尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年9月8日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

なぜ寶吉祥仏法センターは特別に『仏子行三十七頌』を強調するのか?それは我々が菩薩道—大乗仏法と金剛乗仏法を伝えるからだ。皈依弟子が『仏子行三十七頌』修行に精進しないなら、この一生で生死を解脱することは確実にできず、さらには三悪道に堕ちる可能性さえある。皈依し、供養し、菜食し、持咒しているのに、などと思ってはならない。これら出家衆もその中には含まれる。『仏子行三十七頌』をしっかり心に刻んでおらず、しっかりと『仏子行三十七頌』を用いて日々を過ごしていないなら、累世の業を含むこの一生のことを解決することは決してできない。いわゆる業とはもちろん悪業を主とする。それは『阿弥陀経』で、業を携えて往生できるが、この業は善業であり悪業ではないとはっきり説いているからだ。

『仏子行三十七頌』を人生の身、口、意一切の目標としないなら、生生世世の悪業をこの一生で取り除いてしまうことはできない。ほんの少しでも悪業があるなら、必ず輪迴する。必ず三悪道に堕ちるだろうか?それは分からない。だがミラレパ尊者は「生死を解脱できないなら、輪迴し続け、地獄、餓鬼、畜生道に堕ちる可能性がある」と仰せになっている。ミラレパ尊者は聖者であられる。決して適当なことを仰せになったりはしない。仏法を誤解し、歪曲している人がたくさんのい。拝みさえすれば加護が得られ、念じさえすれば加護が得られ、求めれば加護が得られると思っている。もしそうなら、『仏子行三十七頌』はこう言うはずだ。「拝めば加護があり、念じれば加護があり、出家すれば加護がある」と。だが『仏子行三十七頌』はそのようには言わない。『仏子行三十七頌』で講じるのは、学仏の心のあり様、修行の方向、どのように六波羅蜜を修めるか、現世の一切の事情に対して如何にして平等に捨てるか。これらすべてを教えている。そなた達は聞き入れず行おうともしない。よって私は今公に言う。『仏子行三十七頌』を修めようとしない弟子は、必ず自然に離れることになるだろう。道が違えば共に謀らずだ。ここで怠けていても、リンポチェには見つからないし、知られないなどと思っているのか。私が知らない、私には見えないとしても、死に臨み、ひどい死に方をすることになるだろう。最近ある弟子がそうだった。三ヶ月余りも病床に就き、最近ようやくこの世を去った。しっかり修めていたなら、三ヶ月余りも入院するなどあり得るだろうか?それは修めていないからだ!

皈依すればそれでいい、などと思ってはならない。皈依すればそれでいいなら、『寶積経』は、皈依すればそれでいいと言うはずだ。皈依は第一歩にすぎない。皈依すればそれでいいなら、釈迦牟尼仏は、49年間も説法なさる必要はなかった。仏法は外道とは違う。外道では皈依すれば、主が加護、保護してくれ、さらには十善法を修めなければならないとも強調しない。彼らは、我々仏法の十善法に類似の十誡を修めるだけだ。仏ははっきりと仰せだ。一切はそなたが自分で作り出したものだ。誰かが与えたものではない。誰かがそなたのために創造したものでもない。

我々は上師として、修行の経験を話すだけだ。行わなければならないのに、言うことを聞かないなら、どうすることもできない。正直に言えば、私の能力的には、一万、二万、さらには十万の皈依弟子にまで広げることもできる。私には確実にその資格がある。なぜそのようにしないのか?

私が集団をまとめられないのではない。私が開催する大法会は二万人余りが参加する。私が集団をまとめられないだろうか?皈依弟子を受け入れれば、私は生死解脱を教える責任を負わなければならない。生死を解脱したいなら、もちろん一般的なもの、世俗的なものとは違う。私は身分や権勢のあるものに媚び諂ったりしない。名利のために仏法を歪曲したりしない。誰かが会いに来ても、それがどれほどの大物であろうと、どれほどの金持ちであろうと、私は平等の心で助ける。どれほど貧しくとも、さらには法を犯したことがある人でも、懺悔心がありさえすれば、私は平等心で救う。分別しない。分別しないなら、私の門下に皈依したのに、私がこのように修めたと言っても、そなた達は誰もまったく聞き耳を持たない。その結果、どんな事が起こるだろうか?自然に離れていく。訳も分からずほんの小さな事ですぐに離れていく。極く自然に学ぶのはやめだ、と思う。そこで私はもう一度強調したい。皈依を退きたいなら、いつでも歓迎する。私はそなた達の財の道を阻んだりしないし、そなた達の家庭の幸せを阻止したりもしない。学仏とは本来プレッシャーなど感じる必要がないものなのだ。学仏にプレッシャーを感じる、という人がいるなら、組長各位は、その者をすぐに離れさせよ。学仏にプレッシャーを感じると誰かが伝えてきたなら、組長はその者をすぐに離れさせよ。組長がその者を離れさせないなら、すべての弟子は離れよ。

私は数十年学仏しているが、プレッシャーなど感じたことはない。なぜそなた達はプレッシャーを感じると言うのか?それは簡単だ。言うことを聞かないからだ。そなたはそなたのことを言い、私は私のことを行う。言うことを聞かないあれら弟子が受ける苦を目にする度、非常に辛い。何が辛いのか?私はしばしば言う。一人のリンポチェは修法時に、自他を分けたりしないと。なぜ利益を受ける弟子がおり、受け取れない弟子もいるのか?供養とは関係はない。心の問題だ。心が言うことを聞かないので、自分を苦しめているのだ。どうしたらいいのか?私は、仏法を教える際にドアを閉めて密室で教えたことは一度もない。それはそなた達に密法を学ぶ資格がまだないからだ。そのため、これまでずっと顕教について説いている。リンポチェは密宗のリンポチェなので、密法を教えてくれるなどと思ってはならない。そなた達には密法を学ぶ資格はない。顕教をさえ理解できていないのに、密法を学ぶことなどできるはずがない。

将来寺が建立されれば、上の階には密殿がある。だが、一般の弟子は上ることは許されない。入り口は鍵で閉められているのだ。本来チベットの古代の教え方はこのようなのだ。チベット仏教なら必ず密法を伝える、などと思ってはならない。チベットのリンポチェなら、必ず密法を伝える、などと思ってはならない。縁を結ぶことはできる。だが伝えてくれるかどうか?私は伝えないと内心よく分かっている。いくらか儀軌を学べば、それがチベット仏教だ、などと思ってはならない。いくらか手印を学べば、それがチベット仏教だ、などと思ってはならない。

今日法王は許可くださった。しかも重大なことを仰せになった。法王は私に必ずこの寺を建てよと仰せだ。私が修行の面で少しの成就もないなら、法王は私にこの事を行えとは仰せにならないだろう。私が密法の面で修行の成就がないなら、顕教大殿と密殿を有する、この寺を建立することを、法王は私にお許しにはならないだろう。冗談は止めることだ。これら出家衆もだ。上師を見下しているなら、いつでも離れるがよい。ここでグズグズして功徳を貪ろうとしている。功徳はない。修めないなら、功徳はないのだ。

この一生の身、口、意のすべてで『仏子行三十七頌』を用いて日々を過ごすなら、求めなくとも自然に得られる。どれだけ行ったのか?『仏子行三十七頌』中では、上師と言うこの二文字について言う。上師は非常に重要だ、と説いている。拝仏、拝菩薩していれば、仏菩薩がほんとうに出てきて、お姿を見せてくださると思っているのか?これまでずっと言ってきたが、そなた達はまったく聞き入れない。何かが起きるとは、そなた達は思わないのだ。私は最近インドから帰って来て、台湾のニュースを見たが、毎日自動車事故で死ぬ人がいる。毎日殺人事件が起きる。そなた達は恐ろしくないのか!こんなに乱れている場所を私は見たことがない!

香港は三ヶ月も動乱が続いているのに殺人が起きない。翻って台湾を見れば、翌日には殺人だ。父母を殺した事件もあった。死体損壊もあった。遺体を焼いてしまった事件もあった。私は運が悪いので、このようなところに来て仏法を弘揚している。自分達は平穏な日々を過ごしている、などと思ってはならない。仏菩薩がご加護くださるので、自分達は平穏にこの一生を終えられる、などと思ってはならない!この地が乱れ続けるなら、そなた達も巻き込まれてしまうだろう。数ヶ月動乱が続いている香港では、すぐに経済が傾いてしまった。その地のたくさんのくの人々がいっしょに修仏しているなら、社会が乱れる機会は減るのだ。

非常に平安だ、などと思ってはならない。みな全く心を込めていない!仏法が出家人だけに修めさせるものなら、『寶積経』は在家菩薩とは言わないはずだ。どう言うことだ?在家人も同じように修められると言うことだ。仏法が出家人だけが修め、在家人が修められないものなら、法王はなぜ私を坐床させるのか?私は在家だ。在家は修められないと考えるなら、我々噶舉派の祖師、ディローパ、ナローパは在家であられた。マルパも在家であられた。ミラレパは結婚しておられないが、在家相を現されておられた。在家は修められないと考えるなら、蓮師を罵っていることになる。蓮花生大士は在家相を現されておられた。さらに罵り続けるなら、八大菩薩中の七方の菩薩はみな頭髮を有しておられる。在家なのか出家なのか?そなた達は一日中三宝を誹謗しながら、自分でも分かっていない。それぞれにそれぞれの因縁があり、累世で私は衆生に借りがあるので、この一生では在家相を現し衆生を済度させ、衆生を救いに来たのだ。

出家相を現すとはどう言う意味だろうか?衆生に対する借りが比較的少なく、過去世での煩悩が比較的少ないなら、この一生では容易に出家相を現す。善根が在家より良いと言うことではなく、在家の善根が出家より良いと言うことでもなく、それぞれにそれぞれの因縁があるのだ。今日なぜ私は『寶積経』を開示するのか?本来は講じるつもりはなかった。講じても仕方がないからだ。そなた達は最も基本的な『仏子行三十七頌』さえ修めない。この上なんの菩薩道だ!菩薩道を学ぼうとしないなら、みんな揃って皈依を退き、信衆になれば良い。私はそなた達に借りはない。恐らくそうするだろう。すべてを回収してしまう。そなた達は信衆となれば良い。こんなに大変な思いをする必要があるだろうか?プレッシャーを感じるなどと。

誰もが法王、大リンポチェを目にし拝めば福があると思っている。なぜそのように考えていいだろうか?私はしばしば強調する。もしこのように拝むだけで福があるなら、法王は私の根本上師だ。私は毎日拝んでいる。毎日と法王に関わっている。毎日と法王と電話で話している。それでいいではないか。修める必要などあるだろうか?誰もが聞き入れない。「阿弥陀仏無遮大超度法会」を開催しても、寺を建立していることを宣伝した方が良い、と言われるが、私はそれを許さない。(弟子は「リンポチェは、大法会の際に、寺について宣伝してはならない、と仰せでした」と報告した)

昨年もそうだった。今年もそうだ。そなた達は奇妙だと思うだろう。たくさんの人が「二万余りもの人です。リンポチェ、言った方がいいですよ!」と言う。なぜ言わないのか?それはその日は阿弥陀仏が主役だからだ!「阿弥陀仏大法会」だ。その日は一切の六道衆生を済度させる。清浄とはなんだ?一つのことだけを行うのだ。法会の会場で寺のことを盛んに言って寄付を求めることもできる。とても感動的に語ることもできる。なぜそうしないのか?それは私は名利のために法会を行うのではないからだ。名利のために法会を行うのではないので、諸仏菩薩は自然に私を加護くださり、衆生を加護くださるのだ。これこそ清浄と言うのだ。たくさんの人が大法会を行うのだから、この機会に宣伝すべきだと考える。だがそれはすべきではない!この大仏寺を建立するに当たり、私は、自分が知っている力のある人を自ら尋ねていないのと同じだ。尋ねない。なぜか?それは一切が縁次第だからだ。この寺は一切の衆生と広く善縁を結ぶのだ。なぜこんなにも大変なのか。千元、五百元と寄付する人もいるが、これらの人も同様に寺を見学に行かせているのか?彼らに善縁を植え付け、善縁を結ぶためだ。三十三天に関するこの話を何度も言ったことがある。

リンポチェは、みなに語って聞かせるように、一人の出家弟子に指示なさった。出家弟子は「私の記憶では、リンポチェはこのように開示くださいました。それは、一人が一つの善事を行えば、後に三十二人もその人と共に一つの善事を行う、と」とお答え申し上げた。リンポチェは「どのような善事だ?」とお尋ねになると、出家弟子は「仏殿を建てることだったようです」とお答え申し上げた。リンポチェは「この先もこのように話すなら、そなたは出家人であるようだ。『ようだ』。ようだ、とはどう言う意味だろうか?」と開示くださった。出家弟子は「ようだ、とは、弟子が心を込め、自信を持って答えていない、と言うことです」とお答え申し上げた。リンポチェは「それなら、私はそなたを出家人のようだとしよう。いつまでもそんなザマでいるが良い!」と開示くださった。出家弟子は「弟子は懺悔いたします」とお答え申し上げた

リンポチェは開示くださった。三十三天とは、三十三重天だと思う人が多いだろう。実は三十三天は一つの天界内の三十三人の天帝のことだ。この三十三人の中には一人のリーダーがおり、仏のために仏塔を建て仏を供養申し上げた。この功徳は三十三天となったのだ。よって私が寺を建立すると言うのに、なんと七百人余りの弟子が護持しない。なぜ、こんなにも早く私は口座を閉めたのか。それは私がこの話を何度もしたからだ。そなた達は物語だと思って聞いているので、この善縁を結ぶ機会をそなた達に与えないのだ。この七百人余りは追い出されるのか?そうではない。だが自分で皈依を退いても良い。これは上師が行う善縁で、しかも自分の寺を建てよと教派が指示した善縁なのに、支持しない。よって今後、そなたは修行の面でより苦しくなるだろう。今私は口に出した。なぜ苦しくなるのか?私の功徳大海、法王の功徳大海、直貢噶舉の功徳大海、喜金剛の功徳大海に、そなたの地位はないからだ。

そなた達は一日中冗談だと思っている。学仏は自分が好きだから行うものだと思っている。間違いではない。誰もそなたに学仏に来いと強制してはいない。だが皈依の際に、上師ははっきりと言った。上師が許可した善事を、聞き入れず行わないなら、与えない。言っただろう?そなた達は二度目があると思っている。私は72歲だ。もう一度寺を建てるなどあり得るだろうか!それとも自分はとても若いので、ゆっくり様子を見て、ゆっくり待てると思っているのか?なぜ私はこんなにも強硬なのか。求めて来て、懺悔をしたものはいくらかましだ。それは未来世で寺に関する善事を行う機会があるからだ。懺悔に来ない者、謝と言う姓の弟子のようなのは、未来世で寺建立、仏塔建立などの事に供養する機会は絶対にない。

そなたは言うだろう。「それでいいよ!これから別の寺へ寄付しに行くから」と。後の方で言う。寺の内部では何か必要だろうか?寺は建物だけではない。内部に修行人がおらず、伝承がないなら、ただの建物だ!そなた達は台湾にはたくさんの寺がある、もう一つ増やしてどうするのだ、と思っているからだ。リンポチェのこれを護持しなくとも、別のを護持すれば同じだと思っている。それは誤りだ。今では我々の教派中の寺の中にも私に支持を求めて来ているものがある。私はすべて法王にご指示を仰がなければならない。そなた達は正に何も分かっていない。寶吉祥道場は、他の一般の道場と同じだと思っている。名のために、金のために生存していると思っている。私は違う!私は大法会を開催しても金銭を徴収しない、名も出さない。自分が建立している寺でさえ宣伝しない。皈依弟子に善事を行う機会を与えたのに、私の皈依弟子が支持しないのだ。私は今すでに菩薩道まで修めているので、自分は菩薩だとまではとても言えないが、少なくとも菩薩道までは修めているので、そなた達に対して憎しみの心を抱くことはなく、怒ったりもしない。ただそなた達を憐れに思うだけだ。何を憐れに思うのか?自分は賢いので、今後もう一度リンポチェに求めれば、リンポチェは許してくれると思っている。

私はそなた達に対して良くしすぎる。この数十年、そなた達に太平の暮らしを送らせて来た。そのため、そなた達はみな危機意識がない。周囲では毎日どれだけの人が自動車事故で死んでいるか見てみよ。自分に問うてみよ。家族の中でどれだけ殺生しているか?私はひたすら修法し、そなた達をしっかり保護して来た。それは、そなた達に楽に日々を暮らさせるためではなく、そなた達に修行させるためだ。修めようとしないのに、残っていて何をするのだ?

なぜ釈迦牟尼仏は、末法時代は一万二千年しかないと仰せなのか。以前我々直貢噶舉の大修行者-ユンカ・リンポチェは「密法にはまだ七百年ある。我々から数えるのだ」と仰せになった。なぜ直貢噶舉は急いで密法を弘揚するのか。法王はなぜひたすら急いで良い出家衆と在家衆を育てられるのか?それは未来の衆生のためだ。なぜ密法はさらに短くなったのか?それは衆生に福報がないからだ。衆生の福報はどんどん浅くなっている。そなた達のようにだ。上師が善事を許したのに、そなた達はまだ待つと言う。そなた達が喜ぶまで待つと言う。私が突然この口座を閉じてしまうとは誰も思わなかった。リンポチェは自分達を待つと思っていた。私は確かに待つことができる。それは私が菩薩道を修めたからだ。そなた達が輪迴しなくなるまで待つことができる。そなた達はますます言うことを聞かない。だが、そなた達を責めることはできない。それは市場全体がこうだからだ。

昨日ある出家人が会いに来て、「如何にして時が至るのを予知できるのか(自分がいつ死ぬか分かるほど修める)?」と訊ねた。私は「たくさんの弟子の死を予知できた」と言った。そなた達もたくさん聞いたことがあるだろう。家族で、亡者が生前にいつこの世を去るか言ったのを聞いたことがあるものもたくさんいるだろう。私の弟子でさえ修めることができるのに、その出家人は反対に私に「如何にして時が至るのを予知できるのか」と聞く。なぜ彼は分からないのか?第一に彼には上師がいない。第二に心が十分に清浄でない。第三に密法の加持がない。私の弟子は時が至るのを予知できる。それは修めたのではなく、上師を絕対に信じているので、密法の加持を得られたからだ。

自分の命をいつまでも弄び続けるが良い!毎週日曜日に宗教集会に来ている。月曜日になれば自分とは無関係だ。日曜日になったら、また来てきれいに洗えば、また一週間が過ぎる、などと思ってはならない。法王はかつて、私は每分每秒いつでも修行していると仰せになったことがある。これは法王が言われたのだ。私が言ったのではない。なぜ法王はご存知なのか?法王は私といっしょにはおられない。そなた達は每分いつでも作業している。出家衆もそうだ。これでは生死を解脱することはできない。リンポチェを信じ、リンポチェの様子を覚えている、などと思ってはならない。『仏子行三十七頌』を自分の生活に用いないなら、この世を去る時に業障が現前し、私の様子をさえ思い出せなくなるのだ。阿弥陀仏の仏号など言うまでもない。どうにもしようがない。

勤めに行くな、結婚するな、ビジネスを行うな、仕事をするな、と言うのではない。経典はこのようには言わない。だが『寶積経』では、一切すべては過去に修めた福報と因縁が、この一生で出現しているだけだ、と非常にはっきりと説く。一切すべては行ったり来たりするもので、一定ではないと教える。家族もそうだ。みな『寶積経』を物語として聞き、自分は聞いた、分かっていると思っている。だが、できているだろうか?できていない。できていないなら、『寶積経』中で釈迦牟尼仏が開示くださる一切の仏法は、そなたとは無関係だ。それはそなた達は物語を聞き、聞き終わって外に出たら忘れてしまうからだ。

なぜ『寶積経』と言うのか?「寶」とは菩提心妙寶だ。『寶積経』は福徳因縁をどうやって累積するかを教えてくれる。菩提心を用いて、福徳因縁を累積するのが最も速い。菩提心を用いず、一般の求める心を用いているだけなら、福報の累積は非常に遅い。そのため『寶積経』と言うのだ。菩薩道で最も重要なのは菩提心だ。菩提心がないなら、何もない。菩提心は六波羅蜜から来る。そのため無著菩薩は、すべての経典と論のエッセンスを我々のために書き記したと仰せになった。後の世の学仏人がしっかりと心に刻み、『仏子行三十七頌』に従い上師の監督の下、行うなら、菩提心がゆっくりと累積され、いつか必ず菩提行を有するだろう。

菩提心を発することは、そなたの行為ができている、と言うことではなく、上師が導き、行いを助ける必要があると言うことだ。寺建立も菩提心の顕現だ。私がこの寺を建てることで、広大な衆生に利益できると言うことが、みな今ではだんだん分かって来ている。寺を建てないなら、そんなに偉大なことを言わなくとも、少なくともあの地区には利益がない。私がこの寺を建てるので、たくさんの地元住民と現地の六道衆生が保護を得ている。なぜ私はこの七百人余りの弟子に寺を護持させないのか。それは彼らに十分な善念がないからだ。自分はすでに非常に善だと思っている。実は十分ではない。上師が先頭に立って行善するのに彼らは従わず、あれこれ考えている。全世界とまでは言えないが、世界中の多くの地域で、私のように行う者はいない。すべて多ければ多いほど良い、みな揃って供養するのが良い、と言うのだ。だが私はやはり彼ら、この七百人余りからは受け取らない。

懺悔に来れば、それは非常に良い。こうすることで、未来世で寺を供養する機会がある。懺悔に来ないのも、非常に良い。彼らは生生世世にたくさんの金を貯められるからだ。この一生で人として生まれ、勿体無くて金を使えないなら、明らかに金持ちなのに、新しいシャツも買わないし、新しいベルトも買わない。このような人は餓鬼道に堕ちる因をすでに植えつけている。節約しているのだ、などと思ってはならない。だが、節約した金はどこにあるか分からない。それほど節約し、シャツが破れ、ベルトがボロボロになっても勿体無くて変えられないなら、いっそのこと頭を剃って出家し、糞掃衣を着れば良い。糞掃衣を着るとは釈迦牟尼仏が仰せになったのだ。以前仏は、出家人の衣服は他人が不要で捨てたものを少しずつ切り取って縫ったものとする、と規定されていたからだ。「糞」とは不要と言う意味だ。

よって謝と言う姓の弟子は、この種の衣服を着るべきだ。こんなにもケチなのだから。以前私は、妻が彼にシャツとベルトを買えないようにしているのだと思っていたが、実は彼自身がケチだったのだ。これほどまでケチなら、ギネスブックにも載れるほどだ。この弟子は主任医師だ。一ヶ月どれほど稼ぐか皆知っているだろう。ところが毛筋一本さえ出そうとしない。私をたまに供養する他は。これほどケチな人が、どうして布施できるだろうか?勿体無くて布施できないなら、あれこれやって最後には餓鬼道に堕ちる。だが餓鬼道でもいくらかマシだろう。さもなくば、大便さえ食べられまい。経典中では言う。人が痰を吐いても、餓鬼は飛びついて食べに来る。憐れなことだ。

今日なぜ私は突然『寶積経』について話そうと思ったのか?それはこの部分が、在家修行者と出家修行者がいかにして相互に支持し、対応するかについて触れているからだ。簡単に言えば、釈迦牟尼仏は出家が偉いとは仰せでないし、在家は供養するので偉いとも仰せでない。そう言う意味ではない。みな因縁が異なるので、この一生で現す相が違うのだ。出家と在家はともに菩薩道を修めなければならないが、二つの生活スタイルは異なるので、相互に支持し助け合わなければならない、と経典中では言う。出家は自分は偉いと威張るのではない。仏はそのようには仰せでない。このような考えを持ってはならない。先ほど言った。菩薩道修行が少し思い上がるなら、すべての功徳はない!特に出家人は最も容易にこうなる。自分は出家で如来衣を着ている等と考えている。実は平等心を持たなければならないのだ。

リンポチェは在家なのだから見下しても良いと考えるなら、蓮師まで罵れば良い。私を罵るのではない。蓮師は在家相を現しておられた。もう一度言う。ディローパ、ナローパ、マルパはすべて在家だ。在家が済度する衆生と出家が済度する衆生には必ずいくらか区別があり、違いがあるからだ。経典中では、在家はいかにして出家を助け、どのような方法を用いて出家人を理解するかを説いている。

経典:「我今応当堅修戒聞彼入僧坊礼如来塔生於三想。」

釈迦牟尼仏は、すべての在家菩薩に仰せになった。在家は戒聞をしっかり修めなければならない。これは一切の戒を指す。在家には在家五戒がある。菩薩戒を受ければ菩薩戒(いわゆる菩提心戒)を守らなければならない。金剛乗の灌頂を受ければ、金剛乗の戒を守らなければならない。「堅定」とは、いかなる事があろうと、守戒の心を変動させてはならない、と言うことだ。例えば、上師が『仏子行三十七頌』を用いて日々を過ごすようひたすら諭すのに、従わないなら、それは破戒だ。学仏とは、これを学ぶのではないと思うなら、何を学ぶのだ?金儲け、良い夫に嫁ぐ、嫁を従順にする、息子に早く嫁を娶らせる、夫が外に女を作らないなどを学ぶのか?だが経典ではこれらについて説いていない。私はどう教えている?これらは経典では全く説かない。いつ仏法はこのようになってしまったのだ?さらには解怨咒で、自分を害する人を追い出す。なんとか言う咒を用いれば、夫から第三者を離れさせられるなどと、私も以前聞いたことがある。これはすべて嘘っぱちだ。

経典で言う「聞」とは、他人が言うことを聞いてあれこれ言うのでも、誰がよく誰が悪いと言うのでもない。一切正信の仏法を聴くことだ。「彼入僧坊礼如来塔生於三想」とは、出家衆が住む地方、寺などに入る、或いは仏塔を目にする等の時には、三つの考え方を起こさなければならないと言うことだ。この三つの考え方はどこから来たのか?それはそなたの戒定慧から生まれたのだ。

経典:「我亦当得如是供養。我亦当得慜一切衆生留於舍利。」

前の方ではいかにして供養するかについて述べたので、ここではもう一度言わない。「留於舍利」とは、私が舍利子を残すと言うことではない。舍利にはもう一つの呼び名—「堅固子」がある。それは修行人の福、徳、慧が結びついて非常に堅固で、どんなことがあってもそれを破壊することはできないと言うことだ。かつてある外国人は邪を信じず、いろいろな物を用いて真の舍利子を破壊しようとした。だがどうしても破壊することはできなかった。煮ても、叩いても壊れない。非常に堅固だ。舍利子が出現するのは、最低限この修行人の戒律が非常に堅固だと言うことだ。だからこそ舍利子が出現したのだ。

破戒すれば舍利子はない。だが舍利子が出現しなければ修行がよくないということではない。修行人の中には一切何も残さずに、この世間を離れる人もいる。一概に言うことはできない。ここの意味は、私はこの一生で一切衆生を憐れみ、聞いたもの、学んだもの、非常に堅固なものを衆生に残す、ということだ。在家菩薩も菩薩道まで修め、果位まで証したなら、仏法を伝えられるという意味だ。

経典:「我如是学。如是行。如是精進。疾得阿耨多羅三藐三菩提。」

ここでは非常にはっきり言う。釈迦牟尼仏の思想と方法を修行の基礎とするなら、在家であろうと、この方法で学び、修行し、精進するなら、非常に速く仏果を証することができる。ここでは、出家が速いとか、在家が遅いとかは言わない。ここでは特に在家について言う。先ほどの『寶積経』では、思い上がってはならないとひたすら修行人を諌める。自分が出家相を現しているのは善根が他人より良いからだと思う。これは思い上がりだ。自分が出家相を現しているのは修行が他人より速いからだと思う。これも思い上がりだ。

これは在家菩薩に聞かせるのだ。出家に聞かせるのではない。『寶積経』は我々修行人にとっては非常に重要な経典だ。我々に平等心を起こさせてくれる。さもなくば在家は出家を見下し、出家は在家を見下す。これは共にあってはならないことだ。

経典:「設作一切仏諸事已。」

この言葉は、仏がお申し付けになった事を私が行ったとする。仏は我々に何をお申し付けになるだろうか?仏は金を儲けよ、子孫を増やせとはお申し付けでない。しっかり仏法を学び、自ら生死を解脱し、そして広く衆生に利益するようお申し付けになる。しっかり学仏して衆生を済度させたいとたくさんの人が言う。自分自身さえ生死を解脱できていないのに、なんの衆生を済度させるのだ?自分が生死を解脱できなければ、衆生を済度させると言う資格はない。どこへ済度させるのか?彼岸へだ。私は大法会を開催し、多くの衆生を彼岸へと済度させている。これは口で言うだけではない。自分自身が行わなければならないのだ。この言葉の意味は、仏がお申し付けになった事をすべて行ったということだ。

経典:「如仏如来入於涅槃。是入僧坊観於一切諸比丘徳。」

仏はすでに世におられない。我々在家菩薩を修める者は一切の寺に入り、一切の諸比丘徳(功徳)を観(外観が荘厳であるとかないとかを聞いたり見たりするのではなく、心を込めて見)なければならない。言い換えれば、自分で修められないなら、その人が何を修めているか観えないので、上師が必要なのだ。上師の能力はそなたよりは幾らかはいい。よってこの比丘の徳がどこにあるのか、一切の支持を与えるべきかどうかを観ることができる。いわゆる「すべき」とは、お互いを分けるのではなく、修めていれば助け修めていなければ助けないと言うのではない。どの程度まで支持するか定義するのだ。この言葉は非常にはっきりと言っている。寺へ行ったなら、一切の諸比丘徳を観なければならない。出家すれば必ず徳があるのではないのだ。在家には彼らを観察する権利がある。これは仏が仰せなのだ。私が言うのではない。よって私は毎日出家弟子の徳を観ている。そなた達は無徳だ。ここで言う徳とは道徳ではなく、功徳だ。

何を観るのか?先ほど言ったように、自分が修めるなら、「如是学。如是行。如是精進。」自然に観える。修めないなら、どうして観えるだろうか?有名ブランド、大きなブランドを好み、ここは有名だ、みな拝みに言っている、と考え、拝みに行く。これが、土曜日に私が道場で信衆接見を公開し、しかも直接話す理由だ。奇妙な方法を通して、私を見せたりしない。そなた達にリンポチェに徳があるかどうかを観せているのだ。徳がないなら、離れていき会いに来なくとも良い。

経典:「誰是多聞。」

寺に入ったら、急いですべてを参拝し一つ一つに柏手を打って、功徳があると感じたら外に出る、と言うのではなく、先に一先ず見よ、と言う意味だ。もちろん経典中で言うのは、すでに菩薩道を修めている在家衆だ。菩薩道を修めている在家衆でないなら、この方法を用いることはできない。それは彼が分からないからだ。自分は修めず学ばないなら、他人が何をしているかどうして分かるだろうか?「誰是多聞」とは、正法を聞いているか、あちこち飛び回っていないか、と言うことだ。例えば、法王が法会を開催なさる時、毎回仏法を聞きに来ているだろうか?法王が何を仰せか分からないとしても、会場で精神を集中して聞いているだろうか?居眠りしていないか、モゾモゾ動いていないか、携帯電話をいじっていないか?

経典:「誰是説法。」

直貢噶舉では、公開の場で法座に上り説法できるのは、リンポチェの他は、絕対にケンポスだ。説法とは、たくさん読経すれば良くなる、どの菩薩をたくさん拝めば良くなる、と教えたりすることではなく、如来がお教えになった生死解脱の法を説くことだ。あなたの相ならどの仏を拝むべきだ、などと言うなら、これは説法ではなく、迷信を言いふらすことだ。

経典:「誰是持律。」

「律」とは戒律だ。戒律を守らないなら、戒律を持しているかどうか外からは分からない。なぜこのように観るのか?それは、そなたの勘違いが心配だからだ。

経典:「誰持阿含。」

阿含とは『阿含経』だ。小乗仏法、阿羅漢を修めるなら、『阿含経』を必ず持誦しなければならない。釈迦牟尼仏が最も最初に開示くださった経典が『阿含経』と『雑阿含経』だ。この二冊の経は現在、南伝仏法中で広く流伝されている。多くの出家衆は実は『阿含経』を念じたことがある。「誰持阿含」とは小乗仏法を修めるか否かと言うことだ。小乗仏法とは、貶めた言い方ではなく、小乗とは阿羅漢まで証すると言うことで、阿羅漢を修めたいなら、『阿含経』と『雑阿含経』を修める比丘を探さなければならないと言うことだ。それが問題だ。在家は阿羅漢を修められない。絕対に無理だ。必ず出家相を現し、男女の欲を断ち、淫心を断ち、考えることさえ許されず、そうして初めて阿羅漢を修めることができる。

無理なら、『阿含経』を修めないことだ。阿羅漢は神通力を持つ。だが神通力があると言っても、生死を解脱できると言うことではない。釈迦牟尼仏の側の目犍連尊者は第一の神通力をお持ちだった。だが世間を離れた時は撲殺されたのだ。道理に照らせば、神通力を持っているなら知っており、逃げられたはずだ。どうしてこのようになったのか?それは返すべきは返すべきで、この一生で逃げれば、次の一世でやはり返さなければならないと知っていたからだ!神通力は業力を変えられないと言うことだ。だが我々度衆する者は絕対に神通力が必要だ。それは便利だからだ。その人の過去の因がどこから来ているのか、どんな方法を用いて煩悩を治めるかを知ることができる。この種の神通力は有用だ。

神通力が業力と運命を変えられると思うなら、それは誤りだ。神通力は一種の修行の副産品に過ぎない。学仏しなくとも神通力があると言うことはあり得る。仏法の神通力は円満で障礙がないからだ。しかも仏法には六神通力がある。外道は多くとも五神通力だけで、六神通力は得られないのだ。よって今日阿羅漢を修めるつもりがないなら、『阿含経』を修めた出家衆に従っても、助けとしては大きくない。彼がよくないのではなく、そなたにとってあまり助けにならないのだ。そなたが『阿含経』が好きだとしても、この一生で阿羅漢果まで証することは絶対にできない。阿羅漢まで証できないなら、輪迴する機会はある。

経典:「何等比丘持菩薩藏。」

菩薩戒を持するとは、火傷の跡を三つ作ればそれで良いと言うものではない。この在家菩薩自身が菩薩戒を受けたと言う意味だ。そなたが菩薩戒を受けたかどうかはもちろん分かる。この数人の出家弟子は一日中私に叱責されている。それはその内の数人が菩薩戒を受けているからだ。比丘尼戒に対する彼女らの懺悔を私は受け入れられない。それは私は比丘ではないからだ。だが菩薩戒については、私は絕対に厳格に彼らに要求できる。それは私が菩薩戒を受け、菩薩戒を伝えているからだ。誤っているなら、私は叱責する。よって、菩薩戒を受けたことがなく、菩薩戒を守らず、菩薩戒を修めないなら、どの比丘が菩薩戒を修めていないかを見極めることはできない。

ではどうしたらいいのか?上師に頼るのだ。上師こそそなたの手本だ。だが比較するのではない。他人と私を決して比較してはならない。上には上があるのだ。リンポチェは菩薩戒を守る。法王は、私が非常に厳格に守戒している、と公に仰せになった。仰せなのは、まさに菩薩戒だ。私は比丘戒を守らない。それは私が比丘ではないからで、そのため菩薩戒を受けたのだ。それは上師が自ら口伝くださったのだ。私が手に入れたのでも訊ねたのでもない。そなた達のように聞きに来たりしない。もし有るなら、私は言う。ないなら、絕対に言わない。

「藏」とは、菩薩戒がある他に、彼の行動、思想が菩薩のための行為かどうかだ。簡単に言えば、在家菩薩を修めていないなら、出家人が菩薩道を修めたかどうかを見極めることはできない。本当に見極めることはできない。表面的にはあったとしても、だが中身はあるか?そなたには見極められない。よって上師が知らせるのだ。

経典:「誰阿練児。」

阿練児とは、静寂なところで修行する、つまり「阿蘭那」のことだ。我々在家は絕対に無理だ。これは専ら静寂なところを探して修行する人のことだ。この一生で修行し成就を得ようとするなら、ある一定の期間、必ず山林、洞窟、高山上で過ごさなければならない、と密法では言う。私が閉関するのはこのためだ。静寂とは、音がなく、鳥も鳴かず、風の音もしない等と言うことではなく、人の喧騒がなく、そのエリアでは何事も起きない、と言うことだ。2007年法王は私を伴いラプチ雪山で閉関なさった。そこは人がおらず、動物しかいない。夜間にはクモが這ってきていっしょに寝てくれる。毛虫もいる。日中は何もない。これこそ静寂だ。

閉関時には電話等をしてはいけない。すべてを静寂にしなければならない。人世間のあれこれはすべて停止し、修行だけにしなければならないのだ。そなた達にはできない。無理だ。なぜ寺を建立するのか?それは、そなた達が閉関できる静寂な場所が、台湾では見つからないからだ。この場所だけが、私によって見つけられた。一生の内で、静寂閉関を経験しないなら、成就を得ようとしても、非常に難しい。「静寂」とは、寺内で発生する何らかの事にも関わってはならないということだ。出家人の中には閉関の際に「明日は懺がある。行くべきか行かざるべきか。功徳主が来ても出て行かないなら、失礼だと思われるかもしれない。だが出て行けば、またなんだかんだ」等と考えている者もいる。これこそ煩悩だ。静寂を得られていない。

そのため、寶吉祥は今に至るも大功徳主を設けていない。それはこの種の煩悩を避けるためだ。供養しようが供養しないが、どうでも良い。損するのはそなた達だ。私とは少しも関係がない。閉関しても静寂を得られていない出家人が多いが、それはすべて功徳主のためだ。よって阿練児も彼らとは無関係だ。そのため、京都の道場は法王から賜った名称、つまりこれなのだ。それは法王が、私が静寂を好み、静寂を楽しんでいることをよくご存知だからだ。

根基がない人なら、三ヶ月の閉関と言わずとも、一週間でも狂ってしまうだろう。普段たくさんの事柄にあれこれかかずらわっているのだ。一分スマホを見なければ、全身をアリに咬まれているような焦りを感じるだろう。今では出家人まで皆こうだ。たくさんの出家人が毎日絶えずスマホをいじっている。どこにそんなにたくさんの用事があるのか、私は全く理解できない?私には現在200人の従業員、1500人の弟子がいるが、全く携帯電話を使っていない。だが彼らは一日中スマホであれこれやっている。何をそんなに忙しくしているのだ、と訊ねても、何で忙しいのか、はっきり答えられない。これこそ阿練児を修めていないと言うことだ。

静寂を修めないなら、閉関は非常に難しい。無理だ。いかにして静寂を修練するのか?それこそ『仏子行三十七頌』を修めるのだ。『仏子行三十七頌』を修めれば、心を静寂にする訓練が自然にできる。静寂とは心に念頭がなく、心が停止し、或いはあらゆることに構わない、ということではなく、面倒になる事がないということだ。暇だから家で念仏し、経典を見て、一日中暇つぶしを探し、訳も分からずたくさんの集まりに出席し、山のような無駄話をして帰ってきて、ストレスが発散できたと思っている。これでは静寂を修めることはできない。

仏法は静寂を修める、つまり自分の煩悩を減らすことことを重視する。減らすことができないとしても、自分の煩悩を抑え込むことはできる。煩悩が少なく、自分の煩悩を抑え込むことができるなら、心は自然に静寂になる。心が静寂を得たなら、永遠の楽は自然に出現し、苦はなくなる。なぜそなた達はこんなにも苦しいのか?それは心が静寂を得られていないからだ。そのため、そなた達を閉関に行かせることに関して、私は考慮しなければならないのだ。なぜか?それは普段あちこち飛び回り、または謝と言う姓の弟子のように一日中娘のこと、節約のことを考えているなら、静寂を得ることなど不可能だからだ。

以前ある弟子がいた。今ではすでに去ってしまっているが、閉関時に他の人のトイレは何の問題もなかったのに、彼のトイレだけ便器が詰まってしまい、閉関センター全体の汚水が彼の便器から溢れ出てきて、数日間臭くなるということがあった。これも良い。糞便地獄に堕ちるはずだった彼の果は、この一生で報いられ、糞便地獄へ堕ちる必要は無くなってしまったからだ。閉関時には様々な事が発生する。よって欲張って閉関しようなどとしないことだ。福報が不十分なら、先ほど言った弟子のようになる。どこにこんなにも妙なことがあるだろうか?閉関センター全体で、彼の部屋の便器だけが詰まったのだ。しかもすべて彼のトイレに集まった。こうなれば彼としても助けを求めないわけにはいかない。毎日向き合わなければならない。こうして彼は糞便地獄に堕ちる必要は無くなったのだ。

経典:「何等比丘少欲乞食。」

これは観察が必要だ。食事と供養は必ず必要だが、この面の必要は自分の事のためか、それとも純粋に修行継続のための身体を養うためなのか?よって出家人には多く与え過ぎてはならない。定まる前にたくさん与え過ぎると、欲望が頭を擡げる出家人も中にはいる。よって適度に行うのが良い。私は現在毎月出家弟子に単金を支給している。適度を旨とする。十分食べられる額で、節約すれば石鹸や衛生用品を買うことはできる。だが金儲けはできない。欲を抱かせないためだ。この言葉の意味は、我々は観察しなければならない。こんなにたくさん求めて何をするのか?それが出家の修行人なら、もちろん自分が先に成就を修めなければ、衆生に利益することはできない。修行の過程でたくさんの欲望があるなら、成就を修める機会はほとんどない。

釈迦牟尼仏はなぜこれらを仰せなのか?それは出家人は在家の供養が必要だからだ。在家が供養後に誤りを発見したなら、出鱈目を滅茶苦茶に言い、在家に口業を犯させてしまう。よって釈迦牟尼仏は先ずどうすべきかを我々にお教えくださるのだ。それは先ず菩薩道を修める。こうすることで、菩薩道を修める出家人を助けることができる。これを知らないなら、上師の言うことを聞かなければならない。上師がそなた達に代わり彼らを助ける。愚かなことをしてはならない。

経典:「著糞掃衣独処離欲。」

「著糞掃衣」とは他人の不要な衣服を着ること。「独処離欲」とはたった一人で、一切の欲望から離れることだ。以前ユンカ・リンポチェとテンジン・ニンマ・リンポチェは独居であられた。ユンカ・リンポチェが暮らしておられたところは、今言っても信じないだろう。それは崖の上に窪んだ洞穴だった。内部には何もない。入り口は樹木、枝、木で遮られていて出て来られなくなっており、他人が入ることもできない。私が訪ねた時には、侍者にそれをどかさせてくださった。しかも彼に会えるのは、たった一人の侍者だけだ。外は牛小屋で牛がいた。よってユンカ・リンポチェは欲が少なく独居でおられたのだ。しかも晚年には全く人に会われなくなった。私は言ったことがある。そなた達、これらを引きずっているので、私の修行は非常に遅れてしまった。

経典:「誰是修行。」

修行とは、生死解脱の法の修行だ。私はラプチ雪山で三ヶ月余り閉関したが、それはたくさんの人が見ている。私が修行しているかどうかを、たくさんの教派のリンポチェとラマが見ている。三ヶ月余り修行して出てくると、初めて私が本当に修行していたのだとみな理解する。彼らはなぜ、私が修行しているとわかるのか。それは彼らも修行したことがあるので、分かるのだ。よって、修行したことのないそなた達には、もちろん分からない。

経典:「誰是坐禅。」

坐禅とは、毎日24時間ずっと坐禅するのではなく、修行の方法が禅宗を主とし、しかも居住する場所が非常に単純な坐禅のためのみの場所だと言うことだ。先ほど言ったユンカ・リンポチェとテンジン・ニンマ・リンポチェは、お暮らしの場所は共にとても小さかった。私はテンジン・ニンマ・リンポチェの関房を二度訪ねたことがある。非常に狭かった。毎日坐禅をなさっておられ、ミラレパ尊者のように何もないなら、とにかく坐禅をなさっておられた。

ラプチ雪山では、ミラレパ尊者の洞窟へ行ったことがある。内部は真っ暗で石だけがあり、他には何もない。中に入ると、どんな音も一切聞こえず、静寂だ。ラプチ雪山には、ミラレパ尊者がかつて修行なさったことがある洞窟がたくさんある。その内の二つの洞窟に私は行ったことがある。一つの洞窟は非常に高いところにあり、誰も辿り着けない。ミラレパ尊者は飛んで行かれたのだ。登って行かれたのではない。ミラレパ尊者の伝記では、尊者は何もないなら、とにかく坐禅を組み、世俗の一切の事情に関わらず、あらゆることに関わらなかったと言う。

経典:「誰是営事。誰是寺主。」

「誰是営事」とは、寺は誰が管理に責任を負うのか、と言うことだ。現在チベット仏教の寺では、リンポチェが弘法、伝法に責任を負い、必ず一人の営事がおり、寺内の大小様々な事務管理の責任を負う。我々は管家と呼ぶこともあり、しかも管家の方がリンポチェよりも偉いかもしれない。それは仮にリンポチェが過ちを犯せば、管家が追い出すことができるからだ。かつて本当に起きたことがある。通常管家、営事は寺、伝承に非常に忠心が厚い人で、変わることはない。私は一度、ラプチの、ある管家を台湾に招いたことがある。この管家は生涯一度も出国したことがなかった。招いたのは、私の閉関が終了した際、法王が「リンポチェ、そなた、彼を台湾に招待せよ」と仰せになったので、私は「分かりました」とお答え申し上げたからだ。彼は非常に忠心が厚く、すべての人が逃げ出してしまっても、一人で寺を守り、飲まず食わずで守り通した。このような人は非常に少ない。今では滅多に見つからない。私欲のためでなく、真に寺のために事務を管理する人を見つけることは非常に難しい。

「営事」とは、寺の大小さまざまな事すべてに責任を負うのだ。これも修行だ。つまり、「営事」は修行ではないと言うことでない。自分が寺の大小の雑事を管理し、他の人に修行の機会を与えることで、自分自身も修行しているということだ。

ラプチ雪山へ行った時、ヤクの臼歯を見たことがある。非常に大きかった。通常は非公開で人に見せないものだ。その日法王は、必ず私に見せよと特別にお申し付けになった。中でも特別なのは、この臼歯の表面に千手観音があることだ。以前ジッテンサムゴンは五万人の弟子をラプチ雪山に派遣して閉関(この習慣は宋代まで続いた)させた。その内の一人のリンポチェは、ラプチに弟子を従え閉関した。その頃ラプチには人がいなかったので、このリンポチェが食べるもの、用いるものは、每年このヤクがわざわざチベットから運んで行った。このヤクは死後、この臼歯を残した。表面には非常にはっきりとした千手観音がある。刻んだのではない、浮き上がってきたのだ。

ヤクは念仏しない。なぜ千手観音が現れたのか?それはこの修行者の修行を助けたので、このヤクにも功徳があったからだ。なぜ私は寺を建立することを先にそなた達に告げたのか?今日一頭のヤクであっても、善事に参加することで功徳がある。聞けば聞くほど後悔が深まるのではないか?私はこの700人余りをここ数日よく眠れなくしてしまった。一頭のヤクでさえ、荷物を運び修行人に食べさせたことで成就が得られたのだ!千手観音が現れた臼歯は、このヤクがこの一生で畜生道を解脱したことを示している。絕対に天道へ行っただろう。このヤクは念仏しないが、死ぬまで毎年ひたすら運び続けた。そなた達は仏法の真の含義がどこにあるかを見出すことができていない。

経典:「悉観彼行隨誰人欲不生譏呵」

この言葉は非常に重要だ。「誰がどんな法門を修めている、誰がどんな法門を修めていない、と言って批判してはならない」という意味だ。はっきりと見極めた後に、誰がどんなものが必要なのかを見て助け、皮肉ったり、叱責したりしてはならない。例えば、一人の修行者が戒律を持する。「あの人は修禅していない。なぜ供養しなければならないのか?」などと言ってはならない。例えば、禅を修める人は、我々がユンカ・リンポチェにお目にかかった時、リンポチェは入浴しておられなかった。リンポチェの戒律は清浄でないと言うだろうか?比丘戒では清潔でなければならないと規定がある。だがユンカ・リンポチェとテンジン・ニンマ・リンポチェは入浴も歯磨きもしておられなかった。だが我々はそれを批判することはできない。それは別の法門を修め、成就を得ておられるからだ。よってこの言葉の意味「分からないなら批判してはならない」ということだ。私は在家上師だ。法王が私の果位を認証くださっている。仮にそなたが私を批判するなら、それは法王を批判したと言うことで、法王を批判するのは、伝承を批判し、すべての上師を批判し、さらには蓮師と八大菩薩を批判するのと同じだ。なぜ業がこんなにも重いのかが今分かっただろう!

私が如法でないなら、二万人余りが参加する大法会を開催できるだろうか?たとえ本当に私が一人に1000元与えチケットを買って集めたとしてもだ。だがあれは済度法会だ。私に能力がないなら、修法が終わった後に死なない方がおかしいくらいだ!だが反対に法会の後、私は元気になってしまった。本当は修法したあの二日間、私は具合が悪くてぐったりし、下痢もして、何も食べていなかったのだ。よっていかなる修行人も決して批判してはならない。分からないなら訊ねても良く、上師に教えを請うこともできる。だが適当に批判してはならない。それはそなたには、その修行人がどの法門を修めたかが分からないからだ。

テンジン・ニンマ・リンポチェが歯磨きしておられないとなぜ私は知っているのか。それはリンポチェが私に、ご自分の食べさしのヨーグルトをくださったことがあるからだ。スプーンでたくさん召し上がった後、同じスプーンでひと匙すくって私にくださった。歯は垢だらけだった。そなたは食べられるか?だが私はその時、少しも躊躇せずすぐに食べた。これは第一に私の執著心を破った。リンポチェは、私がきれい好きであるとご存知だったからだ。第二に私の傲慢な心を破った。第三にリンポチェは私に語の加持をくださった。そなた達には得られないし、二度と再びこのようにはしてくださらない。後で他の人が求めたが、リンポチェは適当にすくって彼らに与えた。そのスプーンは舐めてもいない。彼らの願を満たせばいいだろう、というだけだ。

よってこの一段は非常に重要だ。特に我々在家修行人はしっかり記憶しなければならない。寺へ行った時分からないなら、上師に従い行い、あれこれ喋ってはならない。ユンカ・リンポチェとテンジン・ニンマ・リンポチェが入浴なさらないように、ドラブ・ワン・リンポチェは全く洗髮なさらない。これらは破戒ではない。この方達は別の法門を修めて成就を得ておられるのだ。破戒していると批判することはできない。修める法門が違うだけなのだ。よって学仏する人は、自分が経験したことがない事で、他人を批判してはならない。自分が修めたことがないなら、どうして分かるだろうか?

今日ある人がある修行人を批判したとしよう。だがこれら修行人はある面ではたくさんの衆生に利益しているかもしれない。そなた達の価値観からすれば、この修行人はしっかりできていないと思うかもしれない。だがそれはそなたの価値観だ。菩薩と仏の価値観は、そうではないかもしれない。菩薩と仏は、衆生に利益しているかどうかをご覧になる。利益しているなら、小さな部分は、それほど批判なさらない。それはやはり人間だからだ!自分に問うてみよ。そなたは完璧な人間か?もしそうでないなら、何を以って修行人を批判するのだ?その修行人はそなたができないことができる。そなたにはあれこれ言う資格はない。言い換えれば、一人の具徳の上師を見つけられたかどうかは、そなたの福徳因縁と関係があるのだ。従う上師を間違えたと責めてはならない。それはそなた自身の事だ。上師とは関係がない。

よってここで、釈迦牟尼仏は我々在家で菩薩道を修める修行人に特別にご注意くださるのだ。出家衆を助けるには、先にはっきり見極めなければならない。この種の修行方式を経ていないなら、出家衆をはっきり見極める能力はないのだから、そなたの上師に教えを請うのだ。たくさんの人が私に助けを求めてくるが、私は必ず法王にお訊ね申し上げる。私は見ることはできるが、法王は私の上師なので、私はやはり教えを請う。法王に悪役を押し付けると言う意味ではない。三宝を尊重するということだ。この段はこのように解釈する。それは私ははっきり見極められるが、法王がおられなければ、それほどはっきりと見極めることはできないからだ。よって必ず教えを請うのだ。教えを請うた後、必ず法王が仰せの通りに行う。自分の考えはない。

釈迦牟尼仏は慈悲深くていらっしゃる。我々、これら在家で菩薩道を修める者が口業を犯さないようお教えくださる。よってみなしっかり記憶しなければならない。『寶積経』は、出家の修行が速いとは言っていないし、在家の修行が良いとも言っていない。すべて平等だ。それぞれにそれぞれの業力、修行の方向があるだけなのだ。だが結論は何れにしても成仏できるということだ。よって自ら決心を下し、学仏しに来てどうするのかをしっかり考えなければならない。

経典:「若在寺廟及往集落。有所言説善護口業。」

仏はほんとうにすごい。「寺や修行人が暮らす場所へ行く機会があったなら、その時話すのは、善護口業でなければならない。分からないなら教えを請い、この菩薩の作りはとても荘厳とは言えない、などと適当に口を開き、批判してはならない」と仰せだ。これは批判だ。批判好きの人が多い。寺へ行き、好きでないなら、そこへ行ったというだけでいいだろう。そなたにはリンポチェの能力はない。私が日本の古寺へ行き持咒したところ、高さ数メートルの十一面観音立像が前方へと揺れた。そなた達には能力がないのだから、拝むだけで良い。好むなら何度か拝み、好きでないならさっさと出て行けば良い。善護口業だ。特に、そなた達出家人は自分の口を保護することに長けていなければならない。適当なことを言ってはならない。『仏子行三十七頌』もこのように言っているのではないか?仏の仰せはすべて同じだ。ただ今日講じたのは、いくらか詳細だというだけだ。もう一度言う。適当に過ちを犯し、自分でも気づかず、または過ちを犯しながら、理由を探し言い訳してはならない。

好きでないなら、中に入って一通り見ればそれで良い。名前を刻んだりしてはならない。出家人、修行人が経典が講じるようにしているのを見たら、供養すれば良いし、供養しなくともどうと言うことはない。だが適当に口を開いてはならない。上師に意見を訊ねよ。適当にあれこれ言うのは、そなた達にとって良くない。つまり仏は非常に慈悲深く、ひたすら我々を守ってくださるのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださり、自ら参会者を率いて『求生極楽浄土祈請文』『発菩提心』を唱誦くださった。法会は円満となり、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


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2019 年 11 月 04 日 更新