尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年4月7日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修めた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

経典:「在家邪命。出家浄命。」

釈迦牟尼仏の「在家邪命。出家浄命。」このお言葉は、在家、出家の定義について改めて講じておられるのだ。つまり「輪迴の家を出離」であるかどうかだ。この一生で出家相を現す因縁があろうがなかろうが、輪迴の家出離を心で決めていないなら、修める仏法はまったく役に立たない。いわゆる役に立たないとは、どんな咒を持しようと、どんな仏を拝もうと、未来世でほんの少しの、ほんの小さな人天福報が増えるだけだ、ということだ。だが絕対に、この一生で三悪道の苦を離れる助けにはならないし、この一生で輪迴の苦を離脱する機会を得ることはあり得ない。もし学仏人が、学仏とはなんのためなのかを理解せず、一日中あれもこれもと求めてばかりいるのなら、最初の頃は、諸仏菩薩も上師もいくらか助けてはくださるだろう。この種の助けとは、仏菩薩と上師が霊験あらたかだ、というのではない。実を言えば、外道も病を治すことはできるのだ。仏法に病を治す法門がないはずはない。外道でも邪を退けることができるのだ。仏法に邪を退ける法門がないはずはない。なぜ仏法はこれを強調しないのか?それはこれは究竟ではないからだ。つまり、この種の本領があったとしても、生死を解脱できるということではないからだ。

密宗に好奇心を抱いている人が多い。密宗はすごいと思っている。実は密宗は顕教よりすごいということはない。顕教でも修成仏できる。顕教の方式で学仏修仏するには、非常に長い時間がかかるだけなのだ。経典でいう三大阿僧祇劫とは、人類の数字で計算できる時間ではない。密法の速度はより速い。なぜか?それは密法は本尊が直接お伝えくださった法だからだ。簡単に言えば、まさに成仏の法だということだ。成仏を望むなら、当然すべての顕教の理論を明確に理解し、しかも根基が非常に良くなければならない。そうでなければ密法を学ぶことはできない。先先週、一人の出家弟子が「不妄語の戒」を犯したのに、今になっても懺悔を求めて来ない。誰もが小さな戒を犯してもどうということはないと考えている。一切の戒はすべて小から始まるのだ。自分自身の身口意を放縦し、仏法を用いて毎日自分自身をチェックしないなら、破戒の機会はほとんどすべての念頭で発生する。話しをする、と言わずとも、すべての念頭で破戒する。

ここで言う「在家邪命。出家浄命。」とはどう言う意味だろうか?修行の心持ちが、世俗の一切の事情をやはり必要だと考え執著し、楽を享受したいと考えるなら、これこそ在家の命だ。在家が行う一切はすべて私達を六道内で輪迴させ得る。そのためこの種の執著で生活を維持するなら、いわゆる邪命とは、仏法には八正道という名相があるが、反対にすればつまり八邪道だ。例えば、殺生により自分を養うなら邪命と言われる。例えば、占いで利益を得ているなら邪命と言われる。「そんなことないですよ。訊ねられたので助けただけです。占ってやって、凶を吉に変えてまでやったのです!」と自分を正当化する人が多い。

釈迦牟尼仏は占いをなさるだろうか?なさる!古代インド人は占いに非常に優れていたからだ。釈迦牟尼仏がお生まれになった時、占い師が占い、父に「この息子には出家の命があります。決して出家させてはなりません。出家すれば王位を捨ててしまうでしょう」と言った。当たっているだろうか?当たっている!釈迦牟尼仏は一生説法なさった。占いを用いて度衆なさっただろうか?なさっていない。仏は占いを当然ご理解であった。この種の世俗のものは簡単だ。どうしてご理解でないだろうか。だがなぜ用いられなかったか?密法にも占いがある、と考えている人がいる。ある。だが国家について、ある学仏人に対して必要な時だけ、占いを用いる。普段は用いない。リンポチェに会いに行き、リンポチェに占ってもらおうという人が非常に多い。実は世俗の事はすべて問う必要はない。それは因果から見れば、どんな事を誤ったのかはすぐに分かるからだ。そのため占いを用いるのは金儲けだ。どんな理由であろうと、これはすべて間違いだ。これは釈迦牟尼仏が仰せなのだ。私が言っているのではない。

私の事をもう一度言おう。他人のことをとやかくは言えないが、自分の事は言える。仏門に皈依し学仏を始めることになったのは、ある友人がいたからだ。彼は「紫微斗数」占いで北部では有名だった。私をチェ・ツァン法王に紹介してくれたのもこの友人だ。彼は菜食し法会に参加し、非常に多くの法師に供養し、非常に多くの法王と大リンポチェにもお目にかかっていた。彼は「自分は五百数回の灌頂を受けたことがある」と言っていた。道理に従えば、彼はこんなにも多くの事を行い、しかも私を法王に紹介してくれた。大福報があるべきではないか?そうだ。彼には大福報はある。それはいつでもたくさんのリンポチェにお目にかかれたことだ。だがそれは占いで稼いだ金、風水で稼いだ金だ。そのため自身の業力を変えることができなかった。彼は後に北京で脳卒中になったが、私は彼を台湾に連れ帰り、最後には脳卒中で亡くなった。彼が行った事は、今ここにいるそなた達、出家人に比べれば、絶対に1万倍も10万倍も多い。そなた達は何をそんなに思い上がっているのだ?私はそなた達が何かの功徳を行ったのを見たこともないのに、こんなにも思い上がっている。なぜ彼は自分自身の業力を変えられなかったのか?それは邪命で暮らしていたからだ。

ある弟子は、もともとはしっかりとした看護師だった。それなのに「リンポチェ、病院が、私の配属を分娩室に換え、給料を数千元多くくれると言っています。でも、そこでは医師の人工妊娠中絶手術を助けることになります。リンポチェ、どう思われますか?」と聞いてきた。こんなことを聞いてくるとは!問題はどこから出ているのか?経典ははっきりと説いている。中絶薬を売るだけでも地獄に堕ちるというのに、人工妊娠中絶手術の手伝いをするなら、言うまでもないことだ。仏門に皈依した弟子であるというのに、このような事を行えるだろうか?数千元のためにだ。近頃非常に多い、いわゆる仏門の弟子のように、一日中この経を念じ、あの経を念じていればそれで良い、というのと同じだ。これは占いとどこも違わない。供養をだまし取っているのだ。後で触れる経典では、そなた達このような者について述べている。ひたすら叱責し、最後まで叱責している。後ろの方では、沙門の行いが良くないなら、在家菩薩はどこが間違っているか伝えなければならないとまで言っている。在家衆は出家衆についてあれこれ言ってはいけない、と誰が言ったのだ。当然菩薩果位まで証した者でなければならない。そなた達は言ってはならない。輪迴世間の出離を決心していないなら、自分の清浄な本性を傷害する事を簡単に行ってしまう。これが在家邪命だ。

すでに往生した人だが、彼は弁当の商売を行っていた。彼が会いにきた時、私は彼に「今後は衆生の肉で利益を得てはならない。必ず病がちで短寿になり家族は円満でなくなるだろう」と言ったところ、妻はすぐに「今すぐに改めるのは無理です。夫が良くなったら改めます!」と言った。夫が良くなったら、ガンになった。誰も因果を信じていない。なぜ信じないのか?この人は邪の方法で日々を暮らしていた。自分を傷つけ衆生を傷つける方法だ。汚職も邪命に含まれる。みんなそうだ!とたくさんの人がいうだろう。みんなそうだということはない。

出家浄命。そなたが出家相を現しているなら、出家の戒律は、比丘には250の戒があり、比丘尼には348の戒がある。道理の通りなら、戒を犯すはずはない。リンポチェはその場で二人の出家弟子を叱責なされた。なぜ一日中破戒するのか?そなた達はいったいどうやって守戒しているのだ?自分は戒を受けたと思っているが、守戒しているか?なぜ比丘尼の戒は比丘より多いのか?女性はあまりにも面倒だからだ!釈迦牟尼仏が叱っておられるのだ。私が言うのではない。釈迦牟尼仏の叔母は、出家のために、ひたすら釈迦牟尼仏に求めた。釈迦牟尼仏は最初はお受けにならなかったが、阿難尊者とその大弟子がひたすら求めるので、釈迦牟尼仏は叔母の出家を認めた。釈迦牟尼仏は「女衆が出家すれば、正法時代は500年少なくなる」と仰せになった。正法時代が500年少なくなっても、どうと言うことはない、とそなた達は思うだろう。だが正法時代が500年少なくなれば末法時代に影響が及び、法会はどんどん少なくなる。

経典:「在家多垢。出家無垢。」

在家は貪嗔痴慢疑が非常に容易に起き、行った事がすべて垢を産むからだ。垢とはどう言う意味だろうか?良くない果報、良くない業力を生むのだ。この種の垢は私達の清浄な本性を覆い隠してしまい、覆い隠した後、人に仏法を説かれても、聞き入れることができなくなる。なぜ汚職する人は地獄に堕ちるのか?それは国から給与を得て、福利厚生も受けているからだ。給料が少ないなら辞めても良い。だが一日でも公務員であったなら、一銭であろうと不正に受け取ってはならない。貧しくて死に直面しても、不正に受け取ってはならない。なぜか?そなたは「みなこうだ。私はほんのすこししか受け取っていない。受け取らないのも気まずい。相手が気を悪くするだろう」と思うだろう。これこそ因果を恐れていないのだ。在家の考えは、まったく因果から考えないで、自身の利益から考える。当然非常に容易に五毒(貪嗔痴慢疑)が出現する。他人を傷つけ、上師にも怒らせるのだ。

経典:「在家衰減。出家無減。」

「衰」と「減」とは、出家しなければ悪いことが起こる、または一切すべてが滅してしまう、と言う意味ではない。輪迴の家の出離を決めないなら、または決心しないなら、法王とたくさんのリンポチェの灌頂をどれだけ受けたとしても、仏法はやはり衰滅してしまう、と言う意味だ。私の友人のように、仏法は彼にとって助けとならなかった。それは彼が邪命で暮らしていたからだ。彼はかつて、自分はこの一世でこんなにもたくさん行ったのだから、次の一世はその報いをゆっくり受けたい、と言っていた。これこそ仏法衰滅だ。仏法は何を教えるのか?享受を教えるのではない。福を植えつければ自然に福報があり、悪を植えつければ自然に悪報があると教えるのだ。求めなくともやって来る。彼はこのようなことを言ったので、仏法衰滅なのだ。それは彼が邪命で暮らしていたからだ。衰滅とは、運が悪い、または滅してしまうと言うのではなく、仏法がそなたの身の上に至れば自然に衰滅してしまう、と言うことだ。そなた達二人は、これ以上守戒しないなら、今はっきりと見える。仏法はそなた達の身の上で衰滅する。これは自分はとてもすごいと考えており、あれは自分は人と違うと考えている。

「出家無減」とは、輪迴の家の出離を決心したなら、仏法はそなたの身の上で絶えず累積して増え、衰滅しない。いかにして善業を集めるのか。出家の念頭で学仏し、自分のための小さな事のために、あれこれ求めないのだ。求める必要はない。求めなくとも自ら得られる。

経典:「在家処憂。出家歓喜。」

なぜ在家は憂慮に居るのか?それは自然なこととして、在家は因果を信じていないからだ。良いことが発生すれば信じ、良くないことがあれば、自分はますます悪くなるのではないかと心配する。そのため一日中悩み憂慮する心で過ごしている。なぜ出家は歓喜なのか?それは出離世間の方法で学仏する人は、自分が将来、生死の苦しみを絶対に解脱できるとはっきり知っているからだ。世間の事に対して心配したり憂慮したりする必要があるだろうか?

旧正月の大晦日前後、中国の最大のテレビ局が出演依頼してきたが、私は行かなかった。誰が行きたくないと思うだろうか?最も人気のある番組で10分間のインタビュー。しかも5億人が見る。だが私は行かなかった。私は名利を欲しないからだ。そなた達は、なぜリンポチェは商売するのか?と訊ねる。それは誰も私を養ってくれないからだ。しかも、私が行うビジネスはそなた達とは違う。仏法を学んでもビジネスができると示すことができ、決まりに従い商売すれば、後は何の心配もいらない、横道を探したり人を騙したりあれこれ画策する必要はないと示すことができる。私が在家のリンポチェだからだ。『寶積経』でも説いている。在家菩薩は商売ができ、蓄財もできるが、出家は駄目だ。私は蓄財して何をするのだ?非常に多くの事を行い、たくさんの人を養い、しかも非常に多くの供養布施を行う。

経典:「在家則是衆悪梯隥。出家離隥。」

在家は一切の悪を累積する。絶えず階段を踏みしめて登っているようなものだ。悪は一秒で発生するものでは絕対にない。絕対に絶えず累積し、徐々に登っていくもので、良い念頭を守らないなら、すぐに何事かが起きる。いわゆる、すぐに何事かが起きる、とは、困った状態に陥らせ、重病に罹らせ、死なせてしまう、と言うのではない。死んでしまえるなら、反対に喜ぶべきだ。やり直す機会が与えられるのだから。この言葉の意味は、在家のやり方で学仏するなら、仏号を念じ、拝仏し、出家の相を現していても、階段を一段一段登るように、悪業はやはり絶えず累積する、と言うことだ。「出家離隥」とは、出家の心持ちで学仏すれば悪業の累積から離れられる、と言うことだ。

経典:「在家繫縛。出家解脱。」

在家は非常に多くの事にがんじがらめになっている。例えば、子供がいる人は、子供が生まれる時は何か不都合がないかと心配し、生まれたら病気で育てられないのではないかと心配し、学校へ上がれば成績が悪いのではないかと心配し、学校で教師や同級生にいじめられるのではないかと心配し、成長すれば悪い男に引っかかるのではないか、家の財産を奪うことにばかり長けた女に引っかかるのではないかと心配する。実際には今の父母はこれらを管理することなどできない。それは社会の雰囲気が良くないからだ。スマホではあらゆることが見られる。どうして管理できるだろうか?携帯電話は良くないものだ。非常に多くの子供が悪いことに触れている。在家の一生はがんじがらめになっている。子供が結婚すれば、相手が良くないのではないかと心配し、孫が生まれても、死ぬまでやはりがんじがらめになっている。経典中では、釈迦牟尼仏は、いかにして子供に対処すべきかを説いておられる。冤親債主が借金取りに来た、と考えるべきだと仰せだ。子供は間違っているのに、それでも子供を支持するのか?娘を外国旅行へ行かせ、彼氏といっしょに出かけさせる。ズレ過ぎている!子供の方もかなりズレている。父母が苦労して金を稼いだのは、子供に快楽を享受させるためなのか?そなた達は一日中自分自身を不自由に縛り付けている。自分は学仏しているので自由だなどと言うことはない。実は子供に絡め取られて身動きできないのだ。子供がそなたを拘束していないとしても、自分自身が累世で行った業にがんじがらめになっている。在家はすべて非常に哀れなのだ。

経典:「在家畏懼。出家無畏。」

なぜ在家は恐れるのか?先ほど言ったように、得れば失うのを恐れ、失えば取り戻せないのを恐れ、子供が外出すれば何事か起こるのではと恐れ、一日中あれもこれも心配している。なぜ出家の心配は少ないのか?それは果報業力を信じ、しっかり修めれば、自分の福報が子孫を守ってくれると信じているからだ。ここで言う「在家畏懼」、「出家無畏」とは、出離輪迴の心持ちで仏法を学習するなら、自分の身の上に発生する因果業報を恐れることはないと言うことだ。なぜなら発生すれば、それは返済した、と言うことで、成仏の路に一歩近づいたと言うことだからだ。それなのに、そなた達はあれもこれも心配している。数週間前に往生した女性弟子も、あれもこれも節約し、節約して娘に与え、自分は棺の費用しかない。生きるのに、こんなにも苦しいのは、何のためなのだ?これこそみな仏法と上師を信じていないのだ。そのため、日々をたくさんの恐怖と共に生き、あれもこれも心配している。

経典:「在家謫罰。出家無罰。」

ここで説くのは、世間の法律ではなく、因果業報だ。やはり在家の念頭で仏法を学習しているなら、やはり因果業報がある。いわゆる因果業報とは、悪の面で善の面ではない。出家の念頭で修仏しても、因果業報はある。だがそれは善ので、悪のではない。当然罰はない。そのため、修行により得力した人は問題がますます少なくなり、たとえ問題が発生したとしても、誰かが出てきて解決してくれる。こう言うことだ。そなた達なら、どんな事が発生しても解決することはできない。それはそなた自身の心が悪で、善ではないからだ。

今日適当に何かちょっと言ったところでどうと言うこともないと思ってはならない。科学は証明している。やはり何かが起きるのだ。いつかテレビ番組で「地球上で水を一滴垂らしても、物を一つ投げても、その音波は宇宙空間に伝わる」と言ってるのを見たことがある。宇宙空間では記録されるのだ。そなた達が話す言葉、起こす念頭もすべて記録される。仏はかつて仰せになった。衆生の業力が固体なら、虚空が無限であっても納めきれないと。これこそ『地藏経』中で説く「衆生起心動念皆是業、皆是罪」だ。地藏菩薩の仰せは現代科学で証明されている。そなた達が思うこと、言うこと、行うエネルギーはすべて虚空内にある。

そなたの虚空中の悪エネルギーが非常に多い時、悪の力が起き、影響が及ぶ。そなたの虚空中の善エネルギーが非常に多い時、諸仏菩薩の善エネルギーが自然に加えられる。生生世世の因果業報が出現したとしても、善エネルギーが結集しているので、問題は自然に減っていく。これこそいわゆる転重軽受だ。

経典:「在家多患。出家無患。」

ここで言う「患」とは病に罹患するの「患」ではなく、私達がすでに輪迴世間の家の出離を決めたなら、行うあらゆる事は絕対に過患がない。なぜなら衆生を傷つける事を絶対に行わず、絕対に思い上がらず、絕対に傲慢にならず、絕対に親孝行するからだ。人の子として、父母に心配をかければ、それは即ち親不孝なのだ。たくさんの人が親孝行は自分が功成り名遂げ、父母に楽な暮らしをさせることだと思っている。だが真の親孝行とは、父母に心配をかけないことだ。仏法から言えば、真の親孝行とは、この一生で精進努力して学仏修行することだ。地藏菩薩は衆生利益の大願を発したため、その親孝行の結果として、釈迦牟尼仏は、その母を未来仏として授記くださった。そなた達の中で誰がこのようにしている?そなた達はとてもできないだろう。つまりみんな揃って親不孝だ。私は、自分と地藏菩薩の大願力は同じだとまではとても言えないが、少なくともこの生で、私個人の事のために老母を心配させたことはない。私の母は、私の弟、妹のことを心配していたが、私のために心配する必要は一度もなかった。睡眠が不十分だ、しっかり食べていない程度の心配しかしていない。

無患とは、世間法で行う一切に過患がないなら、出世法でも自然に過患がなくなる、ということだ。そなた達は現在世間法でひたすら過患が充満しているので、出世法で過患がないということはあり得ない。仏はかつて「人道成,仏道才成」と仰せになった。人としての道は道理ではない。なぜなら民族によって、国によって、文化によって、正しいと考える道理はそれぞれ違うからだ。仏が仰せの人道は、人がいかにして十善となるかだ。十善がないなら、人として生きる資格はない。十善を行うのであれば、過患はそれに従い減少し、さらには無くなってしまう。過患がないなら、出世法はそれに従い過患がない。そうでなければ、仏法を利用して自分自身の考え方と欲望を満たそうとする。

経典:「在家煩熱。出家無熱。」

在家の一切の煩悩は人をとても熱く、心頭を非常に悩ましく感じさせる。心頭が煩悩し鬱々と熱いなら、この一生で火地獄に堕ちる。考えてみよ。怒る度に、自分の胸の辺りが熱く感じられるのではないか。なぜ怒り、鬱々とし、相手は自分を虐げた、と思うのか?これはすべて煩悩から起きるのだ。煩悩はどこから来るのか?それは、相手に自分のニーズを満たしてもらいたいと考えているからだ。相手が自分のニーズを満たすことができなければ、煩悩がやって来る。そしてそれに従い、胸襟は火のように燃える。この一生でこのような様子になるなら、軽ければ重病に罹り、少し重ければ病が治らず、さらに深刻なら死んで火地獄に堕ちる。学仏すれば火地獄に堕ちないと思ってはならない。こっちで念仏し、あっちで人を恨んでいるなら、やはり堕ちる。ただ、堕ちている時間が少し短くなるだろう。火勢はそれほど獰猛でない。他人は非常に熱いと思うが、そなたはそんなに熱くない、と思う。

それは煩悩があるため、とても熱く感じるのだ。この種の熱さは、気候の暑さではなく、心が非常にざわつくものだ。みな似たような経験があるだろう。彼氏が出かけて全く電話して来ない。何が起きたのか、と心の中で思う。テクノロジーが進歩している今では、スマホに電話してビデオチャットを要求する。姿を見せてくれなければ、不機嫌になる。見せてくれれば、カメラの方向を変えて周囲をはっきり見せてくれるよう要求する。これは煩熱ではないか?かつてはスマートフォンがなかったので、私達は推測することしかできなかったが、今ははっきりと見ることができる。そのため国にはある種のビジネスが生まれた。公園やレストラン等、ビデオチャットに必要なシーンを用意するビジネスだ。彼がどこにいるか分かったところで、どうだというのだ?今は子供に、どこにいるか聞く人が多い。最近の子供はバラエティ豊かだ。

経典:「在家多求苦。出家無求楽。」

在家は快楽を求めるが、得られるのは苦だ、ということだ。出家は快楽を求めず、少しでも早い借金完済を求める。急いで借金完済しようとすれば、当然苦しい。そのため出家法門を真に修められる人は、俗に「吃苦当吃補(苦しみを栄養にする)」と言われるようなものだ。そなた達は何度か六字大明咒を念じただけで、あらゆる苦がなくなると思っている。在家が快楽を求めるのは、苦の始まりだ。だがみなこの事を理解していない。リンポチェが、幸せに暮らせるよう自分の家族を庇護してくれている、とたくさんの弟子が前に出てきて語るが、これこそ快楽の追求だ。いつか庇護できなくなれば、私を罵り始め、供養が減り、さまざまな考えを持つようになる。

なぜ出家法門を修める修行者は快楽を求めないのか?それは自分自身が行なった一切の善が、未来では必ず楽だと確信しているからだ。念じる四無量心の内容のように、輪迴の苦を離脱し永遠の楽が得られるからだ。だが、そなた達は録音を流しているように思っている。念じているが、何を説いているかを知らない。法会に来る者はすべて快楽を追求し、法会に参加すれば福報が良くなり、あらゆることが好転するよう願っている。思い上がった出家衆は法会に来てリンポチェの開示を聞き、これですぐに智慧を開き、度衆できると思っている。これも快楽の追求だ。このように快楽を追求すれば、どんな苦が生まれるのか?手段を選ばなくなる。

私はしばしば自分自身をそなた達のちょっとしたサンプルとしている。私は法王のお側にこんなにも長く付き従っているが、法王は以前は、公の場で私を賛嘆したことは一度もなかった。だが証果した後にお話しになるようになった。だが法王が賛嘆してくださるようになったと言っても、それは私が優れており、それを法王が喜んでくださっているからではなく、私が行い、しかも成し遂げたので、このように行えば、私と同じようになれると、世人に知らしめるためなのだ。そなた達はどうだ?ちょっとした小さな事を行なっただけで、リンポチェに賞賛されることを願っている。

経典:「在家掉動。出家無動。」

在家の心持ちで学仏するなら、その心は落ち着かない。「掉」とは、非常に興奮しているという意味だ。在家の方法で学仏するなら、出家相を現していても、心は非常に興奮した状態で、「定」などいうまでもなく、静まることさえできない。心が静まらないなら、当然定もない。定がないなら、智慧を開くことはできない。なぜ心がひたすら動くのか?それは戒を守らず、傲慢に学仏しているからだ。自分は剃度し、三壇大戒を受け、仏法を聞いたので、これでバッチリだと思っている。どこがバッチリなのだ?バッチリなら、法座に座る福報因縁があり、下に座って叱られているはずはない。

在家の心持ちで学仏する人の心は一日中ひたすら動き静まらない。出家無動とは、人が不動なのではなく、その心は内在、外在の一切の物事の影響を受けないということだ。縁に従い動き、因果因縁と衆生のための起念、動念をはっきりと分けることができ、いかにして他人に自分を知らせようか等とひたすら考えることはなく、一切は因縁に従う。自分が何かをすれば、自然に何かが起きる。このようにできないなら、『華厳経』中で講じる「心動機関」のように、私のこの二人の出家弟子の心はひたすらあれこれ動いており、天地自然にゆだねて生きて行くことができない。そなた達二人はこのように学仏に努力し続けるがいい!私はそなたを罰する必要はない。天が自然に罰するだろう。

このようであり、ぼーっとして日々を過ごし、何も考えず、何も計画しない。こんな調子で仏教徒といえるだろうか?そうではない。私が寺を建立するように、行うことは、落成前にすでに一つ一つ計画してある。これらは私のためではなく、衆生のために計画しているのだ。私が費用を出し大型バスを借りて、寺を護持する信衆が建設地を見学できるようにしてから、このような計画的な物事の進め方をみな賞賛する。随縁とは縁が生じてから初めて行い、縁が発生しなければ行わない、のではなく、先に計画があるのだ。ここで言う無動とは、完全に不動だと言うのではない。完全に不動なら、『金剛経』も「無所住而生其心(住する所無うして、その心を生ずべし)」と講じるはずがない。この言葉は非常にはっきりと説いている。菩薩の心は生起だが執著せず、何かの事柄に止まり永遠に不変だと考えたりしない。生れる心とは慈悲心、菩提心だ。そなた達この種の凡人の心、目立ちたがったり、自分自身で気持ち良いと感じたりする心ではない。

無動とは完全に動かない、と言うことではない。心が全く不動なら、それは菩薩ではないからだ。だが菩薩が心を動かされるのは、自分のためではない。寺建立というこの事で、みなはっきり分かるだろう。私の心の動きは、完全に段階を踏んでいる。衆生のために設計したものは、一羽の鳥であろうと、一匹の魚であろうと、一つの蜂の巣であろうと、前もって計画する。寺の建立のために、たくさんの衆生を傷つけることがないよう、すべて手配するのだ。この種の動はOKなのだ。そなた達の動はすべて、自分がすごいことをどうやってリンポチェに知ってもらおうか、だ。この種の動は過ちだ。

経典:「在家貧苦。出家無苦。」

ここで講じるのは財富ではなく、在家の方式で修行するなら、仏法はそなたにとって非常に貧乏で、十分でなく、しかも仏法がないなら、ひたすら輪迴の苦を生じるからだ。『寶積経』は実に開解しにくい。「出家無苦」とは、出家には世間苦がないという意味ではない。やはり苦がある。例えば、腹が減って食事したい、疲れれば寝たいなどだ。私の漢方医である弟子は、一年あまりの間、自分が処方する漢方薬を飲むよう、ずっと私を追いかけていた。私にも苦がある。ここでいう無苦とは、出離世間の方法で学仏するなら、私が以前皮膚癌になったように、ほんとうに世間の苦があったとしても、輪迴の苦は自然に消滅する。この部分は西洋医である弟子に語らせよう。この弟子は、免許を持つ名医だからだ。そうでなければ、そなた達は信じないだろう。

西洋医である弟子は「22年前私はリンポチェの顔面の斑が変化していることに気づきました。かなり深層のもので、色素が集まっているようでした。実はこれはメラノーマ現象です。組織検査が必要だとされていますが、当時の状況から見れば明確にメラノーマでした。メラノーマは皮膚にできるものとは限りません。ある兄弟子のお兄さんもメラノーマに罹り、何度も手術し、肉を大きく削り取りました。ところが、ある時、胃から出血し手術したところ、胃内にもメラノーマがあることが分かったのです。これは悪性度が非常に高く、非常に凶暴なガンです。当時私はリンポチェに、処理か手術を勧めましたが、リンポチェは、全く気にしておられないようでした。そして今では全く見えなくなってしまいました」と述べた。

リンポチェは継続して開示くださった:これこそ無苦だ。私には病苦があったが、心中で心配せず、要求もしない。当時数人の医者である弟子がこの事を知っていた他、私は公に言わず、法王にもお伝えしなかった。面子のために公にしなかったのではなく、因果を信じたのだ。それは私は幼い時からたくさんの海鮮を食べていたので、ガンにならないほうがおかしいからだ。メラノーマは皮膚表面にでき、私は目にすることができるたのは幸運だった。他の場所なら目にできず、見逃していただろう。
なぜ法王にお伝えしなかったのか?以前法王に従い華視の「点灯」という番組に出演した。番組中で、私は、自分自身の苦を法王に話したことは一度もないと公にした。その司会者も機転が利く。ほんとうにそうなのか、とすぐに法王に確認した。法王は、ほんとうにそうだとお答えになった(詳細は2008 リンチェンドルジェリンポチェ、直貢チェ・ツァン法王に従い華視「点灯」のインタビューを受ける参照)。なぜ上師に言わないのか?それはすでに上師に皈依し、上師はすでに私に仏法を伝え、私は仏法を信じているのだから、自分の身の上に起きる一切の事はすべて因果業報だからだ。これは、受け入れるかどうかの心持ちとは関係がない。「信」なのだ。もし法王に愚痴をこぼすなら、それは自分に能力がなく、改める決心をしておらず、自分の問題が何なのかを検討しておらず、一日中頼っているということだ。これは、上師が頼らせないということではない。上師が頼らせるのは仏法だ。自分自身で仏法を修行し、生死を解脱しなければならないのだ。間違ったところがあるなら、上師はすぐに指摘する。上師がそなたの果報を変えるのではない。そなたが教えを聞き、学法した後、如法に行えば、自然に改められる。

なぜ私は憂えないのか?それは私は因果を信じているからだ。なぜ私は心配せず、自分自身に苦があると思わないのか?それは人生が無常だからだ。何歲まで生きなければ修仏が成功しないと考えているなら、それは無常を信じていないということだ。無常を信じていなければ仏法を修める事はできない。簡単に言えば、密宗では、毎日寝る時に自分はすでに死んだと考える。翌朝目覚めれば新たな命の始まりだ。そなた達はどうだ?「明日も働く体力を得るために、今日はよく眠る」と考えているだろう。違いはここだ。誰もが死を恐る。そなたが必ず死ぬというのにだ。私は恐れていないのに、反対に何年長く生きてしまったのだ?医者である弟子が「22年です」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰22年間薬を飲まず医者にも掛からず、自分の病のために特に修法もしていないし、癌細胞に迴向もせず、「私は成仏を修めた。私に従い成仏せよ」とも発願せず、「みな平和に付き合おう」とも言っていない。なぜ良くなったのか?出家の心持ちで学仏しなければ、すべての善の業を集める事はできない。それらを集めた後でなければ悪の業を覆い隠すことはできない。そなた達の善の業は散乱している。少しの風がたまに吹いただけでなくなってしまう。なぜなくなってしまうのか?それは在家の方式で学仏しているからだ。出家していても、心持ちはやはり同じだ。

非常にはっきりと仰せだ。出家方式で修行する人は、世間に苦があるとは感じない。世間の苦は私も経験済みだ。離婚、破産、金がなく食べることもできず、子供は言うことを聞かず、不治の病に罹り、他人に貶められた。何でもありだ。だが私は一度も苦しいと思ったことはない。なぜか?それは私の果報だからだ。私は聖人ではない。修行人だ。修行人であるなら、自分を輪迴させる行為を改めなければならない。そのため身の上に加えられるいかなる事であっても、私は解決し処理することしかできず、しかも心には一切の恨意を抱かない。何かがあっても処理しないと言うことではない。やはり処理する。なぜか?それは一つの事を処理するのは、自分のためではないからだ。それはそなたのために一つの事を処理すれば、他人の悪を防止することができ、地獄に堕ちる機会をなくすことができるかもしれないからだ。

在家修行人と出家修行人の違いは心持ちにあり、外見ではない。心持ちが正しいなら、行うことは自然にすべて仏法、仏の教えに基づく。上師の教えに従い行い、自分で別の方法を考え出したりしない。しかも聞いた仏法の教導に抗ったりせず、自分の行いは学んだ仏法に背いていないだろうか、と考える。違うなら、それは自分が間違いなので、「なぜこんなことを言うのだ?私について言っているのか?どこで間違ったのだ?」と疑ったりしない。そんなに疑うなら、学仏などしない方が良い。学仏してどうするのだ?過ちがないなら、そなたは仏だ。私でさえ毎日懺悔するのだ。念頭が起きれば、その場ですぐに懺悔する。そなた達のように、後で、と言うことはない。

経典︰「在家怯弱。出家無怯。」

これは学仏の心持ちを言っている。在家の心持ちで学仏するなら、簡単に退歩する。どうと言うこともない、と考え易い。このことを先に片付けたら、その後に学仏しようと考える。こう言う人がとても多い。なぜか?それは世間の事が仏法よりも重要だと思っているからだ。あの往生した弟子もそうだ。先ずは金を貯める。それは仏法より重要だと思っていた。金がなければ死ねないのか?やはり死ぬ!だが金に執着したので、その死は辛いものだった。目を開け、口を開いていた。もし捨てることを受け入れていたなら、私をこんなにも煩わせることもなかったのだ。

なぜ怯弱なのか?それは彼女はひたすら自分のために考えていたからだ。そのため仏法が説く慈悲、守戒、謙卑を、行うことを恐れ、他人に見下されるのを恐れていた。怯弱とはどう言うことだ?仏法を用いて生活できず、「申し訳ない。みなこうだ。私が彼にこう言えば、彼は仏法を毀損するだろう」と考えることだ。私がリンポチェになる前、私は菜食していたが、肉食するよう私を変えられる人はいなかった。なぜ人にあれこれ言われれば、申し訳ない、と思うのか?なぜ人にあれこれ言われれば、友人や親戚が離れていくと感じるのか?友人、親戚はそなたの生死解脱を助けてくれるか?輪迴苦海を離れるよう手伝ってくれるか?申し訳ないと思うので、いっしょに出かけて肉を食べ、酒を飲むなら、この一生で生死を解脱できないよう、彼らはそなたに害を及ぼしたと言うことだ。そのため、この人の果報は非常に重くなる。

話しは戻るが、善根が良いなら、求めなくとも、護法は自然に守ってくださる。顕教に皈依して一週間ほどになる頃、非常にはっきりした夢を見たのを覚えている。夢の中では、以前の友人がたくさん出てきて私を食事に誘った。卓上に並ぶのはすべて海鮮だ。そこに突然、韋陀菩薩が現れ、法器を「ポン」とテーブルに打ち下ろした。これ以後、私にあれこれ言う友人はいなくなった。なぜいなくなったのか?それは私が皈依前にすでに決定していたからだ。そなた達のように、皈依は加護を求めるためで、自分自身をよくするためで、自分の全てを順調にするためではない。これは世間法だ。寶吉祥道場が教えるのは出世法であると言うのに。これは『寶積経』が説くのだ。

私は今仕事し、学校に通っているが、すべてで出世法を用いているなどとと思ってはならない。先ほど『寶積経』はそなた達に、自分に起きた事を「考える」ように求めた。二つ目にはっきりと説くのは、心持ちだ。在家は出家の方式で暮らすよう、リンポチェが言うので勉強しない、勉学は在家だから、と言うのではなく、試験を受けない、試験も在家だからだ、と言うのでもない。もしこうなら、そなたは仏法を中傷している。経典はこう言わない。自分は学仏人で生死を解脱したいと思うなら、身口意のすべてで、仏法を一切の理論の基礎としなければならないだけだ。そなたが言うこと、考えることが仏法から離れているなら、修行していない。

なぜ私はガンになっても治療を受けなかったのか?それは私には勇気があるからだ。勇気とはなんだ?私は果報が来たと信じたのだ。私には受け入れる勇気があった。私の勇気により、果報は円満となった。臆病でないのだ。そなた達のように「医者が手術すると言うので、どんなことになっているのか、ちょっと受けてみます」と言うのではない。死を恐れる人に学仏の資格はない。あらゆることを恐れるからだ。

欧州で『寶積経』を説くよう、法王はなぜひたすら私を鼓舞なさるのか?私が開示する『寶積経』をご覧になりお聞きになったことがあるはずだからだ。人間世界の苦を経験したことのない人には『寶積経』の内容を説くことはできないからだ。そなた達は、一言一言が非常にシンプルだ、四文字だけだと思うだろう。だが私にこの種の経験がないなら、そなた達はこのように思うだろうか?かつて貧乏で食に事欠いても、私は決して仏像を売ったりしなかった。買いたいと言う人が出てきたら、「先に金を貸してください。仏像はそちらで質草とし、金ができたら迎えにきます」と言うこともできた。そなた達も金に困ったことはあるだろう。なぜ父母を高利貸に入れて借金しないのだ?父母は私を産んでくれた。だが仏法がなければ、何もかもなくなってしまう。これこそ、私とそなた達との違いだ。私は臆病でなく餓死を恐れない。餓死は私の因果だ。捨てるを恐れない!私は経典が説く通りに暮らしているのだ。

経典︰「在家下賎。出家尊貴。」

この言葉を誤解してはならない。そうでなければ、人は仏法を中傷するだろう。学仏しなければ下賎で、出家は非常に尊い。そんな意味ではない。出家の方法で仏法を学習しないなら、三悪道に堕ちる可能性があり、貧賎の家に生まれる可能性があり、仏法の存在しない場所に生まれる可能性がある、と言うことだ。仏法の定義では、生活が下賎であっても、下賎が悪いと言うことではなく、業報がこうだ、と言うことだ。次の一世に人となっても、非常に下賎なところへ行く可能性がある。それは、この一生で仏法を用いていないからだ。布施したとしても、それはすべて何らかの理由があって行っており、無為布施ではなく、有所住で布施を行なうだ。そのため次の一世で得られるのは下賎なのだ。それは学仏しないから下賎だと言うのではなく、行った一切で得られた果報が下賎なのだ。

だが、仏法を用いて暮らすなら、次の一世で再来し人となっても良く、何をするにも良い。自然に他人はそなたを尊重するだろう。尊貴はそれに従いやってくる。求めるのではない。それはたくさんの咒を念じ、たくさんの仏を拝んだからではなく、この一生の様子が荘厳なので他人が尊重すると言うのではない。そうではない。この言葉はどこから来たのか?なぜ仏には三十二相八十随好があるのか?それこそこの二文だ。修行によって現した花報により、自然に他人に尊重されるからだ。修行できていないなら、自分の考え方で仏法を学習するなら、得られる花報は下賎だ。この下賎とは、学仏しないから下賎なのではなく、金があるとかないとかではなく、仕事の社会地位が高いとか低いとかではなく、生活が下賎なのだ。三悪道内で絶えずの輪迴する。三悪道で輪迴すれば、常に非常に苦しい暮らしではないか?賎とは、賎しい人ではなく、この人がとても賎しいのでもなく、その果報が少しの福も享受できないと言うことなのだ。

経典︰「在家熾然。出家寂静。」

この言葉の意味は、在家の五蘊熾苦、眼耳鼻舌身色声香味触と言うこの五つの感覚は、ひたすら絶えず燃焼していると言うことだ。在家の方式で暮らす人は、この五蘊がその暮らしの燃料となり、ひたすら燃焼され、欲望は永遠に満たされないと言うことだ。欲望を満たすために破戒し、物事を行うに手段を選ばないので、自然に三悪道に堕ちる。

出家は輪迴過患を知っているので、自然に五蘊(声色香味触)がそんなに猛烈にならず、あったとしても、基本的な生活の要求の程度だ。これを食べたい、どこへ遊びに行きたい、とは特に追求せず、縁に従い暮らす。例えば、私はハンガリーへ行きたいと思ったこと一度もない。法王が弘法をお望みなので、私はそれに従い行くだけだ。私は、来年はどこへ旅行へ行こうなどと思ったことは一度もない。私は旅行会社を持ってはいるが、私にはこの種の考え方はない。なぜ私はこんなにもたくさんの場所へ行けるのか?縁があれば行き、特別に手配しなければ、五蘊熾然は自然に減少する。減少すれば、物事をより明確に見られるようになる。寂静とは、心が欲望に動かされず、甘い言葉やプレゼントで愛されていると思ったりせず、自然に非常にはっきりと相手を見極められると言うことだ。悪をなさないよう諌める能力があるなら、彼を諌めよ。悪をなさないよう諌める能力がないなら、相手が悪をなすことで自分を傷つけさせないようにせよ。そなたを傷つけさせないように、彼を諌めるのではなく、彼が悪の因を植え付ける機会がないようにするためだ。これは菩薩心腸だ。一般の凡夫ができるものではない。

経典︰「在家利他。出家自利。」

この書き方はおもしろい。そなた達は、ミスプリントだと思うだろうが、間違いではない。「出家自利。」とは、輪迴苦海の出離を願うなら、先ずは自利し、仏法を用いて自分自身を輪迴苦海から出離させなければならないからだ。そなたが輪迴苦海を出離しなければ、利他する能力はない。自分自身が出離できなければ、どうして利他できるだろうか?

「在家利他。」とはどう言う意味だろうか?道理によれば、在家が行うのは自利だ。どうして利他であろう?それは在家が考える方法は、他人を助けたとしても、他人のお返しを願っているからだ。そうではないか、考えてみよ。今日私は友情を彼に売った。いつ使えるかわからないが、いつか返してくれることを願う。今日はこの男に優しくしてやった。いつか彼が私に優しくしてくれることを願う。そのため彼が行う動作は利他のようだが、結果的には自利で、彼が自分にお返しすることを願っている。そのためこの二文は見たところ反対のようだ。さらには、そなた達は経典がミスプリントではないかと思う。ミスプリントではない。

考えてみよ。表面的には非常に多くの利他を行っている。例えば、良い人として善事を行い、努力して勉強し父母を喜ばせる。表面上は利他だ。だが誰が益を得るのか?心の中では自分自身が益を得ると考えている。反対に、在家は、自分を生死解脱させられる能力が自分にはないとはっきり知っている。他人の生死解脱を助ける能力がどうしてあるだろうか?そのため、修行人は多くの時間を閉関に費やすのだ。何であっても自分自身の問題を先に解決しなければ、他人の事を解決することはできないからだ。

例えば、私はかつて皮膚癌に罹った。道理によれば、私は先ず自分のために修法すべきだ。毎日修法し皮膚癌を消してしまう。だが私は修法し皮膚癌を消しても、私が自利できることにはならないと、はっきりわかっていた。それは私が自分の利己的な念頭で考え、この病を起こさないようにしたからだ。そのため私が唯一行ったのは自利だ。それは輪迴を信じ、無常過患を信じたので、生命を用い、全てを用いて修行したのだ。表面的には自利だが、非常に自然だ。累世で食べてきた衆生が得度し、彼らが得度したなら、ガンはなお存在できるだろうか?自然に存在しなくなる。無形の間に消えてしまった。皮膚癌になって22年も生きたのは、他にはいないだろう?

西洋医である弟子は「そうです。考えられません。他のところへ行ったのでしょう。例えば潰爛出血し、非常に多くの場所がただれ、瘡ができ膿出血します。私が先ほど言ったその友人は、胃から大出血しました。腸胃科の医者がみてもおかしいと感じます。組織検査しなければメラノーマはわかりません。メラノーマで死に至るスピードはとても速く、三年から五年で、多くの人が弱り果て、亡くなっています」と報告申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰『寶積経』で、釈迦牟尼仏は学仏の重点をすべて説いておられる。説かれたのだ。このように思うかどうかは、そなた自身で決めるのだ。仏は強制しないし、菩薩も強制しないし、上師も強制できない。法王は仏法、密法を私にお伝えくださったが、私に強制してはおられない。唯一度、必ず閉関に来るようにと、仰せになっただけだ。他のすべては私が自分で決定した。

この二文は反対なように見えるが、そうではなく、現在の人の心持ちを言ったのだ。例えば、そなたは子供に対してよくし、いつか恩返しすることを願う。そなたは子供に対してよくし、子供が喜ぶことを願う。それなら心配しなくともよい。これも恩返しだ。自分自身が喜びを感じることを願う。善事を行うことを好む人がいる。これはもちろん良い事だ。だがその心中では喜びを得ることを願っている。この利他と自利は、仏法の定義では「自分自身の生死解脱を成した後でなければ、衆生の生死解脱を助けることはできない」と言う。そのため私はしばしば済度とは読経すれば良いと言うものではなく、非常に複雑で、非常に多くの因縁、非常に多くの物語がある、と言うのだ。簡単に言えば、修法人が自利できなければ、絕対に利他できない。修法人が利他のために自分が益を得るなら、これは自利利他ではなく、菩薩応が修める方法ではない。

経典︰「在家之人無潤精気。出家之人有大滋潤。」

この二文は、密法を学んだことがない人は絶対に説明できない。在家の方式で修行する人は仏法の滋潤を得られず、仏法内の一切の精華の加持を受けられず、正気を得ることもできない。多くの高齢者はどんどん身体が衰える。それは、もともと父母からもらった精気をすでに使い尽くし、滋潤を得られていないからだ。

「出家之人有大滋潤。」私は出家の方式で学仏し、仏法を弘揚してきた。大滋潤を得たとまでは言えないが、少しの滋潤は得られている。そのため72歲の現在もなおここに座って、二時間仏法を開示できているのだ。そなた達は逆に病に苦しみながら下に座っている。それは、そなた達はすでに滋潤がなく、ひたすら使うだけで、もうすぐ使い切ってしまいそうだからだ。滋潤がないのだ。

学仏すれば滋潤があるだろうか?ある。先ほど六字大明咒を念じた。念じていた時に、非常にはっきりと私の全身の気脈は通じ、非常にはっきりと観音菩薩はすべてのエネルギーを私に加持くださり私はそれを衆生に加持した。知っておろう。観世音菩薩が自分に加持くださり、それを衆生に加持するのを観想するよう、法本は言う。なぜそなたにはこの感応がないのか?当然ない。なぜないのか?守戒せず、十善法を修めず、慈悲心を修めず、菩提心を発せず、菩提道を行わっていないからだ。あるはずがない?当然念じないよりはマシだ。少なくとも少しの善根を累積することはできる。なぜリンポチェにはこの種の感応があるのか?私がすごいでのはなく、経典の通りに行っているからだ。

『普門品』では「常憶念観世音菩薩」と説く。何が「常憶念」なのか?永遠だ、永劫だ。念頭、考え方のすべてが観世音菩薩の功徳、観世音菩薩の慈悲で、自分自身の滅茶苦茶な考え方はない。それなら自然に大滋潤が得られるだろう。そなた達は得られない。皈依して15年になりガンで死んだ弟子が、以前会いに来た時、私は彼女を「15年だ。こんな徳性になってしまってから、私に会いに来るとは」と叱責した。それはこの15年、彼女は仏法を用いて自分を滋潤しておらず、やはり自分の暮らしを送り、やはりたくさん護法を修め、護法が、夫が自分の言うことを聞き、夫に腹をたてることがないようしてくれると考えていたからだ。すべてにおいてこのような態度だった。「二人の娘がしっかり成長し、幸せに暮らせるようにしてください」。このような有様でどうして仏法の滋潤が得られるだろうか?「娘は海外にいるので、私はとても心配です」。このような有様でどうして仏法の滋潤が得られるだろうか?

大滋潤を得るとは、顕教と密法では二つの説明がある。顕教は理論面で、密法の面で得られるだろうか?絕対に得られる。法王は私より二歳年上だ。世界中を飛び回って仏法を弘揚しておられる。私は法王ほどの体力はない。法王は滋潤を得ておられるのだ。いわゆる加持とはどう言う意味だろうか?そなたが諸仏菩薩の慈悲心を感動させ、諸仏菩薩は慈悲の力で宇宙の良いエネルギーをくださり、そうすればそなたは当然滋潤を得る。

この西洋医である弟子は64歲で私より若いが、長く話すとだんだん気がなくなってくる。なぜ気がないのか?それは漢方薬を飲んでいるかいないからではない。絕対に漢方薬は飲んでいない。それは気を使っているからだ。なぜリンポチェはこれをやれ、自分のためにあれをやれ、と一日中非常にたくさんの名目をやらせるのか?それはそなた達の善を累積しているのだ。善がなければ、大滋潤を得ることはできない。皈依の際、非常にはっきりと言っている。そなたの善はどうやって来るのか?上師がそなた達に善事を許予し、この善が無漏となるようなんとか考える。無漏とは何か?輪迴させない善法だ。園遊会やオークション、チャリティーを行うことではない。これは有漏だ。輪迴する。行善と名目ではない。心の中での行善だ。自然に善は現れ他人に感じられる。非常に自然にだ。特別に求める必要はない。

私達は出家、出離世間の心持ちで、仏法と向き合い、仏法を受け入れ、上師の教導に従う。そうすれば自然に滋潤が得られる。そうでなければ効果はない。施身法を修める時しばしば言う。修法の際、私は誰が功徳主だなどと区別しない。それは私達道場にはもともと功徳主がないからだ。分けないので、私は平等な心で修法する。それなのに、なぜ弟子によって、信衆によって、得られるものに差があるのか?それはそなた達の心だ。上師の心ではない。今日私が富貴を追求するなら。どれだけの人が会いに来て、政治家が会いに来ても、私は会わない。この心持ちで会うことはしない。

経典︰「在家結楽。出家滅楽。」

この二文の意味は、在家の一生はすべて好き、得られる結果がすべて幸せであることを願う。非常に多くの女性は「この男性と交際してどんな結果があるでしょうか?」と訊ねる。それは幸せな結果を望み、それを私が保証することを願っているのだ。私が良くないと言えば、相手と別れるだろう。私が良いと言えば、結婚し、後で変化すれば私を責める。そのため「この男性と交際してどんな結果があるでしょうか?」と誰が訊ねても、私は必ず「生離死別」と答える。だが世間で智慧のない人は良い結果を要求する。何が良い結果なのか?相手の欲望を満たすのが、いわゆる良い結果だ。相手の欲望と違えば、楽しくない。在家の人は読経持咒拝仏であっても結果が幸せであることを願う。このような考え方は過ちだ。あまりにも大きく誤っている。

仏が仰せの楽とは、人世間の短い欲望の楽ではない。仏が仰せの楽は永遠不変の楽だ。何が永遠不変なのか?生死輪迴大海を離れる。この種の楽は永遠不変だ。虚空がどんなに変化しようと、そなたの楽はやはり変わらない。これこそ仏教徒が、自分の目的は何かを知っている修行方法だ。外道では天国へ行けると言う。だがこの種の楽はやはり一時的だ。永遠の楽ではない。今日在家の行った一切の事は良い、楽の結果が得られることを願う。出家は反対に、滅楽だ。この楽とは、仏法の永遠の楽ではない。世間の種々の楽を特別に追求せず、さらにはこの楽が出現したら、より慎重に、より注意深くなるのだ。自分がどんな楽を得たとは思わず、自分の福報は良いので、これらを享受できるとは考えない。この種の福報が出現すれば、福を使い切った、福報をより速く累積し、より多くの衆生に利益するよう、非常にはっきりと留意する。

なぜリンポチェは閉関するのか?自身の開悟のためでなく、自分の修行のためでもない。福報を累積して衆生に使ってもらうためだ。これこそ滅楽だ。自分の楽を滅してしまう。儒家思想では「独楽楽不如衆楽楽」と言う。仏家で言うのは、自分自身の楽まで不要で、すべてを衆生に与えてしまわなければ、滅楽とは言わない。自分の念咒は他人と違うと考える。それは滅楽ではない。他人に、自分がとてもよく念じていると思われるよう願っているからだ。ある出家弟子は、学問に優れていると他人に思われたいと願っている。

仏法は非常に簡単だ。それはそなた達の心があまりにも複雑だからだ。簡単であれば、反対にそなたは恐る。簡単であれば、反対にそなたは役に立たないと思う。本当に非常に簡単だ。私が言う通りに行えばそれでいいのだ。例えば、『大藏経』の字体は非常に小さい。眼科医に『寶積経』の文字を見てもらおう。私の年齢で読めるだろうか?皆に教えてくれ。この字はどれだけ小さい?

眼科医である弟子は「リンポチェの年齢では、普通この経典の文字は読めません。それはリンポチェが経典を読む際には、私達が言う中距離で見ておられるからです。私が初めてリンポチェの視力検査をした時、少しの近視と少しの乱視があっただけでした。リンポチェの年齢から言って、いちばん小さい文字が読めることはあり得ないことです。そのため私はリンポチェの視力検査をした際、検査が間違っているのではないか、と感じていました。何度も数えましたが、やはりその度数でした。リンポチェの年齢で、老眼ではないと言えるでしょう。

診察時に、老眼でない人はいますか?とよく患者に尋ねられますが、私の上師リンチェンドルジェリンポチェだけです、と私は答えます。リンポチェはかつて『密法を成就まで修めると、身体全体の構造が変化する』と開示されました。リンポチェの目から見れば、リンポチェの身体は本当に変化しています。

ある年、インドへ行った際に、リンポチェといっしょに食事しました。卓上には調味料の瓶がありました。その上には非常に小さい英文が書かれていましたが、リンポチェは取り上げ、全部読み上げられたのです。その文字は、私達の近距離視力検査表ではおおよそJ1の大きさです。患者の視力検査をする時には、こんなに小さな文字は検査しません。J1、J2は検査しないのです。J3が読めれば十分です。ところがリンポチェはいちばん小さい文字が読めたばかりか、その時リンポチェは老眼鏡をかけておられず、しかもいつもと同じ眼鏡をかけておられました。しかも度数はまったく変わっていません。リンポチェの72歲と言う年齢からして、正常な老眼の度数は少なくとも300から350度ですが、リンポチェは今でも老眼鏡をかけておられません。リンポチェは二年前に眼鏡を変えられたようですが、その時の度数は、私が当初皈依した時とまったく同じでした。つまり20年間、度数がまったく変化していないと言うことです。医学的にはあり得ないことです」と報告申し上げた。(参会者は熱烈な拍手を贈った)

リンポチェは「私を賛嘆しているのではない。眼科医を賛嘆しているのだ」と開示くださった。この弟子は「リンポチェを賛嘆申し上げているのです」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰今日なぜこの事を言ったのか。それはある皈依した出家弟子が『寶積経』を私に渡すからだ。その文字は拡大してある。その者は、私が文字が読めないのではないかとひたすら心配している。それは、この者が密法を信じていないと言うことだ。以前、顕宗について語った話を読んだことがある。ある法師はロウソクの光だけを用いて、経典の文字をはっきり読めたと言うのだ。ロウソクの光がどんなに微弱か知っておろう。ほとんど読めない。経典の文字は通常は非常に小さいからだ。「法師、どうして読めるのですか?」と訊ねられると、法師は「目で読んでいるのではない。心で読んでいるのだ」と答えた。私もひたすら自分自身を試している。こんなにも小さい字だ。大きな文字のものを探して読んだ方が、読みやすいのではないか、と。だが私はそうしないと決めた。それはどんな大きさの字でも、目で見ているのではなく、心で見ているからだ。今日衆生のために仏法を宣説するなら、諸仏菩薩、天龍八部は私に加持くださり、私は見誤ることはないと信じている。経典上の字は非常に曖昧なこともあるのにだ。

私の出家弟子は、他人が私の老いを目にするのを非常に心配し、拡大版の経典を探して私に見せようとする。もちろんそれは好意だ。だがこの好意は、修行人を理解しておらず、修行人は一般人ができないことができると理解していないと言うことだ。できないとは、超人に変わる、または非常にすごくなる、と言うことではなく、その心力があることに完全に集中すると言うことだ。つまり「心無旁騖」だ。今日眼科医である弟子に語らせたのは、自分の修行功力をひけらかすためではない。仏法とはこう言うものだと知らせるためだ。出世法を心を込めて行えば、世間法ではどんな事でも阻害されない。

リンポチェはその場で老眼鏡をかけた人を探して、リンポチェより若い弟子に台上で経典の文字を読ませた。弟子は「老眼鏡をかけてもはっきり読めません」と申し上げた。

仏の仰せはすべて応験すると皆に理解してもらいたい。先ほど言ったように「出家之人有大滋潤」だ。これは、仏は私達を騙したりなさらないと言う証明だ。私はしばしば言う。私は自分を仏法内のモルモットだと考えている。私は自分を使って実験しているのだ。仏法を疑っている、仏法を信じていない、上師を疑っている、と言うのではなく、そなた達もこのようになれると伝えたいのだ。自分はリンポチェではないので、できない、と言う人がいるだろう。だが始めれば、皈依して15年になり往生したばかりの弟子のように、このような徳性になってしまってから会いに来る、と言うようなことになってはならない。この弟子は、リンポチェに多くの面倒をかけた。それは私が彼女を見て怒り面倒に思ったと言うのではなく、なぜ衆生はこんなにも済度させにくいのか?と言うことだ。なぜ観音菩薩は淚を流されたのか?それは衆生を済度させきれないと思われたからだ。

自分は学仏人だと言うなら、なぜ教えに背くのだ?如法とはなんだ?教えに従うことだ。考え、行う。何かが発生してから、リンポチェに会いに来て泣く、と言うのではない。心を込めて学仏すれば、早ければ三年、遅くとも六年で、必ず何かが転換し、変化する。不動で不変ということはあり得ない。なぜ不動で不変なのか?それはそなたが不動不変で、心が同じで、以前の方式で暮らしているからだ。

今日の開示を、帰宅してよく思惟するように。先ずは自分の暮らしを送り、その後に修行のことを考えようと思っている人が多い。そなたには時間がないのだ。なぜあの弟子は死後、目を開け、口を開けていたのか?それは死にたくなかったからだ。娘がまだ成長していない、まだ結婚していないと心配していたからだ。そなた達にとっては人として普通だが、仏法においては、滅茶苦茶だ。自分のもとに来る子女はすべて過客だ。子供は永遠に自分たちの物だと思ってはならない。生に終わりが訪れれば、関係がなくなってしまうのだ。

子供としては父母の恩を知り、父母に心配をかけてはならない。「自分はこのような病になった。父母に心配かけないようにと思っても無理だ」という人がいる。こう言ってはならない。業報が発動を始めたのだ。自分でしっかりと懺悔しなければならない。懺悔しさえすれば、父母の心配も自然に減るだろう。何もいう必要はない。この種の事は非常におもしろい。先ほど言ったように、母は私を心配していなかった。それは私がひたすら修行しているからだ。そなた達にとっては、私の現在のエネルギーは私の母を感動させ、この息子を心配する必要はないと思わせていた。母は香港にいる弟を心配し、カナダにいる妹を心配していた。それは弟と妹は学仏していないので、将来どうなるか分からなかったからだ。私が修行しているのは、母は目にできる。母は健在のころ、非常に多くの弟子が私に対して非常に恭敬なのを目にし、息子はしっかりやっているからこそ、弟子が恭敬なのだと思っていた。これは高齢者の考えだが、少なくとも私は孝を尽くした。

私には悩みはないだろうか?ある!毎日千人余りに向き合い、ビジネスの問題もあり、山のようにたくさんの人が会いに来る。悩みは多い。そなた達には数えきれないほどの悩みだ。法王は、私は一度も法王に苦しみを訴えたことはないと仰せだ。なぜ苦しみを訴えないのか?それは弟子であるなら、上師の教えの通りに行うべきだからだ。どれだけできるかは重要でない。うまくできるかどうかも重要ではない。行わなければならないのだ。同じようにはできない、というものではない。私はどれだけかの世の善根を累積したので、この一生で少しの福報があり、仏法を開示し、仏法を教導しているのだ。これはすべて累世から来ているのだ。

そなた達はこの一生で仏法を聞く福報に恵まれた。この清浄な道場、清浄な伝承の下、決心しなければならない。もう一度言う。私は死なないと言うことはあり得ない。15年たって、このような徳性になって会いに来た、この弟子の真似をしてはならない。15年を私にくれるものは何人もいない。そなた達に与えるのではない。私がいつ去るかは分からない。一切の業を完済しさえすれば、私は去る。

今日『寶積経』で開示したのは、私達一切の修行人の問題だ。聞き入れず、やはり滅茶苦茶するなら、業力に従い歩むことになる。今日はこんなにも多くの例を挙げた。それは私が仏法を信じているので、大滋潤が私の身に効果をもたらしたからだ。この出家弟子は仏法を信じていない。咒を念じれば仏法だと思っている。

「滋潤」と言うこの文字を、経典では見たことがないだろう。仏は特別に「在家之人無潤精気。」と仰せだ。このように仰せになることは非常に少ない。これこそ密法だ。別の経典では見たことがないだろう。『寶積経』は何を説くのか?菩薩道だ。菩薩道は密法にはなく、菩薩道を修められない。別の経典が「無潤精気」について説くのを見たことはあるか?出家して非常に長くなる一人の弟子が「見たことはありません。誰かが説くのを聞いたこともありません」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰「一切を下ろすのだ!」なぜ仏はこう仰せなのか?それは衆生を助け、衆生に利益するには、そなた自身の精気が足りないなら無理だからだ。簡単なことだ。私が「ぺっ」とすれば、建物は動く。そなた達が「ぺっ」としても頭髮がちょっと動くだけだ。これは精気がないと言うことだ。みなが一斉にふんっとやったところで、私にはかなわない。私はマイクに頼っているわけではない。

なぜ見たことがないのか?それは『寶積経』だけが説くからだ。『寶積経』と言うこの経は、釈迦牟尼仏が在家、出家衆のために特別に説かれた経だ。この法門は、在家であろうと出家であろうと修められ、別の法門とは違うと言うことだ。例えば『阿含経』、『雜阿含経』は小乗を修める。『寶積経』は一切の層と根器を網羅する。劣根器であろうと上根器であろうと、すべてこのように行える。決心しさえすれば、必ずいつか滋潤が得られるのだ。学仏を始めたばかりの頃、法王が密法をお伝えくださったばかりの頃、私は『寶積経』がこのようだとは知らず、見たこともなかった。だが私は法王の教えに従い修めたので、修めることができた。なぜ私は講じられるのか?それはすでに修め、修め続けているからだ。経典の通りに修めなければ、講じることはできない。

みなに何度も言った。経典を宣説するのに、私は事前に準備しない。名相を探したり辞典を覚えたりしてから説く、ということを私はしない。私は完全に私の修行の経験を用い、法王がお教えくださった方法を用い、文字が含む意味に基づき講じる。字面に基づき説明するのではない。例えば滋潤だ。そなた達はなんのことか分からないし、講じることもできない。密法には話してはいけない部分がある。だが少なくとも、できる、と伝えることはできる。自分自身の時間をこれ以上無駄にしてはならない。人生の苦は短い。あっというまに過ぎてしまう。仏のお諌めを仏と関係がないと聞かなくとも、どうということはないと思ってはならない。先ずは行い、その後に学仏しよう。これでは時間の浪費だ。

そなた達の善根は非常に浅い。善根を累積するには、非常に多くの時間が必要だ。ちょっと来て、ちょっと拝み、ちょっとお金を供養すれば上出来だ、などと思ってはならない。上出来だ、ということはない。ただ始めただけだ。謙卑の心で行い、取引するような心で行なってはならない。私はこんなにもたくさん供養しているが、何かと交換しようと考えたことはない。上師がお申し付けなら、私は直ちに行う。どんな事だなどと問うこともしない。

尊いリンチェンドルジェリンポチェは弟子を率い、アキ護法と迴向儀軌を修持くださった。修法が終了し、リンポチェは漢方医である弟子に、精と気は何をするのに用いるのかを説明するようご指示になった。
漢方医である弟子は「精と気は私達生命の根源です。生まれる時、父母は私達に先天的な精をくれます。それがいわゆる腎精で、成長の原動力です。そうでなければ気は生まれません。後に加わるのが後天的な栄養、いわゆる脾胃の気です。これを、私達は日常生活で正常に使用するのです」と報告申し上げた。リンポチェは「人は老いても精気は継続するのか?生まれるのか?」と開示くださった。弟子は「漢方医にとって、腎精は一定です。ひたすら損耗していきます。人が老いるとは、腎精がひたすら減り、衰退するということです。そして最後には無くなってしまいます」と報告申し上げた。

リンポチェは「漢方医にとって、滋潤とはどう言う意味か?」とお訊ねになると、漢方医である弟子は「私の理解では、リンポチェの精気はひたすら絶えず気脈内に補充されています。経脈全体にエネルギーの身体反応が充満しています。精気が自ら再生充満しているようです」と報告申し上げた。リンポチェは「だから私は一年余りもそなたが不要だったのだ。私の現在の精気は一年余り前と比べてどうだ?」とお訊ねになると、「一年余り前よりさらに旺盛です」とお答え申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰これは上師の秘密だ。どう言う意味だろうか?先ほど『寶積経』で講じた大滋潤だ。なぜそなた達にはないのか?私はわざと、一年余り漢方薬を飲まなかった。経典の仰せは正しいと証明してそなた達に見せたかったのだ。私はこんなにも厄介な人間だ。そなた達の学仏も拝仏もすべて偽物だ。偽物を拝んでいるのだ。私は私の命を用いて証明し、仏陀の仰せはすべて正しいとそなた達に示す。そなた達が行おうとしないだけだ。できないのではなく、行おうとしないのだ。道理の通りなら、72歲の高齢者の精気は減るばかりで増えるはずはない。漢方医である弟子は「そうです」と報告申し上げた。

リンポチェは開示くださった︰アキ護法は非常に慈悲深くあられる。数人の医者をわざわざ私の弟子としてくださった。それはそなた達は医者を信じ、仏法を信じないからだ。医者は試験を受け、ライセンスがあるからだ。仏菩薩は私にライセンスを発行してはくださらない。経典で説くことは必ずできる。できないことはない。行う決心を下すかどうかだ。これ以上思い上がっていてはならない。これ以上自分自身の考え方で学仏してはならない。そなたの考え方は人世間の学問だ。仏法ではない。人世間の学問と人生経験法で生死を解脱できるなら、経典もリンポチェも不要だ。

考えを整理しなければならない。盲信してはならない。できないなら、それは行う決心を下していないということだ。仏法が悪いのではない。仏法が無用なのではない。決心を下していないのだ。修行で得力したなら、人の身体は仏にとっては小さな事だ。私の身体を用いて衆生に利益すれば、仏は私を苦しませるだろうか?小さな病はやはりあるだろう。だがとても苦しいということはない。なぜ私は健康なのか?それは私に楽な暮らしをさせるためではない。私は楽な暮らしなど送っていない。私はそなた達よりたくさん食べてはいないし、そなた達よりたくさん寝てはいない。そなた達は私よりたくさん寝ている。

今日はみなはっきり分かっただろう。仏法は本当に行えるのだ。実践できるのだ。虚構の神話物語を語っているのではない。決心を下すかどうかが重要なのだ。徹底的に懺悔するかどうかが重要なのだ。ちょっと懺悔すれば幸せに暮らせるというのではない。それはそなたには障礙があるからだ。修行の障礙はどうやって来るのか?そなたが行った悪業障礙だ。そなたの善根は不十分なのだ。

今日こんなにもたくさん聞いたのだ。帰宅後はみなしっかり思惟することを願う。家も要らない、仕事も要らない、あれもこれも要らない、というのではない。思惟の方式を調整し、仏が仰せの方向、仏がお教えになる決定に従い、自分自身で心持ちを調整しなければならない。先延ばししてはならない。今日心持ちの調整ができない、と感じたとしても、少なくとも考えなければならない。ひたすら考えなければならない。なぜボーイフレンドと交際する勇気があるのだ?それはひたすら考えるからだ。自分ができると、考えたくないのか?なぜ結婚するのか?結婚した後、こうと知っていれば、結婚などしなかった、とみないう。それは、そなた達がひたすら考えて出てきたのだ。

一切の法は心から生まれる。良い方法をそなた達は考えない。一日中滅茶苦茶なことを考え、自分自身にとって役に立たない方法を考えている。はっきりしたなら、盲信してはならない。盲信とはなんだ?「仏が私を救い、仏が私にくださる」と考える。仏は私達に何もくださらない。今決心を下せば、そなたを滋潤くださるが、仏はお与えになるのではない。なぜ滋潤くださるのか?それは衆生を救うのに、身体がないのでは救えないからだ。そうでなければ、私はどうしてそなた達を叱責するのか?中気がないなら、そなた達にいじめ殺されてしまう。中気が十分で、大声で怒鳴れる。少なくともそなた達を怖がらせることができる。眼科医である弟子がしばしばいうように、頭の中を真っ白にしてしまえる。今日ははっきりと聞いたのだ。自分自身で帰宅後にしっかり考えよ。来週は施身法を修める。

法会は円満し、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示を賜り、様々な善巧方便で『寶積経』の真義を開示くださり、無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


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2019 年 06 月 08 日 更新