈依を受け入れるべきでないなら、法王は公の場で私に言われるだろう。法王は私を可愛がっておられるので私を叱ることはないなどと思ってはならない。法王はやはりお叱りになる。

なぜお叱りになるのか?弟子としてあるべき心持ちがないならお叱りになる。しかも法王は私を訓練くださる。ミラレパ尊者がマルパ尊者に叱られるようにだ。そなた達を叱らないのは不可能だ。私の弟子でなくならない限りは。離れていった弟子は、叱ることはない。叱って、どうするのだ?私の話を聞かせるために叱るのではなく、経典の仰せに基づき教えるためだ。そうでなければ輪迴世間を出離することはできず、そうでなければ絶対に不可能だ。100歲まで生きて、そなた達がみんな死んでしまうまで待ってから、私はこの世を離れるなど不可能だ。それにそれでは私が哀れではないか。どう言う意味だ?出離心を定めていないなら、いつか私がいなくなったら、そなた達はどうやって出離するのだ?「リンポチェは死ぬことはない」と依頼心を持ってはいけない。「私に残された時は多くない」と私は口癖をいう。自分が100歲、90歲まで生きられるとは私は考えられない。

『寶積経』は菩薩道を修める人のために特別に講じられた経典だ。この部分は出家者に聞かせるものだが、誰が請法したのか?在家者が請法したのだ。道理によれば、出家者がどうすべきかを在家者は訊ねるべきではない。だがこの部分は非常に奇特だ。在家者が釈迦牟尼仏に、出家者はどうすべきかを訊ねている。

仏は出家者を見下しているのではなく、出家者に表相を示すようお求めなのだ。釈迦牟尼仏は慈悲深く出家人に伝える。この表相がなく福徳功徳を為さないで、供養を受けたなら、「地獄門口僧道多(地獄の門前には僧が多い)」と言う言葉もあるが、それはここから来ているのだ。反対に、在家衆が出家者をしっかりと布施供養しないなら、自分もいっしょに堕ちてしまう。なぜ私の出家弟子は自分で自分の面倒をみられるもの以外、他の出家弟子はすべて私が面倒をみて、私が供養布施するのか?それは私がこの福報功徳を欲張っているのではない。第一に、彼らにはそなた達の供養を受け取る資格がない。第二に、そなた達が分別心を抱くのを恐れるからだ。「あの出家衆はうまく読経するので、多めに布施しよう」、「この出家衆の表相は良くないので、少なめに布施しよう」などと、そなた達はすべてこのようだ。大法會を見れば、はっきりと分かるだろう。

リンポチェが行う事には必ず道理がある。経典から来ているのだ。絕対に私の発明ではない。私には仏法を発明する資格はなし、新しい仏法を講じる資格もない。仏法は釈迦牟尼仏が講じられ、上師がお教えくださったものだけで、それをそのまま私はそなた達に伝えるのだ。

経典︰「此染色衣。令諸人天阿修羅等生塔想故而受持之。」

この言葉はすごい。仏は、そなた達出家者の表面的な戒は、そなた達が受ける戒で、すべて行わなければならないと説かれる。そなたが着る僧衣、以前は在家は白衣と呼ばれていた。それは衣服を染めていなかったからだ。出家の衣服は染色している。よって現在でも在家衆が白い衣服を着る道場もある。これは不要だ。なぜなら制度がすでに出来上がっているからだ。顕教はこれを着て、密教ではこれを着て、出家衆の衣服はどのような形式だ、と非常に明確だ。よって特別に白を着なくともよい。寶吉祥道場では赤いベストを着せている。次の一世で出家すると言う意味だ。そなた達はこの一世では出家は不可能だ。なぜなら私がまだ出家していないからだ。

どのように僧衣を福田衣に変えるのか?それはこの言葉から来ている。表相の戒をしっかりできていなければ、人天阿修羅はただの凡夫だ、修行者ではないと見る。修行者でないなら、自然に福報がないと思う。そなたも衆生に与える福報はない。この言葉を釈迦牟尼仏は特別に仰せだ。どうすれば、人天阿修羅等の衆生を、そなたに対して、仏塔に対するように恭敬とできるのか?仏塔とは報身仏ではなく、法身仏ではなく、化身仏だ。仏を代表し、人世間で衆生に福田を植え付けさせる象徴だ。仏塔のように修行できなければダメだ。當然仏塔にも大小や高低、太っているのや痩せているのもある。この言葉は真に仏塔に変われ、と言っているのではなく、仏塔は三寶の結合で、身口意の全てが仏塔にあると言うことだ。よってそなたの身口意が清浄でなく、戒律が清浄でないなら、すべての行為動作は出離心を有する修行者のようではなく、そなたの受持はあってはならないことなのだ。この言葉は、そなたには衆生の供養布施を受ける、持有する資格はないと言っているのだ。

なぜ出家弟子はすべて私が供養布施するのか?仏塔とまで言わなくとも、仏塔上の石材一個でさえない。よってリンポチェに頼り、日常生活を維持するしかないのだ。守戒しない出家衆には布施供養しない。守戒しないとはどう言うことか?私の言うことさえ聞かないのが不守戒だ。なぜならそなたは受持できないからだ。私は適当に事を行なっているのではなく、すべては根拠があるのだ。

経典︰「解脫而染非欲染衣。」

この言葉は非常に特別だ。なぜなら前の方で染色した衣服について言ったからだ。今日染色した衣服は、故意に染めたのではなく、生死を解脫するために染めたのだ、と言う。どんな意味だろうか?本來布は出来上がった時は白だ。どんな色に染めようと、根本的にはすべて白だ。織られたたばかりの布は赤色や青色ではなく、染色しなければ、この種の色に変わることはない。誰が染めたのだ?そなたの欲望だ。今日白衣を着ていようと、染衣を着ていようと、人はみな理解しなければならない。布は本來白いのだ。つまり我々も本來は白く、清浄なのだ。誰が色を変えたのだ?それはそなた達の欲望だ。

よって今日この染衣を着ているなら、「心は染まってはならない」と自分自身に言い聞かせるのだ。出家者はこの色を着るべきだ、あの色を着るべきだと言うのではない。これは警告だ。心は汚染されてはならない。この染衣を着ているので、私は修行していると言うのではない。心は汚染されてはならない。「どうしたってこうなんだ」、「どうしても変えられない」、「どうしてもあなた達と同じ考え方はできない」と言うのは汚染だ。汚染されたのだ。この染衣はさらに汚染され、真っ黒だ。この言葉は非常に説明しにくい。生死を解脫するため、我々は染衣をさらに着て、自分自身に警告する。不注意でどんな色にだってあり得ると。在家衆は自分に言い聞かせなければならない。ちょっとの不注意で、自身の心を汚染し、輪迴に従い、永遠に輪迴してしまうのだ。

「非欲染衣。」とは染めた衣服を着るのは、欲望のためではない、と言うことだ。

経典︰「寂靜所宜非結所宜。」

なぜ釈迦牟尼仏はひたすら衣服について仰せなのか?それは修行していようがいないが、必ず衣服を着なければならないからだ。食事ではたくさん食べることも少なく食べることもできるが、衣服は、寝室を出れば必ず着用しなければならない。これこそ人生で最も重要な事だ。以前テンジン・ニンマ・リンポチェのある弟子は斷食を修めた。食べなくとも良いのだ。よって食は彼にとっては無用だ。だがやはり衣服は着る。衣服を着用して法王に拝謁する。よって仏は特別に衣服を用いて出家と在家修行人に伝えるのだ。これは毎日必要なものだと。毎日食事する必要はない、一食だけにすることもできる。私はかつて二日間閉関した時なにも食べなかったが、衣服を着用していた。

釈迦牟尼仏の仏法弘揚には特色がある。比喩でお教えくださるのだ。比喻ならそなたは必ず分かる。無茶苦茶で、一般人が聞いたこともないような事、或いは一般人の経験では分からない事を仏は仰せにならない。仏は特別に衣服について仰せだ。しかも特別に衣服を重視しておられる。よって顕教のある戒徳を具備した法師は、自分の衣服に非常に恭敬だ。袈裟であるからではなく、この道具を通して修行するからだ。彼自身も知らないのかもしれない。かつての師父は袈裟に対して恭敬でなければならないと言った。なぜか?それは袈裟がなければ、どうして修めるかが分からないからだ。ここですでに非常に多くのものを修めている。一着の衣服で、非常に多くのものを修めることができる。物に対して恭敬であれば、戒に対する恭敬、三寶に対する恭敬が自然に生まれる。なぜ上師がくださるものに恭敬でなければならないのか?それが貴重なものであるからでなく、上師がくださった、その心が貴重だからだ。何を与えたかではないのだ。

今日釈迦牟尼仏は特別にひたすら衣服について仰せになる。なぜなら人であれば毎日必ず着なければならないからだ。衣服を着用しないで道を歩くことができると言う人がいるだろうか?これは我々が毎日ほとんど24時間接觸するものだ。仏はこの種のものを用いてお教えくださる。この種のものに如何にして向き合うべきか?自分の心構えを用いて如何にして修めるのか。衣服を修めるのではなく、衣服から推論するのだ。そうすれば如何にして修めるべきかが自然に分かる。もし夫が突然何かを買ってくれたとする。あれこれ難癖をつけてはならない。買ってくれただけで良いのだ。「去年はこんなにたくさん買ってくれたのに、今年は買ってくれない。もう愛していないんじゃないか?」そうだ!愛していないのだ。そうでなければ、輪迴を解脱することはできない。深く愛し過ぎれば、抜けられなくなる。いかなる良いものでも、心は不動だ、と言うことだ。必要があり、使わないわけにはいかないものなら良いが、名譽福報を追求するために得るのではないのだ。

「寂靜所宜非結所宜。」「寂靜」の心は正しい。「結」とは一切の煩悩を結ぶ。先ほど冗談を言った。夫が何かをくれたなら、受け入れる。それはこういう意味だ。「去年の結婚記念日には一カラットくれた。今年は一カラットさえない。ケーキが一個だけだ」これこそ不寂靜だ。プレゼントをするのは、すべきことではない。そなたに受け取る福報があるかどうかなのだ。

経典︰「著此染衣。不起諸悪修諸善業。不為好故著染服衣。」

出家人はこの染衣(袈裟)を受け取った。我々は一切の悪を起こしてはならない。悪とは殺人や何かではない。貪嗔癡を起こせば必ず悪だ。不満足なら、それは悪だ。自分は他人より良い、と考えればそれは悪だ。よって一切すべてを衆生に迴向しなければならない。今日私は出家者なので、他人と見た目が違うから、この袈裟を身につけていると言うのではないのだ。

古代には禅宗を修める人が非常に多かった。衣服が破れても信衆の供養を受けず、大殿に上っても、襟はやはり破れてさえいた。おしゃべりな出家者もおり、「あぁ、対して荘厳じゃない」などと言う。釈迦牟尼仏はそれでも彼をお嫌いになったりしない。いつそなたの順番になり彼を嫌うのか?荘厳であるかないか。衣服は助けにはなるが、最も重要なのは內在が荘厳かどうかだ。一切の功徳戒律を具備した人なら、荘厳な相は自然に出現する。

経典︰「知聖道已私如是作。」

生死を解脫し成仏する道を知っているので、以上の事を行う。

経典︰「於一念頃不持染結。」

一つの念頭は、こんなにも短い時間だ。私には汚染させる一切の事がなく、念頭を集めることができる。

経典︰「長者。是名出家菩薩十事功徳持著身衣。」

出家者が衣服を着用すれば10個の功徳がある。出家者はものを食べても10個の功徳がある。在家者もそうだ。仏は特別に仰せだ。よって出家弟子はしっかりしなければならない。自分は修行しているのだからなどと思ってはならない。この10個を為し遂げられなければ、出家者だと言う資格はない。釈迦牟尼仏がお教えくださる仏法は非常におもしろい。場所の違い、縁や根器の違いに応じて、違った內容をお教えくださる。『寶積経』は特別に菩薩道を説いているので、菩薩道根器を修める人に聞かせると仰せなのだ。

経典︰「復次長者。出家菩薩見十事故。盡其形壽不捨乞食。」

死を前にしたとしても、すべての出家者は乞食(こつじき)を捨てるべきではない。現在では死ぬまで乞食することはできない。どうするのだ?つまり、すべての出家者は食べ物の選り好みをしてはならない。人が布施してくれたもの、調理してくれたものを、なんでも喜んで受け入れなければならない。現在社會には乞食と言うこの種の事はない。出家者の中には自分自身で調理するものがおり、自分自身で作る人もいる。だがどうだろうと、今日食べられるのはすべて衆生が布施してくれるからだ。自分で植えたのではない。よって古代中國のあれら大寺院では、出家人は耕作していた。なぜなら乞食ができなかったからだ。どうするのだ?耕作しなければ食べられない。或いは以後私の寺もこうするかもしれない。そうとは限らないが。

だが出家者はほんとうによく聞かなければならない。一切の衣食住行はすべて施主が布施してくれたものだ。よって自分の行為に注意し、決して油断してはならない。やってもその後で懺悔すれば良い、などと言ってはならない。これでは破戒してしまう。そのため今日釈迦牟尼仏は再び強調しお聞かせくださるのだ。

経典︰「何等十。我今自活不由他活。」

今日は生きるため、「不由他活」とは彼を生かさないためではなく、人が料理するのを手伝うことはできないと言うことだ。以前の出家衆は誰も料理ができなかった。現在の南伝仏教、スリランカ、タイなどの國でも料理しない。

経典︰「若有衆生施我食者。要令安住於三帰処然後受食。」

現在ではこの事も行うのは非常に困難だ。以前顕教では一度読経し食を施してくれた施主に聞かせ、彼の心を三皈依に安住させた。仏に皈依し法に皈依し僧に皈依する。そなた達は現在このように念じることは不可能だ。読経が終われば信衆はみな逃げ出してしまう。しかも、こんなに面倒だなんて、と言うだろう。現在出家衆は食事の前に読経する。出家弟子は「諸仏菩薩、上師、布施してくれた一切の衆生に供養します」とお答え申し上げた。これは三帰処に安住することだ。どんな経を念じようと、最後には迴向し、衆生が諸仏菩薩と上師に皈依するよう願う。よって出家人は何を食べようと、三帰処は必ず迴向しなければならない。今日そなたが受けた一切の福報は一切の衆生に迴向し、衆生がみな三寶に皈依するよう祈願しなければならない。これは必ず行わなければならない。「出家したので、私に食物をくれれば、福報があるのだ。相手を助ける必要はない」などと思ってはならない。

必ず非常に多く読経しなければならないのか?最も重要なのは、食事の前に自分で「布施してくれたすべての衆生、さらには布施していない衆生までもが、三帰処に安住できますように」といくらか発願、発心することだ。どの法門を修めても、迴向はなぜ非常に重要なのか?迴向しなければ、衆生と善縁を結ぶことはできないからだ。善縁を結べないなら、どこが弟子なのだ?布施してくれる人さえいない。迴向の後ろの方の数語ではすべて、衆生が成仏できるよう望む。三帰処に安住するのと同じだ。在家もそうだ。自分は働いて金儲けしているので、自分の金を使って食事するのは問題ない、などと思ってはならない。我々は食事の一切の仏法功徳を衆生に迴向しなければならないのだ。衆生がみな三寶に皈依できるよう願い、衆生が飢餓の苦を受けないよう願う。

この種の願を発し迴向するなら、以後生生世世で飢餓に陥る機会はなくなる。在家もこのように行う必要がある。以前私が信衆だった時、三寶供養で最も重要なのは衆生への迴向だ。「衆生がみな飢餓の苦を受けないよう願う。衆生がみな三寶に皈依し、仏法を学習し、成仏が得られることを願う」この種の迴向は非常に重要だ。必ず合掌しなければならないのか?しなくとも良い。そなたが彼氏と食事している時、そなたが突然合掌したら、彼は「何やってんだ?」と思うだろう。よって心の中で唱えるだけで良い。突然話さなくなったら、「どうしたんだ?ボーっとして?」と言うかもしれない。そうしたら「あなたのことを考えていたの」と答えれば良い。ほんとうに彼のことを考えていたのだ。彼も衆生の一人だ。夫もそうだ。食事が終わったら、ちょっとボーッとすれば良い。夫が「何やってるんだ?」と聞いてきたら、「なんでもないわ!あなたのことを考えていたの」と答え、「何を考えていたんだ?」と言われれば、「仕事が忙しくて大変だな、と考えていたの」と答える。こうすれば夫婦で幸せな気分になれるだろう。これは口が上手い、と言うのではない。こうすべきなのだ。夫もこうすべきだ。2、3秒ボーッとして、妻が「何をボーッとしているの?」と聞いてきたら、「食事の支度は大変だな、買い物も大変だな、と思っていた」と答える。私のレストランで食事しても、しばらく残り、「リンポチェは大変だな、良いものを食べさせてくれて」と考える。私はそなた達の迴向は不要だ。そなた達は料理人、フロアスタッフに迴向せよ。

経典︰「若不施食於是衆生生大悲心。」

食物を布施してくれる衆生に対して大悲心を起こす。食べ物を布施してくれないものも含み、それらの人にも迴向し、大悲心を生じなければならない。例えば「衆生が飢餓の苦を離れられるよう願う」。これこそ大悲心だ。そなたができることではない。だがこの願は非常に重要だ。願は力が必ず出現すると言うことではないが、これは大悲心の訓練だ。自分が満腹になり、美味しいものを食べるためではなく、自分の今日の福気を代表しているのだ。今日の福気は使ってしまえば、少し減ってしまう。迴向を行えば福気が増えるのではないか?そうではない。福気の消費が少しはゆっくりになる。修行できるなら、福報はようやく起きる。福報はどうやって来るのか?以前にも何度も言ったので、今日再度言うことはしない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


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2019 年 11 月 24 日 更新