尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年3月31日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られた後、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

先週法王は、もし私がハンガリーへ弘法に行くなら、必ず『寶積経』の、しかも舍衛城の段を開示しなければならない、とご指示になった。法王が、ハンガリーの信衆に『寶積経』を開示して聞かせるようご指示になったのは三度目だ。法王がもし私のホームページをご覧になったことがないなら、私が『寶積経』を開示していることはご存知ないはずだ。もし私の開示が誤っていれば、法王がハンガリーで『寶積経』を開示するよう私に何度も仰せになるはずはない。『寶積経』は祖師ジッテン・サムゴンのすべての著作の理論の根本だ。ジッテン・サムゴンは「自分が開示する仏法は、一に仏の仰せを離れない、二に上師の教えを離れない、三に自身が上師と仏の教えを聞いた後に、自分の修行経験を経て講じることを離れない」と仰せになっている。

私のこの一生の学仏は経教出身ではない、と以前言ったことがある。経教とは何だろうか?念経、誦経、非常に多くの名相を学び、非常に多くの名相を理解できるように人に教えることだ。名相とは仏法の専門用語だ。非常に多くの仏法の専門用語を理解し、それにより仏学の深さを人に感じさせ、非常に多くの仏学理論を理解させられる。仏法で最も重要なのは修だ。聴があり、聞があり、思考がある。もし不修なら、やはり役には立たない。学んだ仏法を用いて、自分を救い、衆生に利益することができないからだ。私の学仏の方法は、多くの人とは異なる。先ず実修から始める。ある境界に至ったら、経典が説くことと自分の修行境界の体悟が同じになり、自分の修行が道を誤っていないことがはっきり分かる。それに法王の確認が加わり、自分の修行方向が正しいとはっきり分かる。

私は今でもなお仏法を学習し、仏法を修習している。仏法の戒律で「不妄語」は非常に重要だ。人を騙さない、と言うことではない。人を騙すとは嘘をつくことだ。一人の修行人にとって最も重要な「不妄語」とは「分からないなら分からない」と言うことだ。分からないのに分かると言ったり、推測したりしてはならない。推測すれば、それは破戒だ。先週ある出家弟子が私に「三分とは身口意を指す可能です」と答えた。これはすでに破戒したと言うことだ。

リンポチェはこの出家弟子を叱責した︰そなたの奢った心が消えたかどうかを確かめるために、私はわざわざ問うたのだ。私でさえ、分からないなら分からないと言う。そなたは何を以って分かると言うのだ?それでは仏法を学べないと思ったのだろう。

先日出家衆に「三分」とは何かを調べるように言っておいた。一人の出家弟子は「三分は三品、三聚とも言います。懺悔、隨喜、勧請です」と答えた。私は説法を開始した時から、「成仏するまでは、絶えず懺悔しなければならない」と常にみなに言っている。菩薩道を修める人は一般凡夫とは異なるからだ。一般凡夫の懺悔は、自身が幸せに暮らすため、学仏できるよう健康になるためだ。皈依すれば健康を取り戻せる、懺悔すればすべてが好転すると思っているのだ。菩薩道を修めるには、なぜ絶えず懺悔しなければならないのか?成仏していないなら、真に衆生を救うことはできない、と言うことだ。諸仏菩薩と上師がお教えくださる仏法を、自分は円満に修めていないと言うことだ。そのため懺悔しなければならないのだ。何が原因なのか?それは、自分の福徳因縁が不十分なのだ。この一生で懺悔法門を通して、絶えず福報を累積しなければ、自利利他することはできない。自分が幸せに暮らすために、懺悔するのではないのだ。弟子が前に出てきて懺悔するのははすべて、自分が三悪道に堕ちないよう希望してだ。もちろん一般の人よりは幾らか良いだろう。だが、これは菩薩道を修める懺悔ではない。

隨喜、そなた達が私を知ってから現在まで、法王の功徳、諸仏菩薩の功徳への賛嘆を私は停止したことがない。いわゆる隨喜だ。そなた達はどうだ?いつでもそなた達の方が優れている。

リンポチェは一人の出家弟子に向かって仰せになった:そのため、そなたには「三分とは身口意を指す可能です」と言う勇気があるのだ。自分はすごいと思っているからだ。私は何度も言ってきた。地蔵菩薩は法身菩薩だ。『地蔵経』中で地蔵菩薩は「私に広大衆生に利益する能力があるのは、諸仏の加被、支持を得ているからだ。だからこそ、私にはこれらの事を行う能力があるのだ」と自ら仰せになっている。そなた達は何だ?仏学院で学んだことがあると言って度衆しようとしている。これこそ懺悔がなく、隨喜がないのだ。どこに福報があるだろうか?

なぜ勧請するのか?密法のすべての法本は勧請だ。諸仏菩薩と上師に自分に加被くださるよう、円満な功徳が備わり広大な衆生に利益でき、衆生の一日も早い成仏を助けられるよう求めるのだ。自分が成仏しないのは重要ではない。仏法の常住在世を勧請する。そなた達はそうしているか?俗に言うなら、自分が健康になり、平安な日々を送れるようにしたい。もう少し良いなら、自分が三悪道に堕ちないようにしたい。さらに良いなら、浄土に往生できるようにしたい。これだけだ。これは菩薩道修行ではない。

三分の名相を私は知らないが、私はひたすら行なっている。つまり名相を理解するかどうかは、実はそれほど重要ではないのだ。善根が十分で、過去世の善の因縁が十分なら、この一生の学仏過程は非常に自然に成し遂げられるだろう。誰も私にひたすら懺悔せよと教えなくとも、広大な信衆はみな懺悔したので役に立つと思っているが、実は知らない。もしそなたが絶えず懺悔をできないなら、生生世世の悪業がそんなに簡単に解決するなどあり得るだろうか?そなたがこの一生で絶えず行う悪業は、そんなに簡単に解決されるだろうか?出家衆であろうと、私がちょっと訊ねるだけですぐに破戒する。実に容易に破戒する。上師に監督されていないなら、一日中破戒するだろう。

昨日土曜日、信衆を接見した。一人の出家弟子が、『寶積経』と関係のあるたくさんの名相を写して私に見せてくれた。それは好意からだ。私が名相を理解しないことで恥を掻くのではないかと心配したのだ。分からなければ分からない、何の恥ずかしいことがあろうか?私は面子など要らない。本来言うつもりはなかった。私が持っている、この『実用仏学辞典』は私が顕教に皈依した師父が送ってくださった初めての書だ。誰か持っているか?これは民国75(1986)年に出版された書だが、私は見たことがなかった。なぜ見たことがなかったのか?それは名相を理解することが修行であるとはいえないからだ。

リンポチェはその出家弟子を叱責なさった:そなたは好意だと思っているだろうが、実は私に嫌がらせをしているのだ。私のこの辞典の内容の方が豊富だ。そなたが写して私に見せた内容の方が多いのか?私は35歲で顕教に皈依した時、この書を得た。上師の能力を理解せず、自分はすごいと思っている。そなたは私の弟子だ。何を以って私に教えるのだ!どうりでどんなに念じても健康を回復できず、貢高我慢で、面子にばかり拘るはずだ。全て目を通したのか?嘘をつくな。私にどれだけの本領があるか、そなたに分かるのか?

顕教に皈依して初めて手にしたのが、この書だ。私の師父はどんな経を読めとはお教えでなかったが、私に『実用仏学辞典』を下さった。つまり授記の後に私は仏法を講じられる人なのだ。そなたは出家してこんなにも長くなるのに、誰かがそなたに書を送ってくれたか?インターネットであれこれ検索しなければならない。今はウェブサイトがとても便利で、そなた達をますます思い上がらせている。ウェブ上で見つかるものは正しいのか?中途半端な知識に過ぎない。『実用仏学辞典』は1923年に中国で長期間をかけて集められた末に書かれたものだ。中国のすべての大徳がかつて認証済みの仏学辞典なのだ。今ではもうない。一人の出家して数十年になる弟子が報告する。自分は見たことがないくせにだ。

また今度こんなことがあったなら、追い出すこととしよう。上師に皈依しながら、上師がどのように修めているか知らず、恥をかくことを心配し、山のような名詞を書き出して見せてくる。私は調べられないのか?何度そなた達に言ったことか。経典を講じる際、私は準備しない。経典を開いてすぐに宣説する。分からないなら、分からないと言う。不正な手段で名声を得ようとする、そなた達はそんな人種だ。名相を講じられることは、修行がうまく行っていると言うことなのか?済度する能力があるなら、見せてみよ。

そなた達は顕教出身だ。そなた達が夢の中でも求めている事を言おう。皈依した時、私は在家居士だった。私の師父は、一つの事だけを行うよう私に指示なさった。それは『華厳経』を三回読むことだ。私は一気に『華厳経』に至ったのだ。そなた達はみな拝懺から始めている。そなた達の師父はそなた達に『華厳経』を読むよう言ったか?なぜ言わない?『華厳経』は顕教内の密法だ。そうだろう?出家弟子は「そうです」とお答え申し上げた。

印順長老について聞いたことがあるものは手を挙げよ?(非常に多くの人が挙手した)。印順長老が初めて浴室で転んで頭を打った時、回復してから、私の顕教師父は私と数人の在家と出家弟子を連れてお見舞いに伺った。印順長老は他の人とはお話しにならず、私の顕教師父と私とだけお話しくださった。印順長老は私に「居士よ!般若経を読むんだぞ」と仰せになった。『大般若経』とは何かな?出家弟子が「600巻あります。空性について空も空と説きます」とお答え申し上げた。印順長老は、私が空性を証悟できる行者だと思われたのだ。『大般若経』を読んだか?誰かに読むように言われたか?言われたことがないのに、自分は仏学院で学んだことがあると奢っている。聞いたことがある。だが、印順長老にお会いしたことがあるか?私はお目にかかったことがある。しかも私が求めたのではない。私は有能な人材だ。そなた達はそうではない。今日なぜ叱責するのか?非常に多くの学仏人がみな思い上がっているからだ。自分は少しやればそれでいいと思っている。『寶積経』の後の方で講じていることを、みな全く行っていない。

最近、張という姓の弟子が往生した。リンポチェは、その日、病院へ行き、修法前と修法後を目にした8人の弟子に前に出るよう指示し、彼らに当時の状況を述べさせた。

弟子達は報告した︰張という姓の弟子が往生したばかりの頃、目は大きく見開き、口も大きく開き、顔はいくらか強張り、顔色は黄色く、見ていられないほどでした。最後の一息をついた時、表情は荒々しく、もう一呼吸したそうに見えました。彼女が1時35分に往生し、私達は持咒を始めました。リンポチェはすでに彼女の神識を保護してくださっていると、その時、子女が言っていました。リンポチェは4時前後に修法なさったと思われます!リンポチェが修法を終えると、私達は彼女の梵穴に触れ温かくなっていることが分かりました。額は冷たかったです。目はほんのわずかの隙間だけ開いており、口も閉じていました。顔色が非常に穏やかで、きれいになり、微笑んでいるかのようだったのは、最も重要なことです。

リンポチェは開示くださった︰今日なぜこのことを言うのか?私達の道場ではしばしば人が往生する。この往生した弟子は私に皈依して15年になる。最後は肺腺癌で往生した。彼女は往生前に会いに来たので、私は叱責した。「皈依して十数年になるのに、こんな徳性になって会いに来た。この十数年仏法を聴聞せず、嗔恨心が非常に重い」。母親がひたすらこれも恨みあれも恨みしていることを彼女の娘は全く知らない。そのため、私が教える仏法を、全く聴かず、用いてもいなかった。これはまだ重要でない。彼女は救いを求めて来た時、私が叱責したので、供養を忘れて出て行った。往生後に彼女の家が金銭的に困窮するのではないかと、私は心配だったので、自ら二人の娘に、葬儀費用が足りないなら、リンポチェが出してやろうと伝えた。

本来この弟子は私の済度を得る資格はなかった。一つに、彼女は三寶に不恭敬だった、二つに、供養布施しなかった、三つに、因果を信じなかった。因果論からいえば、少なくとも畜生道に堕ちる。彼女は供養しなかったのに、なぜ修法してやったのか?本来なら言うべきでない。だが、彼女のこの二人の娘を、私は今後も面倒を見るので、公に言う。母親はあちらもこちらも節約し、八十数万元貯めた。引っ越す金がないのを恐れ、死後金がないのを恐れていた。彼女は一度も考えたことがなかった。今日この葬儀社は、私が彼らをたくさん助けてきた関係で、他所より40%から50%も安くなっているのだ。この喪葬費用は私が彼女のために節約してやったものだ。彼女は自分が儲けたと思っているだろう。これは重要ではない。なぜ彼女に修法したのか?それは、私が彼女を助けなければ、二人の娘が非常に悲しむと私ははっきり分かっているからだ。この二人の娘は今後も私に従い学仏する。二人の娘の親孝行の心のために、彼女に修法してやったのだ。真に親孝行なのは学仏する子供だとなぜ私はしばしば言うのか。二人の娘の親孝行が私を感動させ、観世音菩薩を感動させたので、私は済度を修めたのだ。その時、私は日本にいた。日本と台湾は少なくとも2000km離れている。どのように修めたのか?そなた達は知らない。

なぜこれらの人を出て来させたのか?それは、そなた達は私が言うことを信じないからだ。証人が現場にいなければ、そなた達は信じない。その時、葬儀社の人は人が事切れる時にちょっと来て、修法が終わると、またやって来る。彼らは来ると、遺体が違っていることに気づき、そして「リンポチェが修法なさったのだ」と必ず言う。死人に済度することは、葬儀社でさえリンポチェはすごいと知っている。そなた達これら弟子は、メモ書きを私に渡すことさえしてのける。このことからそなた達は分かるだろう。リンポチェは金のためではない。彼女は生前供養しようとしなかった。死ねば数時間苦しまなければならない。去る時、罣礙心があまりにも重かった。彼女は十数年学仏しても執著し、死ぬ時にもやはり執著していた。

すでに教えたことがある。どうすればよく死ねるかを何度も言った。なぜ彼女の死はこんなにも苦しかったのか?それは不聴、不信だったからだ。なぜ死んだ時、顔色がそんなにも悪かったのか?こんなにも強張っていたのか?それは彼女が緊張し、恐れ、上師を信じていなかったからだ。いつ信じなかったのか?皈依したその日からだ。彼女の皈依は、家庭が良くなるよう希望してだったからだ。すべての人が彼女に良くしてくれ、二人の娘がしっかり成長する。これが彼女の人生における願力だったのだ。

このことからはっきり分かるだろう。生前どうあれば、死ぬ時どうなるかが。私は彼女を懲らしめているのではない。一人の人を懲らしめる資格など私にはない。だが私には彼女を済度させてやる資格がある。もし私が現場で彼女を加持していれば、彼女の様子は変わっただろう。だが、日本から飛んで行って彼女を加持してやることなど不可能だ。息を引き取ったばかりの頃はどうだったのか、彼らは現場ではっきりと見た。修法後にどうだったのか。彼らたくさんの者達もそこで六字大明咒を念じていたのだ。どんなに念じてもこのようだ。なぜか?菩提心がないからだ。

仏法とは神話物語ではない。認証でき、目にできるものなのだ。この種の事は多くないために、誤った情報が伝え続けられており、仏法が全て捻じ曲げられているだけだ。今日こんなに色々言ったのは、私に対するそなた達の信心を強化するためではない。私は72歲だ。そなた達が私を信じようが信じまいが、私にはどうでも良い。そなた達が私を信じるので、私はとても疲れるのだ。この二人の娘はひたすら救いを求めに来たので、私は情にほだされてしまったのだ。本来私はこの弟子にすぐに済度できるはずがない。彼女に福報がなければ私は済度できない。だが、その時私はちょうど日本で修法していたので、すぐに彼女を済度できたのだ。

私と命を賭けてはならない。そなたが死んだら、リンポチェが済度してくれるなどと思わないことだ。これは非常に複雑な因縁なのだ。私は絕対にそなた達より早く死ぬ。私は72歲だ。あとどれだけ生きられることか?しかもそなた達には、リンポチェを情にほだしてくれる二人の親孝行な娘がいるとは限らないのだ。彼女は皈依して15年菜食し、法会に参加し、懺悔もし、持咒もした。なぜこんなにも苦しんで死ななければならなかったのか?信じず、聞かなかったからだ。誰も信じない。皆「こうであっても大丈夫だ。どうと言うことはない。その時になったら観音菩薩がお迎えに来てくださる。護法が救いに来てくださる⋯⋯」と思っている。そんなことはない。そなたは仏の仰せを聞かず、リンポチェの開示を聞かず、好きなようにして、自分の方法で修行している。それなら不可能だ。

今日この数人の証人は非常にはっきりとそなた達に伝えた。リンポチェは怒ってばかりいるのでも、リンポチェは目立ちたがり屋なのでもない。今日はちょうどこのcaseをそなた達に知らせた。生前しっかり行わなければ、息をひきとる時に苦しむことになる。なぜ口が開いていたのか?死にたくないからだ。なぜ目を見開いていたのか?悔しいからだ。なぜ顔色が悪かったのか?自分が非常に苦しいと感じるからだ。彼女は皈依して15年、何を学んだのか?何も学んでいない。今私の慈悲心が動き、彼女を済度させてやったが、彼女は絕対に阿弥陀仏のお側には行けない。なぜなら彼女は生前修めていなかったからだ。彼女はどこへ行ったのか?欲界天だ。天界で最低のところだ。数百年輪迴した後に再来すると言うことだ。リンポチェの能力はどうと言うことはないのか?阿弥陀仏は無慈悲なのか?そうではない。仕方がないのだ。彼女の因縁はこうなのだ。彼女が自分で成したのだ。

他人を恨んではならない。一切全ては自分の因縁福報なのだ。受け入れれば良い。そなた達は言うことを聞かない。あの日私は彼女に言った。皈依して15年、このような徳性になって会いに来た。誰が言うことを聞くのか?誰が信じるのか?出家弟子でさえ、自分が受けた戒を信じていない。そなた達在家のものはなおさらだ。なぜ末法時代に弘法する人は大変なのか。それはこうだからだ。なぜ学仏したいのかをしっかり考えよ。私達は毎日、持咒し閉関する等こんなにも大変だ。それは良い暮らしを送るためではなく、健康のためでもなく、病を取り除くためでもない。死のその一瞬のためなのだ。

リンポチェは当日現場にいた弟子に「あの日目にした彼女の死の様子は、怖くなかったか?」とお訊ねになった。一人目の弟子は「非常の怖かったです。特に彼女が息をひきとる瞬間は、私は彼女と多く接触してきたので、非常に深く恐怖を感じました。息をひきとる時、目は完全に閉じられておらず、これは私にとっては衝撃的でした。私が接触してきたのは全て昏睡状態になってから亡くなる人でした。私はその日、もしリンポチェがおられなければ、寶吉祥道場にいなければ、と考えました。その時は本当に怖かったです」と報告申し上げた。二人目の弟子は「私が着いた時、彼女は往生したばかりでした。目はまっすぐ上を見ており、口は非常に大きく開けていました。顔色は黄色でした。人が亡くなる時、目を見開いているのを初めて見て、とても怖く感じました。もしリンポチェに従い学仏していなければ、このような事を目にすれば、必ず非常に怖いと思ったでしょう」と報告申し上げた。

三人目の弟子は「私が着いてから約十数分後に、彼女は往生しました。非常に多くの人がその場で彼女に持咒していました。彼女の目は開いており、口は開いていました。私は非常に残念に思いました。彼女の上の娘は忙しそうにあれこれ処理しており、下の娘はひたすら淚をぬぐっていました。私はほんとうに恐ろしかったです。目も口も開いていたのです。兄弟子が目を閉じるように呼びかけましたが、彼女やはり閉じなかったことを覚えています。リンポチェがポワ法を終えられると、上の娘は額の方から触っていきました。後頭部、梵穴の所に触れた時、暖かく感じたのです。下の娘が触った時、下の娘は笑いました。リンポチェが母に修法くださったことを知ったからです。私はそのシーンを目にし、強い衝撃を覚えました。最初はひたすら泣いていた下の娘が、リンポチェが修法くださったことで、笑ったのです。その時、私は心からリンポチェに感謝申し上げました。この一生でリンポチェがおられることは私達の大福報です」と報告申し上げた。リンポチェは「私は彼女にポワ法は修めていない。施身法だ。私を誹謗しないでほしい。彼女にはポワ法を得る福報はない」と開示なさった。

四人目の弟子は「私が着いたのは2時で、彼女はすでに往生していました。彼女の目と口は開いていたので、奇妙に感じました。これまで見てきた人はこのようではなかったからです。その後4時過ぎに、リンポチェが修法を終えられた後、私は初めて遺体に触れました。以前は兄弟子がお話になるのを聞いていただけでしたが、今回自らリンポチェが修法なさった後の殊勝な瑞相を目にし、非常に不可思議に感じました。彼女の額は冷たいのに、後頭部を触ると非常に暖かいのです。自分の後頭部より暖かいほどでした。リンポチェに心から感謝申し上げます」と報告申し上げた。

亡者の娘は「母が息をひきとる前に、私は母に、目を閉じて休んではどうか?と言いました。けれども母の目は開けようとしても開かず、閉じようとしても閉じられませんでした。息を引き取った時、目は開いていました。口も完全には閉じていませんでした。その日、私は病院で先に組長に報告しました。組長はその時私に『リンポチェに何をお願いしたいですか?』と訊ねました。私は『弟子はリンポチェに母を済度させていただきたいです』と答えました。組長はさらに私に『リンポチェに修法して母を済度させてもらいたいのですか?』と言ったので、電話で『弟子はリンポチェに修法し母を済度させてくださるようお願い申しあげます』と言いました。その後組長は、母が息を引き取った時すぐに電話で組長に伝えるよう言いました。母が息をひきとるとすぐ、私は直ちに組長に連絡しました。後に上師の修法を得ることができました。修法が終わった後、私はほんとうに心からの感謝を感じました。母親の目は閉じられ、口も微笑んでいるかのような角度になったのですから。修法の前に組長から、私達は母の耳元で母に『私と妹は必ずしっかりリンポチェに従い学仏するから、安心してね』と言うように言われていました。そのため、私は組長の言う通りにしました。私達が母の遺体をアイスボックスに入れる時、私達は母の目と口がすでに完全に閉じられているのを最後に目にしました。非常に穏やかな表情でした。リンポチェにほんとうに感謝申し上げます」と申し上げた。

リンポチェは開示くださった。経典では言う。信は一切功徳の母だと。この信は盲信ではない。仏が仰せの一切には、一つも虚偽のものはない。仏の仰せは全て、衆生に利益するためだと信じなければならない。だが、大切なことは、衆生が自分が為せると信じることなのだ。為せるとは、仏と上師が開示する仏法を信じることだ。今は円満に為せないとしても、少なくとも始めなければならない。仏は仰せだ。衆生は皆平等だと。一切の衆生はみな成仏の条件を備えていると言うことだ。仏のお教えに、仰せに基づき考え行いさえすれば、必ず未来の一世で成仏できる。これがいわゆる信だ。

信じるのなら、行わなければならない。ちょっとやろう、とか、べつにいいだろう、これが片付いたらまた考えようと考えたりではいけない。これでは永遠にできない。この弟子は生前から往生まで、仏法と上師が面倒を見た。皈依していなかったなら、この機会さえなかっただろう。当然「そんなに重要か?様子が変わっただけじゃないか。影響があるのか?」と言う人もいるだろう。このようなことをいう人は、仏法を信じていないと言うことだ。これ以上説明しても無駄だ。

人が死んだ。どうすればその人の様子を変えられるのか?温水で顔を温めたり、化粧をしたりなどのことを行えばできるだろう。だがその日は顔には触れていないのだ。私は覚えている。誰もがその名を知っている外国の修道女、彼女は非常に多くの善事を行なった。小さな人だった。私は彼女の死に顔の写真を見たことがあるが、口は開いていた。二枚目の写真では、布で顎から頭まで巻き、無理に口を閉じようとしていた。つまり全世界の宗教で、仏法だけが亡者を救えるのだ。別の宗教はできないのか?できる。だが、彼らが言う条件に合わなければならない。例えば十誡を守るなど。十誡を守れるなら、天使が迎えにきてくれる。十誡を守れないなら、天使は絕対に来ない。こんなにもたくさんの善事を行なったのに、こんな様子で亡くなってしまった。そなた達はどれだけの善事を行なったのか?みな気をつけよ。時間は一日一日と過ぎていく。人の一生はあっと言う間に終わってしまう。今日仏法を開示するのは、リンポチェが名利を必要とするからではなく、諸仏菩薩と上師が私にこの言いつけと責任をお与えになるので、私はひたすら行わなければならないからだ。

以前私は閉関の際に法王に請示申しあげたことがある。祖師ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の再来であられるからだ。龍樹菩薩は『中観論』を書かれた。学仏したことがある人ならみな知っておろう。『中観論』は非常に重要だ。「『中観論』を学ぶ必要はありますか?」と法王に請示申し上げた。法王は「不要だ。大手印の中にある」とお答えになった。密法の特色は理論から手をつけるのではない、と言うことだ。方法を用いて私達の心を直接転じるのだ。論とは理論に過ぎない。できるかできないか?分からない。禅宗で言う「直指人心」だ。仏法にはそんなにたくさんの決まり事などない、と言うことだ。そなたの心がどうか、直接見るのだ。密宗とはこのように単純な持咒や鼓を鳴らす儀軌ではない。これは全てそなた達に見せるものだ。最も重要なのは、自分の心をはっきりと見極めることだ。地蔵菩薩は「起心動念は全て業であり全て罪だ」と仰せになった。密宗は、自分の心をいかにして観測するか、私達に非常に多くの法門を教える。心を調整でき転じられれば、自然に仏法に対する体悟も速くなる。やはり執迷不悟なら、自分の修行の方向は正しいと考えるなら、例えばこの出家衆のように、それなら100世修めてもやはりこのままだろう。あの弟子は1000世修めてもやはりこのままだ。そなた達は全く改めていない。

『寶積経』では、『中観論』について非常に多く講じている。『中観論』はどこに用いるのか?実はこれは科学と関係があるのだ。現在非常に多くの国が研究に取り組んでいる。海外でクォークを研究している。最小分子はどのようにして生まれたのか?こんなに長く研究し、こんなに多くの研究費を投じても、やはり見つけられない。非常に短い現象が一度出現しただけだ。だが仏法では中観にしろ空性にしろ、『大般若経』にしろ、すべて宇宙の一切の現象の発生と消滅の道理を説いているのだ。この道理を理解すれば、数千km離れていても自然に亡者を救うことができる。この道理を理解できないなら、空性を体悟することはできない。毎日念じ毎日拝んでも、やはり衆生に利益できない。

『寶積経』で説くのは、そなたが修行したいかどうかに関わらず、すべて修行人だ。在家衆は菩薩道を学ぶことだけができる。菩薩道を学ぶとは、そなたが菩薩だと言うことではない。菩薩道を学ぶとは一つの方便法門だ。私達在家衆の修行に対して力になる。そなた達が言うことを聞かないなら、あと100万回聞いてもやはりこのままだ。出家衆は菩薩道を修める。『寶積経』でもどのように修めるかを説いている。どこに過ちがあるのか、出家衆を叱責している。私は現在『寶積経』を開示しているのだから、私の出家弟子に過ちがあるなら、私は必ず叱責する。出家衆を叱責するよう経典も言うからだ。在家衆は出家衆にあれこれ言えないなどと言うことはない。一般の在家衆は、出家衆にあれこれ言えない。だが一人の金剛上師としては言える。例えば、維摩詰居士はかつて仏法を文殊菩薩に開示なさった。このように見るなら、仏の考えから言えば、出家在家は修行の方便法だ。方向は異なるが、結果は同じなのだ。修行の過程は異なるが、結果はやはり同じだ。

今日は『寶積経』を開示し、在家衆に一つの方向を示す。適当に行い、自分は修行しているなどと考えてはならない。

前回講じた。いわゆる出家の心は非常に重要だ。『寶積経』では「身出家而心不出家」と言う。一つは「心出家而身沒出家」で、最後は「身心皆不出家」だ。仏の定義によれば出家とは何か?頭を剃り、出家者の衣服を着れば出家だと言うのではない。「輪迴の家を出離する」輪迴の家を離れるのだ。仏が講じた方向に基づき修めるなら、そなたはこの火宅を離れ(厭離)なければならない。私達が現在居住する六道の家を、離れ(厭離)なければならないのだ。いわゆる「厭離」とは、この六道で、さらには天道に生まれたとしても、やはり輪迴しなければならないと知り、そのため出家を決心し、輪迴の家を離れることだ。輪迴の家を離れれば、心も思想も、一般のいわゆる在家衆とは自然に違ってくる。違ってくる、とは行為が違うようになる、と言うことではなく、言葉が違うようになる、と言うことではなく、思想が一般の在家衆とは異なると言うことだ。どこが違うのか?あらゆる思想をすべて真剣に思惟し、悪業を為す一切の機会を自分自身に与えてはならない。自分が小さな善業を行なったと言って得意になり、すぐに善の果報が得られることを望んだりしてはならない。これらもそなたを輪迴させる。

自分を輪迴させたくないなら、出家と言うこの心持ち、この念頭は非常に強烈でなければならない。先ほど私が言ったこの往生弟子は出家の念頭がなかった。彼女が15年間に念じた咒、菜食、小さな供養はすべて、自分が幸せな日々を送れるよう、家族が自分によくしてくれるよう願ってのものだった。これこそ出家ではない。心が出家していないなら、往生時にすべての苦痛は自然に出現する。まだましなことに、私が絶えず加持してやったため、癌の苦痛に苛まれることなく死ぬことができた。謝と言う姓の医者である弟子は当日その場にいた。癌患者は死ぬ時、非常に苦しいのではないか?教えてもらおう。

謝と言う姓の医者である弟子は「リンポチェの救いがなかったなら、癌の苦しさは、どのような言葉を用いて形容していいか分からないほどです。この弟子は癌を発症してから最後に衰弱し立てなくなっても、食べることができました。少し痛かっただけです」と報告申し上げた。リンポチェは「この人はそんなに食べたがったのか?」と仰せになった。医者である弟子は「彼女は病の過程で、一週間前ほどにいくらか痛みを感じるようになりましたが、非常に弱い痛み止めを飲むだけで大丈夫でした。亡くなる前日は痛がったので、少し強い薬に変えましたが、モルヒネや睡眠薬を使うほどではなかったです。息をひきとる過程は、先ほどみなが言われたように、安寧ではなく、あれこれ気にかけていました。私は彼女の娘に、リンポチェが助けてくださる、リンポチェはすでに娘の面倒を見てくださっているので、安心するよう、何度も言うように伝えました。私は前日、その時、彼女はすでにほとんど昏睡状態でしたが、なお昏睡状態には陥っていない時だったので、リンポチェを信じなさい、しっかり懺悔しなさいと彼女に言いました」と続けて報告申し上げた。リンポチェは「彼女は信じないのだ。そのため、目を見開き口を開けていた。信心がなかったのだ」と仰せになった。医者である弟子は「心拍が止まった時、彼女の目は閉じたり開いたりしている感じだったので、私は、いけない、これでは必ず非常に苦しむ、と言いました。私は娘にも言い、さらに彼女にもこの事を言いました」と続けて報告申し上げた。

リンポチェは開示なされた。︰やはり役には立たない。彼女は死んだ。そなた達が言うところの鬼になったのだ。仏法でいう中陰身だ。鬼通を有するようになってようやくリンポチェはすごいと分かっただろう。そなた達もみんな死んでしまえば、私がすごいと分かるのだ。今は生きているので、私がすごいとは分からない。つまりこうなんだ、そんなこともあるだろうよ、と思っている。なぜ死んでようやく私がすごいと分かるのか?それは鬼になり、中陰になった後、多くの意識が停止して不動となるからだ。不動になればより敏感になる。誰が慈悲があり、誰が功徳があり、誰がないかを体得する。なぜ笑う?非常に簡単だ。彼女はリンポチェが自分を良いところに送ってくれたと感じるのだ。いわゆる良いところとは、三悪道ではないところだ。だが、彼女は出離心が不十分で、出家の心がなかったため、阿弥陀仏のお側へ行くことはできない。

阿弥陀仏を念じれば行けるなどと思ってはならない。必ず非常に重い出家の心がなければならないのだ。出家とは、彼らのようにすることではない。そなた達には、この一生でこのようにする縁はない。だが、心では、輪迴の家の出離を硬く思わなければならないのだ。『寶積経』の前半でたくさん講じるのはすべて、この輪迴の家をいかにして出離するかを教えるのだ。妻、夫についてどのように考えるべきかを教えるのだ。子供についてどのように考えるべきか、その心持ちを教えるのだ。金銭、権勢に対する見方を教えるのだ。すべてを教える。かつて言ったことがあるし、経典でも講じている。考えてみよ。考えたか?彼女は考えなかった。彼女は考えなかったので、このようになってしまったのだ。リンポチェが開示した経典について、幾らかでも考えたなら、今日私もたくさんの力を節約することができる。そなた達はみな私を訶みに来ている。私は業障が重い。そなた達は業障が軽い。そなた達は福報が大きい。こんなに良い上師が済度してくれるのだ。

だが、私と命を賭けてはならない。私は絕対にそなた達より早く死ぬ。私には二つの系統がある。ある日もうやめたと思えば去る、この世間でやるべきことはすべてやったと思えば去る。私と賭けてはならない。リンポチェは死なない、健康だ、などと言うことはない。医師である二人の弟子は私が健康だと知っているが、私は去りたいと思えば去ることができる。これは脅迫ではない。菩薩道を修める人にはある特色がある。この一生のすべての事を為せば去ると自分で分かっているのだ。どのような事をやり遂げるのか?返すべきは返し、与えるべきは与え、縁が尽きれば去る。この世間に恋々としない。リンポチェは現在たくさんの事を行なっており、この世間に未練があるなどと思ってはならない。私は執着などない。なぜか?菩薩道まで修めたのだから、世間の種々のことはすべて苦だ。やるべきを行なったなら、恋々とする必要はない。

ここでは非常にはっきり説いている。「應生如是欲出家心。無有在家。」この言葉は自分が学仏したい、皈依したい、と言う時に、非常に重要な一言だ。顕教を修めようと小乗を修めようと、金剛乗を修めようと菩薩乗を修めようと、出家の心がないなら、在家の一切の種々の福報、種々の罣礙にやはり未練を残す。皈依したとしても、私のこの往生した弟子のようだ。この弟子のように、二人の娘がこんなに何度も求めに来なかったなら、済度を受けることさえできなかっただろう。彼女は因縁福報があったと言えるだろう。その日ちょうど私は施身法を修めたので、ついでに彼女に修めただけだ。彼女のために特別に修めたのではない。誤解してはならない。ちょうどその日私は施身法を修めたのだ。リンポチェは一ヶ月に一度しか修めない、と思ってはならない。私はしばしばこの法を修める。時間があれば修めるのだ。ついでに彼女に修めたに過ぎない。ついでであっても役に立つのだ。

つまりこの言葉は一切の学仏人が心の中に留めておかなければならない。忘れてはならない。疎かにしてはならない。もしそなたが世間の事に対して、愛でも良い、婚姻でも良い、事業でも良い、家庭でも良い、財富でも良い、強く執著しているなら、出家の念頭がないと言うことだ。何を執著と言うのか?失うことを苦痛に感じ、得られない事を悲しく思う。これがいわゆる執著だ。もしこの種の観念がないなら、どんな仏法を学んだところで、少しも役には立たない。

この出家弟子はひたすら過ちを犯し、ひたすら破戒する。出家の観念がないからだ。もし出家の観念があるなら、これら名相を書いて私に見せることなどせず、先ずは請示するはずだ。上師を尊重せず、自分は他の出家衆弟子より優れていると私に演じて見せようとしている。自分は調べられ、彼らは調べられないからだ。あの日、どのように命じた?「三分を調べてくれ」と言っただろう?他のものを調べるよう言ったか?まだ良いことに、私はこの弟子と少しは心通しているので、少しは良い解釈をしよう:この弟子は上師が恥をかくのを心配したのだ。だが本当は、このような仏学辞典を見つけて私に見せることができる能力があると、自分の能力を私に見せたかったのだ。

経典:「修集得成無上正道。」

心の中に出家の心があり、在家の生活に恋々としないので、修める一切の仏法は集められ、こうして初めて無上—つまり比較できるものがない—正覚の道—が得られる。「正覚の道」とは何だろうか?正当で正確な覚悟の道だ。まだ成仏ではなく、まだ成菩薩ではない。この種の心構えで学仏するのでないなら、「正覚の道」は得られず、修められない。「正覚」とはどう言う意味か?正式で、確実な一種の覚悟だ。覚悟とはなんだ?私は成仏する、私は成菩薩すると覚悟するのではなく、すべての衆生には「生、老、病、死、愛別離、怨憎会、求めて得られず、五蘊熾苦」の八種の苦があると覚悟するのだ。

釈迦牟尼仏がまだ王子であられた頃、城を出て四つの城門を超え、生老病死の苦を目にし、生老病死の苦から衆生を解脱させるために王位を捨て、家を捨て、家族を捨て、修行に行くことを決心した。私の母が往生する一二年前、私は老いの苦を目にした。そなた達はみな自分は老いないと思っている。老いの苦はなんだ?何かをしたくともできないことだ。多くの事が、自分では処理できない。子供の頃、父母に風呂に入れてもらい、下の世話をしてもらった。老いれば大小便で誰も構ってくれない。金を払って人を雇うことはできるが、人は気持ち悪いと思う。なぜなら老人だからだ。子供はすべていい香りだが、老人は臭い。父母が子供の下の世話をする時、「とても臭い」以外には何も言葉はない。マスクさえしない。介護者が老人の世話をする時にはみなマスクをつけているのを見るだろう。臭いからだ!なぜ老いれば臭いのか?数十年も食べて来たからだ。ほんとうに臭い。だが、菩薩道を修めれば、臭いと言っても一種の現象に過ぎない。

随分以前のことだ。ある信衆の父親が往生前に病室内で体内のすべてのものを排出した。その結果、病棟のフロア全体に臭気が蔓延してしまった。私に皈依したことがある弟子なら、癌に罹ったとしても、死を前にしてわざわざ腹の中を空っぽにしなくとも、こんなことはない。非常に多くの人が知っている。法師の中には、亡くなる1ヶ月前に何も食べず、水だけを飲む人がいる。密法では、人が事切れる時に失禁しないようにすることができる。失禁すれば必ず地獄に堕ちる。なぜなら人の気が下へ行くからだ。

出家の心を起こしていないなら、修めたものを集め、無上正覚の道に変えることは絶対にできず、未来世の人天福報に変わるか、もしかしたらペットの福報に変わるかもしれない。それは、出家の観念を用いて仏法を学習せず、健康になるように息子のために念じよう、夫の浮気相手に迴向し、もう二度と来ないようにするよう夫のために念じようと考えているからだ。これは出家の心ではない。欲望だ。欲望を以って、どんな仏法、経典、咒語を念じても、慈悲の力量は発生しない。慈悲の力量がないなら、冤親債主は離れて行かず、許してもくれない。なぜなら、自分が良くなるよう希望しながら、この一生で自分がどれだけの衆生を食べたか忘れているからだ。因果を信じないなら、毎日食べている栄養はどこへ行くのか?私達の細胞内へ行く。そうではないか?謝と言う姓の医師である弟子が「リンポチェの仰せの通りです。栄養のエネルギーはすべて外から口を通して入って来たものです。自分の身体の細胞組織中に入ります」と報告申し上げた。

リンポチェは開示を継続された:つまり、魚をたくさん食べれば、細胞はゆっくりと魚に変わっていく。魚の細胞は人の細胞とは異なる。当然病になる。なぜなら内部で喧嘩しているからだ。人類の細胞と魚の細胞が戦っている。当然病になる。牛肉をたくさん食べれば、たくさんの牛の分子がそなたの体内にある。誰もこれらを信じない。菜食では栄養が足りないと思っている人が多い。私の道場では非常に多くの子供が母胎内から菜食しているが、余所の子供より背は高いし、よく聞き分ける。

昨日私は大直のコーヒーショップで、食事に来ている子供を見た。道場の子供も食事していた。余所の子供は大騒ぎしていた。そなた達はこれが子供だ、と思うかもしれないが、そうではない。道場の子供は聞き分けが良く、騒がない。やはり動き回ることは動き回るが、ずっと静かだ。それは学仏し、リンポチェに皈依して信じている妊婦は心が安定しているので、それが胎教として子供の心を安定させ、生まれて来た子供も落ち着きがあるのだ。近頃自閉症、過動、うつ病の子供が多い。それは妊娠時に、彼らの業力と食べるものを含む妊婦と家庭の状況が胎児に影響を与えるからだ。

中国人は胎教というが、これは確かにある。昨日はそれが非常に明らかだった。こちらは余所の子供、こちらは道場の子供。全く異なる。道場の子供がボーッとしているのではない。彼らもやはり活動的で、食事している。ただ非常に静かなだけだ。リンポチェがいるからでもない。なぜならリンポチェは無所不在(どこにでもいるから)だ。日本にいても、台湾の亡者を済度できる。これこそ無所不在(どこにでもいるから)だ。

経典:「在家多塵汚。出家妙好。」

拝仏、念経を含む在家の方法で日々を過ごせば、非常に多くの塵埃に塗れ、清浄な法性を汚し、清浄な心を汚してしまう。心が汚染されたなら、慈悲の心は絕対に出現しない。慈悲の心が出現しないなら、菩提心は絶対にない。菩提心がないなら、どうして自己を済度させ他人を済度させるのだ?心が汚染されたなら、信心までもあるはずがない。何を求めても得られない。自然に信心はなくなる。それはすべて在家の心で仏法に求めているからだ。経典では「なぜ学仏するのか?」を講じる。学仏は輪迴の家を出離するためだ。輪迴の家を出離するために、数週間前に『寶積経』を開解した時、どのように考えるべきかを教えた。:妻、夫は獄卒だ、債権者だ。経典でもいう。眷属はそなたの金を手に入れれば、そなたに背く。そなたは布施だと考えなければならない。相手と離婚して、別れて、金を取り戻せとは教えていない。

私は子供の時からずっと非常に気前がいい。そのためこのようなことは発生しない。与えるなら与える。そなた達、近頃の男たちのようにケチなことはない。相手に与えたと考えている。だが、相手もくれたではないか!相手に与えたので、相手は自分に良くしてくれなければならない、と考えているなら、いっそのこと買ったほうが良い。何が結婚だ愛情だ?自分も他人も騙しているのではないか?女性もこうだ。相手に何かを与えれば、何かを得たいと考えている。それならいっそのこと商売にしてしまえばいい!つまりそなた達は仏法を学べていないのだ。いわゆる「冤親債主想」とは、もう一度言う。考えるのだ。口に出すよう教えてはいない。眷属に聞かせよ、とは仏はお教えでない。なぜか?それは彼らが仏を誹謗するのを避けるためだ。

だが、「想(考える)」とは、相手を嫌え、と教えるのではない。あの人は冤親債主だから憎め、法を一生懸命に修め冤親債主を離れさせよ、とは仏は仰せでない。それなら誤りだ。普段1千遍念じているが、リンポチェの『寶積経』開解を聞いた後、冤親債主が離れることを願って1万遍に変えた。これは誤りだ。借りを完済しないなら、念じれば念じるほど、冤親債主は反対に離れない。なぜならそなたが迴向するので、冤親債主の福報はどんどん良くなり、離れないのだ。迴向してはならない、というのではない。自分が念じればなくなると考える、この種の心持ちではいけないということだ。冤親債主がいないなら、私達は修行する必要があるだろうか?修行する必要はない!阿弥陀仏のお側でしっかり修行して成仏するのだ。

すべての冤親債主は借金取りに来ているのだ。返済に来た子供を得る資格はそなた達にはない。幼い頃から大きくなるまで、成長しないと心配し、成長すれば仕事がないと心配し、仕事が見つかれば昇進しないと心配し、異性と交際を始めれば騙されるのではないかと心配する。子供は父母の言うことなど聞かない。相手を愛しているなら、相手の言うことを聞く。父母に育ててもらったことを思わず、父母の言うことなど聞かず、育ててくれたわけでもない人の言うことを聞くのか?ほんとうにそなた達には敬服する。これこそ正統なる冤親債主だ。

経典では非常に多くの事を教えてくれる。人世間の事は諦め、放棄し、構うなと言うのではなく、そなたの心持ちだ。心持ち一切が正しいなら、非常に多くの事は転じる。

なぜ「出家妙好」なのだ?それは心に出家の念頭を持っているなら、破戒しにくく、必ず十善法を修められ、必ず悪業を為さず、少なくとも在世の時に福報の端に触れることはできるからだ。最近亡くなった弟子のようにだ。彼女が皈依して菜食せず、法会に参加していなかったなら、済度される福報さえなかっただろう。リンポチェは出家の心持ちで日々を過ごしている。衆生に苦があるなら、私は必ず助ける。彼女はひどく誤っていたが、縁起があるなら、眷属が求めて来たのも縁だ。私が口頭で彼女をひどく叱責していたとしても、心の中ではやはり彼女を救う。これこそ「出家妙好」の心持ちだ。

弟子が私に良くない、供養しない、私を構わなくともどうと言うことはない。この縁起があるなら、リンポチェは行う、助ける。これこそ「出家妙好」の定義だ。学仏人として、輪迴の家を出離するしっかりした念頭がないなら、つまり在家だ。

経典:「在家具縛。出家無礙。」

ここの無礙とは「生死無礙」だ。「具縛」とは、輪迴する、自分の業力に縛られているので、輪迴する機会がある、と言うことだ。あの亡くなった弟子は、リンポチェの救いが得られなかったなら、娘が求めに来なかったなら、彼女の行く末はどうなっていただろうか?必ず輪迴する。いわゆる「死不瞑目」とは死ぬのが悔しく、死にたくなく、死ぬのが嫌だ、と言うことだ。このような人は必ず輪迴する。輪迴すれば必ず戻って来て人になるのか?そうとは限らない。これこそ自分が作った業力が自分を縛っているのだ。仏法だけがこの束縛を解くことできる。修行し具徳の上師が救ってくれる機会がないなら、在家、出家はいかに、としっかり理解しなければならない。「出家無礙」とは、命に障害がない、または悪い事が起きないと言うことではない。無礙とは一切の善悪の業力、善悪の果報がそなたの修行を阻害せず、そなたの成仏の路を阻害しないと言うことだ。これこそ出家だ。反対に在家はそなたを阻害する。

少しの金のために占いをしてやる。すでに皈依した弟子は、これを生業にすることは許さない。なぜか?なぜなら八正道を反対にすれば八不正道だからだ。いわゆる邪命とは占卜、算命を含む。やってはいけない。つまりこれこそ在家だ。出家ではない。

経典:「在家多垢。出家捨離。」

在家は自分の善業と悪業の垢を非常に容易に絶えず累積する。どんな垢だ?清浄本性の垢も含む。非常に容易にひたすら累積する。出家とは一切の愛憎住平等捨を捨離しなければならない。つまり、出家の念頭を有する人は、自分に対して良くない、または良い事について常に平等で、自分の執著心を捨ててしまい、それから離れるのだ。つまり追求せずしがみつかない。来たがすぐいらない、というのではない。雇い主が昇給してくれたのに、自分はそんなにできていないので昇給しなくていいですと言う。これは大馬鹿ものだ。昇給してくれるというのだから、当然受け入れるべきだ!いわゆる捨離とは、得られても嬉しくなく、失っても悲しくない、ということだ。騙すのでも拐かすのでも汚職でも、一切の方法を用い得たが、ある日やはり使ってしまい、残らない。そのため、財富とは行ったり来たりし、残らないものだと理解できるだろう。眷属も行ったり来たりし残らないのだ。残らないと分かったなら、目を閉じた途端、両足を踏ん張った途端、すぐにそなたのものではなくなる。

自分が死ぬ時にまた考えれば良い、という人もいる。だが種々の執著は、死を前にして、非常に多くの不要な苦痛を生み、非常に多くの誤った決定を行わせ、死の過程において非常に多くの苦しみを味あわせるからだ。

経典:「在家悪攝。出家善攝。」

在家が攝受する一切の事情の、最後の果報はすべて悪だ。例えば、海鮮を好んで食べれば、自然に健康を害する。攝受するのは悪い事だ。だが出家の心持ちで事を行えば、攝受する事はすべて善だ。なぜなら行う事がすべて献身、犠牲、衆生を傷害しない事だからだ。そのため攝受するのはすべて善なのだ。この観念はどう説明するか?これはすべての金銭を寄付しろと言うのではない。働くな、結婚するな、恋愛するな、と言うのではない。この観念はここにはない。恋愛するならすれば良い!だが恋愛は占有ではないとしっかり弁えなければならない。愛情の結果は結婚ではなく、生離死別だ。結婚は過程に過ぎない。愛の結果は結婚だと思っている人が多いが、それは誤りだ!二人の人間が一緒になる。真の結果は必ず生離死別だ。

出家の心持ちなら、愛情があり結婚しても、これは業力の出現だと理解し、この業力の出現が良かろうと悪かろうと、すべては自分が過去に為したものであると理解している。良くても喜ばない。悪くても、ひたすら押しやることをしない。そのため、攝受されたものは全て善なのだ。経典は私達在家に教える。パートナーが私達の金を使ったなら、それは布施だと思えと。子供がそなたの金を使ったなら、そなたは教育しなければならない、と。こうすればそなたが攝受するものは善となる。妻がそなたの金を使った。そなたは妻は自分のものだと思っている。自分が妻をどうしたいと思えばどうできる、と考えている。これこそ悪の攝受だ。夫として、家族を養うのは自分の本来の責任だとはっきり理解しているなら、これこそ善の攝受だ。父母として、子供を教育しなければならないと理解しているなら、これこそ善の攝受だ。父母として子供を教育するが、将来の恩返しを希望するなら、これこそ悪の攝受だ。子供の恩返しを考慮してはならない。自分に福報と因縁があるかどうかと問うのだ。つまり、この二文で講じる善と悪の定義は、悪は私達を輪迴させ、善は私達を輪迴から離れさせると言うことだ。

いわゆる善と悪の法とは、私が誰かを殺した、誰かを騙した、だから悪だと言うのではなく、非常に多くの善事を行なったので善だと言うのでもない。ここで言う善と悪の定義は、行なった事が、生死解脱のためか、やはり輪迴継続のためかだ。輪迴継続のためなら悪で、生死解脱のためなら善だ。

経典:「在家沒於愛欲淤泥。出家遠離愛欲淤泥。」

在家衆は非常に容易に愛と欲望の淤泥に嵌る。そのため、仏法は愛について講じない。愛とは淤泥だ。それはそなたを陥らせ、抜けられなくするからだ。ところで「出家遠離愛欲淤泥」だが、前の方で言った。在家の心持ちなら、愛欲淤泥をどうして離れることができようか?夫が愛してくれる、それは必ずしも良い事ではない。そなたが夫を愛するのも、必ずしも良い事とは限らない。なぜか?近頃はみな自分が自由であることを望んでいる。ある男性に非常に愛されたとしよう。特に今はスマートフォンがこんなに流行している。すぐに現場を見たくなる。ビデオチャットでどこにいるか、誰といっしょにいるか、相手が見たいと望む角度に変えて見せようとする。これこそあまりに愛し過ぎている。

いわゆる愛欲淤泥を離れるとは、因縁が成熟すれば、結婚するものはするが、結婚すれば恋愛中ほど激しく愛さない、貪欲の心持ちで結婚せず、自分の運命、因縁を知りこの事を行い、この過程が過ぎれば無くなってしまう。簡単に言えば、死ぬ時、これら愛と欲望はすべて、そなたを輪迴の場所へと引きずり込んでしまうのだ。この往生した弟子のために私が物事を解決してやらず、私が済度させてやった時、下の娘が心配だと言わなければ、私が知らなかったなら、この愛欲淤泥は彼女を沈み込ませていただろう。私は知ったのだから、安心して行くように言った。そしてようやく彼女は行った。
愛欲淤泥はどこから来るのか?それは、相手は自分の娘、夫、妻、恋人だと思うからだ。もう一度説明しよう。「情」と言うこの字の半分は心で半分は青だ(黒と解釈)。それは心が黒くなければ、愛情を語る資格はないと言うことだ。心が十分に黒くないなら愛を語ってはならない。なぜならそなたは必ず相手を縛り付け、監禁し、ぎちぎちに管理する。心が非常に黒くなければ、愛を語る資格はない。愛とは何だろうか?「愛」と言う字は、上に三本の刀がある。蓋もある。逃げようとしても逃げられないのだ。さらに詳しく見よう。蓋は心に蓋をしている。下には三本の足がある。古人の造字は非常に興味深い。恋愛したいなら、三本足を準備し、心を蓋で覆い、はっきり見えなくし、心を惑わせてしまうのだ。情とは心が十分に黒くなければならない。心が十分に黒くないならなら、恋愛はできない。私はこの一生で心が十分に黒くなかった。そのためひたすら献身し、それで業を返し終わったのだ。そなた達はまだ納得しない。なお相手は自分のだと思っている。それならおしまいだ。

仏が講じられる仏法は、私達に必ず出家相を現せと言うものではなく、私達に現在あるものを捨てよと迫るものでもない。重要なのは心持ちだ。自分の心を調整しなければならないのだ。自分の心を調整できず、毎日何をしても人に叱責される。それはそなたがやはり自分を主に考えているからだ。一切の事で自分の利益はどこだ、正しく物事を行わなければならない、他人に叱責されてはならない、人によくやっていると言われたい。これではダメだ。

経典:「在家凡俱。出家智俱。」

在家が得られる一切すべては凡夫を継続輪迴させる道具だ。「凡」では輪迴を離れられない;出家だけが輪迴を離れる智慧が得られる。在家では得られないのだ。その往生した弟子は私に叱責された。だが彼女は反面教材となり、また菩薩道を修めていた。ただこの菩薩道はより苦しいだけだ。だが言おう。このようなのは誤りだ。こうするべきではない。そなた達がこれ以上改めないなら、彼女のようになる。自分には二人の親孝行の娘がいるか?自分に問うてみよ。リンポチェはずっと死なないか?把握していないなら、すぐに自分の心持ちを調整しなければならない。そうでなければ、凡から智に転じることはできない。私は点灯供仏するたびに、衆生を凡から智に転じてくださいと、諸仏菩薩にお祈り申し上げる。それは衆生が輪迴苦海を離れることを願っているからだ。点灯供養仏する度に、仏光が衆生の黒暗な心を普照し、清浄な智慧の光が顕露することを願う。そうでなければ、仏法を聴聞し、仏法を思惟し、仏法修行を始めることはできないからだ。そうでなければ、非常に難しいのだ。

ここまでにしよう。みな帰宅後は、自分は何のために学仏しているのか思惟するように。自分の心をやはり調整できず、やはり信衆に過ぎないなら、皈依しても福報があっても、この因縁があるかどうかは、やはりわからない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を導いて、アキ護法及び迴向儀軌を修められた。法会は円満し、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示で無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。


« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »


2019 年 04 月 28 日 更新