尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年6月2日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターに自ら殊勝なる施身法法会を主法なされ、参会者全員に貴重な仏法の開示を下された。

修法前に、経典の一部の内容について先ず少し開示しよう。先月日本で弘法した。あの寺の仏像の縁起は、私が持咒したために動いたのだとみな知っておろう(温泉寺弘法情報参照)。衆生に盲信を生じさせないよう、廖という姓の弟子に、この種の徵兆に関する経文を経典中から探しださせることとしよう。仏法では、何かを修めて成就が得られたなら瑞相が現れる、とあるからだ。これは経典に記載がある。自分の見方と考え方で自分が修められたと考えることはできないのだ。

『大蔵経』の続部中には『妙臂菩薩所問経』という部がある。開宗明義の第一段は「得勝師助伴速獲悉地」という。殊勝なる上師の助け、サポートを受けなければならないということだ。「伴」とは、修行の過程で、ひたすら寄り添ってくれるということで、そうでなければ悉地(成就)を得ることはできない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、学仏して数十年になる出家弟子に、「成就」の意味を説明するよう指示なされた。出家弟子は「成とは、我執と法執を破除し、成仏するまで、小乗阿羅漢、証空性から菩薩へ、凡から聖に変わることです」とお答え申し上げた。リンポチェは「それから?」と訊ねられた。出家弟子は「行菩薩道、発菩提心、行菩薩行により衆生の成仏、自分の成仏を助けます」と答えた。リンポチェは「そのような言い方では、みな理解できまい」と仰せになった。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、他の出家弟子に「成就」の意味について説明するよう指示なされた。

二人目の出家弟子は「成就についての最も簡単な説明は、リンポチェが衆生生死の拠り所となるようなものです。これが私の最も簡単な理解です」とお答え申し上げた。

三人目の出家弟子は「現在の知見からは、見道の後、修道を開始することです。けれども最も重要なのは上師の認可です」とお答え申し上げた。

四人目の出家弟子は「リンポチェが修められた善調御師のように、衆生の必要が何であるか知ることです」とお答え申し上げた。

五人目の出家弟子は「上師の開示に基づく成就に対する弟子の解釈は、自分が先に生死を解脱し、次に衆生の生死解脱を助けることです」とお答え申し上げた。

六人目の出家弟子は「成就に対する弟子の考えは、自分が生死を解脱でき、衆生の生死解脱を助けられることが成就です」とお答え申し上げた。

七人目の出家弟子は「私は無能なので学習中です。みなが利益を得られるよう、先ほどの仰せをもう一度お話しくださるよう上師にお願い申し上げます」とお答え申し上げた。

八人目の出家弟子は「いわゆる成就に関してですが、先ず弟子を成就させてくださるよう、今この場で上師にお願い申し上げます。弟子が成就しましたら、その時にならなければ、上師にこの経験についてご報告申し上げる資格はありません」とお答え申し上げた。

九人目の出家弟子は「成就とは修行が一定の証量に達し、つまりリンチェンドルジェ・リンポチェのようになり、それから凡事が無上の円満、徹底的な円満に達することです」とお答え申し上げた。

十人目の出家弟子は「つまり修行が上師のようになることです。我々は上師の様子を学ばなければなりません」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を継続なされた:そなた達は知識をひけらかしたり、知ったかぶってみたり、責任を私に押し付けたりばかりだ。最後から二人目の者が言ったのだけが、比較的適当だ。経典でいう成就とは、仏と上師の教導を通して、起心動念のすべてで衆生に利益し、しかも仏法において行いたい事が、いつか必ず成功し円満となることだ。また、成就とは、方便法を通して広大な衆生に利益できることと定義される。

自分が修行で成就を得ていないなら、衆生に利益できるはずはない。時下非常に多くの人が自分で持咒、念咒すれば、他人を済度できると思っている。これは不可能だ。自分が成就を得るまでは不可能だ。成就を得たかどうかはどうしてわかるのか?修行人においては、必ず上師の認証を得なければならない。それ以外には、成就を得た修行人であれば、どんなところへ行っても瑞相が出現する。これら瑞相は経典に記載されている。

経典のこの段では、金剛手菩薩について触れ始めている。金剛手菩薩とは、すべての金剛部の首だ。金剛乗を修めるなら、必ず金剛手菩薩を修めなければならないという意味だ。金剛手菩薩は大勢至菩薩の忿怒相だ。台北寶吉祥道場の壇城では、中央に観世音菩薩が、観世音菩薩の左手に金剛手菩薩がおられる。

経典のこの段では、妙臂菩薩が金剛手菩薩に「我見世間有持誦人。斎潔清浄精勤修行。於真言明而不成就。」とお訊ねになる。そなた達は誰もできていない。「斎」とは八斎戒、閉関修行で、「潔」でいうのは修行の場所が清浄で、殺生がなく、不善な事業や墓地等を営んだことがないということだ。「清浄」とは求めることのない修行だ。欲望や病の治癒などを満たすためではなく、非常に精進勤勉な修行だ。下の方の一言では、持咒では成就を得られないと説く。

妙臂菩薩は続けて金剛手菩薩に訊ねられた。なぜこれらいわゆる持咒の人は非常に精進勤勉なのに、持咒の成就上中下法で成就を得られないのは、いったいどういった因で果が得られないのか?罪障が滅除されていないのではないか?金剛手菩薩に開示をお願いしたい。この部は非常に長いので簡単に開解する。

経典の後の方ではいう。成就を得れば法力は無辺のはずだが、これらいわゆる修行に精進する人は「法力無能耶」だ。つまり法力が出現しない。修行の時が非時で、種姓が正しくないか、念じた咒語に欠陥があるか、多過ぎるのではないか?修持の際に侮り、驕り高ぶり、または供養が正しくないのではないか?

〔この時、ある弟子の携帯電話が鳴った。リンチェンドルジェ・リンポチェは会場を離れるように指示された〕

下の方では金剛手菩薩が開示なさる:持咒で成就を得られないなら、一つには自分の累世の業を転動できず、この者が携帯電話を切らなかったため、こんなにもちょうどよく今電話がかかってきた。10分早ければ私に聞かれることはなく、10分遅ければ私は持咒しており聞こえなかっただろう。つまり護法はすごいのだ。正しくない心で道場に入ってくれば、必ず障礙が現れる。もう一度言う。ここで言うのは、そなた達のような人ではない。妙臂菩薩は非常にはっきり仰せだ。非常に多くの人が八斎戒を守り、非常に清浄な心で、非常に精進し、非常に勤勉に咒語を修めているのに、修められない。なぜか?ある弟子は、自分はどんな音を用いて念じていると思っているのか?八斎戒もできていないのに、顕教修行で非常に多くの経典を見たと思っているのか?私は最近一人の弟子を受け入れた。すぐに私のために経典を見つけ出してくれる。私が何を言おうと思えば、すぐに見つけ出してくれる。

『大蔵経』の全てを念じようとするなら、一年かかっても終わらない。つまり諸仏菩薩が私を護持くださり、私が成就を得ているということだ。つまり私は衆生に利益し、衆生の解惑を助けているので、護法、菩薩が私をお助けくださるのだ。誰もが非常に驕り高ぶり傲慢だ。ちょっと念じれば済度できる、リンポチェは必要ない、と思っている。成就を得ていないなら、済度など不可能だ。ある出家弟子は以前非常に真面目だった。済度させるために二十数冊の経を念じていた。だがこの弟子は、済度できていないとはっきりわかっていた。なぜなら自分が成就できていないからだ。そなた達が理解できる言い方で言えば、成就とはつまり思うことが成せるということだ。修行者においては、衆生に利益するという念頭を起こせば、その咒語は衆生に利益できる。

そんなにすごいのか?経典の後の方で説いている。成就を得た人にどのような現象が出現すると。そなた達にもあるなら、そなた達は成就を得たのだ。だが現在では多くの映画が偽造されている。特殊効果で自分を見せている。

経典のこの段で最も重要なのは始めの方で、殊勝なる上師の助けを受けなければならないという。かつて道場を離れた者が、六字大明咒は登録しているかと訊ねた。実は登録している。だがこの者の考えは、法律上登録しているかどうかだ。そのため私のものではない。私のものではない。それは本当だ。観音菩薩のものでもない。だが登録している。なぜなら上師の助けがなければ、成就を得ることはできないからだ。非常に多くの人が思い上がっている。自分でひたすら念じれば、いつか必ず開悟すると思っている。これは不可能だ。

上の方ではっきり言っている。これらの人は八斎戒を守り、清浄な関房で非常に精進、勤勉に修行しているのに成就を得られない。そなた達はどうだ?一日1000遍、3000遍念じれば成就が得られるか?物事を変えられるか?チベット密教では、上師の言葉に従わなければならないとひたすらいう。なぜチベット密教は常に「上師が言うことは正しい、黒と言えば黒、白と言えば白」だと言うのか?上師は常に正しく誤りはない。法座にいなければ上師ではない、法座を下りれば凡人だ、と考えるなら、学仏に来る必要はない。なぜか?我々在家の上師は必ず持咒により成就を得ている。つまりいわゆる念力が非常に強いのだ。私が口を開きさえすれば、絕対に応験だ。私が、そなたは良くなると言い、そなたが教えに従いさえすれば、絕対にゆっくりとよくなる。この一世ではないかもしれない。そなた達は次の一世を待てないだろう。なぜならそなた達はとても急いでいるからだ。すぐに効果を見たいと思う。

なぜこんなにも多くの人が恭敬心を起こし、加持により病痛が減るのか?これこそ成就だ。特に修法せずに念じるだけだ。そのため私はしばしばたくさんの人に言う。法座を下りれば上師ではないなどと思ってはならない。法座を下りてもやはり咒師だし、やはり上師だ。私が口を開き、それを聞かないなら、損するのはそなた自身だ。私ではない。多くの人が関係ないと思っている。もちろん私には関係ない。だが私は持咒で成就を得たので、私が口を開きさえすれば、それは必ず衆生のために良い。私は口数は多くない。法王と数時間いっしょにいても、ちょっと話すだけだ。それ以外の時間はまったく話さない。我々師弟の間に話題がないのではなく、論争することがないのだ。そなた達とは違う。

経典のこの段でははっきりと言っている。ここにいる各位、そなた達が八斎戒を守り非常に清浄に精進し勤勉か?このような人であっても成就を得られないのだ。自分は毎日念じているので成就が得られる、上師になど頼る必要はないなどと何を以って考えるのだ?ここの開宗明義の一言目は「得勝師」だ。私は、自分は非常に殊勝だなどととても言えないが、少なくとも直貢噶舉の八百年あまりの歴史で唯一のこの生で修めた漢人の在家リンポチェだ。歷史上これまで一度も存在していない。しかも法王は最近、この弟子が成就を得たのは、次第に従い一歩一歩修行したのだ、と欧米の公の場でひたすら仰せだ。上師が賛嘆するとは、つまり成就を得たと言うこだ。上師は妄語できないからだ。ダメならダメだ。ダメなのに上師が賛嘆したなら、それは上師が破戒したことになる。そのため私はわからない。そなた達は何をそんなに思い上がっているのだ?自分のどこがすごいのだ?経典の仰せに基づけば、そなた達は本当に恥知らずだ。

経典は最初に先ず言う。必ず殊勝なる上師の助けを得て、寄り添ってもらわなければならない。そうでなければ悉地を得る機会はない。自分で修められると思っているのか?誰もが自分で修められると思っているが、経典ではこのように言うのだ。どうしたら良い?仏菩薩も持咒の成就をそなたにくださったりはしない。なぜならそれはそれぞれが修めるものだからだ。自分で修めないなら無い。経典では非常にはっきりと説く。

下の方の段は持咒者の心構えについて説く。重点が二つある:咒語を学びたいなら、功徳を具備し、清浄戒律を具備する上師に必ず皈依し、上師の伝授を受けなければ、成就へ向かう道を歩む機会はない。皈依しないなら、どれだけ念じどれだけ拝んでも役には立たない。だからこそ、チベット密教では伝承は清浄でなければならないと言うのだ。伝承がないなら念じることはできない。離れていった者の多くは、どうと言うことはないと考え、自分で六字大明咒を聞き一生念じれば良い、と思っていたようだ。だが成就を得たか?絶対に不可能だと私は言うことができる。成就を得た別の上師を見つけられたなら別だが。だが自分の上師からさえ離れてしまうのに、別の上師を見つけられるだろうか?見つけられるかもしれないが、同等のレベルかどうかはわからない。

経典のこの段ではさらに説く。持咒に障礙があり心が正しくなく不清浄なら、六字大明咒を念じても、魔は同じようにやってきて邪魔をし、さらには病に罹らせる。なぜなら心が正しくなく、上師を尊重せず、上師の教えに従わないからだ。上師の教えになど従わず自分の日々を過ごせば良い、とみな思っている。そなた達の日々の暮らしに私は干渉しない。だが学仏では上師の教えに従わなければならない。私の教えに従わず、自分自身の凡夫俗子の心に頼って念じるなら、魔と累世の冤親債主はそれを見て、念じ続けることで福徳が生じれば、そなたから取ろうと思ってもできなくなるので、早めに害を及ぼしてやろうと考える。持咒すれば病に罹らないなどと思わないことだ。やはり病気になる。ある出家弟子は、ある音で念じなければ正しくないなどと発明し、そのため彼の身体はずっと良くない。なぜ良くないのか?それは言いつけに従わないからだ。私の門下に皈依したのだから、私が教えるのは当たり前だと思っている。だが私が教えても、学べて修められると言うことにはならない。言いつけに従わないなら、仕方がない。

経典には非常に多くの内容がある。だが開解する時間は今日は不十分だ。仕方がない。例えば、経典では「起貪瞋無明之火」と言う。入浴時に、どんな咒を念じようと魔が入ってくる。これは経典が講じるのだ。私が言うのではない。何を貪嗔痴と言うのか?例えば私は一日中、第三者、心が卑しい人、夫に迴向し、夫に言うことを聞かせてはならないと教えている。これこそ貪嗔痴だ。

魔障求解脱者」は、念誦し咒語を修持する人は、必ず先に清浄で威徳の阿闍黎、つまり上師を請わなければならないということだ。威徳とはなんだろうか?この上師はすでに息懐増誅四法を修め成就を得ており、修法しさえすれば必ず相応するということだ。上師が息懐増誅で成就を得ていないなら、そなたの魔障解除を助けられるはずはない。この一生で修行しようと決心を下しても、魔が障礙するので、上師の助けが得られないなら成就を得ることなど不可能だ。こんなにもはっきりと言っている。経典が講じるのだ。私が発明したのではない。時間が至ったので、経典のこの段が出てきたのだ。私はかつて見たことはない。一日中『大蔵経』を見ている時間はないからだ。

持咒により気がふれたり病気になったりする人がなぜいるのか?それは魔障のためだ。なぜあるのか?それは上師に対して不恭敬で、上師を利用し、貪嗔痴の念頭を起こすからだ。私はしばしば言う。咒語は誰でも念じられるが、成就を得る人もいれば、成就が得られない人もいる。咒語に霊験がないのではなく、その人が間違っているのだ。

福報が不十分なら、閉関しても何事かが起きる。例えば、訳も分からず病気になる、虱や蚊に刺される。これら全ては魔障だ。福報が不十分で、上師の助けが必要だ。つまり、思い上がってはダメなのだ。経典中では言う。咒語を持誦し、先ほど言ったすべての過程を経験したなら、具徳守戒律の上師に皈依する以外に、慈悲心を修め、菩提心を発し、真言を念じなければ成就を得る機会はない。

経典では「所持真言若得数足」と言う。咒語の中には10万、100万、1000万遍等の回数を持する必要があるものがある、ということだ。「争知所修近於悉地」とは、この回数を念じ終わっても、成就を得られるということではなく、ただ成就に近づくだけだ、ということだ。非常に多くの人が、カウンターで100万遍数えられれば阿弥陀仏がお越し下さる、と思っている。八斎戒を守り清浄なところで修めているか?そうでないなら、どうしてそんなことがあろうか?これら条件は全て経典がいうのだ。私が発明したのではない。経典では、この回数を念じ終えても成就する機会に近づくだけで、そのため睡眠時に良い夢を見ることができるという。

就寝時に殊勝な夢を見たからと言って、自分はもうすぐ菩薩になる、などと思ってはならない。そんなことはない。儀軌規定に従いこの咒語を修め、特定の回数念じたので心が清浄になり、そのため吉祥の夢が出現しただけなのだ。この種の夢を見たなら、さらによく言いつけに従い、努力と精進を重ねなければならない。『寶積経』に基づけば、私が見た夢では、前世はただの登地か二地菩薩ではない。私が見た夢は経典中に記載されている。今は公には言わないが、私はその夢を見た後さらに精進した。なぜなら『寶積経』でいうからだ。このような夢を見たら、菩薩が二地、三地であっても、やはりいくらか障礙があるので、そのためよりいっそう修めなければならない。

そなた達はどうだ?生死を解脱すればそれで良いと思っているのか?他所では経典の重点を講じない。みな適当に言い、修めた気分になっている。いわゆる盲修瞎練だ。しかも皈依して非常に長くなる弟子でもやはりこの有様だ。言いつけに従わない。まったくしょうがない。今日はとりあえず夢の内容については開示しない。時間が不十分だからだ。

最後に言おう。経典では言う。修行人がすでに成就を得て、成就がすでに「入身」したなら、成就は表面だけではなく、すでに法身に入っており、さらにはその業報身もすべて成就を得ている。これこそ私がしばしば言う、修行がいくらか成就すれば、自然に健康になり、思う必要さえなく自然に成就する、と言うことだ。なぜなら修めた法入身(身体に入る)とは、その身体はすでに法器であり、そなた達が目にするような簡単な人ではないということだ。私はしばしば言う。法座を下りれば凡夫俗子だなどと、私を思ってはならない。そなた達は、法座上で言うことさえあまり聞かず、法座を下りて言うことは、さらに聞かない。そのため一日中問題が起きるのだ。それは自分の考え方で上師が語ることを聞いているからだ。上師が言うことが、自分が必要なものでなく、好きなものでなく、さらには害があると感じるものなら、そなた達はすべて拒絕する。そのため永遠に成就が得られないのだ。

修行人が成就を得たなら、身体は香りを放つ。その修行人に香りがあるのを突然感じる。だが目には見えない。私が通り過ぎると香りがすると言う人がいるように。これは経典が講じるのだ。自分の身体に檀香を薫きしめているのではない。私はまったくそのようなことはしたことはない。

経典:「或是内心求成就者別有所表。彼持誦行人専注不間。必感霊験得悉地者。或見所供養像而得振動。或得像面毫光照耀。或得像身振動。或得空中降花。或時無雲降微細雨。或降妙香或感地動。或聞天鼓自然之音。或見天人阿修羅等住虚空中。或聞諸天人等言語之音。或聞種種大荘厳具瓔珞環釧之響。或見灯焔増長明浄金色。或其油盡灯焔転熾。或聞空中有声令説所求之願。或覚身毛一切皆竪。」

この持咒人の内心が成就を得たなら、それは別に現れる。そのためこの持誦人が専注不間でありさえすれば、必感霊験は成就を得られる。「或見所供養像而得振動」とは、例えば前回私は日本の温泉寺へ行き観世音菩薩を持咒供養し振動を得たが、それはつまり私が成就を得たので、それでこそ観世音菩薩が動いたと言うことだ。通電したのでも、横で揺らしたのでも、地震で動いたのでもない。「或得像面毫光照耀」を非常に多くの弟子が見たことがある。私が寺へ行き念じさえすれば、その仏像のお顔は突然とても明るくなり、光を放つかのようになる。「或得空中降花。或時無雲降微細雨。」もみな見たことがある。私が青海、ラダック等の地へ弘法に行った時、この種の現象が起きた。空には雲もないのに雪が降った。雪とはつまり花、または微細な雨だ。

「或降妙香或感地動」とは、しばしば私が持咒すると、みな香りを感じる。または地動を感じる。「或聞天鼓自然之音」とは、私が持咒すると、オンオンと響く音をそなた達は耳にすることがある。これこそ天鼓の音だ。「或見天人阿修羅等住虚空中」はそなた達は目にできない。「或聞諸天人等言語之音。或聞種種大荘厳具瓔珞環釧之響」とは、カンカンチャンチャンという微細な音を突然耳にすることがあるだろう。それだ

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この種の音を聞いたことがあるか、香りを嗅いだことがあるか、地動を感じたことがあるか、仏像が明るくなるのを感じたことがあるか、雲がないのに雨、雪が降ったのを感じたことがあるかを訊ね、ある者には挙手させた。

〔会場ではたくさんの人が次々に挙手した〕

「或見灯焔増長明浄金色」とは、バターランプが消えそうな時、もちろんそなた達はバターランプは消える前に一瞬光ると言うだろう。だがそれではない。閉関時に私自身が見たことがある。バターランプが消えそうな時、火が突然明るく輝き、バターがなくなってもまだ光っている。これこそ成就が得られたということなのだ。「或聞空中有声令説所求之願」、「或覚身毛一切皆竪」は修行人の感覚だ。そなた達にはない。

経典:「或現如是相已。定審所求悉地成就。」

これら相があっても、すべてがいっしょに出現するのではない、ということだ。これはそなた達には我慢できないだろう。これら相は個別に出現する。例えば地動を感じるとは、つまり修法人が衆生の願の成就を得たということで、例えばそなたが善道に往生したいなら、修法人はそなたを行かせてくれるだろう。そなたの福報が十分で浄土に往生したいなら、修法人はそなたを行かせてくれるだろう。そなたが業障を消したいなら、修法人は業障を消してくれるだろう。これら現象がないなら、まったく成就は得られていない。

地動とは地震ではない。地震は家が倒れたり、人が傷ついたりするが、これは地動とは言わない。地動は恐怖心を起こさせない。ただ少し動くだけだ。地震だ、とそなたを驚かせたりしない。この種の現象が出現しないなら、この場にいる皆さんには、大人しく言いつけに従ってほしい。私と競争などしないでもらいたい。自分は絕対に修められるなどと思わないでもらいたい。これら現象は閉関後から、私にはひたすら出現する。今になって初めて出現しているのではない。これは累世の善根なので、この一生で出現するのだ。

今日なぜ特にこれらについて言うのか?それは、そなた達が滅茶苦茶で、思い上がっているからだ。非常に多くの皈依弟子が、上師が伝法すれば、自分で修め成就が得られ、親属を済度させられると思っている。だが、これら徵兆がまったくないなら、どうしてできよう?経典のこの段の開宗明義は非常にはっきり説く。八斎戒を守り、非常に清浄、精進、勤勉に修行しても成就を得られないと。どうしてそなた達が成就を得られようか?成就とはなんだ?私は念頭を動かせば、すぐに誰かを助けられる。私の念頭が起きれば、起心動念の全てで衆生を助けられ、しかも問題を解決できる。こうでなければ成就とは言わない!そなた達はたまに何かの徵兆に遭遇したとして、自分はうまく念じていると思っているのか?

今日はわざわざこれらについて講じた。修行は非常に簡単だが、非常に困難だとそなた達に伝えるためだ。なぜなら言いつけに従わない人があまりにも多いからだ。なぜ言いつけに従わないのか?それは誰もが自分は優れていると思っているからだ。害を受けたと感じさえすれば、絕対に聞かない。そのため『地蔵経』では言うのだ。地球の人類は全宇宙の中で最も調伏し難く、剛強自用だと。

経典:「若其成就彼真言力威徳及処。或百由旬或千由旬。諸魔鬼神不敢侵近。

リンポチェは「由旬」の意味を説明するよう出家弟子を指名された。一人の出家弟子が「以前見たことがあります。由旬は十丈のことのようです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示を継続なされた:この言葉の意味は、私が通ったところは、諸魔鬼神は侵近できない、と言うことだ。そなた達はどうだ?「百由旬或千由旬」と言わずとも、一メートルの以内の鬼神でも近づいてくるだろう。経典では特に言う。この種の威徳がある人の行う一切は衆生に饒益する。少しであろうと侮ってはならない。『寶積経』で言うように、菩薩道修行で少しでも人を侮るなら、すべての功徳は無くなってしまう。そのため、自分の修行は特別に良い、特別に優れていると思うなら、すべての功徳はそなたと無関係だ。

今日は経典のこの段を開解するのは、私がどんなにすごいか吹聴するためでなく、成就を得るとはつまりこのようだとそなた達に知らせるためなのだ。経典が言うのだ。盲信ではない。私が故意に作ったのではなく、私が発明したのでもない。また私が特別に優れているのでもなく、金剛手菩薩が仰せなのだ。なぜこれら相について講じるのか?それは世人は目に見えないものを信じないからだ。世人にこれが成就者だ、我々は頼るべきだ、と知らせるためだ。目的はここだ。私がそなた達より優れている、或いは至高無上だと顕彰するのではなく、経典が説く一切すべては衆生を饒益、救うからだ。私が口を開けば、たとえそなたを叱責し、そなたを諌め、そなたを騙すとしても、全ては救いだと言う意味だが、私がそなた達を騙すことなどないのは言うまでもないことだ。だが誰もが自分は害されたと感じさえすれば、リンポチェに騙されたと考える。

饒益衆生とは、行う一切で、衆生の未来が良くなるよう願うことだ。衆生は誤解するかもしれないが、どうと言うことはない。経典はなぜ特にこのような事を説くのか?それは末法時代の衆生に理解させるためだ。そなたが精進し、守八斎戒を守っても、成就が得られるとは限らないのだ。一人の殊勝なる上師の助けを受けない限りはそうだ。私は直貢チェ・ツァン法王を私の上師と仰いでいる。法王はひたすら私をお助けくださり、今になってもやはりお助けくださる。なぜ私をお助けくださるのか?それは私を助ければ助けるほど、私がより多くの衆生に利益できるからだ。

上師の話を聞かないなら、どうしてそなた達を助けることができようか?上師が望まないのではなく、そなたが拒絕しているのだ。非常に多くの人が自分で仏菩薩に願えばそれでいい、と思っている。もしそうなら、経典では「求仏菩薩得悉地」と言うはずだ。だが経典はそうなっておらず、「得勝師助伴速獲悉地」と言う。金剛手菩薩までが言い間違うなら、仏を信じる必要はないではないか!

一人の殊勝なる上師が助けに来る、となぜ言うのか?それはそなた達がやはり凡夫だからだ。法身菩薩の助けを受ける資格はないのだ。化身菩薩であろうと望むべくもなく、一人の上師しか助けてくれないのだ。上師とはつまり諸仏菩薩の化身、諸仏菩薩願力と慈悲の代表なので、そなた達これら凡夫俗子を助けてくれる。そなた達が言いつけに従わなくとも、上師に害を及ぼすことはない。それは上師とはつまりこのように修めているからだ。毎日このように迴向している。なぜ利益が得られる衆生と、得られない衆生がいるのか?違いは、そなたの魔障の重さだ。魔障が重くとも、上師はやはりそなたを助けてくれる。なぜそなた達を叱責し、そなた達を追い出し、そなた達を蹴り出し、あらゆることをするのか?非常に多くの人が上師に叱責されればメンツが失われる、と思っている。だが、そなたが表面にこだわるなら、実質的な中身はない。メンツにこだわるなら、今後はすべてを失うだろう。

経典のこの段はそなた達にはっきりさせるのだ。仏教は我々の一切の事情を外相と内相に分けている。仏教では我々の事は絕対に印証でき、言うだけで実際に何もないのでは絶対にない。すべては経典に記載されている。学仏では必ず経典の説に基づかなければならない。経典が言わないことは、あの人はすごいなどと思ってはならない。例えばこの一段では持咒成就すれば出現する瑞相について講じる。突然ある違ったものが出てきたなら、疑わなければならない。それは経典が講じていないからだ。

先ほど私は、経典が説くことを経験したことがあるか問うた。みな聞いたことがあり、見たことがあり、嗅いだことがある。これは経典が言うのだ。そなた達はこんなにも長く学仏しているのに、なおも分かっていない。今日はもう一度はっきりさせよう。そなた達の上師はすでに成就を得ているのだ。一般人ではない。そなた達が信じなくともどうと言うことはない。そなた達はひたすらいう。なぜ私ができて、そなた達はダメなのかと。上師に対する恭敬は真に非常に重要だと言うことだ。

今日は施身法を修める。六字大明咒で成就を得ていないなら、法を伝えても役には立たない。なぜならそなたは衆生に利益できないからだ。

〔リンポチェは修法を開始し、苦を受けている亡者を済度された。リンポチェは大手印禅定の中で、殊勝なる施身法を修持され、勝義菩提心で自身の一切の血肉、骨をあますところなく諸仏菩薩に供養し、六道の一切の衆生に布施することを観想され、六字大明咒を持誦なされ、慈悲なる法音は十方に遍く満ちた。参会者は皆、リンチェンドルジェ・リンポチェの輪迴苦海から衆生を脱離させようとの懇切な大悲心を感じ、知らず知らずの内に満面を涙で濡らした。修法は円満となり、リンポチェは弟子を率いて、アキ護法及び迴向儀軌を修持なされた後、続いて開示くださった。〕

来週上師供養法を修める。

リンポチェは出家して三十数年になる一人の弟子に「先ほど開示した経典を聞いたことがあったか?」とお訊ねになった。出家衆は「リンポチェにご報告申し上げます。聞いたことはありませんでした」とお答え申し上げた。リンポチェは「経典が講じる持咒で成就を得ると言うのを、そなたは真に見たことがあるか?」とお訊ねになった。出家衆は「見たことがありません」とお答え申し上げた。リンポチェは「なぜ見たことがないのか?」とお訊ねになった。出家衆は「それは業障が深く重いからです」とお答え申し上げた。リンポチェは「そなたは業障が深く重いのではない。自分を叱責するのではない。出家人は毎日大悲咒十小咒を念じているのではないのか?なぜ経典が講じる成就がないのか?」とお訊ねになった。出家衆は「転識成智、明心見性がないからです」とお答え申し上げた。リンポチェはこの弟子を滅茶苦茶だと叱責され、他の出家衆に「先ほどの一段は何を説いていたのか?」とお訊ねになった。他の出家衆は「具徳の上師に依止しない、と言うことです」とお答え申し上げた。

経典の仰せをなぜ忘れたかと、先ほどの出家衆を責めることはできない。それはそなた達全てがこのようだからだ。何か起きればリンポチェが現れる。何もなければ自分で観音菩薩とお話しする。自分でアキとお話しする。こうではないか?みな全てはこのようだ。全て先ほどのものとまったく同じだ。なぜ妙臂菩薩は特別に金剛手菩薩に請示し、開宗明義で必ず一人の上師の加持を得なければ成就を得ることはできないと非常にはっきり仰せになるのか。諸仏菩薩は我々を騙していない。そなた達自身が自分を騙しているのだ。誰もが自分はすごいと思っている。

昨日ある信衆が母親を済度させて欲しいと求めてきた。そして「母のためになるように、私に何ができるでしょうか?」と言う。それを聞いて私は嬉しくて仕方がなかった。この者がこう言うからには、私は何もしなくとも良いからだ。私は『地蔵経』に基づき言った。第一に、母の財産のすべてを、母の名義ですべて善事に寄付せよ。分けてはならない。この信衆は「私の分は?」と言うので、私はすべてと言った。すると、この信衆はすぐに呆然としてしまった。なぜならそれは絕対に不可能だからだ。家族の中の兄弟姉妹みなが奪い合っている。持ち出せるだろうか?第二に、広作仏事を指示した。「広作仏事(仏事を広く行う)」と言うと、たくさんの寺へ行き点灯して済度を求め、1000元で名前を書く、と多くの人は考える。昨日二人の弟子、皈依して十数年になるが、母親の済度を求めて来た。私は彼ら二人にそれぞれ300遍の大礼拝を指示した。「広作仏事」とは、一切の修行に関する事を広大に行うよう仏が我々にお教えくださることで、これは上師は必要ない。そなた達はできるか?地蔵菩薩が仰せなのだ。しかも、亡者が息をひきとる前に、その耳元で「一番好きだったこの翡翠のブレスレットを寄付しますよ」と言わなければならない。だがそなたがこのように言えば、母はすぐに飛び起きて、頰に平手打ちを食らわせるかもしれない。仕方がない。考えてみよ。そなたが知っている人で、父母が死んだ後、父母の財産をすべて使って善事を行なった人がいるか?私は不要だ。なぜなら私はすでにできているからだ。

そなた達はできない。そなた達は破執著を成し遂げられない。なぜ地蔵菩薩はこれをお教えになるのか?第一に、財に対するそなたの執著を破壊するのだ。第二に、済度が得られる福報を与えるのだ。信衆が済度を求めてくれば、私はなぜ必ずこの一生での菜食を要求するのか?そなたにどんな徳行があって、家族の中の亡者が仏菩薩の済度を受けられるのか?生前その亡者は何をしたのだ?阿弥陀仏を念じれば済度できるのか?経典を念じるだけで済度できるのか?私の弟子は明確に知っているはずだ。地蔵菩薩の仰せに基づき、亡者のために福報を累積しなければならないのだ。そなた達は仏を信じず、皈依しようとしない。それなら少しはマシなところで納得するしかあるまい。そなたがこの一生で殺生しないのだ。そなたが殺生しないなら福報が起きるからだ。そなたが亡者のためにこの一生菜食する。そうして、亡者に福報があれば、私はようやく済度してやれる。

条件を示しているのではなく、『地蔵経』の説に基づいているのだ。金を出すのを惜しみ、広作仏事をも惜しむ。どんな理由で、私や諸仏菩薩がこの亡者を済度させるのだ?私はしばしば言う。観音菩薩は最も慈悲深くていらっしゃる。それならなぜ、こんなにも多くの衆生が済度されていないのか?毎日自動車事故で死ぬ人がいる。なぜ自動車事故で死ぬのか?それは累世の殺生が重く、家庭の殺生が重いからだ。経典で講じる刀兵劫だ。今は戦争がないので、車にぶつかられるのは、剣で切られるのに似ていないか?仏が仰せの経典を誰も信じない。それならなぜ仏に求めるのだ?まったくわからない。

そなた達は自分が理解できることを言ってもらいたいと願っている。何を理解できると言うのか?経典は我々が学んだ学問内にはない。我々は子供の頃から学んでいるが、経典を学んだことはない。経典を読んだことがあるとしても、出家して三十数年になるこの弟子のように、なんだかんだ言っている内に上師を忘れてしまう。

なぜ忘れてしまうのか?それは自分を重視する習慣だからだ。「自分が法会に来たのは、リンポチェのメンツを立てるためだ」と思っている。私はそなたにメンツを立ててもらう必要などなく、そなたが亡者を助けたいのだ。『地蔵経』の仰せに基づけば、母君が後に成仏する機会があるよう、地蔵菩薩は宏願を発して修行に勤められた。そのため母君は未来仏となられた。そなた達はやっているか?済度が終われば、自分とは関係がない、と考え、いつも通りの暮らしを送り、肉を食べ、あれも食べこれも食べ、起心動念の全てで他人を害している。今日済度させたとしても、非常に多くの層に分かれる。福報が不十分なので、地蔵菩薩の母君のように。地蔵菩薩はその一世で豪邸を売り払い、全財産で仏菩薩を供養し、母君は地獄を離れられたが、再来した人世間での身分は非常に卑しく、奴婢の息子となり、しかも短寿命でわずかに13年の命だった。地蔵菩薩がすごいのか、そなた達がすごいのか?

地蔵菩薩がバラモンの女だった時、具徳で持咒により成就を得た上師に巡り会わなかったため、この方法を用いるしかなかった。そなた達もこの方法を使ってみれば良い。家を売ってしまい、全額を仏菩薩に供養する。私には供養するな。私は要らない。そして仏事を広く行い大願を発する。誰にできようか?望むか望まないかと言うレベルではなく、行う勇気があるかないかだ。「ああ、信じるだけでいいのに、盲信はダメだ。暮らしは重要だ。息子の勉学も重要だ。住宅ローンも重要だ。随喜随便で供養すれば良いじゃないか。それでも済度できる」と人に罵られるのを恐れる。経典の仰せを信じないなら、今後は自分は仏を信じ拝仏しているなどと言わないことだ。なぜならそれは仏を誹謗することになるからだ。できなくともどうと言うことはないと思っている。だが信じなければならない。仏の仰せは全て確かだと。特に私は今日までに、すでに数十年済度させているので、はっきり分かっている。私は今年72歲だ。1997年より衆生を済度させている。きちんと済度させられていないなら、私はとっくに死んでいるはずだ。死んでいないとしても、顔が黒くなっているはずだ。私の一人の出家弟子は、来たばかりの頃、顔が黒かった。なぜ黒かったのか?それは成就がなく、福報を衆生と交換していたからだ。そして彼女の福報も不十分だったので、顔が黒くなったのだ。衆生の陰気が上がってくるからだ。出家衆だとしても、非常にはっきりと分けられる。出家衆の中には永遠に済度に触れない者もいる。そうではないか?それは済度できないのを恐れるからだ。〔一人の出家して30数年になる弟子は「本当にそうです」とお答え申し上げた〕

リンポチェは開示を継続された:出家衆の中には、助念に行かせても行かない者もいる。もし数十人がいっしょなら、或いは行くかもしれない。なぜなら彼は知識がありすごいと知っているからだ。そなた達のように、助念は功徳があるのでとても良いなどとは思っていない。だがそなた達は成就を得ていない。どうやって助念し、行かせるのだ?だが、仏はこのようには仰せでないし、『阿弥陀経』もこのようには講じていない。助念する人の心が不清浄なら、亡者にははっきりと分かる。助念する人の心が不清浄なら、亡者は嗔念を起こし、かえって亡者を地獄に堕としてしまう。

先ほども経典中でははっきりと言っている。持咒読経しても、貪嗔痴と言うこの種の念頭があり、人を侮る心持ちがあるなら、魔はやはり入って来る。ここで六字大明咒を念じても、魔は、そなたが念じる六字大明咒にしたがって入って来る。慈悲を学ばず、菩提心を発していないなら、最も簡単な方法しかない-助けてくれると完全に上師を信じることだ。別の方法はない。末法時代には、経典の仰せに基づけば、閉関の場所さえよく選ばなければならない。我々密宗の閉関では、食事を運ぶ人さえよく選ばなければならない。何を食べてもよく、何を食べてはならないか、全ては非常に明確なのだ。これは経典に全部記載されている。

なぜ現在みなこのように言わないのか?それはこのように言えば市場がなくなり、全部逃げ出してしまい、来ないと知っているからだ。だが私と言うこの者は、名と財のために仏法を弘揚しているのではない。供養してもよく、供養しなくともよい。勝手にすればよい。私が自在なら、いわゆる自在とは、自由自在に日々を過ごすと言うことではない。非常に自在に衆生に利益すればよいと言うことだ。名利で自分を縛り付けることはない。

最近寺を建立しているが、やはり経費に困っている。だが私は何かのイベントを催したり、大功徳主を探したりなどと言う念頭を起こしたりしない。私の福報が十分なら、この寺は自然に成就する。私の福報が不十分なら、大功徳主を見つけてきても私はその人に縛り付けられる。必要があるか?以後、私の寺は彼の家廟になってしまい、彼が来れば修法しなければならないと言うことになる。そなた達出家衆もこの種の功徳主に出会ったことがあるだろう?その人が来ればすぐに修法しなければならない。その人の家廟のようだ。だが私はこのようにはしたくない。多くの衆生と結縁できるように、寺の建立は広く言わなければならないと非常に多くの人が考えている。だが私はこうはしない。それは私は縁を強く信じているからだ。私か、または直貢噶舉と縁があるなら、自然に出現する。縁がないなら、広く言っても、反対に人に謗仏する機会を与えることになる。

学仏では必ず信じ、仏の仰せを信じなければならない。自分勝手にブランドを創り、自分の考え方や方法で修行してはならない。これは絕対に誤りだ。間違いなく誤りだ。拝仏すれば精神病にならないなどと思ってはならない。同じようになる。非常に多くのこのような人を私は見たことがある。なぜならそれは言いつけに従わず、法に寄らず、具徳の上師を見つける福報がないからだ。先ほど出家弟子が言ったように、福報がなければ見つけられないのだ。その人が自分の面前にいても、その人がどれだけすごいか、そなたにはわからない。

今日は『大蔵経』続部中のこの一段を見つけたので、これを用いてそなた達を叱責している。妙臂菩薩は開宗明義で金剛手菩薩にお訊ねになった。なぜ彼らは閉関し、精進勤勉に非常に真面目なのに、成就を得ることがないのか?と。そなた達はどんな根器なのだ?適当に読経し、毎日その辺に座っていれば成就が得られるのか?この経典では、非常に多くの方法で成就が得られると講じる。だが私は今日は言わない。もちろん帰宅したら、経典をめくって読むことはできる。だが読んでも役には立たない。なぜなら上師が伝えないなら役には立たないからだ。読み終わってもやはりできない。読み終わったとしても、閉関させてくれるような場所を見つけることはできない。

なぜ私は寺を建立するのか?それは仏法では一生で成就を得たいと思うなら、清浄な場所がなくては不可能だからだ。在家で修行し読経すればそれでよい、などと思ってはならない。本当にこうなら、法王は1997年から每年、閉関するよう私にお命じになったりはしない。2007年にミラレパ尊師の聖地で三ヶ月閉関した後、法王は最近はあまり仰せにならないが、まったく仰せにならないわけではない。「ああ!来年行こう!」などとたまには仰せになる。

普通の場所でも閉関できると言うものではない。そなた達は現在家で念じている。それを修めていると言うことはできない。助縁としか言えない。そなたと上師、仏菩薩、護法の縁をますます深くしているのだ。自分は毎日修めているなどと思ってはならない。自分が念じているからと言って、静かにするよう、テレビや電話を消したりするように他人に言う。先ほどあの電話を音消しにしていなかった弟子にしても、私の邪魔をすることはできないが、そなた達の邪魔をすることはできる。これでは役に立たないのだ。なぜなら、家でテレビと電話を消せば修められると経典では言わないからだ。その一方、非常にはっきりとどんな場所、と言う。チベット密教では閉関する建物をどのように建設するかまではっきりと言っているのだ。

なぜこんなにも面倒なのか?禅宗ではすべての相は皆虚妄だと言うのではないか?閉関とはつまり閉関だ。こんなにもたくさんのタイプを持ち出してどうするのだ?仕方がない。なぜなら我々には福報がないからだ。非常に多くの助縁に助けてもらう必要があるのだ。2007年に私は閉関した。二日目、アキのそばにもう一尊の護法がおられ、出てきて私を守ってくださるのを目にした。私は求めなかったが、自然に出現された。非常にはっきりと目にした。なぜ出て来てくださったのか?なぜなら第一に現在閉関するこの人間が保護する価値があるから、第二に保護を受ける福報があるから、第三に保護を必要としているからだ。なぜ保護が必要なのか?それは八地以前の菩薩であれば魔が障礙にくる可能性があるからだ。釈迦牟尼仏の成仏時にも魔女が障礙に来たのだ。そなた達ならどうだ!どんな理由で、家で念じていればOKだなどと言うのか?観音菩薩が降りてきてくださり、そなた達はおそばの童女にでも変わるのか?

誰もが自分に対して、とてつもなく高い期待を抱いている。だが経典中ではこのように言わない。私は法王に従い、こんなにも長年仏法を学んでいるが、真に経典の教えに基づいている。どこで閉関するかまでよく選び、時間も正しくなければならない。天時地利のすべてで正しくなければならない。そうでなければ、閉関する福報はない。閉関する福報があるなら、護法に守っていただく必要があり、上師がそばについている必要もある。経典で言う「作伴」だ。

2007年の私の閉関時、法王は常にそばにいてくださった。私が死ぬことはないと分かってから、法王はようやく外出し始めた。每年私がインドで閉関する時も法王はおいでになる。道理に基づけば、全ては自分が念じているのだ。上師は何をするのか?それは経典が講じるからだ。そのため寺の建立は、私のためでも直貢噶舉のためでもない。私は持咒語で成就を得たということができる。どのように修めたか、私は非常にはっきりしている。家では修めることはできない。少しの人天福報が得られるだけだ。成就を得たいか?それは仕方がない。家でも成就を得ることができるなら、金剛手菩薩は「心配する必要はない。毎日家で1時間修めればそれでOKだ」と絕対に言われるだろう。金剛手菩薩は仰せでない。

金剛手菩薩の時代にも結婚した人はいる。なぜなら持咒で成就するには、必ず出家であるとか在家であるとかの制限はないからだ。発心し菩薩道を修めるなら、必ず修められる。『寶積経』で言うのだ。謙虚でなければならない、驕り高ぶってはならない、少し念じればそれでいいなどと思ってはならない、上師の話は仏法ではないので聞く必要はない、などと思ってはならないとなぜ一日中そなた達に言うのか?それは一人の持咒成就を得た上師が口を開けば、それはつまり咒語だからだ。六字大明咒でなければ咒語でないなどと思ってはならない。私が口を開けば、それは咒語なのだ。だがそなた達はやはり聞かない。聞かないなら、業力、障礙、問題は出現する。これは学仏の問題だ。そなたが金持ちか、健康かを言うのではない。

経典では、持咒成就を得ると言う。咒語の福報は入身だ。身体が変化するのだ。前の方で言った。持咒でも魔障がある。仏はあらゆることを我々にお教えくださる。聞く因縁がないだけだ。今回日本へ行き古寺で弘法した。起源は、持咒で観音菩薩を供養したところ菩薩像が動いたからだ。この縁により行ったのだ。縁が来たのだ。そなた達が盲信するのではと恐れるので、私は一切、経典の仰せに基づいている。弟子がちょうどこの段を見つけたので、そなた達について言い、そなた達を叱責しているのだ。

諸仏菩薩は全てそなた達に対して慈悲深く、そなた達を解惑し、そなた達にこの疑情を解開してくださる。そなたの心の中には、ひたすら疑惑がある。なぜか?なぜ彼はできたのに、我々はできないのか?彼はいったい何に頼っているのか?経典でははっきり説明している。閉関を終えて出て来ても、やはりこのようなのを目にすることがあるので、妙臂菩薩は金剛手菩薩にお訊ねになり、金剛手菩薩が開示くださったのだ。

寶吉祥道場は他のところとは違う。それは私が真実を、つまり仏が仰せのことを話すからだ。人が言うことはとても言えない。人が言うこととはつまり、私が考え出したのだ、私が学んだのだ、と言うものだ。私の修行は他人とは違う。この境界まで修めたので、経典は相応し、自分が成就したと知ることができた。先ほど持咒時に淡い香りが漂ってきたように。マスクをつけていれば、はっきりとは感じられないだろう。だが出家弟子のこの辺りでは感じられたはずだ。これこそ経典が言うものだ。そのため、みな、ほんとうに驕り高ぶる傲慢な心を捨て去らなければならない。そうでなければ、経典が言うように、そなたが持咒(仏号を念じることも含む)すれば貪嗔痴が起き、魔はやはり入ってくる。この種の魔は感じられないものだ。そなたの様子が変わったりしない。だがゆっくりとそなたの累世の善業を覆い隠してしまい、そなたの累世の悪の念頭をゆっくりとはっきりと露見させる。

寺でなぜみな争うのか。全てはこのようだからだ。心になお魔の心があるため、これを見ても気に入らない、あれを見ても気に食わない、となるのだ。私は言ったことがある。菩薩の眼中には良い悪いの別はない。因果の別しかないのだ。そなたが善人であるか悪人であるかを区別しない。懺悔し発心し発願しさえすれば、諸仏菩薩と上師は必ず助けてくれる。今日はここまでとする。

法会は円満となり、参会者はみな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び殊勝な開示で無量無辺衆生を利益する事に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。


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2019 年 07 月 08 日 更新