尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年5月19日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは2019年5月19日、京都寶吉祥仏法センターで開光十一周年記念法会を執り行い、『金剛経』を開解なさった。今回の参会者は城崎温泉寺の小川祐章住職を含む、台湾、日本、中国からの信衆計21人、弟子179人の計200人だった。誰もが自身の幸運を有り難く思った!

長寿仏法会

午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは楽の音、薰香、宝傘に先導され、みなが合掌して恭しく迎える中、壇城に上られた。諸仏菩薩に恭敬頂礼し、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の法座にハタを献上し、点灯供仏後に法座に上られ長寿仏法会を主法し、参会者に貴重な仏法の開示をくだされた:

今日午前中は瑪吉珠貝傑摩仏母がお伝えになった長寿仏儀軌を修めた。顕教部分では長寿仏を修めないが、密法部分では修める。長寿仏は阿弥陀仏の報身仏だ。

報身とはどんな意味だろうか?すべての修行者はこの一生で菩薩法門を専ら修め、菩薩戒を守る。修行の面では報身仏の助けを得ることができ、往生時には報身仏が導いてくださる。これは経典にはっきりと書かれている。簡単に言えば、今日法会に参加する人が準備しておらず、菩薩道修行の決心もしていないなら、今日修める長寿仏は、人世間での少しの寿命の延長と、非時死(時ならざる死)の回避をお助けくださるに過ぎない。

経典中で言う非時死とは、寿命がまだ尽きない内に事故で死ぬことだ。事故で死ぬにもたくさんのパターンがある。現在最も容易に起きるのは火災、交通事故、及び水害、地震等の天災だ。誤った医者に掛かる、薬を飲み間違える等も非時死に含まれる。この一生で菩薩道修行の決定を下すなら、長寿仏はひたすらそなたを護持してくださる。人世間での寿命を延ばしてくださる他に、仏法の寿命も限りなく延長してくださる。長寿とは、短い数十年の人生が1、2年長くなる、というのではない。1、2年長く生きても、人類と衆生に対しては何の役にも立たない。長く生き続けても何の役にも立たないのだ。

今日修めた長寿仏は基本的には人と天人のために修めるのだ。毎日、密法を修める時、地獄の衆生の寿命を短くし、少しでも早く終わらせ、少しでも早く人道に生まれ、仏法学習の機会が得られるよう願う。また、餓鬼道の衆生の寿命が短くなり、少しでも早く餓鬼道を離れ、人道で仏法を修行する機会が得られるよう願う。畜生道の衆生の寿命が減少し、少しでも早く人道に生まれ仏法修行ができることを期待する。かつて古代にあった法で、すでに伝わっておらず、存在していた頃も非常に稀にしか修められなかった──古代の瑜伽士が専門的に修めた特別の法があった。これはすべての畜生道の衆生を早く死なせ、三悪道から離れさせ人道と天道に生まれさせることができた。

今日修めた法は、第一に、菩薩道を修める人のために修め、第二に、すでに少しの善を行なっている人のために修め、第三に、仏法の加護を得たいと願っている人のために修めた。三つ目の人に対して、この法を修めれば5年、10年または20年延寿できるだろうか?答えよう。それは不可能だ。それならどんな寿を延長するのか?本来の運命としての寿命が72歲、さらには80歲なら、それを補う。補うとはどう言うことだろうか?それは人としてこの一生で肉を一口食べさえすれば、寿は減少し、悪いことを一つ行いさえすれば、寿は減少するからだ。

たくさんの人が肉食は栄養豊富だと思っている。実はこれは一種の盲信だ。我々はみなはっきり知っている。食物が身体に入ると、食物の栄養は我々の細胞内に行く。牛を食べれば、牛の細胞が我々の細胞内へ行く。よってたくさん食べれば、人類の細胞の中に牛の遺伝子がゆっくりと存在するようになる。そのためガンになるのだ。海鮮を食べてもそうだ。因果論から言えば、この一生で殺生し菜食しないなら、短寿となる。論争好きの人がいて、「そんなことないですよ!漁師の中には80、90歲まで長生きの人もいますよ!」と言う。なぜ考えないのか?漁師でなければ、その人は200歲まで生きられたかもしれないのだ。家族の状況が良い漁師を、私は見たことがない。皆たくさんの奇妙な事が起きている。

釈迦牟尼仏は、人類の寿命はどれだけのはずだ、と仰せになっている。経典にもはっきりと書かれている。人は類人猿から進化したと仏は仰せでない。だが現在全世界の人は皆、我々の祖先は類人猿だと盲信している。我々の祖先がほんとうに類人猿なら、現在なおもたくさんの類人猿が存在している。我々は彼らを拝み、彼らを養うべきではないのか?なぜ拝まず、養わないのか?これが盲信であることは明らかだ。科学者は理由が見つからないので、適当にこじつけて、オランウータンと類人猿の遺伝子は、我々と2%しか違わないので、我々の祖先だ、としている。だがそれは誤りだ。経典では、人は光音天からこの地球に飛んできた、と言う。飛んできた後、「地肥」と呼ぶ食物を好んで食したため、身体が重くなり、飛べなくなり帰れなくなって、地球に残り世代を繋ぐようになったのだ。

冷静に考えれば、全世界の宗教で、仏教以外は、どの宗教も死後の昇天を祈る。日本人も中国人もインド人もアメリカ人も、全世界の人は皆そうだ。それは我々の祖先が天界から来たからなのだ。我々の遺伝子は天に帰りたがっている。だが帰りたいと言っても帰れる訳ではない。特別な法門を修めなければ帰ることはできない。今日はここまでにする。仏法の範囲ではないからだ。

人類の寿命は8万5千年あるはずだと仏は仰せだ。8万5千年あるはずなのに、なぜ現在我々は100歲まで生きる人が非常に少ないのか?仏は2500年余り前、人類は現在減劫中で、100年毎に地球の人類は1歲寿命を減らすとすでにお話し始めておられた。仏は在世の頃にすでに仰せなのだ。人類の平均寿命は72から75歲だ。現在そのようだと証明されている。いつまで減り続けるのか?10歲になるまで減り続けたら、その後は100年毎に1歲増えて、8万5千年にまでなる。この循環を一小劫と言う。三小劫を足すと一中劫だ。三中劫を足すと一大劫だ。三大劫を巡った後は地球は無くなってしまう。

この時間は非常に長い。だが、そなたがその時代に生まれる機会がないと言うことではない。一生で悪業を為し、仏法を信じないなら、最後の毀滅の時代に生まれる可能性がある。それは非常に苦しい時代だ。仏はかつて仰せになった。人類の寿が減る過程では、世界では戦争が絶えず、人心は不安で、たくさんの不治の病とたくさんの天災が起きる。考えてみよ。今まさにこのように暮らしていないだろうか?表面的には安全だ。たくさんの科学的なものが保護してくれている。だが地震や水害が起きれば、どんな事が起きるかわからない。昨年京都では大雨が降り、道場前の道が陥没した。これこそ天災だ。道場ではひたすら修法しているので、人命に危害が及ぶことはなかったが。

少しでも長く生きたいと執着している人が非常に多い。長く生き仏法を学習し、自分を輪迴解脱させ、さらにはこの一生で衆生に利益する機会があるなら、諸仏菩薩が長く生かしてくださるだろう。実は仏菩薩は我々の寿命を5年、10年延ばしてくださる。それは実は非常に簡単な事なのだ。

私について言えば、私の寿命は50歲のはずだった。私は皮膚ガンになったからだ。死を迎えるべきだったのだ。だが私は今72歲だ。ガンも良くなってしまった。なぜ仏菩薩は私を生かし続けてくださるのか?それは私が、36歲から仏法に従い暮らし始めたからだ。表面的には私の生活はそなた達と同じだ。食事し寝て、車に乗り車を運転する。だが私の心は違う。私の心は完全に仏法に従って日々を暮らしている。そのため福報が起きたのだ。

人寿は福報の一部だ。福報は使い切ってしまえるが、修行で得られた功徳福報は無尽蔵だ。世間の善を行い得た福報には限りがある。福報を使い切ってしまえば、寿命はなくなる。どんなに求めても役には立たない。たくさんの人が父母が往生しそうになるとやって来て寿を求める。求めるなと私は告げる。それは求めても苦しいだけだからだ。それなら、苦しませず、三悪道を離れさせた方が良い。今日みなのために修める長寿仏は、前の方では三種の人を助けるとはっきり言っている。最後の一種の人で、自分自身の寿命を延ばすためだけなら、ほんとうに少しだけだ。元々は今年死ぬはずだった。それを来年死ぬようにしてくださる。このようにほんとうに少しだけだ。たくさんくださることはない。

我々修行人は寿に対して非常に淡白だ。自分はいつ何時でもこの世を去る、と私はしばしば弟子に言う。この一生のすべての事、責任を果たし、生生世世に借りを作った衆生の恩と債をこの一生で完済したなら、この世を去る、と言うことだ。学仏人は死亡無常を必ず深く信じなければならない。死と言うこの事は影のようにいつでも我々に付き従う。離れることはない。医者に掛かれば長く生きられるなどと考えてはならない。医者は、表面的な病痛を少し減らしてくれるだけだ。だがどれだけ優れ、能力のある医者だろうと、寿命を延ばしてくれる医者はいない。

病気になれば医者に掛かり、病が癒えれば命が留まると考えている人が多い。実はそうではない。そなたに寿があるなら、主治医が世界で最も無名であっても、少しは病を良くすることはできる。寿がないなら、最高の医者に巡りあえても、やはり死んでしまう。医者は何をする人なのか?我々に心を寄せる人だ。仏は、人の病は心から始まると仰せになった。心に貪念、嗔念、因果不信がないなら、身体状況は良くなる。心が貪嗔痴でいっぱいなら、自然に病気になり、病気になれば寿は減少する。最終的な結論では、自分の寿は自分自身で取り返し、自分自身で使ってしまうということだ。誰かが寿命を減らすのではなく、すべては自分自身で決定しているのだ。

寿命が尽きそうになると、普段修行していない人なら、あらゆる病が必ず起きる。老いれば必ず病気になると思っている人が多い。それは誤りだ。私は歳をとった。今年72歲だ。だが今でも走れるし、たくさんの事ができる。72歲の老人の現象は全くない。これはどういうことだろうか?それは私の寿が非常に堅固だと言うことだ。私は現在自分の寿を消耗しておらず、寿を堅固にしているのだ。ある日、不要にならない限りはそうだ。不要になれば、不要なのだ。

修行人はある日この世間を離れるとしても、老いの苦を経験することはない。老いることは老いるが、老いの苦はない。例えば、歩行が不便で、食が細くなり、睡眠時間が短くなり、夜間にトイレに起き、情緒が不安定になり、何を見ても気に入らない等。これらはすべて老いだ。私はそなた達を見ても気に入らないとは思わない。それはまだ老いていないからだ。

修行人の寿命は非常に堅固だ。そのため、その病苦と老苦は、修行していない一般の人よりかなり少ないのだ。我々は釈迦牟尼仏をお手本としている。仏は往生前に示病しただけで、ただ小さな病に罹ったことしかなく、寝込むような重大な病気に罹ったことはない。自分自身の往生の過程がわからないほど老いたりもせず、非常にはっきりしておいでだった。また、釈迦牟尼仏は往生時に特別に吉祥臥を現され、この世を去られる時に仰向けではなく、すべての出家衆に就寝時に必ずとらなければならない姿勢をお示しくださった。

吉祥臥とはどんな意味だろうか?顕教を修める人は分かることはないが、密宗を修める人は必ず分かることになる。だが、東密、唐密を修めれば分かるのではなく、必ず密宗内の瑜伽と無上瑜伽部まで修めなければ、釈迦牟尼仏がなぜ吉祥臥で世間を離れられたかを知ることはできない。出家して数十年になる法師であっても、なぜ釈迦牟尼仏は、去られた時このようだったかを知らないかもしれない。だが釈迦牟尼仏は適当に動作をしたり、適当に話したりなさることはない。その動作の一つ一つ、言葉のすべては仏法の示現なのだ。よって仏がこの世を去られた時に、業報身が示したのも仏法なのだ。

密法の瑜伽と無上瑜伽部まで修めないなら、なぜ釈迦牟尼仏はこの姿勢で横たわり、右手を頬の脇に添え、片足を曲げ片足を伸ばしておられるのか理解できないだろう。経典に答えはない。たくさんの法師も知らない。そなた達は必ず「それなら、なぜ知っているのか?」と問うだろう。それは私は密宗を無上瑜伽部まで学んだからだ。当然知っている。

なぜ秘密というのか?それは仏の境界だからだ。仏は菩薩道を修める人に見せるのであって、そなた達のような者に見せるのではない。そのため仰せにならないのだ。仰せにならないと言っても、内部に秘密があるというのではなく、言ってもそなた達にはできないし、理解もできないからだ。そのため、仏は我々にたくさんの方便法をお与えくださる。例えば、長寿仏も方便法だ。真実の自己解脱の法則は根器を有する者に伝授くださる。大迦葉尊者が、仏が一輪の花を手に微笑まれるのを見て開悟したように、仏がある動作をなさるのを目にすれば、我々学密部の者には、仏が何をお教えくださろうとしているかが分かるのだ。そなた達は学べていない。どれほど説明しても、迷信だ、滅茶苦茶なことを言っている、と思うだけだ。

今日修める長寿仏は、修行人にとっては非常に大きい救いになる。一般人にとっては、この一生では延寿できないが、次の一生では必ず長寿となる。我々は現在減劫であるということを忘れてはならない。ほんのちょっとした事を過ち、ちょっと間違ったものを食べるだけでも、寿命は減るのだ。ある日本の信衆はもともとは今日法会に参加するはずだったが、原因不明の胃腸炎になった。原因は飲酒か肉食だと私は判断している。これはこの人が長寿仏と無縁だということで、上師に対する信心が不足しているということだ。よって、冤親債主が来させないようにしているのだ。

経典ではいう。仏法に触れ、仏法を聞く機会を得るには、福報が必要なのだ。福報がないなら、金を出して招待しても来ることはない。それは、密法とはなんであるか誰もが理解していないからだ。そなた達は必ず「それなら、はっきり言って、理解させてくれればいいではないか」と言うだろう。だが、そなた達は学密の器ではない。どれだけ言えば、そなた達に理解させることができるだろうか?

私はしばしば言う。小学生は大学教授の講義内容を理解することは絶対にできない。そのため、それは小学生にとっては秘密なので、大学教授が小学生に講義することは絶対にない。小学生が訪ねて行っても、いっしょに遊び、彼らが理解できることを話すぐらいだ。密法とは概ねこの概念だ。よって、私が現在講じるのは、そなた達を小学生と見なし、そなた達が理解できることを話しているのだ。絕対に密法が学べるなどと思ってはならない。非常に難しいのだ。私は法王に数十年従っている。法王には多くの弟子がいるが、現時点でリンポチェ果位まで証できたのは私だけだ。それは法王が私に特別によくして下さるからではなく、私に対してひときわ厳しいからだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏を修め始められ、修法の過程で開示をくだされた:通常修法の前には皈依発心する。毎回の修法の前、法会参加の動機は非常に重要だ。いかなる動機からなのかで、得られる善の果報が異なる。法本中で言う皈依とは、自分が菩提心を証するまで、法会に参加することで諸仏菩薩がひたすら自分に加持くださることを願うのだ。今日法会に参加したことで、今後、衆生を代表し広大有情衆生に布施と成仏利益する機会があることを願う。四無量心とは慈悲深くも喜捨だ。説明には非常に長時間必要なので、今日は一先ず説明しない。

続いて一段落の修法後、リンポチェは開示をくだされた:修法の前に、中に入ってきて法会に参加できない、あれらの一切の魔鬼部と衆生を我々は供養しなければならない。供養においては今日法会に参加している人の無病長寿を祈り、この法を我々に授権くださるよう祈る。その他については一先ず説明しない。言っても、そなた達には何の役にも立たない。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率い、長寿仏法本を念誦くださり、長寿仏の心咒を持誦くださった。弟子達は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがマンダを献上供養をお受けくださるよう祈り、リンポチェは慈悲深くも応じてくださり、ナンジュ・ケンポスが小川温泉寺住職、寶吉祥の出家衆、日本の信衆を率い、衆生を代表してマンダを献上供養を行い、修法は継続された。

リンポチェは開示をくだされた:先ほどは本尊に供養し、上師の寿命が伸び、事業が発展するよう加持くださるよう、一切の良くない縁を息滅するよう加持くださるよう、一切の衆生が非時死(時ならざる死)とならないよう加持くださるよう、八大災難と十六種の怖畏中から解脱できるよう祈った。また、衆生が干ばつがなく太平な時間が過ごせるよう、上師と施主の非時死の一切の災難を息滅するよう願った。しかも、法事が如願となり、悪因と逆縁がないよう願い、我々の福報と財富が上弦の月のように伸び、最後は無量光仏(阿弥陀仏)の果位まで修められるよう本尊に加持を祈った。生生世世に本尊から離れることなく、しかも両種悉地(ここでは説明しない)の加持を賜り、事業に障りがなく成就するよう長寿仏に祈った。

なぜここで悪因、逆縁がなく、寿命が伸び、福報が増え、事業が発展するよう要求するのか?それは我々はこの世界に生きているので、悪の因と良くない縁に遭遇しやすいからだ。例えば、ある国の統治者が戦争をすると言う。これこそ悪因であり、逆縁だ。仏菩薩の加被と救いを得られれば、この種の悪因と良くない縁は減り、さらには無くなってしまう。なぜ寿命財富が増えることを祈求するのか?大儲けしようと言うのではなく、この一生で為した悪は、減寿、減福、減財するので、この一生では過去世で修めた寿、福報、財富をひたすら使っており、使い切ってしまえば死んでしまうからだ。そのため、寿、福報、財富はなくてはならないのだ。

財富とは、億万長者になる、ということではなく、少なくとも食住と用いるものが足りており、なくて困るということはない、ということだ。例えば、閉関では、侍者が手伝ってくれなければ無理だ。閉関時には自分で料理したり関房を離れてはならず、必ず誰かが供養してくれなければならないのだ。これも寿命、福報、財富だ。そのため、これを求めるのは、子孫がどうなるというのではなく、因縁があり修行しているのだ。

リンポチェは修法を一段落継続された後開示をくだされた:続いては上師が地風水火を賜予する。我々一生の人の寿命と健康は地(肉体と骨)、風(気)、水(体内すべての液体)、火(エネルギー)を含む。食物を食べなければエネルギーは生じないという人がいる。だが、食べた食物が消失後、さらに食物を食べてもやはりエネルギーはない。通常はこの部分を修めない上師が多い。それはある部分で上師が持ち出さなければならないからだ。だが今日私はやはりこの部分を修めみなに与えよう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に身体をまっすぐに伸ばすよう指示なされ、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を継続された。

リンポチェは開示をくだされた:先ほどの一段では主尊長寿仏に祈請した。上師は先ず自分自身のために一度修め、次にみなのために修める。一切の事情において、我々の血肉、体温、気、神識、寿は損耗、散、破、彎、裂、搖破し、魔鬼に盗まれる(悪い事をすれば、心は魔鬼と同じで、鬼、神、仙に自分の欲望を満たしに来てくれるよう求め、魔鬼はやって来てそなたの寿を盗む)。

この場にいる台湾の弟子はみな神明を拝んだことがある。よって、すべてこの中だ。拝んで悦に入っているものまでいる。この場にいる日本の信衆でも、神社に加護を求めて参拝したことがあるだろう。鬼神は助ければ、お返しとして何かを取っていく。仏菩薩のように何も取らず、与えるだけ、ということではない。今日は六道衆生の寿、福、財、命、身、権、気一切の精華を先ずは法器中に入れ、後でそなた達を加持する。この権は権力ではなく、世間に生きる権利だ。そなたの思想と物事を行う方式が人でないなら、この世間で生きる権利はない。例えば、戦争を起こし、人を殺し、人を傷つけ、物事を誤っても言い訳に嘘をつき、人を騙し、他人を侵犯する等。この種の人は、世間に生き続ける権利はなく、天地の神鬼により連れ去られる。人であれば世間に生きられるなどと思ってはならない。これらの事を行えば、生き続ける権利はないのだ。

地風水火はみな知っておろう。だが意識とは何だろうか?神経質で、情緒不安定になり、うつ病を発症する等は、意識が損耗してしまったからだ。意識が損耗するのは、貪念が重く、因果を信じないからだ。損耗すれば情緒は不安定になり、うつ病を発症し、自閉症等になる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは薈供と供茶の儀軌を執り行われた。参会者はみな、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった供品を一つ受け取り、法会において上師、仏菩薩と共食する得難い殊勝なる因縁を賜った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を継続され、法座を下りて長寿仏仏像を用いて参会者に加持をくだされた。その際、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず鈴を振り、長寿仏心咒を持くださった。慈悲なる眼差しは深広無辺で、一切の有情を澤被し、参会者は跪き上師の殊勝なる加持を恭敬合掌して領受申し上げ、感激で涙に咽いだ。一瞬、清らかな香りが流れ過ぎ、皆は歓喜して上師の大功徳力を賛嘆申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られた後開示くださった︰今日はみなに長寿仏を修めた。日本の信衆にもう一度言う。必ず菜食しなければならない。少しの肉を食べたところでどうということもない、などと思ってはならない。衆生の命を傷つけ続けるなら、そなたの寿命は必ず減少する。自分が殺したのではないと反論する者が必ずいるだろう。だが、そなたが食べないなら、誰も殺さないのだ。

現在アメリカのある企業が大豆で偽の肉を作り、大きな利益を上げている。だが彼らは慈悲のためではなく、環境保護のためだ。地球が環境に与える負荷はどんどん大きくなっており、牛や豚を飼うことは地球を傷つけるからだ。自分を修行人だと思うなら、なおのこと菜食しなければならない。チベット仏教は肉食できるなどと思ってはならない。我々直貢噶舉派のたくさんの上師が菜食しており、しかも出家人に必ず菜食するよう厳しく要求している上師もいる。衆生の肉を食べれば慈悲の種子を断つと経典中では言うからだ。それは衆生の肉を食べれば、慈悲の種子が心中から消えて無くなると言うことだ。持咒すれば済度させてやれるなどと思ってはならない。そなたの身が清浄でないなら、持咒も清浄ではないのだ。

咒語は一つの方便法に過ぎない。真に大切なのは、心が清浄であるかどうかだ。心が清浄でないなら、咒語も清浄ではない。清浄な咒語でなければ、衆生に利益することはできず、持咒し手印を結べば密法修行だということではない。今日は手印について述べよう。密宗の手印はたくさんの意味を含む。第一に最も重要なのは、たくさんの仏と菩薩がおられるが、我々人は仏を目にしたことがないということだ。仏が在世の79年間、人々はそのお姿を目にしたことがあるが、それ以外、誰も仏がどのような様子であられるか見たものはいない。そのため我々が現在目にする仏像はすべて、経典中で仏が言われることに基づき、どのような様子であるかと考え作り出されたものだ。仏の様子はどれも同じだ。それはみな三十二相、八十随好だからで、それなら我々はどうして釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、長寿仏を見分けることができるのだろうか?手印によって見分けるのだ。

手印はその仏の願力を表わしている。現代人風に言えばその信号だ。我々人はどれがどの仏かはっきりできないからだ。我々には仏の神通がなく、その願力がどこにあるか知ることはできない。よってその手印によりそれぞれの仏を表現するのだ。そのため、毎日ある仏の手印を結べば、この仏を代表する、というのではなく、手印を結んだら、人に見られないように隠さなければならないというのでもない。仏の手印は手を伸ばして見せてくださっている。修行人が手印を結ぶのに、どこに秘密があるものか?秘密などない。

第二に修法の際、方便のために手印を用いる。例えば、供品を供養するのに、我々は手印を用いて表す。第三に修法の際に口で念じることもあるので、手印を用いてある動作の代表とするのだ。第四には手印を用いることで、仏と菩薩供養の手印を用いることで、我々のこの業報身が、身体が清浄になり、自然に我々の意も清浄となり、語も清浄となる。そういう意味だ。布で覆い隠し、こっそり手印を結べば、神秘的な感じがする、というのではない。実は少しも神秘的ではないのだ。

かつて書いた人がいる。高深な密法を真に修める人は、手印により成就するのではなく、完全に自分自身の心の転変により成就するのだ、と。我々は持咒し手印を結び観想する。これらはすべて方便法だ。いわゆる方便とは、我々の修行を助ける一種の因縁だ。真の究竟は禅定から得られるのだ。得られる、と言っても得られるのではない。禅定を通して、不要なものを捨て去るのだ。不要なものは不要だ。これにより清浄な本性を顕露させるのだ。よって実は何も得られていないのだ。今日は簡単に説明する。手印を結んでいる人を見て、密宗を修めているなどと思ってはならない。法本中にはみな手印があるのだ。

いわゆる「密」とは、心が非常に牢密で、内外のいかなる事情も修行成仏の心に影響を及ぼすことはなく、非常に牢密で、変化しないと言うことだ。さらに、密とは、仏の講話の含意だ。阿羅漢、菩薩、仏の境界まで達していないなら、仏の講話の含意を理解することはできない。よって密というのだ。ある果位まで修めれば、自然に理解するようになる。午後2時に法会を始める。さらに修法する。

後で出家衆は入り口で寿丸と寿酒を配布するように。上師が修法を通して仏菩薩の加持を感召した。そなた達が口にするのは物だが、実は中に加持があるのだ。仏法に対して真の恭敬心を起こしさえすれば、少しのものを食べるだけだが、役に立つ。不恭敬なら、心でほんとうにそうなのか、と思っているなら、少しの果汁と団子を口にするだけだ。恭敬なら、それらが身体に入れば、それは甘露だ。不恭敬で、懐疑心を抱いているなら、身体に入っても、それはただの物だ。少しのものを身体の中に入れるだけだ。よって仏法に対して清浄な恭敬心と信心を持つのは、そなた達にとって非常に重要なのだ。

午前中の法会は円満し、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


《金剛經》の開解

午後二時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、自ら参会者を率いて観音法門を修めた後、貴重な仏法の開示を下された。

午前中は密法を用いてみなに福報を修めた。午後は顕教の方法を用いて経典を開示し、智慧を修める。修行では必ず福と智慧を修めなければならない。智慧がなく福報だけがあるなら、物事を誤るだろう。どんな意味だろうか?智慧がなく、衆生の因縁と因果を理解するなら、間違った方法で衆生を助けてしまうからだ。智慧があり福報がないなら、思い上がり傲慢になりやすい。福と慧は必ず双修しなければならない。一種だけを修めればいいというのではないのだ。

福報を修めるには、たくさんの方法がある。人世間で善事を行う等は人天福報を修め、出世間の福報を修めるには、当然、上師、三寶に皈依しなければならない。皈依の後、上師は次第に仏法を教導し我々に出世の福報を修めてくださる。出世の福報とは何だろうか?それは輪迴世間を出離する福報だ。福報がなければ、輪迴の世間を離れることはできない。どうすれば出離世間の福報を修められるかを教導くださる系統立った仏法の修行方法が絕対にある。

福報があれば智慧が必要だ。本来一切の有情衆生はみな仏と同じ清浄な本性と智慧を具備している。だが生生世世に輪迴し、自分自身にたくさんの障礙と汚れを生じ、清浄な本性を覆い隠してしまい、智慧の光が見えないのだ。智慧とは賢い、学問がある、経験があると言うのではない。釈迦牟尼仏は般若空性の智慧を説明するのに、22年を費やしてひたすら講じられた。人類の今回の文化、数千年の歷史において、本来の清浄な智慧を開発するよう教えてくれる学問はない。現在言う学問、能力は、実は人類が数千年来、絶えず累積してきた生活の経験だ。我々にとって良い生活経験を残し、良くないと考えたものを捨ててきた。だがこの種の経験は、仏法を学習し智慧を修行しない限り、自分自身と衆生の生死解脱を助けることはできない。

智慧を修めるには、二つの方法がある。一つは顕教だ。顕教はどのように修めるのか?絶えず懺悔し、礼仏し、経典を念じるのだ。これには非常に長い時間が必要だ。一生かけても智慧を開くことはできないかもしれない。人が経典を見る時、文字を見る癖がついている。これら文字は学んで身につけたものだ。これら文字は仏が仰せの話の含意をはっきりと深く説明することはできない。我々は修行の面から経典中で仏が仰せの仏法を体感するのではなく、文字の面から経典を理解しがちだ。

顕教修行を用いる他に、密法を用いて智慧を修行することができる。密法を学んで智慧を修行するなら、顕教の基礎が必要な他、必ず一人の具徳の上師に従わなければならない。いわゆる「徳」とは人類の道徳ではなく功徳だ。学仏修行の功徳だ。一人の具徳の上師でなければ、密法の面での進歩で、次第を踏んで、系統立って弟子を教導することはできない。

密法では、我々がこの一生で修めた智慧を後得智と呼ぶ。それは後に修行により得た智慧だからだ。仏はこの智慧を得られるよう助けてくださる。後得智と根本智(本来根本的に存在し、仏と無二無別の智慧)が結合しなければ、仏が仰せの空性の智慧を証悟することはできない。この過程は、一冊の経典を念じ、一冊の経典を写経し、『大蔵経』全体を暗誦すれば、智慧を修められるというものでは絶対にない。ある程度の時間を経過し、過程と次第を踏んで修行しなければならないのだ。智慧は非常に重要だ。智慧がないなら、自分と衆生の生死を解脱することは本当にできない。

『金剛経』は禅宗においてなぜ特別に重要なのか?中国禅宗の六祖慧能は文字が読めなかった。書くことも読むこともできなかった。よってもちろん経典を読むこともできず、寺の廚房で働いていただけだったが、他人が『金剛経』内の二言「無所住而生其心」を念じるのを耳にし開悟したのだ。開悟の後はすぐに成仏するのか?そうではない。それは開悟は層に分かれているからだ。六祖慧能は第一回の開悟で何を心というのか、何を仏の清浄な本性というのかを体得した。後に五祖は、禅宗の衣缽を六祖に伝えられ、こうして初めて一代禅師となられた。できるだけ早く開悟できるよう望んでいる人が多い。開悟は非常に深い仏法を悟るので開悟というのではない。仏法を聞く過程において、ある仏法に対する解釈とそなたの人生経験を対比した時、自分の過ちがどこにあるかを悟り、自分の誤解がどこにあるかを悟る。これで少しの開悟と言える。

前の方で言ったように、菩薩道を修めるには、資糧道と加行道がなければ、見道できない。現在そなた達はみな資糧道にいる。つまり福と智慧を累積しているのだ。午前中は福を修め、午後は智慧を修めている。『金剛経』は釈迦牟尼仏が長者須菩提の求法に応じて開示されたものだ。『金剛経』の特別な点は、一般の信衆に語って聞かせるのではなく、菩薩道を修める人に聞かせる点だ。つまりそなたはすでに菩薩道を修める決心を下しているということだ。釈迦牟尼仏がこの経を講じたのは、心持ちがどうでなければ、菩薩とは言えない、と菩薩道を修める行者に聞かせるためだ。仏が仰せの真の仏法の真諦を理解したいなら、初めて菩薩道修行していると言える。菩薩道を修めると決めていないなら、私がどれだけ分かりやすく言ったところで、そなた達はやはり理解できない。分からないのに聞きに来て、どうするのだ?分からなくてもやはり聞かなければならない。それはそなた達は凡夫なので絕対に分からないからだ。

だが『金剛経』では、『金剛経』を聞く因縁があるなら、どんな衆生でも必ず福報があると言う。福報とはなんだろうか?人の福報ではない。人の数十年の福報はあまりにも簡単だ。未来世で学仏修行する福報だ。この福報は要らないとたくさんの信衆は言う。私は健康が欲しい、心の安定が欲しい、息子の健康が欲しい、商売の順調が欲しいと言う。この種の福報には限りがある。いつか使い切ってしまえるのだ。だが仏法修行の福報は、決心し十分な信心があれば、修行の福報はひたすら絶えず累積し、減少せず、しかもどんどん増える。修行の福報を具備しているなら、人世間の福報は必ず出現する。修行でき、仏法修行することができるなら、それは福がある人だ。福がある人なら、人類のあれら小さな福報がないことがあろうか?

ミラレパ尊者は閉関の際に誰も供養してくれなかったので、植物を食べ、全身が緑色に変わった。出関の後、人々は彼を見てひどく驚いた。それは全身が緑色に変わっていたからだ。だが出関の後、ミラレパ尊者はすでに証果を修めていたので、福報が現れ、非常に自然にたくさんの人が会いに来て、求法し、さらには供養した。考える必要なく、訊ねることもしなかったが、自然に来たのだ。私はこの数十年学仏修行をしているが、何かの名目を探して他人に供養してもらう必要はない。一切は随縁だ。供養してもよく、供養せずとも良い。私に福報があれば自然に出現し、福報がないなら、求めても得られない。後にやはり返さなければならないのだ。

『金剛経』では非常にはっきり説いている。釈迦牟尼仏は仰せだ。『金剛経』を宣説する人は累世に大福報がある人だ。累世にすでに修行したことがあり、累世にすでにたくさんの仏法に触れたことがあるということだ。『金剛経』を聞ける人も、累世で学仏したことがある。程度に少しの差があるだけだ。よってこの一生では下に座って聞いており、上に座って講じる資格はないのだ。天地を怨んではならない。いくら学問を積んだところで、法座に上れない。それは落ち着いて座っていられないからだ。

今日は『金剛経』を継続して開示する。分からなくとも大丈夫だ。心を込めて聞くように。心を込めて聞くとはどういうことだろうか?心を留め、眠くならないようにせよ。眠くなってもすぐに起きよ。自分の方法を用いて自分が眠くならないようにせよ。どれだけ老いていようと、やはりこのようにしなければならない。心は法を信しなければならない。先ほど言った。祈求伝法は、そなたが求めたものだ。私が講じたいのではない。そなたが祈求したなら、この法を信じなければならない。この法は私がいうのではない。私が発明したのではない。釈迦牟尼仏が仰せになったのだ。釈迦牟尼仏が仰せになり、上師が私に教え、私の修行経験を通して、この経典の意義を一定程度理解し、そうして初めてそなた達に説明できるのだ。自分は菩薩果位まで証したとはとても言えないが、私は菩薩道修行の道を歩いている。この点で私はそなた達よりすごいのだ。それはそなた達はまだ菩薩道を修めていないからだ。私は自分がそなた達より多くを理解していると思うので、今日はそなた達に対して『金剛経』を開示する資格があると考える。

経典︰「如来所説身相即非身相。仏告須菩提。凡所有相皆是虚妄。若見諸相非相即見如来。」

この数語を、現代のそなた達が理解できる事情により説明するなら、つまりは無常だ。例えば、そなたが目にする一切の物の身と相(つまり様子の様子)を含むこの身は我々の身体とは限らない。必ずこうではないのか?例として私はしばしば言う。私が今座っている法座を例とすると、我々は現在これに名を与え法座と呼んでいる。法座になる前、それは木材だ。木材になる前は一本の木だ。木になる前は一個の種子だ。種子になる前は一輪の花だ。花になる前は何だろうか?ひたすら言い続けていっても、終わることはない。

つまり、すべての相、すべての身体は、我々人が名前を与えただけだということだ。これだろうか?そうではない。ひたすら変化している。現在目に見えるのは法座だ。この法座の木材の原子分子は動いているだろうか?ひたすら動いている。なぜ物はどれだけ堅固だろうと、数百年、数千年で壊れてしまうのか?何が原因なのか?それは内部の分子原子が絶えず分裂しているからだ。実は仏の仰せでは、古代には物理学がなかったので、原子、分子、クォークを説明することはできなかった。説明できなかったので、仏は文字を用いて仰せだ。目にする相、目にする身は、仏の智慧によれば、この相と身は仮なのだ。現在はこうではあるが、未来はこうではなく、過去もこうではなかった。変化するのだ。

仏法の名詞から言えば、一切の因縁はすべて性空だ。自性であるのではなく、「ポン」とあっと言う間に法座が出てくるのではない。必ず前の事情があるのだ。今日法座に適した木材が見つかったとしても、作ってくれる誰かが必要だ。この法座を求める人も必要だ。そうでなければ出現しないのだ。この数語「如来所説身相即非身相」は我々はそれに名詞を与え、これは机だ、と言っているだけなのだということだ。だが机の身と相は本体ではなく、こうなのだ。本体は因縁が結合してできたものだ。この因縁は自性からこの因縁があるのではなく、一つの偶然なのだ。二つの異なる分子が衝突し、一つの物質が生まれる。この物質を我々は木材、木と呼び、鉄と呼ぶ。人類がこの物質をどう定義するかだ。我々はそれに名を与え、身体を与え、相を与える。

再び推論すると、人類の身体は人の身体か?科学的に言えば絕対にそうではない。すべてはなんだ?水、ミネラル質、元素が中にある。人の身体を開いて見れば、すべては人の様子ではない。なぜ我々には人の様子があるのか?それは過去世で為した一切の業力のため、この一生でこの身体を得たのだ。この身体はひたすら不変なのか?そうではない。若い頃から今まで、様子はひたすら変化する。誰がそなたの様子をひたすら変えるのか?この問題について考えたことはあるか?人類は自分は老いたというだけだ。老いるのなら、なぜ若い頃の様子はこんなにも大きく変化するのか?すべて同一の人なのに。氏名は同じで変わらない。占いで名を変えなければ、この数十年すべてこの名を使っている。

なぜ生まれた時の様子はこのようなのに、老いて死ぬ時には、全く違う様子に変わっているのか?科学、医学では証明できない。コラーゲンがどうだの、皮膚がたるむだのと言い、奇妙な名詞を山のように並べて、そなた達から金を儲ける。仏法の考え方では、因縁福報がこの一生でゆっくりと使われ、使い切ってしまえば、様子が変わり老衰で醜くなるという。広東人には「年軽無醜婦」という言い方がある。20歲を過ぎていないなら、どんなに醜くとも美しく見えるということだ。「老人沒美婦」とは老女は絕対に美しくない、ということだ。なぜか?文字では説明が非常に難しい。だが仏法の概念を用いて説明すれば非常に簡単だ。福報を使い切ってしまったのだ。元々は美しくとも、他人に醜いと感じさせてしまうのだ。

例えば、人が老いると加齢臭がするという。子供の匂いは、誰もが喜んで嗅ぎたがる。そうだろう?子供を産んだことがある人は知っているだろう。子供を抱いてひたすら匂いを嗅ぐ。非常に良い香りだと思う。ところが夫の匂いは、ひどく臭いと感じる。原因は何だ?それは子供は生まれたばかりの時、福報があるので、みなに好かれるのだ。もちろん子供の中にも、人に嫌われるものもいる。だが、子供が生まれた時の福報は、そなた達これら年をとったものより絕対に多い。それはまだ用い始めていないからだ。多くの人が乳児室で子供を目にし非常に喜ぶ。それは子供には福報があるからだ。70歲まで生きると、なぜ老人を目にして喜ぶ人がいなくなり、老人と距離を取ろうとするのか?それは福報を使い切ってしまおうとしているからだ。この一生で仏法を修め、福と名が自然に出てきているなら、人は自然に近づいてくる。修めないなら、晚年になって悲惨なことになるだろう。

釈迦牟尼仏が仰せになったこの数語は、我々にお伝えくださるのだ。そなたは美しい。だがある日醜くなる。自分はすごいと思っている人。いつかそれも変わり、すごくなくなる。よって仏は我々に今を大切にせよとお教えくださるのだ。今美しいので、今を大切にし、急いでたくさんの人と付き合え、というのではない。福報がまだ残っている時に、急いで努力し学仏せよと言うことだ。老いて、定年退職し、時間ができるまで待たずにだ。時間は我々を待ってはくれない。時間を追いかけているのだ。老いた時には体力も覚束ず、仏法を聞こうとしても耳に入ってこない。それは心血が不足し、精神を集中して仏法を聞くことができず、容易に散漫になるからだ。私のように72歲まで生きて、こんなに体力がある老人は少ない。数人もいない。私は薬も飲んでいないし、毎日運動をしてもいない。ではどこからくるのか?修行の福報から来るのだ。経典はこれらの事をすべて教えてくれる。

対応して『寶積経』を見れば、家庭内のすべての眷属は行ったり来たりする、と非常にはっきりと講じている。今日どんなに一人の人を愛しても、いつか必ずその人は変わる、とも言っている。よって仏は、我々のこの種の執著を破るため、「身相得見如来」であってはならないと非常にはっきりとお伝えくださる。学仏するなら、如来が自分の面前に出現するのを見たいと考える。菩薩が自分の面前に出現しなければ、自分の修行がうまくいっていると思えない、と考える。仏はこうではならないとお教えくださる。なぜか?それは執著しているからだ。執著すれば、魔がすぐにやって来る。隙を見てやってくるのだ。修行において、今日菩薩果位まで証したなら、自然に報身仏が出現くださる。求めなくとも、自然に出現くださる。考える必要もない。それはそなたが報身仏と同類だからだ。だから来てくださるのだ。阿羅漢果まで修めたなら、阿羅漢が自然に来てくださる。菩薩道まで修めたなら、天龍八部が自然に護持くださり、どんなことでも考えるだけで、できてしまう。

仏は特別にこれについて仰せだ。つまり、末法時代の衆生は盲信しやすいと心配し、衆生が仏の名を騙るのではないかと心配しておいでだ。私は仏だ、などと言うのは誤りだ。仏は特別に経典で仰せだ。仏果まで証するには、必ず32の相を有しなければならない。この32の相は完全に検証でき、見せられるのだ。32の相を見せられないのに、自分は仏だと言うなら、そなたが精神病でないなら、相手が精神病だ。仏は2千5百年余り前にすでにたくさんの事をお伝えくださっている。末法時代の衆生が仏の名を騙り他の衆生を騙すのではないかと心配しておられる。騙す、と言っても金銭などを騙し取るのではなく、輪迴を断つことができなくなるのだ。

仏は、我々が目にするすべての相は虚偽だ、と須菩提にお話しになった。「若見諸相非相即見如来」一切の相は真に出現することはなく、不変だと真に明確に知っているということだ。仮にそなたが証し、すべての相は我々が想像しているようなものではない、すべてそのようだと理解できたなら、如来の法身を目にしたも同じだ。如来の法身はひたすら変化する。衆生に応じて変わる。自分自身は変わるのか?変わらない。釈迦牟尼仏が人の様子で出現することを衆生が望むなら、人の様子を現し我々に見せてくださる。仏が天人の様子で出現することを衆生が望むなら、天人の様子を現し我々に見せてくださる。衆生の心に応じて変わり、衆生が変わらないなら、変わらない。

ここでは非常にはっきりという。学仏人は「仏!私にお姿を見せてください。そうでなければ、私は修行できず、霊験を感じられません」と毎日仏に求めるのではない。仏は「若見諸相非相即見如来」と非常にはっきりと仰せだ。一切皆空まで証すると、仏本来の真のお姿を目にすることができる。本来の真のお姿とはなんだろうか?それは清浄な本性だ。それはそなたにもあるからだ。ここで言う如来を目にするとは、釈迦牟尼仏が突然面前に出現する、と言うのではなく、釈迦牟尼仏と根本的に同じで、成仏の条件を具備した自分を目にすると言うことだ。諸相非相を理解できるなら、清浄な本性はゆっくりと顕露してくる。

ここには二つあり、一つは後得智だ。諸相非相を目にしたなら、自然に根本智を目にし、それが結合する。この言葉は自分は釈迦牟尼仏、阿弥陀仏を目にした、と説明するのではなく、我々に説明して聞かせるのだ。このように修めなければ、釈迦牟尼仏と同じ清浄な本性、法性を真に目にすることはできない。こうでなければ、真に如来を目にしない。

経典︰「須菩提白仏言。世尊。頗有衆生。得聞如是言説章句。生実信不。仏告須菩提。莫作是説。」

須菩提はそなた達を代表して「世尊、衆生(つまり信衆)は如来が仰せの、先のこの数語を聞き、着実な信心を起こすでしょうか?」とこの問題を問うた。仏は須菩提に「このように言ってはならない。このように言うのは、正しくない」と仰せになった。

経典︰「如来滅後。後五百歲。有持戒修福者於此章句能生信心。以此為実。當知是人不於一仏二仏三四五仏而種善根。」

この言葉は重点を語っている。非常にはっきり言っている。釈迦牟尼仏涅槃の後の五百年、そのころ像法時代が始まった。像法時代に誰かが持戒するなら、在家は居士五戒と皈依戒、出家比丘は比丘戒を守らなければならない。比丘尼は比丘尼戒を守らなければならない。それは持戒しなければ、福を修められず、前の方で言った話に対して信心を起こすことができないからだ。これらは一般人が聞いても必ず信じるとは限らない。持戒し福を修め布施供養し絶えず修めていなければ、これらを聞いて信心を起こすことはない。この数語は一般の信衆が聞いて、実際にこのようだと信じ、自分はこのようであるべきだ、自分はこのように思うべきだ、このように行うべきだと考えるものではない。仏はこのようには言っておられない。条件が必要なのだ。それは相手が守戒し福を修めていないなら、聞いても信心を起こすことはないからだ。耳にし、これは実際に仏が仰せだ、自分は仏の考え方、仰せに背けないと考える。福を修めたいなら、この言い方に従い、自分の考え方を持ってはならない。違いはここなのだ。

そなたなら、聞いてどうだ?比較する。どのように比較するのか?自分のすべての人生経験と比較する。ひたすら対比し「仏が言うのはこのようか?本当にできるのだろうか?いったいどのように行うのだ?」と言う。だが持戒修福する人は聞けば信心を起こし、しかも実際に行う。この事の真偽はどうなのかと、いわゆる疑惑、または懐疑を抱かないのだ。またこの人は、自分はできないとは考えない。それはいつの世かに必ずできるからだ。違いをはっきりさせなければならない。仏は前の方で仰せになっている。この経は一般の信衆に聞かせるものではなく、菩薩道を修める決心を下している人に聞かせるのだ。このような人は聞けばすぐに受け入れ、すぐにこの方向へ向かって行う。菩薩道を修めない人が聞いて「何を言っているのだ、分からない。私はこんなものは要らない。菩薩が霊験あらたかで、自分が健康になれれば良いのだ。これは要らない」と言うなら、ただ信じているだけで、実信ではないということだ。

よって仏は、この人は必ず以前一尊仏、二尊仏、三尊仏の前で善根を植え付けているのだと仰せだ。拝みに来て、聞きに来て、善根を植え付けると言うのではない。善根を植え付けるとは、法会に参加し、一切の疑惑、要求を抱かず、ただ非常に恭敬に法会に参加することだ。第二に、法会参加は真に広大有情衆に利益するために法会に参加している。この種の善根は植え付けられる。善根を植え付けるとは、「読経した。他人に法会に参加するよう誘い、読経するよう勧め、自分は経典を研究している」と言うのではない。それを善根を植え付けるとは言わない。

経典は研究するものではない。経典は修めるものだ。そなたが文字から経典を研究できるなら、私は尊敬する。そして第一に言う。私はもう修めないと。そなたの学が私よりどれだけ多かろうと、経典中で仏が仰せの境界を、そなたがすべて修められるとは私は信じない。それは、そなたは研究するのであって、実修するのではないからだ。経典の研究に多くの時間を浪費している人がたくさんいる。あちらのは満州語の『大蔵経』で、私の後ろにあるのはチベット語の『大蔵経』だ。つまり『龍蔵経』だ。私のこの一セットは最後の一セットだ。後ろのも最後の一セットだ。私の周りはすべて経典だ。私は毎日研究しているだろうか?していない。どうして研究するだろうか?私は研究しない。自分がどんな境界まで修めたか、経典を開けば分かる。仏は49年説法なされた。仏法をさまざまな衆生に聞かせたので、語った方法はあまりにも多い。因縁がなく学んでおらず聞いていない方法もあるので、一先ず横に置いておく。それなら、我々は何に基づくのだろうか?上師の教え、仰せに基づき、専一に修めるのだ。

経典︰「已於無量千万仏所種諸善根。」

今日『金剛経』を実信できるのは一般人ではない。六祖慧能が聞いた途端に開悟できたように、六祖は一般人ではない。仏は非常にはっきりと仰せだ。自分自身に対して決して高過ぎる期待を持ってはならない。自分は学があり、博士号を持っており、ダブルマスターで、世界の文学界で有名なので、経典を理解できると思っている。仏は非常にはっきり仰せだ。たくさんの仏の面前で非常に大きい善根を植え付けなければ、実信することはできない。仏は研究について仰せか?仰せでない。何を以って、経典を一種の学問として研究するのか?最初から道を誤っている。邪門歪道だ。「実信」と言うこの二文字をなぜ研究しないのか?仏が何を仰せか知っている、と自分の学問教養を他人にひけらかそうとする。自分は仏だと思っているのか?訊ねよう。自分は仏だと言う勇気がある者はここにいるか?自分は仏だと言う勇気がないなら、どうして仏の境界があるだろうか?よって研究の心持ちで見てはならないのだ。実信問題であるのだから、仏は非常にはっきり仰せだ。そなたにはこの条件はあるか?と。

例えばそなたは肉食するか?する。それならそなたは持戒していない。酒を飲むか?飲む。それなら持戒していない。仏法を用いて金儲けをしているか?している。それなら持戒していない。持戒していないなら、どこに福報があるのか?持戒していないなら福報はなく、当然、仏の面前で善根を植え付けることはできない。善根がないならどうして行できるだろうか?信仏とは、私が信じればそれが信なのだなどと思ってはならない。善根が必要なのだ。善根とはどんな意味だろうか?この根がないなら、樹木は育たないのだ。樹木を植えるには種子が必要だ。種子を植え付けなければ根は生えてこない。種子はどうやって来るのか?上師が種子を撒いてくれるのだ。良い種子をそなたに撒いてくれる。種子はそなたの心の中に届く。水をやり続け良い環境を与えれば、種子は芽を出す。善根を生やすだろうか?継続しないなら、無くなってしまう。上師の仕事は何だろうか?そなた達に善の種子を植え付け、ひたすらそなた達に与え、たくさん与える。小さなゴマ粒よりたくさんだ。すべてを撒きつくす。だがそなた達はこの種子を発芽させない。なぜ発芽させないのか?信じないからだ。

我々の善根が出てきた。なぜ学仏では必ず先に皈依、守戒しなければならないのか?経典が言うのだ。私の要求ではない。釈迦牟尼仏が仰せなのだ。守戒しないなら修仏できない。修仏しないなら善根はない。善根がないなら、聞いても理解できず、信じない。私は経典を開示する際にたくさんの人を叱責する。私は他の法師とは異なる。他の法師は経典を開示する際にたくさんの名相を語る。経典内のたくさんの名詞をそなた達に聞かせる。私が経典を開示する際には実際に基づき、仏が仰せの通りに、私はそなた達に伝える。

仏はこんなにもはっきり仰せだ。仏は言われた。六祖慧能のように『金剛経』を聞いた瞬間に、「仏の仰せはすべて実在するものだ。真実だ。自分はこの方向へと修めよう」と思ったなら、この人は過去千万仏所(仏がおられる場所)に諸善根を植え付けている。どんな場所だ?地球は釈迦牟尼仏の浄土だ。釈迦牟尼仏の場所だ。今日人類は地球上に生きている。我々は釈迦牟尼仏の道場にいるのだ。この地で学仏しないなら、どこで学ぶのだ?阿弥陀仏のお側か?そなた達は行く資格はない。ここで、釈迦牟尼仏は大慈大悲であられる。我々これら悪業が深重な衆生を目にしても、お見捨てにならず、ここに来られて成仏し、仏法を教導くださる。釈迦牟尼仏がおられる地にいる機会を我々にくださっているのだ。

500人の弟子を率い、かつて釈迦牟尼仏が晚年に説法なさった舍衛城へ行った。それは仏所だ。ご老人の肉体はすでにない。だが精神は未だあり、エネルギーも未だあり、福報も未だある。人がそこへ行けば、仏所へ行ったに等しい。菩提樹の下で、みなを率いて禅定した。それは善根があるからだ。ないなら行けない。たくさんの弟子は時間がない、金がない、学校へ行かなければならない、出勤しなければならないと考え、こんなにもたくさんの金を使うなんて貯金したほうがマシだ、と考え、様々なことを言っていた。

経典︰「聞是章句乃至一念生浄信者。須菩提。如来悉知悉見。是諸衆生得如是無量福徳。」

ここで釈迦牟尼仏は語り終え、そなた達に慰めをくださっている。そなた達の善根が少ないとしても、上で言う一言を聞き、一つの念頭を起こし、一つの考えを起こしたなら、浄信が生じると言うのだ。どんな意味だろうか?学問を持ってきて仏法と比べてはならない。「仏が言うのは何だろうか?全く聞いたことがない。こうしなければならないのか?」これこそ不浄信だ。仏が仰せの一切は、仏自身のためではなく、すべて我々を教導するためなのだ。修行したいなら、必ずこのようにしなければならない。それはこれが仏が修行して成仏した経験法則だからだ。この経験法則は我々の書物、人類の歷史文化には全くない。どうして持ち出して来て比較できようか?比較などできない。比較できないなら、清浄に信じなければならない。

清浄に信じる、とは仏の仰せは、絕対に衆生に利益するとはっきり理解し、信じることだ。念頭を起こし、『金剛経』内の一言を信じれば、衆生がどれだけおろうと、如来はすべてご存知だ。100万人おろうと、そなたが念頭を起こし、『金剛経』内の一言に対して清浄な信心を起こすなら、これらの人は無量福徳が得られると仏はご存知だ。法会が始まったばかりの頃、私は言った。心を込めて聞き、居眠りしてはならない、眠くなってはならない。私はこんなにたくさん話したが、突然そなたの神経が起き、聞き入れたなら、そなたは無量福徳を得るだろう。無量福徳とは、そなたが真にある一言を信じ、聞き入れ、未来世で修仏するなら、この福徳は永遠にあり、消失することはない、と言うことだ。人の福は使い切ってしまえば無くなってしまう。だが修行の福は消失しないのだ。仏は我々にお伝えくださる。真に修行するなら、信により生じた無量福徳の量は無限だ。それはひたすら使っているからだ。一言でいいのだ。なんと簡単なことか。

だが、清浄な心を起こすのは容易ではない。非常に困難だ。我々は数十年生きる。どれだけの常識、知識、学問が頭の中にあるのか?誰かが何かを言うのを聞くと、それら学問がすぐに飛び出て来てそれと比較する。私が講じると、そなたはすぐに心の中の図書館を開き、ある書物やある一言を探し出して来て「私が学んだものとは違う」と比較する。そして推論研究を始め、浄信でなくなる。なぜ学歷が高い人ほど仏法研究を好むのか?反対に六祖慧能は文字が読めないが開悟なさった。反対に我々のような学歴が低い者の方がいくらか修められ、学位が高い者は難しい。なぜだ?それは学歴が高い人は、自分は知っている、分かっている、自分はすごい、と思い、聞いた仏法を先ずは自分の学問と比較し、自分の学問ではこうは言わないと思っているからだ。それは誤りだ。こうして不得浄信となってしまう。

経典︰「何以故。是諸衆生無復私相。人相。衆生相。寿者相。無法相。亦無非法相。」

仏はいくらかの良い点をお話し始める。なぜ『金剛経』内の一言に対して浄信を生じた者は無量福を得られるのか?それはこれら衆生は再び我相(自分)、人相(相手)、衆生相(第三者)、寿者相(時間)を持たないからだ。「無法相」とは法がないのではなく、一切の法は因縁から生じ、因縁で滅するということだ。私はかつて「法生心之動也」と言う言葉を書いたことがある。心が不動なら、方法は出現しない。心が動でなければ方法は出現しない。心が不動なら、方法は滅してしまう。

この言葉の意味は、この人が一言に対して浄信を起こせば無量福徳を得るということだ。なぜこうなのか?それは、この人がこの言葉に対して浄信を起こした時、その人には「我」がなかったからだ。自分が学んだものと仏の仰せを比較しよう、と考えなかった。「無衆生相、無人相」。浄信を生じた時、対比の方式を用い、仏の仰せと自分の知識とを対比しなかった。これは対比だ。そなたには「人」がなく、相手には「人」がある。どうやって対比できるだろうか?この対比も無くなってしまう。「衆生相」一言に対して浄信を生じた時、これまで一度も聞いたことがない、たくさんの人が言ったことがある言葉の中にない、と考えなかった。どんな意味だろうか?浄信を起こしたなら、聞いたことがあるかどうかは自分とは関係がないとはっきり分かっているということだ。自分が仏を信じるからだ。衆生が言う話は仏が仰せの話ではない。なぜ私が信じるのか?衆生が研究する仏学は仏が仰せの話ではない。なぜ信じるのか?自然に「衆生相」も無くなってしまう。

「寿者相」時間も無くなってしまう。過去現在未来三世仏がおられるが、仏の境界から言えば、過去現在未来はすべて同一の時間に出現、消滅する。よって時間の概念はない。科学的概念からいえば、非常に深い宇宙虚空中に入った際に時計を持っていないなら、宇宙内に時間はない。この言葉は、時間とはどうやって来るのかを我々に伝えている。人が決めたものなのだ。現在地球が不動で太陽も不動で月も不動ですべての星が不動なら時間はない。時間はものが動くので時間が生まれるのだ。ものが完全に不動なら、時間は生まれない。なぜ現在地球では、数万光年も離れたところの信号を受け取ることができるのか?なぜ光年を用いて計算するのか?それはこれが最も速いからだ。なぜ時間が必要なのか?それは我々が相手がこちらに来ていると考えているからだ。だが我々の心が動かず、地球も動かず、相手の星も動かないなら、この信号はすぐに届く。

衆生を済度させる時、たとえ2000キロ離れていても、相手が何を考えているか私には分かる。2000キロ離れているのだ。飛行機に乗っても数時間かかる。亡者が考えた数時間の後に私がようやく知った、ということはあり得るだろうか?それでは済度は間に合わない。亡者が何を考えているのか、私はすぐに知らなければならない。最近私は一人の亡者の神識を保護した。彼は二、三千キロ離れた場所にいたが、彼が何を考えたのか私はすぐに分かった。これはなぜか?寿者相がないからだ。私--修法する人にとっては時間がない。時間は人の心が動いているからなのだ。時間がないとの前提の下でなければ、一切の因縁、衆生の心を理解することはできない。そのため、一切の衆生の知見が分かると釈迦牟尼仏は仰せなのだ。それはここから来ている。

経典︰「何以故。是諸衆生若心取相。則為著我人衆生寿者。若取法相。即著我人衆生寿者。」

釈迦牟尼仏は衆生に、よりはっきり分からせるために、衆生の念頭、考え方、心に取相があるなら、と継続して言う。見えなければ信じない、と言うことだ。例えば「リンポチェはすごいと言うが、私は見たことがない。ただのTitle(称号)に過ぎないのだ。なぜ信じるのか?」と言うが、これこそ取相だ。この人は目にしたいし感じたいのだ。だが我々人の心はこれを取相するなら、我、人、衆生、寿者相に執着する。修行人がこれに執著するなら、慈悲喜捨を修められない。慈悲喜捨を修められないなら、菩提心を修めることなど不可能だ。仏がこんなにもたくさん仰せなのは、我々のためだ。我々が修行し、この四種の相を破るためだ。『寶積経』では、慈悲喜捨を修めなければならないと非常にはっきり仰せだ。慈悲喜捨を修めれば、自然にこの四種の相を破れる。考える必要もなく、自然に破れてしまう。

ここは顕教の理論だ。仏はひたすらは我々にお伝えくださる。一切の相を取ってはならない。自分が修めるのでも、衆生のために修めるのでも、なんらかの特別な相を取って、自分は目にした、知っている、感じた、と考える必要はない。慈悲心、菩提心がありさえすれば、相を取らなくとも衆生に利益できる。現象が見られないなら、できる人だと考えない。この人は我、人、衆生、寿者相に執著している。

経典︰「何以故。若取非法相。即著我人衆生寿者。是故不応取法。不応取非法。以是義故。如来常説。汝等比丘。知我説法。如筏喻者。」

この数語がまとめて言っているのは、自分を開悟させる何かの法を必ず要求すると言うなら、これこそ「取法」だということだ。今日の求法は、自分の修行の面で方便を得るためだ。何を方便というのか?修行するための道具だ。なぜ修行するのか?自分自身と衆生を生死解脱させるためで、これは取法ではなく、方便法だ。現在ここで言うのは、どんな方法を取るかだ。例えば、外道は必ず何かの儀軌を行わなければ、神は喜ばないという。行わないなら神は喜ばない。これは取法だ。取法と取非法相者なら、我々は我、人、衆生、寿者に執着する。

仏はこんなにもたくさん仰せになり、慈悲を修めなければならないとお教えくださる。慈悲を修める人が、自分、相手、衆生、時間の観念等に執着するなら、慈悲心はない。慈悲心が出てこないなら、修行で善人になれ、善事ができるだけで、慈悲を修めることはできない。よって、如来はしばしば弟子の比丘尼に仰せになる。私、釈迦牟尼仏が言う一切の修行の方法を知るのは、一艘の船のようだ。こちら側から向こう側へ行く時には船が必要だ。彼岸へ着けば、仏の境界に到達だ。船は必要ない。なぜこの海、この水を越えなければならないのか?それは法船が必要だからだ。この法船こそ、仏がお教えくださる一切の成仏の方便法だ。だが仏果まで真に証悟しようとする時、この船は用いない。

五祖は、六祖慧能に深夜に南方へ行くと告げた。五祖は自ら六祖を連れて小船に乗り河を渡った。五祖は六祖のために船を漕いだが、六祖は櫂をこちらへ、と言った。上師に船を漕がせるべきではないと思ったからだ。だが五祖は「迷時師度,悟時自度。」と仰せになった。そなたがやはり執迷不悟で、やはり仏法を理解していない時、上師はそなたを度するのだ。そなたが開悟すれば、自分で自分を度することができる。上師は必要ない。必要ない、と言っても、上師を捨ててしまう、ということではない。誤解しないように。今になっても法王はやはり私の上師だ。私は法王を捨ててしまってなどいない。そなたが悟った時、自分自身で努力を継続して行うことができるのだ。禅宗内のあらゆる動作は仏意と禅機を有する。それはこの言葉に基づくのだ。

仏が開示くださる仏法は、船を用いさせてくださるのだ。だが彼岸に達すると、捨ててしまう。この法は不要なのだ。なぜか?それは清浄な本性は本来自然だからだ。作為的でないのだ。衆生を済度させる時、私は動作を見せたりしない。非常に自然に衆生を済度させる。私が清浄な本性を証していないなら、衆生を済度させることはできない。相手の苦を目にする。その人を目にした時、この人は供養したか、金があるかと考えるなら、このように考えるなら、山のようにたくさんの事が出て来る。だが私はすでに少しの空性、清浄な本性を証しているので、この法は亡者に方便を与えるだけで、私に方便を与えるのではない。それはすべての衆生がこれが必要だからだ。私は現在この人に方便を与え、この人に見せる。だが私の心は動いたか?動かない。私はこの人に方法を与え、私が助けていると感じさせたのだ。私は彼を助けたか?助けていない。私は自然に衆生を輪迴苦海から離れせただけだ。よって彼は済度されたのだ。私はトイレットペーパーと同じだ。そなた達は私を捨て去ってしまって良い。よって私はしばしば自分をトイレットペーパーに例える。かつてはトイレットペーパーがなかったので、仏は船を用いて比喩されるのだ。

経典︰「法尚応捨。何況非法。」

輪迴解脱を修められない一切の方法を非法と呼び、仏が我々にお教えの正しい方便法門ではない。よって仏法であろうと外道であろうと、教えられ、語られた方法が、この一生で生死を解脱させられないなら、我々はそれを非法と呼ぶことができる。ここで言う非法、正法とは、得度した後、正法さえも手放せるのに、非法を手放せないはずがあろうか?いわゆる法とは、法を得た後、執著して手放せず、「私はすごい。私は誰よりもすごい。私にはこれがある。そなたにはない」と思うなら、そなたはおしまいだ。それは、そなたがこの法に執著しているからだ。

私はこの一生でチェ・ツァン法王に従い仏法を学習している。法王は非常におもしろい方だ。例えば「阿弥陀仏大超度法会」の法本だ。法王は一度念じて私に聞かせた後、法本を私にくださり、修めよと言う。私が法に執著するなら、私はおしまいだ。なぜか?それは一言一言を質問しなければならないからだ。私は今日午前中長寿仏を修めたが、法王は一度私に口伝くださり、私に修めるよう命じる。私がこの法に執著するなら、私はあらゆる言葉を質問しなければならない。だが私は問わない。なぜか?それは私が、法は衆生を救うための一つの方便、一つの道具に過ぎない、仏と同じ清浄な本性まで修めたなら、この法は適当に持ってきても法で、適当に取ってきてもやはり法だと知っているからだ。もちろんそなた達は今このように言ってはならない。そなた達はまだこのようにはできない。そなた達はやはり規則に則り、、拝仏し懺悔し読経し供養布施しなければならない。これは現在のそなた達にとっては欠かせない事だ。

経典︰「須菩提。於意云何。」

私は語り終わった、何か意見があるか、どう思う?と仏が先に須菩提に問うた。

経典︰「如来得阿耨多羅三藐三菩提耶。如来有所説法耶。須菩提言。如我解仏所説義。」

よって須菩提は答えた。仏が仰せの含意を私が解釈したところ、字面の意味ではないと言う。彼はこれまでこんなにもたくさん聞き、「無有定法得阿耨多羅三藐三菩提」と知ったのだ。無有定法とはなんだろうか?修法には一定の儀軌がないと言うのではなく、衆生の根器に基づき、どんな方便法を用いるということだ。仏は8万4千の法門を講じられた。どの法門も衆生を煩悩から解脱させられる。だが衆生の根器は異なり、因縁も異なるので、同一の方法を用いることはできないのだ。

例えば、私はたくさんの弟子を済度する。罵り、急かし、蹴り、打ち、無視することもあり、供養を禁じることもある。リンポチェが怒ったと多くの人は言うだろう。怒るなら、私はリンポチェではない。そなた達が私に怒っているのだ。「リンポチェが無視する」と私に怒り、「リンポチェが罵る、リンポチェが罰する」と言って怒っているのではないか?考えてみよ。学生時代、教師はそなたを罰した。そなたは教師に怒ったのではないか?子供の頃、両親に叩かれた。怒らなかったか?そなた達が怒るのだ。よって今後誰かがリンポチェが怒っているというなら、それはそなた達が怒っているのだ。はっきりさせるように!リンポチェは法無定法と知ったなら、それでも怒るか?そなた達は自分の過ちがどこにあるのかを検討し、「私を理解していない」とは思わないだろう。そなたを理解してどうなるのだ!私はそなたを理解する必要はない。そなたを理解するのは、あまりにも大変だ。仏法を理解するだけで十分だ。

経典︰「無有定法名阿耨多羅三藐三菩提。」

如来は、こんなにも多くの衆生を済度させるのに、固定の方法を用いない、という意味だ。外道はたった一つの方法、たった一冊の書物を用い、すべての人がこれを聞かなければならない、自分の考え方があってはならないという。だが仏法はこのようではない。如来は衆生の根器に基づき救いを与える。例えば『金剛経』で仏は「須菩提、私は言ったことがある。そなたはどんな考えがある?」と問うている。これこそ仏法の偉大なところだ。仏法が違う点だ。自分の意見を必ず吸収しなければならないと強制せず、意見を聞いてさえくれる。仏が仰せの含意をどれだけ消化したか様子を見てくれる。まだ消化吸收できていないなら、もう一度講じ、もう一度言ってくれる。他の宗教のように、信じないなら殺してしまえ、信じないなら地獄へ堕ちるというのではない。仏はここで須菩提に「於意云何?」と言う。教えを請うのではない。どれだけ理解できたか訊ねておられるのだ。十分に理解していないなら、継続して開示する。十分に理解しているなら、開示を少なくする。

ある年、私はチベットの辺境へ行き、直貢噶舉の一人の大成就者、ユンカ・リンポチェにお目にかかった。すでに往生されている。ユンカ・リンポチェが最後の一つの秘密灌頂をくださった時、ケンポスもその場にいた。ユンカ・リンポチェはその場で私に仏法を訊ねられ、問いが終わるとようやく灌頂をくださった。今日のように、こんなに楽なのではない。私は全く何も問わずに灌頂した。あの日、温泉寺でもみなに灌頂を授けた。

「どんな考えがある?」とは、仏には神通があるのに、こちらの考えが分からないのか?とそなた達は思うだろう。そうではない。必ず口に出さなければならないのだ。それは我々はやはり人だからだ。人類は必ず言葉でコミュニケーションをとる。天界では言葉を用いない。鬼道、地獄道でも言葉を用いない。だが人は必ず話をする。なぜか?それは話さないなら、意識が出てこないからだ。なぜ必ず口に出す必要があるのか?それは我々の心がひたすら動いており、ひたすら変わっており、たくさんの念頭がひたすら出てきているからだ。そなたが口に出した時、非常に自然にそなたの心はひたすらこの言葉の上に載せられ、それ以上動かず、この言葉は清浄となる。

ユンカ・リンポチェは試験を終えなければ私に灌頂をお授けくださらなかったように、試験が終わらなければ無視し、試験に合格しなければ無視する。これこそ仏法の特徴だ。何を聞かれたのかは忘れてしまった。ユンカ・リンポチェは「どう思う?」と言われた。これは仏の仰せと同じだ。「どう思う?」そなたの意見を聞いておいでだ。間違っているなら、継続に教える。正しいなら、授ける。つまり仏法は他の宗教とは異なる。信じればそれでOKだと言うのではなく、必ず、講じた後に仏が仰せの方法に従い修行し、修了した後は、どれだけ悟ったか観察し、そなたの悟に基づき、仏法を継続して教導する。

私が閉関して出てくると、毎回法王は質問なさる。法王の質問の方法はあっさりとしたものだ。ちょっとした不注意で罠にはまる。おしゃべりの中で試験をする。大げさに法座にお掛けになって私と対話するのではない。試験に合格すれば、その後にまた伝えてくださる。合格しなければ、伝えてくださらない。

経典︰「亦無有定法。如来可説。」

如来が法を言わない、というのではない。そうでなければ、如来が『大般若経』を22年間語られるだろうか。如来が仰せなのは、一切の衆生の因縁に基づき、一切の仏法を衆生に説明するので、この法は固定ではない、ということだ。

経典︰「何以故。如来所説法皆不可取。不可説。」

如来が仰せの法はどれも「不可取」だ。そなたは言うだろう。如来が仰せの法はどれも取ってはならないなら、私はどうして修めるのか?ここの意味は、如来が仰せのたくさんの方法は、すべての人に適用できると言うものではなく、すべての人が全部を学び終わらなければならないと言うものではない、と言うことだ。仏は49年説法され、たくさんの経典を語られた。例えば『大蔵経』はこんなにも多い。全てを明確に研究できるはずがあろうか?不可能だ。「不可取」とは因機而教と言うことだ。この衆生の因縁がどうであるかに基づき教え、因縁がないなら教えないのだ。

もう一つの「不可取」は、この仏法は、仏の仰せを聞いた後はそなたのものになると言うものではない、と言うことだ。この仏法は釈迦牟尼仏のものではなく、そなたのものでもなく、衆生のものでもない。すべての一切の有情衆生が修行を必要とする時、この法が出現する。釈迦牟尼仏はこの仏法は自分のものだと仰せになったことはないし、自分の修行はすごい、他の仏よりすごい、と仰せになったことも一度もない。これは自分専用の法だと仰せになったことも一度もない。この言葉の意味は、ある法門を学びこれは自分のものだ、もう少しこれを変えれば、自分特有のものだなどと思ってはならないということだ。それは誤りだ。これを「取法」と呼ぶ。一切の仏法はすべて衆生に利益するためだ。そなたと特別な因縁のある衆生なので、そなたがかつて学び成就を得た方法をそなたに学びに来るだけで、これはそなたのだというのではない。

例えば私は運が悪い。この一生で専門的に済度している。運が良い出家人は済度しない。読経していればご祝儀がもらえる。だが私は、済度で死にそうだ、ということはない。これこそ累世に自分が仏に対して、衆生に対して誓った約束と願いだからだ。私はこの事を比較的多く行なっている。つまり「不可取」とは、仏法は役に立たないということではなく、先ほど私が説明した二つの理由に基づくのだ。一つは、仏法は誰のものでもない。二つに、仏法を学んだので誰よりもすごい、というのではないということだ。

「不可説」とは、仏法を言ってはならないということではない。仏の境界は言語で言い表せない、人類の文字言語では言い表わせない、ということだ。簡単に言えば、普通の信衆はケンポスの境界を理解することはできない。ケンポスの境界はリンポチェの境界を理解することはできない。リンポチェの境界は法王の境界を理解することはできない。法王の境界は、法王がすでに成仏しておられない限りは、仏の境界を理解することができるとは限らない。どういう意味だろうか?それはあらゆる境界、あらゆる果位が体悟するレベルは異なると言うことだ。

「不可説」とは、仏は人類の言語で、その境界がどれほど広大なのか、どれほど細微なのかを説明することはできないということだ。例えば私が、私は済度できるという。そなた達はなぜリンポチェがそんなにすごいのかを理解できない。日本から2千キロ余り離れても済度できるのか?私は動いているか?動いていない。私は日本で動いていない。私の神識が飛んで行ったのか?それもない。この境界をそなた達にどのように説明したらいいのか?説明できない。これは言語でそなた達に説明できるものではない。例えば私は日本にいたが、台湾寶吉祥仏寺敷地内のあの一匹の金色のコイが見えた。これはどう説明するのか?なぜあのコイは跳び出して私に見せたのだ?しかも突然私に姿を見せたのか?文字では説明できない。よって「不可説」というのだ。

「不可説」とは言ってはならないということではない。なぜこんなにも多くの学者が経典を研究しても解明できないのか?それはこの3文字「不可説」だからだ。登地菩薩は二地菩薩の功徳と果位を絕対に理解できない。二地菩薩は三地から八地までを理解できない。それはみなその境界に至っていないからだ。よって八地菩薩は法身菩薩が何をなさっているのかを必ず理解できない。言語で説明し教えても、理解することはできない。私は修法時にあれもこれも叱責する。それは彼らがリンポチェが次に何をするかを理解しないからだ。それと同じだ。そのため、ケンポスはしばしば法務組の弟子に「リンポチェが仰せならその通りだ!」と言う。それは法無定法だからだ。リンポチェはすでに果位を修めている。どんな法が衆生にとって有用なのか、どんな法が衆生に対して今現在は役には立たないかを知っているので、一先ず用いないのだ。よって法無定法というのだ。

以前ある弟子が一日中、こうではないとケンポスと論争した。ケンポスは「リンポチェが仰せならそうだ!」と言った。よって私はケンポスに謝意を示した(この時ナンジュ・ケンポスは合掌微笑して肯定した)。なぜリンポチェが言うならその通りなのか?それは私は修法人なので、どんな法が衆生に利益できるかがはっきり分かるからだ。仏は修行の経験を我々にお伝えくださり、仏ははっきりと分かっていると言うことだ。先ほど言ったように、仏は一人一人の衆生の念頭と知見を非常にはっきりご存知なので、地球の人類を教えるのにどんな方法を用いるかを明確にしておいでなのだ。天界における教え方は異なる。龍宮における教え方も異なる。地獄における教え方も異なる。我々は仏はなんと言ったと言うことはできない。仏にとっては、仏は動いたことがないのだ。その心は動いたことはない。衆生の因縁に基づき、衆生の誠意ある求めに基づき、心を起こし彼らを救うのだ。仏はそなた達の必要に基づく。

私はしばしば言う。聞かないなら、私は言わない。聞かないと言うことは必要がないと言うことだからだ。そのくせ私に推測させようとする。私に推測させようとするが、当たっても賞金は出ない。当たって賞金が出るなら、推測しよう。分かるだろう。仏は仏法を講じる際「どう見るのだ?」と須菩提に問う。道理に照らせば仏は「このように見よ」と言えるはずだ。仏には大神通があるからだ。なぜ仏は仰せにならないのか?それは須菩提が口に出さなければならないからだ。なぜ須菩提が言わなければならないのか?それは須菩提は一切の衆生を代表して仏法を聞いているからだ。須菩提は一切の衆生に、清浄な心で仏法を聞きに来さえすれば、仏が何を仰せか、私と同じで理解でき、はっきりでき、体悟できると言う。二人は演技をして、劇を演じて我々に見せてくださっていると言うことだ。

仏は不可説と仰せだ。それは文字では説明できないからだ。例えば私が済度を修める。こんなにも遠いところから、人の頭頂梵穴に穴を開けると、どうやってそなたに説明するのだ?どうやって説明するのだ?機器を用いて開けるのでもない。法本内にも機器を用いて骨に穴を開けるとはない。なぜ穴ができるのか?説明できない。文字では説明できないのだ。これ以上話しても、そなた達はやはり分からないだろう。人類が理解できる物理学によれば、説明できない。二千キロ余りも離れたところから、どうして人の頭頂梵穴に穴を開けることができるのか?なぜこんなにも遠く離れているのに、もともとは開いていた遺体の口が、私が修法すると閉じるのか?これも説明できない。よって不可説なのだ。そなた達が理解できる言葉で言えば、そなた達に言うのは面倒臭いのだ。言いたくない、時間の無駄だ。これ以上言ってもやはり分からないだろう。だが私の境界まで修めれば、自然に理解できる。ABCのようにとても簡単だ。修められていないなら、これ以上話しても無駄だ。釈迦牟尼仏も哀れだ。49年間も説法された。私も1997年から現在まで説法しているが、一人として理解したものはいない。それは人類は非常に理解しにくいからだ。人類はあまりにも頑固だ。『地蔵経』は非常にはっきり言う。全宇宙で最も扱いにくいのは、地球の人類だ。頑固で自己流で調伏し難い。全地球の人類について言っている。どの国だとは言っていない。

経典︰「非法非非法。所以者何。一切賢聖。皆以無為法而有差別。」

この言葉は、不可説であるなら、非法が第一で、非法は第二ではないと言う。ある人はこれは非法だと言い、ある人は非法ではないと言う。

一切の修行人の果位の差はどこなのか?それは無為法だ。作為的でなく、非常に自然に流れ出してくるものなのだ。例えば、誰かが済度を求める。私はわざと見せたりしない。その人の因縁に基づき、すぐに修法できるか、やはり少し待ち、一先ず保護する必要があるのかを見る。すべてはその人の福報因縁に基づき行う。こうでなければ、無為法とは言わない。自分のために何かを準備するのではない。自分が何かを得られると私は準備しない。自分が何かを得られると私は要求もしない。自分が仏法を用いてその人に利益できることだけを私はただ願う。これこそ無為法だ。作為的でなく、自然の慈悲心から現れ出たものなのだ。よってこの無為法の高さ深さは聖賢の差だ。菩薩果位の差なのだ。

その無為法が良いなら、適当に持ってきても衆生を救うことができる。つまり無為法が最高なのだ。念じる必要もなく、修法を行う必要もなく、入定するだけでOKなのだ。このような果位は私よりずっと高い。私は今でもやはり少しは念じなければならない。だが以前ほどはたくさん念じなくとも良くなっている。ますます少なくなっている。年をとったので、いくらか手を抜いているのだ。仏法は最後は無修道だ。修める物が無い、修めなくとも良いというのではなく、最後まで修めるのだ。本来清浄な本性がすべて顕露するなら、それ以上修める必要はない。毎日何を修めるのだろうか?自分を輪迴させる行為を修正し、自分の成仏を妨げる行為を修正するのだ。よって、ひたすら修め、すべての障礙、垢がなくなるまで修めれば、修めなくとも良い。清浄な本性を回復したのだからだ。

例えば、月は本来とても明るく清らかなものだが、黒雲に覆われれば、この黒雲は我々生生世世の垢、学んだ経験、学問が、清浄な月を覆い隠してしまう。だが我々が修法し、法の風が黒雲を吹き散らせば、清浄な月は出現する。月は黒雲に覆い隠され、光は失われただろうか?失われていない。光はやはり存在する。ただ月が雲に覆い尽くされただけだ。よってこの無為法は清浄な本性なのだ。ひたすら存在する。清浄な仏性はひたすら存在し、動いたことはなく、変わったことも、加減したこともない。衆生が求めるだけで非常に自然に心は動き、衆生に利益する方法が生じる。だが作為はなく、特別に準備するのでも、特別に要求するのでも、特別に専修してこの事を行うのでもない。

経典︰「須菩提。於意云何。若人満三千大千世界七寶以用布施。是人所得福徳。寧為多不。」

仏は「どう考えるか?」と須菩提に問うた。三千大千世界を仏は一つの大宇宙の概念で説明くださった。小千三個は大千一個だ。我々銀河系よりどれだけ大きい世界なのか想像もつかない。内部はすべて最良の寶で、「七寶以用布施」なのだ。この人が得られる福徳は多いだろうか少ないだろうか?

経典︰「須菩提言。甚多。世尊。何以故是福徳即非福徳性。是故如来説福徳多。若復有人。於此経中受持。乃至四句偈等。為他人説。其福勝彼。」

須菩提はたくさん言った。仏は続けて「なぜだ?」と問われた。一個の福徳は福徳の聖人などではない。だが『金剛経』中で自分で受持し、受け入れ、把持し、経典内の数語を自分の修行の方向とし、他人に教え、他人に説明して聞かせるなら、その人の福報は前に言った三千大千世界の七寶を布施された人より勝る。それはこの人がこんなにも多くのものを布施したからで、やはり天人の布施なのだ。だが法を布施し、仏法を用いて布施するなら、それは功徳の福徳だ。功徳の福徳は使い切ってしまえず、しかも功徳の福徳は自分自身が累世で為した善悪業を転じることができる。

経典︰「何以故。須菩提。一切諸仏。及諸仏阿耨多羅三藐三菩提法。皆從此経出。」

この言葉は重点だ。仏は須菩提に「阿耨多羅三藐三菩提は智慧だけではない。空性も含む。成仏の方法はすべてこの経から出てきたのだ」と仰せだ。この経典は絶対に研究の対象ではなく修行するものなのだ、ということだ。前の方で非常にはっきり仰せだ。受け入れさえすれば、先ず念誦を受け入れ、この経を信じ、内部で言う一切を信じて修持する。さらに、四文、内部の四句偈等を仰せになり、他人のために言う。そなたの福は非常に大きい。それは一切の諸仏の成仏はすべてこの経から出ているのだから、と。根本的な顕教の基礎はこの経典から出ている、ということだ。この経典の基礎をすべて受け入れ、しかも把持するなら、菩薩道、空性の菩薩道をすぐに証することができる。菩薩道が成れば、成仏する資格ができる。人から一足飛びに成仏するのでは絶対にない。釈迦牟尼仏はこの一生で人身だ。人から修行して成仏されたのだ。我々も人から修行して成仏できるなどと思ってはならない。釈迦牟尼仏がご自分で語られた話に基づくなら、たくさんの世でたくさんの仏の面前ですでに菩薩に成られている。ただこの一生では成仏果を人類に見せ、人類に伝えるために、地球の人類のためにここに来られたのだ。「そなたは人だ。そなたもいつか私と同じように成仏できる」もちろんこの一世ではない。仏はすでに非常にはっきり仰せだ。仏の滅度後は仏が住世でない。数万年の後に、弥勒菩薩が地球に来て成仏なさり、こうしてようやく仏が再び衆生を済度くださると。

ここまで言えば、この経典の重要性はどこにあるか、みなはっきりしただろう。ここで言うのは、非常に重要な見方だ。菩薩道を修めるには般若の智慧を必ず理解しなければならない。般若の智慧を修習し、空性の智慧を開悟しなければ、成仏の道を歩む機会、資格を得ることはできない。空性まで悟るには文字の説明に頼るのではなく、わざわざ考えるのではなく、禅定内から出てくるのでもない。福と智慧を絶えず累積した後、因縁が具備し、時機が成熟すれば、突然開悟するのだ。私を含む歷代の修行人はすべてこのようだ。時間点、地点をわざわざ設定し、何を行えば空性まで悟れるというのではなく、非常に自然に生まれるのだ。つまり研究により明らかにするのではなく、学問により『金剛経』を研究すれば、開悟でき空性を理解できるというものではない。

空性を理解するとは、どのような感覚なのか?言葉で形容できるものではない。形容できない。だが空性を理解した後、度衆はますますスムーズになる。特に済度の面ではそうだ。私はこんなにも多くの衆生を済度させている。私は病気でぐったりしているだろうか、顔色が悪いか?私のある出家弟子は、以前は一日中人のために助念していたが、疲れて自分が今にも死んでしまいそうだ感じていた。だが私はなぜ大丈夫なのだ?その出家弟子は、以前は空性で念じていたのではないからだ。空性の慈悲心を証しておらず、福慧が不十分ならできないのだ。

この経典について釈迦牟尼仏は最初に非常にはっきり仰せだ。必ず先に菩薩道を修めなければならない。成仏したいなら、一切仏成仏の心法はこの経にある。この経をさらに詳しく説くなら、実は一年かかっても終わらない。私は今できるだけ、そなた達が理解可能な人類の言葉で説明し聞かせている。この経典を真に体悟し、真に実修しようとするなら、人類の学問で仏の仰せはなんなのかを明確にすることはできない。今日の『金剛経』開示はここまでとする。これ以上講じれば、そなた達は寝てしまうかもしれない。そなた達の定力には限界があるからだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださり、参会者を率いてチベット語で『求生極楽浄土祈請文』を唱誦くださった。法音は虚空に遍く満ち溢れ、参会者は皆、輪迴苦海から衆生を離脱させようとのリンチェンドルジェ・リンポチェの誠意ある大悲心を感じ、無意識のうちに淚で頬を濡らした。修法後、リンポチェは継続して開示くださった︰

チベット仏教では、仏教法会の終了時に必ず『求生極楽浄土祈請文』を念じる。死んで往生する時に、阿弥陀仏のお導きを得られるよう発願するのだ。よって我々は誓願を発起する。十方一切の諸仏及び菩薩が、祈請により、我々が発したこの願、菩提心を助けてくださるよう希望する。菩提心は非常に重要だ。それは菩薩道を修めるには必ず菩提心を発しなければならないからだ。慈悲心を修めないなら、菩提心を発することなど不可能だ。慈悲心があるなら、菩提心は自然に出現する。菩提心が出現すれば、菩提行を修める時だ。菩提心には世俗菩提心と勝義菩提心がある。今日は時間が足りないので、ここまでにしておく。

大乗仏法と金剛乗の仏法センターの思想は菩提心だ。菩提心がないなら、大乗の仏法ではなく、小乗の方法だ。今日一日の修法は円満となった。修行の面で一切が如願となるよう願う。日本の信衆には肉食しないよう諌めるが、みな聞かない。法会に来たその日は食べないのだから大丈夫だ、その時以外は肉食しても良いと思っている。それなら、未来世で3日間しか仏法を得られないだろう。それ以外はない。それは3日間だけ聞き、それ以外の日は聞かないからだ。これこそ果報だ。

菜食は非常に困難だなどと思ってはならない。私は子供の頃から海の幸が好きだった。36歲まで食べていた。私は生まれた時からリンポチェだったのではない。なぜ私は突然すべてを手放せたのか?それは私の善根が当然そなた達より良く、そなた達より多いからだが、最も重要なのは、因果を知った後、私は二度と再び触れなかったということだ。よって、いかなる衆生の肉も絶対に食べない。肉を食べなければ栄養が足りなくなると心配している人が多い。見てみよ。私は72歲だ。私は全く肉を食べないが、顔色はそなた達この場にいる誰よりも良いだろう。そなた達はみな真っ黒だ。私の肌は白いとは言わない。白いとまでは言えないだろう。だが、業障がほぼ消えたので、あまり黒くはないのだ。

肉食は非常に大きい過患だ。また身体にも極めてよくない。聞き入れるように。日本の信衆に、菜食しないなら来てはならないとは言わないが、皆が聞き入れるまでいつまでも毎回必ずこう諌める。リンポチェは非常に忍耐力があるのだ。私はひたすら言い続ける。二度と来るなということもできるが、そなたが来さえすれば、聞き入れるまで、いつまでも私はひたすら言い続ける。それはすべての諸仏菩薩がみな、あらゆる衆生を傷つけてはならない、とお諌めくださるからに違いない。菜食しないなら、自然に衆生を傷つける機会となる。道場ではたくさんの子供が母の胎内にいる時から菜食している。生まれても牛乳を飲まず豆乳を飲むが、極めて良好に成長しているし、大人しく、いうことを聞く良い子ばかりだ。

法会は円満となり、参会者はみな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び殊勝な開示で無量無辺衆生を利益する事に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

遥かに11年前を振り返れば、リンチェンドルジェ・リンポチェは法王のご指示を受けて日本に仏法センターを建立し、単身弘法に向かわれ、慣れない地でご苦労を重ねられた。それが今では、チベット仏教と日本仏教の交流、対話が見られるようになり、リンポチェのこの11年余りの深広悲願が蔵密東伝に新しい一頁を刻んでいる。


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2019 年 07 月 22 日 更新